小此木八郎国家公安委員長は十七日の就任記者会見で、「菅義偉首相から強い指示があった」として運転免許証のデジタル化推進を表明した。免許証は約八千万人が持つ最も普及した身分証だが、デジタル化するとはどういうことか。透けてくるのは、普及が進まないマイナンバーカードとの一体化により、同カードを事実上強制的に取得させようという政府側の思惑だ。警察と同カードの結び付きは、監視社会を招く恐れはないのか。(石井紀代美、大平樹)
デジタル化指示
「総理からは特に、運転免許証のデジタル化について強い指示が私にありました」。小此木八郎国家公安委員長は、十七日の就任記者会見でこう明かした。
「強い指示」という部分に、菅首相の思い入れの強さがにじむ。ちなみに、小此木委員長の父親は、中曽根内閣で通商産業(現・経済産業)相などを歴任した彦三郎氏。横浜市議になる前に彦三郎氏の秘書を十一年間務めた菅首相との関係は近い。
コロナ禍が続く今年六月、国と地方の行政デジタル化を促進することを目的とした政府の作業部会で、唐突に打ち出したのも当時官房長官だった菅首相。部会の最後で「運転免許証をはじめとする各種免許証や国家資格のデジタル化」を表明した。
ちょうどこの作業部会の前日には、経産省が「スマホで身分証明」という発表をしていた。運転免許証やパスポートなどの身分証明をスマートフォンのアプリでできるようにする研究が国際的に進んでおり、セキュリティーに関する日本の提案が国際機関から承認された、という内容だ。
ITと運転免許証の連結という意味なら、すでに現在の運転免許証はICカード化されている。あえて今、菅首相がデジタル化を言うなら「スマホで身分証明」の路線を狙っていると考えてもおかしくない。
利便性も危険も
だが、運転免許証を所管する警察庁の考えは違うようだ。同庁担当者は「運転免許証の情報をマイナンバーカードのICチップに登録する方法が考えられる」と話す。国民の側のメリットに挙げるのは、住所変更の手間がはぶけること。警察署に住民票を持参しなくても、市町村の窓口での手続き一回で済むようになるという。
免許証が一体化しても、外見上はマイナンバーカードのまま。顔写真や住所、名前、生年月日は、免許証と同様に記載されているが、免許の有効期限、「中型車(8トン)に限る」や「眼鏡等」といった限定条件は、表面からは消えてしまう。
「交通取り締まりにあたる現場のために、データを読み取る機器を全国の警察に配備する必要がある。セキュリティー対策も課題で、電子データの不正利用とサイバー空間での悪用が懸念される」と担当者。
元埼玉県警警察官の佐々木成三さんは「民間企業でも免許を持っているかどうかを確認する場面はままある。外見上、免許証と判別できることは結構重要なのだが…」とマイナンバーカード一体化に首をひねる。
例えば、配送会社やタクシー会社なら、採用の際、大型や二種の運転免許を持っているかどうか確認が不可欠だが、同カードへ一体化されれば、読み取り装置が必要となる。
「その際、不必要な個人情報まで抜き取られたりしないのか。その防止策も考えないといけない。金融機関の口座など今後さまざまな個人情報がひも付けされていけば、警察にとっては捜査に便利かもしれないが、危うさも感じる」
利用者 依然低迷
どうにも唐突感がぬぐえない免許証のデジタル化だが、それでも菅政権が発足直後に前のめりで推し進めようとするのはなぜなのか。ITジャーナリストの三上洋さんは「持っていて便利なことはほとんどないマイナンバーカードだが、政府はなんとか普及させたいからだ」と語る。
総務省によると、マイナンバーカードの発行枚数は一日現在、約二千四百七十万枚。二〇一六年に発行が始まって五年近くたつが、交付率は国民の五人に一人にとどまっている。
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、国民一人あたり十万円を支給する「特別定額給付金」では、カード所持者はオンライン申請でスムーズに支給されるとの触れ込みだったが、システムに不具合が発生。紙申請を求める自治体が出るなど大混乱した。三上さんは、こうした事態とカード発行のわずらわしさが低迷につながっているとみる。
政府は発行数を増やそうと、所持者向けにキャッシュレス決済などに対して最大五千円を還元する「マイナポイント」も九月から始めたが、利用者見込みの四千万人に対して、事前申し込みは八月末時点で約四百六十八万人にとどまる。
これに対し、運転免許証の所有者数は約八千二百万人で、マイナンバーカードの三倍以上。国民の三人に二人が持つ最も普及した身分証明書だ。マイナンバー法ではマイナンバーカード取得はあくまで任意だが、仮に警察庁が検討している通り、同カードの中に免許証情報が入るとなれば、事実上、運転免許が取りたければ同カードを取得せざるを得なくなる。
常時携帯と同じ
自治労連マイナンバープロジェクトチーム委員の樋山実さんは「そもそも免許証は更新時に講習がある。オンライン手続きで省ける手間が少なく、デジタル化しても国民側のメリットは薄い」とデジタル化の動機を疑問視した上で、「免許証と一体化されれば、常に持ち歩くことを義務づけられるのと同じ。マイナンバー法の任意取得という原則が揺らぐ。預金口座などマイナンバーにひも付けされる個人情報が増えれば、常時携帯する同カードを落としたりなくしたりした時のリスクも増す」と話す。
マイナンバーに詳しいプライバシー・アクション代表の白石孝さんは「免許証と一体化して、交付率が80%くらいまで上がったところで発行申請を義務化する法案を出すのではないか。カードを国民全員に持たせようとする大きな仕掛けの一つだろう」とみる。
白石さんは、カード発行の低迷は、個人情報を政府に委ねることへの警戒感が国民にあるためだと考える。「便利さばかりをうたい、伴うはずのリスクの説明がない。制度の透明性もないのが問題だ」と話す。
来年三月からは健康保険証としての利用も可能になる。希望者は、健診結果や過去に処方された薬の情報をマイナンバーにひも付けできる。自民党は一六年、マイナンバーカードの利活用推進案で、公金の徴収や滞納整理、ネット投票など幅広い分野での利用を打ち出し、それには今回の運転免許証も含んでいた。自治体情報政策研究所代表の黒田充さんは「全面的な監視社会に進む第一歩だ」と危ぶむ。
警察官が職務質問をした際、マイナンバーカードを提示させるだけで、過去の犯歴から健康状態まで丸裸にできるようになる−。黒田さんが想像するのはそんな事態だ。「新型コロナの影響で経済状況が悪化すると、治安も悪化するだろう。そんな時に治安回復の対応策として持ち出されれば、強い反対は起きにくい。そうやって国民監視を強めていくのではないか」