サンダー・ポイントの雷鳴

「サンダー・ポイントの雷鳴」(ジャック・ヒギンズ/著 黒原敏行/訳 早川書房 1998)
原題は“Thunder Point”
原書の刊行は、1993年。

ショーン・ディロンものの1作目といったらいいだろうか。
「嵐の眼」で敵役として登場した元IRAのテロリスト、ショーン・ディロンが、主人公となり活躍する。
以後、ディロンはシリーズの主役として活躍し続ける。

本書のストーリーは、沈没したUボートに残されたある文書が、英国に騒動を引き起こすというもの。
主な舞台はカリブ海だ。
表紙の生頼範義さんによる、沈没したUボートをえがいた挿画が、いつもながら素晴らしい。
ではまず、プロローグから。

1945年4月30日。
陥落目前のベルリン。
ドイツ第三帝国国家指導官マルティン・ボルマンは、ヒトラーからあるスーツケースを渡される。
中身は、銀行の秘密口座を記した書類や鍵。
それから、ナチス・ドイツの支持者たちを記した〈紳士録〉と呼ばれるファイル。
さらに、ウィンザー公が、ドイツが英本土侵攻に成功したときには、ふたたび国王の地位につくことに同意するとしたためたという、〈ウィンザー密約書〉。

ボルマンは、そのスーツケースをもち、ベルリンを脱出。
ノルウェーからUボートに乗り、南米をめざす。

で、本編。
1992年。
オーストリアのスロヴェニア国境近く。
飛行機でクロアチアの紛争地域に医療物資を届ける仕事を引き受けたディロンは、いままさに出発するところ。
報酬はなし。
気が向いたのだ。

が、飛行中、ミグ21に捕捉され、セルビア軍の捕虜となる。
じつは、医療物資の下にはスティンガーミサイルが隠されていて、そのことを密告されたのだった。

一方、ボルマンの乗っていた潜水艦は、カリブ海で発見される。
発見したのは、ヘンリー・ベイカーという人物。
朝鮮戦争中、2年間海軍に勤務。
父親の経営する出版社を継いだものの、50歳で妻が亡くなると事業に興味を失う。
会社を手放し、スキューバ・ダイビングのとりことなり、カリブ海のセント・ジョン島に移住。
子どもはいないが、麻薬中毒から救った、娘がわりのジェニー・グラントがいる。

潜水艦をみつけたのは、サンダー・ポイントと呼ばれる暗礁。
このあたりは危険なため、ふだんは近づきもしない。
が、このときはハリケーンが去った朝で、海はすっかり凪いでおり、ベイカーは潜ってみる気になったのだった。
沈没したUボートの、司令塔の下にできた大きな裂け目からなかに入ったベイカーは、ブリーフケースをみつけ、それを船にもち帰る。

ブリーフケースは、ボルマンのものではなく艦長のもの。
ドイツ語で書かれた日記が入っている。

この日記をどうしたものか。
ベイカーは、軍隊時代の友人ガース・トラヴァースに相談する。
1951年、アメリカ海軍大尉だったベイカーは、連絡将校としてイギリス海軍の駆逐艦パーセフォニーに乗艦した。
揚陸艇が機雷で爆破されたあと、たがいにしがみついて5時間ほど暗い海をただようはめになった2人は、確固たる友情を築いたのだった。
トラヴァースは少将となって引退し、退役後は第2次大戦当時の海軍にかんする本を何冊か書いている。

ベイカーはトラヴァースに会いにロンドンへ。
ドイツ語が堪能なトラヴァースは、すぐ日記を翻訳。

日記に書かれていたのは、出発するいきさつと、航海の経緯。
ベネズエラに向かっていたUボートは、ボルマンが島の友人たちに会いにいくという理由から、サムスン島沖で浮上。
このとき、重要な書類は艦内に残していった。
その後、ハリケーンがきて潜水艦は沈没した。

つまり、例の〈紳士録〉や〈ウィンザー密約書〉は、まだUボートに残っている可能性が高い。
トラヴァースは、友人のチャールズ・ファーガスン准将にその内容をつたえる。
ファーガスン准将は、首相に対してのみ責任を負う国防情報部〈グループ・フォア〉の責任者だ。

ファーガスン准将は首相に連絡。
トラヴァースとファーガスン准将と首相、加えてファーガスンを毛嫌いしている防諜局副長官サイモン・カーターと、内務担当閣外相という肩書で、揉めごとが起こると調停に乗り出すという役どころのフランシス・ペイマーという、5人で会合を開く。

〈紳士録〉と〈ウィンザー密約書〉は、おおやけになれば大変なスキャンダルとなる。
Uボートが沈んでいるのは、アメリカ領内。
アメリカに声をかければ、すべて自分のものだと主張するだろう。
そこで、首相はファーガスン准将に全権を委任。
秘密裏に文書を手に入れることを命じる。

ところで、セルビア軍にとらわれたディロンはどうなったのか。
捕まってから、以上のようなことが100ページほどあり、ようやくディロンに出番がめぐってくる。
ファーガスンは、ダイビングに長じ、予想される荒事にも対処できる人材として、ディロンに白羽の矢を立てる。
そして、セルビアにおもむき、ここで銃殺を待つか、自分のもとではたらくか、ディロンに選択をせまる。
もちろん、ディロンは後者を選び、以後ファーガスンのもとではたらくことに――。

ディロンはスーパーヒーローとして造形されている。
なにしろ、飛行機の操縦もすれば、ダイビングもし、射撃の名手であるとともに、変装の名人、さらには語学の達人でもあり何か国語もあやつるのだ。
ショーン・ディロンものが、ヒギンズ版007と呼ばれるゆえんだろう。
だから、あとはスーパーヒーローであるディロンが、軽口を叩きながら困難を乗り越えていく、その活劇を楽しめばいい。

後半、舞台はカリブ海へ。
〈紳士録〉があらわれては困る勢力とあらそいながら、Uボートをさがしだし、文書の回収をこころみる。
ファーガソン准将も活劇に参加するのが、なにやらおかしい。

巻末の、斎藤純さんによる解説が、手際よく本書の面白さをまとめていて感心する。
そこにこんな記述が。

《本書ではほかのヒギンズ作品(たとえば『死にゆく者への祈り』など)と違って、IRAで爆弾闘争をしていたディロンが、その過去を重苦しく引きずっていない。そこがいい。陽性の活劇に、過剰な自省や苦悩はいらない。》

セルビアからロンドンに帰る飛行機のなかで、ファーガスン准将はディロンに、罠にはめたのは自分だと告白する。
だからといって、ディロンは腹を立てたりしない。
今回の件がお前さんに幸いした、でなければいずれ銃殺されたろう、というファーガソン准将に、ディロンはこうこたえる。

《「ま、今となってはどうでもいいさ」ディロンが言った。「結果的には、四方丸く収まったわけだしな」彼も目を閉じ、うとうとし始めた。》

斎藤純さんにならって、「そこがいい」といいたい。


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双生の荒鷲

「双生の荒鷲」(ジャック・ヒギンズ/〔著〕 黒原敏行/訳 角川書店 1999)
原題は“Flight of Eagles”
原書の刊行は1998年。

本書は、「反撃の海峡」「鷲は飛び立った」と同様、特殊作戦実行部(SOE)のドゥーガル・マンロー准将が登場し、秘密基地コールド・ハーパーが舞台となる作品。
また、訳者あとがきには以下のような指摘がある。

《「鷲は舞い降りた」およびその続編「鷲は飛び立った」と同じく「鷲」の一語がはいっている。》

加えて、

《著者とおぼしき作家が「わたし」という一人称で語り、秘話を掘り起こすプロローグとエピローグがついている。この形をとっているのは、既訳作品を確認した範囲では、前期二作だけだ。》

さらにつけ加えるなら、本書は「反撃の海峡」と同じく双子の物語でもある。
(「反撃の海峡」は姉妹で、こちらは兄弟というちがいはあるけれど)
本書は、たがいに戦闘機乗りとなった双子の物語だ。

では、まずプロローグから。
1997年、ハリウッド映画のプロデューサーから作品の映画化の打診を受けた〈わたし〉は、急いで住まいであるジャージー島からイギリス本土へ渡らなくてはならなくなる。
そこで、エアタクシー会社に連絡し、妻のデニーズとともにセスナ310型機に乗りこむことに。
セスナ310は複座なので、右側の操縦席には、飛行機操縦の経験が豊富なデニーズが座った。
左側は、会社の操縦士デュポン。

飛行機が飛び立つと、運が悪いことに霧がでて、視界が閉ざされてしまう。
加えて、右側のエンジンが停止してしまう。
さらに、操縦士のデュポンが心臓発作を起こして倒れてしまう。

管制官の指示にしたがい、コールド・ハーパー方面に向かっていたセスナは、デニーズの操縦により海面に不時着。
すぐに、倒れたデュポンとともに、妻と脱出。
このとき、デニーズのマスコットである、ぬいぐるみのクマ、タークィンも忘れずに連れだす。

