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ジャック・ヒギンズ3冊とフォーサイス1冊

忙しい。
が、やっとスタートラインがみえてきた。
あそこまでいけば、少しはましになるはずだ。

というわけで、ろくに更新ができない。
でも、本は読んでいる。
くたびれているときは小説がいいと、読んでいるのは小説ばかり。
前回、ジャック・ヒギンズの「嵐の眼」を読んだら、とても面白かったので、山になっているヒギンズの未読本のなかから3冊読んだ。
読んだ順番にならべてみよう。

「地獄の季節」(早川書房 1994)
「地獄の群集」(河出書房新社 1987)
「狐たちの夜」(早川書房 1993)

「地獄の季節」は、犯罪小説というか、冒険小説というか。
主人公は、サラ・タルボット。
ボストンの名家の出てで、ヴェトナム反戦運動にのめりこみ、下院議員選に落選し、いまではウォール・ストリートで名の知れた投資家になっている女性。
夫はフォークランドで戦死。
夫の連れ子エリックを非常に愛していたが、エリックは麻薬組織に惨殺されてしまう。
遺体には大量のヘロインがつめこまれ、密輸に利用された形跡が。
サラは、同じように妹を殺された元SASのイーガンの助力を得、麻薬組織を追う…。

エリックの死をサラに知らせたのは、サラの義理の従弟で、SASの中佐であるヴィリアーズ。
ヴィリアーズは「嵐の眼」にも登場した、対テロ組織DI5グループ・フォアの指揮官、ファーガスンの部下でもある。
なぜ、対テロ組織がでてくるかというと、麻薬がテロ組織の資金源となっているから。
さらに、イーガンはヴィリアーズの元部下。
それから、イーガンにはギャングの伯父さんがいて、この伯父さんと一緒にイーガンとサラは麻薬組織を追いかける。

これは、あまりにも都合のいい人物配置だろうか。
でも、登場人物たちが逡巡せずにつながっていくのが冒険小説の魅力だ。
それから、この小説には、ジェイゴという魅力的な悪役が登場する。
冒頭からサラを監視し、次第にサラに肩入れしていく。
苦境にあるサラを何度も助けたりする。
このジェイゴを雇っているのがスミスという人物で、この人物の正体は最後まで明かされない。

登場人物が多いせいか、いちいち場面をこしらえるせいか、最初こそだぶだぶしているけれど、だんだん加速度的に面白くなってくる。
とくに後半は忙しい。
シシリーにいったり、アイルランドにいったり。
情報を得るのにコンピュータの天才をもちだしてくるところは、ちょっとずるいけれど、まあ大目にみよう。

解説は、伴野朗。
「低迷を続けたヒギンズ復活の狼煙」と書いている。
でも、これくらい面白かったらもう以前の作品とくらべなくていいだろう。

つぎは、「地獄の群集」
恋人のためにクウェートに渡り、せっせと金を送金していた土木技師のマシュー。
ところが、ロンドンに戻ってみると、女も金も消えている。
やけになったマシューは、あちこち飲み歩いたすえ泥酔。
目をさますと、女の死体があり、マシューは濡れ衣を着せられて…。

このあと、刑務所に入れられたマシューは脱獄し、真犯人を追う。
正直にいって、この作品はだいぶ落ちる。
話が一本調子だし、悪役もずいぶん陳腐。
原書の刊行はは1962年。
まだまだ、腕前をきたえているころだったのか。

「狐たちの夜」は第二次大戦秘話もの。
プロローグとエピローグがあり、そこではジャージイ島を訪れた〈私〉が語り手。
〈私〉は、ハーヴァード大学の哲学助教授で、ハリイ・マーティノウという人物の伝記と取り組んでいる。
ハリイは、道徳哲学の分野ですぐれた業績を残した人物なのだが、第二次大戦後の動静がまったくわからない。
その人物の遺体が、エセックス州の湿地から発見。
そして、遺体はハリイが一度も訪れていないはずのジャージイ島にはこばれ、埋葬されるという。
なぜか。
〈私〉は、遺体をジャージイ島にはこんだ張本人、セアラ・ドレイトンという女性に話を聞く――。

本編は3人称多視点に。
時は1944年。
ノルマンディ上陸作戦の演習中、ドイツのEボートの攻撃を受け、揚陸艦2隻が沈没。
その船には、いつどこに上陸するかという、作戦の具体的な内容を知っている将校が何人か乗船していた。
上層部は、かれらが浜に打ち上げられることを望むが、そのうちのひとり、ケルソゥ大佐は、当時ドイツ軍の占領下にあったジャージイ島に漂着。
たまたま、ドイツ軍に屋敷を接収されたヘレンという女主人がケルソゥを発見し、手をつくして保護。
ケルソゥは足を怪我しており、歩ける状態ではない。

ここで、ようやく(4分の1がすぎたあたり)ハリイ・マーティノウが登場。
母親がドイツ人だったため、ドイツ語は完璧。
この物語がはじまる直前に、ユダヤ人の恋人の復讐のためにリヨンのゲシュタポ隊長を殺害し、からくも脱出している。
上層部はハリイをヒットラーの特使に化けさせて、ジャージイ島に潜入させる作戦を立てる。
しかし、ハリイひとりでは、ヘレンや、ほかのジャージイ島でケルソゥを保護している面々に身の証が立てられない。
そこで、ヘレンの親戚である、当時19歳のセアラ・ドレイトンに白羽の矢が立てられる。
セアラを売春婦に仕立て上げ、ハリイはセアラとともにジャージイ島に潜入する。

じつは、この小説にはもうひとつの筋がある。
それは、ヒトラー暗殺にまつわるものだ。
ヒトラー暗殺の謀議に参加するため、ロンメル元帥は替え玉を仕立てる。
ユダヤ人の芸人で、たまたま手に入れた身分証をつかって身元を偽り、ドイツ軍に入隊したハイニ・バウムという男。
余興でロンメルの物真似をしたバウムに、ロンメル自身が目をつけ、何度かの訓練ののち、視察の名目でバウムをジャージイ島へむかわせる。
かくして、ジャージイ島では、ナチに化けたイギリス人と、ロンメルに化けたユダヤ人が姿をみせることになる。

替え玉をひとりではなく、2人登場させるというトリッキーな趣向。
やはり、前半はゆっくりだけれど、後半はペースが上がり、手に汗握る面白さ。

解説は典厩五郎。
ここでも、「鷲は舞い降りた」とくらべられているのだから、代表作を書いた作家は気の毒だ。
興味深いのは、解説は古びているのに、本編はそうなっていないこと。
本書の賞味期限は、まだまだ切れそうにない。

冒険小説づいて、未読のフォーサイスも1冊読んでみた。
「シェパード」(角川書店 1982)
訳は、篠原慎。

「ブラック・レター」
「殺人完了」
「シェパード」
という、3作が収録された、薄手の短編集。
どれも面白いけれど、ここでは「シェパード」をとりあげたい。

シェパードというのは、空軍用語で、誘導してくれる救援機のことだ。
主人公は、戦闘機のパイロットである〈私〉。
〈私〉は、クリスマス休暇を実家でとるため、ドイツから英国のレイクンヒース基地へ飛び立つ。
が、北海上空にでたあたりで異変が。
電気系統が故障し、コンパスも無線もつかえなくなる。
夜間なので視認もできず、しかも霧があらわれる。
航空時間は66分の予定だったので、燃料は80分しか積んでいない。
〈私〉は上官にいわれたことを思い出し、英国の早期警戒レーダーに捕捉されるべく、三角形のえがいて飛ぶのだが、救援機のあらわれる気配はない。
死を覚悟した〈私〉だったが、そこへ第二次大戦で活躍した戦闘爆撃機、モスキートがあらわれる。

イギリスの小説でクリスマスといえば、幽霊がでてくるに決まっている。
だから、当然この小説も、ゴースト・ストーリーになっている。
フォーサイスの作品はどれもそうだけれど、ディティールに厚みがある。
本作も、ディティールをはぶいたら、なにも残らないような話だ。

それから、途中でオチが割れてしまっても、かまわず最後まで同じ密度で語り続ける。
話をはしょるということをしない。
なんだか、だれも話を聞いていないにもかかわらず、話をやめないひとを目にしているようだ。

もちろん、これはこの作品が、だれも聞かないような話だといっているのではない。
むしろ、最後まで語り続ける意志に感動しているのだ。
ディティールで読ませ、そしてとにかく語り続ける点、ロアルド・ダールの作品にも似たようなところがある。
フォーサイスとダールが似ているのか、英国のエンターテインメントの短篇はみんな似たような傾向があるのか。
これから考えてみよう。


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ひとりでいいんです

「ひとりでいいんです」(凡人会・加藤周一 講談社 2011)
副題は「加藤周一の遺した言葉」。
本書は、凡人会というあつまりで、加藤周一が語った話をまとめたもの。
第1章だけ、加藤さんがひとりでしゃべり、残りは凡人会のひとたちとの対話からなっている。

講演録というには、話し手と聞き手の距離がとても近いのでしっくりこない。
でも、座談会というほどゆるんではいない。
一冊ぶん、この距離感が維持されるというのが、まず凄い。

全篇話しことばなので、読みやすい。
話題は多岐に渡る。
戦争、憲法、歴史、文学、小説、演劇、映画、絵画…。
抽象的なことはいわない。
どんな話題でも具体に即して語ることに舌を巻く。

