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子どもたちの「いじめとの悲劇」が相次いで伝えられている。現実に、いじめを苦にしてサインを残し、亡くなってしまった子どもたちの声を押し殺し「何の問題もなかった」とつくろってきたことが明らかになり、批判を呼んでいる。私の実感から言えば、「氷山の一角」である。あまり伝えられていないが、いじめを理由として生命を絶った子どもたちの親は、二重三重の衝撃を受けてきた人が多い。実は、「いじめはなかった」と繕うのは学校だけではない。多くの場合、同級生の親たちも地域丸ごと「もう済んでしまったことじゃないか。学校の評判が下がるから騒がないでほしい」と有形無形の圧力をかけられる。

いじめた側は、子どもの生命が失われたのに、平然と日常生活を送る。葬儀から何日もおかないうちに別の子をターゲットとしたいじめに入ったり、遊び歩く姿が子どもを失った親からすれば辛い。ひとりひとりクラスメイトの話を聞いて、いじめの輪郭を掴んで、学校と教育委員会に調査を要求する親に対して、「いじめはなかったスクラム」が組まれる。最大の被害者は亡くなった子どもであり、子どもを失った親は、地域と学校から温かく包まれて悲しみを癒す時期を過ごすのが常識的な姿だが、現実は逆になる場合がたびたびある。元気だった子を突然に失った親としては、いったい学校で何があったのか。真実を包み隠さず話してほしいと願うのだが、なかなか事実は語られない。

「いじめがあり、子どもを死に追い詰めた」ということになれば、学校と教育委員会には管理責任が発生する。さらに「いじめっ子」もそのまま放置するわけにいかなくなる。また狭い地域の中でPTAの役員たちも「学校の評判を落としたくない」という心理も働き、「マスコミで学校名が出たら、皆が迷惑する」というささやきが被害者の遺族である両親を追い詰めていく。そんな例をいくつも見てきた。

政府提出の教育基本法案では「子どもの人権」を一切書き込んでいない。子どもが追い詰められた時のSOSを受け止める緊急脱出についての言及もない。強くたくましく、いじめに負けずに戦えというのが、残念ながら永田町から子どもたちへの貧困なメッセージである。また教育基本法案では、教育行政が学校を支配する権力として法的に位置づけられる。ただでさえ、ことなかれ主義の教育委員会がさらに強くなるということだ。子どもたちの悲鳴を聞き取るのは、さらに難しくなるということを指摘しておきたい。

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