いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』
Across a Death Valley with my own Distillted Resentment
 



 

宇和島の天赦園の後は、宇和島市立伊達博物館へ。すぐ隣。

展示「海、遥か -薩摩島津家と宇和島伊達家-」が開催中だった。

英国東洋艦隊(キング提督)と公使パークスが1866年に宇和島に来てから150年を記念しているらしい。

展示の目玉は、英国東洋艦隊の旗。


英国東洋艦隊と旗を交換.英国艦隊から贈られた旗:6m X 3mほど。大きい。

宇和島伊達家は赤の九曜紋の旗を英国に贈ったらしい。その復元旗も展示してあった。

上画像は新聞報道の写真。現物は撮影禁止という博物館の規則。

宇和島伊達家が贈ったとされる旗の復元物の画像はネット上で見つけられなかった。

■ 伊達宗城(だてむねなり)

(インド帝国の皇帝でもあった)ヴィクトリア女王の臣下である 英帝の手先 キング提督とパークス公使を宇和島に迎えたのは伊達宗城(だてむねなり)。この時、藩主でさえないのであるが...。事情は下記表のごとし。

おいらが印象深く思った伊達宗城の特徴2つ;

①幕末維新史の最初からずっと後まで政権中枢を出たり、入ったり。安政の大獄は当時者であり、維新後はかつて付き合いのあった西郷の西南戦争を見送っている。そして、顔が広い、井伊直弼から西郷隆盛、伊藤博文、孝明天皇にも会ってるし、明治天皇はうち(自宅)に来た。幕末維新は仲たがいの歴史である中で、仕事相手と喧嘩別れした形跡は認められない。むしろ、神戸事件、堺事件の収拾などに奔走。

②安定した人格と武備避戦。幕末維新の登場人物群といえばみんな強烈な人たちばかり。狂人、人格障碍者、テロリスト、陰謀家などあたりまえ。そんな中で人格がまとも。依頼された2つの戦争、長州征伐と戊辰戦争に参戦しなかった。理由は戦争の動機が「私的」、「狂的」と考えたからであろう。武備は若い時から。今あの靖国神社に突っ立っている大村益次郎は宗城の元家臣。

■ まとめ

伊達宗城と英帝の手先キング提督とパークス公使との邂逅。 今思えば、危なかったのかもしれない;

関連愚記事:  蛤御門の変+大東亜戦争=皇帝追放・属領化 

● 補遺



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 愛媛でザンギ... 宇和島参り④ ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
 
この記事のトラックバック Ping-URL
 


ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません
 
・送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております
・このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。