非常に面白い本なので、たくさんメモをとりたいのだけれど、その時間がないのはなんとも残念。
ひとつだけ、中野重治の国会演説の話だけメモしておこう。

加藤さんによると、税金の使いかたの対照の著しい例は、イギリスの王室と日本の皇室への国民の反応のちがいだという。
英国では女王が旅行すると、それを監視している。
贅沢な旅行ではなく、もっと安くしろという批判が必ずある。
でも、日本の場合、そういう批判は皆無に近い。
ここで、加藤さんは唯一の例として、中野重治をもちだす。

「中野さんは詩人・作家ですが、戦後、共産党から参院選に立候補して議員になった。そのなかに、おそらく日本の議会で最初で最後と思われる質問があった。それは、皇室の費用が高すぎるというものでした」

「政府の答弁は、それは皇室の品格を保つのに必要だという。そしたら、中野さんは、人間の品位とは何か、何によって備わるのか、それはみずから額に汗して、働いたお金で暮らすことである、それによって人間の品位は備わる。人が働いたお金……税金ですね、それで暮らすのは人間の品位を高めるのではなくて、低める、だからこれ以上の皇室への出費は皇室の品位を低める……」

これはなかなか凄い演説でしょうと、加藤さんはいっているけれど、たしかにすごい。
このあと、「それは国会議事録か何かで見られるのでしょうか」と質問が続き、加藤さんは「中野重治国会演説集」(八雲出版 1949)で読んだとこたえている。
また、全集には23巻におさめられているそう。
これは、本にするとき編集者が調べたのだろう。

でも、世の中はすごく便利になった。
いまでは国会図書館のHPで「国会会議録検索システム」をつかえば、該当の演説はすぐみつかる。
ついでなので、該当(と思われる)箇所を引用してみよう。

「品位を保つという問題があるが、自身の持つておる金を使つて生活して行くことが品位を保つ人間的方法であつて、これを懐ろに入れて置いたまま他から金を貰つて更にこれの増額を図つてやつて行こうというのは、品位を保つゆえんではない。こう我々は考ええる。(「それは共産党だけの考い方だ」と呼ぶ者あり)」(参議院本会議 昭和23年6月29日)

議事録はヤジまで記録しているとは。
今回検索してみるまで知らなかった。

「脱線特急」(カール・ホフマン 日経ナショナルジオグラフィック社 2011)
著者はトラベルライター。

本書は、せっせと仕事をしていたら、いつのまにか家庭に居場所がなくなってしまった著者が、妻と3人の子どもを残して世界一周の旅にでた…というエセー。
訳者いわく、「中年の危機をこじらせた男のヤケクソひとり旅」。
どのへんがヤケクソかというと、わざわざその国のもっとも危険な交通機関をえらんで乗るところ。
南アメリカからアフリカへ、インドから用もないのにアフガニスタンへ、そしてインドネシア、中国、モンゴルなどをめぐる。
悪路を走るバスに何時間も揺られ、すし詰めの船や電車に乗る。
飛行機はいつ出発するのかまるでわからないし、寝ていると足を滑らせたゴキブリが顔に落ちてくることも。

低開発国にいくと、アメリカ人というだけで一目置かれる。
著者はそのことに自覚的だ。
それから、現地のひとがなぜそんな危険な交通機関をつかっているかという理由も、著者は肌身で知る。
とにかくお金がないのでそれ以外の選択肢は存在しないのだ。

でも、本書のいちばんの読みどころは、著者が「中年の危機をこじらせ」ているところだろう。
おかげで、世界一周をしているのにもかかわらず、なんだか内省的で、味わい深い読みものになっている。
似たタイプの旅行記として、椎名誠の「パタゴニア」(集英社 1994)を思い出した。

それから。
じつにひさしぶりに、ジャック・ヒギンズを読んだ。
ヒギンズは冒険小説の巨匠。
代表作は、なんといっても「鷲は舞い降りた」(早川書房 1980)だろう。
この小説を読んだときは、あまりの面白さに驚嘆した。
さっそく友人に貸したところ、その本は友人のあいだで回し読みされた。
うっかり徹夜をしてしまったり、駅を降りそこねる者まであらわれる始末だった。

で、今回読んだのは、「嵐の眼」(早川書房 1994)。
1991年、湾岸戦争のさなかロンドンで首相官邸に迫撃砲弾が撃ちこまれるというテロがあった。
本書は、実際に起こったこの事件に材を得ている。

テロの発注者はサダム・フセイン。
意向を受けてうごくのは、アラブの富豪。
仲介をするのが、KGBの保守派。
そして、実際にテロを実行するのが、本書の悪役であるショーン・ディロン。
元IRAメンバーだが、過激な行動を組織から疎んじられ、現在は金で雇われるテロリストをしている。
変装の名人で、逮捕されたことは一度もない。

このショーン・ディロンを追うのが、主人公マーティン・ブロスナン。
現在、ソルボンヌ大学の教授をしているが、もとはアメリカの裕福な家の出で、IRAに参加していたこともある。
「テロリストに薔薇を」(早川書房 1984)にも主人公として登場しているらしいけれど、こちらは未読。
ディロンとは旧知の間柄で、あるなりゆきから国防情報部とともにディロンを追うことに。

とにかく話のテンポがいいし、ひと筆書きのような人物描写も堂に入ったもの。
人物の出し入れも無駄がなく、なにより旧友同士の対決という筋立てにはぐっとくる。
ヒギンズ作品は未読のものが山のようにあるから、また読んでみよう。

「倍額保険」(A・A・フェア 早川書房 1978)も読んだ。
探偵所長のバーサと、その助手のドナルド・ラムのシリーズ。
A・A・フェアはご存知の通り、E・S・ガードナーの別名。
ガードナーの本とは相性が悪くて1冊読み通せたことがない。
今回、はじめて最後まで読むことができた。

なぜ、ガードナーの本が読めないのか。
訳者の田中小実昌さんが書いているように、ガードナーの文章は「すっきり、シンプル」だ。
でも、あんまりシンプルすぎで、読んだはしから忘れてしまう。
どこまで読んでいたのかさっぱりわからなくなってしまう。
読み通せなかったのはそのせいだと思う。
現に、読み終わったばかりの本書も、なにが書いてあったのかまるで思い出せないでいる…。


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Made by hand、タブッキ、メビウス、日本語人称詞、ドライヴ

忙しくて、更新もままならない。
4月を甘くみていた。
なんという忙しさだ。

それでも本は読んでいる。
とりあえず、最近読んで面白かった本のメモを少し。

「Made by hand」(マーク・フラウエンフェルダー オライリー・ジャパン 2011)
これは、なんでも自分でやってみようと思ったアメリカ人のエセー集。
工作し、園芸し、改造し、飼育する。
ギターをつくり、木からスプーンを削りだし、エスプレッソマシンを改造し、野菜を育て、ミツバチを飼い、ニワトリをコヨーテから守るために金網を張り、小屋をつくる。
話が具体的でとても面白いし、失敗を恐れずチャレンジする著者の姿には勇気をあたえられる。
こういう本を読んで思うのは、日本のエセーとのちがいだ。
なにがちがうのかうまくいえないのだけれど、明らかに日本のものとちがう。
最初から日本語で書かれたこんなエセーがあったら読んでみたいのだけれど、それは無理な相談だろうか。

新聞をごくたままにしか読まない。
なのに訃報に出会う。
アントニオ・タブッキが亡くなったと知り、とても驚いた。
さっそく、手元にあった未読の本を2冊読む。
「逆さまゲーム」(白水社 1998)
「黒い天使」(青土社 1998)

両方とも短編集。
タブッキの作風は茫漠としてして、そこにあるなにかを読者に察せさせるというもの。
いわば、読者に花をもたせる作風だ。
茫漠としたところに、素敵な抒情味があり、その抒情がひとを打つ。

ただ、今回読んだ2冊は、あまりにもそこはかとなさすぎて、読んでもいまひとつぴんとこなかった。
特に「黒い天使」はそう。
「逆さまゲーム」のほうがわかりやすくて面白かった。

一番好きなタブッキ作品はなんだろう。
どうも「島とクジラと女をめぐる断片」(青土社 2009)に落ち着きそうだ。
まだ、読んでいないタブッキの本が一冊部屋にあるはずなのだけれどみつけられないでいる。

偉大なフランスのコミック・アーティスト、メビウスも亡くなった。
さっそく「エデナの世界」(TOブックス 2011)を読んでみる。
日本のマンガと文法がちがうから、非常に静かな印象を受ける。
聖書のエデンの園の逸話を下敷きにしたSFで、夢から夢へ、どんどん入りこみ、さまよっていく展開が面白い。
最初のほうで、突然場ちがいにシトロエンがでてきて、シュールだなあと思っていたら、この作品はまずシトロエンの販促物として描かれたのだそう。

「日本語人称詞の不思議」(三輪正 法律文化社 2010)
こんな本も読んだ。
タイトル通り、日本語の人称についての本。
日本語は1人称や2人称がたくさんある。
1人称や2人称がたくさんあることが、日本語での対話の可能性を低めているのではないかというのが、その内容。
興味深い内容だったのだけれど、読み終える前に図書館に返す日がきてしまった。

