TOP PAGE BLOG ENGLISH CONTACT




 滋賀県大津市の中学生の「いじめ自殺」をめぐって、大きく学校や教育委員会が揺れている。今週は、滋賀県警の異例の強制捜査が入ったことから、「いじめ自殺」という究極の絶望状態に追い詰められていく中学生の現在に多くの人が関心を寄せている。かつて、私は「明星」「セブンティーン」という10代の中高生の読者に対して、いじめの現在を伝え、またいじめからの脱出を共に考えてきた。これは、約20年前に、数々のいじめ事件の取材や、中高生からの生の声を聞きながら、つくってきた私の見解だ。ツイッターで何回かつぶやいたことを、もう少し連結してまとめて伝えることにしたい。

1986年2月、東京中野富士見中学2年生の鹿川裕文君が「生き地獄」を訴え生命を絶った。彼こそ「葬式ごっこ」の被害者だった。鹿川君が亡くなる直前に「いじめ」に関する私の本を購入していたこともあり、私は当時、中高生が読んでいる雑誌で「絶対に死ぬな」と呼びかけた。「いじめとたたかえないと感じたら、どうどうと逃げろ」「いじめと大切な生命を引き換えにするな」「いじめはやがて終わる。いじめから離れることも出来る。しかし、自分の中で自分を否定する[自分いじめ]だけは、受け入れてはならない」

「いじめ撲滅」というスローガンは今後はやめた方がいい。子ども集団を外から力づくで叩いて、問題行動が止まったかに見えても、いじめ因子は活動をやめず、大人の見えないところに潜り込んでいく。子ども同士の関係を切断するいじめ因子を解消していくために、子ども自身の関係の再構築が鍵になる。

  いじめ」は子ども同士の関係の中で生み出される。ケンカしたり、仲直りしたりしながら子ども集団の中で関係が揺さぶられ、壊れ、そして修復されるというプロセスが働かなくなる時、攻撃がエスカレートし歯止めがきかなくなる。「いじめ」を解消するためには、子ども達の関係の修復力を強めることだ。

  子ども自身に内在する修復力・再生力は、「遊び」の中でやわらかいバネのように育まれる。身体ごと動き、ぶつかり、争いになり、またやり直す…は、現在の50代以上の大人は当たり前に持っていた子どもの世界だった。ところが、子どもから「自由時間」が消滅し、放課後の子どもたちに日替わりのスケジュールが生まれた80年代以降は、とくに大人の指導する少年スポーツやお稽古事以外に「子どもだけの遊び世界」は縮んでいく。

   子どもが「自由時間」を取り戻し、お互いが衝突して、相互に争い、そして仲直りするというプロセスが、大人になってからの人間関係調節のトレーニングになるし、決定的なところまで相手を追い詰める手前でブレーキをかける感覚が育ってくる。ただ、個別に断片的な時間を使って生きる、数人で時共に過ごす程度の関係の中にいる子どもたちに、内在的な修復力・再生力を引き上げるプログラムが必要だ。

  私が90年代に「イギリスのいじめ事情」を取材していた時に、民間教育団体がドラマの時間を使って、「子どもたちの関係修復」を試みるロールプレインや、体験的プログラムを多数開発していた。また、劇団がトラックで小学校にテントを使った芝居小屋を設営し、学校の日常の中からは見えてこない「いじめ」や「差別」等、子どもの関係の中に潜んでいるものを引き出し、もみほぐすプログラムを展開していた。日本でも、劇団が学校に入って、ワークショプを行うことは、ようやく珍しくなくなっている。

 いじめが解決するとしたら、子ども同士の関係を蝕んでいた「いじめ因子」が関係の再構築の中で「溶解」する以外にない。子どもたち自身が固定的ないじめ関係を離れて、向き合い、協働し、競い、遊ぶ新たな関係に以降することで、「いじめ」めぐる当事者の役割を互いに忘れる時、それが「溶解」だ。

 

 
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 7月9日、世田... 宮古島の帰路... »