大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸に残る大名屋敷表門~旧因州池田屋敷表門(黒門)~

2012年01月31日 17時31分04秒 | 台東区・歴史散策
お江戸・東京に現存する大名屋敷の中で、その保存の良さと規模から最も貴重な文化財の一つとしてあげられるのが上野の東京国立博物館の敷地縁に移設されている「旧因州池田屋敷表門(黒門)」でしょう。

旧因州池田屋敷表門

博物館正門の前の道を東京藝術大学方向へほんの少し歩いたところに堂々とした姿で構えています。文化財として保存されているため博物館への入場門としては使われていないのですが、個人的な希望としては大名屋敷の表門をくぐって博物館へ向かうのも博物館見学らしくていいのではないかと思うのですが…。

さて、この大名屋敷の表門は江戸時代に因州と呼ばれていた鳥取藩池田家の江戸表の屋敷にあったものです。池田藩の江戸上屋敷(拝領屋敷)は旧丸の内(馬場先門辺り)の大名小路に構えていました。その因州32万石の大大名の江戸上屋敷はそれはそれは大きな敷地をもち、その敷地を取り囲む塀にはいくつもの門があったのでしょう。

幕末から明治へと時代が移り、廃藩置県、版籍奉還を経て封建時代の大名が姿を消すと旧丸の内に軒を連ねた大名屋敷も取り壊されてしまいます。そしてその跡地には近代化の象徴ともいうべき煉瓦造りの西洋建築がとって変わるのです。

大名屋敷はことごとく取り壊されてしまうのですが、この池田屋敷表門は明治に入り当時の東宮御所の正門として活路をみいだすこととなります。現在まで関東大震災と東京大空襲等に遭いながらもかつての姿を残していることに感動すると同時に、当時の建築技術の高さを思い知らされます。この場所に移築されたのはおよそ60年前の昭和28年(1953)に遡ります。

旧因州池田屋敷表門

江戸時代の大名屋敷にあった門は現在、寺院の門などに転用されていることが多いのですが、現存する武家の門としてまず思い浮かぶのは、かつて加賀前田家へ嫁いだ将軍家斉公の姫君である「溶姫」の屋敷の御守殿門として構えた「赤門」ではないでしょうか。この東大の赤門に対し、ここ池田屋敷の表門は「上野の黒門」と呼ばれています。





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お江戸牛込神楽坂ぐるっと散策~毘沙門天・赤城神社~

2012年01月27日 17時14分30秒 | 新宿区・歴史散策
お江戸の中でも「粋」な町として知られている神楽坂はJR飯田橋駅のそばを走る外堀通りを入口とする「神楽坂」を中心とした地域です。

江戸時代には神楽坂下から外堀に架けられた橋を渡ったところに御城へ通じる重要な門である「牛込御門」がありました。江戸の切絵図を見ると外堀側から坂を登り、登りきったところにある善國寺までが神楽坂、その先が肴町、通寺丁の寺社地へと続いています。

この寺社地を抜けた地域が「矢来町」なのですが、江戸時代初期(1624年頃)に大老坂井忠勝が屋敷を構えたことで、坂上の矢来の屋敷から前述の牛込御門までの道筋を大老の登城道としてつくられたのが今で言う「神楽坂」なのです。

※坂井忠勝
武蔵川越藩の二代藩主、その後、若狭小浜藩の初代藩主。三代将軍家光公、四代将軍家綱公の時代に老中、大老を務めた。

現在の神楽坂は坂道なのですが、江戸時代を通じてこの道は階段だったそうです。ですから江戸の古地図をみると神楽坂には階段を示す「横線」が入っています。明治に入り、周辺の武家屋敷を取り壊し、町人の町、花柳の町になってから坂道になったようです。

毘沙門天善國寺
毘沙門天善國寺山門

そんな坂道を登っていくと神楽坂の守護神として鎮座する「毘沙門天善國寺」が左手に現れてきます。朱塗りの山門には毘沙門天と善國寺の提灯が燈され、花街神楽坂を連想させるような雰囲気を漂わせています。

山門に燈された提灯

毘沙門天善國寺の創設は古く今から400年ほど遡る文禄4年(1595)のことです。家康公の江戸初入府が1590年のことですから、御城や江戸の町づくりがまだ本格的に始まっていない頃です。もともと善國寺は家康公より寺地を賜り、日本橋馬喰町に開基した歴史をもっています。

また徳川御三家の水戸家の黄門様も善國寺の毘沙門天に深く帰依し、寛文10年(1671)に火事で焼失した当寺を黄門様の手により麹町に再建したことが伝わっています。さらに御三卿の田安家、一橋家の祈願所として徳川家とは深く縁があった寺なのです。

善國寺毘沙門天ご本堂

善國寺がここ神楽坂に移ってきたのは寛政4年(1792)のことです。この頃から善國寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門として庶民の尊崇の的となり、それまで武家屋敷が連なっていたこの地域も徐々に町屋が増え、明治に入ると花街が形成され、華やかな町へと姿を変えていきました。

善國寺毘沙門天境内

山門をくぐると目の前にご本堂がど~んと構えています。そのご本堂を守るかのように一対の獣像が置かれています。実はこれは寅毘沙と呼ばれているもので、神社で言えば狛犬に相当するものです。なぜ寅毘沙と呼ばれているかというと、毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったといわれているからだそうです。この寅毘沙は江戸時代後期に造られてものです。

寅毘沙(左)
寅毘沙(右)

毘沙門様をあとに更に坂を登り進み、ほぼ登りきったあたりにあるのが「赤城神社」です。実はかなり以前にこの場所を歩いたときに見た景観が一変していることに気がつきました。以前の赤城神社は鎮守の杜の中にお社が構えていたように記憶していたのですが、なんとあまりに美しく変身してしまっていたのです。

赤城神社鳥居

鳥居も以前は石造りのものであったのですが、今は見るも鮮やかな朱色の鳥居に変わっています。そして何よりも御社殿へとつづく参道が現代感覚に満ち溢れ、その参道にそって高級そうなマンションが建っているではありませんか。

