大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

ちょっと気になる亀戸天満宮の梅~寒風に蕾膨らむ三分咲き~

2012年02月28日 14時27分59秒 | 江東区・歴史散策
今日も晴れてはいるものの気温7度と肌寒い気候。例年にない厳寒の日々がつづき、各地の梅の名所では開花が遅れ、花見の客も足が遠のいて商売があがったりという状況が起こっているようです。

天満宮大鳥居と梅の花

そんな寒風をついて、観梅で知られるお江戸下町の亀戸天満宮へと開花状況を見に行ってきました。境内には紅梅、白梅、蝋梅など合計300本の梅の木があるのですが、見ごろはまだまだといったところです。

本社殿脇の梅の木

天満宮では2月4日から梅祭りが開催されていますが、境内の梅の花はせいぜい二分から三分咲きで、少しずつ膨らんだ蕾が枝いっぱいについている様子が覗われます。

紅梅
ほんの少し開花した白梅

朱の大鳥居の脇の梅の木には紅梅が咲き、鳥居の朱色と紅梅の紅色がコントラストを見せています。それでも境内の何本かの梅の木は満開とまではいかなくとも、それなりに可愛らしい花を咲かせているものもあります。

社殿と紅梅

3月に入り少し気温が高くなれば一気に開花するのではと期待しつつ境内を散策してみました。
社殿の入口には大宰府からの紅白の梅の盆栽が置かれ、参拝客の目を楽しませてくれます。

大宰府の梅(盆栽)

スカイツリーのお膝元に鎮座する天満宮からは太鼓橋(男橋)の擬宝珠とスカイツリーのコラボが楽しめます。

擬宝珠とスカイツリー

「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春ぞ忘るな」の通り、まもなく訪れる春風が吹く季節にはきっと満開の梅を楽しむことができることでしょう。そんな日が訪れるのはいったいいつなのでしょうか?

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日本一小さい大神宮には見事な灯明台が~下総船橋の意富比神社(船橋大神宮)~

2012年02月22日 11時27分06秒 | 地方の歴史散策・千葉県船橋市
下総船橋には日本一小さな東照宮と並んで、もう一つ「日本一小さい大神宮」が鎮座するという。
そうであればと、船橋東照宮からさほど離れていない場所に社殿を構える大神宮へと足を延ばすことにしました。

船橋大神宮本社殿

船橋東照宮が鎮座する御殿通りから、船橋の南を東西に貫く本町通りを東へと進むことわずか300mほどで裏参道と思われる鳥居が立つ神宮下交差点に突き当たります。

神宮下からつづく石段

どれほど小さい大神宮なのか、と思いきやこんもりとした木々に覆われた鎮守の森が広がっているではありませんか。境内へとつづく石段を登っていくと、その傍らに「漁師町講中」と刻まれた石標が置かれています。

漁師町講中の石標

ここ船橋は江戸時代から江戸湾に面した漁師町で、現在でも東京湾の汐の香りが漂う昔ながらの港町といった風情を漂わせています。そんな船橋の猟師たちが集まってつくった組合は「漁師町講中」と呼ばれていました。そして猟師たちが海辺に面した小高い丘の上にたつ当社を信仰の対象としていたことを覗わせる記念碑なのではないでしょうか。おそらく丘の上に鎮座する大神宮は海上に浮かぶ船からの目印であったり、更には遠見台としてたいへん重要な場所だったのでしょう。

石段を登るとやはり本社殿の裏側又は脇の参道がつづいており、その参道脇には祠や神輿蔵が並んでいます。

境内の祠
祠と神輿蔵

その裏参道から回りこむように進むと、本社殿がこんもりとした木々の中に静かに佇んでいます。「日本一小さい大神宮」と称される当社ですが、立派な社殿を見るかぎり、なぜ「日本一小さい」のか理解に苦しみます。

本社殿

当社の創建は遥か昔の貞観5年(863)に遡ります。正式な名は太陽神である「意富比神(大日神)」を祀っていたことから「意富比神社」が創建当時からの名称のようですが、時代の変遷で御神体として「天照皇大神」を祀るようになり、次第に意富比神社の社名が忘れられ、船橋神明又は船橋大神宮と呼ばれるようになったと言われています。尚、当社には神君家康公、二代将軍秀忠公も合祀しています。

船橋大神宮の長い歴史の中で、朝廷や将軍家からの崇敬を受け、あの平将門、源頼朝そして神君家康公からも社領の寄進や社殿の造営などがなされた由緒ある神社なのです。

社殿に向かって右手に進んでいくと、さらに小高い場所に立っているのがなんと「灯明台」、すなわち「燈台」があるではありませんか。境内の中の小高い丘は標高27mの高さがあるということなのですが、なぜここに燈台があるのかというと、前述のようにここ船橋は江戸の昔からの漁師町だったことから、海を臨む高台に位置する当社の境内には夜間に漁に出る猟師たちの航海の目安となる「常夜の鐘」がもともと置かれていたそうです。

灯明台
灯明台

しかし幕末の慶応4年(1868)の戊辰戦役によってこの「常夜の鐘」は焼失してしまったらしいのです。その後、明治13年(1880)に地元の猟師たちや有志らの手によりこの小高い丘の上に灯明台が建設され、現在にいたっています。