ところで、このブログでは引用以外1人称をつかったことがない。
つかっても、「こっち」とか「自分」とかくらいのはずだ。
日本語ではこういうことができる。

日本語では1人称をつかわずに文章が書けるということを、最初に教えてくれたのは、開高健の「耳の物語」(新潮社)だ。
これは1人称抜きで書いた自伝小説。
この本を読んだとき、自分にも文章が書けるかもしれないなあと思った。
それから、「こっち」という言葉をつかう吉田健一の文章を知り、日本語は1人称なしでいいと、いよいよ確信を深めることに。
それから、文芸評論家の佐伯彰一は、「当方」という言葉をつかっていたかと思う。
1人称をつかわないひとたちは、ほかにもまだいるかもしれない。

あと、「ドライブ」(ジェイムズ・サリス 早川書房 2006)が映画化されたというので、みにいった。
もうすぐ上映終了というころだったせいか、お客は10人くらい。
原作は読んだけれど、ストーリーはいいぐあいに忘れていたので楽しめた。
ストーリーは忘れていたけれど、印象は残っていて、もっと貧乏な感じの話かと思っていたらそうではない。
これは、こちらの記憶ちがいか、映画化にあたり少しリッチにしたのか。
原作同様、映画もシンプルなつくりで、緊張感があり、よくできていると思った。
驚いたのが、銃声の音。
最近の映画の音響にはびっくりさせられる。


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小松左京自伝

「小松左京自伝」(小松左京 日本経済新聞出版社 2008)

副題は「実存を求めて」
表紙には、本やビデオテープでいっぱいの大きな机の前に、ガウンを着て座っている小松左京の写真が。
背後は、これまた本でいっぱいの書棚。
写真の下には、「日本経済新聞社出版社」
「社」がひとつ多い。
これはまちがいだろうか。

タイトル通り、本書は自伝。
まず、最初の4分の1ほどに、「人生を語る」として、日本経済新聞の「私の履歴書」に連載された自伝が載せられている。
その後、「自作を語る」として、小松左京が70歳をすぎてから道楽としてはじめたという同人誌「小松左京マガジン」に掲載された、作品についてのインタビューが載せられている。
さらに、親友だった高橋和巳について語った「特別編」があり、資料編として主要作品のあらすじがあり、年譜と索引がある。

中心になっているのは、「自作を語る」。
聞き手をつとめているのは、小松左京研究会のかたがた。
このインタビューは素晴らしい。
小松左京の、映像作品や評論やエセーやイベントといった多岐にわたる仕事について、よく話を聞いている。
膨大な作品(短篇だけで約480作あるそう)をよく読んで、つねに全体像を念頭におきながら、個々の作品についての創作譚を聞き出している。
こんな風にインタビューされるなんて、小松左京は幸せな作家だ。

さて、まずありがたいのは、作品群をいくつかの系列に腑分けしてくれていること。
タイムスリップやタイムパラドックスものといった時間SFがある。
ポリティカルフィクションがある。
歴史小説があり、女シリーズと呼ばれる作品群がある。
社会批評(諷刺)系があり、ホラーがある。
小松左京初心者にとって、この腑分けは助かる。

そして、どの作品にもSFの手法なり発想がつかわれている。
SFの手法というのは、ものごとを相対化するということ。
このあたりの機微について、小松左京はこう明言している。

「文学は科学でさえ相対化する。だからサイエンスもフィクションにできるんだ」

初期の小松左京は、じつに多くの作品をものしている。
その背後には、大変な勉強があった。
「先生は当時(「復活の日」のころ)どんな風に勉強されていたんですか?」という質問に、こうこたえている。

「アメリカ文化センターに『サイエンティフィック・アメリカン』とか、『ナショナル・ジオグラフィック』があったんだ」

多いときは週に5日通っていたという。
「コピー機がないころだから、とにかく書き写しとくんだよ」と、こともなげにいっているけれど、これはすごいことだ。

小松左京といえば、一番有名な作品は「日本沈没」だろう。
とにかく、爆発的に売れた。
おかげでたっぷり税金をとられたとこぼしている。

「それまで年数百万円で暮らしていたのに、もし収入が何千万円になったら課税率65%。増刷を止めてくれって電話したら、そんなわけにはいきませんと(笑)」

当時の高額納税者公示制度によると、1973年の収入が1億2千万円で、文壇部門の5位。

「銀行がこれだけの収入があったということを1回通帳に載せましょうと。今は最高税率50%だから、孫に見せてやろうと思ってるんだ。日本はこんないい国になったんだよって(笑)」

お孫さんの話は、ジュブナイル作品についてのインタビューのときにもでてくる。
ジュブナイルにも目を配っているところが、このインタビューのえらいところだ。

「孫娘が「おじいちゃまのSFが小学校の図書館にありました」って言ってきたんだけど、それが「宇宙人のしゅくだい」で、あのときはうれしかったな。やっぱりちゃんと書いておかないといけないと思ったよ」

「女シリーズ」は小松作品の系譜のなかでも異色作だ。
でも、インタビューによれば、この作品もSFの発想がある。

「SF作家は異世界というものに常に興味を持つだろ。同じ人間だと思っていたら、宇宙人だったとか海底人だったとかね。異世界のルポのつもりで書いて…」

当時は大衆作家のあいだにSF作家は女が書けんという噂があり、それならタイトルに「女」とつけたのを書いてやろうとも思ったとのこと。
こういう負けん気も、インタビューのはしばしにあらわれる。
それにしても、「女シリーズ」は異世界ルポだったとは。
このインタビューを読むまで気がつかなかった。

ノンフィクションの系列からは、「小松左京の大震災’95」をとりあげよう。
小松左京は、阪神・淡路大震災に遭遇したとき、非常なショックを受けたともらしている。

「僕はあれだけ地震や地殻変動を調べてて、阪神間にあんな地震が来るとは思ってなかったんだ。関西で歴史に残っているのは文禄4年(1596年)の伏見大地震。だから京都のはずれに断層があるのは知ってたけど、阪神間にあんなのがあるとは。つまり僕の勉強が足らんという、そのショックだな」

「日本沈没」の作者にして、この言ありというところだろうか。
ほかの作家との交友についても少しだけ記述がある。
最初の長篇、「日本アパッチ族」は、開高健の「日本三文オペラ」から着想を得たという説があるけれど、そうではなかったらしい。
「日本三文オペラ」のことはぜんぜん知らずに作品を書き、その後開高健と出会って意気投合したという。

ほかにも、本書はインタビュー集らしく、雑学が満載。
京都の色街についての説明があったり、平安三部作では、ウナギの蒲焼についてのうんちくがあったり。

さて。
本書の後半には、小松左京の主要作品のあらすじ(と初出年)が、五十音順に収録されている。
作成は、小松左京研究会。
あらすじをつくるというのは、苦労が多いわりに、だれからもほめられることがない。
だから、ここでは大いにほめちぎっておきたい。
この主要作品のあらすじは大労作だ。
以下、なにが主要作品と目されたのか、タイトルだけ引用してみよう。

「青い宇宙の冒険」(ジュブナイル長篇)
「青ひげと鬼」
「秋の女」
「明日泥棒」(長篇)
「雨と、風と、夕映えの彼方へ」
「アメリカの壁」
「あやつり心中」
「飢えた宇宙(そら)」
「飢えなかった男」
「ヴォミーサ」
「エスパイ」(長篇)
「お糸」
「お召し」
「終りなき負債」
「糸遊(かげろう)」
「紙か髪か」
「神への長い道」
「牙の時代」
「極冠作戦」
「虚無回廊」(長篇)
「空中都市008」(ジュブナイル連作長篇)
「くだんのはは」
「曇り空の下で」
「劇場」
「結晶星団」
「氷の下の暗い顔」
「五月の晴れた日に」
「御先祖様万歳」
「こちらニッポン…」(長篇)
「コップ一杯の戦争」
「子供たちの旅」
「ゴルディアスの結び目」
「鷺娘」
「さよならジュピター」(長篇)
「四月の十四日間」
「時空道中膝栗毛」
「首都消失」(長篇)
「召集令状」
「人類裁判」
「第二日本国誕生」
「題未定」
「旅する女」
「地球になった男」
「地には平和を」
「継ぐのは誰か?」(長篇)
「哲学者の小径」
「天神山縁糸苧環(てんじんやまおにしのおだまき)」
「共喰い」
「長い部屋」
「流れる女」
「南海太閤記」
「日本アパッチ族」(長篇)
「日本沈没」(長篇)
「眠りと旅と夢」
「HAPPY BIRTHDAY TO……」
「果てしなき流れの果に」(長篇)
「華やかな兵器」
「BS6005に何が起こったか」
「HE・BEA計画」
「復活の日」(長篇)
「保護鳥」
「岬にて」
「見知らぬ明日(長篇)
「模型の時代」
「やぶれかぶれ青春記」(ジュブナイル長篇)
「夜が明けたら」
「とりなおし(リテイク)」

(長篇)と書いたもの以外は、みな短篇。
これをみると、自分は小松左京作品の裏街道を読んできたんだなという思う。
個人的に好きな「イッヒッヒ作戦」が落とされているのが悲しい。
「南海太閤記」よりも、完成度は上だと思うのだけれど。

あらすじには、作品についての情報やエピソードもおさめられている。
「HE・BEA計画」は、短編集「神への長い道」にあつめられる小松未来史の劈頭作品だとのこと。
そんなこととはつゆ知らずに作品を読んでいた。
ちなみに、「神への長い道」は小松左京が自身の作品のなかで一番好きな作品だそう。

