TOP PAGE BLOG ENGLISH CONTACT




今日、後楽園ホールのリングから、元世界チャンピオンの輪島功一さんらが死刑確定囚で長年冤罪を訴えてきた袴田巌さん(70歳)の救援のための「再審支援委員会」を発足させアピールをするという。事件から40年、元プロボクサーの袴田巌さんの苦境を知ったボクサーが声をあげ、巌さんの姉、秀子さんや、弁護士が語る機会を得ることを心から嬉しく思う。

私は、死刑廃止議員連盟(亀井静香会長)の事務局長として、自ら冤罪を訴え大量の手紙を書き続けてきたにもかかわらず、最高裁で死刑確定後に静岡地裁で94年に再審開始を認めず、04年に東京高裁で棄却されて、現在は最高裁で係争中の袴田巌さんの救援活動を支援してきた。袴田さんは、90年代の半ばから弁護士との面会を拒否し、さらには肉親である姉の秀子さんと会うことも拒否し始めた。

秀子さんから相談を受けてきた私は、秀子さんとの面会実現を法務省と交渉して実現をはかり(と言っても90秒だったが)、さらに03年には秀子さんと私、そして弁護士3人の計5人で東京拘置所で面会している。袴田さんは、自らつくりあげた架空現実の世界に住んでいて、やりとりも彼の妄想に則して行った。長期にわたる死刑囚としての日々が、彼をして肉親との面会も拒否するという状態に追いやった。

04年8月には、東京高裁の決定があり「再審開始」の道が開けると思って、強く期待したが結果は「棄却」だった。その棄却されたことすら、袴田さんは知らない。裁判関係書類を房に入れても彼は突き返してしまう。だから、「再審開始」が決まっても、弁護士面会はもちろん「開始決定」を知らせることも出来ない状態だ。

当時、書いた『どこどこ日記』を以下に再録することにする。

04年8月22日 袴田巌さんの再審請求に東京高裁決定、今週後半に

 袴田巌さんの再審請求に対する東京高裁の決定が、今週後半すなわち27日以後に出ることが明らかになった。なんという長い孤独な時間を獄中で過ごしたことか。

 袴田さんは元プロボクサーで1966年に勤務先の味噌工場の専務一家4人が殺された上、放火された事件の「犯人」として逮捕されて以来38年もの間、冤罪を叫び続けている。いや、正確に言うならこの10年は沈黙を守っていることも付け加えておかなければならない。

 袴田さんは13年前(1991年)から弁護士と会うことすら拒否してきた。それどころか、姉の秀子さんもここ7~8年は東京拘置所に面会に行っても「袴田という人間はいない」と面会を拒んでいたのだった。1999年に法務省矯正局と事前打合せの上、秀子さんはわずか数分間、面会できた。しかし、秀子さんと挨拶は交わしたが、「巌」と呼びかけると、「そんな人間はいない」とプイと外に出てしまったのだという。

  実は、昨年3月10日に私は東京拘置所で秀子さんと弁護士の秋山賢三さん、小川央さん、岡島順治さんと共に25分間面会している。「全能の神となった私が袴田巌を統合した」と連綿と妄想の世界を語り続ける袴田さんの様子は、長期拘禁と死刑との隣り合わせの緊張のためか、妄想が現実世界を浸食しているかのようだった。

 詳細な面会記録(ここをクリック)

  今年に入って、私は袴田さんの件で姉秀子さんと共に東京拘置所を訪ねた。
新たな事実もわかった。1994年8月の「静岡地裁の最新棄却決定」の文書を座って読んでいる姿が拘置所の記録に残っていた。それ以後、裁判関係書類を差し入れても、まったく読まずに袴田さんは拒否している。

 袴田さんは、一回の食事に1時間以上をかけている。出されてもすぐには食べずに、じっと見つめているという。そして、冷めた食事をゆっくりと食べる。
「運動」も拒否、房の中をぐるぐる回るのが日課だという。「入浴」以外に房の外に出ない。

 静岡地裁で再審請求を棄却されてから10年、袴田さんは一切の裁判関係の情報に触れていない。東京高裁が再審への道をひらくか、あるいは却下するか、いずれの場合でも、本人がこのままの状態だと伝達手段がない。冤罪の悲劇と極度の心身の緊張による拘禁症状の悲劇。袴田さんの決定に耳をそばだてたい。

04年8月26日 逆転へのゴングは鳴るか――袴田巌さん高裁再審決定は?