尚、この灯明台は設置後15年間にわたって使用していたのですが、なんと当時としてはかなり優秀な燈台で光は11km(6海里)先まで届く能力を持っていたそうです。外見をみると、1階と2階が和風造りで、3階の灯室が西洋風の和洋折衷様式の魅力ある姿を見ることができます。

外宮神域

かなり広い境内には「外宮」の神域が設けられ、表参道側の入口には大鳥居が構えています。

表参道の鳥居
意富比神社の石標
本社殿へつづく表参道

これほどの神社であれば、なぜ当境内に東照宮を勧請しなかったのかと疑問を持つと同時に、それなりの由緒、格式をもった当船橋大神宮がなぜ「日本一小さい大神宮」と呼ばれているのかの理由がわからないまま中途半端な気持ちで辞することにしました。




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下総船橋の日本一小さな東照宮

2012年02月21日 17時04分42秒 | 地方の歴史散策・千葉県船橋市
先日、都内及び近郊の歴史散策のネタ探しをしていたところ、なんと千葉県の船橋市に「日本一小さな東照宮」があるというではありませんか。船橋と神君家康公との繋がりも興味が湧くところではありますが、それ以上に「日本一小さい」と強調していることに居たたまれず、早速でかけることにしました。

船橋東照宮鳥居

久しぶりに気温10度を超え、風もない小春日和の中、東京メトロの東西線に乗り一路西船橋へと向かいます。西船橋でJRに乗り換えると次の駅が船橋です。東京の東に位置する江東区に住む私にとっては、西船橋まではものの20分程度の距離です。

賑やかな西船橋駅を下りて、海側に開けた繁華街をしばらく南下します。京成線のガードをくぐるとすぐ左に折れる狭い路地が現れます。この路地がかつて「御殿通り」と呼ばれていた道なのですが、なぜ御殿通りと呼ばれていたのでしょうか。

実はここで神君家康公とこの御殿通りが繋がってくるのです。開幕後、家康公は2年足らずで征夷大将軍を息子である秀忠に譲り、その後は大御所として二代将軍秀忠公の政を後見しつつ、駿府と江戸をしきりに往還する日々を過ごしていたようです。

将軍職を秀忠公に譲ったものの、元気そのものの家康公は秀忠を連れて大好きな鷹狩を行いながら、地方の巡検を精力的に行っていたようです。そんな鷹狩の場所は江戸川を越えた下総、そして更には上総にまで足をのばすのですが、当然のことながら大御所や将軍が休息や宿泊する場所をそのルート状に設けなければなりません。その場所のことを「御茶屋」又は「御殿」と名付ていました。

家康公は慶長19年(1614)に上総土気(とけ)そして東金で鷹狩を挙したことが記録で残っています。そして翌年の元和元年(1615)に家康公は再び上総東金へ鷹狩に出掛けるのですが、その時に船橋に設けられた「御殿」に宿泊しています。家康公が船橋御殿に宿泊されたのは、この時が最初で最後だったのですが、秀忠公はその後もたびたび船橋の御殿で宿泊されていたようです。

そんな歴史をもつ船橋御殿へと通じる道筋が現在でも「御殿通り」と呼ばれ残っているのですが、かつて御殿があったと思われる場所は、民家が連なる住宅地へと変貌しています。

尚、徳川将軍家の上総東金での鷹狩は家光公の御代である寛永7年(1630)頃には終わり、船橋御殿の敷地は船橋大神宮の宮司に与えられ、その後開墾されて畑となったと伝えられています。

神君家康公がこの地、船橋御殿で宿泊されたという縁があるがゆえに前述の船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に船橋御殿の跡地に造ったのが、船橋東照宮なのです。

住宅街の中につづく御殿通りを進んでいくと、特に東照宮を指し示す道標も見当たりません。おそらく誰もが道に迷うのではと思いつつ、私も道を折れずに直進し行き過ぎてしまいました。すぐに気がついて戻ると、自動販売機の陰に小さな道標が立っているではありませんか。

路地奥の船橋東照宮

やっと辿り着けるという思いでさらに細い路地を進んでいくと、前方にそれらしい鳥居が見えてきます。「日本一小さい」ということは最初からわかっていることなのですが、それにしても本当に小さいのです。敷地もさることながら、拝殿なんてものじゃなく、小さな祠といった感じです。

一応東照宮の社殿

ただ救われるのは徳川将軍家の葵のご紋が入った幕が祠にかかっていること。東照宮といえば、権現造りの御社殿をイメージするのですが、ここの東照宮はお稲荷さん程度の祠で極彩色の社殿なんて到底イメージできるものではありません。

東照宮
東照宮

祠の中を覗いてみると、なにやら文章が見えます。その文章はまごうことなくあの神君家康公の有名な遺訓。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。 不自由 を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。」



猫の額ほどの境内の一角にある手水舎の柱に「東照大権現家康公、徳川二代秀忠公に感謝します」と書かれた木製の札が立てられています。

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御三家水戸三十五万石の城下町~水戸東照宮と弘道館と黄門様~

