道としての東海道は古くは律令時代には早くも整備されていたのですが、本格的な街道として東海道が誕生するのは慶長6年(1601)の家康公の「五街道整備」によって、お江戸日本橋から京の三条大橋にいたる間に五十三箇所の宿駅を設けたことに始まります。そしてこの間126里6丁1間(492km)の間に置かれた五十三の宿駅がいわゆる東海道五十三次なのです。
六郷渡舟
大江戸散策徒然噺では花のお江戸の風土記と併せ、「私本東海道中膝栗毛」と題しお江戸日本橋から十一宿の三島宿まで気ままに旅をつづけてまいりたいと考えています。まず旅の始まりの道中区間は弐番宿の川崎から参番宿の神奈川宿までの約9.8km。雲ひとつない初冬の空の下、賑やかな川崎駅南口から市役所通りを南下し旧街道との交差点である「小土呂」を目指します。
小土呂交差点を左折すると道は旧街道を偲ばせるように急に細くなります。とは言っても、今は歴史街道の風情を感じさせるような建造物はまったく見当たりません。かつての川崎宿は久根崎(くねざき)、新宿(しんしゅく)、砂子、小土呂(こどろ)の4村で構成され、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠72軒を構えていました。尚、川崎宿の成立は東海道の中では最も遅く1623年の頃です。
歩き始めた小土呂は本来の川崎宿の西に位置し、すぐに京都側の入口である「京口」を過ぎてしまいます。その昔は京口をでるとそこは街道の両側に田畑が広がり景色へと変わります。そんな景色をいつしか「八丁畷(はっちょうなわて)」と呼ぶようになりました。畷(なわて)とは田の間の道という意味なのですが、川崎宿を抜けた東海道は広々とした田畑の間を八丁の長さ(約870m)の道が真っ直ぐに延びていたのでしょう。
芭蕉句碑
芭蕉句碑
お江戸の響きを残す八丁畷は現在も京急線の駅名としてそのまま使われています。この八丁畷駅の50mほど手前の街道脇に置かれているのが「芭蕉の句碑」です。
元禄7年(1694)五月、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を立って、郷里の伊賀へと旅立ちます。体力的にも衰えが目立つ芭蕉を慮って、多くの弟子たちは六郷川(現在の多摩川)を越え、川崎宿を通り抜けたここ八丁畷まで来てしまいました。そしてここにあった腰掛茶屋で別れを惜しみつつ、句を詠みあったのです。
その時、芭蕉が弟子たちに返した句が「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という惜別の句なのです。前述のように当寺はこのあたり一帯は麦畑に覆われ、初夏五月の風にそよぐ麦の穂に寄せて、いつまた再会できるかという別れに堪える気持ちを表現したものです。
芭蕉を見送りにきていた弟子「曽良(そら)」は頼りなげな芭蕉を気遣い、さらに二泊して箱根の関所まで送ったのです。芭蕉が関所を越え、その姿が見えなくなるまで見送ってから曽良は一人江戸へ戻るのですが、その時に詠った句が「ふつと来て関より帰る五月雨」。本来であれば六郷手前で別れるはずが、曽良はあしかけ三日もかけて箱根の関所までやってきてしまったのです。
尚、芭蕉はこの年元禄7年の十月に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を残して五十一歳の生涯を閉じています。ここ八丁畷の句碑は1830年に俳人の一種によって京口付近に建てられたのですが、、その後何度か移動し現在の場所に落ち着いています。
京急線の八丁畷駅の踏み切りを渡ってすぐ左手に置かれているのが「無縁塚」です。江戸時代に川崎宿で震災、大火、飢餓、疫病などで身元不明の死者が出たとき、この場所にまとめて埋葬したらしく、たくさんの人骨が出てきたといいます。その方々を弔うために慰霊塔が建てられています。
無縁塚
この慰霊塔を過ぎると川崎市から横浜市鶴見区へと地名は変わり、町名が「市場」となります。「市場」の名の由来は江戸開幕のはるか以前の天文年間頃(1532~1554)にこの辺りで海産物の市が開かれていたことによります。そして江戸時代には米の粉で餡(あんこ)を包んだ「米饅頭(よねまんじゅう)が名物となり、ここ市場村には米饅頭屋が40軒ほどあったといいます。小腹を減らした旅人がここらあたりで休憩がてらに饅頭をほおばっていた光景が目に浮かんできます。
そんな市場町に沿って歩いていると右手に現れるのが「熊野神社」です。街道沿いに立つ鳥居から見るとまるで丸裸にされてしまったかのように木々がまったくない境内の奥に社殿がぽつねんと置かれています。かつてはおそらく鎮守の森に覆われていたのではないでしょうか?