赤城神社参道とモダンな狛犬
本殿と蛍雪天神

この赤城神社は江戸時代には牛込の総鎮守「赤城大明神」と呼ばれ、日枝神社、神田明神と並んで「江戸大社」の一つに数えられた格式ある神社なのです。…が、時代が変わり、平成の世になって諸般の事情があったのでしょう。なんと赤城神社再生プロジェクトなるもので、老朽化した社殿を建て替え、さらに安定的な収入を得るために境内に隣接して分譲マンションを建ててしまったといいます。

蛍雪天神の祠

そして面白いことに境内には本社殿の他に、蛍雪天神なる真新しい社殿が置かれています。「蛍雪」とあることから予想がつくと思いますが、なんとあの受験雑誌「蛍雪時代」で有名な旺文社の寄付で再興された社で、受験生の合格を専門的に祈願することを目的としているようです。もちろん祭神は菅原道真公なのですが…。





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お江戸墨堤・三囲神社は三井越後屋の守護神を祀る

2012年01月26日 11時51分04秒 | 墨田区・歴史散策
隅田墨堤下を走る通称「検番通り」のちょうど中ほどに鎮座するのが今日のお題の「三囲神社」です。当ブログでも以前取り上げたことがある神社なのですが今回は三井越後屋(現三井グループの三越百貨店)と浅からぬ関係にあることを紹介いたします。

三囲神社鳥居の扁額

漢字表記で「三囲神社」となっているのですが、つい読み方として「みい」、「さんい」とかはたまた「さんかこい」などと読みたくなってしまうのですが、なんと「みめぐり」と読ませるのです。

三囲神社のご社殿

「みめぐり」と読ませる由来は文和年間の頃(1353-1355)、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴のとき、牛島と呼ばれていたこのあたりに壊社があることを知り、その社が弘法大師ゆかりのことを聞いて、荒れ果てた社を改築しようとしたところ、土中より白狐にまたがる老翁の像が現れました。そして白狐が現れ神像を三回まわったところから「三囲(みめぐり)」の名を付したといいます。

さてこの三囲神社と三井越後屋が関係持つようになった時代というと江戸時代の初期の頃まで遡ります。神君家康公の開幕後、70年ほどたった延宝元年(1673)に上方の伊勢で呉服商を営んでいた三井家の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行本店あたり)に越後屋の江戸店を開業したのが、現在の三越の始まりです。

そして開業から10年後に駿河町(現在の三越本店がある場所)に移転し商売を拡大していったのです。江戸時代には駿河町の越後屋本店と通りを挟んだ向かい側に「向店(むこうだな)」があり、越後屋はお江戸の中心地で押しも押されぬ大店(おおだな)として発展していたのです。

前述の江戸に初めて進出した越後屋ができた延宝元年(1673)の頃は、先の明暦の大火からすでに20年近く経過し、御府内と対岸を結ぶ両国橋が隅田川に架かっています。両国橋ができたことでかつては下総の国と呼ばれていた隅田左岸は府内の一部に組み込まれ開発が進んでいました。特に三囲神社のある地域は「牛島」と呼ばれ風光明媚な土地が広がり、江戸庶民の日帰りの遊楽地として人気が高まっていました。ご府内のごみごみした風景と異なり、春夏秋冬のどの季節でも静かな雰囲気の中でのんびり過ごせる場所だったのです。時代は下りますが、そんな風光明媚な土地柄を活用した文化2年(1805)に開園した「向島百花園」は化政文化華やかりし頃、当時の文人墨客のサロンとして利用されていたことは有名な話です。そんな雰囲気を漂わしていたこの地域には江戸市中の大店の主人がセカンドハウスを構え、妾を囲う場所として最適だったと言われています。

あくまでも想像ですが江戸の大店である三井越後屋の主人もここ牛島に立派な別宅を建て、大川端から猪牙舟にのってしばしば訪れていたのではないでしょうか。そんな折に牛島に社を構える「三囲神社」を訪れ、「三囲(みめぐり)」は「三井(みつい)」に通じると考え、この社を三井家の守護神として崇めさまざまなものを寄進したと考えます。

ライオン像

鳥居をくぐり本社殿の手前左手に置かれているのが三越百貨店のシンボルである「ライオン像」です。このライオン像は新しいもので2009年に三越から奉納されたものです。かつて三越池袋店の店頭に置かれていたものなのですが、同店の閉店に伴い当社に移設された経緯があります。そもそもライオンは紆余曲折を経て神社の神前を守る狛犬に変化したものなので、三越のライオン像がここ三囲神社に置かれても不思議ではないのですが…。やはり三囲神社と三越との浅からぬ関係を感じざるを得ません。

さらにこのライオン像の傍らに置かれているのが三越の商標が前面にど~んと刻まれた大きな石台なのですが、これは明治時代から昭和初期にかけて店にやってきた客にだす茶の湯の銅壷を置く台として使われていたものだそうです。さすが越後屋ならではのお客様へのサービス、と感心します。

石台

そして社殿前に置かれた狐像もこれまた三井越後屋の寄進によるものです。目が垂れた愛らしい顔立ちの狐さんは「三囲のコンコンさん」と呼ばれ親しまれているのですが、台座には「向店」と文字が刻まれています。この向店は冒頭で書いたように越後屋本店の真向かいで綿織物関係を主に取り扱う商売をしていたのです。その関係者が寄進したのがこの「三囲のコンコンさん」なのです。

三囲のコンコンさん
台座

社殿裏手に面白い形の鳥居が置かれています。三角を形どる珍しい鳥居なのですが、この三角鳥居もかつて三井家にあったものがここに移設されています。この鳥居の「三角」も三井に通じるものなかかはわかりませんが、大店らしい気配りを感じます。

三角鳥居

さらに境内の一番奥に鎮座するのが三井家の祖先の霊ををお祀りしている顕名神社です。それほど大きくはない祠なのですが、その居ずまいから三井家の威厳を感じます。四方を柵で囲まれて側に近づくことはできないのですが、祠の外壁を飾る繊細な彫刻が金にいとめをつけない大店の心意気を表しているようです。

顕名神社の祠
祠を飾る彫刻

ここ牛島の三囲神社からはほぼ見上げるようにスカイツリーがそそり立っています。現代の技術の粋を集めて建てられた巨大建造物の足元で三囲の神はどのような思いで鎮座しているのでしょうか?