2012年02月20日 14時23分12秒 | 地方の歴史散策・茨城県水戸市
思い起こせば水戸を訪れるのはかれこれ30数年ぶりのこと。東京からさほど離れていない距離にあるのですが、とんと訪れる機会はありませんでした。この度、某旅行会社の旅行説明会での講師役として久しぶりに水戸を訪れる機会を得ることができました。説明会終了後のほんの僅かな時間を利用して市内に残る水戸藩ゆかりの旧跡を巡りましたが、日没が早い冬のため午後4時を回ってからの散策のため、画像によっては若干鮮明さに欠けてしまいました。

水戸東照宮

2月に入って厳しい寒気に覆われている北関東は晴れてはいるものの肌をさす寒風のもと、例年ではそろそろ開花する梅の花もほとんど蕾の状態で、水戸の梅林で有名な偕楽園の梅の木もほとんど開花していない状況です。

そんな寒空の下で、私を迎えてくれたのがJR水戸駅の北口に立つあの有名な水戸のご老公こと黄門様と助さん、格さんの石像です。やはり水戸徳川家を代表する人物といえば、この方、水戸藩第二代藩主である光圀公ではないでしょうか。テレビのドラマ「水戸黄門」で常に勧善懲悪を貫き通し、ドラマの各回の最後に「この印籠が目に入らぬか。ここにおわすは先の副将軍である水戸光圀公にあらせられるぞ。頭が高い。控えおろう。」という名台詞が頭によぎってきます。

ご老公と助さん、格さん

ここ水戸は徳川御三家の一つである水戸徳川家の城下町で、遡ること慶長14年(1609)に家康公の十一男である頼房公が初代藩主となってから幕末の慶応4年に就任した十一代の昭武公までの260年間の長きに渡って治められてきた土地です。

そんな土地柄ゆえ、古い家並みや歴史的建造物がふんだんに残っているかというと、あにはからんやそれほどでもないのです。

まずは御三家の水戸藩お膝元に鎮座する神君家康公を祀る「東照宮」へ向かうことにしました。水戸駅からわずか数分の距離に社殿へと通じる表参道があります。その参道入口に朱の大きな鳥居が迎えてくれます。

東照宮表参道鳥居

鳥居をくぐり参道を進むと、左手には古くから建っていたような佇まいの商店街がつづいています。ちょうど商店街の中ほどあたりに小高い山の上につづく石段が現れます。この山が「常盤山」と呼ばれ、権現様が鎮座している場所なのです。

山頂へつづく石段

御三家の城下に鎮座する東照宮ということで、壮麗な社殿群を想像していたのですが、石段を登りきったところから眺める社殿は歴史的な古さをあまり感じさせない姿で若干興ざめかなといった風情を漂わせています。

というのももともとの水戸東照宮の創建は元和7年(1621)に遡りますが、江戸時代には常盤山全体に絢爛豪華な社殿群や歴代将軍の霊を祀る霊屋や相殿が並んでいたようです。大正時代には創建当時の社殿群が国宝に指定されていたのですが、昭和20年の米軍による空襲ですべて焼失してしまったのです。現在見る社殿は昭和37年(1962)に再建されたものです。

石段を登り境内に足を踏み入れると、すぐ左手に見えるのが「常盤山時鐘」と呼ばれる鐘楼堂です。この鐘はあの黄門様で知られる光圀公が城内の時報を知らせる太鼓の代わりに造らせたものでたいそう貴重なもののようです。いわゆる水戸御城下の「時の鐘」だったのです。

常盤山時鐘

境内を進んでいくと赤い柵の中になにやら基壇らしきものが置かれています。おそらく燈籠とおぼしきものなのですが上部がありません。境内の見取り図をみると、社殿前に対で置かれていたものは「銅燈籠」なのですが、ちょうど1年前の東日本大震災で燈籠の上部があの激震で折れてしまったのではないでしょうか。説明によるとこの銅燈籠は慶安4年(1651)に水戸徳川初代藩主の頼房公が奉納したものだそうです。2基の燈籠ともに上部がなくなっていました。

銅燈籠の基壇部分

社殿は前述のように昭和の時代に再建され、コンクリート造りになってしまいました。拝殿入口には水戸徳川家の葵の紋が嵌め込まれています。かつては水戸藩が藩の威信をかけて造った壮麗な姿の御社殿でこの場所にあったのでしょうが、時代の変遷の中で被った戦災により創建当時の姿が失われてしまったのは誠に残念です。

東照宮拝殿
拝殿入口の葵御紋
東照大権現の扁額
末社の天満宮

とは言っても、大好きな家康公を祀る東照宮にお参りできたことを感謝しつつ、市内に残るもう一つの歴史的建造物であるとともに、幕末期における水戸藩の藩政改革の重要な施設であり、現在国指定特別史跡・国指定文化財に指定されている「弘道館」へと進むことにしました。