それから、「御先祖様万歳」は、発表当時、村の所在を問い合わせる電話が編集部に殺到したというエピソードがあるとのこと。

ところで、本書には知りたかったことが2つ、書いていなかった。
それについて記しておこう。
ひとつは、小松左京が作品の完成度というものをどう考えていたのかということ。
小松作品には尻切れトンボが多い。
問題提起をしたり、アイデアを披露したりすればそれでいいと思っていたのだろうか。
それにしては、とんでもない完成度の作品もある。
今回の作品はこれくらいと、毎回落としどころを変えていたのかも。

小松左京は1982年頃から、中・短篇を書かなくなる。
このことについて、インタビューで、「載せてくれる媒体がないんだ。編集者も代わったし」とこたえ、さらにこう続けている。

「やっぱり「話の特集」が元気だったころは、僕もある意味で自由度が高かったんだね。宇宙と宇宙がセックスするなんていうのはもう書けないだろう」

これに応じて、聞き手は、「要するに小松先生もSFもエスタブリッシュされちゃったんですね」と、こたえている。
エスタブリッシュされるというのは、なんだかつまらないことだ。

小松作品の完成度がいまひとつなのは、作者が登場人物のことを忘れて、考察をまくしたててしまうからだ。
こういうスタイルをとるなら、いっそ最初から評論なり科学エセーなりを書いてしまえばいいのにと読んでいるこちらは思うけれど、ご本人はそんなこと念頭にも浮かばなかったらしい。
中学生のころ「神曲」に心酔した小松左京は、文学を大切に思い、なによりお話が好きだった。
このインタビューのあちこちにも、お話にたいする愛着が語られている。
「僕は本当は「お話」が好きなんだ」と述べる姿は、ちょっと感動的だ。

完成度がいまひとつでも、小松作品はみんな面白く読める。
文体がエネルギッシュで、つい読まされてしまうからだ。
小松左京の文体はどこからきたのか。
これが知りたかった2つ目のこと。

このことについて、言及はなにもない。
ただ、小松左京はSF作家として認知されるまで、漫才の台本書きをしていた。
4年間で、200字詰め1万2千枚を書いたというから、すさまじい。
小松左京の文体は、ひょっとしたらこの漫才の台本書きで鍛えられたのではないかと思うのだけれど、どんなものだろう。

小松左京作品をひとことでいうと、「SFという手法をつかって戦争をえがいた」ということになると思う。
インタビューを読んでいても、戦争の影が落ちていない作品はない。
敗戦のとき14歳だった小松左京は従軍経験をもたなかった。
だから、本人いわく「戦争について書く資格がない」

しかし、SFという、なんでも相対化できる手法をつかえば、戦争について書く資格が得られる。
そして、小松左京は戦争を端緒に、政治歴史文明人類宇宙生命のほか諸もろについて旺盛に書き記した。
だしぬけだけれど、インタビューを読んでいて印象に残るのは、ときおりみせるナイーブな発言だ。
たとえば、高橋和巳と開高健について、「これだけは言っておくわ」と威儀を正してこう述べる。

「高橋和巳と開高健な。美の体系が生き残る理由とか、宇宙における人間の存在根拠の話をすると、彼らの目の輝きがぱっと変わるんだ。「それ大事だけど、君はどう思う」「うん。僕も考えるから、一緒に考えろよ」って言ってるうちに、二人とも死んでしまった」

すべての作品の核には、このナイーブさがひそんでいるようにみえる。
そして、その核は、14歳の少年の姿をしているのだろう。


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えほんのせかいこどものせかい

「えほんのせかいこどものせかい」(松岡享子 日本エディタースクール出版部 1987)

この本は、この版の前に東京子ども図書館から小さな冊子として出版されている。
手元にあるのは、赤い表紙のこの冊子のほう。
松岡享子さんについては説明不要だろう。
児童図書館のえらいひとだ。

冒頭に記された文章によれば、本書は「こどものとも」の折りこみ付録に、1968年4月から1969年3月まで「私の教室」と題して連載されたものを、まとめたもの。
子どもにはなぜ絵本が必要で、どうやって手渡したらよいのか。
このことについて書いてある。
そして、この問いについては、この小冊子の内容に尽きているといっていいと思う。

さて、この本にも巻末に、「この本の中にでてくる書名」として、紹介された本がまとめられている。
以下に引用してみよう。

「ゆきむすめ」(内田莉莎子/再話 佐藤忠良/絵 福音館書店 1980)
「三びきのやぎのがらがらどん」(マーシャ・ブラウン/絵 せたていじ/訳 福音館書店 1979)
「かわ」(加古里子/作 福音館書店 1966)
「クマのプーさん」(A.A.ミルン/作 石井桃子/訳 岩波書店 2000)
「おおきなかぶ」(A.トルストイ/再話 内田莉莎子/訳 佐藤忠良/絵 福音館書店 1995)
「シナの五にんきょうだい」(クレール・H・ビショップ/文 クルト・ヴィーゼ/絵 かわもとさぶろう/訳 瑞雲舎 1995)
「ゆかいなホーマーくん」(ロバート・マックロスキー/作 石井桃子/訳 岩波書店 2000)
「かもさんおとおり」(ロバート・マックロスキー/作 わたなべしげお/訳 福音館書店 1980)
「ねむりひめ」(グリム兄弟/原作 フェリクス・ホフマン/絵 せたていじ/訳 福音館書店 1978)
「もりのなか」(マリー・ホール・エッツ/作 まさきるりこ/訳 福音館書店 1980)
「ひとまねこざる」(H.A.レイ/作 光吉夏弥/訳 岩波書店 1998)
「ちいさいおうち」(バージニア・リー・バートン/作 石井桃子/訳 岩波書店 1979)
「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」(バージニア・リー・バートン/作 むらおかはなこ/訳 福音館書店 1961)
「ちびくろさんぼ」(ヘレン・バンナーマン/文 フランク・ドビアス/絵 光吉夏弥/訳 瑞雲舎 2005)
「百まんびきのねこ」(ワンダ・ガアグ/文 いしいももこ/訳 福音館書店 1980)
「ぞうのババール」(ジャン・ド・ブリュノフ/作 やがわすみこ/訳 評論社 1976)
「おかあさんだいすき」(マージョリー・フラック/作 光吉夏弥/訳 岩波書店 1983)
「はなのすきなうし」(マンロー・リーフ/文 ロバート・ローソン/絵 光吉夏弥/訳 1954)
「きかんしゃやえもん」(阿川弘之/文 岡部冬彦/絵 岩波書店 1959)
「ぐりとぐら」(中川李枝子/文 山脇百合子/絵 福音館書店 2007)
「わたしとあそんで」(マリー・ホール・エッツ/作 よだじゅんいち/訳 福音館書店 1980)
「はたらきもののじょせつしゃけいてぃー」(バージニア・リー・バートン/作 石井桃子/訳 福音館書店 1987)
「だるまちゃんとてんぐちゃん」(加古里子/作 福音館書店 1967)
「しょうぼうじどうしゃじぷた」(渡辺茂男/文 山本忠敬/絵 福音館書店 2007)
「のろまなローラー」(小出正吾/作 山本忠敬/絵 福音館書店 2007)

以上。
いずれも名高い古典ばかり。
出版年は、手に入る版を優先した。
また、本書では「ちびくろさんぼ」の版元は岩波だし、「ぞうのババール」は岩波から出版された「ぞうさんババール」がとりあげられているけれど、これも手に入る版元を優先。

さて、以下は余談。
本書のなかで、松岡さんは、「絵本のよしあしを見きわめる目を養うために、“満25才以上”の絵本を読みましょう」と記している。
この意見に、異論のあるひとはいないだろう。

でも、この文章が書かれてから、すでに40余年がすぎている。
そのあいだに、たくさんの絵本が出版され、なかには満25才をすぎたものもあると思うけれど、はたしてそれらの絵本はすべからく自動的によい絵本になるのだろうか。
そんなことはないだろう。
もちろん、いつもていねいなことばづかいをする松岡さんは、こんな乱暴な断言はしていない。

「1冊の絵本が、25年間――ということは、5つの子どもが、同じ年の子どもの親になるくらいの年月――つづけて出版され、子どもたちからかわらぬ愛着をもって読まれたとすれば、それは、古典となるべき可能性を多分にもっているということがいえましょう」

出版され続け、子どもたちに愛着をもって読まれ続けていている絵本は、よい絵本の有力な条件ではある。
でも、それは絶対の条件ではない。
そうであれば、「ノンタン」シリーズ(偕成社)だって、よい絵本として紹介されているだろう。
でも、いまのところ「ノンタン」を紹介しているガイド本はみたことがない。
とすると、よい絵本とはなんなのか。

よい絵本というのは、たしかにあると思う。
でも、それを、子どもに人気があるといった理由だけではなくて――だから、児童書のガイド本はしばしば「子どものとりあい」になるのだが――納得できるようにことばにするのはとてもむつかしいことだ。



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怪奇製造人

「怪奇製造人」(城昌幸 国書刊行会 1993)

まだ、推理小説が探偵小説だったころの作品をあつめた「探偵クラブ」シリーズが何冊かうちにあって、いつか読もうと枕元にかさねてもう何年にもなる。
いいかげん読まなくてはと、罪悪感をおぼえてきたので、まず城昌幸の作品をまとめたこの本から読むことに。

