雪だるま倶楽部

日々を離れ
日常から脱却した世界
そんな風景を切り取っています

諸戸氏庭園

2010年06月30日 | 三重散策
三重県桑名市の旧豪商
諸戸氏の住居遺構を楽しみに
今年も出掛けた

       

所有者は代われど
鎌倉時代から
此処には庵があったと云われている

       

それを
織田家の家臣筋である
矢部家が屋敷を造営
江の奥殿
などと呼ばれていた時期もあったようだ

   

桑名は江戸時代
交通の要衝として位置づけられ
関ヶ原の戦いの後は
徳川四天王の一人
本田氏を藩主に据えたこともある

   

尤も
本田家は大坂の陣での功績もあり
後に播磨姫路藩へと移ってゆくが
その後も徳川家康の異父弟
松平定勝が城主を務めるなど
徳川家にとっては重要な地となっている

   

そんな地に
当時の豪商
山田彦左衛門が山田長者屋敷を造営
それが
今日に言う、諸戸氏庭園

  

明治期に桑名を拠点に活躍した諸戸氏
林業をして
豪商となった家系である

   

全盛期の当主
諸戸清六が購入した庭園

   

財団法人が管理しているが
今日でも
春と秋の時期
庭園を特別公開してくれている

       

残念ながら
花の時期の谷間に訪れてしまい
花々との対面は出来なかったが
今年もこの庭園を楽しんだ
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薔薇

2010年06月29日 | 写真
バラ科バラ属
春の時期
陽気で半そでへと衣替えする頃
薔薇の花が咲き誇る

       

薔薇というと
ヨーロッパの庭園を彩る花というイメージがあるが
ヨーロッパへと伝わった薔薇の原産地はチベット周辺

  

史書として名高い
ギルガメシュ叙事詩にも記載があることから
紀元前2600年頃には伝わっていたという事になる

       

バビロニア王朝時代には伝述程度だったものが
古代ギリシア時代になると
神々との関連性のある記述も散見され
その香りは嗜好品としても用いられたようだ

       

日本でも薔薇は昔から自生していた
3種の原種が確認されている

       

なんと
万葉集に薔薇を唄った歌が残されている
当時は薔薇を「うまら」と言ったようだ

      

薔薇が咲きだすと
そろそろ
衣替え

   

輝く陽気に
半そでが必要になる頃

   

暑い夏を予感させる日差しの下

       

撮影を楽しんだ
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金沢城

2010年06月25日 | 石川散策
金沢城

   

加賀100万石
前田氏の居城である

       

前田家がどのようにして
100万石の領地を得たのかは
前回までの記事で書いた
今回は城について

       

城は
良く見られる外観とは
少し異なる

   

白漆喰の壁
せん瓦
海鼠壁と屋根に白い鉛瓦

   

鉛瓦は
豪雪地帯と戦時を兼ねての事
軽いながらに冬の積雪に耐え
戦時には瓦は溶かして鉄砲弾にする
という
質実剛健さを覗わせる造りになっている

       

元々
金沢城と名付けらていたものを
加賀100万石の開祖
前田利家が
尾山城と改名

   

しかし
元々地元に定着した名であったのか
20年ほど経て再び金沢城の名で呼ばれるようになり
今日でも金沢城である

   

北陸の地に在り
独特の雰囲気を醸し出している
金沢城

       

兼六園と共に見学するのがお勧め
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兼六園4

2010年06月23日 | 石川散策
兼六園の4回目

       

兼六園は加賀藩5代目
前田綱紀の時代に造営されている

      

加賀藩金沢城には
7つの門があった
正門は蓮池門
「れんちもん」と読む

       

蓮池門を入った先
そこに蓮池亭を造営
亭の前の庭を蓮池庭と称した

   

これが兼六園の始まり

       

その後
歴代の藩主が連池庭の造営を続けている
現在見る
兼六園の庭園となったのは
13代藩主の頃
時の藩主は前田斉泰

       

造営以来
連池庭と呼ばれていた庭園が
兼六園と呼称されるようになったのもこの頃

   

宏大
幽邃
人力
蒼古
水泉
眺望
六つを兼ね備える
ということから名付けられた兼六園

   

雄大な庭園

   

結局
兼六園の庭園については語らなかった
庭園について語るには
どうも
もう一度
別の季節に訪れ
写真ネタを仕入れてくる必要がありそうだ
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兼六園3

2010年06月22日 | 石川散策
兼六園の3回目

      

前回までは
加賀藩藩祖
前田利家の立身出世の過程を書いてきた
今回もその続きから

  

能登を上杉攻め等の功績により拝領し
織田信長配下の武将の中では
遅くに城持ちとなった前田利家
その運命が大きく変わったのは
天正10年の事
そう、本能寺の変だ

   

天下分け目、山崎の戦いで
朋友羽柴秀吉が主君の敵を打つと
立場に悩むことになる
朋友と立つか
与力として柴田勝家に従うか

       