お江戸墨堤・三囲神社は三井越後屋の守護神を祀る
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亀戸天神社恒例の「うそ替え神事」

2012年01月25日 16時37分02秒 | 江東区・歴史散策
毎年1月24日・25日両日はお江戸下町の亀戸天神社では江戸時代の文化三年からつづく恒例の「うそ替え神事」が行われ、多くの参詣者で賑わっています。

亀戸天神鳥居
社殿前の行列

ご存知のように亀戸天神社は菅原道真公を祀っていることから学問の神として崇められています。なぜ学問の神を祀る天神社で「うそ替え神事」が行われるのかというと、「うそ」という鳥は幸運を招く鳥とされ、毎年新しい「うそ鳥」に交換すると、これまでの悪いことが「うそ」となり、その年の開運、出世、幸運を代わりに手に入れることができるという信仰が伝わっています。

うそ鳥

また「うそ鳥」は日本海沿岸に生息するスズメ科の鳥で、九州の大宰府天満宮のお祭りのとき、害虫を駆除したことで天神様と深い係わりをもったとされています。更には鷽(うそ)の字が學(がく)の字に似てることから学問の神様である天神様とつながりが深いと考えられているようです。

社殿に通じる参道脇には販売所が設けられ、新しい「うそ」を買い求める参詣客で賑わい、その傍らには古いうそを納める奉納台が置かれています。

古いうその奉納台

社殿には一対の大きな「うそ鳥」が置かれ、多くの参詣客が今年の吉を祈っています。とりわけ学問の神様ということで、比較的若い方が多いのも頷けます。社殿前に置かれた絵馬の奉納所には合格を祈願する絵馬が山ほど吊るされています。

社殿の大うそ

境内を一巡すると神楽殿では初天神祭の祝いの神楽が奉納されている最中でした。天神祭とは菅原道真公の誕生日と亡くなった日である25日に執り行なわれる神事、祭事であり、1月25日はその年の最初の天神祭ということで「初」がついているのです。

天神祭の神楽
蝋梅
境内俯瞰

その神楽殿の脇に植えられた一本の木には芳しい香りを放ち、淡い黄色の花弁が愛らしい「蝋梅」の花が大寒の空気の中で揺れています。亀戸天神社の境内はたくさんの梅の木が植えられていますが、蕾は膨らみ始め、日当たりの良い場所の梅の木にほんの一輪の紅梅が花を咲かせていました。

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浜御殿を彩る白銀の世界~雪に覆われた徳川将軍家のお庭(浜離宮)~

2012年01月24日 16時10分59秒 | 中央区・歴史散策
昨夜来から降り始めた東京の雪は久しぶりに積雪4cmを記録しました。朝のワイドショーでは都内の雪景色の映像をしきりに流し、いつものように雪に弱い東京をやたらと報道したがるテレビ局の意図がありありと感じます。

幸いに今回の積雪は交通機関にさほど大きな影響を与えていないとのことで、電車に乗って都内にある名園の雪景色を堪能することとしました。

汐入池畔の松の茶屋

その名園は徳川将軍家のプライベートの御殿として第六代将軍家宣公が整備した御浜御殿(浜離宮)ですが、かねてより雪に覆われた浜離宮の美しい姿を一度見てみたいと思い、開園時間に合わせ出掛けました。

汐留のビル群

到着したのは開園時間をちょっと過ぎた頃、大手門から眺める園内には人影はまったくありません。はやる気持ちを抑えつつ、まだ誰も歩いていない真っ白な雪の上を歩きながら、冬ならではの名園散策を楽しむことにしました。

汐留のビル群

雪化粧をした御浜御殿を散策できることはめったにありません。しかもほとんど人気のない園内を独り占めしているようなチャンスもめったにありません。大寒を過ぎたこの季節には、園内を彩る花はせいぜい寒椿ぐらいなものです。落葉樹の葉はなく、寒々とした枝だけの景色が広がるのが冬の庭園なのですが、そんな味気のない冬の庭園がひとたび美しい白銀の衣装を纏うやいなや、人の手ではけっして描くことができない別の世界が現出していることがはっきりと判ります。

空と雪とビル群

まるで借景のように園の背後に林立する汐留地区の高層ビル群がターコイズブルーの空と地表に降り積もった白い雪の間で鮮やかなコントラストを見せています。

松の茶屋

御浜御殿を代表する絶景ポイントはなんといっても汐入りの池周辺の景色でしょう。その池の畔に復元なった茶屋(松の茶屋)が屋根に雪をあしらい佇んでいます。

>鏡面のような汐入池

波一つない汐入の池はまるで鏡面のように輝き、周囲の景色を見事に映し出しています。その池を囲む遊歩道にも一面に雪が降り積もり、白い絨毯を上を歩いているかのような錯覚に陥ります。遊歩道の脇の雪に覆われたなだらかなスロープに趣きを感じさせてくれるかのように松の木が青い空に映えています。

お伝い橋と中ノ島
松の茶屋遠望
汐入池の畔
青空に映える松ノ木
青空に映える松ノ木

御浜御殿名物の梅園の木々も枝々に雪を纏い趣きある風情を醸し出しています。

梅林

梅園脇の遊歩道を進むと網に覆われた広場が現れます。この場所は春の季節には数十万株の菜の花が黄色の絨毯を敷き詰めたように咲き誇ります。地表にはもう菜の花の若葉が顔を出していますが、昨夜来の雪がその若葉の上に痛々しく降り積もっていました。

菜の花畑とビル群

雪のあしたは裸で洗濯、と良く言われますが、真っ白い雪の上に降り注ぐ冬の陽射しが優しく感じる御浜御殿でのひとときでした。

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名古屋・大須観音は老若男女が集う人気の霊場~巨大商店街は一見の価値あり(大須商店街)~

2012年01月23日 12時22分21秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
名古屋市内の繁華街で代表的な「栄」は東京で言えば「銀座通り」に相当し、近代的な建物が通りを挟んで立ち並び、人気の有名ブランド店が軒を連ねるお洒落な繁華街といったところです。

