大飯原発・運転差止判決-司法は生きていた-

(1)はじめに
福井地方裁判所は、2014年5月21日、大飯原発3、4
号機の運転差止めを認める歴史的判決を言い渡しました (以下「本判決」といいます。)。本判決が言い渡された 瞬間、弁護団や原告団事務局のメンバーが、それぞれ 「差止め認める」「司法は生きていた」という垂れ幕を掲 げましたが、特に後者について、深い共感を寄せた市民
は多かったことでしょう。
この判決は、仮処分決定を別とすると、福島第一原発
事故後初めての、原発裁判における司法判断です。福島
第一原発事故の被害を踏まえ、行政庁の判断を追認して
きた裁判所の姿勢に変化が生じることが、多くの市民か
ら期待されていましたが、この判決は、その期待に十二
分に応えるものとなりました。
(2)従来の司法判断
伊方最高裁判所判決(最高裁第1小法廷平成4年10月 29日判決)は、1原発事故の重大性につき「(前略)原 子炉施設の安全性が確保されない時は、当該原子炉施設 の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を 及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深 刻な災害を引き起こす恐れがあることにかんがみ、右災 害が万が一にも起こらないように(後略)」と述べ、ま た、訴訟における立証責任につき、2「原子炉設置許可
福井弁護士会 笠原 一浩
処分についての取消訴訟においては、(中略)当該原子 炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側 が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁 の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基 準並びに調査審議および判断の過程等、被告行政庁の判 断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき 主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証 を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合 理な点があることが事実上推認されるものというべきで ある。」と述べています。 このうち、特に1の判示からすれば、万が一にも深刻 な災害が起こらないかどうかが判断の対象とされるべき です。ところが、その後の原発訴訟の多くでは、あたか も1の判示がなかったかのように2の判示が曲解され、 例えば、浜岡原発についての2007年10月25日静岡地方裁 判決で見られるように、国の定めた基準に沿っているこ とが示されれば、それで「不合理な点のないことを...立 証」したことにされてしまいました。そのため、一旦被 告が上記の立証に成功すれば、今度は、原告において事 故の危険性を証明することが要求され、過大な主張立証 責任を課されることになり、ほとんどの場合において住 民側の訴えが退けられてきました。 また、科学的知見とは、決して固定したものではな く、様々な科学的知見が議論を展開することによって発
公害・環境ニュース58号(2014年9月)
1

展していくものです。とりわけ、原子力のような複雑な
技術であれば、複数の科学的知見が存在するのがむしろ
当然です。それにもかかわらず、従来の原発訴訟におい
ては、事実上、行政がよって立つ見解を採用すれば、そ
れで合理性が認められたことになり、それを批判する科
学的知見が省みられることはありませんでした。
福島第一原発事故は、このように、原発訴訟において
司法が行政追認の判断を続けた結果ともいえます。
(3)判決の内容
本判決の要旨及び全文は、原告団ホームページ「福井 から原発を止める裁判の会」にアップされていますの で、まだ読んでいない方は(既に読んだ方も)、ぜひご 一読ください。そして、ぜひ、周りの人々にも広めてく ださい。 特に、判決要旨の最初のページと最後のページをご覧 ください。最初のページでは、人格権が憲法上最も高い 価値を有すること、最後のページでは、原発事故こそ本 当の意味で国の富を失わせることや、ましてやCO2削減 を口実に原発を推進することが言語道断であることが、 大変美しい日本語で書かれています。福島第一原発事故 を経た今日において、司法判断のモデルを築こうとする 意気込みを、この判決に見ることもできます。 本判決は立証責任につき、判断すべき対象は「かよう な事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断 の対象とされるべき」と述べ、原告が立証すべき事項を 「具体的危険性が万が一でもあるのか」と設定しました。 これは、伊方最高裁判決の、とりわけ1の趣旨を、民事 訴訟に妥当する範囲で(伊方最高裁判決は、行政訴訟に おける判断です。)的確に理解したものです。 さらに、これまでの原発訴訟において、裁判所は、行 政事件のみならず民事事件においても、行政庁が定める 規制基準への適合性を重視してきましたが、本訴訟にお いては、規制基準は争点となりませんでした。本訴訟 は、大飯原発が規制基準に適合していない(又は、規制 基準が不合理である。)ことを理由に国の設置許可の無 効や取消しを主張する行政訴訟ではなく、原発の運転に よる人格権侵害を理由に運転差止めを求める民事訴訟で す。そのため、行政法規である規制基準に形式的に合致 しているからといって、それだけで原告の請求が否定さ れることにはならないはずです。実際、後述の1~3に
