ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ノイシュヴァンシュタイン城とルートヴィヒ2世 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(9)

2020年06月10日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  ( この項も、紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』を大いに参考にさせていただきました。紅山さんの本は、私の知的好奇心にこたえ、とても面白くてよくわかる。ヨーロッパを旅する人にとって、最良の手引書です。感謝!!)。

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<アルペン街道を走る>

 10月11日、フュッセンのホテルを8時に出発。

 今日の一日も、盛り沢山である。

 まず、この旅のハイライトであるノイシュヴァンシュタイン城を見学。

 そのあと、同じルートヴィヒ2世が建てたリンダーホーフ城へ。

 さらに、オーバーアマガウで、民家の壁画を見る。

 そこから州都ミュンヘンの郊外へと北上し、バイエルン王国の夏の離宮を見学する。

 その後、ミュンヘンに入り、旧市街の中心部を歩く。

 以上、5カ所の見学を終えると、さらに夜の8時からホフブロイショーを見ながらの夕食である。

 毎日、何も考えずにバスに乗り、つまみ食いするように次々と見学しながら移動。盛り沢山で何となく満腹感だけは残る。

 そして、最終日には「まだまだ素敵な企画が沢山ありますから、別のツアーにもご参加くださいね、またお目にかかりましょう」と、まあ旅行社の企画ツアーはこんな感じだ。

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 2日間かけて走ったロマンチック街道は、ヴュルツブルグから南下してバイエルンアルプスの山懐の町フュッセンに到る街道である。アルプスが国境となり、その向こうはオーストリアだ。

 そのロマンチック街道を、レンタカーを借り、おとぎ話のような町を訪ねながらやって来た人も、自転車で走破した若者も、終点のフュッセンまでやって来て、ここで旅は終わりと思う人はいない。

 フュッセンの町からもう少しだけバイエルンアルプスに分け入った山塊に、ひっそりとそびえる白亜の城ノイシュヴァンシュタイン城がある。この美しい城を見たいと思って、人々はロマンチック街道を南下してくる。ロマンチック街道の本当の終点はノイシュヴァンシュタイン城なのだ。

 そして、そこはもう、「ドイツ・アルペン街道」に位置している。

 「アルペン街道」は、ドイツとオーストリアを分ける北東アルプス山脈のドイツ側を、西から東へと、岩塊や、湖や、牧草地や、童話的な小さな町を縫いながら450キロを走る街道で、北から南下してきた「ロマンチック街道」とはフュッセンで交わっている。

 ということで、このツアーの最後の2日間は、「ドイツ・アルペン街道」の旅である。

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<白鳥の騎士とノイシュヴァンシュタイン城>

 フュッセンのホテルを出るとすぐに樹間の上り道となり、バスは少しずつ高度を上げながら、山懐深くへ入っていく。

 すると、牛の群れが草を食む緑の野と、その上に聳える峩々たる岩峰が現れ、その中に白亜の城が見えた。突然で、こういう形でこのお城と出会うとは思わなかった。

  (白亜のノイシュヴァンシュタイン城) 

 城の立地する地は一見緑に覆われた丘に見えるが、ここもまた屹立する岩塊の上である。

 「ノイ」は新しい。「シュヴァーン」は白鳥。「シュタイン」は石(城のこと)。「新白鳥城」である。そう思ってみれば、優雅な白鳥の姿も連想させる城のたたずまいである。

   よく知られるように、新白鳥城はバイエルン王ルートヴィヒ2世が19世紀に建てた城である。

 もちろん彼は、歴史学に興味があって、中世の城をリアルに再現しようとしたわけではない。また、ただ白鳥のように美しい城をつくりたいと思ったのでもないようだ。

 この城は中世の伝説上の英雄・白鳥の騎士ローエングリンの話をイメージして、長い歳月をかけて建設された。王がここに実現したのは中世の「伝説の世界」であり、王自身の「夢の世界」の現実化であった。

 騎士ローエングリンの父は、アーサー王の円卓の騎士の一人である。アーサー王も、円卓の騎士も、中世というより、さらに茫々とした歴史の彼方のケルト神話に登場する伝説上の英雄たちである。