名古屋市内についてはそれほど詳しくない私にとって、繁華街といえば「栄」しかないと思っていたのですが、その「栄」からさほど離れていない場所にまるでお江戸の浅草を彷彿させるような(見方によっては浅草よりも図抜けているかも!)それはそれは巨大な商店街が連なる場所があることを今回初めて知ったのです。

その名を「大須」というのですが、実はこの場所は霊験あらたかな観音様を祀る「北野山真福寺寶生院」の門前町として発展した歴史を持っているのです。ということはお江戸の浅草寺と同じように古くから庶民に親しまれた寺であり、遊興の場所であったことがうかがわれます。

大須観音ご本堂

市内の幹線道路である若宮通りから伏見通へ入るとすぐ左手に大須観音の西参道入口が現れます。お江戸の浅草と同じようにご本堂にいたる参道にたくさんの店が軒を連ねている「仲見世」のような世界を期待していたのですが、伏見通からわずかな距離に西門が現れすぐに境内に入ってしまいました。

大須観音西門

西門をくぐると目の前に朱色に塗られた大きな大きなご本堂が現れます。これがご本尊である聖観音を祀る「大悲殿」と呼ばれているご本堂です。

大須観音ご本堂
大須観音ご本堂

大須観音の歴史を紐解いて見ると、創建は元亨四年(1324年)と古く、もともとは尾張国長岡庄大須郷(いまの岐阜県羽島市大須)にあり、御開山は能信上人(のうしんしょうにん)です。能信上人は開山にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日間こもり祈りの日々を過ごしていたのですが、ある夜見た霊夢に、「大慈大悲の観世音こそは利益無量、この世の人びとに、もっともありがたいお方である」とのお告げをえられ、そのうえ観世音の貴い姿を拝されたと伝えられています。

そしてその観世音の姿は弘法大師ゆかりの摂州四天王寺の大慈大悲の観世音菩薩に寸分たがわぬ御尊影であったのでした。その話を伝え聞いた時の帝、後村上天皇の詔によって摂州四天王寺の観世音菩薩が北野山真福寺寶生院に移され、それ以降ご本尊と仰ぐこととなったのです。

寶生院がこの場所に移ってきたのは慶長17年の頃で、神君家康公が名古屋を建設するにあたってこの地に移したと言われています。

そんな霊験あらたかな観音様が祀られているご本堂は見上げるように聳え、まるで私たちを包み込むように建っています。1月半ばのこの日、境内にはお参りに訪れる人で賑わい、ご本堂前にはお参りの長い列ができていました。比較的若い方が多かったのは受験シーズンでもあり合格祈願に訪れていたのではないでしょうか。



お参りを済ませご本堂の石段上から境内を俯瞰すると、南側に立派な仁王門が構えています。ということは仁王門に通じる道筋に仲見世のような店が並んでいるのではと思ったのですが、それらしい街並みは広がっていませんでした。

仁王門

この仁王門の脇に建っているのが「鐘楼堂」です。鐘楼堂自体は古く感じるのですが、吊るされている鐘は地元の婦人会の手により昭和41年に鋳造され寄進されたものだそうです。

鐘楼堂

一通り境内を散策した後、噂に聞く大須商店街の散策へと向かうことにしました。門前町を形成する商店街は境内の東側に広がっています。それも一筋ではなく二筋に分かれてアーケード形式の商店街が続いているのです。

境内俯瞰

名古屋の人に言わせれば「名古屋のアメ横」と呼んでいるようですが、東京人の私に言わせればアメ横ほどの「闇市」的な雰囲気ではないような気がします。全体的に衣類関係と屋台的な飲食店が多く、散歩がてらに屋台に立ち寄り、立ち食いや歩き食いを愉しめる商店街といったところです。

商店街の風景

訪れたのがたまたま日曜日だったので、大須観音詣でのついでの参詣客やはたまた一見して中国からやってきた観光客などでたいそう賑わっていました。洗練された「栄」の通りに比べ、下町的な情緒を愉しめる場所として是非一度行かれてみることをお勧めいたします。




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格式ある堂宇はさすが!尾張徳川家の菩提寺・建中寺

2012年01月18日 11時51分48秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
年初早々、名古屋へ行く機会を得てわずかな時間を利用して念願の尾張徳川大納言の菩提寺である建中寺へ行ってきました。御三家筆頭の尾張徳川家(61万石)の菩提寺であれば、それはそれは壮麗な堂宇が立ち並んでいるのではと期待を胸に向かった次第です。

建中寺三門

市営地下鉄「車道駅」から10分ほどの距離にある建中寺は静かな住宅街の中で尾張徳川家の威光を今に伝える見事な三門(三間重層門)が堂々とした姿で迎えてくれます。

当寺の創建は慶安4年(1651)に第2代藩主である徳川光友公が父である初代藩主義直公の菩提を弔うために建立しました。江戸時代を通じて尾張藩主の霊廟が置かれ、尾張徳川家の菩提寺として、当寺は寺の周囲は石垣と掘で囲まれ、数多くの壮麗な堂宇が並んでいたといいます。

創建当時の建造物のほとんどは焼失してしまっているのですが、現在残る建造物の中で総門、三門は創建当寺のものですが、そのほかのものは天明6年から7年(1786~1787)にかけて再建されたものです。とはいってもそれなりに歴史を感じる建造物です。

建中寺三門

前述の三門へ至る手前に葵の御紋を付した小振りの門が構えています。尾張徳川家の権威を示すようなこの御門は尾張家だけが使用した「御成門」で、創建は正徳4年(1701)と古いものです。この御成門はもともとは霊廟域へ通じる門として使われていたようで、この場所にあったものではありません。

御成門
御成門の葵御紋

建中寺門前の道を隔てて比較的大きな公園があります。建中寺公園と名付けられているのですが、その公園の南端に見事な門が置かれています。これが建中寺の総門といわれているもので、総檜造の四脚薬医門で慶安5年(1652)の建立です。かつてこの建中寺公園には7つの塔頭(宗心院・甲龍院・誓安院・全順院・正信院・光寿院・養寿院)があった場所ですが、今はその名残を示すものは何も残っていません。

