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NHKの『日曜討論』で与野党若手議員の討論があった。格差社会をめぐる議論を聞いていて不思議に思った。社民党の辻元清美が「結果の平等以前に、機会の不平等があるのではないか。給食費を払えない子どもが増えているし、月十万円以下でやりくりしている家庭がある一方で、何万円もかけて塾に通っている子どももいる。そもそもスタートラインから違う」という趣旨の発言をし、また小泉総理の「成功した人を妬むのはよくない」と発言した姿勢を批判した。

 与党からは「小泉内閣以前から非正規雇用が増えている。かつてのような『ほどこしの政治』はよくない。改革はまだ途上だ」などの発言があったが、生活保護受給者は「ほどこし」を受けている人たちなのだろうか。「努力した者が成功できる社会」というセリフは「勝ち組」が得意とする言い方だ。努力するもしないも、最初からスタートラインが違うという「格差」を認めたくないという論調は、政治家の育ち方に起因するものではないだろうか。

 自民党も叩き上げの「田中角栄型」の政治家は表舞台から去り、「見渡せば二世、よく見れば三世」の時代である。差別とは、人格の根源を否定しさる行為である。お前の家は金がないから学校に行くな――というのは、貧富の差、階層の差による歴然とした差別構造だ。今日の格差は、巧妙に不平等条件が隠蔽されている。「やる気のない努力しない人たちが差別されたと文句を言うのは権利の乱用だ」という批判を口にするのは、スタートラインの位置を無視して「やる気」「努力」なども経済的・物理的な条件によって影響を受けることに目をやらない意見だ。

 私自身は、苦労したとは思っていないが、15歳から20歳にかけて20数種類の仕事を転々とした。今の言葉で言えば、フリーターだった。いくらか文章を書くことが好きだったので、21歳で「ライ」が加わってフリーライターとなった。ざっと思い出すだけで、花屋・八百屋・トラックの助手・シロアリ退治・建築現場の片づけ・印刷・営業・飲料工場・農業・宅配便などずいぶんいろんな仕事をした。仕事には発見も楽しさもあったが、不愉快なことも避けられない。心の中で葛藤を抱え、同年代で楽しく遊んでいる大学生を「妬ましく」思った経験もある。(この文章を書いていて思い出した)

「妬むな」という小泉総理側に欠如しているのは、社会的な弱者・苦労している人・格差の谷に突き落とされている人にたいしての「共感の欠如」である。いや、「共感以前に関心の欠如」とも言える。それでは、私はどうかと問われれば自信がない。過去の経験は風化するし、日常ふだんでは記憶の外にある。政治の場にいる人間は、慣れるにつれて想像力は鈍くなり、感性もひからびてくると自戒してる。だが、少なくとも、つらい立場にいる人がよりよくなることをめざすのが「政治の仕事」だと私たちは考えている。

 小泉総理をはじめ、自分が政治家の家に生まれて若くして代議士になった人は、「スタートライン」は他の人より一歩も二歩も前にリードしていたのは、客観的な事実だが、主観的にはそのことを認めたくないという深層心理があるのか「努力すればやれる」「人を妬むな」と防衛線を張ってしまうようだ。そもそも格差を論じるのに、社会的上層の富裕層特権層の生活以外を知らずして、「自己責任も大事だ」「やる気が問題だ」などと言えるだろうか。
 
ステレオタイプの「貧富な差」を強調し、富裕層・特権層を批判しようというわけではない。世界中どこにだって、格差のない社会はない。ただ、人間の尊厳を互いに認め合い、政治の努力と社会的な連帯によって「格差と不平等」を解消しようという営為を持続することを放棄するような「小泉流」は改めた方がいいと言っているだけだ。

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