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昨夜は阿佐ヶ谷ロフトAで選挙後初めてのトークライヴを開催した。会場には約100人の人々が集い、私が出て行くと大きな拍手を注いでくれた。感謝の一言に尽きる。ゲストに八ッ場明日の会の渡辺洋子さんに来てもらい、この巨大ダムの問題点を洗い出した。私の発言のイントロ部分は、こんな感じで始めたのだった。

 8月30日の激しくまた長い戦いから1カ月半、6週間が経ちました。もうずいぶん長く時間が経ったような感覚に襲われますが、それはこの6週間が日本の政治史上、これまでになかった画期的な政権交代後のパラダイムシフトに立ち会っているからなのでしょうか。

選挙結果が出た翌日から衆議院議員会館の片づけに入りました。2003年11月の総選挙で初めて落選した時、議員会館の片づけをスタッフにまかせて、その後にとんでもない時間と労力を要した経験があったからです。この時は、どの書類を保存すべきなのか、廃棄していいのはどの書類なのかの取捨選択をする時間がなくて、結局はすべての書類をダンボール箱に詰めて世田谷にあった事務所に運びました。ダンボール150箱は20坪の事務所を埋めつくし、座る場所もないありさまでした。数週間かけて約半分の70箱に減らす作業にヘキエキしました。今回は、保存を決めたダンボール箱は約60箱と一定程度に絞り込みました。

 そして、世田谷事務所から今年の1月に杉並事務所に移転する際に、ダンボールに入れて倉庫に預けていた100箱が事務所に運ばれてきました。ここには、前回、悪戦苦闘した70箱も含まれています。結局は、合計すると今回も60箱+100箱=160箱を約半分にする作業に取り組みました。これだけの作業をするには、作業場が必要でした。最後にボランティアに手伝ってもらって、9月末にはどうにか区切りをつけました。

 9月初旬から、連立政権協議が始まり、この期間は社民党本部に連日、通いました。9月9日に連立政権合意が成り、16日には鳩山内閣がスタートしました。社民党からは、福島みずほ党首が消費者庁、男女共同参画担当、少子化担当などの大臣として入閣。辻元清美さんも国土交通副大臣として働くことになりました。鳩山内閣の布陣を見て、18・19両日は杉並区内の主要駅で街頭報告をしました。「惜しかったね」「次は頑張ってね」と通行する人から次々と声をかけられて、チラシ配布にたくさんのボランティアの人たちが集まってくれたことに感激しました。

 選挙後の初仕事は、『週刊朝日』でした。「八ッ場ダム中止はもったいない」との大合唱しか報道しないマスコミが国土交通省の手の平の上で、一方的で歪んだ情報を垂れ流していることに怒り、9月29日~30日と現地取材をしました。それが10月4日発売号に5ページにわたって書いた『八ッ場ダム、隠された真実』というレポートだ。反響も大きく売れ行きも良かったようで、これから事情が許す限りは「国会の質問王が現地を歩く」というシリーズを書いていくことにしました。

 公共事業チェック議員の会という超党派の議員連盟があります。私はこれまで、事務局長をしてきましたが、全国のダム・道路・港湾・空港と歩いて、調査に調査を重ねてきました。全国各地で地方新聞やローカルTV局は議員の会の視察を大きく取り上げてくれましたが、永田町の政治ニュースとして取り上げられたことは皆無でした。しかし、前原誠司国土交通大臣の公共事業の大幅な見直しで大型公共事業である「ダム」「道路」「空港」などのあり方が問題になるにつれて、この議員連盟もクローズアップされてきました。つい先日まで、この議員連盟の会長は鳩山由紀夫さんで、私が事務局長だったのです。

 戦後50余年、自民党政権は続きました。「日本列島改造論」で今太閤ともてはやされた田中角栄元総理が完成した「公共事業中心の土建国家」は、大都市と地方の格差を縮め、「1億総中流」と呼ばれる社会をつくるのにも一役買いました。田中角栄事務所が砂防会館にあったというのは象徴的な事実です。日本の山岳地帯には、数えきれないほどの砂防ダムがあります。山岳地帯の道路の左右には、土砂崩れ防止のコンクリートの土留めがつくられていて、こうした防災予算は地方議会でも費用対効果を冷静に議論したことがありません。

 今回の公共事業の見直しは、「公共事業中心の土建国家」からの脱出の大きなチャンスです。

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