総門脇の寺名石柱
総門

それでは三門へと向かうことにしましょう。堂々とした山門の扉には当然のごとく徳川家の家紋である金色の葵の紋が付されています。慶安5年(1652)に建立されたこの三門は総檜造りの入母屋造で、上層階には釈迦如来と十六羅漢像が安置されています。

三門扉の葵のご紋

三門をくぐり右手へ進むと天明7年(1787)に建立された鐘楼が置かれています。この鐘楼はなんと隣接する建中寺幼稚園の敷地内にあり、すぐそばまで近づくことができませんでした。

鐘楼

そして鐘楼から左へと目を移すと白亜の外壁が妙に目立つ建造物が置かれています。美しい姿のこの建物は非常に新しく見えるのですが、なんと江戸後期の文政11年(1828)に建立された経蔵です。

経蔵

そして境内の中心的存在のご本堂が堂々とした姿で迎えてくれます。名古屋市内では最大の木造建造物だそうで、建立は天明7年(1714)です。

建中寺ご本堂
ご本堂

ご本堂の左手の道を進んでいくと尾張徳川家の霊廟を守る御門へと達するのですが、残念ながら霊廟敷地内に入ることはできません。その敷地には本殿・渡殿・拝殿を一体とした権現造の霊廟と唐門、透塀から構成され、内外ともに華麗で極彩色の装飾が施されているとのことです。是非、機会があれば拝見したいものです。

霊廟ご門
霊廟ご門の葵ご紋

徳川将軍家の菩提寺であるお江戸の寛永寺の霊廟は幕末の上野戦争で焼失し、増上寺の霊廟は昭和20年の東京大空襲で焼失してしまい跡形もありません。徳川家の壮麗な霊廟建築を見るならば日光輪王寺の家光公の霊廟「大猷院」がありますが、尾州名古屋には尾張徳川家の霊廟が戦災にもめげずに残っていることは徳川大好き人間である私にとっては非常にうれしいことです。

豪華絢爛・名古屋城本丸御殿
ただ今、建設中!名古屋城本丸御殿の裏側
徳川御三家筆頭・尾張公の居城「名古屋城」見聞録




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私本東海道五十三次道中記~神奈川宿~

2012年01月12日 12時16分27秒 | 私本東海道五十三次道中記
広重「神奈川台の景」

生麦事件碑を過ぎると旧東海道は国道15号と合流します。合流地点から15号に沿って京浜急行の新子安駅、子安駅を過ぎ神奈川新町駅を目指します。この区間は旧東海道らしさがまったく感じられない道のりです。神奈川新町駅に近づく頃、15号に面して建つセブンイレブン横浜浦島町店の角を入り、最初の角を左折して2ブロック目に小さな公園が現れます。ちょうどこのあたりが東海道三番宿「神奈川宿」の江戸方見附(宿の東側の起点)があったところで、江戸時代には街道の両側に土塁が築かれていたようです。現在、小さな公園(神奈川通東公園)になっている場所にはかつては「長延寺」という寺があったのです。ここ神奈川宿は江戸から7里の位置にあり、神奈川湊をもつ宿場として発展してきました。尚、現在では横浜(港)のほうがはるかに発展していますが、開港当時の横浜は神奈川宿の南にある戸数100余りの漁村だったのです。

幕末の安政元年(1854)の和親条約調印後、各国はここ神奈川宿に公館を構えていましたが、長延寺は横浜に外国人居留地が整備されるまでのわずかな期間、オランダ領事館に充てられていました。その時から140年余り経った現在、見附も長延寺もなく、ただ案内板だけが一つ置かれているだけです。

長延寺跡をあとにして再び国道15号沿いの歩道を進むと、右手に立派な山門が現れてきます。門柱には「良泉寺」とあります。

良泉寺山門
良泉寺境内とご本堂

開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる寺だそうです。幕府の権威が失墜していた幕末であっても、幕府にたて突くとは気骨溢れるご住職だったようです。

そして良泉寺西側の塀に沿って路地を入り、そのまま直進し京急のガードをくぐると正面に現れるのが、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」です。この名の由来は旅人がこの社の前を通りかかると不思議にかぶっていた笠が脱げ落ちるということからこう呼ばれるようになったとのこと。

笠脱稲荷大明神
笠脱稲荷大明神ご本殿

建立の歴史は古く平安時代の天慶年間(938~947)で京都の伏見稲荷の分霊を勧請したものだそうです。境内には木々が茂り、京急の線路脇にもかかわらずこんもりとした林を形成しています。その境内の一角に二本の銀杏の木が寄り添っているかのような「御神木」を見つけました。その木の傍らに「夫婦和合・大銀杏」と架かれた木札が置かれています。

夫婦和合・大銀杏

再び京急のガードをくぐり元の道へと戻り、最初の角を左折すると右側に能満寺が現れます。成安元年(1299)、この地の漁師が海中から霊像を拾い上げたところ、霊像の宣託にしたがって建てたのがこの寺であるとの伝承があります。本尊は高さ五寸(15㎝)木造坐像の虚空蔵菩薩で海中より出現したと伝えられています。以前は道を挟んで隣に鎮座する「神名宮」の別当寺で同一境内に同社もあったのですが、明治時代の神仏分離令で別れ現在に至っています。

能満寺山門
能満寺ご本堂

能満寺から京急仲木戸駅まではわずかな距離です。仲木戸駅はJR東神奈川駅に隣接しています。二股に分かれている駅前通りを渡り、セブンイレブンの横の路地を進んでいきましょう。

路地に入ると、にわかに街道らしい風景が目に飛び込んできます。細い路地の両脇に松の並木が連なり、旧街道の風情が感じられる味わい深い通りになっています。綺麗に整備されかつての神奈川宿の道筋を歩いているかのような錯覚に陥ります。

金蔵院山門
金蔵院境内

そんな松並木通りに面して建っているのが立派な門構えの寺、「金蔵院」です。開基は平安末期という古刹ですが、江戸時代には神君家康公から十石の朱印地を賜っています。かつて本堂前には家康公の「御手折梅」が植えられていたとのこと。そして毎年1月の江戸城登城の折にはこの梅の枝を携えるのが慣わしであったといわれています。

