大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の三)~権現道の寺社~

2011年10月12日 17時56分56秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
権現道は旧行徳街道と内匠堤と呼ばれる道に挟まれるように細い道がクネクネと続く歴史道です。とはいっても現在ある権現道は道幅は狭いものの、両側には住宅が軒を連ね、かつてその昔には江戸湾の波が押し寄せる海岸に沿った道であった面影はまったく残っていません。

権現道入口

権現道を歩いてみると、この道に沿って立つ寺のほとんどが権現道に面して山門を構えていることに気がつきます。権現道が先に敷かれたのか、はたまた寺院にそって権現道が敷かれたのかは定かではありませんが、行徳の寺社巡りのルートとしては権現道を歩くことで、この地域に点在する寺院のほとんどを踏破することができるのです。

権現道

権現道の入口から数えて3つ目のお寺「妙覚寺」に伺いました。日蓮宗中山法華経寺の末寺で天正十四年(1586)に創建された古刹です。山門脇の由緒書きにたいへん興味あることが書かれていました。実は当寺の境内に東日本ではたいへん珍しい「キリシタン燈籠」なるものがあるというのです。

妙覚寺山門
妙覚寺本堂

山門を抜けてすぐ右手にその燈籠は何の囲いもなく喫煙場所の一角に立っていました。一見するとその外観はごく普通の形に思えるのですが、燈籠の基壇となる部分の下のほうに長方形の窪みがあり、その窪みの中になにやら人をかたどった様な浮き彫りを見ることができます。人のような浮き彫りが実は靴を履いたバテレン(神父)の姿だというのです。

キリシタン燈籠
バテレンの姿

現在見るキリシタン燈籠はそのほとんどが地上に姿を現していますが、キリシタン禁制の時代には前述のバテレンの姿の部分は地中に隠れていたといいます。

ただ不思議に思うのはこの燈籠がいつの時代に作られ、いつこの妙覚寺に置かれたのかなのです。妙覚寺の創建は天正14年(1586)で家康公の江戸初入府の4年前です。そんな頃の行徳は幕府天領であったころとは違い、江戸湾の波が打ち寄せる寒村ではなかったのではないでしょうか。
塩産業が盛んになるのは家康公の入府以降のことで、開幕前の行徳の人口はそれほど多くはなかったはずです。そんな環境の中で開幕前にこのキリシタン燈籠が妙覚寺にあったとは考えにくいのです。ということは1613年の禁教令以降に行徳が塩産業で急速に発展し始めた頃に、外部から流れ込んできた人たちの中に隠れキリシタンがいたと考えたほうが自然のような気がします。こんな想像をめぐらしながら石燈籠の脇の石造りの腰掛にかけてしばし時を過ごしました。

円頓寺山門

妙覚寺からわずか40mほどで日蓮宗中山法華経寺の末寺「円頓寺」の山門が現れます。開基は天正12年(1584)と古いのですが、本堂はかなり新しいものです。当寺の歴史的建造物は唯一山門のみです。ただご本堂に掲げられた「海近山」の山号額の文字は江戸幕末の三筆と言われた「市河米庵」の筆とのことです。山号の海近山から確かに行徳は江戸湾の波が打ち寄せる海岸沿いにあったことが伺われます。文字を見ると「毎」の下に「水」と書いて「海」と読ませるのですね!

