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「不自由な生活」から「自由な発想」生まれるか

  • 文 保坂展人
  • 2015年2月17日

 私が学校で教育を受けたのは、小学校1年生から中学2年生までの8年間です。

 政治や社会への目覚めが早く、中学3年の1年間は、「中学生として政治をどう考えるべきか」などをめぐって教師と対立し、授業に出してもらえませんでした。その結果、内申書に「思想信条に関わる記載」をされたことによって受験した高校を次々と不合格となり、定時制高校に進学しました。

 そこでは生徒会活動に没頭して、教室にいても読書や内職をしてばかりで、授業は受けていませんでした。

 そのため、14歳以降の学びは、耳からの学問と読書、そして経験によるものです。

 学校教育を受けて、生徒として過ごした時間が短いのです。10代後半からは、同級生がエンジョイしていた学生生活を体験しないまま、アルバイトと読書に明け暮れる孤独な日々を送っていました。そのために得ることができなかった多くのことに、ほんのりとした憧憬(しょうけい)があります。

 ただ、人生をやり直せと言われても、きっと同じ道を歩むような気がします。今となってみれば、よい選択をしたと思っているからです。制度の外に飛び出して、試行錯誤を繰り返し、難題に挑戦していく日々に退屈はしませんでした。

「自分は学校教育を受けた時間が短い」と意識することは、ふだんはほとんどありません。10年ほど前、低学歴を疑ったのか、新聞記者から「保坂さんが『定時制高校中退』という学歴には何か証拠があるか」と問われたことを除けば、この20年ほど「独自の経歴」を問われたことはありませんでした。

 あの日々が、私自身のいまある感覚や論理、行動をつくりだしていることは明白ですが、 そのことを言語化し、あえて問題提起するような振る舞いを自制してきたところがあります。私の経歴はあまり一般的ではなく、世間には伝わらないだろうという諦念(ていねん)があったのでしょう。

 あのような独自の道を歩んでこられたのは、学生運動が大きく社会を揺るがした1960年代後半という時代背景があったからです。

 また、両親は無条件に私を信頼し、失敗や停滞を非難することもありませんでした。学校に呼び出された父親は、社会科学系の哲学書や思想書を乱読しているのをやめさせよと言われ、「つたない表現も、人間形成の過程だと思っています。本を読むなと私からは言えないのです」と断っています。母親は、受験した全日制のすべての高校に不合格となり、社会の荒波に放り出された時、何の保障も指針もない子どもの流浪を前に、何かを信じて見守ってくれていました。

 いま、こうした自制を解いてもよいように感じています。私が経験してきたこと、思春期に手探りで考えていたことについて「もっと聞きたい」と真剣に耳を傾けてくれる人たちが出てきたのです。それは、今の幼児から小学生の親たちの世代です。

 高度経済成長モデルが崩壊し、90年代後半から日本社会はデフレ不況と収縮型の社会へと変化しました。「学歴」や「偏差値」を絶対化する神話も崩壊し、「学びとは何か」「人が生きる上で必要な知力とは何か」という本質が問われる時代に入ってきました。

 これまで、受験を前に行われてきた「詰め込み勉強」は、暗記力と早く迅速な情報処理力に重点が置かれていたのに対して、今後は「課題発見能力」「複合的な課題を結合する編集力」「目に見えない変化を見通す想像力」などが重視される方向へ舵(かじ)は切られつつあります。

 大学入試に詳しい「リクルート進学総研」の小林浩所長は「暗記した知識を再生するだけの入試を受けて大学に入ることがゴールだった時代は終わり、知識を活用する力を身につけて入学後も能力を高めることが求められ、偏差値だけで学校選びができない時代が来る。少子化で予備校や塾の再編も進んでおり生き残りをかけてカリキュラムを変えていく動きは広がるだろうし、多面的な力をどのように育成していくか、予備校だけでなく学校教育全体が変化を求められることになる」と話しています。(NHKニュース)

 これは以前から私が主張してきたことと重なります。けれども、今日議論され始めている大学入試改革が、どちらの方向に向けて走り出すのかについては注意深く見守りたいと思います。

 これまでは、学校の授業は一方通行で、教室での学びも、知識注入から記憶の反復をへて試験で消費するというサイクルを繰り返してきました。そこに自由な教育や型破りの授業が誕生する隙間はありませんでした。

 教育内容が単なる「暗記力」「情報処理力」であれば教えることも、評価することも安定した経験則が存在しています。一方で、学科を超えた学びや、自由な想像力、議論を通して認識を共有し高めていく力などを教えることが果たして制度化できるのだろうかという疑問があります。

 制度設計をしていくのは誰でしょうか。それは、きっと文部科学省の官僚です。かれら自身が、これまでの教育制度にどっぷりつかって子ども時代を過ごし、成績や受験での「成功体験」を刻んできた存在のように思えます。「常識的な発想」「定番の処理」に手慣れた官僚が、新たな価値軸を提示していく制度設計をするためには、まず自らが変わる必要があります。

 私は、中学3年生から「自分の時間を自在に使い自由に学んだ」経験者です。この時代を生き抜く力として、日本の学校教育が苦手としている「自由な発想」「常識を打ち破る想像力」を求め、「自分の意志で発言し、相手の意見を聞きながら討論する力」をめざすのなら、もっとも簡単なやり方があります。

 自由時間を子どもに戻すことです。何をしてもいいし、しなくてもいい。このひとときをどう過ごすかを自分で決めて、そして友達と遊ぶ経験から、人は多くのものを学んでいきます。習い事や塾などで年間のスケジュールが埋まっている子も珍しくありません。

 これから、文科省が取り組む大学入試改革を前に、「自由に発想する技術」「創造性を高める教室」などが流行するかもしれません。しかし、「自由な発想」を「不自由な生活」からめざせというのは無理な話です。

 親として心がけたいのは、制度の転変に右往左往しないことです。子どもは、自ら内側に育つ力を持っています。遊びの中から生まれる濃密な時間、全身をつらぬく感動、そして興奮と鎮静。子どもが子どもとして過ごせる環境を守るのが親の役割だと思います。

「不自由な生活」から「自由な発想」は生まれるか (「太陽のまちから」2015年2月17日)



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