熊野神社ご本殿

松並木通りを挟んで金蔵院と相対するように建つのが神奈川郷の総鎮守として信仰を集めてきた熊野神社です。江戸時代には金蔵院境内に置かれていましたが、明治の神仏分離令で別々の敷地に分かれています。

神奈川宿高札場

旧街道の面影を残す松並木通りを進むと左手に復元された「高札場」が現れます。ほぼ忠実に復元されたもので横5.7m×奥行1.7m×高さ 3.5mほどの大きなものです。この高札場は神奈川地区センターの前に置かれていますが、トイレを借りるにはここセンターを利用することをお勧めいたします。

成佛寺門前
外国人宣教師宿舎碑
成佛寺ご本堂

この地区センターを過ぎるとすぐ右手に現れるのが「成佛寺」です。鎌倉時代に開基した古刹ですが、徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された歴史をもっています。安政六年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われていましたが、その宣教師の中でもヘボン式ローマ字で有名なヘボンは本堂に住み、日本最初の和英辞典を完成したブラウンは庫裏に住んでいたといいます。尚、ここ神奈川宿にはヘボン博士の施療所として使われていた宗興寺があります。またヘボン博士は明治学院を創設した教育者でもあります。

余談ですが、ヘボンを英語で綴ると「Hepburn」なのですが、実はあのローマの休日で主役を演じたオードリー・ヘップバーンと同じなのです。 日本では英語読みの「ヘボン」では彼女の優雅さが表現できないという理由からなのか、聞こえのいい「ヘップバーン」と表記したようです。

慶雲寺門前

成佛寺を退去し、左へと進むと道は行き止まります。T字路を右へ進み京急のガードをくぐるとすぐ右手に現れるのが浦島寺と呼ばれている慶雲寺が現れます。横浜開港当初はフランス領事館に充てられていた歴史を持っています。

フランス領事館記念碑

室町時代に開基された古刹である慶雲寺には浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっています。境内には浦島父子の墓もあります。浦島伝説なるものは日本のいたるところで伝わっていますが、ここ神奈川の浦島伝説も私たちが知る物語とほぼ同じ内容
です。

慶雲寺

浦島太郎が竜宮城で過ごした3年は300年に相当し、久しぶりに帰ってきた故郷には太郎の知る人は誰もいなかったことで物語りは終わるのですが、実は慶運寺の解説板には、この事実を知った浦島太郎は神奈川の浜から亀に乗って竜宮に戻り、再び故郷には戻ることがなかったと記されています。まあ伝説ですからその真意は定かではありませんが、ここ慶運寺に浦島親子の墓があるということはやはりここ神奈川の地で亡くなったことも異説として伝わっていたのでしょう。

浦島親子の墓

ただし慶運寺が浦島寺と呼ばれるようになったのは明治6年(1873)のことなのです。というのも浦島太郎が竜宮から戻って庵を結んだ場所が「帰国山浦島院観福寿寺」であったらしいのです。しかしこの観福寿寺は慶応4年(1868)の大火で焼失し、その後廃寺となってしまいます。そして明治6年にここ慶運寺が観福寿寺を併合し浦島伝説を継承したのです。

慶雲寺から再びもと来た道へ引き返し、国道15号まで進みましょう。ちょうど15号に出たあたりに神奈川町本陣跡の案内板が置かれています。かつて本陣があった場所はいまやビルが立ち並び、神奈川宿の中心であった名残りはまったく感じられません。

それではほんの少しの間15号に沿って歩き、再び旧街道へと戻ることにしましょう。旧街道へ入る前にヘボン博士の施療所があった宗興寺に立ち寄ってみましょう。神奈川町本陣跡から滝の川に架かる「滝の橋」を渡り2本目の角を右に折れると宗興寺です。現代的な建物に変身した宗興寺の山門を入ると、奥に施療所を記念する石碑が置かれています。

宗興寺のヘボン博士施療所記念碑

宗興寺を後に再び15号へ戻ると前方に宮前商店街のゲートが見えてきます。この商店街通りが旧街道なのですが、まったく商店らしきものがないのに商店街とはこれいかに?

洲崎神社鳥居

通りに入るとすぐ右手に洲崎神社の鳥居が現れます。洲崎と名が付いていることから、かつては水辺が近かったことを意味しています。石段を登り境内に入ると、前方に立派な社殿が現れます。実は現在の宮前商店街通りと15号が突き当たる辺りがかつて船着場があった場所なのです。そして横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり宮ノ下河岸渡船場と呼ばれていたようです。

洲崎神社弐の鳥居
洲崎神社社殿

そしてさらに宮前商店街通りを進み、通りが終わる辺りに建つのが「甚行寺」です。この寺も幕末にはフランス公使館が置かれていました。

甚行寺フランス公使館記念碑

こう考えると神奈川宿は幕末の一時期はは多くの異人さんが行き交う、国際色豊かな町だったことが伺われます。住み慣れた母国を離れ、極東の宿場町に住んだ異人さんたちは木と紙でできた寺に住み、冬ともなれば隙間風に身を凍らせ、さぞ不安げな日々を過ごしていたのではと歩きながら考えた次第です。

旧街道は京急の神奈川駅の脇を通り、JRの線路を跨ぐ陸橋へとさしかかります。陸橋の上から右手の高台を見上げると寺院らしきものが目に飛び込んできます。これが有名な本覚寺です。何が有名かというと、横浜開港当時、米国の初代領事であるハリスは神奈川宿から横浜への渡船場に近く、横浜を眼下に望み、湾内を一望できる高台に位置する当本覚寺をアメリカ領事館に決めたのです。領事館時代には当寺の山門はアメリカ人好みの白ペンキで塗られていたようです。

本覚寺門前のアメリカ領事館記念碑
本覚寺山門
本覚寺ご本堂

本覚寺の高台からは横浜駅周辺のビル群が一望でき、かつてはここから横浜の海を眺めることができたのかと思うと、時代の変遷をつくづくと感じざるを得ません。

神奈川宿は江戸寄りの見附から4キロほどの距離につらなる大きな宿場町だったようです。旧街道はJR線路を横切り、更に西へと向かいます。いったん谷あいに下った街道は徐々に上り坂へと姿を変えていきます。その上り坂が「台町」と呼ばれる旧神奈川宿の袖ヶ浦地区なのです。