城昌幸はショート・ミステリの名手。
収録作は以下。

「脱走人に絡む話」
「怪奇製造人」
「その暴風雨」
「シャンプオオル氏事件の顛末」
「都会の神秘」
「神ぞ知食す」
「殺人淫楽」
「夜の街」
「ヂャマイカ氏の実験」
「吸血鬼」
「光彩ある絶望」
「死人の手紙」
「人花」
「不思議」
「復活の霊液」
「面白い話」
「猟奇商人」
「幻想唐艸」
「まぼろし」
「スタイリスト」
「道化役」
「その夜」
「その家」
「絶壁」
「猟銃」
「波の音」
「ママゴト」
「古い長持」
「異教の夜」
「大いなる者の戯れ」

解説は長山靖生「月光詩人の彷徨」。

長山靖生さんの手際のよい解説によれば、もともと城昌幸は、城左門という名の詩人だったそう。
城昌幸は「若さま侍捕物手帖」シリーズの作者としても名高いけれど、本人の自覚では最後まで詩人だったようだ。
また、雑誌「宝石」を19年間支え続けたひとでもあった。
雑誌を19年間発行しつづけるというのは、実に大変なことだ。

作品の特徴として、まず思い浮かぶのが倦怠感と抒情感。
探偵小説の仲間入りをしてはいるけれど、探偵役が謎を解いたりはしない。
たいてい舞台は都会で、夜で、憂いに満ちていて、そこで犯罪や奇妙な運命が語られる。
ひとこと、「近代」といったらいいだろうか。

解説からの孫引きになるけれど、江戸川乱歩は城昌幸についてこう述べたそう。

「彼は人生の怪奇を宝石のように拾い歩く詩人である」

「(城昌幸は)日本探偵小説壇のもっとも特異な存在である。彼は探偵小説を一つも書いていない。その親戚筋にあたる怪奇と幻想の文学だけで、我々の仲間入りをしているのだといっていい。視野は狭いけれども、そこの風景は網膜に残像を結んだまま、いつまでも消えやらぬ不思議な力を持っている」

乱歩は、城昌幸の作風をジョン・コリアに似ていると評したとのこと。
また、長山靖生さんはユルスナールの短篇に似ているといっている。
でも、個人的には、前半はビーストン、後半はシュペルヴィエルに似ていると思うのだけれど、どうだろう。
そういえば、シュペルヴィエルも詩人だった。

乱歩がいうように、城昌幸の作品の幅はせまい。
なので、面白いといえば、どれも面白い。
そのなかでも、印象に残ったものを簡単にメモしていこう。

「脱走人に絡む話」
3章に分かれた作品。
まず、劇場で、秘密結社から脱走した男と、結社員との対決がある。
つぎは、ある室内で喜劇がおこなわれていると教えられた通行人の話。
最後は、脱走人の客と対話する〈私〉の話。

どの章にもそれぞれオチがついていて、全部そろうと、秘密結社と脱走人との暗闘がほのかに浮かび上がるという仕掛け。
諦念に満ちた雰囲気も魅力的な一篇だ。

「怪奇製造人」
古本屋で奇妙な日記をみつけた〈私〉。
読んでいくと、日記の書き手が、夜寝ている最中、だれかに狙われていることがわかり
…。

2重になったオチの切れ味が素晴らしい。
本書のなかから一篇選べといわれたら、これだろうか。

「その暴風雨(あらし)」
嵐に翻弄される定期航路の商船。
ブリッジの一等運転手のもとへ、ひとりの船客があらわれる。
「船が沈むようなことはないでしょうか」という船客を、運転手はなだめて帰らせるのだが…。

嵐の海の凄まじさが印象的な一篇。
解説によれば、「脱走人…」は大正14年7月号の「探偵文芸」に、「怪奇製造人」と「その暴風雨」は、大正14年9月号の「新青年」に発表されたとのこと。
才気がほとばしっている観がある。

「復活の霊液」
時は中世。
錬金術の大家センジボギウス先生は、臨終のきわ、弟子に悪魔の霊液の話をする。
その液体をつかえば、死人はたちまち二十歳の姿でよみがえる。
自分が死んだらこの霊液をつかってくれと、先生はいい残して亡くなるのだが、弟子はそれを自分のふところに入れ…。

人間の欲望のために、悪魔の霊液は決してつかわれないという、皮肉の効いた一篇。
この作品の初出は昭和10年。
初期のころとはちがい、地に足が着き、そのぶん皮肉が勝つようになったといえるだろうか。

「面白い話」
面白い話はないかと〈私〉が、友人の長谷部といいあっていると、酒場のバーテンダー〈船長〉が、佐田という男の話をしてくれる。
佐田は、日本人の父とフランス人の母のあいだに生まれた人物。
宝石業をいとなむ父が、さる男の計略によって破産、自殺に追いこまれ、佐田は復讐を決意。
恋人に別れを告げ、仇を探す旅にでるのだが…。

「怪奇製造人」と同様、オチが2重になっている。
渡辺温の「嘘」という作品を思いださせる。

「絶壁」
絶壁のてっぺんに、ノートルダム寺院にいるような〈変化〉と呼ばれる怪物がいる。
はるか下では、苔のようなゴミのようなひとびとが、絶壁をよじ登ろうとしている。
だれかが絶壁を登ってこないかと、変化は莫大な年月をただ待ち続けている…。

これは、小説というより散文詩。
一読、忘れがたい。

「古い長持」
お婆さんがお爺さんに、古い長持について問いかける。
嫁にきたときに、あの長持だけは決して開けてはいけないといわれたが、なにが入っているのか。
しかし、お爺さんは「開けてはいけない」というばかり。
お爺さんの秘密が隠されているにちがいない、とお婆さんが長持を開けると…。

3ページの小品。
デ・ラ・メアの「なぞ物語」を思い出した。

各作品についてのメモは以上。
あと、視点について思いついたことがあるので書いておきたい。
「絶壁」が象徴的だけれど、城昌幸作品の視点は非常に高い。
はるかな高みから、下界を見下ろしているという感じがする。

この視点のとりかたは、探偵役が事件を一望のもとにおさめるのとよく似ている。
道具立てを別とすれば、城昌幸作品が探偵小説の仲間入りをするのは、この視点のとりかたにあると思う。
城昌幸作品のほとんどは1人称だけれど、そのことも視点の高さを強調しているように思える。

すべてを眼下におさめるというのは、退屈を生むだろう。
なにしろ、なにもかもわかってしまっているのだから。
そして、なにもかもわかっているということは、なにをしても意味はないということにつながるにちがいない。
皮肉や退廃や幻想や怪奇が生まれるのは、おそらくここからだ。
「復活の霊液」のような、ほとんどナンセンス小説すれすれの怪奇小説が生まれるゆえんは、ここにあると思う。

さらに、城昌幸作品の短さも説明がつく。
長篇では、わかったりわからなかったりすをくり返さないといけない。
なにもかもわかっているというこの視点の高さは、長篇では維持できないだろう。

とまあ、なんでも視点のせいにしてしまったけれど、じっさいは逆かもしれない。
ある雰囲気をもつ作品を書こうとすると、自動的に1人称になり、視点は高くなり、作品は短くなっただけなのかもしれない。

戦前の探偵小説を読むと、なんだかみんな似たような印象をおぼえる。
印象が似るのは、視点のとりかたが似ているためだとすると、城昌幸が凝縮してみせてくれたような、はるか高みから見下ろす視点が、みんな好きだったにちがいない。

…話が大きく、かつ乱暴になってきた。
要は、城昌幸作品が探偵小説の仲間になるのは、この視点のとりかたが関係しているのではないかといいたかったのだ。
ただ、この視点のとりかたは、この作品集の特徴なのか、城昌幸自身の特徴なのか、あるいは時代なのか、よくわからない。
それを知るためには、「若さま侍捕物手帖」を読んでみなくては。


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ニンジャ・ピラニア・ガリレオ

「ニンジャ・ピラニア・ガリレオ」(グレッグ・ライティック・スミス ポプラ社 2007)

訳は、小田島則子・小田島恒志。

まず、タイトルが変てこで興味を引く。
ジャンル分けすれば、児童文学。
あるいは、ヤングアダルト小説。
主人公は、イーライとショーヘイという男の子と、ホノリアという女の子。
3人とも、シカゴのペシュティゴ校に通う7年生(中学2年生)だ。

ストーリーの紹介のまえに、主人公たちの説明をしよう。
イーライのお父さんは物理学者。
お母さんは、コンサートツアーで世界をまわるソプラノ歌手。
5人兄弟の末っ子で、長男のヨハン・クリストフはケンブリッジ大学のポスドクになったところ。
ほかの兄弟たちは、陸軍士官学校に入ったり、テキサス大学にいったり、ハワイ大学にいったり、政府の仕事について家族と会わなくなったり。

当のイーライは、完璧さにこだわる優等生。
ショーヘイは、イーライのこだわりを「強迫観念的執着心」と呼んで、こんな風にいう。

「去年チェス部に入ったときだって、図書館からありとあらゆるチェスに関する本を借りてきて、兄貴のヨハン・アンブローシャスとネットで次から次へとゲームをしたあげく、昔のロシアの何とかって人の名前がついてる攻撃を迎え撃つ最良の手についてマーチニック先生と言いあいになって、部をやめることになった」

ホノリアのお母さんは昆虫学者。
ホノリアも、昆虫や生物が大好き。
「出エジプト記」で一番好きなのは、イナゴの大発生のところ。
それから、学校の生徒法廷で公認弁護士をしている。

ショーヘイは日系アメリカ人。
アイルランド系の両親の養子で、お養父さんは弁護士。
最近、両親による日本文化推奨運動に辟易している。
スシばかりつくったり、イケバナをしたり、息子が瞑想できるように枯山水をつくったりするから。