冬の陽射しが西へ傾きはじめ、ビルの狭間に入ると陽射しが遮られ肌寒さを感じます。東照宮からはちょうど反対側に位置する方向に「弘道館」があります。

弘道館へと通じる銀杏坂と名付けられている坂道を進み、登りきったところに現れるのが三の丸小学校の入口門ですが、当時の面影を残すような門構えが洒落ています。

小学校の門

実はこの小学校がある敷地はかつての弘道館が有していたもので、この一画はかつての面影を残すように瓦屋根がついた塀で囲まれています。

弘道館を囲む塀

その塀に沿って進んでいくと弘道館の正面入口へと到着します。弘道館は幕末期である天保12年(1841)に水戸九代藩主である斉昭公が創設した藩校です。幕末期において外国勢力が日本に迫りくる中で、それまでの藩是とは異なる先進的な構想をもって、優れた人材を養成する目的で造られたのが弘道館です。

弘道館の正門

幕末期を代表する長州藩の萩、明倫館や幕府の昌平校に勝る規模で建設された弘道館は斉昭公のなみなみならぬ情熱を感じさせてくれます。

そんな弘道館の入口である正門が威厳をもって迎えてくれるのですが、ここ弘道館の主要建造物である正庁(学校御殿)と至善堂も東日本大震災で多大な被害を被り、現在これらの施設内部の見学はできなくなっています。そのため敷地内の見学のみとなっていることで、入場料は無料で入ることができました。建物の外観を見る限りでも、かなりのダメージを負っているようで、完全修復までにはかなりの時間がかかるのではないかと思います。そんな被害状況はYou Tubeで動画を見ることができますので、参考までに下記にURLをお知らせいたします。

http://www.youtube.com/watch?v=erwVenFnBTc

重要文化財の正門の脇の入口から敷地内へと進むと、正面に現れるのが「正庁」の建物です。無残にも正庁入口の脇の白壁が剥げ落ち痛々しい姿になっています。内部の見学ができないため、正庁の建物をぐるりと回りこむように敷地内を歩いてみました。

正庁玄関
正庁外観
正庁外観
正庁外観

正庁に付属する至善堂も外から眺めるだけでも地震によるダメージが処々に見ることができます。もし、もう一度来る機会があればこの貴重な歴史的建造物の内部を見学したいと思います。

至善堂外観
至善堂外観

後ろ髪を引かれる気持ちで弘道館を辞すると、歩道の脇に「徳川慶喜向学の地」と刻まれた石碑が置かれています。徳川最後の将軍となってしまった慶喜公が若き頃、まだ七郎麿と呼ばれていた時代にお城からほど近いこの弘道館に通い勉学に勤しんだことを記念する石碑です。また慶喜公は薩長の策略によって、はからずも朝敵の汚名をきせられ江戸の寛永寺での謹慎から水戸に下った後、ここ弘道館の一室でも謹慎をした経緯があります。

徳川慶喜向学の地碑

徳川御三家でもあり、最後の将軍である慶喜公の出身藩である水戸徳川家は尊王を藩是としていたにもかかわらず、維新政府からは冷遇され、新政府には誰一人として取り立てられなかったことを思うと、その悔しさや口惜しさは耐え難いものがあったのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、弘道館の正門からお城へとつづく大手橋へと進んでいくと、その道の傍らに九代藩主の斉昭公の像が立っています。

斉昭公像

かつてはこの大手橋を渡ったところに大手門の櫓が置かれていたようですが、現在は門も櫓もなくお城へとむかう道が大きく蛇行している姿が登城の道を示しているだけです。

大手橋
大手橋

大手橋から下をみるとかつてはお濠があったのではないかと思われる場所が現在は道路になっています。急な石段を下って道路におりて、水戸駅へと戻ることにしました。その途中、義公生誕之地の道標を見つけたので立ち寄ることにしました。

水戸黄門神社
水戸黄門神社

現在、その場所には「水戸黄門神社」なるものがお社を構えていますが、このお社も震災の被害を受け、祠前に置かれた石碑、石版などが崩れ、いまだそのままになっている姿をみるにつけ、黄門様も被害の甚大さに心を痛めておられるのではないかと思うばかりです。

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江戸東京博物館常設展見学

2012年02月16日 11時35分28秒 | 墨田区・歴史散策
今にも冷たい雨が降り出しそうな空模様を見ながら、今日のお江戸散策はあきらめ久しぶりに両国の「江戸東京博物館」見学へそそくさと出掛けた次第です。

今日の江戸博は特別展示の催しはなく、通常の常設展示なのですが平日にもかかわらず小学生の課外授業や東京見学の団体客でかなり混雑していました。

当ブログではこれまで江戸博の内部の様子や展示物を紹介したことがありません。個人的には何度も訪れている場所なのですが、お江戸に関する展示物は何度見ても見飽きることがないんです。その展示物の多くは複製や模型なのですが、江戸時代の雰囲気や暮らしぶりなどを垣間見る場所としてはかなり充実していると思います。

常設展は6階が入口となっています。エレベーターを降りると薄暗い館内に浮かび上がるのがお江戸のシンボルとして誰もが知る「日本橋」です。お上である幕府が造った官製橋を示す宝珠が欄干に取り付けられています。展示されている「日本橋」は幕末期のものを再現したもので、当時と同じケヤキと檜を使って復元されています。

日本橋の宝珠

日本橋から左手を眺めると復元された歌舞伎の芝居小屋「中村座」の官許を示す「櫓」が目に飛び込んできます。小屋の正面には役者の名前や絵看板が掲げられ、顔見世興行らしい華やかさを感じとることができます。

橋上から見た中村座

日本橋を渡りきるとそこは江戸ゾーンと呼ばれるエリアに入ります。そこには江戸初期の寛永時代の江戸城大手門前の大名小路にあった越前福井藩主・松平伊予守忠昌の上屋敷を30分の1の縮尺で復元した模型が置かれています。

松平伊予守忠昌の上屋敷模型
屋敷門
屋敷の御成門かな?

