今も未来も過去の続き 週のはじめに考える (中日新聞)

2020-05-31 08:32:04 | 桜ヶ丘9条の会

今も未来も過去の続き 週のはじめに考える

2020年5月31日 中日新聞
 『上を向いて歩こう』は言わずもがな、苦境にある時は、なぜか坂本九さんの歌が心に響きます。『見上げてごらん夜の星を』もしかり、うつむき加減の時に「さあ顔を上げて」と、小さく励ましてくれるようなところがあるからでしょうか。
 別に、歌に促されたわけではないのですが、まだ緊急事態宣言解除前のある日、夜の空をしばし見上げてみました。コロナ禍による休業や外出制限などで人間の活動が急減したことで、大気がいつになく澄んでいる。そんな海外の報道に接したからです。日本も同様だろうと考えたわけです。

見上げてみる、夜の星を

 そう思って眺めるからか、心なしか星の瞬きは鮮やかに思えました。星座関係のサイトを参照すると、例えば、かなり明るくオレンジ色に光っているのはどうも、うしかい座のアークトゥルスのようです。刈り入れ時期にちなんで、本邦での別名は「麦星」、地球との距離は「37光年」とあります。
 つまり、現在の私たちが見ているのは、過去の麦星、三十七年も前のアークトゥルスの姿ということになります。私たちはこのところ、毎日発表される「今日のコロナ感染者数」に一喜一憂していましたが、テレビで専門家が「(潜伏期間があるので)これは、二週間前の状況ですから」と繰り返し
ていたのを思い出しました。
 「過去は、現在ではありませんか。未来でもあるのです」。米国の劇作家ユージン・オニールの作中にあるセリフですが、そのことを改めて思い知らされる経験でもあったような気がします。
 今回、多数の死者を出したイタリアでは、ユーロ危機以降の医療費削減が医療体制を貧弱にしたことが背景にあると指摘されましたが、わが国でも似たことは言えるのかもしれません。例えば、感染者対応の拠点となった各地の保健所では対応力が限界に達し、悲鳴が上がりました。一九九〇年代の行政改革で、全国八百五十二カ所から約四百七十カ所へと激減していたのです。まさに、「過去」は「現在」ではありませんか。
 無論、懐具合に合わせて支出を削るのは当然。備えるべき課題も多く、想定外の大事で不都合が生じた後にあれこれ言うのは結果論といえば結果論です。ですが、何を「無駄」とみなし、何を守るべき「ゆとり」と判断するか。それをより慎重に、丁寧に見極めるべきだということは、現在の、そして未来にとっては過去となるはずのコロナ禍から学ぶべきことの一つではありましょう。

ぞんざいな「記録」の扱い

 「困難にぶつかったら過去を勉強しなさい」
 これは作家の井上ひさしさんが『ボローニャ紀行』で紹介しているイタリア・ボローニャの産業博物館長の言葉です。歴史ある都市と文化の何とも魅力的な豊かさを伝える中で、その精髄は「過去に学ぶ」姿勢にあると、井上さんはたびたび強調しています。
 では、「過去に学ぶ」ために欠かせぬものとは何か。未来からは過去となる現在の記録でしょう。ところが、今、このコロナ禍の対応で、中核的役割を果たしている政府の専門家会議の議事録が残されていないようなのです。後の政策検証にも有用であり、不可解なのですが、思えば、記録をぞんざいに扱うのは安倍政権の“特色”でもあります。
 「桜を見る会」の招待者名簿、森友学園への国有地格安売却の経緯を記録した文書、海外派遣された自衛隊の日報…。保管・公開されるべき文書がそそくさと廃棄されたり、消えたり、と思えば出てきたり、果ては改ざんされたり。そんなことが繰り返されています。この政権内では、面談や打ち合わせのメモ禁止が慣習のようになっている、と伝える報道もありました。
 「過去に学ぶ」のに必要な現在の記録を、なぜこうもないがしろにするのか。簡単に導ける解の一つは、こうでしょう。もとより、「過去に学ぶ」姿勢が希薄、ないしは欠如しているから…。

