「小沢一郎伝説」は参議院選挙の圧勝で、不動のものになったかに見えた。与野党逆転した参議院厚生労働委員会で「年金流用禁止法案」が可決し、衆議院に送付されたり、守屋防衛次官の参議院外交防衛委員会での証人喚問を議決したりと、従来にない国会が生まれているさなか、福田康夫総理・自民党総裁から「大連立」(記者会見では「新体制」とも呼んだ)を持ちかけられて、回答を留保し民主党に持ち帰ったという。民主党は約1時間の役員会で小沢氏以外のほとんどが反対したために、「拒否回答」をしたという「変な話」である。
日本の政治ドラマをふりかえると、参議院選挙で与野党逆転してことが、かって2度ある。最初は、「リクルート・消費税・農政」の3点セットへの「一票一揆」で19土井社会党が躍進した1989年だ。ところが、社会党のひとり勝ちを横目にしていた公明党・民社党を自民党への部分協力勢力へと覆した急先鋒は、当時の自民党幹事長小沢一郎氏だった。二度目は、橋本内閣が参議院選挙中の「恒久的減税」をめぐる発言で揺れて大敗した1998年だった。この秋、未曾有の金融危機が日本を襲い、当時の菅直人代表が「政局に絡めない」とした隙間をついて、自民・自由連立政権が発足した。この時も自由党党首小沢一郎氏が与党に転じることで、公明党の政権参加への道をひらき、99年「自自公連立政権」が発足する。
さらに、2000年4月1日、故小渕恵三元総理の死の直前に、「小渕・小沢会談」が行われている。「自民党と自由党が合併して新党をつくる」というのが小沢氏の狙いだったが、小渕氏は苦悩の末にこれを拒否、小沢氏は「政権離脱」の方に舵を取る。翌日、小渕総理は脳梗塞で倒れ、密室の5人組によって森喜朗新政権が生まれた。この時も、「自民党と自由党が結婚して新党が出来ないのなら、政権を離脱して野党となる」という小沢氏の論理も「結婚するか、敵味方になるか」という極端なもので、私たちの感覚からは理解しがたい。
昨日の福田総理からの「結婚要請」に対して、どうやら小沢氏は前向きだったようだ。誰がどう考えても、昨日まで「政権交代」を高く掲げて「自公政権打倒」を訴えていたのに、明日から「自公民政権」が出来るといをのでは有権者にまったく説明がつかない。野党は社民・共産だけになり、大政翼賛会化する。そう言えば、1940年に大政翼賛会が出来た頃に「新体制」という言葉が流行した。福田総理が口にした言葉と同じだ。民主党内部でこの「大連立」は否定されてよかったが、自民党と民主党の「大連立」というプログラムが公然と両党首同士で語られたという事実は残る。
守屋喚問でいよいよ防衛利権の解明かと国民の注目が集まった翌日、唐突に「福田・小沢会談」が始まった。翌日に予定されていた国会での党首討論も延期して、昨日の二度目の「党首会談」、それも、一度の休憩をはさんで二度行われるという濃密な関係を思わせた。昨日に起きたことは、必ず将来の日本の政治に「変化」をもたらす兆しのひとつだ。二大政党制をここまで喧伝して、総選挙後に「大連立」する可能性を「理論的に」だけではなくて、「現実的に」に示唆したものとして、野党共闘をしてきた者から見れば、茶番と笑えない深刻な事態である。
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