広重「神奈川台の景」
生麦事件碑を過ぎると旧東海道は国道15号と合流します。合流地点から15号に沿って京浜急行の新子安駅、子安駅を過ぎ神奈川新町駅を目指します。この区間は旧東海道らしさがまったく感じられない道のりです。神奈川新町駅に近づく頃、15号に面して建つセブンイレブン横浜浦島町店の角を入り、最初の角を左折して2ブロック目に小さな公園が現れます。ちょうどこのあたりが東海道三番宿「神奈川宿」の江戸方見附(宿の東側の起点)があったところで、江戸時代には街道の両側に土塁が築かれていたようです。現在、小さな公園(神奈川通東公園)になっている場所にはかつては「長延寺」という寺があったのです。ここ神奈川宿は江戸から7里の位置にあり、神奈川湊をもつ宿場として発展してきました。尚、現在では横浜(港)のほうがはるかに発展していますが、開港当時の横浜は神奈川宿の南にある戸数100余りの漁村だったのです。
幕末の安政元年(1854)の和親条約調印後、各国はここ神奈川宿に公館を構えていましたが、長延寺は横浜に外国人居留地が整備されるまでのわずかな期間、オランダ領事館に充てられていました。その時から140年余り経った現在、見附も長延寺もなく、ただ案内板だけが一つ置かれているだけです。
長延寺跡をあとにして再び国道15号沿いの歩道を進むと、右手に立派な山門が現れてきます。門柱には「良泉寺」とあります。
良泉寺山門
良泉寺境内とご本堂
開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる寺だそうです。幕府の権威が失墜していた幕末であっても、幕府にたて突くとは気骨溢れるご住職だったようです。
そして良泉寺西側の塀に沿って路地を入り、そのまま直進し京急のガードをくぐると正面に現れるのが、「笠脱(かさぬぎ)稲荷大明神」です。この名の由来は旅人がこの社の前を通りかかると不思議にかぶっていた笠が脱げ落ちるということからこう呼ばれるようになったとのこと。
笠脱稲荷大明神
笠脱稲荷大明神ご本殿
建立の歴史は古く平安時代の天慶年間(938~947)で京都の伏見稲荷の分霊を勧請したものだそうです。境内には木々が茂り、京急の線路脇にもかかわらずこんもりとした林を形成しています。その境内の一角に二本の銀杏の木が寄り添っているかのような「御神木」を見つけました。その木の傍らに「夫婦和合・大銀杏」と架かれた木札が置かれています。
夫婦和合・大銀杏
再び京急のガードをくぐり元の道へと戻り、最初の角を左折すると右側に能満寺が現れます。成安元年(1299)、この地の漁師が海中から霊像を拾い上げたところ、霊像の宣託にしたがって建てたのがこの寺であるとの伝承があります。本尊は高さ五寸(15㎝)木造坐像の虚空蔵菩薩で海中より出現したと伝えられています。以前は道を挟んで隣に鎮座する「神名宮」の別当寺で同一境内に同社もあったのですが、明治時代の神仏分離令で別れ現在に至っています。
能満寺山門
能満寺ご本堂
能満寺から京急仲木戸駅まではわずかな距離です。仲木戸駅はJR東神奈川駅に隣接しています。二股に分かれている駅前通りを渡り、セブンイレブンの横の路地を進んでいきましょう。
路地に入ると、にわかに街道らしい風景が目に飛び込んできます。細い路地の両脇に松の並木が連なり、旧街道の風情が感じられる味わい深い通りになっています。綺麗に整備されかつての神奈川宿の道筋を歩いているかのような錯覚に陥ります。
金蔵院山門
金蔵院境内
そんな松並木通りに面して建っているのが立派な門構えの寺、「金蔵院」です。開基は平安末期という古刹ですが、江戸時代には神君家康公から十石の朱印地を賜っています。かつて本堂前には家康公の「御手折梅」が植えられていたとのこと。そして毎年1月の江戸城登城の折にはこの梅の枝を携えるのが慣わしであったといわれています。
熊野神社ご本殿
松並木通りを挟んで金蔵院と相対するように建つのが神奈川郷の総鎮守として信仰を集めてきた熊野神社です。江戸時代には金蔵院境内に置かれていましたが、明治の神仏分離令で別々の敷地に分かれています。
