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 最近の朝日新聞の社説は、首を傾げるような内容のものが目についたが、今日はまずまず問題意識を共有することの出来るものだった。「政治と市民――ともに論じる原点に戻る」(201113日)というもの。書き出しは「イエスよりノーの力で、支持よりも不支持の力で、動く。それがこの国の政治の姿ではないか。自民党はだめだから民主党。小沢一郎元代表はいやだから菅直人首相。選択の時、有権者が寄せた淡い期待は長続きしなかった」で始まる。たしかに「ほめる」「評価する」よりは、強烈な「ダメ出し」の突風が政治の場を吹き抜ける。その風向きがクルクルと変わる速度も早い。

 

 12月半ばにあった自治体選挙で筆者を支援してくれた無所属議員が上位当選した。その祝いの席に駆けつけると、支援者の市民と共に他の自治体の議員仲間がいた。ひとりは昨年、民主党で当選したが「もう離党しました。今の民主党に納得がいかない」と言う。もうひとりは、春の選挙で民主党公認をまだ申請していないとのこと。1昨年夏の都議選、衆院選では考えられないことだ。しかし、その突風は強さは、松戸市議会議員選挙や西東京市議会議員選挙の結果で証明されている。国政での混沌とした状況はあるとは言え、掌を返したような冷たい風こそ「ダメ出し」の表現だ。

 

 ふたたび朝日新聞の社説に戻ろう。「菅首相は就任前、『議会制民主主義は期限を切った、あるレベルの独裁を認めることだ』と語っている。時々の世論に敏感すぎると政治が落ち着きを失い、負の影響も大きいからである。一つの見識ではあろう。だが、ネットの普及は市民がマスメディアを介さずに直接情報を手に入れ、発信することを可能にした。『次の選挙までまかせろ』と言ったところで、政権の意のままにはならない。ネット上を生の情報が行き交い、それが世論を動かし、政権の体力を左右する」

 

「見識」かどうかはともかくとして、この社説で「ネットの生情報が行き交い世論をつくる」と認めているところが画期的だと思う。かつて世論とは「新聞の社説」がつくるものだと言われていた。朝日新聞の社説は、時として「ネット上の世論」からはほど遠いところに君臨して聴衆なき説法を垂れるような傾向があった。

 

そして「尖閣映像のネット公開」に触れて、「この流れは変えられない。民主主義はより直接的な形に姿を変えていく。それは悲観すべきことではない。市民が情報を手にし、表現することは民主主義の成熟に欠かせない」と書いている。

 

法務・検察問題で新聞の社説子が一貫してスルーしてきた「検察官適格審査会」の「随時審査の議決」(20101227日)は制度発足以来の62年ぶりのことだった。一般の国民の訴えが聞き入れられ、検察官の審査が始まったことがこの国ではなかったこともニュースだが、始まったことはより大きなニュースだろう。不勉強なのか、気がつかないのか、気がついても鈍感で忘れてしまうのか新聞・テレビの扱いに疑問は尽きない。法務省の担当者が不機嫌で情報提供がないから、この程度でいいかとベタ記事に終わらせる。

 

こういう姿勢が、新聞・テレビの報道力を奈落の底に突き落とす。役所とシンクロして小さく終わらせようというこざかしい手法への反発もあって、ツイッターで「拡散希望」と発信すると、またたくまに800900とリツイートされた。数時間の間に数10万人がこのニュースを知り、新聞・テレビの報道姿勢も観察している。

 

「世論が感情に身を任せ、一方向に雪崩を打つことは避けなければならない。問題は新たなメディア環境を政治参加の手段として使いこなせるのか。『知りたい』欲求を『考えたい』に高め、成熟した民意を形成出来るかにかかっている」 まさに、ここ数日のブログで考えてきたテーマである。そして、「決める仕組みの再構築が必要だ。民主主義の原点に戻ろう。市民と為政者が共に考え、議論を通じて合意を探る。迂遠なようでもほかに道はあるまい」と社説は終わっている。

 

 インタラクティブ(双方向)での意見交換を重ねながら、市民と政治家が共に成長し育つことをめざせという結論はその通りだ。ただ、ここに一言「私たち新聞も、その難しい壁を超えなければ生き延びられない」と書いてほしかった。たとえば、「かんぽの宿一括売却問題」では朝日に限らず、各新聞は「一般競争入札をへて決定されたのだから、市場の決めたことに政治が横槍を入れるのはおかしい」と書いてきた。これは、完全に誤認識であることを私は国会で、当時の西川社長から証言させた。ところが新聞は認識を変えない。

 

 つまり、新聞が世論から離れていく様は、政治よりも大きく間隔をあける場合があるのだという認識を持ってほしい。政治が市民と合意形成する道を探るのであれば、新聞を中心としたメディアも同様の課題を背負うはずだ。このように書いているのは、新聞・テレビに私が大きく期待しているからで、「既存メディアの没落」を嘲笑するつもりは全くない。

 

 私たちは今、「言語社会」が崩壊し「感情社会」に突入するかどうかの瀬戸際にいる。多様な言論の自由を保証し、そして相手の意見を最後まで聞いて判断する習慣を失わないようにしたい。今日は、新聞の社説を横に見ながら「政治とメディアの課題」を考えてみた。

 

 



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