散日拾遺

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昨日・今日・明日

2019-09-22 06:27:15 | 日記

2019年9月22日(日)

 往年のイタリア映画のタイトルではなくて。

 先週は東京府中の教会で、聖書の伝える癒やしの風景について語る機会を与えてもらった。温かい群れに凜とした気が臨み、良い時間に恵まれた。

   

 来週は東京の所属教会で、母が召されて一周年の記念の会をもつ。湿っぽいのは母自身の望まぬところ、94年の生涯を通してどれほどの恵みと祝福を与えられたか、写真をたどり歌を歌ってふりかえる心算。

 はざまの今日はこれから京都に向かい、竹内さん主催の「ふらっと」トークイベントで短く話し、楽器演奏の末座を汚す(!)。はざまといえば折しも秋の彼岸、春分生まれの自分にとっては楕円の二焦点の一方のような時節で、その時に京都という超パワースポットに呼び出されたこと、もとより偶然ではありえない。

 テーマは共感の源について。実際に何をどう話すかは、いつもながら来聴者の顔を見てはじめて定まる。このことは回を追って著しく、先週もその通りだった。今日もそうなることだろう。

 とはいえ踏むべき石々は自分の内にある。田舎の庭を思い出すようだ。

  • 共感というものを、個人対個人の関係のみに矮小化しないこと。人は大きな共感のネットワークの中に生み出されている。
  • そのような共感に反応する回路が、人のからだに備えられていること。
  • 人はそもそも隔てのない共感の状態に産み出され、隔ての壁を築きつつ人となる。成長にそのような性質があるとすれば、共感にあたっては何ほどか退行することが求められる。
  • 退行を許し支えるなかまと場が、共感の源へ道を開く 〜 今日この場のように。
  • 悲しみ 〜 中世日本語において、この言葉は「感動」をも意味した 〜 が、互いのうちに共感を起動する。「喜ぶものとともに喜び、泣くものとともに泣け」(ロマ 12:15)・・・喪失がなかったなら、共感がこれほどの力を示すこともなかっただろう。

 あらまし、こんなふうに流れるだろうか。田舎の門前の小川が思い浮かぶ。

 それぞれ良い日になりますように!

Ω