 いよいよ、袴田巌さん高裁再審決定の瞬間が近づいている。

 私のところにもメディア関係者からの電話が多くなり、昨年の3月に東京拘置所で面会した時のことを思い出している。前回の日記にも書いているように、袴田さんは確定死刑囚としてひとり死刑に向き合ってきた。

 クリスチャンとなった袴田さんは、獄中からの手紙で無実を訴え続けていた。真実は認められる、かならず身の潔白が明かされると信じていたからだろう。しかし、その希望の糸は1994年の静岡地裁における再審請求棄却決定で断ち切られた。まるで、獄中で温めてきた勝利への核心を大なたでぶち切られるように。房内でひとり座って、その決定を読む姿が記録されている。

 袴田さんはプロボクサーだった。白色のライトを浴びて一瞬の死闘に賭ける俊敏な動きで、名誉と勝利をもぎ取ってきた。しかし、過酷にして無理な減量がたたって体調をこわし、やがて引退。事件当時は、味噌工場で働く日々を過ごしていた。

 記録を精読すると、捜査はズサンの一語に尽きる。そして、「元プロボクサー」を「ボクサー崩れ」と呼び「凶悪犯罪を侵しかねない」という予断が、当時の新聞紙面にも色濃い。そして司法は、袴田さんの訴えを退け続けた。今回の再審決定は、地裁決定からなんと10年の歳月を要している。

 昨年春、袴田さんは刑務官につきそわれて、東京拘置所の面会室に現れた。 薄暗い面会室のドアを開けて入ってきた袴田さんは、周囲の様子をうかがうようにして鋭い眼を光らせた。足取りもしっかりしていて、頑健に見えた。

 こうして、面会が始まった。「袴田巌はいない。自分が吸収した」と言い続ける彼に、私は大きな声で「この人がお姉さんの秀子さんですよ」と言った。ほんのわずかの間、袴田さんは秀子さんを凝視した。 「機械が精巧につくり出している偽物だ」と言い、また「メキシコのババア」とも袴田さんは姉を呼んだ。狭い面会室に互いに笑いが洩れたのはその瞬間だった。たしかに、メキシコに秀子さんの顔は、いかにも似合いそう。

「裁判の再審決定が近く出そう。弁護士の秋山先生です」とまた大声で紹介すると、いやいや「袴田巌は勝ったからいいのだ」と言って裁判や再審の話にはまるで乗ってこない。 「また会ってくれますか」と聞くと、「さあどうかな、俺も忙しいんだ」という返事。あれから、17か月、何度面会に行っても袴田さんは出てこない。5月には、姉の秀子さんに民主党の山花郁夫・水島広子・辻恵衆議院議員と伊藤和夫弁護団長、袴田ネットの笹原恵さん、そして私というメンバーで面会を申し入れたが、ついに出てきてくれなかった。 決定を受けて、秀子さんは袴田さんに会うために、東京拘置所に向かう。その時は、どんなに忙しくても出てきてほしい。

 もちろん、いい知らせが持っていけたらベストだが、そうでなくても袴田さんは、自分の再審決定の内容を知る権利がある。長い拘禁症状で絶望している、精神に変調をきたしているから、面会に出たくなければ本人の自由だ――という声もある。はたして、そんな「自由」があるだろうか。

 自由のために人がいて、言葉がある。それを拒否し続けてきた袴田さんは、身体だけでなく精神まで拘禁されたのだ。袴田さんは無実の罪を背負い、逮捕され死刑判決を受けた。その拘禁状態を生んだ冤罪をくつがえすために、袴田さんは姉秀子さんとも、弁護士とも、支援者とも会わなければならないのだ。

 そして、運命の日が近づいている。逆転のゴングの音よ、響け。

04年8月27日 10年目のゴングは鳴らず――東京高裁袴田さん上告棄却

 残念ながら東京高裁は、袴田さんの再審請求に対する決定は、残念ながら上告棄却となりました。早速、袴田秀子さん、伊藤和夫弁護団長、岡島順治弁護士、金田誠一議員、福島瑞穂議員らと共に、袴田さんを訪ねて東京拘置所に面会に行きました。そういう人はいないと面会拒否で会えませんでした。夕方からの日弁連報告集会で報告します。

 日本の司法に再審の扉は錆び付き、開かなくなったのでしょうか。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 共謀罪、与党... イラク陸自撤... »