 ローエングリン伝説には沢山のパターンがあるようだが、例えば、白鳥に引かせた小舟に乗って騎士ローエングリンがやって来る。そして、苦境にある姫を助け、悪人を倒して姫と結婚する。ただ、結婚に際して、自分がどこの何者であるかを尋ねないという約束があった。二人の幸福な時間は過ぎ、やがて姫はその約束を破って尋ねる。ローエングリンは自分の素性を明かして、姫の許を去っていく、という話が一般的である。

 日本の民話「夕鶴」(鶴の恩返し)に少し似ている。鶴と白鳥。約束とその破棄と、その結果としての別れ。

 また、フランスの文学者は、日本神話の英雄ヤマトタケルが伊吹山で死んだ後、白鳥となって故郷の大和へ向けて飛び去った話を提示しつつ、遠い昔のユーラシア大陸に共通する「白鳥伝説」の存在を想定した。

 19世紀、ドイツの音楽家ワーグナーは、この伝説を素材としてオペラ『ローエングリン』を作った。(ちなみに、かつて結婚式などでよく演奏された「結婚行進曲」は、ローエングリンと姫との結婚式の時の曲である)。

 青年ルートヴィヒ2世は、ワーグナーを生涯、敬愛した。

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<ロマン主義思潮の高揚と中世へのあこがれ>

 観光バスを降りて、乗り合いの小型バスに乗り換える。

 小型バスは欧米系の観光客らとともに、樹林の急峻な山道を上って行った。

 もうこれ以上、車では行けないという終点で降り、そこからさらに徒歩で山道を分け入る。

 その先に、深い峡谷に架けられた橋があった。マリエン橋である。

 橋はノイシュバンシュタイン城をドローンで眺望するような位置に架けられていた。

 これぞ、ノイシュヴァンシュタイン城!

 カレンダーやガイドブックの写真でお馴染みの新白鳥城の絶景ポイントだ。

 しばらくこの美しい景色に見とれ、写真を撮った。

 城のこちら側は残念ながら修理中のようだ。それでも、黄葉のまじる緑の中に聳える新白鳥城は、まさに一幅の絵である。こうして見ると、この城が岩山の頂に建てられた城であることがよくわかる。ディズニーの映画『シンデレラ姫』のモデルになったと言われる。ディズニーはドイツ系アメリカ人である。

 新白鳥城の向こう、バイエルンアルプス地方の緑の野や湖も素晴らしい。この背景があってこその新白鳥城である。

 雪の日の写真を見たことがある。四季を通じて、美しい。

 復路は、小型バスに乗らず、三々五々、欧米系の観光客らと相前後しながら、樹林の中を歩いて下った。20分も歩くと、自ずから城の入口にたどり着いた。

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 ノイシュバンシュタイン城の入場は、時間を決めた予約制だ。夏の観光シーズンは終わり、すでに秋も深まっているが、この名城を訪れる観光客は絶えることがない。夏には長蛇の列になるという。予約時間になるまで、城の入口のテラスで待った。

 テラスからの眺望も素晴らしく、飽きることがなかった。城内の見学はいいから、ずっとここにいたいと思った。

 先ほど、この城の全景を俯瞰した峡谷に架かるマリエン橋も遠望できた。あのような危うい所に立って、夢中になって写真を撮っていたのだ。

( 城のテラスから望むマリエン橋)

 テラスを移動して、別の方角を眺めると、峰々の間から立ち上る霧が晴れて、遥か下方にホーエンシュヴァーンガウ城が見えた。

 あの城の下あたりから、小型バスに乗り換えて、樹間の山道を上ってきた。

 (ホーエンシュヴァーンガウ城)

 ルートヴィヒ2世の父マクシミリアン2世によって再建された古城だ。

 城内の壁にはローエングリンをはじめとする中世の伝説を題材にした壁画が描かれていて、ルートヴィヒ2世は幼少の頃からそういう絵画を見て、想像の世界の中で育ったらしい。

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』によると、こうした中世の城の再建は、18世紀の後半に始まったロマン主義思潮が背景にあるという。

 ロマン主義については、遠い昔、学生の頃に勉強した。この新しい文芸思潮を明治の日本に紹介したのは北村透谷。ロマン主義を実際の作品として結実させたのは、島崎藤村の詩集「若菜集」、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」。

