明日から始まる自民党総裁選挙が終わると、政治日程は「解散・総選挙」になだれこむ。自民党は新総裁を選出して首班指名に臨むのだが、メディアから「本命」と目されている麻生太郎氏が昨年出した『とてつもない日本』(新潮新書)を読み返してみた。帯には「日本の底力はまだまだ凄い--全ての日本人に自信を与える快著」とある。ページをめくると、「日本は必ずよくなる」との中見出しの後で、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障交渉のアメリカ代表だったジョン・フォスター・ダレス氏が、麻生太郎氏の母の肖像画をロンドンの画家に描かせて贈ってくれたエピソードが紹介される。ダレス氏の交渉相手は吉田茂であり、その長女が麻生太郎氏の母だったとある。いわずもがな、麻生太郎氏は吉田茂元総理の孫ということになる。
岸信介のDNAを受け継いだ安倍晋三前総理や、福田赳夫元総理の出来なかったサミット議長役を実現した福田康夫現総理に続いて、またまた戦後保守政治の血の繋がった承継者ですかとげんなりしてしまう。ただし、麻生太郎氏の新書の内容は軽妙な筆致で、「あまり悲観的にならずに自信を持ってやろうよ」という楽観論を基調にしている点は、わからなくもない。「ここが駄目、あそこも出来ていない」と自信喪失していては、何も始まらないと私も思う。マンガ・アニメ・Jポップなどを評価して、サブカルチャーの発信力を軽視すべきでないということも同感である。
ただ、「格差」をめぐる記述には大きな違和感を覚える。駅前に長蛇の列をつくっているタクシーの規制緩和は、タクシードライバーを全産業別で最低ランクの賃金へと押し下げた。この点について、麻生太郎氏の見方はどうだろうか。
『とてつもない日本』(新潮新書)より引用開始
規制緩和によって、タクシー運転手の給与が低下したとか、人材派遣業によりパートが増えて正社員が減ったという話だ。確かに規制緩和でタクシーの数が増え、料金が下がったことで、運転手の平均年収は低下したといわれている。
が、これも考えようであって、マイナス面ばかりではない。もし規制緩和がなかったとしたら、確かに既存の運転手の給与は下がらなかったかもしれない。しかし一方で、不況により解雇された中高年が、運転手として再雇用される機会も減ったかもしれない。その人は失業者になるか、もしくは、より条件の悪い仕事に就かなければならなかったかもしれない。すると、その間の収入はゼロか、今よりも安くなる。
タクシー業界の規制緩和がなければ、所得格差はもっと大きくなっていった可能性もある。パートや派遣社員が増えたので、正規社員との所得格差は拡大したけれど、失業者がその分だけ減っているとすれば、社会全体としての格差は縮小したという面もあるのではないだろうか。
つまり、規制緩和が格差拡大に影響を与えるという論理も、誰と誰をどのように比較するのか、視点によって異なった面が見てくるはずだ。不況、デフレによって低所得者が増えた話と、規制緩和が所得格差を煽ったという話は、別の議論である。(同書95~96頁)
[引用終わり]
「規制緩和でタクシーの数が増え、料金が下がったことで、運転手の平均年収は低下したといわれている」と書いているのは、増車で1台あたりの営業収入が落ちて運転手の年収低下につながった」と言いたいのだろうか。地域によっては、運賃のダンピング競争に陥ったところもあるが、東京のように全体として運賃は維持されながらも、台数増加によって営業収入が低下したところもある。10年前と同じ仕事をしていても収入が半分近くまで減少するということに、政治は責任を持たなければならないのではないか。
物事をどの立場から見るのかで、180度見方が変わってくる。「ワーキングプア」と呼ばれるギリギリの生計を維持するのも困難な超低賃金では、そもそも子どもの高等教育(高校・大学・専門学校)等の学費を捻出することが出来ず、「機会の平等」も保障されない。「本人の努力」「やる気」の問題にすりかえていくのは、小泉元総理の発想である。「教育格差」についても、麻生氏はふれている。
『とてつもない日本』(新潮新書)より引用開始
昔、父に「官立の大学を卒業したい」といったら、「バカヤロー」と一喝されたことがある。「金がないならわかるが、金のある奴が人様の税金を使うようなことをするな! おまえは役人になるのか。東大は役人をつくるための学校なんだ」という。まあ、このときは、ぐうの音も出なかった。
ただ、お金もないのに無理してお嬢様学校に行くことが、娘にとって幸せか、料理人として一流になりたいという夢を無視し、テストの成績がいいという理由だけで医学部を受けさせることが子供にとって幸せか。子供の将来を考えると心配なのはわかるが、大学にいくだけで幸せが約束されるわけではないということは、子供に教えなければいけないと思う。
息子が東大に行くことは、個人的には喜ばしいだろう。だからといって、みんなが東大、東大といい出せばどうなるか。教育制度が破綻するのは当たり前の話なのである。
政治、行政がやるべきことは、国民皆東大入学制度をつくることでは決してない。多様な価値を前提にした教育の機会、選択肢を保障することである。
学校から選択されるのではなく、自らが選択するものになれば、教育格差などという後ろ向きな発想は一掃できるに違いない。(同書100~101頁)
[引用終了]
学校を選択出来る立場にある子どもたちは少数である。麻生氏は「金のあるやつが人さまの税金なんか使うようなことをするな」と父に一喝された出自を隠さない。人間はどんな親から生れるのか、どんな家庭で育つのかを選ぶことは出来ない。だから、「名家」に生れたことは何の批判対象でもない。ただし、経済的にも困窮をきわめている人々が育てつつある子どもたちが「格差の壁」に泣かないような社会を実現する仕事に意欲を持つかどうかは、想像力と共感を蓄える感受性の問題ではないかと思う。「後ろ向きな発想をするな」という麻生氏に、そのまなざしがあるだろうか。
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