感染症診療の原則

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ケンタッキーへの道3

2006-04-05 | 米国留学トホホ録
紆余曲折の中、1984年の春、晴れて国家公務員となった自分は宮古島の療養所に3ヶ月の間、赴任しました。小学校から教会、火葬場まである完結した閉鎖社会であった療養所の空気が色濃く残っているように感じたものです。職員官舎の塀には第二次世界大戦の米軍機による機銃掃射の後が、そのまま残っているほど。新しい園長先生が赴任されて間もないという事情もあり『検査室で可能な検査は検尿のみ』といった状態でした。総合病院である島内の沖縄県立宮古病院には既にCTスキャンもあるという時代でしたので多少の驚きは禁じ得ませんでしたが、内科医としての仕事を始めました

同時に旧厚生省の奨学生、即ち給料を頂かなくて良いインターンとして米国の研修先を探し始めました。給料が不要となるとドライな米国の事、条件は途端に有利になるはずでした。ところが1984の研修は7月1日から始まりますので、大抵のプログラムは1983年の暮れまでには1984年度の採用者を決めていました。すなわち1984年の春などは通常ならばToo lateだったのです。唯一、幸いしたのは給料が不要なFree beeとしての立場と全くそのような不利な状況を知らなかったという無知が幸いしました。だから「そのうち見つかるだろう」と思っていました。

それでも「臨床現場で通用する英語」に対する不安は人並みにありました。「この離島で英語の先生が見つかるだろうか、、」と周囲の人に相談したところ、良い方がいらっしゃるとの事。早速、人里離れた療養所から原付バイクで30分ほどかかる宮古島の「中心地」平良市の英語塾の先生を訪ねました。数カ国語を操る国籍不明の白人(HR氏)でしたがとても自分と気が合い英語を教えて下さいました。(正確には英語をしゃべりながら飲み明かしました。)そしてある晩HR氏曰く「このままでは夏からの研修はおぼつかない。俺に任せろ、、」と。そして米国のあちらこちらに電話。その晩に州立ケンタッキー大学は人気が今ひとつでポジションが空いている、そして給料が要らないインターンなら採用したいという内科のChairmanを見つけてくれたのでした。(写真はそのHondaカブ)

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