 「浪漫的」とは、現実でないものにあこがれる心情。

 実利的な現実世界よりも、凛々しい騎士が美しい姫を助ける騎士道物語にあこがれる心情。煩わしいこの地よりも、「山のあなたの空遠く」にあこがれる心情。孤独な放浪の旅にあっては、「兎追ひしあの山、小鮒釣りしかの川」を恋しく思う心情。そういう心情は、忘れられようとする民話や伝説、民俗的な音楽や舞踊、野の花のような工芸品などを発掘し、他民族に支配された地域では滅びかけているわが民族の言語を発掘しようとする取り組みにもなっていった。

 紅山氏は、19世紀になって、ドイツの各地で中世の城を修復したり、歴史的な城の址に新しく中世的な城を造ったりするようになったのは、こういうロマン主義の思潮が背景にあったというのである。

 そういう心情は、ドイツやチェコやハンガリーでは、ドイツ民族、チェコ民族、ハンガリー民族としての民族意識の高揚となり、ドイツでは祖国の統一、チェコやハンガリーでは民族の独立を願う思想へと発展していく。

 ドイツの場合、皇帝といっても今は名ばかりで、中世的な領国支配と都市国家が割拠していたため、近代的な国民国家となったフランスのナポレオンが率いる大軍に攻め入られたとき、ひとたまりもなく制圧されてしまった。

 こうして、ドイツの再統一を求める歴史的なうねりが起きている中、父の死によってわずか18歳のルートヴィヒ2世は王位に就いたのである(在位1864~86)。

 王位に就いても、ルートヴィヒ2世は中世的な空想の世界を夢に見ている若者であった。敬愛するワグナーを招き、惜しげもなく財政的援助を与え続けた。

 そして、人里離れた岩山の上に自分のためだけの城 ── この世のものならぬ中世的な夢の城 ── を造り始めたのである。

 ノイシュバンシュタイン城は着工から8分どおりの完成までに、実に17年間を要した。切り立った断崖の上に城を築くのは大変な難工事で、莫大な工費がかかった。

 にもかかわらず、彼は、王室財政を破綻の淵に追い込むほどの財力を傾けて、その生涯で、新白鳥城を含む3つの城を相次いで建造しようとした。

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<ドイツ統一とルートヴィヒ2世の死>

 入場を待つ間、城の高いテラスから見た牧歌的な景色は素晴らしかった。

 緑の野が広がり、その中を径が行き交い、集落があって、その先に湖と山並みがひらけていた。

 赤い屋根に白壁の小さな教会も見えた。ささやかな塔があって、教会であることがわかる。

 教会の周りに大勢の人々が集まっているのが、芥子粒のように見えた。

 程なく順番が来て、城の中に入り、ガイドの説明を聞きながら、見学した。

 「玉座の大広間」をはじめ、王の日常生活のためのいくつかの部屋。そういう部屋には中世の伝説を題材にした壁画が描かれている。伝説の中に登場するという人工の鍾乳洞の部屋などもあった。

 それだけのものであった。

 外観の美しさに比して、内側の世界は、少々異常で奇妙な世界であった。

 それだけに、テラスから眺めたアルプス山麓の美しい景観が心に残った。

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 若い日のルートヴィヒ2世は、身長が192cmもあり、颯爽とした姿だったという。

 だが、21歳の時に、婚約していた美しい姫との結婚式を直前にして、突如、婚約を破棄してしまった。お似合いだっただけに、臣下たちも民衆も驚いたが、「そんなに急いで結婚しなくても、あんなにカッコいい王様だから、これからいくらでも良縁があるよ」と、みんな鷹揚に受け止め、意に介さなかったらしい。

 しかし、その頃、すでに彼の行動は異常になっていたようだ。

 紅山雪夫氏の『ドイツものしり紀行』によると、死後に遺されていた王の日記から、彼が同性愛者であり、そのことに対する罪の意識と王にあるまじきという自己嫌悪感に苦しんでいたことがわかるという。

 そういうことがあるとすれば、その後の彼の人格の崩壊も納得できるように思う。単に、狂気の王、では痛ましい。

 王は次第にミュンヘンの王宮にも寄り付かなくなり、大事なセレモニーもすっぽかし、アルプス山麓地方に引きこもるようになっていった。

 1866年、ルートヴィヒ2世が20歳の時には、ドイツ統一の主導権をめぐって、プロイセンとオーストリア(ハプスブルグ家)が戦争した(普墺戦争)。バイエルン王国は縁の深かったオーストリアの側に立ったが、プロイセンが完勝した。