結局
この判断が彼の終生を決定付ける
賤ヶ岳の戦い
北ノ庄攻め
二つの戦いの功、?
で、今回取り上げている
兼六園の地を得ることになった

   

その後も
佐々成政との闘いの武功で
嫡男、利長が越中を拝領すると
加賀100万石の礎が完了したことになる

       

もちろん
前田利家の時代に
兼六園があった訳ではない

       

家督も
芳春院の子が継いだのは利長のみで
その後の家督は
側室、寿福院の子
利常が
以後は、利常系図で家督が相続されている

      

兼六園が造営されるのは
利常から数えて3代後
綱紀の時代であった

   

続く
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兼六園2

2010年06月21日 | 石川散策
兼六園の2回目
ゆるりと
加賀藩の事でも書きながら
兼六園の風景を紹介

       

加賀藩
江戸時代における大藩の一つである

   

加賀、能登、越中の3国
それに
芳春院化粧領、近江弘川村を加えた
119万石にも及ぶ所領を有していた

       

芳春院は
言わずと知れた
前田利家の正妻

   

大河ドラマで描かれたこともある

       

加賀藩の前身は
天正3年
越前一揆平定の功で
佐々成政、不破光治とともに
府中10万石を与えられた事が礎となる

       

尤も
この府中10万石
3人で分けた訳ではなく
3奉行で共同で治世した訳だが

       

佐々成政は越中半国の領主となり
不破光治は数年後に死去している
結果、府中は前田利家の所領となっている

       

その後
いくつかの戦いで功績をあげ
天正9年には
能登七尾の藩主となり23万石の城主となった

  

続く
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兼六園

2010年06月18日 | 石川散策
大名庭園

   

当ブログで大名庭園といえばいつも彦根の玄宮園であった

   

しかし
時には世に名の通っている大名庭園も紹介しようと
日本三大庭園の一つ
兼六園を訪れることにした

   

日本三大庭園といえば
この兼六園の他
岡山市の後楽園と
水戸市の偕楽園とがある
いづれは全部紹介したいものである

   

話がズレた
兼六園の事だった

       

金沢市の市中に広大な面積を誇る
池泉回遊式庭園
総面積は3万坪以上
庭園の外周を巡ると1.5kmほどにもなる

       

見所が満載の庭園
停めた駐車場の関係から
随身坂口からの入園となった

       

緑が覆い茂り

   

爽やかな風が流れる頃
訪れてみた兼六園

   

続く
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石川県立歴史博物館

2010年06月17日 | 石川散策
春の陽気に誘われ
出掛けた石川県

   

当ブログ初登場の県

       

目的は石川県随一の観光地
兼六園であったのだが
周辺駐車場で一日500円の
NTT西日本出羽町前を利用した為
隣の石川県立歴史博物館も立ち寄る

   

       

煉瓦造の印象的な建物

   

実は
戦前の建物で
金澤陸軍兵器支廠の兵器庫であった建物

       

3棟が並んで建ち
その姿は館内の展示物とともに
楽しむことが出来る

   

歴史や民俗関連の所蔵は
かなりの点数を誇り
博物館好きとしては
十分満足できるものであった

       

   

次回は
兼六園
その前の、お休みのような記事であった
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高月町 こいのぼり

2010年06月16日 | 滋賀散策
一昨年訪れて
見事な泳ぎぶりに見惚れた
こいのぼり祭り

   

少し掲載時期を逸したが
時期外れでの掲載をご容赦

       

こいのぼりが色彩豊かに
空に舞い
まるで本当に生きているかのように
身を捩じらせる姿

       

   

川を渡すように泳ぐこいのぼりの列を見ることは多く
その景色も見事なものだが
ここ
高月町のように
竹製の支柱を堤に並んで立て
雄大に泳ぐ姿も見てみたい

   

昨年も訪れたものの
残念なことに無風
垂れ下がる姿しか見ることが出来なかった

   

今年は
手頃な風
はためく様に

       

元々は
梅雨の時期に
濡れてはためく姿だったこいのぼり
実は
竜門を登り切り龍となった鯉の姿を模したもの
武家の立身出世の象徴

       

時を経て
いつしか
飾られる季節も変わり
青空の下
泳ぐように、はためく姿に変わった

       

泳ぐ姿を
今年は見ることが出来た
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柴田氏庭園

2010年06月15日 | 福井散策
元禄時代
というから江戸時代の頃

       

福井は敦賀の地
当時は小浜藩の支藩として
敦賀藩があった

   

敦賀藩とはいっても
敦賀郡の一部を領地としているに過ぎず
石高も1万石
城は無く
鞠山陣屋と呼ばれる陣屋があったのみ
この鞠山陣屋から名をとって
鞠山藩と呼ばれることもある

   

この敦賀藩には
豪農で柴田権右衛門という人物が居た

       

かなりの蓄財があったようだ
他の豪農と違ったことは
この屋敷を造営したことかもしれない

   

というのも
地割設計を依頼されたのは
狩野探幽

       

そう
江戸時代
狩野派を代表する絵師である

   

