「歓喜の歌」とコロナ禍と 大みそかに考える
2021年12月31日 05時00分 (12月31日 05時00分更新)
新型コロナウイルス感染症の拡大で始まった今年も今日で最後。変異株が次々と現れ、感染収束はまだ見えない中、徐々にではありますが、年末恒例の「第九」演奏会が各地で復活しつつあるようです。ベートーベン作曲交響曲第九番「合唱付き」です。
コロナ禍が襲った昨年、感染拡大への懸念から、プロ・アマを問わず多くの第九演奏会が中止・延期されました。今年は客席数を制限するなどの感染防止対策を徹底することで、開催にこぎ着けたところも多いようです。
例えば、福井県小浜市では十二月十二日、中部フィルハーモニー交響楽団(愛知県小牧市)の演奏に乗せて、市民合唱団や県立美方高校音楽部合唱団の「歓喜の歌」が文化会館に響きました=写真。
一九九三年に始まった演奏会は昨年、中止となり、開催は二年ぶりです。今年はこうした演奏会が日本各地で開かれ、聴衆の心を揺さぶっていることでしょう。
「年末の第九」戦前から
第九が日本で初めて演奏されたのは今から百年以上前の一九一八(大正七)年六月でした。第一次世界大戦中、徳島県板東町(現在の鳴門市)の板東俘虜(ふりょ)収容所に収容されたドイツ兵捕虜がオーケストラをつくって演奏し、八十人が男声合唱を響かせたのです。
第九はその後、音楽学校の学生らによって歌い継がれ、二六(大正十五)年に誕生した本格的なオーケストラ、新交響楽団(新響、NHK交響楽団の前身)によるプロの演奏会も始まります。
放送会館(旧NHK東京放送会館)が東京・内幸町に完成した記念として、三九(昭和十四)年五月二十日にスタジオからローゼンストック指揮、新響による第九がラジオ中継されました。
新しいメディアとして登場したラジオの電波にも乗り、日本中に歌声が響き渡ったのです。
そのときの新聞のラジオ欄を見ると、第九中継への期待の高さがうかがえます。国民新聞(本社が発行する東京新聞の前身の一つ)の曲目解説から引きます。
「ひとりベートーヴエンの代表的作品たるのみならず、凡(およ)そ音楽史上の最高傑作と目される第九番交響楽は実に楽聖ベートーヴエン苦吟十年の結晶であり、その五十年に亙(わた)る音楽生活の総決算である。この壮麗なる音楽は器楽の到達し得る究極の世界を展開し、合唱付交響曲を創案以(もっ)て彼の至高の境地を表現せんとした」
翌四〇(昭和十五)年には大晦日(おおみそか)の十二月三十一日に、第九演奏がラジオで中継されました。今も行われている年末の第九放送も、このときが起源とされます。
しかし、翌四一(昭和十六)年の大晦日には第九は中継されませんでした。太平洋戦争が始まり、電波が統制されたからです。
戦時中にも第九の演奏会やラジオ中継は続きました。出陣学徒が戦地に赴く前に聞きたいと願ったのも第九でした。
でも、演奏会が広く復活するのは、終戦を待たねばなりません。音楽のみならず芸術・文化を日常から奪うのが戦争なのです。
戦後、プロの活動に加え、全国各地で市民合唱団が結成され、第四楽章「歓喜の歌」に挑戦しています。大規模な「一万人の第九」も開かれるようになりました。歌声は日本中に響き渡り、すっかり年末の風物詩にもなりました。
打ち勝った証しとして
その喜びを再び奪ったのがコロナ禍でした。多くの演奏会が延期・中止に追い込まれた昨年よりは状況が好転しつつありますが、今年再開にこぎ着けた公演でも、合唱団員は離れて立ち、マスク着用の合唱を強いられています。外国人の独唱者が入国できず、やむを得ず日本人の代演を立てた演奏会もありました。
変異株の感染拡大もあり、コロナ禍の影響を完全に脱したとは、とても言えません。
安倍晋三、菅義偉両氏は首相在任当時、東京五輪・パラリンピックを「人類がウイルスに打ち勝った証しとして開催する決意」と語っていましたが、結局、無観客での開催となり、コロナに打ち勝った証しにはなりませんでした。
むしろ、何の制限もなく第九の演奏会ができるようになることこそが、コロナに打ち勝った証しと言えるのではないか。
コロナの感染拡大を防ぐには、換気が重要な対策の一つですが、来年こそは、換気ならぬ「歓喜の歌」が各所に響き渡る一年でありたい。そう願う年の暮れです。
かんk