円頓寺本堂
円頓寺山号額

権現道はまだまだ続きます。ほぼ権現道の半分ほどのところにあるのが「浄閑寺」です。東京三ノ輪駅近くにある「生きて苦界、死して浄閑寺」と言われ、吉原の妓郎たちが投げ込まれた寺と同名ですが、ここ行徳の浄閑寺の創建は江戸初期の寛永3年(1626)で、なんと芝増上寺の末寺です。

浄閑寺参道

最盛時はかなり規模の大きなお寺だったそうで、かつて寺に流れていた内匠堀から直接船が入れる池まであったようですが、現在はその面影はのこっていません。ただ権現道沿いのお寺の中で唯一、旧行徳街道から参道で繋がっているお寺なのだそうです。
山門脇には明暦の大火(明暦3年/1657)の供養のために建立された「南無阿弥陀仏」と六面に刻み、その下にそれぞれ「地獄・飢餓・畜生・修羅・人道・天道」と六道を彫った、高さ2メートルほどの名号石・六面塔が立っています。塔の一面に明暦の文字が刻まれていました。そしてその傍らに風雨にさらされ風化が激しい半肉彫りの六地蔵が並んでいます。

六面塔
六面塔の明暦の文字
六地蔵
浄閑寺本堂

権現道の処々に古くから多くの人たちに崇められていた稲荷社が置かれています。名もない稲荷なのでしょうか、祠の瓦屋根は朽ちかけ、鳥居もなく、小さな狐の置物が祠を守っていました。

路傍の稲荷社

いよいよ権現道も終盤を迎えます。一番最後に山門を構えるのが真言密教の徳蔵寺です。開基は今から435年前の天正3年(1575)という古刹です。立派な山門を構え、山門をくぐって左手に不動明王を祀るお堂が置かれています。お堂の前にはおそらく行徳河岸(旧江戸川)に置かれていたであろう常夜灯がお堂を飾っています。常夜灯の台座には行徳が繁栄していた頃の土地の名士や大店の屋号、妓楼の屋号などが刻まれています。

徳蔵寺山門
徳蔵寺本堂
不動明王堂
常夜灯

寺院詣でのついでにもう一つ興味深い石碑を見つけました。「おかね塚」と呼ばれているものなのですが、実はこの「おかね」は人の名前であって、金銭を意味するものではなかったのです。
そしてこの塚は悲しい物語の主人公である「おかね」の供養碑だったのです。

おかね女の供養碑

その悲しい物語は、吉原の遊女であった「おかね」が行徳の船頭に恋をし、ここ行徳で待ち続け、ついにはその恋が成就せず「おかね」は亡くなってしまった、という悲恋の内容なのです。

内容をご紹介すると、押切の地が行徳の塩で栄えていた頃、押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれてきた。これら輸送船の船頭や人夫の中には停泊中に江戸吉原まで遊びに行く者もあり、その中のひとりが「かね」という遊女と親しくなって夫婦約束をするまでに至り、船頭との約束を堅く信じた「かね」は年季が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んで来る船頭に会えるのを楽しみに待った。しかし、船頭はいつになっても現れず、やがて「かね」は蓄えのお金を使い果たし、悲しみのため憔悴して、この地で亡くなった。これを聞いた吉原の遊女たち百余人は、「かね」の純情にうたれ、僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちもこの薄幸な「かね」のため、花や線香を供えて供養したという、悲しいお話です。

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の一)~将軍家所縁の徳願寺~
お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の二)~寺町通りの寺社~




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お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の二)~寺町通りの寺社~

2011年10月12日 14時47分15秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
将軍家縁の徳願寺を後にして、いよいよ行徳の寺社巡りの旅へと歩を進めていきましょう。寺町通りは徳願寺から旧江戸川の手前を東西に走る行徳街道までのおよそ200m足らずの長さで、その間に3つのお寺が点在しています。



まず通りの右手に現れるのが妙応寺です。こじんまりとした境内のお寺ですが創建は今から450年前の永禄2年(1559)といいますから、織田信長が桶狭間の合戦で今川義元を滅ぼした前年にあたります。

妙応寺本堂

当寺は中山法華経寺の末寺で、本山の法華経時が鬼子母神を祀ることから喜寿道場として水子供養観世音菩薩を安置しています。また面白いことに七福神を勧請し、なんと七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)が一同に会し、境内の一角にこれら七神の石造が仲良く並んでいます。

