-首狩り・裁頭中。 通りすがりの畑にて
Google: 市倉宏祐さん死去
もうひと月近く前になってしまうけど、市倉宏祐さんが亡くなったとの報道があった。
1986年・昭和61年
例えば、佐々木敦さんという人の『ニッポンの思想』(2009年刊行)によれば、1980年代の"ニッポン"でのポストモダン思想"ブーム"の中心人物は、浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人の4人の名を挙げている。
ところで、1980年代中盤の"ニッポン"でのポストモダン思想"ブーム"の一場面が『アンチ・オイディプス』(ドゥールーズ=ガタリ)の邦訳の刊行。1986年、(Amazon)。訳者は、市倉宏祐。1921年生まれ。そして、特攻隊帰り。
同年、市倉は岩波書店から、『現代フランス思想への誘い -アンチ・オイディプスのかなたへ-』という、"ニッポン"でのポストモダン思想"ブーム"に便乗した典型的商業主義丸出しの素人向けの本も出している。持っていると恥ずかしい本。おいらも買っただよ。
その『現代フランス思想への誘い』の本文にはなんら触れられていないのだが、カバーの著者紹介にいきなり書いてあった。
第二次大戦中、海軍予備学生として最後に神風昭和隊基地に所属し、幾多の同僚を特攻隊に送った。真に崇高なるもの(あるいは真に悦ばしきもの)は、すべて悲しみの中に立っているという思いを抱き、人間の有限性を自覚する精神が、あるいは人間の空しさを見極める魂が何をなしうるのか、といったことを一貫して問題としてきた。
一見すると悲しみと無縁な軽快さに終始するかに思われがちなドゥールーズ=ガタリの遊牧の(ノマド)哲学も、こうした観点から取り上げられている。
特攻隊帰りが、"ニッポン"でのポストモダン思想"ブーム"の一人の影の立役者だったらしい。
1997年・平成9年
さて、10年後、ネトウヨが誕生して間もない(?)1997年。これまたもっていると恥ずかしい本、『国家と戦争』(小林よしのり、福田和也、佐伯啓思、西部邁)で、福田和也が言っている;
僕の哲学の師匠に市倉宏祐という人がいた。三高で和辻哲郎の弟子だった。彼は一式陸攻で「特攻」に行くことになっていたんです。その時の話を、僕は直接聞いたことがあった。この人はばりばりの哲学者で、サルトルとかドゥールーズとかやっている人ですけれども、なかなか面白いことを言う人で、三高にヒトラー・ユーゲントが来たことがあるんですって、三国同盟で。そして、いろんな人間に会ったけれど、あんな爽やかな若者たちに会ったことがない、とか言うんですよね。
そういう人と付き合えたのは僕もすごくよかったのですけれども、彼が言っていたのは、「特攻」に行くことを志願し、配属も決まって、昼間、野原とか基地の周りとかを歩いていると、お百姓さんなんかが歩いている。それを見ると心が平穏になるんですって。彼らと彼らの子孫のために、自分は死ぬんだと思ってすごく平穏な気持ちになるんだけけど、夜ひとりになると、あと一つ二つ若ければ自分は死なないですんだのに、なんでこうなんだ、と。それを繰り返していくんですよ。
繰り返していくうちに、両方あるのがいいんだと、両方あるのが人間だということに落ち着いて、行く気になった。結局、計画の四日前に終戦になって行かなかったけれども、でも、そういうもんですよとかおしゃっていた。
(中略)
彼はイポリットとかを訳している哲学者なんですが、言っていることが面白くて、対中謝罪派に怒り狂っているんですよ。おれたちは皇国史観を信じて命を張った。俺の仲間は「特攻」でいっぱい死んだんだ。だけど、対中とか対アジア補償派の連中は何を張っているんだと。あいつらが全財産を売り払って賠償するなら認めてやってもいいけれども、人の罪悪感にばかりつけ込みやがって、自分は安全なところに住んでいて、あいつら絶対に許さないと言って、怒り狂っていらっしゃるわけです。
この証言は極めておもしろい。
1980年代中盤の"ニッポン"でのポストモダン思想"ブーム"の一因は、守旧的マルクス主義や、さらにはいわゆる"戦後民主主義"、そして、いわゆる・ホントにいわゆる“自虐史観”への嫌悪があった。そして当時から守旧的マルクス主義陣営からのポストモダン思想と「保守」思想の親和性が指摘されていた。
別に彼らは隠しているわけではないのですが、のちに「保守」派やあるいは右翼、はたまた反動を自称する前に、福田和也、佐伯啓思、西部邁らは、相当に、ポストモダン思想を読みこんでいる。
● さて、なぜ特攻隊の「死にそこない」の市倉宏祐さんが、ドゥールーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』なのでしょうか?