脅かされる最大の教訓

 例えば、原発への執着ぶりにもそれはうかがえます。一基また一基と再稼働を策し、主要電源として位置付けています。原発輸出を成長戦略の一つに掲げたことさえありました。まるで、あの恐ろしい福島の事故などなかったかのように。もし「過去に学ぶ」姿勢があれば、決して、そうはならなかったはずです。
 一時、首相が盛んに「戦後レジームからの脱却」を言っていたことにも思い当たります。悲惨な戦争という「過去」に学んだ最大の教訓、わが国の平和主義を揺るがすような政策も次々…。
 過去に学ばないのでは、未来も危うくなる。失敗を、過ちを、繰り返しかねません。
 

核燃再処理工場 もはや合理性がない (2020年5月29日 中日新聞)

2020-05-29 08:08:29 | 桜ヶ丘9条の会

核燃再処理工場 もはや合理性がない

2020年5月29日 中日新聞
 原子力規制委員会が、国の核燃料サイクルの重要拠点である再処理工場に、規制適合との判断を示した。だが、そのことに本質的な意味はない。核燃料計画そのものが、すでに破綻しているからだ。
 日本原燃が青森県六ケ所村で建設中の核燃料再処理工場は、原発で使用済みになった、いわば“燃えかす”の中から、原発の燃料として再利用可能なウランとプルトニウムを取り出す施設。核のリサイクル工場だ。
 一九九三年の着工、九七年には完成するはずだった。化石燃料資源に乏しい日本が、高度経済成長時代に見た夢だ。
 ところが、廃液漏れが続発するなどトラブルが相次いで、完成延期は二十四回にも及び、未完成。建設費は二兆九千億円と、当初見込みの約四倍に膨らんだ。
 操業開始後四十年の運営費や廃止費用を含めると、総事業費は約十四兆円にも上るという。もはや「悪夢」と言うべきだろう。
 そんな施設が、3・11後に改められた原子力施設の安全対策の規制基準に「適合」するとの判断を、原子力規制委員会から取り付けた。ただし規制委は、津波や地震などへの備えが、国の基準に沿うかどうかをみるが、安全のお墨付きではない。核燃料サイクルの合理性を判断する場でもない。
 ゆえに、規制委の判断が妥当かどうかという以前の問題で、核燃料サイクル計画そのものが、今問われるべきなのだ。すでに破綻した計画だからである。
 サイクルのもう一つの要である高速増殖原型炉の「もんじゅ」。再処理燃料を使って繰り返し電気を起こす特殊な原子炉だ。こちらも再処理工場に負けず劣らずトラブル続き。四年も前に廃炉が決まっている。国は新型高速炉の開発をめざすというが、技術的にも財政的にも見込みは薄い。
 たとえ再処理工場が完成しても、燃料の使い道がなければリサイクルは成り立たない。通常の原発で使える量はごくわずか。再処理をすればするほど、原爆の材料にもなるプルトニウムの在庫が増えていき国際社会の批判を強めるだけだ。無用の長物に、これ以上巨費を投じる理由はない。
 リサイクル不能であれば、使用済み核燃料は、ただのごみ。危険なごみだ。
 国は核燃料サイクルの断念を表明し、増え続ける核のごみの最終処分、そしてごみを出さない工夫、つまり脱原発を速やかに進めていくべきだ。
 

広がる不信、相次ぐ告発 黒川氏の賭けマージャン (2020年5月28日 中日新聞)

2020-05-28 08:30:31 | 桜ヶ丘9条の会

広がる不信、相次ぐ告発 黒川氏の賭けマージャン

2020年5月28日 中日新聞
 黒川弘務前東京高検検事長を巡る騒動が収まらない。賭けマージャンをしたのに処分が軽すぎると、賭博罪などで刑事告発する動きが広がっている。一方、「点ピン」と呼ばれる黒川氏らの賭けマージャンのレートには「決して高くない。お遊び」という声が、マージャンファンの間から聞こえてくる。「黒川マージャン」について考えてみた。
 