おいて判決は事実上、国の規制基準の問題点をも指摘し ています。 このような判断がなされた背景に、福島第一原発事故 の深刻な被害があったことは疑うべくもありません。判 決はこう述べています。「福島原発事故の後において、 この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責 務を放棄するに等しいものと考えられる。」 一方、そのような素晴らしい判決だからこそ、原子力 推進勢力から猛烈なバッシングがなされており、新聞の
「識者」コメント欄には、「判決は科学を理解していな い」という記事が出ています。 しかし、本判決は、(2)で述べた科学の本質を理解 しているからこそ出されたものです。 前述のとおり、とりわけ原発のような複雑な科学技術 においては、複数の科学的知見が生じるのが当然です。 そこで本判決は、このような科学の本質を踏まえ、存否 につき学説上争いのある事実については慎重な対応を 取った上で、1関電も1260Gal(基準地震動の1.8倍)を 超える地震動には打つ手がないことを認めているとこ ろ、2005年から2011年までのわずか6年の間に、基準地 震動を超える地震動が原発を襲ったケースが5例もあ り、現在でも関電などが基準地震動を策定する方法は、 従来と基本的には変わらない、2その基準地震動
(700Gal)以下の地震動によってすら、外部電源や主給 水ポンプといった、冷却にとって最も重要な装置が破損 する可能性がある、3高レベルの放射性物質である使用 済核燃料は、堅固な容器に覆われているわけではない、 といった、どの科学者も(関電も)認めている事実を認定 しました。本判決は、学説の優劣を問うことなく、どの 科学者も認める事実を基に、健全な判断を下したのです。


(1)はじめに
福井地方裁判所は、2014年5月21日、大飯原発3、4
号機の運転差止めを認める歴史的判決を言い渡しました (以下「本判決」といいます。)。本判決が言い渡された 瞬間、弁護団や原告団事務局のメンバーが、それぞれ 「差止め認める」「司法は生きていた」という垂れ幕を掲 げましたが、特に後者について、深い共感を寄せた市民
は多かったことでしょう。
この判決は、仮処分決定を別とすると、福島第一原発
事故後初めての、原発裁判における司法判断です。福島
第一原発事故の被害を踏まえ、行政庁の判断を追認して
きた裁判所の姿勢に変化が生じることが、多くの市民か
ら期待されていましたが、この判決は、その期待に十二
分に応えるものとなりました。
(2)従来の司法判断
伊方最高裁判所判決(最高裁第1小法廷平成4年10月 29日判決)は、1原発事故の重大性につき「(前略)原 子炉施設の安全性が確保されない時は、当該原子炉施設 の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を 及ぼし、周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深 刻な災害を引き起こす恐れがあることにかんがみ、右災 害が万が一にも起こらないように(後略)」と述べ、ま た、訴訟における立証責任につき、2「原子炉設置許可
福井弁護士会 笠原 一浩
処分についての取消訴訟においては、(中略)当該原子 炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側 が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁 の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基 準並びに調査審議および判断の過程等、被告行政庁の判 断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき 主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証 を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合 理な点があることが事実上推認されるものというべきで ある。」と述べています。 このうち、特に1の判示からすれば、万が一にも深刻 な災害が起こらないかどうかが判断の対象とされるべき です。ところが、その後の原発訴訟の多くでは、あたか も1の判示がなかったかのように2の判示が曲解され、 例えば、浜岡原発についての2007年10月25日静岡地方裁 判決で見られるように、国の定めた基準に沿っているこ とが示されれば、それで「不合理な点のないことを...立 証」したことにされてしまいました。そのため、一旦被 告が上記の立証に成功すれば、今度は、原告において事 故の危険性を証明することが要求され、過大な主張立証 責任を課されることになり、ほとんどの場合において住 民側の訴えが退けられてきました。 また、科学的知見とは、決して固定したものではな く、様々な科学的知見が議論を展開することによって発