どういう伝手があったのか
それは今はもう解らない

       

参勤交代の時には
親藩である
小浜藩主が
休憩所として利用したという

   

柴田氏庭園を訪れた
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ブルーボネット2

2010年06月14日 | 愛知散策
ブルーボネットの2回目

  

ここには22のテーマの庭園がある
普段は道端の雑草というイメージのある草花も
ここでは主役

  

小さな丘には
一面を覆うワイルドフラワー

       

色の帯は
見る者の心に響く
完成された花壇を見るのも良いが
一見、手を加えていない雰囲気の
ここの花の帯を見るのも良いものだ

       

季節の移ろいは
色で感じられる

        

今度はどんな色が
季節を表現するのか
それが楽しみ

   

視線を遠くにすれば
湾口施設が見えるこの場所で

   

ビオトープのような
ガーデニングを撮影

       

今までにない雰囲気のガーデンを体験したいのなら
ここ
名古屋港ワイルドガーデン
ブルーボネット
は、お勧め

   

園内には
レストランもショッピングも併設されているので
楽しみ方は色々

   
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ブルーボネット

2010年06月11日 | 愛知散策
名古屋港には
ワイルドフラワーガーデンがある

       

埋立地の一角が
広大な花畑になっている

   

ワイルドフラワーとは

   

園芸用として取り扱われている草花で
種子等によって容易に繁殖でき
痩せ地にも耐え
手を入れなくても美しい花を開花させるものの総称
だそうだ(引用)

   

元々は
新名古屋火力発電所の一部であった土地

   

中部電力が
創立50周年事業の一環として
整地し花畑とした
併設でレストランも経営されている

   

一部をビオトープとしたような感じで
園内には小川のセセラギがあり
雑草と見紛う花々が咲く

       

まさに
ワイルドフラワーガーデンである

      

四季折々
潮の香りの漂うこの地で
楽しんでみるのも面白かろう

   

ガーデニングのような
庭風の演出もあれば
丘のような演出もある

       

以外に楽しめるガーデン

続く
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揚輝荘3

2010年06月10日 | 愛知散策
揚輝荘の最後

   

ここは
京都の修学院離宮を模して
作庭された池泉回遊式庭園を持つ

   

修学院離宮だから
千歳橋に模した橋もある

       

今回はこの橋に注目

   

切石積の橋脚の上に大きな屋根をもった建物が橋になっている
橋ともとれるし
水上の建造物とも言える

  

中国風に見える橋
橋の左右には
四阿があり
橋から眺める景色も美しい

       

白雲橋と名付けられたこの橋

      

実際に修学院離宮に在る千歳橋と比べると
少し大きい
屋根も白雲橋は緑釉瓦であるが
千歳橋はこけら葺
と違いもある

       

普段は橋を渡ることは出来ないが
イベントでは
この橋の上で
音楽会や演舞が催されることがあるという

   

陽気に誘われるように出掛けた揚輝荘
美しい風景に出合う事が出来た

   
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揚輝荘2

2010年06月09日 | 愛知散策
揚輝荘の2回目

       

伊藤次郎左衞門祐民は
明治11年
伊藤次郎左衞門祐昌の四男として生まれている

   

兄弟の早世が続き
四男であったが17歳の時に家督を継いでいる

       

それまで座売が主体だった販売スタイルを止め
陳列、立売スタイルに改め
松坂屋を洋館建の店舗とする

   

1918年に別荘として造営を始めた揚輝荘を
定住地としたのは
妻の急逝の後の事であった

       

揚輝荘は広大な面積を持っていたが
現在は北庭と南庭を残すのみである
南庭は通常見学は出来ないが
北庭は自由見学が出来る

       

北庭にある一際目を引く建物が
伴華楼
尾張徳川家から譲り受けた茶室だったものを
移築に際し
地階と1階洋室を増築

  

伴華楼とは
バンガローのもじり

   

ちょっとしゃれっ気のある古い洋館を
取り上げてみた

  
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揚輝荘

2010年06月08日 | 愛知散策
伊藤次郎左衞門祐民という人物が居た

名前だけを聞くと
どこの誰だろう?
そう思ってしまうが

   

株式会社いとう呉服店の社長だった人物
と聞くとどうだろか?
それでも解らない

   

では、株式会社いとう呉服店が
松坂屋の前身であると聞くとどうだろうか
それなら解るだろう

      

株式会社大丸松坂屋百貨店
その創始者の別荘
それがここ揚輝荘

   

一万坪もの広大な敷地を持つ
名古屋市千種区という
大都会のど真ん中に
大正7年に造営がはじまった別荘

       

庭園は
修学院離宮を参考に造営されている
規模を縮小した感じの
池泉回遊式庭園が在った

      

別荘の造営が終わる昭和14年ごろには
敷地内には30棟を超える建物が存在したという

   

ここはまた
上流階級の社交の場でもあったらしい

   

皇族や華族
政治家や著名人などが多数訪れた記録が残っている

  

揚輝荘の風景
続きます
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