 「明らかな賭博行為。告発しなければ」
 二十六日午後、東京・永田町の参議院議員会館の一室に、市民約二十五人が集まった。黒川氏をマージャン問題で刑事告発しようという人たちだ。「新聞社が手配したハイヤーにただで乗って帰宅したのは罪に当たらないのか」「収賄罪で罪に問えないか」。参加者の怒りは止まらない。
 黒川氏らの刑事告発に向け、市民グループ「村山首相談話を継承し発展させる会」のメンバーらが中心になって会合を開いた。二十〜三十人の告発人を募り、弁護士と協議の上、来週にも告発状を出す。
 ただ、会合での話題は、早々に黒川氏のマージャンから安倍政権と検察の関係へと移った。市民実行委員会を設立し、この問題を追及していくことも決めた。
 参加した千葉県市川市の主婦(71)は「(国家公務員法改正案や検察庁法改正案などを束ねた)一括法案に疑問があった。新型コロナウイルスで大変な時に、火事場泥棒のようにやり放題になっている」と危ぶむ。

森友、桜と同じ

 森友学園問題を追及する活動にも携わったという東京都東久留米市の西崎孝雄さん(76)は「モリカケ、桜を見る会、黒川氏の一件。次々と問題が出てきても、何一つ解決しないまま政権が続いている。おかしい。今回を機に安倍政権の罪を公にしなくては」と憤る。
 「村山談話の会」の藤田高景(たかかげ)理事長(71)は「安倍政権は、今回の問題を早く幕引きしたい。だからこそ黒川氏の罪をとことん問い、国家機関を私物化しようとした安倍政権の逃げ切りを止めなくては」と語る。告発は政権追及の入り口ということだ。
 法務省によると、黒川氏は月に一、二回、記者らと賭けマージャンをしていた。ところが、黒川氏の処分は国家公務員法で定める免職や戒告といった懲戒ではなく、同省の内規で定める訓告だった。軽いと疑問を感じた人が多いのだろう。この会合のメンバー以外も刑事告発に動いている。
 二十五日には弁護士四人が、黒川氏に常習賭博罪の疑いがあるとした告発状を東京地検に郵送。二十六日には市民団体「検察庁法改正に反対する会」が黒川氏と記者らに賭博罪の疑いがあるとした告発状を東京地検に提出した。
 告発状が提出されると、捜査当局は受理するかどうか判断する。受理すれば捜査が始まり、証拠を集めたり、本人を取り調べたりする。その上で検察が起訴するかどうかを決める。刑事訴訟法では、起訴か不起訴かの判断を告発人に伝え、不起訴の場合に告発人が求めれば理由を知らせると定めている。
 ちなみに、賭博罪は、マージャンや花札などのゲームや、スポーツ試合などの結果に対し、金銭や宝石といった財物を賭けた時に適用される。五十万円以下の罰金または科料。仲間内の賭け事で常識的な範囲内なら、罪に問われないことも多い。日ごろから賭け事をしている場合は、より罪の重い常習賭博罪となり、三年以下の懲役が科される。
 法務省の調査結果によれば、黒川氏の賭けマージャンのレートはいわゆる「点ピン」だった。川原隆司刑事局長は二十二日の衆院法務委員会で「必ずしも高額とは言えない」と答弁した。「点ピン」という言葉。マージャン好きにはおなじみだが、しない人ではさっぱり分からないだろう。
 「千点で百円というレート。賭けマージャンは違法なので堂々とお話しすることではないが、レートとしては一般の方々にとってオーソドックス」。プロ雀士でもある津田岳宏弁護士(静岡県弁護士会所属)はこう説明する。
 マージャンは通常、四人で卓を囲み、親が二巡する「半荘(はんちゃん)」単位で遊ぶ。一人の持ち点は二万五千〜三万点で、点ピンなら二千五百〜三千円分。津田氏は「半荘を一回やると、トップ賞などの加点もあって、数千円から一万円程度が動く。半荘は小一時間かかり、普通は四、五時間遊ぶ。最終的な勝ち負けの額は一般的に数千円から二万円ぐらいになる」と語る。
 