 ちなみにオーストリア王妃のエリーザベトはバイエルン王家の出身で、ルートヴィヒより7歳年上。2人は幼馴染で、ルートヴィヒが、生涯を通じてただ一人心を許して話せる人だったという。

 2人ともそれぞれの王家の中で不幸な生涯を送り、不幸な死に方をした。

 1870年、ルートヴィヒ2世が24歳の時、プロイセンと、ドイツの統一を阻止しようとするフランスとの間に普仏戦争が起きた。このときバイエルンは、大軍を送ってプロイセン軍を助けた。

 1871年、この戦争に勝利したプロイセンのヴィルヘルム1世が、ドイツの23の君主国、3つの自由都市を連邦とするドイツ帝国の皇帝となった。日本の明治維新の3年後である。普仏戦争に大軍を送ったバイエルンは皇帝位を交代制にしようと持ち掛けたが、鉄血宰相ビスマルクに一蹴された。プロイセンは鉄と血のリアリズムによってドイツの統一を成し遂げたのだ。

 ルートヴィヒはノイシュバンシュタイン城の建設にかかってから5年目に、並行して、第2の城、リンダーホーフ城の建設を始めた。

 さらにその4年後には、第3の城、ヘレンキームゼー城の建設を始める。ヘレンキームゼー城は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と庭園を真似しようとしたもので、その工費はノイシュバンシュタイン城の3倍以上が見込まれた。

 ルートヴィヒは昼夜が逆転し、日没後に起きて真夜中に昼食を取るようになっていた。食事の後は、夏は金ぴかの馬車、冬は金ぴかの橇に乗り、夜の田舎道を疾駆したらしい。

 ただ、農民たちとは気さくに話をする良き王であったという。

 40歳になったころの王は、もはや若い頃の姿はなく、太って、歯も抜け、言語不明瞭で、なおも城の建設に国家財政を傾けていた。

 首相以下は決断し、王を拘束し、シュタルンベルク湖のそばのベルク城に連行した。

 王は朝、散歩に出たいと言った。お付きの医師の他に、見え隠れに警備兵が付いた。夕食前にまた散歩を希望し、今回は周囲は安心して医師一人だけが付いて出た。雨が降っていた。夜8時半になっても王は帰らず、大騒ぎとなり、捜索が始まった。午後10時過ぎ、医師が湖畔に倒れた状態で発見された。引っかき傷やあざができ、首を絞められて死んでいた。さらに捜索して王は湖上に遺体となって発見された。解剖の結果、溺死ではなく、急病死と発表された。

 事故死説、自殺説、他殺説がある。

 私は首相以下の謀殺ではないかと直感的に考えたが、紅山雪夫氏は他殺説は根拠に乏しいとする。実際、次の王の予定者は王家の中から既に準備されており、引退、必要なら幽閉すればよく、殺害する必要はない。

 王が自殺を考えた形跡はあるが、彼は泳げるから、入水自殺を企図したとは考えにくいと言う。

 事故死説では、王は逃走しようとしたのかもしれないと、氏は言う。長年の不摂生で不健康な体であり、偶発的とはいえ医師と争って死なせてしまったショック。冷たい雨と湖水。

 この夜、ルートヴィヒがただ一人信頼する幼馴染の王妃エリザベートが、湖畔のホテルに滞在していたのは確かだそうだ。オーストリア、或いはハンガリー、またはスイスへ、亡命させたかったのかもしれない。

 とにかく、ルートヴィヒ2世は、国家財政を傾けるほどの散財をした。その結果、ディズニーの『シンデレラ姫』のモデルとなる美しい城を遺した。

 この白鳥城を見るために、今では世界中から観光客が押し寄せる。普段でも1日に2千人。夏のシーズンには1万人を超えるそうだ。バイエルン地方に落とされるカネはいかほどであろう。

 歴史とは皮肉なものである。一生懸命、民のために善政を施そうとした王が、後世から見て、必ずしも良き王であったとは限らない。ルートヴィヒ2世がバイエルンのために図らずも大きな財産を遺したことは確かである。

 

 

 

 

 

 


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