というわけで、3人はいいところの子ども。
3人が通うペシュティゴ校も、親のほとんどが弁護士という、いいところの子がいく学校だ。
さて、こんな主人公たちは一体どんな出来事に出会うのか。

冒頭、イーライはお父さんからサイエンス・フェアに参加するようにいわれる。
息子を参加させて、自分は審査員を逃れようという魂胆。
で、イーライは、以前長兄がやった実験をもう一度やることに。
兄がした実験に確証をあたえるという名分だけれど、用は手抜き。

科学好きのホノリアは、サイエンス・フェアに大変な情熱を抱いている。
今回の実験は、「ピラニアをバナナ好きにすることはできるか」。
ホノリアには、生徒法廷では検察側に立ち、サイエンス・フェアでは3年連続優勝という実績をもつ、ゴリアテというあだ名のライバルがいる。
ホノリアにいわせると、「消費者目線の実験ばかり」するやつ。
どうしても、ゴリアテには勝ちたい。

ショーヘイはいいやつだが、いいかげんでお調子者なので、実験という点になると2人からの信用は落ちる。
でも、「音楽が植物にあたえる影響」についてという、イーライの実験に混ぜてもらうことに。

サイエンス・フェアの審査委員長は、必要以上に厳格なイーデン先生。
本書ぜんたいを通しての敵役となる、意地の悪い先生だ。

こんな状況に、淡い恋の話がからむ。
イーライは、ホノリアのことが好き。
でも、ホノリアはショーヘイのことが好き。
ホノリアはショーヘイのことをイーライに相談するし、ショーヘイはホノリアに告白しろとイーライをうながす。

以上、みてきたように、本書の設定はなかなか密度があるのだけれど、これを手際よく読者に呑みこませるのに、語り口が大いにものをいっている。
語り口は、1人称多視点。
主人公の3人が、一人称でそれぞれ独語する。

さて、サイエンス・フェアが前半の山場だとすると、後半の山場は生徒法廷。
いろいろあって、イーライが被告人になってしまうのだ。
生徒法廷の結果によっては退学もありうる。
これもまたいろいろあって、仲が険悪になってしまったホノリアとショーヘイも、イーライのために助力する。

この生徒法廷の場面が読み応えがある。
否定命題を証明することはできない。
音楽が植物の成長に影響をあたえないという証明はできない。
でも、原告には、「影響をあたえる」ことを証明する義務がある。
などなど、事前にホノリアとイーライが打ちあわせ。

そして、裁判。
検察側、弁護側の順番で冒頭陳述。
検察側がイーデン先生を証人に呼び、弁護側が反対尋問。
次に、ショーヘイの証人喚問があり、陪審員たちにより評決――。

児童書でも裁判の手続きをちゃんと書く。
じつにアメリカの小説らしい。
また、サイエンス・フェアといい、生徒法廷といい、いいところの子が通う私立の学校という感じがよくでている。

家族とのちょっとした確執があり、友情はためされ、恋愛によって振り回される。
ヤングアダルト小説として、設定も、展開も、読みやすさも申し分がない。
難をいうと、読みやすさを優先したためか、ぜんたいにコクが薄いところだろうか。
ちょっとさっぱりしすぎている気がする。

あと、本書はなかなかにペダンティックだ。
度がすぎたペダンティックさは、ユーモアにつながるものだけれど、このペダンティックさを面白いと思ってもらえるかどうか。
このあたりが、勝負の分かれ目だろうか。


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親子で楽しむこどもの本

「本を紹介する本」というのは、世の中にたくさんある。
それらの本は、どんな本を紹介しているのか。
書名だけでも抜き出したら面白いぞ、と先日宮崎駿監督の「本へのとびら」についてメモをとったときに思いついて、今回やってみることにした。
でもまあ、面白いぞと思うのは、書名をみているだけで愉快な気持ちになる、ごく限られた幸福なひとたちだけかもしれない。

方針はいつも通り。
完璧を期さない。
調べない。
手元にある本だけを相手にする。
この3点を重視。

で、今回はこの本。
「親子で楽しむこどもの本」(谷川澄雄/編著 にっけん教育出版社 1996)
タイトルどおり、児童書についてのガイド本。
著者も出版社も聞いたことがない。
1996年に出版された本なのに、紹介している本の画像がひとつもない。
こういう、素性のわからない本のほうが、本の選びかたがオーソドックスな気がするけれど、どんなものだろう。
内容は、章ごとにテーマをもうけ、それに見あった本を紹介するというもの。
目次から、章立てと書名を引用してみよう。

自立する心
「はけたよはけたよ」(かんざわとしこ/文 にしまきかやこ/絵 偕成社 1979)
「ぐりとぐら」(中川李枝子/文 大村百合子/絵 福音館書店 1980)
「くまの子ウーフ」(神沢利子/作 井上洋介/絵 ポプラ社 1979)
「目をさませトラゴロウ」(小沢正/作 井上洋介/絵 理論社 1979)
「ちびくろ・さんぼ」(ヘレン・バンナーマン/文 フランク・ドビアス/絵 光吉夏弥/訳 1979)

冒険だいすき
「いたずらきかんしゃちゅうちゅう」(バージニア・リー・バートン/作 むらおかはなこ/訳 福音館書店 1961)
「ぞうのホートンたまごをかえす」(ドクター=スース/作 しらきしげる/訳 偕成社 1985)
「エルマーのぼうけん」(ルース・スタイルス・ガネット/作 ルース・クリスマン・ガネット/絵 わたなべしげお/訳 福音館書店 1989)
「おしいれのぼうけん」(ふるたたるひ/作 たばたせいいち/絵 童心社 1980)

平和の尊さ
「トビウオのぼうやはびょうきです」(いぬいとみこ/文 津田櫓冬/絵 金の星社 1982)
「一つの花」(今西祐行/作 中尾彰/絵 あすなろ書房 1985)
「チロヌップのきつね」(たかはしひろゆき/作 金の星社 1972)
「かたあしだちょうのエルフ」(おのきがく/作 ポプラ社 1970)
「かわいそうなぞう」(つちやゆきお/文 たけべもといちろう/絵 金の星社 1970)

深い愛の心
「おかあさんだいすき」(マージョリー・フラック/作 光吉夏弥/訳 岩波書店 1980)
「ねむりひめ」(グリム兄弟/原作 フェリクス・ホフマン/絵 せたていじ/訳 福音館書店 1978)
「幸福の王子」(オスカー・ワイルド/原作 小野忠男/文 井上ゆかり/絵 にっけん教育出版社 1994)
「マッチうりの女の子」(ハンス・クリスチャン・アンデルセン/作 スベン・オットー/絵 乾侑美子/訳 童話屋 1994)
「ごんぎつね」(新美南吉/作 深沢省三/絵 大日本図書 1991)

民話を楽しむ
「やまんばのにしき」(まつたにみよこ/文 せがわやすお/絵 ポプラ社 1967)
「三びきのやぎのがらがらどん」(マーシャ・ブラウン/絵 せたていじ/訳 福音館書店 1979)
「三びきのこぶた」(瀬田貞二/訳 山田三郎/絵 福音館書店 1967)

以上。
このあと付録として「絵本36選」がついている。
年長・年中・年少と分け、それぞれ12冊ずつが選ばれている。
これもタイトルを引いておこう。

年長児向け
「まちんと」(松谷みよ子/文 司修/絵 偕成社 1983)
「てんぷくちふく」(渋谷勲/文 松本修一/絵 ほるぷ出版 1991)
「八郎」(斎藤隆介/文 滝平二郎/絵 福音館書店 1980)
「花さき山」(斎藤隆介/文 滝平二郎/絵 岩崎書店 1978)
「ねずみのでんしゃ」(山下明生/文 岩村和朗/絵 ひさかたチャイルド 1982)
「いのちのろうそく」(渋谷勲/文 前川かずお/絵 フレーベル館 1991)
「おこんじょうるり」(さねとうあきら/作 井上洋介/絵 理論社 1974)
「かさこじぞう」(いわさききょうこ/文 あらいごろう/絵 ポプラ社 1978)
「びゅんびゅんごまがまわったら」(宮川ひろ/作 林明子/絵 童心社 1982)
「ぼうさまになったからす」(松谷みよ子/文 司修/絵 偕成社 1989)
「きかんしゃやえもん」(阿川弘之/文 岡部冬彦/絵 岩波書店 1959)
「チムとゆうかんなせんちょうさん」(エドワード・アーディゾーニ/作 せたていじ/訳 福音館書店 1994)

年中児向け
「14ひきのあさごはん」(いわむらかずお/作 童心社 1983)
「どろんこハリー」(ジーン・ジオン/文 マーガレット・ブロイ・グレアム/絵 わたなべしげお/訳 福音館書店 1964)
「おばけのバーバパパ」(アネット=チゾン/作 タラス=テイラー/作 やましたはるお/訳 偕成社 1989)
「わたしのぼうし」(さのようこ/作 ポプラ社 1994)
「ゆきのひ」(佐々木潔/作 講談社 1980)
「白雪姫」(高津美保子/文 山本容子/絵 ほるぷ出版 1992)
「かにむかし」(木下順二/文 清水崑/絵 岩波書店 1959)
「おおきなかぶ」(A.トルストイ/再話 内田莉莎子/訳 佐藤忠良/絵 1995)
「ちいさなちいさな駅長さんの話」(いぬいとみこ/文 津田櫓冬/絵 新日本出版社 1973)
「やぎのゆきちゃん」(桜井信夫/文 田沢梨枝子/絵 草土文化 1979)
「ちからたろう」(いまえよしとも/文 たしませいぞう/絵 ポプラ社 1977)
「ひとまねこざる」(H.A.レイ/文,絵 光吉夏弥/訳 岩波書店 1980)