江戸ゾーンにあるもう一つの見どころは神君家康公の「寿像(複製)」です。この寿像は家康公が60歳のころの等身大の像で徳川家菩提寺である芝増上寺敷地内にある安国殿に祀ってあったものなのです。「安国」とは家康公の法名である「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」によるもので、安国殿は家康公没後の元和 3年(1617)に竣工しました。オリジナルの寿像は増上寺脇にある芝東照宮に祀られているといいますが、私はそのお姿を見たことはありません。

寿像

江戸ゾーンのある6階から5階の江戸ゾーンへと場所を移しましょう。まずは江戸ゾーンの中心的な復元展示物である「芝居小屋・中村座」の前に行ってみることにしました。

芝居小屋の櫓
芝居小屋看板

説明書きによると19世紀初期の中村座を復元したものとあります。江戸時代の歌舞伎の芝居小屋は幕府の改革の中で風俗取締りの憂き目に会い、その所在地が目まぐるしく変わった歴史があります。19世紀初頭ということはちょうど天保の改革が断行された時期で、それまで木挽町にあった中村座・市村座・森田座が浅草寺裏手の浅草聖天町へと強制的に移されています。聖天町はその後、猿若勘三郎の名に因んで「猿若町」と改名され、江戸における一大芝居町へと発展していくことになります。

復元された芝居小屋は毎年11月に行われていた顔見世大歌舞伎興行の芝居小屋を表したもので、顔見世興行のときにだけあがる「櫓」が取り付けられています。「櫓」とは籠のような骨組みに2本の梵天と5本の槍を組み合わせ、これに座の定紋を染め抜いた幕で囲ったものです。この櫓をあげていることが官許の芝居小屋である証だったのです。

そして芝居小屋のすぐ側に展示されているもう一つの展示物が高さが数メートルもある大きな山車です。この山車が江戸三大祭の一つである神田明神の神田祭で使われたものなのです。

神田祭の山車
山車と日本橋

「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と言われているように、明神様の山車は江戸一番の壮麗さを誇っていたのです。現代の神田祭ではこのような山車が繰り出すことはありませんが、お江戸の時代にはこの山車が江戸城内まで繰り出し、将軍上覧の栄誉を得ていたといいます。

それでは江戸ゾーンの展示エリアへと進んでいきましょう。まず目につくのが建築物の大きな模型なのですが、これがあの三越の前身である江戸時代の「三井越後屋」の様子を表したものです。

三井越後屋模型
三井越後屋模型

この縮尺模型からでも、さすがお江戸一番の大店であったことが覗えます。江戸時代の三井越後屋は現在の日本橋三越本店がある場所なのですが、今から200年前の日本橋が克明に描かれた絵巻物『熈代勝覧(きだいしょうらん)』を見ると、三井越後屋はちょうど中央三井信託銀行がある場所ではないかと思います。平成の世でも三越百貨店の建物が日本橋の袂から始まり中央三井信託銀行までのワンブロックを占めていることを考えると、お江戸を代表する老舗の偉大な歴史を感じざるを得ません。

熈代勝覧の三井越後屋部分

5階の江戸ゾーンには江戸の暮らしに関しての数多くの展示がありますが、当ブログではこの程度で写真紹介このくらいで終わらせていただきます。尚、当博物館の展示は江戸時代だけでなく、明治以降の東京を紹介する展示を見ることができます。そんな展示の中で幾つかを写真でご紹介いたしましょう。

国立第一銀行模型
浅草十二階模型

寒い冬の一日、暖房の効いた快適な博物館で思い存分楽しんだひとときでした。





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日光街道脇に残る江戸民家の長屋門

2012年02月14日 15時23分36秒 | 足立区・歴史散策
足立の西新井駅からさほど離れていない旧日光街道の傍らに、周囲の景色にそぐわない、古めかしい建造物を見つけました。遠目からみてもかなり年代ものといった風情を醸し出し、異様とまでは表現できないまでも長い歳月を経て、頑固なまでにその存在感を誇示しているかのような風貌を感じる歴史的な建造物なのです。徳川家ゆかりの国土安穏寺からすぐの所です。

長屋門

足立区以外の都内ではとんとお目にかかったことがない建造物であることは確かなようです。創建は江戸時代の文政4年といいますから今からおよそ190年前のものなのだそうです。

実はこの建造物は武家の屋敷のものではなく、文政の時代にこの辺りを治めていた名主の屋敷に構えていた長屋門であったのです。

長屋門

現在、この辺りの地名は「島根」と呼ばれていますが、お江戸の時代には日光街道沿いに開けた田畑が広がる村落があったのでしょう。その村落の名が当時は島根村と呼ばれ、その長がここに住んでいたわけです。この長屋門を調べていると、当時ここに住んでいた名主の名前が「牛込氏」と言い、この牛込氏は通称「金武様」と呼ばれていたようです。