タークィンは、ブライトンの骨董屋でみつけたクマ。
第2次大戦当時の、イギリス空軍の青い飛行つなぎを着て、革の飛行帽をかぶり、飛行長靴をはいている立派なクマだ。
店主の説明によれば、このクマは、前のもち主である戦闘機搭乗員と一緒に、何度も英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)に出撃したという。

海上にでた3人は、すぐコールド・ハーパーからの救助艇に助けだされる。
その乗組員のひとり、80代とおぼしき老人が、クマをみていう。
「おや、タークィンじゃないか。いったいどこで手にいれたんだね」

助けだされた操縦士のデュポンは、すぐ病院へ。
〈わたし〉とデニーズは、タークィンを知るアクランド老人が経営しているパブ兼旅館に泊まることに。
夫妻はそこで、第2次大戦中、秘密基地としてつかわれていたコールド・ハーパーと、タークィンにまつわる驚くべき話を聞く。
この件は国家機密。
だが、もう88歳のアクランド老人は、かまうものかと話してくれた。

この話には、ドイツ側のできごとが欠けている。
〈わたし〉はドイツの親類、コンラートに連絡をとる。
コンラートは、元ゲシュタポ。
ハンブルグ警察主任警部ののち、西ドイツ情報部に所属。
かれなら機密情報にアクセスできるかもしれない。

連絡をとってみると、コンラートは肺ガンにかかっている。
が、「気に入ったよ、その話。老後の楽しみになる」と、コンラートは喜んで調査を引き受けてくれる。

このシーンの直前に、〈わたし〉が自身の人生を回想する場面がある。
徴兵され、旧近衛騎兵第2連隊に配属され、ベルリンで占領任務につく。
その後、職を転々とし、電力局に勤めながら売れない小説を書いたり、教師になったりする。
ここで、フィクションだろうけれど、諜報活動に従事するためになり、活劇まで演じる〈わたし〉の姿がえがかれる。

それはともかく。
以上でプロローグは終了。
このあと、アクランド老人とコンラートの調査をもとにしたという、イギリスとドイツに分かれて戦闘機乗りとなった双子の兄弟、ハリー・ケルソーと、マックス・フォン・ハルダーの物語が語られる。

物語は、双子の父の話から。
1917年8月。
ボストン屈指の裕福な名家の跡継ぎであるジャック・ケルソーは、22歳。
クマのタークィンとともに、ブリストル戦闘機に乗り、イギリス陸軍航空隊で2年目の勤務についている。
当時、搭乗員が臆病になるという理由で、イギリス陸軍省は落下傘の使用を禁じていた。
が、金持ちの息子であるケルソーは、いつも私物の落下傘を操縦席にもちこんでいた。
撃墜されたときも、その落下傘で脱出。

負傷したジャックは野戦病院へ。
そこで看護婦をしていたエルザ・フォン・ハルダー男爵令嬢と出会い、結婚。
男爵家は、プロイセンの格式ある家柄だったが、お金はまったくなかった。

妊娠したエルザは、ひとりアメリカにいき、義父の大歓迎を受け、社交界の人気者に。
生まれた双子は、それぞれの父親の名前をとり、マックスとハリーと名づけられた。
ジャックはイギリス陸軍航空隊にとどまり、中佐に昇進。
大戦が終結すると、家族のいるボストンへもどってくる。
しかし、戦争のため心に深い傷を負ったジャックは、その後、死のうが生きようがかまわないといった生活をする。

1930年、ジャックは自動車事故で死亡。
双子は、この父親とそっくりの人生を送ることになる。

ジャックがいなくなったいま、エルザはアメリカにいる気がない。
それに、マックスはフォン・ハルダー家の跡継ぎだ。
義父の支援を受け、エルザはマックスを連れて故国にもどる。
ベルリンでもまた、社交界の花形に。
亡き父の旧友のひとり、いまではナチ党幹部のゲーリングを通じ、ナチの指導者たちと面識をもつ。

1934年、マックスはアメリカにもどり、半年間祖父のもとで暮らすことに。
祖父のエイブはふたりの16歳の誕生日に、ジャックが利用していた航空クラブに連れていった。
このとき、飛行機の操縦について、2人には天賦の才があることがわかる。
兄弟はどちらが飛ぶときも、父親と同じようにタークィンを操縦席に乗せて飛んだ。
コーチ役である西部戦線のエース、ロッキー・ファーソンから、2人はさまざまな技をさずかる。
また、ファーソンにもとめられ、エイブはカーチス練習機を2機、2人に買いあたえた。

ベルリンにもどったマックスは、母親を通じて口をきいてくれたゲーリングのおかげで、当地の飛行クラブへ。
その才能に驚いた周囲により、陸軍士官学校に入ることになる。
また、このとき、23歳の空軍少尉、アドルフ・ガーランドと知りあう。

ハリーも、ボストンで飛行機の操縦を続けながら、ハーヴァード大学に入学。
兄のマックスは、ドイツ空軍少尉に。

スペイン内戦が勃発すると、マックスとガートラントもハインケルHe51複葉戦闘機に乗りたたかう。
1938年、帰国し、中尉に昇進。

ドイツによるポーランド侵攻のさいは、20機の撃墜戦果を挙げ、大尉に昇進。
「黒い男爵」の異名をとる。
ゲーリングのお気に入りとなるが、当人は特定の政治的立場を表明することもなく、ナチ党員でもない。
一戦闘機乗りに尽きた。

いっぽうハーヴァードを卒業したハリーはフィンランドへ。
ソ連がフィンランドに侵攻し、飛行士不足のフィンランド軍が外国人義勇兵を募っていたため、ハリーはそれに応じたのだ。
ハリーは、タークィンとともに出撃し、たちまち勇名をはせる。

マックスもハリーも雑誌の取材を受け、その雑誌によりおたがいの消息を知る。
のちには、諜報機関をつうじて、たがいの動向を知ることになる。

1940年3月12日、フィンランドは降伏。
ハリーは規則に反して脱出し、ストックホルム郊外の航空クラブに着陸。
スウェーデン当局に察知されないうちにイギリスへ。
そして、ロンドンの航空省に出頭し、フィンランド人として英国空軍に所属することに。

こうして、兄弟は敵味方に分かれる。
とはいえ、2人の望みは空を飛ぶことだけ。
国のことなど関係ない。

不時着したMe109を手に入れたイギリス空軍は、その評価をするために、フィンランドで同機を飛ばしたことのあるハリーに声をかける。
そこで、ハリーはD課のドゥーガル・マンロー准将と出会う。
マンローはハリーに興味をもち、勧誘するが、ハリーは首を縦に振らない。
そのやりとりのなか、ハリーはマンローの姪モリーと親しくなる。
モリーは、クロムウェル病院で外科医をしている女医。

一方、あるパーティーに出席したマックスは、その出生や、弟がイギリス軍で活躍していることなどから、ヒムラーに目をつけられる。

ところで。
ドイツ国防軍諜報部アプヴェールがイギリスに張っていた諜報網は、根こそぎにされてしまっていた。
が、保安諜報部には、アプヴェールも知らない潜入工作員がいた。
ひとりは、駐英ポルトガル大使館の館員、フェルナンド・ロドリゲス。
弟はベルリン大使館付きの商務官。
もうひとりは、イギリス陸軍省職員サラ・ディクソン。
サラは、IRAの活動家だった祖父がイギリス軍に殺されたのを恨んでいる。

保安部の指示により、ロドリゲスはサラに接触。
2人は親密に。

その後も戦争は続く。
マックスはアフリカにいったり、東部戦線にいったり。
ハリーもアフリカにいったり、爆撃機隊に転属したり。

ゲシュタポが、ドイツ人を妻にもつユダヤ人を一斉に検挙したさい、その抗議にあつまったひとびとの最前列には双子の母エルザの姿が。
エルザは、夫を連れ去られた使用人とともに、抗議に参加したのだった。
そのことは、ヒムラーの心証を大いにそこねる。

アメリカ人をあつめたイーグル中隊をつくるというので、ハリーは参加を乞われるが、断る。
父親のように、イギリス空軍のままでいたい。
そのため、イギリス空軍のままでいられるマンロー准将の勧誘に応えることに。
こうして、ハリーはコールド・ハーパーで任務につく。

――このへんで、だいたい本書の半分くらい。
しかし、こんなにあらすじを書いておいてなんだけれど、この作品は要約したところでちっとも面白さがつたわらない。
この作品は、もともと抽象度が高い。
特に、前半はものすごいスピードで話が進んでいく。
小説の冒頭は説明することが多いから、そういうことになりがちだけれど、この作品は双子の略歴を語る速度が、そのまま後半まで維持される。
まるで大河小説の要約を読んでいるよう。
あるいは、小説というよりノンフィクションのよう。
記述は高空を飛翔し、なかなか地上に降りてこないといった風情。
後期のヒギンズは、カットバックで読ませる作風となったが、その手法をここまで推し進めたかと思う。