公害・環境ニュース58号(2014年9月)
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展していくものです。とりわけ、原子力のような複雑な
技術であれば、複数の科学的知見が存在するのがむしろ
当然です。それにもかかわらず、従来の原発訴訟におい
ては、事実上、行政がよって立つ見解を採用すれば、そ
れで合理性が認められたことになり、それを批判する科
学的知見が省みられることはありませんでした。
福島第一原発事故は、このように、原発訴訟において
司法が行政追認の判断を続けた結果ともいえます。
(3)判決の内容
本判決の要旨及び全文は、原告団ホームページ「福井 から原発を止める裁判の会」にアップされていますの で、まだ読んでいない方は(既に読んだ方も)、ぜひご 一読ください。そして、ぜひ、周りの人々にも広めてく ださい。 特に、判決要旨の最初のページと最後のページをご覧 ください。最初のページでは、人格権が憲法上最も高い 価値を有すること、最後のページでは、原発事故こそ本 当の意味で国の富を失わせることや、ましてやCO2削減 を口実に原発を推進することが言語道断であることが、 大変美しい日本語で書かれています。福島第一原発事故 を経た今日において、司法判断のモデルを築こうとする 意気込みを、この判決に見ることもできます。 本判決は立証責任につき、判断すべき対象は「かよう な事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断 の対象とされるべき」と述べ、原告が立証すべき事項を 「具体的危険性が万が一でもあるのか」と設定しました。 これは、伊方最高裁判決の、とりわけ1の趣旨を、民事 訴訟に妥当する範囲で(伊方最高裁判決は、行政訴訟に おける判断です。)的確に理解したものです。 さらに、これまでの原発訴訟において、裁判所は、行 政事件のみならず民事事件においても、行政庁が定める 規制基準への適合性を重視してきましたが、本訴訟にお いては、規制基準は争点となりませんでした。本訴訟 は、大飯原発が規制基準に適合していない(又は、規制 基準が不合理である。)ことを理由に国の設置許可の無 効や取消しを主張する行政訴訟ではなく、原発の運転に よる人格権侵害を理由に運転差止めを求める民事訴訟で す。そのため、行政法規である規制基準に形式的に合致 しているからといって、それだけで原告の請求が否定さ れることにはならないはずです。実際、後述の1~3に
おいて判決は事実上、国の規制基準の問題点をも指摘し ています。 このような判断がなされた背景に、福島第一原発事故 の深刻な被害があったことは疑うべくもありません。判 決はこう述べています。「福島原発事故の後において、 この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責 務を放棄するに等しいものと考えられる。」 一方、そのような素晴らしい判決だからこそ、原子力 推進勢力から猛烈なバッシングがなされており、新聞の
「識者」コメント欄には、「判決は科学を理解していな い」という記事が出ています。 しかし、本判決は、(2)で述べた科学の本質を理解 しているからこそ出されたものです。 前述のとおり、とりわけ原発のような複雑な科学技術 においては、複数の科学的知見が生じるのが当然です。 そこで本判決は、このような科学の本質を踏まえ、存否 につき学説上争いのある事実については慎重な対応を 取った上で、1関電も1260Gal(基準地震動の1.8倍)を 超える地震動には打つ手がないことを認めているとこ ろ、2005年から2011年までのわずか6年の間に、基準地 震動を超える地震動が原発を襲ったケースが5例もあ り、現在でも関電などが基準地震動を策定する方法は、 従来と基本的には変わらない、2その基準地震動
(700Gal)以下の地震動によってすら、外部電源や主給 水ポンプといった、冷却にとって最も重要な装置が破損 する可能性がある、3高レベルの放射性物質である使用 済核燃料は、堅固な容器に覆われているわけではない、 といった、どの科学者も(関電も)認めている事実を認定 しました。本判決は、学説の優劣を問うことなく、どの 科学者も認める事実を基に、健全な判断を下したのです。