一同に会する七福神

妙応寺からわずか50m歩いたところに山門を構えているのが、古刹「妙頂寺」です。日蓮宗派の寺院で創建は日蓮聖人の存命中の弘安元年(1278)といいますから、鎌倉時代の二度目の元寇の役である弘安の役の時代です。境内には樹齢200年の百日紅(さるすべり)の古木が初秋の空の下で紅色の花を咲かせていました。

妙頂寺山門
妙頂寺本堂
樹齢200年の百日紅の木

この妙頂寺をすぎると寺町通りは旧行徳街道と交差します。この交差点のすぐそばにあるのが神明(豊受)神社です。当神明社の起こりは金海法師という山伏が、伊勢内宮の土砂を中洲(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧請して神明社を建立したのに始まるといいます。金海法師は土地の開発と人々の教化に努め、徳が高く行いが正しかったところから、多くの人々に「行徳さま」と崇め敬われたといいます。この「行徳さま」がこの地の名前の由来となったのですが、行徳さまがこの地にやってきたのはいつのころから定かではありません。
尚、前述の中洲からここ行徳に遷座してきたのは寛永十二年(1635)の三代将軍家光公の治世の頃です。

神明神社の鳥居と社殿
狛犬と社殿

境内には猿田彦大神を祀る大きな石碑が置かれていますが、本社が行徳街道の脇に置かれていることで、古くから旅の安全や道案内を司る猿田彦が祀られたのではないでしょうか。

猿田彦大神の石碑

この神明神社の脇に細い参道があるのですが、参道の奥に佇んでいるのが古刹「自性院」です。開基は天正16年(1588)ということで、家康公の江戸初入府の2年前のことです。

自性院本堂

実は当寺と幕末の超有名人である「勝海舟」とは少なからず縁があるようです。境内には勝海舟筆の熊谷伊助慰霊歌碑が立っています。これは勝が「よき友」であった熊谷伊助の死を悼んで建てたものだそうです。勝の「日記」の中には「松屋伊助」と記されており、伊助は睦奥国松沢(現岩手県一関市千厩町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来しています。幕末の慶応年間に横浜のアメリカ商館の番頭の職を得た伊助は行徳出身の妻と結婚したと言われています。石碑には勝が伊助にたむけた句が刻まれています。
「よき友の消へしと聞くぞ、我この方心いたむるひとつなりたり」

自性院から寺町通りの路傍に置かれた興味深い道標へと戻ることにしました。この道標には「権現道」と記されています。さて権現とは、まさか家康公のことでは?と思い道標をよく見ると、やはり家康公と関わりのある道だったのです。というのは家康公が上総東金へ鷹狩りに向かうときに通った道だったので「権現道」と名付けられたようです。

権現道の道標
権権道の散策道

ご存知のように家康公は馬鹿がつくほどの鷹狩好きであったのですが、実はこの鷹狩は単なる趣味や武芸の鍛錬だけにとどまらず、軍事教練と領内視察を兼ねていたと言われています。ということは鷹狩りが自国の領土をつぶさに検分するという隠れた目的があったことを考えると、幕府が行徳を天領とするほど重要な場所であった行徳を家康公はおそらく度々鷹狩にかこつけて視察におとずれていたのではと考えられます。

今回の行徳の寺巡りで初めてわかったことなのですが、寺巡りの効率のいいコース選びはこの権現道を散策することです。道幅は狭いため車の進入はありません。そして次から次へと寺、神社そして稲荷の祠が現れ飽きることがありません。この権現道はまるでウォーキングトレイルのように整備され、初めての人でも迷わないように統一した石版が嵌め込まれ、この石版を辿れば間違いなく寺社巡りを楽しめるようになっています。権現道の寺社巡りは(其の三)でご紹介いたします。

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の一)~将軍家所縁の徳願寺~
お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の三)~権現道の寺社~




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お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の一)~将軍家所縁の徳願寺~

