TOP PAGE BLOG ENGLISH CONTACT




小田実さんの出棺を見送る人々(8月4日青山葬儀場)

 青山葬儀場で小田実さんの告別式が行われた。強烈な太陽が大地を照りつける中、すでに多くの人が集っている。吉川勇一さんの別れの言葉を聞きながら、69年から70年にかけての『ベ平連』(ベトナムに平和を! 市民連合)の集会やデモを思い出す。「ひとりひとりの市民が、ひとりひとりの意志で、行動しています」と呼びかける当時のベ平連のスタイルは、既存の政党や労働組合、平和団体などとも一線を画していた。現在も、多くの組織はピラミッド型に構成員を束ねる支部が、市町村や都道府県単位に積みあがり、全国組織の指導部は中央執行委員会などの機関で構成されている。ところが、ベ平連はつかみどころがなかった。たったひとり、あるいはふたりでも「○○ベ平連」と名乗れば、出来上がってしまう。神楽坂に事務所があり、ここで開かれる会議を「閣議」と称していたが、特に権威があるわけでもなく、その決定に全員が従うという類のものでもない。献花の後、霊柩車に小田さんの柩が担ぎこまれ、やがて長いクラクションが鳴った。誰ともなく拍手がわき起こる。そして、会葬者のほとんどが参加する「小田実追悼デモ」が始まった。

「ギネスブックに載るような短い距離のデモです。青山1丁目まで一緒に歩いて下さい」との呼びかけ。先頭には鶴見俊輔さんの姿もあった。ゆっくり、ゆっくりとデモは進む。短い距離を、地べたをなめるように少しづつ進むデモ。ふり返るとずいぶんと長い行列となっている。小田さんと共に、激動の時代を生きた人々が静かに歩を進める。私は、個人的なおつきあいはあまりなく、議員になってから阪神・淡路大震災の被災者として怒りを政府・国会にぶつける小田さんと何度か向き合った。いつも早口でまくしたて、また火のような情熱をたたきつけてきた小田さんは、享年75歳だった。

政治の場にいる者として、核廃絶や平和を願う声をもって大きくしたい。また、原子力発電所のトラブル・損傷隠しにもっと怒りの声をあげたい。そして、次の世代が参加出来る従来の枠にとどまらない政治的・文化的な表現形態をつくりたいと切に思う。30代の行動する作家・小田実さんが彼の仲間とともに、組織や党派的観念にとらわれない多くの若者や市民に架橋するメッセージを出し続けたように、今が大切だという思いを強くする。「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍内閣は選挙で惨敗したが、このまま年月が過ぎていくと平和や人権問題に情念を傾けてきた人々が築いた「戦後民主主義」は脱水状態となり、やがて身動きが出来なくなるのではないか。

まもなく始まる政治の激動の中で、「次への橋頭堡」をどう築くのかを語り続けていきたい。小田さんの死を悼んで瞑目する。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 「棄てられた... 安倍「続投」... »