年少児向け
「いないいないばあ」(松谷みよ子/文 瀬川康男/絵 童心社 1990)
「おっぱい」(みやにしたつや/作 鈴木出版 1990)
「タンタンのぼうし」(いわむらかずお/作 偕成社 1993)
「スイミー」(レオ・レオニ/作 谷川俊太郎/訳 好学社 1979)
「しろくまちゃんのほっとけーき」(わかやまけん/絵 森比左志/文 わだよしおみ/文 こぐま社 1980)
「おばけとモモちゃん」(松谷みよ子/文 中谷千代子/絵 講談社 1980)
「ルラルさんのにわ」(いとうひろし/作 ほるぷ出版 1990)
「てぶくろ」(エウゲーニー・M・ラチョフ/作 うちだりさこ/訳 福音館書店 1995)
「おばあちゃん」(大森真貴乃/作 ほるぷ出版 1987)
「ちいさいパピーちゃん パピーちゃん絵本」(メイト)
「かばくん」(岸田衿子/文 中谷千代子/絵 福音館書店 1966)
「えんにち」(五十嵐豊子/作 福音館書店 1994)

「ちいさいパピーちゃん」は正体不明。
出版年はかなり適当に記した。
ほとんどの本がいまでも手に入ることに驚く。
もちろん、版はちがったりするけれど。

児童書は、長く読み継がれていく本はずっと残るけれど、そうでない本は一瞬で消えてしまう。
ほんとうに厳しい世界だ。


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ヘンリー・シュガーのわくわくする話

「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」(ロアルド・ダール 評論社 1980)

訳は小野章。
収録作は以下。

「動物と話した少年」
「ヒッチ=ハイカー」
「次の物語の覚え書」
「ミルデンホールの宝物」
「白鳥」
「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」
「一休み」
「お茶の子さいさい」

この本には、こんな献辞がついている。

「この本を、わたしの息子と三人の娘を含めた、もう子どもとはいえないまでも、まだ大人になりきっていない時期の、長く困難な変身の道を通りぬけようとしているすべての若い人々に、愛情と共感をもって捧げる」

世の中には、これは本当に児童書なのかと首をひねるような児童書がある。
たとえば、「灰色の畑と緑の畑」(ウルズラ・ヴェルフェル 岩波書店 2004)などがそう。

では、それらの児童書は、じつは大人向きの本なのかというと、そうともいえない。
というのも、それらの本には、新鮮でどこか震えているようなところがあって、大人向けの本ほどの安定感がないからだ。

本書もまた、子ども向けでも大人向けでもない作品をあつめた短編集。
あちこちからあつめてきたような雑多な感じのする本。
作品の傾向もスタイルもいろいろ。
では、ひとつひとつみていこう。

「動物と話した少年」
1人称。
ジャマイカで休暇をすごそうとした〈わたし〉。
浜に、巨大なウミガメが打ち上げられているのにでくわす。
ホテルの客がウミガメをとり囲み、スープにしたり、甲羅を装飾にする話をしているのを耳にして、〈わたし〉は不快をおぼえる。
この生きものは、途方もない威厳をそなえているようにみえるのに。

客たちが、ウミガメをホテルまで引きずっていこうとすると、突然男の子が飛び出してきて、叫ぶ。
「お願いだから話してあげて!」
男の子がウミガメにしがみついて頑張るので、客たちはどうすることもできない。
すると、男の子の父親があらわれて、ウミガメを買うという。
ウミガメはホテルの所有物ということになっているので、ホテルの支配人からカメを買う。
さらに、このカメは記録破りだといって喜んでいる漁師たちにも金を払う。
カメはぶじ海にもどる。

が、翌日、ホテルは大騒ぎに。
少年がいなくなってしまったのだ。
八方さがしていると、漁師が沖で、きのうの少年がウミガメの背中に馬乗りになっていたのをみたといって――。

こうやって、スジだけとりだすと他愛もない。
まるで、浦島太郎みたいだ。
でも、ダールには大変な描写力があって、雰囲気をかもしだすのが抜群にうまい。
読んでいると、巨大なウミガメの威厳と、そのカメをただひとり守ろうとする少年の姿が立ち上がってくる。
そして、少年が人間の世界を捨ててしまうラストまで、読んでいて腑に落ちるように書かれている。
ありきたりなぶん、素晴らしい完成度が味わえる作品だ。

「ヒッチ=ハイカー」
〈私〉が、魔法のような指をもったスリを車で拾う話。
描写力だけで書かれたような一編。
ただ、「動物と話した少年」のような、ウミガメと少年といった力強いイメージに欠けているので、いまひとつものたりない。
こちらが読みそこなっているだけかもしれないけれど。

「次の物語の覚え書」
タイトルどおり、次の物語の覚え書。
これによれば、新聞でローマ時代の銀器が発見されたという記事を読んだダールは、現地にいき、発見者であるゴードン・ブッチャーから話を聞いて、この作品を書いたとのこと。
本書では、「ミルデンホールの宝物」と「お茶の子さいさい」の2編がノンフィクションだ。

「ミルデンホールの宝物」
そして、銀器発見の本編。
ゴードン・ブッチャーは38歳。
自前のトラクターで、契約した他人の畠をたがやしたり、収穫したりするのが仕事。
妻と息子と2人の娘がいる。

ある1月、ゴードンは畠をたがやす仕事を請け負い、それにとりかかった。
その土地は、ロルフという農夫が所有している土地で、ロルフはフォードという、ゴードンよりも大がかりに農作業を請け負っている男に仕事を頼んだ。
だが、フォードは忙しく、それでフォードはゴードンに仕事を下請けしてもらったのだった。

さて、砂糖大根を植えるというロルフのために、ゴードンが深く畠をたがやしていると、スキがなにかに引っかかった。
その場を掘ってみると、ローマ時代の皿があらわれた。
ゴードンはいやな感じがして、皿をみつけたことをフォードにつたえにいった。
ゴードンは、この皿がひとびとの平安と幸福を破壊するかもしれないと予感したのだ。

しかし、フォードは逆だった。
2人で掘り返してみると、34個ものローマ時代の銀器があらわれた。
ほんとうにローマ時代のものだとしたら、これは大発見。

ところで、英国には地中からでてきた金銀の製品は、すべて国王の所有になるという法律があるのだそう。
そして、報奨金は最初の発見者だけが受けとれる。
もちろん、今回の場合はゴードン。
しかし、フォードは欲のないゴードンをいいくるめ、宝をひとりじめしてしまう――。

その後、ゴードンが銀器をもっていることがどうやって露見したのかについては省略。
けっきょく銀器は、大英博物館に収納されたという。

「白鳥」
15歳の誕生日のプレゼントに、22口径のライフルを買ってもらったアーニイ。
親友のレイモンドと一緒にウサギを射ちにいく。
その途中、ピーター・ワトソンをみつけた2人は、かれをつかまえて小突きまわす。
ピーターは銀行員の息子で、13歳なのにもう最上級のクラスに入っていて生意気だからだ。

2人のいじめかたが凄まじい。
殴って縛り上げたうえ、レールのあいだに寝かせて、列車が通過するに任せたりする。
しかし、やられっぱなしのピーターも、白鳥が撃たれると怒る。
「何てひどいことをするんだ。君たちは無知の大馬鹿もんだ。死んだほうがいいのは、白鳥よりも君たちなんだ」

でも、こんなことをいっても状況はよくならない。
ピーターはさらに凄惨な仕打ちを受けるのだが――。

ずーっとリアリズムできて、最後の最後で突然ファンタジーになる。
最初読んだときはあっけにとられた。
でも、こうでなければならないとも思う。
そう思うのは、痛いたしい場面の描写が効果を発揮しているということだろう。
最後の瞬間ファンタジーになる点、ちょっとエーメの作品を思い出した。

「ヘンリー・シュガーのわくわくする話」
41歳で独身のヘンリー・シュガーは大変なお金持ち。
父親の遺産を受けついだので、本人は生まれてこのかた仕事らしい仕事をしたことがない。

ある夏の週末。
ウィリアム・ウィンダム卿の屋敷ですごすことになったヘンリーは、その屋敷の書斎で濃紺の表紙のノートをみつける。
表紙にはなにも書かれておらず、なかには万年筆でこんなタイトルが。

「目を使わずにものを見ることができる男イムラット・カーン 数度にわたる会見の報告」
書き手は、医学博士ジョン・F・カートライト。
場所はインドのボンベイ。
時は1934年。

こいつは面白そうだとヘンリーは読みはじめる。
さて、その内容。
医学博士カートライトが、ほかの2人の博士とともにお茶を飲んでいると、ひとりのインド人があらわれる。
そのインド人、イムラット・カーンは、自分は目をつかわずにものを見ることができると主張。
なぜ、医者たちのところにきたのかというと宣伝のため。
イムラットは見世物のスターで、医者のところにお墨つきをもらいにきたのだ。