金武様の意味を調べているのですが、いまひとつ判りません。「金」が付されていることから想像するに島根村の大金持ちの名主だったような気がします。

この牛込氏は幕末期にはなんと島根村の8割を占める大地主であったと言われています。余談ですが、この長屋門から竹ノ塚へ向かう途中、ちょうど旧日光街道から分岐する奥州街道古道の道標がある場所に、それはそれはお城のような豪邸を見つけました。門構えはまるで武家屋敷のようなこの豪邸の持ち主が、前述の大地主である(おそらく今も大地主ではないかと思います)牛込氏の「館」だったことを思い出しました。また、この豪邸のすぐ側に社を構える氷川神社の玉垣には牛込氏の名前がでかでかと刻まれていました。

尚、この長屋門は現在は赤羽氏が屋敷とともに買い受け、所有者は変わっているようです。しかし、お江戸の時代であっても、島根村のお百姓さんたちが気軽に名主さんに会いにこれないような門構えのような印象を受けてしまいました。

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お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺



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お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺

2012年02月13日 13時27分46秒 | 足立区・歴史散策
竹ノ塚駅から楽しむ一駅散歩の終着点はなんといっても足立を代表する名刹「西新井大師総持寺」でしょう。創建は826年、弘法大師様により創建された古刹で、西新井大師とよばれる謂れは本堂の西側に「加持水」の井戸があったことによります。

西新井大師大本堂

一駅散歩とはいえ結構な距離を歩いたように感じます。大師様の最寄の駅は東武伊勢崎線の西新井駅から分岐する大師線の「大師前駅」となります。川崎大師しかり、柴又の帝釈天しかりでたくさんの参拝客のために本線から分岐させて支線を敷設したため、大師線は西新井駅からわずか一駅しかありません。

地の利がわからず、まずは大師前駅へと足を進めることにしました。近代的な駅舎を横目で見ながら参道口方向へ進むと、ようやく門前町らしい雰囲気が漂ってきます。その道すがらやけに目立つのが「せんべい」を売る店なのですが、どこの門前町でも目にする光景です。

参道と山門

そんな通りを抜けて進むと山門へと通じる参道入口へとさしかかります。遠目に山門が構え、その山門に通じる参道脇には参詣客向けの土産屋や名物の「草だんご」を売る店が並んでいます。

「草だんご」と聞くと、柴又の帝釈天の草だんごがあまりにも有名なのですが、どちらが元祖、本家なのか聞いてみたいものです。

余談ですが、実は「男はつらいよ」はここ西新井大師を舞台に映画撮影をすることを予定していたらしいのですが、なんとも残念なことにお寺から断られてしまったようです。そのため葛飾の柴又帝釈天が選ばれ、今となって「寅さん」ゆかりの門前町・柴又の帝釈天として日本全国に知れ渡るようになったのはラッキーといってもいいのではないでしょうか。もし西新井大師が寅さんの舞台であったならば、参道脇の団子屋さんがきっと有名になっていたのかもしれません。

団子屋さんの呼び込みを振り切りながら、大師様の堂々とした山門前に進んできました。冬の低い西日が届かない山門は澄みきった青空を背景にしてシルエットのように浮かびあがっています。この山門は江戸後期に建てられたもので、山門両脇に金剛力士像が祀られています。

山門

山門をくぐり参道を進むと正面に見上げるように構えるのが大本堂です。堂々としたその姿は境内の中でひときわ存在感を示しています。

境内には大本堂の他に塩地蔵の祠、六角観音堂、不動堂、鐘楼堂、光明殿などの諸堂が配置されていますが、その中でも最も興味深い建造物が「三匝堂(栄螺堂)」です。

六角道
鐘楼堂
光明殿
光明殿

一般的に「さざえ堂」と呼ばれている建造物なのですが、現存しているものは日本全国でも数少なく、かなり貴重なものなのです。もちろん都内で現存する唯一のものです。

三匝堂(栄螺堂)
三匝堂(栄螺堂)

さてこの「三匝堂(栄螺堂)」ですが、江戸時代に深川(現在の西大島)の羅漢寺にその起源をもつもので「さざえ」と名付けられていることから、お堂内部の造りが「さざえ」のように螺旋状の階段で結ばれ、堂内に安置されている数多くの大師像、仏像を拝みながら巡ることができるようになっています。現存する他の「三匝堂(栄螺堂)」と比較すると、まるで三重の塔のように見えますが、これは塔婆建築ではなくいわゆる「三匝堂(栄螺堂)」に分類されるものです。尚、この「三匝堂(栄螺堂)」は江戸期の天保時代にその建立の起源が記述されていますが、現在のものは明治時代に再建されたものです。また残念ながら、現在内部を拝観することができませんでした。

弘法大師様のご利益もさることながら、めったに見られない「三匝堂(栄螺堂)」の姿を間近に見ることができたことに満足し、今回の足立散策の〆といたしました。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…



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東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺

