人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

一人の人間が宇宙大に拡がってゆく

2011-06-07 10:16:30 | スピリチュアル
人間の本質は
光なのです
やさしい人
勇気のある人
思いやりを持てる人
愛深く生きること
やさしさも
勇気も
思いやりも
みんな
神の光から
ながれてきているものです
責めず
とらわれず
すべてをつつんでゆく光
私達のいのちの根元である
神の大愛の光は
いつも
私達の本心を照らして
絶えず
この光を
流しているのです
 
いのちというものが
人間というものが
光によるいのちであることを
これまでに
幾人もの聖者達が
証してきました
キリストも
釈迦も
親鸞も
法然も
みんな
この
光の証し人たちです
彼らは
それぞれの時代の苦を背負って
それぞれに
人間が救われてゆく道を
解き明かしたのです
彼ら自身
神の大愛の光
大元の光そのものでした

キリストは
汝の敵を愛せよといい
釈迦は
わが死後も精進せよ
といいました
親鸞は弟子一人も持たず
といい
法然は
専修念仏のなかに
光明身自在身たるべき
人間の本質があると説きました
それぞれに
国を背負い
そこに生きる人々の
苦悩を背にしながらの
説き明かしでした
 
しかし
国といい
民族といい
風土をそれぞれ異にする人々の
宗教は
いつか
己れ尊しになってゆきます
人類という
この地上に生きるすべての人々
を対象にしたものではなく
それらは
国と国
民族と民族のなかで
ちいさな独立国のようになってしまって
いるのです
 
宗教というものは
もともと
人間の本質を見失った肉体人間が
自分のいのちのありどころ
帰るべきふるさとを
祈りのうちに求め、真に
人間というものが
自由で朗らかで
明るい光のなかに
生きつづけてゆく存在であることを
深くしってゆくための
ものなのであります
ですから
神を語り仏を語り
神をしり仏をしることは
この宇宙をしることは
すなわち
永遠者の
大いなる智慧に抱かれることで
ありまして
決して自分自身のいのちを
不自由にしてゆくものではないので
あります
 
ところが
これまで人類は
それぞれ信じる宗教のなかで
がんじがらめになり
とらわれの身となってきた
なぜか
それは
先程申しましたように
それぞれの人が
己れ尊し
自分のところの宗教が一番正しいんだ
真理なのだ
という姿勢をふりかざして
他の立場に生きる人々を責めて
自分の方へ自分の方へと
いわば念で
それぞれの集団をつくってしまった
からであります
これではいけない
これでは救われる筈がありません
たとえ信じる宗教が
現世利益のものであっても
邪教とよばれるものであっても
そこで一所懸命やることが大事なのだ
と私は申しました
現世利益が宗教の本質だとも
思いませんし
他を認めない怪しげな宗教を
いいというのでもありませんけれども
そこならそこに入って
一所懸命やるという
その一所懸命が
現世利益を離れ宗教をはなれて
生き出してくるのです
動いてくるんです
働き出すんです
光として働き出してゆくんです
一所懸命が光を呼び覚ますんです
 
人間っていうのは
神からわかれてきた分生命(わけいのち)
であり
分霊(わけみたま)です
そのおおもとは光で
肉体が自分だ、と思って生活していても
肉体という地上での衣を超えた
いくつもの自在な身体の奥に
本心の光がある
その光が一所懸命に突き動かされて
表面に出てくるんです
わかりますか
それでもって
守護霊さんや守護神さんや
その人に縁のある人たちが
寄り集まってきてね
その人の魂の成長に必要な場所を
用意するんです
とにもかくにも
これだけ一所懸命やったから
よしここは卒業次へ行かせよう
てなもんですよね
だけどただはいかないんだ
やっぱりそこで誠実を尽くす
五井先生流でいうと
天命を信じて人事を尽くす
ということが大事なんですよね
 
これはもう何百ぺんいってきたこと
ですけど
人類の進化は
みなさん一人一人の進化がなければ
できないことなんです
一人の人が一所懸命やる
一所懸命やると
そのときその人は光になって
くるわけですよ
それが
その光が
純粋になり無垢になりね
すきとおればすきとおるほど
いわば
透明になるほど
高い高い深い深い光明心、光明体に
なるわけですよ
うちでいう白光になるわけですよね
そいで
その白光が
世界中を駆けめぐって
まだ辛い人たちの心の扉を叩くわけです
そして
あったかくさりげなくすばやく
その人達の本心をひらいてゆくんです
ねっわかりますか?
 
一人の人間の働きというのは
こんなにもすごいものなんですよ
この世に肉体人間として生きている
いいかえると
この肉体を自分自身だ
世界のすべてだ
と思って生きている間はですね
光の働きを自覚する力も弱いんです
無神論者だろうが唯物主義者だろうが
守護霊さんや守護神さんは
とてつもなく深い愛情で守ってますよ
夜となく昼となく守っている
それでなければ
光(いのちの根)が、肉体を
離れてしまう
実際
神界に小休止なしなんだ
けれどもね
 