2011年10月12日 12時31分39秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
江戸時代を通じて江戸湾岸で最大の塩の名産地として知られていた行徳は、家康公の開幕当初から「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」という考えから幕府直属の天領の地位を与えられ、塩業が厚く保護された場所だったのです。

徳願寺山門

開幕後、30年後の寛永九年(1632)に塩を江戸に運ぶための水路として府内の中川と隅田川を結ぶ小名木川が完成したことで行徳の塩は江戸城内へ直接船で運ぶことが可能となったのです。江戸時代はここ本行徳村と江戸を結ぶ船着場が旧江戸川岸に造られ、ここからは塩だけでなく、様々な海産物やたくさんの旅人が往来する港町として大いに栄えていました。

特に江戸時代に流行った「成田山詣で」の経由地として行徳は船場、宿場として更に活況を呈していきます。こんな歴史を歩んだからこそ、ここには塩に携わる人、船舶の運航、宿屋や岡場所の楼閣経営に携わる人など多くの人たちが生活をしていたのです。行徳は俗に「行徳千軒、寺百軒」といわれるほど繁栄を謳歌していたのです。

私の住む江東区は東京の東側に位置し、すぐそばを荒川が流れています。その荒川を渡ると江戸川区となり、その江戸川区と境をなして行徳のある千葉県の市川市が接しています。自宅から至近の駅から行徳までは駅の数で5つ目という近さです。そんな近い場所にある行徳ですが、今回初めて訪れてみることにしました。

目指す寺町の散策はルート上、行徳駅の次の駅である妙典駅から始まります。というのはこの妙典駅から旧江戸川方向へ延びる「寺町通」には寺院が密集していることと、その寺町通から分岐するように「権現道」という細い散策路が住宅街をクネクネと延び、その細い道に沿って次から次へと寺院、神社そして大小の稲荷の祠が現れるという、まさに寺社巡りにはもってこいのルートに思えたからです。

妙典駅から歩き始めて5分ほどで「寺町通」入り口にさしかかります。綺麗に整備された道で、電柱がないのでスッキリとしています。

徳願寺正門

そして寺町通の右手に長い塀に囲まれ、ものすごく立派な山門と鐘楼がやたらと目立つお寺が現れます。行徳の寺の中では最も寺格が高いと言われる浄土宗派の徳願寺です。なぜ徳川将軍家と関わりがあるかというと、慶長十五年(1610)家康公の帰依により徳川の徳と、もともとの寺号であった勝願寺の願をとって、改めて『徳願寺』の名をつけたことで将軍家から厚い保護を受けていたと言います。

山門

さらに当寺の本尊阿弥陀如来像は、かつて源頼朝の室政子が仏師運慶に命じて造らせたものといわれ、家康公が二代将軍秀忠夫人(お江)のため、鎌倉から江戸城に遷しましたが、夫人の逝去後、当山二世忠残上人が請けて本尊とした由緒正しきものなのです。

幕府天領のこの地で、将軍家の帰依をいただいていたわけですから、それなりの寺格と寺領は安堵されていたのでしょう。今、目の前に現れた伽藍は江戸府内に残るあまたある寺院と比較してもけっして引けを取るものではありません。

広い境内にその存在感を示すどっしりとした山門(仁王門)とその脇に立つ鐘楼は当寺の最古の建造物で共に安政4年に建立され市川市の指定文化財になっています。山門の左右に置かれた仁王像は江戸時代中期に彫られたもので、明治になってからの神仏分離令により葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺から移されたものです。

仁王像(右)
仁王像(左)


