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 720日、沖縄の宮古島で開かれる「宮古島夏祭り」に招かれ、久しぶりに宮古島の地を訪れた。最初にこの島を訪れたのは、1977年の21歳当時の数カ月にわたる「沖縄の旅」だった。この時に、宮古島から船で多良間島まで行き、小さな離島の水納島まで行っている。次に訪れたのはしばらくたってから、「喜納昌吉、魂を起こす旅」(月刊「宝島」1978)100頁特集の取材のためだった。当時の沖縄本島を離れて、喜納氏と共に宮古島のカミンチュの家を訪ねた。伊良部島まで足をのばし、ルポルタージュを書いた。

 宮古島最大の「夏祭り」では、日が陰る頃から人が出てくる。子どもたちの駅伝があったり、幼稚園児のダンス等、まだまだ子どもたちが元気な姿を見せて活力を感じさせる。北海道室蘭市から「よさこい」の子どもたちのチームが路上をステージとして力一杯踊ってくれた。世田谷区と宮古島市の間は、「友好都市」として結ばれている。世田谷区の大きな夏の催しである「せたがやふるさと区民祭り」には、毎年宮古島からのブースが出店し、名産物のマンゴーが飛びように売れている。今回は、宮古島からのお招きを受けての訪問だった。

 ホテルからは、まぶしいばかりの太陽とビーチ、青い海が見えた。ただ、見えただけで泳ぐこともなく、立ち去らなければならないのは残念だったが、たった一晩宮古島で過ごし、 語らいのひとときを過ごした。身体は長旅で疲れているが、不思議と元気が出てくる。宮古島から那覇で飛行機の乗り換えの時間を使って、大田昌秀元沖縄県知事の「大田平和総合研究所」をお尋ねした。ロワジールホテルにほど近い「平和研究所」は、研究者として、知事として、追究してきた大田さんの仕事の集大成ともなる「平和の拠点」「情報ステーション」だった。

 一階の写真展示コーナーは一般公開されており、沖縄の歴史、とりわけ苛酷な住民の犠牲を出した沖縄戦の写真が、圧倒的な量で展示されている。アメリカ公文書館にあった写真を丹念に拾いだして、まとめたもので沖縄に住んでいる方はもちろん、観光旅行の際にも立ち寄ってほしい。

沖縄にはすでに南部戦跡に「平和の礎(いしじ)」があり、平和資料館が存在している。ただ、那覇市内から遠いこともあり、大田さんは「身近な場所で戦争を振り返り、私の集めてきた資料も使えるような場所をつくりたいと思った」とのこと。

 沖縄県内は「MV22オスプレイ」の配備をめぐり、緊張が高まっている。85日には、「オスプレイ配備に反対する県民大集会」が開催される予定だという。1996年の「SACO合意」と「普天間基地返還」という大ニュースは、「代替基地建設」とセットであり、その新基地に配備されるのは「オスプレイ」であるのは日米間の共有シナリオだった。ところが、長い間、この事実を伏せ、国会で追及されても避け続けてきた。

 「このまま米軍・米国政府が日本政府の了承を取り付けたからと言って、普天間飛行場への配備を強行することになると、住民感情に火がつきかねない。沖縄の人はふだんおとなしいが、いよいよとなると、怒りが行動に出る。それが、コザ暴動だ。普天間にとどまらず、基地全体に波及するおそれがある」と大田さんは警告する。

 来週、オスプレイは岩国に荷揚げされる。そこから、ふたたび船に搭載されるのか、飛び立って沖縄に向かうのか。全国知事会が反対決議をした「オスプレイ」に対して、野田政権は「黙して語らず」ではおさまらない状況となる。

 



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