とはいえ、部分部分はいつもの通りつかいまわし。
ハリーの恋人となるモリーは、またしても女医。
諜報員の人物配置は「鷲は飛び立った」を思い起こさせる。
主人公の双子、ハリーとマックスは空を飛ぶことしか考えていない。
ヒギンズ作品につねにあらわれる、求道的人物だ。

空中戦のさい、後ろにつかれたときにフラップを下げる技は、もう何度もみた。
これをすると、追突を避けた相手機が海面などに突っこむ。
最初にみたのは「裁きの日」だったか。
さがせば、まださかのぼれるかもしれない。

後半はもう少し、普通の小説らしくなる。
陰謀があり、計画がある。
潜入があり、露見があり、脱出がある。
双子は当然入れかわる。

劇的な場面が抑制の効いた筆致でえがかれているのも、本書の魅力のひとつだ。
はなればなれになった双子は、どこかで再会しなければいけない。
それはいったいどこだろうという興味で読んでいると、ついに双子は再会する。

この場面は、ことさら盛り上げようと書かれているわけではない。
にもかかわらず、積み重ねてきた描写が効いて見事な場面となっている、

素晴らしい名場面だ。


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「危険がいっぱい」「永久戦争」

「危険がいっぱい」(デイ・キーン/著 松本依子/訳 早川書房 2005)

原題は、”Joy House”
原書の刊行は1954年。

〈わたし〉の1人称。
妻を殺してしまった弁護士の〈わたし〉、マークは逃亡の果てにある救済院へ。
そこでボランティアをしていた、金持ちの未亡人メイと出会う。
メイに拾われ、マークはお抱え運転手としてメイの屋敷で暮らすことに。
2人はすぐに恋仲になり、結婚することになるのだが――。

妻を殺してしまったマークは、警察だけでなく、大物ギャングである妻の兄からの追手にもおびえている。
マークはこの義兄の仕事をしており、そのことを妻に知られ、口論となったすえに殺してしまったのだ。

もちろん、マークはメイと添い遂げるつもりはない。
メイには素性も隠している。
うまく結婚し、別人として国外に逃げたいだけだ。

一方、メイにも過去がある。
卒業後、結婚して裕福な暮らしをしていたメイは、ギャングのリンク・モーガンとつきあうように。
仲間とともに現金輸送車を襲ったモーガンは、メイに一緒に逃亡をもちかけるが、メイは拒否。
そのやりとりのさなか、メイの夫であるヒルがあらわれ、モーガンはヒルを射殺して逃走した。
以後、メイは世間から身を引き、窓に板を打ちつけた屋敷でひっそりと暮らすことに。
「もう一度人生をやり直しましょう」
などとメイはマークいうのだが、それが額面通り受けとれないのは明らかだ。

というわけで、本書は、非常にサスペンスに富んでいる。
雰囲気は、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」や、映画「サンセット大通り」のよう。
文章は、センテンスが短く、軽快。
そしてむやみに煽情的。
いかにも50年代の犯罪小説といった趣きで、大いに愉しめた。

ところで。
巻末に収録された、ミステリ評論家吉野仁さんの解説によれば、「危険がいっぱい」という邦題には、アラン・ドロン主演、ルネ・クレマン監督による映画、「太陽がいっぱい」がかかわっているという。

「太陽がいっぱい」の原作は、パトリシア・ハイスミス。
その後、1964年に、やはりアラン・ドロン主演、ルネ・クレマン監督によるサスペンス映画が公開された。
その作品は続編ではないのだが、「太陽がいっぱい」にあやかり、日本においては、「危険がいっぱい」というタイトルがつけられた。

この映画の原作こそ、本書、「危険がいっぱい」。
つまり、この作品は〈いっぱいシリーズ〉の第2弾だったのだ(シリーズじゃないけど)。
ちなみに、アメリカ公開におけるタイトルは、原作どおり”Joy House”だったそう。


「永久戦争」(P・K・ディック/著 浅倉久志/訳 新潮社 1993)
短篇集。
収録作は以下。

「地球防衛軍」
「傍観者」
「歴戦の勇士」
「奉仕するもの」
「ジョンの世界」
「変数人間」

新潮文庫では以前に、「悪夢機械」(1987)と「模造記憶」(1989)が、同じく浅倉久志さんの編訳で刊行されている。
よって本書はディック作品集の3作目。
タイトル通り、戦争をテーマにした作品を収録したものだ。

「地球防衛軍」
人間が地下で暮らし、地上ではロボットが人間の代わりに戦争をしている世界。
たたかっているのは、アメリカとソ連。
一計を案じたロボットの策にはまり、人間たちはともに平和を目指すことに。
ロボットが、自発的に人間の後始末をしているのが皮肉だ。

「傍観者」
2つのイデオロギーのあらそいをえがいた一篇。
体臭を消し、歯を漂白し、抜け毛を復元する清潔党員と、それをしないことを誇りとする自然党員。
両者のあらそいは、家庭のなかまで入ってくる。
主人公ウォルシュの息子は清潔党員で、義弟は自然党員。
ウォルシュ自身は、どちらも好きにすればいいと思っているが、そうはいかない。
どちらかの側につかなくてはいけない。

「歴戦の勇士」
巻末の解説で、浅倉さんが手際よくこの作品を紹介しているので引用しよう。

《地球と、その植民地として長年搾取されつづけてきた金星・火星連合との関係が悪化し、一触即発の空気をはらんでいるとき、突如としてその戦争の生き残りと称する老兵士が未来から出現した……。秀抜な着想をみごとに生かしきったスリリングな力作》

「奉仕するもの」
「地球防衛軍」と同じく、人間は地下シェルターに暮らしている世界。
アップルクィストは地上で、壊れてはいるもののまだうごくロボットをみつける。
ロボットが自己を修復するのに必要な材料を調達するかわりに、アップルクィストは知ることが禁止されている戦前についての話を聞く。
ロボットを労働力とすることを推進するレジャー主義者と、ロボットを認めない復古主義者に別れて人間たちが戦争をした結果がこの世界だと、ロボットはいうのだが――。
「地球防衛軍」を逆さにしたような作品。

「ジョンの世界」
人間対人間、次いで人間対クローと呼ばれるロボットとの戦争があり、地球は荒廃。
いまでは、人類は月面基地で暮らしている。
そこで、航時船をつかい、歴史を改変し、戦争を未然に防ごうとする計画が実行に。
人工頭脳にかんする論文をもち帰り、戦争以外の用途につかうのだ。
その航時船の乗組員、ライアンの息子のジョンは、発作を起こしては不思議な光景をみていて――。

なぜジョン少年は改変後の世界をみることができたのか。
「彼は一種の平行時間間隔を具えていたにちがいない。ほかの可能な未来に関する意識だ」
という説明がなにやら面白い。

「変数人間」
過去からやってきた男にまわりが翻弄されるという、「歴戦の勇士」をさかさにした話。
いや、こちらのほうが「歴戦の勇士」よりも書かれたのは早かったそう。
再び、解説による紹介文を引用するとこう。

《太陽系外への人類の進出を阻むケンタウルス帝国に対して、地球がまさに戦争をふっかけようとしているとき、過去の時代から突如ひとりの男が出現して、てんやわんやの大騒ぎ》

戦争の予測はコンピュータがするのだが、過去から男があらわれたために、コンピュータは予測できなくなってしまう。
これが、変数人間というネーミングの由来。
この男はどうやって過去からあらわれたのか。
歴史調査部がタイムバブルを過去から回収するさい、回路を早く切りすぎ、その結果バブルは男を連れてきてしまった――というのがその理由だ。

不思議なことにディックは古くならない。
道具立てはさすがに古びているけれど、読めなくなることはない。
これは一体なんだろう。
いまある現実の裏に、もうひとつ別の現実があるという作風のためだろうか。
また、むやみに切実感があるためだろうか。
「傍観者」んも設定なんて笑ってしまうけれど、可笑しいのは設定だけで、起こることは痛ましい。
サスペンス性に富んでいることが、作品の寿命を延ばす秘密だろうか。


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「アウラ・純な魂」「宇宙探偵マグナス・リドルフ」「薪小屋の秘密」

また、最近読んだ本をいくつか。

「アウラ・純な魂」(フエンテス/著 木村栄一/訳 岩波書店 1995)
メキシコの作家フエンテスの短篇集。
収録作は以下。

「チャック・モール」
「生命線」
「最後の恋」
「女王人形」
「純な魂」
「アウラ」

怪談というか、ゴシック小説というか、そんな趣きの作品が多い。
フエンテスは、たとえばチェスタトンのように、すぐ考えが怖いほうにいってしまうひとのようにみえる。
この作品集だけしか知らないのでなんともいえないけれど。