大綱金毘羅神社の鳥居
大綱金毘羅神社社殿

その台町へとさしかかる入口に鎮座するのが大綱金毘羅神社です。旧街道に面して朱色の鳥居が立ち、石段が境内へとつづいています。平安末期の創建と古い神社で、神奈川湊に出入りする船乗りたちから崇められ、また大天狗の伝説が伝わっています。社殿横には大きな天狗様の面と天狗様の団扇が構えています。また、江戸時代には当神社前には江戸から数えて7つ目の一里塚が置かれていたとのことです。

大綱金毘羅神社を過ぎると、いよいよ台町の上り坂へとさしかかります。広重の「神奈川宿」はちょうどこの付近を描いたものと言われています。江戸時代には台町の坂の片側には数多くの茶屋が軒を連ね、その造りは座敷二階造、欄干つきの廊下、桟をわたして波打ち際の景色を眺めることができたといいます。

田中家
田中家全景

坂道の両側はマンションの建物が立ち、かつての面影はまったく感じられませんが、坂の途中にある文久3年(1863)創業の割烹料理屋「田中家」が昔の風情をなんとか醸し出しています。この田中家の前身はあの広重の「神奈川台の景」の中に描いた「さくらや」という腰掛茶屋だったのです。実際に広重の描いた絵と比べてみても、確かにこの場所は坂道の途中に位置し、かつては波打ち際の景色を見渡せたと思われるような立地になっています。余談ですが、この田中家になんと坂本竜馬の妻であった「おりょうさん」が仲居として働いていたという話が伝わっているのです。おりょうさんはその後、田中家に客としてやってきた横須賀の西村松兵衛と結婚し所帯を持つことになり、名も西村ツルと変えています。ですからおりょうさんの墓が横須賀市大津の浄土宗「信楽寺」にあることになるんですね。

神奈川台の関門跡

心臓破りの台の坂を登りきったあたりに一つの石碑が置かれています。石碑には「神奈川台の関門跡」の文字が刻まれています。この関門とはいわゆる関所の役割を担っていたもので、実は横浜開港直後には外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府はその対策のために横浜周辺各所に関門を設けたのですが、このうち一つとして神奈川宿の西側置かれた関門があった場所がこのあたりだったのです。

関門を過ぎると旧街道は緩やかな下りへと変わり、坂を下りきると上台橋に至ります。この辺りが神奈川宿の西の端にあたり、東海道は次の宿場である「保土ヶ谷」へと続いていきます。





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お江戸深川七福神詣で

2012年01月05日 15時07分51秒 | 江東区・歴史散策
新年明けましておめでとうございます。
旧年中は多くの方々からのご愛顧を賜り誠にありがとうございます。
本年も倍旧のご支援のほどお願い申し上げます。



さて本年最初のお題はお江戸下町の風情が漂う「深川七福神」への願掛け詣で巡りの報告から始めさせていただきます。

私の地元である江東区を代表する七福神巡りで、毎年かかさずに巡っています。おとそ気分もさめやらぬ昨日4日、各寺社では例年通り七福神がお姿を現し、私たちに新たな福徳を授けてくれています。

そもそも七福神の起こりは神君家康公が天海僧正に「国が栄えるようになり、人徳がたかまるようにするには、どのような道が大切であろうか」と質問されたのに対して、僧正は「仁王護国般若波羅密教(仁王教)などの経典に説かれている教えを大切にすれば、七難即滅し、七福即生します」と答えました。
さらに家康公は「七福とは何か」、僧正はが「七福とは寿命、有福、人望、清廉、威光、愛敬、大量が人生にとって大切であると説明しました。そして家康公は狩野派の画家に七福の神々を描かせたことが七福神の始まりであると言われています。

お江戸の七福神巡りが初めて行われたのは谷中七福神が最初と言われていますが、最も有名なのは隅田川七福神巡りでしょう。向島百花園が開園した文化元年(1804)に始まった隅田川七福神巡りが江戸の各地や地方に広がっていったのですが、ここ深川七福神巡りも江戸時代に始まったのですが、昭和20年の戦災で七福神を安置していた寺社が焼失したため戦後は中断していました。各寺社の復興に伴い、昭和45年の正月から復活し現在ではお江戸下町を代表する「七福神巡り」になっています。

ここで深川七福神を祀る寺社を紹介しておきましょう。
(1)恵比須神 富岡八幡宮(福徳:愛敬富財)
(2)弁財天  冬木弁天堂(福徳:芸道富有)
(3)福禄寿  心行寺(福徳:人望福徳)
(4)大黒天 円珠院(福徳:有福蓄財)
(5)毘沙門天 龍光院(福徳:勇気授福)
(6)布袋尊 深川稲荷神社(福徳:清廉度量)
(7)寿老神 深川神明宮(福徳:延命長寿)

富岡八幡宮の初詣の賑わい

それでは(1)の富岡八幡宮の恵比須神から七福神詣でを始めることにいたしましょう。
江戸最大の八幡さまで「深川の八幡さま」として親しまれている富岡八幡宮は永代通りに面して立つ大鳥居からご本殿までつづく参道にはたくさんの参詣客で賑わっていました。そんな人ごみをかき分けてご本殿の西側に祀られている「恵比須宮」へと進んでいきます。

参道の賑わい

ご存知のように恵比須神は大国主命の御子神にあたる事代主命(ことしろぬしのみこと)で釣りが大好きな神様です。このため烏帽子に狩衣をまとい、右手に釣竿、左手に鯛を抱えて岩に座った姿をしています。もともとは海上安全、航海安全の神でしたが、のちに商売繁盛の神として広く信仰されています。