この山門の脇に袴腰の整った美しい姿の鐘楼が控えています。

鐘楼

この徳願寺には宮本武蔵筆と伝えられている書画や円山応挙筆と伝える幽霊の絵などが寺宝として保管されているとのことです。境内には宮本武蔵供養碑が置かれています。

宮本武蔵供養碑
ご本堂
ご本堂前の蓮
ご本堂前の天水桶

また当寺の3つ目の文化財である経蔵堂の中には巨大な輪堂式のマニ車が安置されています。

経蔵堂
経蔵堂の輪堂式のマニ車
境内俯瞰

江戸時代の寺格を継承したかのような広い敷地とその境内に配置された伽藍と堂宇の素晴らしさには目を見張るものがありました。ただ一つ物足りなさを感じるのは木々の緑があまりにも少ないことです。その訳について勝手な想像を巡らしてみたのですが、ここ行徳はかつては江戸湾の波が打ち寄せる海岸線に面していた場所であることから、度々の津波や高波に襲われ、その都度寺院の建物が流され、同時に境内の木々も根こそぎ流されてしまったと考えます。そして寺院再建の際に新たに植樹することなく現在にいたったのではないかな、と思ったりしています。尚、木々が少ないことはこの徳願寺だけでなく、行徳の寺社すべてにあてはまることです。

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の二)~寺町通りの寺社~
お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の三)~権現道の寺社~




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日蓮宗・中山法華経寺の発祥の地「奥の院」の佇まい

2011年10月08日 13時26分29秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
現在の中山法華経寺の伽藍が並ぶ場所からほぼ北へ5分ほど歩いたところに、法華経寺の起こりとなった場所があります。その地名はなんとも優雅な響きを持つ「若宮」と呼ばれています。

中山法華経寺の法華堂

ここ若宮の地で日蓮聖人が百日間にわたる百座説法を行ったことで、日蓮に帰依する人々が増えたと言われています。これによりこの場所に法華堂が建てられ、日蓮は自らの手で釈迦如来を彫りこの法華堂に安置し、寺号を妙連山法華経寺としたのが、現在の中山法華経寺の起こりで、奥の院の地とされています。なんとも意味ありげな響きに誘われて「奥の院」へ向かうことにしました。

それではどうして日蓮聖人がこの地にやってきたのかを紐解いてみましょう。
時は鎌倉時代の文応元年(1260)に遡ります。当時、打ち続いていた天変地異や悪疫の流行を憂っていた日蓮はこの原因を「邪宗のはびこり」であると糾弾し、今に他国の侵略を招く危険があることを警告するために「立正安国論」を著しました。

日蓮は時の執政「北条時頼」に法華経による救国を進言したが聞き入れられず、かえって念仏宗徒に庵を焼討され、日蓮は市川若宮の富木常忍の館に逃れてきました。この富木常忍と日蓮とのそもそもの出会いは二子ノ浦から鎌倉に向かうおり、同船した二人が船中で問答を交わし、常忍はついに日蓮に帰依したという伝説が残っています。

そんなことでここ若宮にかくまわれた日蓮は前述のように若宮の鎮守若宮八幡の社殿で百日間にわたる百座説法をしました。いわゆる初転法輪(しょてんほうりん)の地と言われています。尚、富木常忍は、日蓮の死後出家して「日常」と称し、法華経寺はこの日常上人を開山とされています。

奥の院への道標

奥の院への道のりの2ヶ所の辻には、その方向を示す道標が路傍に置かれ「巡礼の道」のような風情を醸し出しています。現在の中山法華経寺からはなだらかな坂道を登りつづけるような巡礼道となっています。2つ目の道標をすぎると真新しい夢殿のようなお堂が正面に見えてきます。このお堂は法華経寺の開山、日常上人の廟堂です。この廟堂に隣接して若宮の奥の院の入口が構えています。

奥の院入口

入口を入ると左手に「宗祖最初転法輪旧蹟」の石碑が置かれています。境内を見下ろすように石段の上に奥の院のご本堂がどっしりと構えています。日蓮宗の信徒の方々にとっては初転法輪の地としてまさしく聖地の中の聖地と崇められている場所です。境内には仏典を持った手を私たちに差し伸べているように立つ日常上人の立像が置かれています。