2012年02月11日 14時02分41秒 | 足立区・歴史散策
日光道中の旅すがら、足は気の向くままに東武伊勢崎線の竹ノ塚駅前に到着。この竹ノ塚駅からさほど離れていない場所にあの東海道五十三次の錦絵を描いた浮世絵師「初代安藤広重」が眠る寺、東岳寺があるという。

東岳寺本堂

初代ということで、あの東海道五十三次を描いた正真正銘の安藤広重のことなのです。余談ですが広重の襲名者は全部で5人、すなわち五代にわたって広重の名は引き継がれていたのです。ちなみに五代目歌川広重は明治23年生まれで昭和42年に亡くなった方で、活躍した時期は大正から昭和にかけてのことで、それほど大昔の話ではありません。

話を元に戻し、初代安藤広重が生まれたのが江戸時代の寛政9年(1797)のこと。彼、広重の名声を決定づけたのが、ご存知の「東海道シリーズ」を発表した天保4年(1832)頃。これにより風景画家としての名声はゆるぎないものとなり、東海道シリーズのほかに「六十余州名所図会」、「名所江戸百景」などあまたの作品を世に残しています。

東岳寺山門

そんな初代安藤広重が眠る東岳寺は竹ノ塚駅から10分ほどの「尾竹橋通り」に面して山門を構えています。それほど目立たない造りの門構えに加えて、見るからに境内もこじんまりとしています。境内を俯瞰すると、小さな池が配され、その周りに木々が植えられているのですが、お寺のお庭というよりも何か雑然としたあまり落ち着かない雰囲気が漂っているように感じました。

そもそもこの東岳寺の開基は慶長18年(1614)浅草の鳥越であったのですが、大正12年の関東大震災の後、広重の墓も一緒に現在の場所(足立区伊興本町)に移ってきた歴史があります。

境内に入ると正面に比較的新しい造りのご本堂が見上げるように建っています。その境内の左手奥にしっかりとした造りの広重記念碑とその傍らに広重の墓が置かれています。やもすると記念碑の立派さから墓とみまがう恐れがありますが、墓石はみすぼらしい台座の上に一枚石を置いただけの目立たない存在で記念碑の傍らに佇んでいます。

広重記念碑

当寺が浅草鳥越にあった頃は、もう少し立派な造りの墓だったのではないでしょうか。当代きっての絵師の墓石にしてはなぜか寂しさを感じます。

一立斎広重墓

初代広重が亡くなったのは幕末の安政5年の9月6日、享年62歳。墓石には「一立斎広重」と名が刻まれていますが、この一立斎は彼の号で天保3年(1832)の頃にそれまでの一幽斎から改めてものだそうです。尚、歌川広重は彼がまだ若い頃の名で、歌川豊広門下時代のものです。

久しぶりに江戸時代の有名人の墓に遭遇できたことを良しとし、東岳寺を辞することにしました。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…
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「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…

2012年02月10日 14時44分31秒 | 足立区・歴史散策
徳川将軍家ゆかりの天下長久山・国土安穏寺から距離にして約2キロ弱に、またしても奇怪な山号を持つ寺があるのをご存知でしょうか?

炎天寺(左奥)と八幡神社(右)

その名も「炎天寺」といいます。その名前から「火」、「日」と何らかの由緒があるものと思いつつ期待しながら辿りつきました。

炎天寺山門
炎天寺本堂

そもそも当寺の創建は古く平安末期に遡ります。ちょうどこの頃、奥州安倍一族の反乱平定に趣くあの源頼義と八幡太郎義家父子の軍勢がこの地で野武士と戦い、苦戦を強いられることになったらしいのです。この苦境を脱するがために、頼義、義家父子はこの地から京の岩清水の八幡宮に戦勝を祈願したところ、そのご利益のためかようやく勝利を得ることができたと伝えられています。まあ~こんな話は関東には掃いて捨てるほど転がっていますが…。

八幡神社参道と枝をのばす松

そんなことで頼義、義家父子はすでに堂を構えていた寺の隣に八幡宮を建立し、併せてその時期が旧暦六月だったのでこの地を六月村と名付け、寺の名を源氏の白旗(幡)が勝ったので「幡勝山」そして戦勝祈願が成就したので「成就院」、さらにはこの時期の気候が「炎天」続きであったことから寺名を「炎天寺」に改めたという「嘘」のような「本当」の話が残っているのです。ということは炎天寺は頼義、義家父子が創建した「六月八幡神社」の別当寺としての寺格を有していたわけです。もちろん今でも炎天寺と八幡神社は同じ敷地内にあり「お隣さん」といった具合に寄り添っています。尚、現在でもこの炎天寺がある地名は「六月」と表示されています。

旗掛け松

そしてこの八幡神社入口には八幡神社縁の頼義、義家父子が源氏の白旗を立て掛けたと伝わるまるで臥竜のように枝を伸ばした松の木が残っています。この松を「旗掛け松」といい、その傍らにその由緒が立てかけられています。

何が本題かわからなくなってきましたが、ここ炎天寺はなんと江戸時代を代表する俳諧師の一人である「小林一茶」と浅からぬ関係があるのです。時は、あの浮かれきった文化が花開いた「文化」の頃、一茶はここ六月の地の炎天寺にやってきたのです。そしてこんな記述を残しています。「武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる」と。炎天寺境内で「蛙たたかいありける」の様子を詠ったのが「痩蛙まけるな一茶是に有」の有名な句だというのです。