その答えにつながる一端が、『ハイデガーとサルトルと詩人たち』(市倉宏祐、NHKブックス、1997年)に書いてある。
近代は自然界と人間界とを効率よく普遍的に管理するところに成立した。あるいは、そうした管理が可能であると信じたところに、といってもいい。それがよくない結果を生むことがあれば、それは人間の罪障である。人間の是認とその否認とが交錯しているのが、近代ヨーロッパ人の本質である。 ドゥールーズとガタリの『アンチ・オイディプス』は、ポスト・モダンの時代を切り開いた書物のひとつであるが、彼(ら)はニーチェにコミットしながら、近代の本質がととにあることを見とっている。(中略)とのいずれもが、社会の運命を背負った知識人の精神に繋がっている。(中略)
もともと、複雑多様なるものがさまざまに入り組み交錯しているのが現実の事実である。ところが、知識人のあいだでには、次第にの観点からのみ、この事実を考察する傾向が生じてくる。この傾向があまねく浸透してくると(あるいは、この傾向の世界支配が完成するといってのいい)、その退廃が起こってくる。
これはちょっと抽象的だが、これに先立つ章で市倉は皇国史観と侵略史観を並列させ、同時に両者を、同じ存立構造であると、批判している。
皇国史観では都合の悪い事実は省略され、一部の事実に注目して歴史が論じられた。侵略史観もほぼ同じであるかに思われる。侵略の文言にあわせて、都合のいい解釈や事実のみがとりあげられる。それだけではない。勝手に資料[ママ]が作りだされたりする。いずれにおいても、善悪が交錯する事実の正確な分析・叙述はほとんど言及されない感がある。
皇国史観の場合と同様に、侵略史観の正統性は二つの条件を満たしているか否かにかかわる。第一は、史実による史観の確証。第二は、人類普遍の理念を体現する贖罪の実践(これは史観を主張するものの責任であった)。
「人類普遍の理念を体現する贖罪の実践」が重要だ。市倉は書いている;
身命を賭して奉公を、あるいは財産生命を投げうって贖罪をつくすのでなければ、いかに自国の善を高揚し、いかに自国の悪を糾弾したとしても、いずれもただ崇高なる立場を装うものにすぎない。誰もが反対しえない普遍の旗を掲げて、己の見解をひとに強制するだけのことである。この意味では、謙虚に見える侵略史観はじつは傲慢でしかない。誇り高く見えた皇国史観がじつは卑屈の様相を担っていたように。
やはり、福田和也の証言はホントなのだ。ただし、一部誤りがある(後述)。
そして、皇国史観を「信じた」市倉は特攻隊で生命を賭したのであるから、第二の条件(皇国史観の場合)の、「史観の理念を自ら実践し実現する精進」、を満たしていたこととなる。本人は直接主張していないが。
そして、2014年・平成24年
でも、櫻井よしこセンセに歴史を勉強しろ!とか説教されると、少しカチンとくる。
(⇒愚記事;『「文化の虐殺」粛々と進行中』 筑波山 1872)
本屋で立ち覗きしただけど...
ネトウヨの憧れ、亡国の徒
▼まとめ
市倉は書いている;
現実の歴史には、善と悪、正義と利害、自衛と侵略が交錯している。人間の行動には、感謝と恨み、誇りと謙虚が入り組んでいる。
そして、『ハイデガーとサルトルと詩人たち』では、詩人、あるいは詩的に生きることがかいてある。
善と悪、正義と利害、自衛と侵略、そして、皇軍と叛逆軍、すめろぎと鬼神、維新と廃れ、敵と味方...
そういうものをきちんと言葉に落とし込むべし。
そうなのだ、外山正一の『抜刀隊』の詩は、すごいということだ。
●福田和也の誤り
僕の哲学の師匠に市倉宏祐という人がいた。三高で和辻哲郎の弟子だった。というのは間違いだろう。
市倉が和辻に会ったのは東大でのことだと思われる。なぜなら、和辻は1934年に京都から東大に赴任してきているからだ。
さらに、市倉が三高出身であることは事実らしい⇒wiki