先日、公園の片隅で、上のような巣箱を見つけた。
どんな人がかけたのか、立派な巣箱だ。
すでに小鳥が出入りした形跡があり、羽毛らしきものが付着していた。
「あっ、いけないっ!」
私にある予感が働いた。誰かに抗議されるかもしれないと思った。
それには理由がある。
10日ほど前のことだ。
日差しが温かかったので、カメラを持って、同じ公園をぶらついた。
公園の中を小川が流れている。その小川に、柔らかい日差しが射していた。
「水辺の草を撮ろう」
小川の辺へ寄った。柔らかい草が生えかかっていた。
そのとき、
「近寄らないで下さいよ!」
と、抗議調の刺々しい声が私に突き刺さってきた。
「・・・?」
何を言われたのだろうか?抗議された理由が、すぐには呑み込めなかった。
「カメラマンの常識でしょう!」
納得がいった。離れたところから、彼は鳥の撮影をしていたのだ。そのエリアに踏み込んでしまったらしい。
つまり、勝手にカメラを据え付け、自分のエリアを主張しているのだ。
私はそれを知った上で踏み込んだのではない。散歩の流れの一環だったのだ。まして万人に共有の公園内ではないか。
オマエの目的なんぞ知ったことか!ここは公園だぞ!
言いたかったが抑えた。そんな大人げないことはしたくない。
カメラマンの場所争いが多いと聞く。実にあさましい。エゴがむき出しなのだ。
以前、長い時間同じ場所にへばりついている女性がいて、撮りたい花を撮れなかったことがあった。
「なんとまァ、自分しか見えていない人らしい」
そんな思いを抱きながら、そこを立ち去ったことがあった。
「たかが趣味のカメラではないか」
そのように私は思う。彼の「探鳥撮影エリア」に立ち入ったのはまずかった。しかし、それなりの言い方で伝えてくれてもいいではないか。
過去にそのようなことを経験していたので、私は素早く巣箱から離れた。
頭の薄い爺様が、レンズを覗いているかもしれない。
ウカウカと散歩もできないこの頃だ。
このようなエゴにこだわる前に、我々には考えるべきことがあるではないのか。
社会を壊しているのは、若者や子育て世代だけではない。
そのような世代を育てたばかりか、今もなお社会を壊している。
いい歳をして、それを自覚していない。
私もその一員だ。ブログで憂さを晴らしているいること自体、問題かもしれぬ。
巣箱かけ悪童どもの遠めがね 鵯 一平
悪童なら可愛いが、禿げ爺では喧嘩になりそう。逃げるが勝ちと決め込んだ。
このような五七五は、俳句ではないかもしれない。
別館として、写真俳句ブログの「ひよどり草紙」を開いてます。
ご覧いただけると嬉しいです。
→ こちら
私はカタクリの里を散策した時にカメラマンが足元の小さなカタクリを踏みつけ、接写している方をみました。
それを知った他の方も「足元のカタクリを踏んでいますよ !!」と 声をかけても知らんふり。 その後、恥ずかしそうな顔で退散していきました。
他人のなりふりを見て、わが身を育てることは本当に大事ですね。
何という傲慢な物言いなのでしょう。そうして撮った写真は、きっとエゴ丸出しの「絵」だと思いますよ。
うっかり、反論、注意をすると物騒な世の中ですから、引き下がるしかありません。
……遠めがね、の句で、フィールドスコープを求めるか否かに、一時夢中になったのを思い出しました。
それにしても立派な巣箱を公園に備えての、野鳥探鳥の撮影とは恐れ入る次第です。
恥ずかしそうな顔をしただけいいかもしれませんよ。
とにかくひどいヤツがいます。
被写体と自分の間には他人を入れない!
そのようなヤツに限って、カタクリを踏んづけたりするのかもしれません。
そんなことを言っている私も、どこで何をしているか自信はありません。
自覚がないだけかも知れませんね。
今の世の中、エゴ丸出しが多い。
そんなヤツのほうが強いのです。
老人がいけませんね。
緊張感がなくなってきたのでしょうか。
我が儘が多いです。
この巣箱、誰がしかけたのかは確認していません。
公園管理者の善意かもしれないし、子供たちの遊び心かもしれません。
凄いなあと思いましたが、逃げたのです。
はてさて、私はどうでしょう?
「はいくもどき」を続けていますが、短い中に何かを表現するのは難しいですね。
先輩の本物俳句を、勝手にお手本にさせていただいています。お許しを・・・
コメントが遅れてごめんなさい。
俳句は面白いのですが、とても奥が深く、難しいですね。
私は「本物俳句」とはほど遠いのですが、飽きずに努力中です。
お手本にしてはお粗末なので、とても申し訳なく思います。
駄目見本としてご活用下さい。