神奈川宿高札場
旧街道の面影を残す松並木通りを進むと左手に復元された「高札場」が現れます。ほぼ忠実に復元されたもので横5.7m×奥行1.7m×高さ 3.5mほどの大きなものです。この高札場は神奈川地区センターの前に置かれていますが、トイレを借りるにはここセンターを利用することをお勧めいたします。
成佛寺門前
外国人宣教師宿舎碑
成佛寺ご本堂
この地区センターを過ぎるとすぐ右手に現れるのが「成佛寺」です。鎌倉時代に開基した古刹ですが、徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された歴史をもっています。安政六年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われていましたが、その宣教師の中でもヘボン式ローマ字で有名なヘボンは本堂に住み、日本最初の和英辞典を完成したブラウンは庫裏に住んでいたといいます。尚、ここ神奈川宿にはヘボン博士の施療所として使われていた宗興寺があります。またヘボン博士は明治学院を創設した教育者でもあります。
余談ですが、ヘボンを英語で綴ると「Hepburn」なのですが、実はあのローマの休日で主役を演じたオードリー・ヘップバーンと同じなのです。 日本では英語読みの「ヘボン」では彼女の優雅さが表現できないという理由からなのか、聞こえのいい「ヘップバーン」と表記したようです。
慶雲寺門前
成佛寺を退去し、左へと進むと道は行き止まります。T字路を右へ進み京急のガードをくぐるとすぐ右手に現れるのが浦島寺と呼ばれている慶雲寺が現れます。横浜開港当初はフランス領事館に充てられていた歴史を持っています。
フランス領事館記念碑
室町時代に開基された古刹である慶雲寺には浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっています。境内には浦島父子の墓もあります。浦島伝説なるものは日本のいたるところで伝わっていますが、ここ神奈川の浦島伝説も私たちが知る物語とほぼ同じ内容
です。
慶雲寺
浦島太郎が竜宮城で過ごした3年は300年に相当し、久しぶりに帰ってきた故郷には太郎の知る人は誰もいなかったことで物語りは終わるのですが、実は慶運寺の解説板には、この事実を知った浦島太郎は神奈川の浜から亀に乗って竜宮に戻り、再び故郷には戻ることがなかったと記されています。まあ伝説ですからその真意は定かではありませんが、ここ慶運寺に浦島親子の墓があるということはやはりここ神奈川の地で亡くなったことも異説として伝わっていたのでしょう。
浦島親子の墓
ただし慶運寺が浦島寺と呼ばれるようになったのは明治6年(1873)のことなのです。というのも浦島太郎が竜宮から戻って庵を結んだ場所が「帰国山浦島院観福寿寺」であったらしいのです。しかしこの観福寿寺は慶応4年(1868)の大火で焼失し、その後廃寺となってしまいます。そして明治6年にここ慶運寺が観福寿寺を併合し浦島伝説を継承したのです。
慶雲寺から再びもと来た道へ引き返し、国道15号まで進みましょう。ちょうど15号に出たあたりに神奈川町本陣跡の案内板が置かれています。かつて本陣があった場所はいまやビルが立ち並び、神奈川宿の中心であった名残りはまったく感じられません。
それではほんの少しの間15号に沿って歩き、再び旧街道へと戻ることにしましょう。旧街道へ入る前にヘボン博士の施療所があった宗興寺に立ち寄ってみましょう。神奈川町本陣跡から滝の川に架かる「滝の橋」を渡り2本目の角を右に折れると宗興寺です。現代的な建物に変身した宗興寺の山門を入ると、奥に施療所を記念する石碑が置かれています。
宗興寺のヘボン博士施療所記念碑
宗興寺を後に再び15号へ戻ると前方に宮前商店街のゲートが見えてきます。この商店街通りが旧街道なのですが、まったく商店らしきものがないのに商店街とはこれいかに?