本書中、もっとも完成度の高いのは「アウラ」だろう。
この出来映えは素晴らしい。
しかも2人称小説だ。
2人称小説部門というカテゴリーがあったら、「アウラ」はかなり上位にいくのではないかと思う。
2人称小説の長編部門には、都築道夫さんの「やぶにらみの時計」(中央公論社 1979)を推しておこう。

「宇宙探偵マグナス・リドルフ」(ジャック・ヴァンス/著 浅倉久志/訳 酒井昭伸/訳 国書刊行会 2016)
去年、ジャック・ヴァンスの「竜を駆る種族」(浅倉久志/訳 早川書房 2006)を読み、その面白さに大いに驚いた。
で、たまたま新刊で本書が刊行されていたので、買って読んでみた次第。
内容は、シリーズ・キャラクターであるマグナス・リドルフが、宇宙をまたにかけて活躍するというSF連作短編集。
10編の作品が収録されている。

マグナス・リドルフは温厚な老紳士。
読んでいても探偵という気がしない。
訳者あとがきでは、トラブルシュータ―と呼んでいるけれど、これも違和感がある。
マグナス・リドルフはいつも投資の回収に心を痛めているから、《宇宙投資家》ではどうだろう?
《宇宙債権回収家》では、債権回収の専門家みたいだからいいすぎか。
《宇宙コンサルタント》くらいがいいかもしれない。

このマグナス・リドルフが、いろんな宇宙人がいるいろんな星にいき、不良品に悩む缶詰工場や異生物に囲まれた保養地の再建といった、いろんな問題を解決する。
が、残念なことに、本書はそれほど面白いとは思えなかった。
訳者あとがきを読むと、すごく面白そうなのに。
どうして、面白いと思えなかったのか。
そのうちゆっくり考えよう。

本書は、全3巻を予定している「ジャック・ヴァンス・トレジャリー」シリーズの1巻目。
2巻目の、「天界の眼 切れ者キューゲルの冒険」(ジャック・ヴァンス/著 中村融/訳 2016)もすでに出版されている。
読もうか読むまいか悩んでいるところ。

「薪小屋の秘密」(アントニイ・ギルバート/著 高田朔/訳 国書刊行会 1997)
世界探偵小説全集20巻。
原書の刊行は1942年。

この本は、前に読みはじめたものの、あんまりサスペンスに富んでいるので驚いて、途中で読むのをやめたものだ。
でも、途中で読むのをやめた本というのは続きが気になる。
そこで今回、意を決して読んでみることに。

ジャンルでいうと青ひげものというのか。
オールド・ミスが結婚詐欺師にだまされる話だ。
このオールド・ミスが自らだまされていく過程が、説得力があり、読んでいてハラハラする。

作者は男性名だが、じつは女性だそう。
たしかに、だまされるオールド・ミスの皮肉めいた描きぶりや、嫉妬に身を焦がす仲間のオールド・ミスの描写など、いかにも女性作家の作品らしい。
そして中盤になり、殺人事件が起こる。
サスペンスから、ミステリらしくなる。

解説で小林晋さんが、殺人の記述について、フェアかアンフェアか考察しているけれど、これはアンフェアだろうと思う。
具体的に書かなきゃいいというものではないだろう。
しかし、べつにアンフェアでも、本書の面白さは損なわれない。

それよりも、ラストのとってつけたような解決のほうが気になった。
ただ探偵が事件を解決するだけの最終章は不要だろう。
読みやめるなら、最終章の前でやめるのがベストだった。

ところで。
死体をさがすために警官が庭を掘り起こす場面があるのだけれど、死体は一向にみつからない。
そのとき、警官のひとりがこんなことをいう。

「死体を見つける前に、ヒットラーがロンドンを占領しちまうよ」

この本の原書が刊行されたのは1942年。
この時期に、こういう本を出版し、こういうセリフが書けたのか。
そのことに感心してしまった。


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「伝記物語」「こわれがめ」「紫苑物語」「昔には帰れない」

最近忙しくて、ヒギンズ作品の要約がつくれない。
要約をつくるのは、あれでなかなか時間がかかるのだ。
ヒギンズ作品のメモとりも、もう後半にさしかかってきていて、あとはショーン・ディロンものがほとんどだから早く終わらせたいのだけれど。

というわけで、今回は最近読んだ本のメモでお茶をにごしたい。
まず「伝記物語」(ホーソン/著 守屋陽一/訳 角川書店 1959)
100ページもない本。
忙しいときにちょうどいい。
ちなみに奥付をみると、この本の定価は50円だ。
古本屋で100円で買ってしまった。

内容は、ホーソーンの児童向けの作品。
目の病気にかかった男の子のために、お父さんが世界の偉人の話をしてくれるというもの。
男の子のお兄さんと妹も、それからお母さんも、みんな一緒にお話を聞く。
お父さんが話をしてくれる偉人は次のようなひとたち。

画家のベンジャミン・ウェスト。
ニュートン。
サミュエル・ジョンスン。
オリヴァ・クロムウェル。
ベンジャミン・フランクリン。
クリスティナ女王。

文章はですます調。
子どもたちは親に敬語をつかう。
ちょっと教訓めいたお話が、なんとなくなつかしい。
森銑三の、「おらんだ正月」(岩波文庫 2003)を読んでいるようだ。
サミュエル・ジョンスンだけが前後篇で、力がこもっている。
最後、男の子の目がよくなったりするのかなと思ったが、そんな甘いことは起こらなかった。

「こわれがめ」(クライスト/作 手塚富雄/訳 岩波書店 1977)
これはドイツの名高い戯曲。
ときどき戯曲が読みたくなる。

《喜劇に乏しかったドイツでは、レッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」、フライタークの「新聞記者」と並べて三大喜劇といわれてきた…》

と、解説の岩淵達治が書いているように、この作品は喜劇。
なお、この文章は、《傑出した喜劇的個性を持つという意味では、ハウプトマンの「ビーバーの外套」が最もこの喜劇に近いと思う》と続く。

この喜劇は、法廷劇のかたちをとっている。
深夜、娘の部屋に忍びこんで、かめを割ったのはだれか?
ということが、法廷で徐々に明かされていく。

これはすぐわかることだから書いてもいいと思うが、このかめを割った犯人は、じつは裁判官をしている村長のアーダム。
自分が犯人の訴訟を、自分が裁き、しかし話をそらそうとしてもしだいに追いつめられていくという過程が喜劇を生む。
読んだあと、娘がさっさと真相を話していたら、話はすぐすんだのにと思わずにはいられない。
それにしても、アーダムはろくでもないやつだ。

解説にはクライストの生涯が書かれていて、これが作品よりも面白い。
時代に小突きまわされたあげく、矢尽き刀折れて身をほろぼす。
クライストには短編もある。
これも、そのうち読んでみたい。

「紫苑物語」(石川淳/著 講談社 1989)
講談社文芸文庫で読んだ。
「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」の3篇が収録されている。
「紫苑物語」は、古代を舞台にした殺伐としたファンタジーというか、幻想小説というか、そんな作品。
特筆すべきは、その文章。
内容よりも、その文章の力でのみ、作品が成り立っているようにみえる。
速度があり、柔軟で、よくしなる、芝居っ気たっぷりのその文章は、たとえばこんな感じ。

《その夜、館は宴たけなわのおりに、突然ふり落ちた光もののために風雨もろともに炎となって、一瞬に燃えあがり燃えつくし、そこにいたかぎりのものは人馬ことごとく焼けほろびた。》

ふり落ちる、燃えあがる、燃えつくす、焼けほろびるといった、動詞に動詞をかさねた書きかたが速度感を生んでいるようだ。
こんな文章で書かれた作品は、なににも頼らず、宙に浮いた球体のようにみえる。

「八幡演技」は、木地師の神が、世が移り変わるにつれ、武士の神となる、そのいきさつを書いたもの。
「修羅」は、応仁の乱ころを舞台にした歴史小説。
登場人物たちは、一条兼良の蔵に押し入ろうとする。
この作品を読んでいたら、神西清の「雪の宿り」を思いだした。

「昔には帰れない」(R・A・ラファティ/著 伊藤典夫/訳 浅倉久志/訳 早川書房 2012)
ときどき、ナンセンスな作品も読みたくなる。
そんなとき、ラファティの作品に接するのはたいへん楽しい。

本書は短編集。
第一部と第二部に別れている。
そのちがいは、伊藤典夫さんの解説によればこう。

《第一部はすべてぼくが気に入って訳した作品で、ラファティとしてはシンプルな小品を集めた。ただし、”シンプル”というのは、ぼくの個人的な見解であって、ほかの方々がこれらを読んでどんな印象をもたれるかはわからない。第二部はちょっとこじれてるかなあと思う作品と、浅倉さんの長めの翻訳でかためた。》