著名人事件も

 マージャンでお金を賭ける人は多い。時には有名人が絡む賭博事件が発覚し、騒ぎとなることがある。
 一九八七年十二月、プロ野球西武ライオンズの東尾修投手が書類送検されたと報じられた。レートは千点千円とされた。点ピンの十倍になる。東尾氏は球団から半年の謹慎と減俸二千五百万円の処分を受けた。
 八九年五月には同じ西武の土井正博コーチの賭けマージャンが発覚。レートはさらに高い千点二千円で、球団から解雇を言い渡された。漫画家の蛭子能収氏は九八年十一月、マージャン店に踏み込んだ捜査員に連行された。レートは千点二百円だった。
 賭けマージャンは国会でも議論になっている。
 九三年三月の参院予算委では江本孟紀参院議員が「賭けマージャンは世間一般にやられている。どの範囲ならいいのか」と質問した。後藤田正晴法相は「ここでお答えするのは非常に難しい」と述べつつ、「社交儀礼の範囲内であれば賭博にはならないのではないか」と答弁した。刑法一八五条の賭博罪では「一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるとき」は除外すると記している。これを念頭に、社交儀礼の範囲内ならセーフと答えたようだ。
 第一次安倍政権の二〇〇六年十二月、鈴木宗男衆院議員が質問主意書で「賭けマージャンは賭博に該当するか」と問い、安倍内閣は「一時の娯楽に供する物を賭けた場合を除き…刑法の賭博罪が成立し得る」という答弁書を閣議決定した。
 これまでの流れからみて、黒川氏のケースはどうなのだろうか。
 甲南大法科大学院の園田寿教授(刑事法)は「戦後の賭博罪は『賭ける人の財産を守るために処罰する』という考えに基づく。だから賭博が散財につながるかが問われる。言い換えれば、賭けた額が多いかが焦点になる」と述べる。そして「点ピン」のレートに、園田氏は「サラリーマンの賭けマージャンでも一般的。刑事事件での立件は難しいかもしれない」とみる。
 とはいえ、黒川氏は犯罪者を訴追する検察の大幹部だった。一般人と同じ扱いでいいはずはない。園田氏は「黒川氏は潔白が求められる立場にいたのに刑法が禁じる行為を繰り返した。処罰に至らなくて、国民が許せないのは当然だ。記者との距離感にも強い不信が湧き上がった」と語る。
 ジャーナリストの堀潤氏は「国民が怒るのは『賭けマージャンで辞めた』という部分だけではない」と考えている。堀氏は「なぜ閣議決定で黒川氏の定年を延長したのか。なぜ検察庁法まで改めようとしたのか。なぜ黒川氏の処分が甘いのか。説明されていないことが問題で、不信の源になっている。不透明な人事については今後も説明を求める必要がある」と指摘した。
 (中沢佳子、榊原崇仁)
 

中日春秋2020年5月26日 (中日新聞)

2020-05-27 22:06:13 | 桜ヶ丘9条の会

中日春秋 中日新聞

2020年5月26日 02時00分 (5月27日 03時53分更新)
 
 アクリル板、防疫パネル、飛沫(ひまつ)感染予防板、アクリル製のついたて、ボード、仕切り板…。いろいろな呼び方があって、まだ完全には定まってはいないようだ
▼ほんの数カ月前には見かけることがなかったけれど、これからは、窓口や飲食店のテーブルなどで目にする機会が増えそうである。あの透明の板だ
▼首都圏と北海道で昨日、緊急事態宣言の解除が決まった。宣言下の都道府県がすべてなくなることが決まったと聞けば、浮かれた気分を感じないでもない。ただ、これはかつての日常への復帰というより、政府によれば、新しい生活様式の本格化だ。数カ月前には、なじみの乏しかったものや習慣との新たな共存だろう。これまでと異なる難しさの始まりかもしれない
▼昔の人は、はかなくもときに享楽的な「浮世」と、つらいことの多い「憂(う)き世」を隣り合わせとみる世界観を表現してきた。いまは、楽しげな「浮世」が向こうに見えていながら、間にまだ透明の板が立ちはだかっている時であるようだ
▼身近なあれこれから、新しい日常に対応した働き方、営業の方式、店や劇場の在り方などさまざまな業種で新様式を模索する日々が続きそうだ。体力の乏しい層には、支援が必要であろう
▼浮かれるのはまだということらしい。手本がない新しい日常とはどんなふうであるか。まだうまい呼び方も定まっていないようだ。
 

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緊急宣言の全面解除 新しい日常へ進むには (2020年5月26日 東京新聞)

2020-05-26 08:24:43 | 桜ヶ丘9条の会

緊急宣言の全面解除 新しい日常へ進むには

 自粛と我慢を強いられた長いトンネルを抜けた。しかし、その先は元の居場所ではない。これからは新型コロナウイルスと「共存」する社会になっていく。不安を抱えつつも前に進むしかない。