熊野神社
熊野神社鳥居と社殿
そんな熊野神社はその昔、小田原北条氏を攻め滅ぼし、家康公が関八州を秀吉から賜り江戸に初入府する際に当社に立ち寄り武運を祈ったと言われています。ですから、それなりに由緒ある神社なのですが、境内の佇まいからは趣がまったく感じられません。
そして市場町の西のはずれにあたる場所にお江戸日本橋から数えて五番目の「一里塚」が残っています。この一つ手前の4番目の一里塚は六郷、一つ先は東子安の一里塚になるのですが、ここ市場一里塚は京浜間で唯一残っているものです。
市場一里塚
一里塚をすぎるとまもなく鶴見川に架かる鶴見橋を渡ります。鶴見橋の上から右手を望むと、曹洞宗の本山である総持寺の甍とその遥か後方に白く雪をいただいた富士の嶺が初冬の青空にくっきりと映えていました。橋の西詰めには「鶴見橋関門跡」の碑が置かれています。
鶴見橋関門跡
この関門はあの安政の大獄(1858)によって浪士による外国人殺傷事件が頻繁に発生したことで、浪士取締りのために設けた7つの関門の一つです。ここ鶴見橋関門は井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起こった年である万延元年(1860)の四月に設置されましたが、なんとこの2年後の文久2年(1862)には生麦事件が起こってしまいます。生麦事件を受けて、幕府は川崎から保土ヶ谷までの間に警備強化のため見張り番所が二十ヶ所も設置されています。
鶴見橋を渡るとそれまで歩道がなかった街道はきれいに整備され、電信柱もないすっきりとした道筋に姿を変えます。そんな歩道の脇に見つけたのが石造りの「寺尾稲荷道標」です。この場所がちょうど東海道と小杉道、寺尾道の分岐点にあたります。
寺尾稲荷道標
旧東海道はこの先で国道15号線と交差し、いよいよ「生麦」へとさしかかってきます。生麦の名の由来は二代将軍秀忠公の頃、将軍の行列の際、ぬかるんでいた道に生麦を刈り取って敷いたことから付けられたと言われています。その後、この生麦の地は漁業を営む権利を幕府より与えられ幕府に魚を献上する「御菜八ヶ村」の一つとして、また間の宿としてたいそう賑わっていました。街道の海側の家の裏手はすぐ海で、漁師たちが捕れた魚、蛤、タコ、イカなどを売っていました。
現在でもここ生麦の旧街道沿いには魚介を扱う仲買人の店(80軒)が連なり、生麦魚河岸通りと呼ばれ、往時を彷彿とさせるような賑わいを見せています。
魚河岸通りを進んでいくと右手に現れるのが「道念稲荷」です。円形の大きな石標に「道念稲荷」と刻まれ、その石標の脇から稲荷祠にまっすぐに参道が延びています。その参道には氏子が寄進した朱色の鳥居が並んでいます。
道念稲荷石標
ここ道念稲荷では三百年に渡って伝わる「蛇も蚊も祭り(じゃもかもまつり)」が行われています。この祭りは悪疫が流行したとき、萱(かや)で作った蛇体に悪霊を封じ海に流したことに始まります。また生麦が農漁村であったことから、豊作・豊漁を祈るお祭りでもあったのです。
道念稲荷鳥居
氏子寄進の鳥居
道念稲荷祠
さて生麦といえば、あの幕末に薩摩藩島津久光公の行列の行く手を邪魔をしたとして起こった英国人殺傷事件がまず頭に思い浮かびます。時の幕府が朝廷に約束した「攘夷」を薩摩がいち早く決行したとして攘夷派を喜ばせた事件だったのですが、あにはからんや、薩摩を攘夷から開国へと大きく転換させた「薩英戦争」のきっかけともなった歴史のターニングポイントだったのです。
その事件が起こった場所がいつ目の前に現れるのか心待ちにして歩いていたのですが、なんとその場所は街道筋の民家の塀に説明版が一枚貼ってあるだけの寂しいものだったのです。あの大事件の発生場所にもかかわらずこの程度か。と思わせるような扱いだったことに驚き、期待はずれの感。
生麦事件石碑
生麦事件石碑
とおもいきや、旧街道はキリンビールの工場の敷地脇へと入ってきます。すると期待通りの石碑がきちんと置かれているではありませんか。もともとは現在の場所とは違う所に置かれていたのですが、道路工事のため移転してきたとあります。綺麗に整備された敷地に建つ真新しい木造の祠の中に石碑が置かれています。
石碑が置かれている旧東海道は左手にキリンビールの工場の広大な敷地に沿ってつづき、ちょうどキリンビアビレッジの入口辺りで国道15号線と合流します。次の神奈川宿入口まではさしたる見どころがなく、しばらく国道15号線に沿って歩くことになります。次回は神奈川宿から保土ヶ谷宿を踏破します。
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