たしかに、第一部の作品のほうがわかりやすい。
また、伊藤さんと浅倉さんの、嗜好のちがいも興味深い。

《ぼく(伊藤さん)には、ディックの良さがさっぱりわからなかった。》

本書のなかで気に入ったのは、まず冒頭の「素顔のユリーマ」。
あんまりぐずで頭が悪いので、なんでも発明するほかない少年の話。

《アルバートは計算のほうもからきし駄目だった。自分のかわりに計算する機械をまたひとつ作るほかなかった》

という、なんともひとを食った愉快な作品。
その次の、「月の裏側」はミステリ雑誌に載るような小品。
ラファティはこんな作品も書いたのかとびっくり。

その次の…と書いていったらきりがない。
第二部では、「大河の千の岸辺」と、「1873年のテレビドラマ」が、どちらも視覚的な作品で面白かった。
いやもちろん、ほかの作品も面白い。
どの作品も、ラファティの奇想にただついていくほかない。
なんだかよくわからない作品を、ただただ読んでいくのは、それだけで楽しいことだと思うのだが、どうだろうか。


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漫画 吾輩は猫である

心理学者の河合隼雄と、詩人の長田弘が、子どもの本について語りあった、「子どもの本の森へ」(岩波書店 1998)という本がある。
その本のなかに、以下のような一節がある。

長田 (…)夏目漱石の『吾輩は猫である』というのも、ぼくにとっては二つあるんです。一つは、もちろん夏目漱石の『吾輩は猫である』で、「吾輩は猫である。名前はまだない」という有名な一行から始まる。もう一つは、昭和の初めの新潮文庫ででた近藤浩一路(畫)という『漫画吾輩は猫である』で、その始まりは「吾輩は猫である。名前は無い」。漫画のうほうは「まだ」がないんです。

河合 持っておられるんですか?

長田 はい。右頁は全頁、簡潔で、無駄のまったくない要約が十行くらい。この要約が何ともいえず傑作なんです。左頁は全頁、線画で、ユニークきわまりない漫画だけ。「まだ」という未練のない、その漫画版の書き出しが、ぼくは大好きですね(笑)。》

このくだりを読んだとき、ぜひ「漫画 吾輩は猫である」を読んでみたいと思った。
それから、月日は流れて、ことし岩波文庫からこの本が出版された。
ことしは漱石生誕150周年だそうだから、それに合わせたものだろう。
長らく読めなかった本が読めるのは、なんともうれしいことだ。

「漫画 吾輩は猫である」を手にとってまずしたのは、長田さんの指摘の確認。
たしかに「まだ」は省かれている。
そして、右ページに簡潔きわまりない要約があり、左ページにユニークな漫画が描かれている。
漫画とはいうけれど、コマ割りはされていない。
滑稽なイラストといった風。

もともと「吾輩は猫である」は、漫文調というか戯文調で書かれている。
だから、漫画と相性がいいのかもしれない。
それにしても、全編1ページに収まる要約をつくり、イラストをつけるというのは、なかなか大変だったのではないか。

《たしかに読みやすい。が、これは翻案というべきだろう。当然著作権者の許諾が必要だが、当時そんなことがあったかどうか怪しい》

とは、巻末の夏目房之介さんによる解説。
漱石の孫にして、漫画研究者の夏目房之介さんは、この本の解説者としてまさに適任だ。
ふたたび解説によれば、「漫画 吾輩は猫である」は、1919(大正8)年、新潮社より、文庫サイズのハードカバーで刊行されたとのこと。
昭和のはじめではなかった。

そして、原本の表紙にも奥付にも、漱石の名前は載っていないという。
あるのは、近藤浩一路の名前だけ。
これはまた、じつに神経が太い。
今回の岩波文庫版もそれを踏襲してか、漱石の名は、表紙・奥付ともに記されていない。

「漫画 吾輩は猫である」の〈吾輩〉は、白ネコとして描かれている。
これは少々以外だった。
〈吾輩〉は勝手に黒ネコだと思っていた。
でも、俥屋の黒は黒ネコだから、絵にするなら黒ネコ以外がいいだろう。
黒ネコだと思っていたのは、「『坊っちゃん』の時代」(関川夏央/著 谷口ジロー/著 双葉社)の印象が強かったせいかもしれない。

「吾輩は猫である」は、全編通して読んだことがない。
読めば、〈吾輩〉の容姿に触れた箇所があるのだろうか。
黒ネコが駄目なら、〈吾輩〉は三毛猫にちがいないと、また勝手に考えているのだけれど。

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鷲は飛び立った

「鷲は飛び立った」(ジャック・ヒギンズ/著 菊池光/訳 早川書房 1997)
原題は“The Eagle Has Fiown”
原書の刊行は1991年。

本書は「鷲が舞い降りた」の続編。
また、ドゥガル・マンロゥ准将がシリーズ・キャラクターとして登場する、第2次大戦秘話ものの一作。
さらに、解説によれば、ヒギンズの長編50作目に当たるとのこと。

香山二三郎さんは、この解説でヒギンズのインタビューを紹介している。
そのインタビューによれば、ヒギンズは50作目の作品を特別なものにしたいと考えていた。
アイデアを得たのはロンドン塔を訪れたとき。
衛士のひとりから、ロンドン塔に収容されていたドイツ軍捕虜についての話を聞いたこと。
では、ストーリーをうごかすための触媒としてのドイツ軍捕虜を、どんな人物にするか。
ここで、「鷲は舞い降りた」に登場した、クルト・シュタイナ中佐のことが閃いた。
シュタイナ中佐は「鷲は舞い降りた」で死亡したけれど、それにこだわることはない。

《狼男は映画のたびにラストではっきりと殺されるにもかかわらず、かならず次の映画に現れる。シャーロック・ホームズは読者の要望に応えて生還した。ならば、シュタイナだっていいではないか》

かくして、本書は書かれることに。

物語は、1975年のロンドンから。
登場するのは、「鷲が舞い降りた」で成功をおさめた〈私〉――ヒギンズ自身。
〈私〉はルース・コーエンという若い女性の訪問を受ける。
コーエンは、ハーヴァード大の学生。
ロンドン大学で博士課程修了後の研究をしていたところ。
コーエンは〈私〉に、クルト・シュタイナは教会墓地に埋められてはいないと告げる。

コーエンがそういう根拠はなにか。
公立記録保管所で、偶然100年間非公開に当たる文書を手に入れた。
文書はコピーをとり、元のほうは保管所に返却した。
そのコピーを、コーエンは〈私〉にみせる。

ヒギンズのもとを去ったコーエンは、すぐ車にひかれて死んでしまう。
巡査に乞われ、〈私〉は死体置き場におもむきコーエンンを確認。
家にもどると、コーヒーテーブルに置いておいた例のコピーが消えている。

コーエンは死に、ファイルは保管所にもどり、唯一のコピーは回収された。
しかし、あの内容を立証しなければならないと、〈私〉は決意。
まだ、内容を裏付けできる人物がひとり残っている。

〈私〉は、ロンドンにおけるIRAの政治活動面を担う、シン・フェイン党の男を訪ねる。
これから、ヒースロゥ空港にいき、ベルファストのユーロパ・ホテルに泊まる。
リーアム・デヴリンに連絡してくれ。
かれにぜひとも会う必要がある。

ベルファストのユーロパ・ホテルで待っていると、タクシーがきていると連絡が。
タクシーに乗ると、カトリック地区の教会に連れていかれる。
ヒギンズが子ども時代をすごしたという地区。
女性の運転手にいわれたとおり、教会の告解室に入ると、デヴリンがあらわれる。

「鷲が舞い降りた」で活躍したデヴリンは、いまや67歳。
2人は聖具室で再会を祝う。
あのコピーの話は事実なのかとたずねる〈私〉に、デヴリンは話はじめる――。

というわけで、プロローグは終了。
以下、本編に。

1943年のロンドン。
ドゥガル・マンロゥ准将と、副官のジャック・カーターは、「鷲は舞い降りた」以後の状況について確認。
この2人の会話のおかげで、前作を知らないひとにも状況が飲みこめる。

「鷲は舞い降りた」でおこなわれたチャーチル誘拐作戦を指示したのはヒムラーだった。
ヒムラーは、カナリス提督にも、総統にも知らせず全計画を実行した。
だから、この失敗した作戦のことをヒムラーは公にしたくないはずだ。

また英国も、ドイツの落下傘部隊員が、英国の田舎でアメリカのレインジャー部隊と交戦したなどという話は広げたくない。

デヴリンはオランダの病院に入院したあと、そこを抜け出し、現在はリスボンにいる。
大使館付き武官アーサー・フリア少佐が、リスボンのデヴリン監視に当たっている。
そして、シュタイナ中佐はロンドン塔に収容されている。

マンロゥ准将は、スペイン大使館付き商務官、ホセ・バルガスを通じ、シュタイナ中佐がロンドン塔にいると、カナリスとヒムラーの双方に情報が届くよう指示。
バルガスには、ベルリンのスペイン大使館付き商務官をしているファン・リベラといういとこがいる。
外交郵袋をつかって連絡をとりあい、金を多くだすほうにつく。