    ×     ×

 政府は東京、神奈川、千葉、埼玉の首都圏四都県と北海道の緊急事態宣言を解除した。

 感染者は減り、医療態勢も余力がでている。四月七日の発令から七週間後の全面解除となった。

◆必要な情報を公開せず

 しかし、神奈川県と北海道は、政府が示した宣言解除の基準である新規感染者数「人口十万人当たり〇・五人程度以下」を依然上回る。東京都は二十四日に公表した感染者十四人のうち九人は感染経路が不明だ。長引く活動自粛によるこれ以上の経済への影響は避けたいのだろうが、解除に前のめりになってはいないか、疑問が残る。

 先行して解除された愛知、岐阜両県など中部圏や関西圏同様、感染症対策と、学校や仕事など社会経済活動の両立をどう実現するのかが、直面する大きな課題だ。

 再び感染が広がれば、再度、緊急事態が宣言され、活動が規制される事態を想定せねばならない。その際、緊急事態地域に再指定する基準を示さなければ、国民の理解は得られまい。

 分かりやすい基準があれば、流行を避けるため、個々人が行動を決めやすくなる。

 ところが政府は、この基準さえ明確に示していない。今回の緊急事態宣言解除も含め「総合的に判断した」と言うが、ならば政策決定のプロセスを公表すべきだ。

 科学的提言を行う専門家会議は政府の政策決定に影響力がある。だが、公開される議事録は概要のみで、詳細な記録は作成する予定すらないという。判断の前提となった考え方やデータは、他の専門家が決定過程を検証する際、必要な情報にもかかわらずだ。

◆経済支援の継続不可欠

 厚生労働省は非公開理由を「自由な議論を阻む」としているが、専門家会議の委員の一人は「公開を断るようなことはしていない」と説明する。

 政府は三月、新型コロナ感染症への対応を行政文書管理ガイドラインに基づく「歴史的緊急事態」に初めて指定、会議などの記録作成を義務付けたはずだ。

 二〇〇九年の新型インフルエンザ流行時も、専門家の会議が設置されたが、このときの議事録も公開されていない。

 流行終息後に政府の対応を検証した有識者会議の報告書は、意思決定の議論は可能な限り公開することの重要性を指摘している。その教訓は今回も生かされていないのではないか。

 終息への見通しが立たない中、経済活動の停滞による解雇や雇い止めは一万人を超えた。生活保護の申請も増え始めた。国民への給付金や事業者への融資など経済支援の拡充がさらに重要になる。

 二十七日に閣議決定される二〇年度第二次補正予算案には、感染症に対応する医療機関や、高齢者のケアを続ける介護事業者への追加の支援策が盛り込まれる見通しだ。現場の疲弊を考えればより早期に手当てする必要があった。

 すでに決まった給付や融資も申請手続きが複雑だったり、申請しても入金の遅れが指摘される。政府は批判を受け止め、国民生活の立て直しに全力を挙げるべきだ。

 一方、宣言解除により日常が動きだす。自治体は自粛緩和の手順をそれぞれ公表した。政府は感染防止策として「新しい生活様式」の定着を求めている。

 マスク着用や手洗いを徹底し、人との距離を保つ。食事は持ち帰りや配達を活用、食卓は対面でなく、横並びで座る。就労はテレワークや時差出勤を推進する、などだ。店舗も入場制限や消毒、換気など多くの対策を求められる。

 確かに、再流行を抑えるためには大切な取り組みではあるが、経済活動との両立は容易ではない。

 こうした生活習慣の奨励には違和感も覚える。個人の日常生活にまで、行政が介入することになりかねないからだ。

◆個々人ができることを

 無批判にすべて受け入れ、社会のルールになってしまうと、自ら考えて行動する機運が広がらないのではないか。そうなると少しでも守らない人がいると差別やバッシングが起こる。それでは殺伐とした日常になってしまう。

 人にはそれぞれ事情がある。他者を思いやる大切さこそ、新しい日常で共有すべきだろう。

 どんなに対策を講じても感染リスクをゼロにすることは難しい。だからこそ、リスクを下げる対策を個々人が考え、周囲の理解を得ながら進めるしかない。

 そのためには感染症に対する正確な知識が必要で、その情報を提供するのは政府の重要な責務であることを再認識すべきである。