小林一茶像

この「痩蛙」の句に登場する二匹の蛙が相撲をとっている姿を表した小さな像が池の中に置かれ、まるで鳥獣戯画の中に登場する蛙のような風情を漂わせています。

蛙像
痩蛙…」の句碑

また炎天寺を詠った句には
「夏 蝉鳴くや六月村の炎天寺」
「むら雨や六月村の炎天寺」
などがあり、境内にはこれらの句を刻んだ句碑が置かれています。

まあ俳句、特に小林一茶がお好きな方であれば、ここ炎天寺は聖地みたいな場所なのでしょう。俳句音痴である私があれこれと言うのもはばかりますので、炎天寺についてはこのくらいにして筆を置かせていただきます。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺



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天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~

2012年02月10日 12時29分58秒 | 足立区・歴史散策
冬晴れの寒風の中、お江戸の風情を求めて千住大橋を渡り、隅田川東の西新井へと足をのばしてみました。千住大橋が架橋されたのは神君家康公の初入府から4年後の文禄3年(1594)に遡ります。架橋後は千住一帯は奥州街道の出発地点として宿場町が形成されていきます。そして日光東照宮の造営後は奥州街道は宇都宮までの区間が「日光道中」とその名前が改められ、千住は道中最大の宿場としてますます発展を遂げることになります。

仁王門扁額

そんな旧日光道中に沿って走る東武伊勢崎線沿線には隠れた古刹、名刹が多く点在しているのですが、今日は伊勢崎線の西新井駅から隣駅の竹ノ塚駅の間の「一駅散歩」ならぬ歴史散策を楽しむことにしました。

今日の散策は足立区の観光紹介ウェブページで紹介されているお勧めルートに沿って辿ることにしました。参考に下記にルートマップのURLをお知らせいたします。
http://adachikanko.jp/walk/nishiarai01.html

散策を始めるにあたってまず第一に興味を引いたのが、その寺号がやたらと仰々しく、且つ現在日本が置かれている世相や政治環境、更には地震、豪雪などの自然災害を鎮撫してくれそうな響きを持っている「天下長久山・国土安穏寺」という古刹だったのです。

降り立った西新井駅からは徒歩でものの10分程度の距離にあります。旧日光街道にほぼ面している場所に天下長久山・国土安穏寺は堂宇を構えています。路地を入るとまず目に飛び込んでくるのが、小振りの山門なのですが、朱の門扉には徳川家の金色に輝く葵のご紋が入っているではありませんか。

山門
山門扉の葵紋

まさか西新井で徳川家の金色に輝く御紋に遭遇できるとは思ってもみなかった私にとっては無上の喜びです。山門の扉は固く閉じられここから入門することはできません。

これは期待できると思いつつ進んでいくと、やおら左手に見事な仁王門が現れます。堂々とした朱塗りの門で金文字で「天下長久山」と書かれた扁額が当寺の権威を表しているようです。というのも江戸時代の初期に二代将軍秀忠公と嫡男家光公が鷹狩や日光参詣の折にしばしばこの地に立ち寄ったとき、当寺が御膳所となった由緒があり、更には徳川将軍家の祈願所でもありご位牌安置所という名誉を与えられていたことで「葵紋」の使用が許されたとあります。そのため境内にある建物のいたるところに「葵紋」を見ることができます。

仁王門
仁王門扁額
仁王門全景
仁王門扉の葵紋

当寺の開基は応永17年(1410)、日通聖人による開山でもともとは「長久山妙覚寺」と称していたようです。現在の寺号になったのは家光公の治世の寛永元年(1624)のことです。

方丈堂
ご本堂
ご本堂扁額

仁王門からの入山も許されていないので、脇の新しい門を入るとそれなりの広さの境内が目に飛び込んできます。前述のように徳川将軍家縁の寺ということで、何かその証となるものが境内にあるのではないかと見回すと、やはり期待通りに残っていたのが「家光公御手植えの松」ではありませんか。家光公の治世から400年以上を経過し、それなりに枝を伸ばしている松の木なのですが、浜離宮にある「三百年の松」に比べると、少し小振りかな、と思うのは私だけでしょうか。それでも見事な枝ぶりで境内の中でその存在感を十分に感じることができます。

家光公御手植之松の立て札
家光公御手植之松

境内の一角に当寺では一番古い建造物である鐘楼が置かれ、その脇に祖師堂が佇んでいます。その祖師堂の傍らに堂々とした恰幅の日蓮(祖師)の像が立っています。なんとこの像はあの有名な高村光雲の作だそうです。ちなみに当寺の宗派は日蓮宗で本山は中山法華経寺です。

鐘楼堂
祖師堂
日蓮像

旧日光街道の脇に堂宇を構える当寺は将軍家とただならぬ関係があったため、街道を旅する人々にとっては近づきがたい存在だったと想像します。多くの旅人たちは門前を通過する祭には頭を垂れ、馬上の侍たちも下馬し腰をかがめての道中ではなかったのではないでしょうか。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
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