マンロゥ准将の指示はドイツに波紋をひろげる。
ヒムラーに呼ばれたヴァルター・シェレンベルグ少将は、ヴェヴェルスブルグ城へ。
シェレンベルグ少将は、第三帝国をお粗末な喜劇とみている人物。
「もはやメリーゴーラウンドから降りるのには遅すぎるよ、ヴァルター、もう降りることはできない」
などと、自分にいいきかせている。
シェレンベルグ少将は、「ウィンザー公掠奪」にも登場しているらしいけれど、これは未読。

さて、ヒムラーはシェレンベルグ少将に、「鷲作戦」の顛末について説明。
その上で、シュタイナ中佐を救いだすよう命令を下す。

「彼はドイツ帝国の英雄、真の英雄だ。イギリス人に捕えられたまま放っておく訳にはいかない」

しかもヒムラーは、その仕事をする人物にリーアム・デヴリンを指定する。

また、4週間後、総統はノルマンディの海辺の城、ベル・イルへいく。
そこで、ロンメル元帥をB軍団司令官として正式に任命する予定。
それにより、ロンメル元帥は大西洋沿岸防衛の全責任を負うことに。
この会議で、シュタイナ中佐を総統に引きあわせたいと、ヒムラー。
つまり、シュタイナ中佐を救出する猶予は4週間しかない。

なぜこうまで、シュタイナ中佐を奪回することが重要なのか。
シェレンベルグ少将はいまひとつ腑に落ちない。

ともかく、シェレンベルグ少将は、ファン・リベラに会い、いとこから可能な限り情報を入手するよう指示。
また、シェレンベルグ少将はカナリス提督にも会う。
カナリス提督も、この戦争は負けだと思っているひとり。
そもそも鷲作戦は、総統の思いつきだった。
いつものように、2、3日たてば忘れるだろうと思い、カナリス提督は放っておいた。
現に総統はすっかり忘れたのだが、ヒムラーはおぼえていて、カナリス提督に恥をかかせるために鷲作戦を実行に移したのだった。

その後いろいろあって。
シェレンベルグ少将は、リスボンの酒場でデヴリンと接触。
デヴリンは仕事を引き受け、シュタイナ中佐を救出するためイギリスへの潜入を計画する。

このことは、すぐにマンロゥ准将の耳に入る。
そこで、シュタイナ中佐をセント・メリイ小修道院に移すことに。
そして、その情報をドイツ側に流し、救出しにきたデヴリンと、その協力者を一網打尽にすることをたくらむのだが――。

各国を股にかけたスピーディーな展開は、のちのショーン・ディロンを主人公とした作品群をほうふつとさせる。
デヴリンの斜にかまえた言動は、ディロンそっくりだ。
また、マンロゥ准将は、ファーガスン准将と同一人物のようにみえる。

じつは、デヴリンはシェレンベルグ少将の申し出をすぐには受け入れない。
考える時間が必要だし、クリスマスに友人の闘牛牧場にいく約束があるので3日後にもどってくるとこたえる。
しかし時間がないという少将を、デヴリンはなだめる。

「気を取り直せよ、ヴァルター、リスボンでのクリスマスだろう? 照明、音楽、美女たち。しかも、今のこの瞬間、ベルリンでは灯火管制をしていて、きっと雪が降っているにちがいない。あんたはどっちがいいんだ?」

こういわれて、シェレンベルグ少将は大笑い。
そして3日後、デヴリンは少将の申し出を引き受ける。
この一連の場面は気に入っている。
なんとも余裕のあるえがきかただ。
こういう場面が、本書には随所にある。

シュタイナ大佐救出のさい、デヴリンはドイツ側の情報源であるバルガスとは接触しないことにする。
「バルガスがこちら側の人間だ、という前提に基づいて計画をたて、おれが行ったらそうではなかった、ということになると、おれはまるで馬鹿者の見本になってしまう」

そこで、デヴリンのIRA関係の個人的なつてを頼ることに。
イギリスへは、まずアイルランドにパラシュート降下。
国境を越えてアルスターに入り、ベルファストへ。
そこから船で、ランカシャーのヘイシャムいき、さらにロンドンへ。
メーキャップで容姿を変え、イギリス市民に化ける。
シュタイナ大佐を救出したあとは、協力者のもとへ逃亡し、迎えにきた飛行機で脱出。
が、もちろん、ものごとは予定通りにははこばない。

最後には、なぜヒムラーがシェレンベルグ少将にこんな命令をだしたのか、その理由が明かされる。
また、この事件が100年間の非公開となった理由も。
「あのときはいい考えのように思えたのだが」とヒギンズにいうデヴリンのことばには余韻がある。

いつものことだけれど、生頼範義さんの表紙がまた素晴らしい。
これしかないという瞬間をえがいた、見事な挿画だ。


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反撃の海峡

「反撃の海峡」(ジャック・ヒギンズ/著 後藤安彦/訳 早川書房 1995)

原題は、“Cold Harbour”
原書の刊行は1990年。

ドゥガル・マンロゥ准将がシリーズ・キャラクターとして登場する、第2次大戦秘話もの。
このシリーズは他に、
「狐たちの夜」
「鷲は飛び立った」
「双生の荒鷲」
がある。

内容は、ひとことでいうと、若い女性がスパイとして敵地に乗りこむというもの。
「狐たちの夜」「ルチアノの幸運」に似たパターンの作品といえるだろう。

物語は、マンロゥ准将が入院中のマーティン・ヘアをスカウトしにくるところから。
マーティン・ヘアはアメリカ人。
元ハーヴァード大学のドイツ文学教授。
母親がドイツ人のため、ドイツ語を流暢に話す。
また、フランス語も堪能。

戦争がはじまったとき、ヘアは42歳。
だが、ヨットマンとして有名だったため魚雷艇隊に配属される。
太平洋のあらゆる戦闘水域に出撃。
ソロモン沖海戦で、日本の駆逐艦に撃沈寸前まで追いこまれ、体当たりを敢行。
左肺に砲弾の破片を3つくらい、6日間救命ボートで漂流する。
現在、体調は旧に復したものの、なにをしていいのかわからない。

こんなヘアに、マンロゥ准将は仕事をあたえる。
コーンウォール州に、コールド・ハーバーと呼ばれる小さな漁港がある。
ここを、マンロゥ准将が責任者であるSOE(特殊作戦部)のD課が使用している。
飛行機が2機あるが、いずれもドイツ機。
シュトルヒと、ユンカースJu88S夜間戦闘機。
つまり、ドイツ軍にすっかり偽装して作戦行動をおこなっている。

先月は、ドイツでEボートを捕獲した。
そこで、Eボートに乗る乗組員をさがしている――。

ドイツ軍に偽装するのは、明白な交戦規定違反だと、ヘアが指摘するとマンロゥ准将はわかっているとこたえる。
けっきょく、ヘアはマンロゥ准将の誘いにのることに。

次に登場するのは、フランスでレジスタンス活動をするクレーグ・オズボーン。
元ジャーナリストのアメリカ人。
現在アメリカ軍のOSSに所属する陸軍少佐。

オズボーンは、告解室にひそみ、告解にやってきたドイツ軍のディードリッヒ将軍を射殺。
逃亡中、ドイツ軍が駐留している城館の娘で、元恋人のアンヌ-マリーの助けを得て、なんとか海上に脱出。
ヘアが艦長をつとめるEボートに拾われる。
オズボーンは、まだドイツ文学教授だったころのヘアを見知っていた。

コールド・ハーバーには〈ザ・ハングド・マン〉という元領主屋敷の旅館があり、ここが食堂兼集会所となっている。
この、〈ザ・ハングド・マン〉の女主人をつとめているのが、ジュリー・ルグラント。
ジュリーの夫はソルボンヌ大学の哲学教授で、パリでレジスタンスに加わり、その脱出のさいオズボーンが手を貸したことがあった。

もともとSOEにいたオズボーンは、マンロゥ准将のこともよく知っている。
マンロゥ准将はオズボーンを配下に加えたがっている。
が、マンロゥ准将の悪辣さに閉口しているオズボーンはそれを断る。
しかし、コールド・ハーバー計画は英米の合同作戦だということで、けっきょくオズボーンはマンロゥ准将のもとではたらくことに。

ところで、フランスへの侵攻作戦を計画中の連合軍は、ドイツ軍の出方を心底知りたがっていた。
近日中に、大西洋防壁の責任者であるドイツ軍のロンメル元帥は、ブルターニュのド・ヴォアンクール城で幕僚会議を開く予定。
「蠅にでもなってその会議の場の壁にとまっていたいくらいだ」
と、ぼやくアイゼンハワー将軍に、会議に工作員を潜入させる用意があることをマンロゥ准将は明言する。