宗祖最初転法輪旧蹟の石碑
奥の院ご本堂
奥の院ご本堂
日常上人立像

日蓮宗の信徒ではない私にとって感じる奥の院の佇まいは歴史的建造物が一切ない、なんとも味気ないもので、「その昔この場所で日蓮聖人が始めて説法を行った場所だったんだ。」程度のものでした。

日蓮宗荒行の聖地・中山法華経寺




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日蓮宗荒行の聖地・中山法華経寺

2011年10月07日 17時00分25秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
江戸の頃、あの有名な明暦の大火(1657)を境に下総と呼ばれていた隅田川の向こう側は両国橋の架橋により現在の中川付近までは幕府奉行所の管轄が及ぶ範囲となっていきます。両国橋の両国とは武蔵と下総の二つの国を結ぶ橋であることからこう名付けれているのです。

法華経寺赤門

二つの国が両国橋で繋がって、府内から東へと延びる千葉街道が江戸川を越えると、そこはまさしく下総の国。その下総の国に足を踏み入れる場所(現在の千葉県市川市)に関東における日蓮宗の巨刹として名高い「中山法華経寺」の壮麗な伽藍が長い歴史を刻んで静かに佇んでいます。

ここ法華経寺の最寄の駅はJRの下総中山駅か京成の中山駅なのですが、JRからは若干歩く距離が多くなります。一方、京成の中山駅は法華経寺の総門に隣接し、すぐに参道に導かれる距離にあります。

総門

長い参道の始まりはまずこの総門。全体的に黒く塗られているため「黒門」と呼ばれています。建築年代は不明ですが、江戸時代中頃のものと言われています。大きな扁額にはなにやら文字が書かれていますが、現代人には判読できません。
門脇の由緒書きには「如来滅後、閻浮提内、本化菩薩、初転法輪、法華道場」と書かれているとのことです。

この総門を抜けて門前の店が並ぶ参道を歩くこと約200mほどで、目の前に立派な門が現れます。威風堂々とした構えのこの門は法華経寺の赤門と呼ばれ、当寺の象徴的な建物の一つとなっています。この赤門の創建は江戸の初期、寛永13年ですが、何度も再建され現在の門は大正末期に再建されたものです。門に掲げられている扁額の「正中山」は江戸初期の寛永三筆の一人である本阿弥光悦の書で市川市の指定文化財となっています。

赤門
仁王像(左)
仁王像(右)
赤門から参道を望む

赤門を抜けるといよいよ伽藍へとつづく参道が延びていますが、この参道に沿って両側には法華経寺の子院が並び、日蓮宗の巨刹のご威光と隆盛の証を感じ取ることができます。静かな空気が流れる参道が終わると、目の前に広い境内が現れます。その境内に圧倒的な存在感として立つお堂が左手奥に建っています。

大祖師堂

これが法華経寺の象徴的な建造物である国の重要文化財指定の大祖師堂です。宗祖日蓮聖人を祀るお堂で創建は鎌倉時代に遡ります。しかしその後、幾度かの再建を経て、現在見ることができる祖師堂は江戸時代中期の延宝6年(1678)に再建されたものです。とはいえ400年近い時を経た建物なのです。

この建造物の特徴として屋根を二つ重ねたような比翼入母屋造り様式となっています。このような屋根を持つ寺社としては非常に珍しく、ここ法華経寺の他には岡山県にある吉備津神社本殿(国宝)だけです。

比翼屋根の大祖師堂

大祖師堂から五重塔を見る

もう一つ、伽藍建築の代表格として配置されているのが五重塔です。この五重塔は古いもので江戸初期の元和8年に加賀藩前田利光公の寄進により建立されたものです。関東地方で近世以前の様式をもつもので非常に希少価値が高く、当然のことながら国の重要文化財に指定されています。一般的には塔の各階層の屋根はもう少し張り出しているように思えるのですが、ここ法華経寺の五重塔の場合はそれほど屋根部分の張り出しがないため「ほっそり」とした姿が印象的です。