医者たちがどんなに頑張って目をふさいでも、イムラットは目がみえているように振舞う。
ついに医者たちも、イムラットが「目をつかわずにものを見ている」ことを認めざるを得ない。
見世物をみにいったカートライト博士は、公演のあと、イムラットの一代記を聞く。
最初、イムラットはインド最大のヨーガ修行者のひとり、バナジーから空中浮揚の技を教わろうとした。
が、断られ、代わりにバナジーが紹介してくれた別の修行者のもとで修行を積み、ついに目をつかわずにものが見られるようになった…。

この作品の人称は1人称。
〈わたし〉、カートライト、イムラットと語り手が移り変わっていく。
アラビアンナイト風の枠物語といったらいいだろうか。

で、カートライト博士の手記が終わって、話はヘンリーにもどる。
この「目をつかわずにものを見る」技を身につけたらカジノで百戦百勝だぞ、と思ったヘンリーは特訓のすえ、この技を会得。
カジノにいき、自分の力をたしかめる。

いまや、ヘンリーはカジノを破産させることも可能。
このとき、語り手があらわれてこんなことをいいだす。

「さて、これが本当にあった話ではなく、作者のつくり話なら、ここで驚天動地、あっという結末を考えださなければならないところだ」

そして、ヘンリーが亡くなるプロットを披露してからこう続ける。

「しかし、この物語はつくり話ではなく、本当の話だ(…)。本当の話であるから、本当の結末もあるわけだ」

ここから、「わくわくする話」がはじまるのだけれど、これについては省略しよう。
この作品は、カートライト博士の手記や、ヘンリーの特訓の部分がやけに長い。
ぜんたいのバランスを逸していると思うけれど、読んでいる最中はまったく気にならない。
これも語り口のうまさのためだろう。

「一休み」
「どのようにして、わたしは作家になったか」という副題がついている。
つまり、この作品は自身の来歴を語ったエセー。

最初こそ、小説家に必要な資質を箇条書きにしたりしているのだけれど、すぐ自身の昔話になる。
それも、8歳のとき寄宿舎に入れられたところからはじまるのだから、だいぶさかのぼる。
その後の語りかたは、エセーというより、物語といったほうがいい。
何度も同じことをいうけれど、ダールはなにかを漫然と書いて雰囲気をかもしだすのがものすごくうまい。
そのうまさが、またもや十分に発揮されている。

成人したダールは、シェル石油に入社。
それから、ほんとうにいろいろあって、戦争がはじまってからは空軍に参加。
撃墜され、頭蓋骨骨折という大けがをする。

けがが治ると、ワシントンDCに航空武官の補佐官として派遣される。
ワシントンで、海洋冒険小説の書き手として名高い、作家のC・S・フォレスターがダールのまえに登場。
フォレスターは、ダールの話を記事にするためにあらわれたのだった。

で、昼食をとりながらダールが話をすることになったが、うまくいかない。
話はつっかえ気味だし、フォレスターはしばしば鉛筆とナイフをもち変えなければならない。
そこで、ダールは文章を書いてフォレスターに送ろうと提案。
フォレスターは、それを都合のいいときに書き直せばいい。
フォレスターもそれを了承。

ところが、フォレスターは小切手とともに、ダールの文章をそのままダールの名前で掲載することにしたとつたえてくる。
そのときの文章、「お茶の子さいさい」が、ダールのデビュー作に。

このあとも、面白い挿話が記されている。
「グレムリン」という言葉をつくったのは、ダールなのだそう。
もともとは、ダールが書いた子どもむけの物語だった。

「グレムリン一族は英空軍の戦闘機や爆撃機を住まいにしている小人たちで、敵ではないが、戦闘中に受ける銃弾の痕、エンジンの炎上、衝突事故などは、すべてこの小人たちの責任だ」

グレムリン一族の物語は、英空軍や米空軍のあいだに広まり、ひとつの伝説のようになってしまったとのこと。

グレムリンの物語は、ディズニーで映画化されるという話もあったそうだけれど、けっきょく流れてしまった。
しかし、この物語はダールに幸運を呼びよせた。
エリノア・ルーズベルトがホワイトハウスで孫たちにこの物語を読んで聞かせた縁から、ダールは大統領の夕食会や、別荘に招待されるようになったのだ。

このあと本書に収録されている、戦時中の体験を記したダールのデビュー作、「お茶の子さいさい」については省略。
見返しに、銀器の写真が載せられているけれど、これが「ミルデンホールの宝物」なのかもしれない。

ダールの魅力は、一にも二にも語り口だ。
「ひと休み」の、小説家の資質を箇条書きにした箇所で、ダールは読者の心に場面を生き返らせる文章力について、こう書いている。
「これは一種の生まれつきの才能で、その能力があるかないかの、いずれかだ」
まったく、ミもフタもない。
ダールには、この才能がたっぷりあったということなのだろう。
本書は、非常にバラエティに富んだ、ファン向けの一冊。
でも、「白鳥」一作のことを思っても、ファン向けだけにしておくには、少し惜しい一冊だ。



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ポツプコーン

「ポップコーン」(ベン・エルトン 早川書房 1999)

上田公子訳。
英国推理作家協会賞ゴールドダガー賞受賞作。

テーマは、テレビというメディアについて。
その奥に、責任というテーマが隠れていて、しだいにその姿をあらわしてくる。
タイトルの「ポップコーン」とは、作中の説明によれば、「腹に溜まらぬポップな作品」という意味。
登場人物ブルースの作品について言及だけれど、おそらくテレビというメディア全体をほのめかしているのだろう。

さて、ストーリー。
3人称多視点。

冒頭、まるでテレビのチャンネルを次つぎに変えるように、テンポのよいカットバックが続く。
ここで、語られるのは惨事のあとのできごと。

それから、時間がもどって惨事の前日へ。
話の焦点も、ブルース・デラミトリにしぼられる。
ブルース・デラミトリは、30代の映画監督。
暴力的な作風と、反体制的な振る舞いとで人気を博している。

まず、講演での大学教授とのやりとりで、ブルースの人物やその映画の作風をたくみに紹介。
その日は、折しもアカデミー賞の受賞式。
監督賞にノミネートされているブルースは、会場に移動。
このとき、ブルースの映画に影響された若者による犯罪についての挿話がはさまれる。

受賞式で、ブルースは監督賞を受賞。
大いに得意になり、モデル出身の女優ブルック・ダニエルズと出会い、ともに自宅へ──。

このあたりまでが前半。
この前半のあいだに、平行して別のプロットが語られる。
それは、衝動的にひとを殺し続けている、ウェインとスカウトという若いカップルについての物語だ。
自分の映画が若者たちに悪影響をあたえているのではないかという議論を聞かされるたびに、ブルースは閉口するのだけれど、まさにその議論を体現したような人物。

ショッピングモール殺人犯と呼ばれているかれらは、ひと殺しを続けながらブルースの自宅にあらわれる。
そして、ブルースとブルックを制圧下におく。
このあと、ブルースのエージェントであるカールがやってきたり、離婚の慰謝料の話しあいに、ブルースの妻ファラと、娘のヴェルヴェットがあらわれたりして、緊迫感はいやがうえにも増していく。

後半は、ブルースたちはぶじ助かるのかといったサスペンスと、なぜ連続殺人犯カップルはブルースの前にあらわれたのかという謎でぐいぐい読ませる。
巻措くあたわざる面白さだ。

文章は、皮肉に富んだ、批評性の高いもの。
その章の視点的人物──ビュー・キャラクター──と語り手は、一体とはなっていない。
語り手は少しはなれたところにいて、ビュー・キャラクターについても皮肉をつぶやく。

これは、いかにも英国の小説らしい。
登場人物がセリフをひとついうたびに、批評的な文章がはさまれる。
でも、それがうるさくならないのはとても不思議だ。
ひとことでいえば、文章力があるということになるのだろう。
訳者の、上田公子さんの手柄もあるにちがいない。

登場人物はすべて俗物。
というより、こんな文章でえがかれるのだから、登場人物はすべて俗物とならざるえない。
その筆頭は、主人公のブルース。
ブルックは、後半大活躍をするのにあまり書きこまれていないので気の毒だ。
若い2人のギャングでは、スカウトのえがきかたがうまい。
ウェインは常軌を逸しているけれど、スカウトはそうではない。
彼氏のウェインが汚い言葉をつかうのを嫌がるような一面をもっている。
ウェインがブルックに手をだそうとすると、かれに銃をむけたりもする。
おかげで、2人のギャングが一面的になるのを逃れている。

登場人物でひとりだけ内面がえがかれないのはウェインだ。
状況をつくりだす人物の内面をえがかず、一体なにを考えているのかという興味によって物語を駆動させるのは、エンターテインメントの手法のひとつだろう。

それから、この小説は、ときおり脚本のようなスタイルで場面をえがく。
そんなスタイルになるのは、決まって緊迫した場面。
つまり、つよく映像を意識させるつくりになっている。
ひょっとしたら、作者はウェインと同じように、ここで読むのがやめられるかといいたかったのかもしれない。

解説は、いまは亡きジャーナリストの筑紫哲也と、「ガンダム」の監督として名高い富野由悠季。
なんだか不思議な組みあわせだ。

筑紫哲也さんが、セレブリティという言葉の説明をしているのが興味を引く。
当時、この言葉はまだ一般的ではなかったよう。

巻末の文章によれば、この解説は、銀座セゾン劇場で1998年5〜6月に公演されたプログラムより転載されたものだとのこと。
この作品は演劇になったらしい。
後半、ほとんど一室で話が進むから、演劇にするのに向いているのかもしれない。

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