その工作員には、ド・ヴォアンクール伯爵夫人の姪であり、現在ド・ヴォアンクール城に住む――そして、オズボーンの逃亡を手助けした――アンヌ-マリーをつかう予定だった。
しかし、ある事故により彼女をつかうことはできなくなる。
そこで、アンヌ-マリーの双子の妹、ジュヌヴィエーヴに白羽の矢が立つ。
母親が亡くなったのをきっかけに、姉は相続人としてフランスに残り、妹は父親とともにイギリスで暮らしていたのだった。

ロンドンで看護婦をしているジュヌヴィエーヴは、父親の暮らすセント・マーティン村でオズボーンと対面。
さらにマンロゥ准将と会い、事情を知る。
もう姉とは4年も会っていないと、一度は協力を断ったジュヌヴィエーヴだったが、結局は協力することに。

というわけで。
主人公ジュヌヴィエーヴが登場するのは、80ページから。
「鷲が舞い降りた」以降のヒギンズ作品にしては、少々スロースターターだ。
ジュヌヴィエーヴの職業が看護婦というのは、またしてもという感じがする。
しかし、看護婦の技術をみせる場面はない。
そんなことをしなくても物語を語るのに支障はないと、作者は判断したのだろう。

が、登場人物が通りすがりに英雄的行為をしてしまうという場面は健在。
この作品では、オズボーンが空襲にあったロンドンで、瓦礫の下に埋まった子どもを救いだす。
通りすがりに英雄的行為をしてしまうのは、ヒギンズ作品の登場人物のくせだろう。
またやっているなあと、読んでいて微笑んでしまう。

このあと、ジュヌヴィエーヴは即席の訓練を受け、アンヌ-マリーとしてヴォアンクール城に送りこまれる。
はたして、ジュヌヴィエーヴは有益な情報を手に入れることができるのか。
また、敬愛する叔母のオルタンス・ド・ヴォアンクール伯爵夫人を筆頭として、城のひとびとの目をごまかし続けることができるのか。
さらに、マンロゥ准将がジュヌヴィエーヴを送りこんだ裏には、別の目的があった。
それを知ったオズボーンは行動を起こし――と、話をいよいよ盛り上げる。

本書の作風はいささかゆるい。
ストーリーはほとんど会話で進む。
オズボーンが、マンロゥ准将、マーティン・ヘア、ジュリー・ルグランドといった主要な登場人物とあらかじめ知りあいだったというのは、都合がよすぎて笑ってしまう。
しかし、ゆるいというのは、一面余裕があるということだ。
サスペンスを維持しながらも余裕がある。
初期の頃からヒギンズ作品を読んできた身としては、うまくなったなあ感心せずにはいられない。
傑作とまではいかないけれど、立派なできばえだ。

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「裁きの日」「デリンジャー」

「裁きの日」(ジャック・ヒギンズ/著 菊池光/訳 早川書房 1983)

原題は“Day of Judgment”
原書の刊行は、1978年。

1975年に「鷲は舞い降りた」を刊行したあと、ヒギンズが発表した作品を順に並べると、こんな風になる。

1976 「脱出航路」
1977 「ヴァルハラ最終指令」
1978 「裁きの日」
1980 「暗殺のソロ」

「暗殺のソロ」までいくと、安定したカットバックの技量が楽しめる。
が、それまではそうはいかない。
というわけで、「裁きの日」の面白さはいまひとつだ。
手早くストーリーを紹介して、終わりにしてしまおう。

3人称多視点。
主人公は、「非情の日」の主役だったサイモン・ヴォーン元イギリス陸軍少佐。
舞台は、1963年のベルリン。

葬儀屋の車で検問所を越え、西ベルリンに入った女性、マーガレット・キャンブル。
父は物理学者のグレゴリー・キャンブルという英国人で、原爆の情報を東側に流した人物。
その後、この父娘は東ドイツで暮らしていた。
しかし、肺ガンにかかり余命いくばくもないグレゴリー・キャンブルは祖国にもどりたがっている。
そこで、なにか手はないかと、娘のマーガレットは検問を越えてやってきたのだ。

が、ヴォーンは、マーガレットの話を信じない。
マーガレットは、キリスト教徒の地下組織〈復活連盟〉の神父、ショーン・コンリンと面会。
東ドイツにもどり、コンリン神父が救出にくるのを待つことに。

しかし、ヴォーンが見抜いたように、マーガレットは嘘をついていた。
東ベルリンに潜入したコンリン神父は、東ドイツの国家保安省第2局第5部長、ヘルムート・クラインによ捕まってしまう。

なぜ、東ドイツ側はこんな手間をかけてコンリン神父を捕まえたのか。
コンリン神父と復活連盟の活動は有名で、コンリン神父はノーベル平和賞の受賞候補に推薦されたほど。
このコンリン神父を洗脳する。
そして、公開裁判で、コンリン神父が西側の工作員であったことを自白させる。
折しも、来月はケネディ大統領がベルリンに訪問する予定。
成功すれば、西側に打撃をあたえることができる。

コンリン神父は、ノイシュタット城に収容され、アメリカ人の心理学者ハリイ・ヴァン・ビューレンにより洗脳をほどこされる。

一方、父がすでに死んだと知らされたマーガレットは、自分がただクラインに利用されていたと知る。
コンリン神父が捕まった現場から逃げだし、川に落ち、流され、ノイシュタット村で暮らすルーテル派のフランシスコ修道会に拾われる。
マーガレットは、フランシスコ修道会会士コンラートに、これまでのいきさつを説明する。

コンラート会士は西ベルリンにおもむき、ヴォーンと接触。
2人は、憲法保護局ベルリン支局長、ブルーノ・トイゼンと会う。
トイゼンは、ナチス・ドイツ時代、カナリス提督のもとで仕事をしていた人物。

コンリン神父捕まるの報が世界を駆けめぐる。
バチカンとアメリカがうごく。

バチカンでうごいたのは、コンリン神父と同じ、イエズス会士のバチェリ神父。
現在、サン・ロベルト・ベラルミノ神学校の歴史研究部長の職にある。
ノイシュタット村に閉鎖された教会があることを知ったバチェリ神父は、東ベルリン聖庁のハルトマン神父に連絡をとる。

ホワイトハウスは、スミソニアンで講演していた、チャールズ・バスコウ英文学教授と接触。
バスコウ教授は、戦時中、イギリス軍情報局ではたらいていた。
そのとき、ブルーノ・トイゼンとは敵対関係に。
しかし、今回はともにはたらくことになる。

というわけで、みんなベルリンにあつまってきて作戦会議。
まず、国境警備隊を買収。
それから、ノイシュタット村のフランシスコ修道会から穴を掘る。
穴は、ノイシュタット城の排水溝までつなげ、そこからコンリン神父を救出する。

バチェリ神父の指示により、ハルトマン神父は閉鎖されている教会を調査するという名目でノイシュタット村へ。
そして、ハルトマン神父の監視役に化けたヴォーンも、同じくノイシュタット村に潜入する――。

本書が面白くない理由のひとつは、バチカンやらホワイトハウスやらがでてきてスケールが大きくなったさいの手際の悪さにある。
登場人物ばかり増えて、応接にいとまがない。
読者はすっかり置いてきぼりだ。

また、洗脳の話というのは、面白くするのがむつかしい。
けっきょく、コンリン神父が洗脳に耐えましたという話になるのだが。

本書には、ハルトマン神父が排水溝にはまった配管工を助けだす場面がある。
雨で水位が上がっている水のなかに飛びこんで、半トンものブロックをどかす。
ヒギンズ作品によくでてくる場面だ。

また、閉鎖された教会におもむいたハルトマンは、村びとに乞われるままに告解を聞く。
さらに、英雄的行為をおこなう。

これもまた、「サンタマリア特命隊」などで見慣れた場面。
マンネリだって面白ければいい。
でも、そうはなっていないので残念だ。

もう一冊。
ハリー・パタースン名義で書かれた作品。
「デリンジャー」(ハリー・パタースン/著 小林理子/訳 東京創元社 1990)
原題は“Dillinger”
原書の刊行は、1983年。

デリンジャーは、実在したアメリカの名高い銀行強盗。
本書は1934年、インディアナ州のレイク・カウンティ刑務所から脱獄したデリンジャーの、空白期間をえがいたもの。
メキシコに逃亡したデリンジャーは鉱山や原住民をめぐる争いに巻きこまれた――というのがその内容。

というわけで、この作品は「サンタマリア特命隊」の焼き直しのよう。
やはり、いまひとつといわざるを得ない作品だった。



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脱出航路

「脱出航路」(ジャック・ヒギンズ/著 佐和誠/訳 早川書房 1982)