恵比須神祠

富岡八幡宮のご本殿前の賑やかさとはうって変わって静かな空気が流れる神域でお参りを済ませ、二番目の弁財天を祀る冬木弁天堂へと向かうことにいたします。

冬木弁天堂

八幡さまからそれほど離れていない距離にある冬木弁天堂は葛西橋通りに面した小さな境内に祠を構えています。冬木弁天堂がある場所は江戸時代の元禄時代から材木商が多く集まった木場に位置していました。弁天堂の由緒はここ木場に店を構えた材木豪商の冬木弥平次が宝永2年(1705)に邸内の池の畔に竹生島から移した弁財天を安置したことに始まります。このため現在でもこの辺りの地名が「冬木」となっています。

冬木弁天堂を後にして、三番目の福禄寿を祀る心行寺へと向かいます。葛西橋通りを隅田川方向へと進み、清澄通りと交わる大きな交差点を右へ曲がるとすぐに現れるのが深川閻魔堂です。この閻魔堂の隣に位置しているのが心行寺です。

心行寺門前
心行寺門前

心行寺は江戸時代の元和2年(1616)に八丁堀寺町に創立し、寛永10年(1633)にここ深川に移った由緒ある古刹です。福禄寿を祀る六角堂は山門を入った境内の左手に建っています。新春の柔らかい陽射しが小さなお堂の中の福神を照らしています。

福禄寿六角堂

※深川七福神巡りのコースの中で唯一綺麗なトイレがあるのがここ心行寺です。

心行寺を後にして4番目の大黒天を祀る円珠院へと向かいます。清澄通りを北上しながら歩いていくと、仙台掘川に架かる海辺橋にさしかかります。この橋の袂はかつて俳聖・芭蕉が暮らした庵「採茶庵」があった場所です。海辺橋を渡ると左手にこんもりとした林が見えてきます。この林の向こうには江戸時代の名園「清澄庭園」があります。

円珠院門前
円珠院大黒天

清澄通りからはずれ深川七福神の幟に従って右へと折れてしばらく歩くと円珠院に到着です。円珠院には大黒天が祀られていますが、実は大黒天信仰には2つの流れがあります。一つは大黒天を大国主命とするもので、一般的に神社に祀られています。もう一つはインド名をマハカーラという仏神の大黒天で、多くは寺院に祀られています。

円珠院に祀られているのは仏神の大黒天です。円珠院は江戸時代の享保年間に創立した古刹です。

七福神巡りも残すところ三ヶ所となりました。ここ円珠院から5番目の毘沙門天を祀る龍光院へと足を進めます。龍光院の道すがら、大きな境内を有する浄心寺に沿って歩くと、その境内に古めかしい鐘楼が見えてきます。この梵鐘は文久元年(1861)の鋳造で、ここに移される前は川越の行伝寺の時の鐘として使用されていた由緒あるものです。七福神の幟は平野の交差点で左へと折れ更に北上します。

龍光院門前
龍光院毘沙門天

龍光院はそもそも家康公の側室「阿茶局」の菩提寺である雲光院の塔頭寺院で慶長16年(1611)に馬喰町に創立した古刹ですが、明暦3年の振袖火事で焼失した後、岩井町(現千代田区)に移転し、さらに天和2年(1682)の大火の際にここ深川に移転してきました。
そしてこの天和2年に鬼門除けとして境内の東北角に石造りの毘沙門天が安置されたのが始まりです。現在の毘沙門天像は昭和50年に造られたものです。ご存知のように毘沙門天は四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)の随一である多聞天とも呼ばれています。

※雲光院は龍光院から約100m北に位置しています。雲光院には阿茶局の墓と吉原遊郭の創立者である庄司甚内の墓があります。

龍光院を後に、雲光院門前を過ぎると深川資料館通りの商店街が現れます。この通りを清澄通りに向かって歩きます。深川資料館前を過ぎると、ほぼ隣にあるのが霊巌寺です。霊巌寺には江戸時代に寛政改革を断行した老中・松平定信公の墓所と江戸六地蔵が鎮座しています。

ちょうどこの辺りが清澄白河という地名ですが、前述の松平定信公が白河藩主であったことから「清澄白河」と付けられています。

清澄白河の交差点を渡り、清洲橋通りを西へ進み、布袋尊を祀る深川稲荷神社へと向かいます。清洲橋通りから右手へ折れると、深川稲荷神社はもうすぐです。

深川稲荷神社前
深川稲荷神社布袋尊

深川稲荷神社は寛永7年(1630)創立と古いものです。路地が交わる角に建つ当社のすぐ裏手に江戸時代からの水運の要である小名木川が流れています。江戸時代にはこの付近にはたくさんの船大工が生み、舟の修繕、造船をしていました。

ここ深川稲荷神社は深川七福神巡りのルートで唯一、お茶のサービスをしてくれる場所です。冷え切った体に熱いお茶のサービスは助かります。

さあ!いよいよ7番目の寿老神を祀る深川神明宮を目指しましょう。深川稲荷神社から隅田川方向へ歩いていくとこの付近にやたらと目立つのが相撲部屋です。琴風の尾車部屋、大鵬の大鵬部屋、北の湖の北の湖部屋と続きます。国技館のある両国がもう目と鼻の先という位置からすれば当然のことでしょう。

そして道はあの赤穂浪士たちが討ち入り後、泉岳寺へと向かうために歩いた万年橋通りへとさしかかります。万年橋からは隅田川の流れと美しい曲線を描く清洲橋を眺めることができます。

この万年橋通りを両国方面へと北上し、芭蕉記念館を過ぎて最初の角を右へ折れると寿老神を祀る深川神明宮に到着です。

深川神明宮は慶長元年(1596)とかなり古い創立で、深川では最も古い神社です。深川はそもそも大阪摂津からやってきた深川八郎右衛門によって開拓された土地です。その鎮守の宮として創建されたのがここ深川神明宮です。

そして神君家康公がこの村にきたところ、村名を尋ねたところ名がないので、深川八郎右衛門の姓をとって深川村とすることとなった由緒があります。

寿老神祠

7番目の深川神明宮は私にとっては終着点ですが、ここから七福神巡りを始める方にとっては出発点です。やはり出発点ともなる当社にはたくさんの方が参詣に訪れていました。延命長寿の神「寿老神」に今年一年の無事を願い年初の初詣を無事に終えることができました。

最後に皆々様のご多幸を心からお祈りいたしております。

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2014年午の歳 年の初めの深川七福神詣
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