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昨日は、全法務省労働組合の新春旗開きで挨拶した後、ふだんは国会審議を通した実務的なやりとりしかない法務省幹部とも雑談をした。年明けから、バラバラ殺人事件が続いている。新年をフレッシュにスタートするには、あまりにも重いニュースが続く。しかも、東京都内で2件続いたバラバラ殺人の現場は、日常普段の行動範囲であり、車や徒歩で通ることも多い場所だ。「世相が荒れている」という凡庸な反応に加えて、「犯罪の抑止」「未然防止」などが困難な室内犯罪である上に、犯罪動機も特定しがたい。そんな話をした。

「世相が荒れている」と言えば、財界の一部と改革派気取りの学者たちの傍若無人の発想にも驚いてしまう。蟻地獄のようなワーキングプア状態に陥った人に対しては「自己責任」というレッテルを放り投げて、「努力とスキルアップの戦略的思考が足りない」と唾を吐く。「格差なんてあってあたりまえ。甘えているんじゃないよ」と砂もかける。昨年流行した言葉に「品格」があるが、自らがジャングルの覇者たらんとして肉食動物の頂点をめざす強欲ぶりをカモフラージュするために、やたらに「国家」を持ち出す。

改憲論者の繰り言のひとつに「日本国民は権利ばかり主張して義務から逃げている」「社会的責任をわきまえずに公益を踏みにじっても平気な社会に堕落した原因は憲法」というたぐいの言葉がある。権利ばかり主張しているどころか、呪術的な「自己責任」という言葉に魂の内側を浸食されているからこそ、年間3万人を超える自殺者が出ているのではないか。ワンパターン改憲論者の語る「義務」「社会的責任」「公益」のイメージとは、ホワイトカラーエグゼンプション=残業代不払い法案が出てきたら「これで自由になるかもしれない」と期待して、財界と政府の政策を疑わずに理解し、不平不満などを述べずに素直を従い、たとえ病気になって過労死をしても「国家と会社のために生命を預けた」と自己充足して死んでいくような「国民」「労働者」を言う。

世の中には、自分の力では何とも打ち破れない「差別」の壁がある。私たちは、超党派の国会議員で児童虐待防止法をつくったが、親の暴力から保護したはずの子どもたちが18歳まで生活することが出来る児童福祉施設はどこも満杯で、高校卒業とともに施設を追い出される。社会への船出のために少年少女に渡される金は、わずか15万円程度だ。アパートも借りられない、自動車運転免許も取れない、さらには専門学校や大学に行くのは困難を極める。

日本が「美しい国」であれば、功成り名を遂げた財界人や企業が若者たちが巣立っていくために十分な基盤を「募金」や「基金」でつくりあげ、まさに社会の子どもたちとして温かく送り出すことが出来るはずだろう。ところが、こうした児童福祉の現場で苦闘している人たちは、ぎりぎりの生活・労働条件の中で生命を削って子どもたちを支えている人が多い。改革派財界人に「品格」があれば、企業の社会的責任としての利益還元を当然の「義務」として積み上げていくはずなのに実際にはどうだろうか。

「美しい国」とか「希望の国」と語って照れることのない感覚の持ち主たちが、しゃぼん玉のように空中に数秒浮遊するような言葉はすぐに消える。しゃぼん玉が消える前に次のしゃぼん玉を吹きつけなくてはならない。しゃぼん玉の中は空洞で、浮遊している間はキラキラと光る。

私は土を踏んでいたい。たとえ、そこが生気を失いかけた荒野であるとしても、小石の裏にへばりついた虫たちと友達でいたい。不揃いな雑草に宿る生命力に感応したい。「美しい国」という言葉が浮遊するのは、この国が荒れているからだ。「希望の国」という言葉が空中で消えるのは、格差社会の矛盾を隠蔽して企業が「残業代不払い」をたくらんでいるからだ。根のない言葉が浮遊していられるのは泥だらけの現実から「今」を照らしだす力が弱いためだろう。

さて、しゃぼん玉に泥饅頭でもぶつけてみるか。

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