原題は、“Storm Warning”
原書の刊行は、1976年。

原題の意味は、「暴風警報」。
こちらのほうが、本書の内容によくあっている。
でも、それは読んだからいえるので、本のタイトルとしては、「暴風警報」では意味不明か。

本書の刊行は、「鷲が舞い降りた」の翌年。
よく、ヒギンズの代表作として、「鷲が舞い降りた」とともに並び称される。
たしかに、その評価はうなずける。
後半の盛り上がりぶりは尋常ではない。

では、ストーリー。
3人称多視点。
舞台は、第2次大戦中の1944年。
本書は、だいたい3つの筋からなる。
そのひとつは、ブラジルから大西洋を渡りドイツへ向かう、老帆船ドイッチェラントの物語だ。

ドイツのUボートにより、自国の商船が犠牲になったことから、1942年8月、ブラジルはドイツに宣戦布告をした。
そのため、沿岸に漂着したドイツ海軍将兵をどう扱うかという問題が、ブラジル側に生じた。
費用のかかる捕虜収容所などは論外。
そこで、ブラジル政府は、ドイツ領事補が提出する同胞についての月例報告に目を通すことで満足することにした。

ベルガ―船長も、このブラジル式の待遇を受けたひとり。
もともと、合衆国燃料補給船ジョージ・グラントに偽装した潜水艦補給船エッセンの艦長だったが、3度目の補給任務のさい、イギリスの潜水艦に魚雷をぶちこまれる。
泳いでいるところを、ポルトガルの貨物船に拾われ、リオでブラジル官憲に引き渡された。

《この国には一種の仮釈放ともいえるシステムがあって、敵性国人だろうと職を見つけられればその恩恵に浴することができる》

というわけで、沿岸交易をいとなむドイツ系商会の所有する帆船ドイッチェラントの船長となり、リオとベレンを往復する日々を送ることに。

このドイッチェラント号を拝借し、故国ドイツをめざす。
そのさい、ドイッチェラント号はスウェーデン国籍のグドリド・アンデルセン号に偽装。
本物は、イェーテボリに停泊しているはず。
スウェーデン国旗や、偽の航海日誌、偽の救命道具も用意。
スウェーデンのパスポートも用意した。

これら偽装の事務を担当したのが、ブラジル駐在ドイツ領事補オットー・プラガー。
プラガーとその妻は、ベルガ―船長がほしがっていた無線機をもって、ドイッチェラント号に乗船。
すでに65歳のプラガーにこの航海は無理だと、ベルガ―船長はさとすが、プラガーは聞き入れない。

さらに、プラガーは5人の尼僧を連れてくる。
彼女たちは、僻地で伝道につとめていたが、ブラジル内務省の政策変更のため伝道所をたたむことになった。
また、イタリア戦線に派遣されたブラジル部隊の被害状況が報じられたら、どんな目に遭うかわからない。
結局、ベルガ―船長は、プラガーと修道女のシスター・アンゲラに押し切られる。
乗船を認めることに。

かくして、乗組員22名、プラス尼僧5名とプラガー夫妻の計29名が乗船。
船の積み荷は底荷(バラスト)だけなので、なんとか乗れる。
乗組員22名のうち10名も、同胞のあいだでくじを引いて決めた者たち。
みんな帰国したいのだ。

1944年8月26日午前2時。
8000キロはなれた故国に向け、ドイッチェラント号はベレンを出港する――。

このまま、ドイッチェラント号の航海について語られるのかと思ったら、そうではない。
次は、ハリー・ジェーゴという人物に焦点が当たる。

ジェーゴは25歳のアメリカ海軍大尉。
エール大を中途退学して海軍に入隊。
第2艦隊に編入され、ソロモン沖海戦に投じられる。
その後、アメリカ特務機関員を拾うようにというOSS(戦略事務局。CIAの前身)の要望で、急遽イングランドへ。
ノルマンディー上陸作戦にも参加。
ライム湾に待機するアメリカ軍上陸用舟艇が、Eボートに襲われたさい、応戦し、負傷。
退院後、生き残りの部下9名とともに、イギリス海軍の好意で貸与された砲艇で、ヘブリーズ諸島の各施設をまわる、郵便集配業務に従事することに。

ジェーゴが訪れたファーダ島は、撃沈されたUボートの乗組員が流れ着くようなところ。
また、この島には、負傷して隠遁生活を送っているケアリー・リープ海軍少将がいる。
現役復帰を願っているリープ閣下は、休暇をとってロンドンにいくというジェーゴに、2通の手紙を託す。
1通は、ロンドンで医者をしている姪のジャネット・マンロー宛て。
もう1通は、アイゼンハワー将軍宛て。

空襲下のロンドンで、ジャネットは大忙し。
またしても、「サンタマリア特命隊」同様、赤ん坊をとりあげるシーンがある。
そんななか、アイゼンハワー将軍がジャネットに会いにくる。
リープに用意できるポストは、〈補給兵員統合本部〉の副長官しかない。
前線にでたがっているリープにとって、この返事は望むところではないだろう。
そこで、ジャネットはアイゼンハワー将軍の意向をうけ、ファーダ島を訪れ、リープをなだめることに。

ジェーゴはジャネットにも手紙を届けにくる。
2人は急速に親しくなる。

3つ目の物語は、Uボートの艦長、ポール・ゲリッケ少佐にまつわるもの。
ゲリッケは、ファルマス湾内に潜入し、機雷を敷設せよとの無茶苦茶な指令をうける。
が、無茶苦茶でも指令は指令。
小船団にくっついて防潜網をくぐり抜け、湾内へ。
機雷をまき終え、退去というとき、一隻のタグボートが機雷に触れて爆発。
戦闘のすえ離脱するが、その途中、司令塔で指揮していたゲリッケは海に投げだされてしまう。
その後、イギリス海軍の魚雷艇に拾われ、訊問されたのち、ロンドンに移送。

ゲリッケは、アメリカ側に引き渡されることになる。
グラスコーまではこばれ、そこから合衆国へ。
同じ列車にはジャネットとジェーゴも乗っている。
列車がグラスコーに着くと、ゲリッケは用足しを口実にしてまんまと脱走。
出発した列車に乗りこみ、機転をきかせ、ジャネットのいるコンパートメントに入りこむ。

が、けっきょく捕まり、ふたたび捕虜の身に。
マレーグまでいき、午後の列車でグラスコーにもどるということになったが、ゲリッケはまたもや脱走。
マレーグに着いたジャネットは、迎えにきたマクロード――島で救命艇の艇長をつとめる偉丈夫――の船でファーゴ島に向かう。
なんと、その船にゲリッケが隠れていた。
ゲリッケは一時、主導権を握ったものの、すぐに逆転。
ファーダ島の留置所に入れられる。

一方、マレーグから自身の船で出発していたジェーゴは、ゲリッケがファーダ島にいるという連絡を受け、身柄を確保するためにファーダ島へ。

また一方、ブラジルを出発したドイッチェラント号――。
イギリスの潜水艦に臨検されたり、見習い尼のロッテと掌帆長のリヒターが恋仲になったり、そのロッテに手をだそうとしたコックが海に蹴り落とされたり、コックがいなくなったために尼僧たちがその代わりをしたり、貨物船と遭遇したり、嵐に翻弄されたりしながら、よろよろと大西洋を横断し、スコットランド沖へ。

というわけで、関係者一同がファーダ島周辺に集結する――。

このころのヒギンズは、まだカットバックの手際がいまひとつだった。
後半に重要な役割を果たす人物に、ドイツ空軍ユンカース爆撃機の機長、ホルスト・ネッカー大尉がいる。
大暴風に遭い、坐礁したドイッチェラント号の周囲を飛び続け、ファーダ島と交信を続ける人物。

ネッカーが登場したのは、ジェーゴの登場と同時。
ジェーゴの砲艇を、ネッカーのユンカースが襲撃するのだ。
だが、それから150ページほど読まないと、ネッカーの次の出番はやってこない。
さすがに、おぼえていられない。

関係者をファーダ島に集結させる手続きも、いささかご都合主義にみえる。
2度脱走に成功し、2度ともジャネットに出会うゲリッケなどは、思わず笑いだしてしまうところだ。

にもかかわらず、後半の盛り上がりは素晴らしい。
全ての欠点を帳消しにする、途方もない盛り上がりぶり。
後期のヒギンズ作品にはない、粘りのある筆致で書かれたクライマックスは、大変な迫力だ。
訳者あとがきを引用すると、「怒涛の寄り身」。
この場面だけで傑作と呼べるだろう。

ところで、本書を読んでいたとき、ヒギンズ作品には、よくハイデッガーの同じ文句が引用されることに気づいた。
正確には、ヒギンズ作品の登場人物が、よくハイデガーの同じ文句を引きあいにだす。
本書ではこういう訳文。

《真に生きる者にとって必要不可欠なこと、それは死と断固対決することである。》

「狐たちの夜」ではこう。

《真に生きるためには決然と死に対決することが必要だ》

使いまわしが好きなヒギンズのことだ.
さがせばまだまだみつかるだろう。


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