五重塔
五重塔

この五重塔のすぐそばに千葉県では一番の大きさを誇る大仏が鎮座しています。鋳造は江戸時代の享保4年(1719)です。

大仏

それでは先ほどの大祖師堂の裏手の高台へと進んでいきましょう。この高台には3つの建造物と一つの門が並んでいます。一つ目は当山守護の宇賀徳正神の本社で、財福の神として弁財天と並び広く知られている宇賀神堂です。

宇賀神堂

宇賀神堂の左隣に建つのがこれも国の重要文化財に指定されている「法華堂」です。単層入母屋造、銅板葺の堂々とした建造物で文応元年(1260)の創建のたいへん古いものです。このお堂には日蓮聖人が自で開眼した一尊四菩薩が安置され、併せて百日百座説法の霊跡として崇められています。

法華堂
法華堂
法華堂

そしてこの法華堂の前に置かれているのがこれまた国の重要文化財である四足門ですが、この門は約700年前に鎌倉の愛染堂にあったものを移築し、法華堂の正門として立てたものです。

四足門

高台に置かれた三つ目のお堂は「刹堂(さつどう)」と呼ばれているものです。十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置し、罪障消滅の霊場となっています。

刹堂

霊験あらたかな三つのお堂を参拝した後、大祖師堂と荒行堂をつなぐ回廊の途中に設けられた宝殿門をくぐり「聖教殿」へと進んでいきます。聖教殿は一種の宝物殿でここには日蓮聖人真筆で宗門最高の根本聖典と尊称される「観心本尊抄」「立正安国論」をはじめとする重要文化財が大切に保管されています。尚、毎年11月3日の文化の日に「お風入れ」の行事が行われています。

宝殿門
聖教殿

この聖教殿の敷地の右のほうに隣接するお堂が法華経寺の荒行が行われるお堂です。

それでは日蓮大聖人直授の秘伝である、大荒行が行われる荒行堂の建物へと進んでいきましょう。荒行が行われるお堂へは入ることができませんので、お堂の外観をご覧いただきます。

荒行堂

法華経寺の荒行は毎年11月1日から翌年2月10日までの真冬の時期100日間を通じて行われます。荒行僧の一日は、早朝二時に起床し、朝三時、一番の水から午後十一時まで一日七回、寒水に身を清める「水行」と、「万巻の読経」「木剣相承」相伝書の「書写行」があり、朝夕二回、梅干し一個の白粥の食事の生活が続きます。

大荒行堂での生活は、まさに以下の言葉の通りです。
寒水自粥凡骨将死(カンスイビャクジュクボンコツショウシ)
理懺事悔聖胎自生(リザンジゲショウタイジショウ)

荒行堂の入口を入り左手に進むと、修業僧面会所なるものと、行堂清規なる荒行期間の定め(掟書き)が掲示され、なにやら娑婆の世界からまったく別の世界に隔離されてしまうような雰囲気が漂っています。

修業僧面会所
行堂清規
水行の掟

私自身それほど敬虔な仏教徒ではないのですが、一応宗派としては曹洞宗(禅宗)なのですが、日常の生活の中で禅の教えなどに触れたこともありません。一般的に私たちの世代も含め、若い世代の方々も信仰心というものが希薄で、私なんぞは外国人のように毎週教会に足を運び神に祈りを捧げるといった習慣がまったくありません。しかし、ここ日蓮宗の名刹である「法華経寺」を訪れてみて、日蓮聖人の教えに従い、選ばれし人だけが過酷な荒行に励み、日蓮聖人に近づこうとする人たちの信仰心の強さを肌で感じることができたいい機会となりました。たまには禅寺で座禅を組む時間も必要かな…と感じる次第です。

日蓮宗・中山法華経寺の発祥の地「奥の院」の佇まい




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