洲崎神社鳥居
通りに入るとすぐ右手に洲崎神社の鳥居が現れます。洲崎と名が付いていることから、かつては水辺が近かったことを意味しています。石段を登り境内に入ると、前方に立派な社殿が現れます。実は現在の宮前商店街通りと15号が突き当たる辺りがかつて船着場があった場所なのです。そして横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり宮ノ下河岸渡船場と呼ばれていたようです。
洲崎神社弐の鳥居
洲崎神社社殿
そしてさらに宮前商店街通りを進み、通りが終わる辺りに建つのが「甚行寺」です。この寺も幕末にはフランス公使館が置かれていました。
甚行寺フランス公使館記念碑
こう考えると神奈川宿は幕末の一時期はは多くの異人さんが行き交う、国際色豊かな町だったことが伺われます。住み慣れた母国を離れ、極東の宿場町に住んだ異人さんたちは木と紙でできた寺に住み、冬ともなれば隙間風に身を凍らせ、さぞ不安げな日々を過ごしていたのではと歩きながら考えた次第です。
旧街道は京急の神奈川駅の脇を通り、JRの線路を跨ぐ陸橋へとさしかかります。陸橋の上から右手の高台を見上げると寺院らしきものが目に飛び込んできます。これが有名な本覚寺です。何が有名かというと、横浜開港当時、米国の初代領事であるハリスは神奈川宿から横浜への渡船場に近く、横浜を眼下に望み、湾内を一望できる高台に位置する当本覚寺をアメリカ領事館に決めたのです。領事館時代には当寺の山門はアメリカ人好みの白ペンキで塗られていたようです。
本覚寺門前のアメリカ領事館記念碑
本覚寺山門
本覚寺ご本堂
本覚寺の高台からは横浜駅周辺のビル群が一望でき、かつてはここから横浜の海を眺めることができたのかと思うと、時代の変遷をつくづくと感じざるを得ません。
神奈川宿は江戸寄りの見附から4キロほどの距離につらなる大きな宿場町だったようです。旧街道はJR線路を横切り、更に西へと向かいます。いったん谷あいに下った街道は徐々に上り坂へと姿を変えていきます。その上り坂が「台町」と呼ばれる旧神奈川宿の袖ヶ浦地区なのです。
大綱金毘羅神社の鳥居
大綱金毘羅神社社殿
その台町へとさしかかる入口に鎮座するのが大綱金毘羅神社です。旧街道に面して朱色の鳥居が立ち、石段が境内へとつづいています。平安末期の創建と古い神社で、神奈川湊に出入りする船乗りたちから崇められ、また大天狗の伝説が伝わっています。社殿横には大きな天狗様の面と天狗様の団扇が構えています。また、江戸時代には当神社前には江戸から数えて7つ目の一里塚が置かれていたとのことです。
大綱金毘羅神社を過ぎると、いよいよ台町の上り坂へとさしかかります。広重の「神奈川宿」はちょうどこの付近を描いたものと言われています。江戸時代には台町の坂の片側には数多くの茶屋が軒を連ね、その造りは座敷二階造、欄干つきの廊下、桟をわたして波打ち際の景色を眺めることができたといいます。
田中家
田中家全景
坂道の両側はマンションの建物が立ち、かつての面影はまったく感じられませんが、坂の途中にある文久3年(1863)創業の割烹料理屋「田中家」が昔の風情をなんとか醸し出しています。この田中家の前身はあの広重の「神奈川台の景」の中に描いた「さくらや」という腰掛茶屋だったのです。実際に広重の描いた絵と比べてみても、確かにこの場所は坂道の途中に位置し、かつては波打ち際の景色を見渡せたと思われるような立地になっています。余談ですが、この田中家になんと坂本竜馬の妻であった「おりょうさん」が仲居として働いていたという話が伝わっているのです。おりょうさんはその後、田中家に客としてやってきた横須賀の西村松兵衛と結婚し所帯を持つことになり、名も西村ツルと変えています。ですからおりょうさんの墓が横須賀市大津の浄土宗「信楽寺」にあることになるんですね。
神奈川台の関門跡
心臓破りの台の坂を登りきったあたりに一つの石碑が置かれています。石碑には「神奈川台の関門跡」の文字が刻まれています。この関門とはいわゆる関所の役割を担っていたもので、実は横浜開港直後には外国人の殺傷事件が相次ぎ、幕府はその対策のために横浜周辺各所に関門を設けたのですが、このうち一つとして神奈川宿の西側置かれた関門があった場所がこのあたりだったのです。
関門を過ぎると旧街道は緩やかな下りへと変わり、坂を下りきると上台橋に至ります。この辺りが神奈川宿の西の端にあたり、東海道は次の宿場である「保土ヶ谷」へと続いていきます。
日本史 ブログランキングへ
神社・仏閣 ブログランキングへ
お城・史跡 ブログランキングへ