人が光そのものの自分
何らさえぎるもののない
絶えざる光明を自己のいのちのなかに
持っている
と自覚したときには
一人の人間が宇宙大に拡がって
ゆくんです
こころが
存在がひろがってくんです
いうなら無になってですね
一所懸命になって
その結果
光が自在な働きをするって
いいましたけどね
いつもいつも
人間ってのは無にはなりにくい
空にはなりにくい
瞬間、光になれても
自分が釈迦やキリストみたいに
なれるわけがない
とおもっちゃう 
みなさんだってそうでしょ
私なんかとてもとても
とかね
まだまだ
とか。
五井先生はああして簡単にいうけれど
とかね
大体出てくるこたえは
わかってるんです
 
で、その
自分なんか
私なんか
ですけどね
そう思うのは
相変らずみなさんが
肉体人間としてこの世に生きてきた
なかで
身につけてしまった 
とらわれだとか我だかね、あらゆる限定の
なかで世界をみてゆく
業想念のなかで
自分というものをしっかりつかまえて
いるから
そうなってしまうんです
 
何べんもかいてきたことですけど
今の人間はみんなこの
肉体人間観から脱け出せて
いないんですね
これは俺のだ
何だ黙ってとかね
自分が自分がって
すぐ我が出る
我の世界
把われの世界のなかで
これが世の中だ
これが自分だってやってる限り
この世界は平和にはなりませんよ
だって狭い「自分」の世界を
出ないんだから
さしずめ私は
この業のそうじ屋ですよね
業想念というもののなかで
まっくろになってすすけて
新しい空気が欲しいと思ってる人達に
新しい空気を入れにきたんですよ

釈迦も
キリストもね
みんな入れにきたんだけど
俺が俺がの業想念が
この人達の光の言葉を
あらそいの種にしちゃった
光の言葉をつかって
闇の方へ闇の方へと持ってってる
それはなぜかというと
お互いがお互いの立場を思いやらない
からです
認めないからです 
それでこのままいくと
個人のしあわせどころか
人類みんなで亡びていかなきゃ
いけなくなる

そこで私が神様からいただいたのが
世界平和の祈りなんです
この祈りを、それぞれの信じている宗教の
祈り言の最後(勿論最初でもいいんです
けど)にくっつけりゃあいいんです
今まで大事に信じてきたものを捨てろ
なんて
私はいいません
お前は駄目だ
といいつづけて世界も人類も
苦しくなり駄目になったんですから
大きなおおきな立場で
全部をみとめてしまう
そして
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
という祈りを心に思いうかべるだけで
そこにパーッと
すごい光の柱が立つんです
世界人類がと思ったときに
もうその人の本心の光がかがやいて
それが文字どおり
世界人類のところにとどいているわけ
 
それで
その人がキリストを信じる人なら
その信仰がつよめられ、その人のもつ
やわらぎとゆるしの光がつよめられて
神様の器として働くことが出来るように
私が手伝うわけですよ
仏教なら仏教で
法然さんなら法然さんをとおして
本心開発ができるように手伝ってゆく
ひとつも
お前駄目だ、なんていわないんです
そして
そうしているうちに
世界平和の祈りの持つ大光明
大元の光が
その人の一所懸命の光をもっともっと
高めてゆくわけです
わかりますか?
 
最初に念っていうことをいったけど
写経というのは祈りですよね
決して念じゃない
念ってのは
自分の我でもって
慾でもって
執着でもって
己れにこだわり、失うことを何よりも
おそれる世界です
だけど
宗教は祈りで
祈りというのは
度々いってるように
自分のいのちを宣り出すこと
光の自分と対面しつづけること
ですからね
それで人間は自由になってゆく
わけですね
それで、それぞれの祈りは、やっぱり
光明真言なんだけれど
その光明真言を
わかりやすく
ずっと世界人類にまで広げた
祈りが世界平和の祈りなんです
このなかには
一つの責めもない
さばきもない
自分もこのなかで
この祈りのなかで
自由に朗らかになって
しかも 
世界人類という大河のなかで
いつのまにか
自分を生かしめている光を
つよめ
自らの霊性を高めてゆくことができる
 
それぞれの国
民族
宗教はそのままにして
誰もが
この地球に生きているかぎり
世界人類の一員なんだから
世界人類が平和でありますように
という祈り言は
一人一人の心の奥底からの叫び
なんですよ
その叫びを祈りにしちゃったんです
と同時に
この祈りのなかには
世界人類よ平和であれという
我々人類の
いのちの親である神様の
大愛がつまりにつまってるんです
だから光そのものの祈りなんです
愛そのものの祈り
ゆるしそのものの祈りなんです
 
で、
この祈りを唱えてゆくと
しらない間に業想念のそうじが
出来ていって
いつのまにか
心がおだやかになるんです
ふんわりと
いい気持ちになる
それは
世界平和の祈りにのって
みなさんが
お里がえりをしているからなんです
ふるさとは
遠きにありて想うもの
と詩人はうたいましたけれど
もともと
ふるさとから
この世に歩いてきて
それで
この世に生活している内に
すっかり
ふるさとを遠いものだと
勘ちがいしちゃったんです
 
そうじゃなくて
みんな
もともと
光を持って
この地上におりたんです
この地上を光にするために
降りたんです
人間は、一人一人
この地球の開発部隊の隊員だったんです
それが長い間に
その目的と
光をおびているという事実を
忘れちゃったんですね
世界平和の祈りはだから
みなさんを
原点にもどしてゆく祈りです
 
肉体人間という狭い人間観ではなく
もっともっと自由自在な
本当の人間の姿を
無理なくわからせてゆく
そういう祈りなんです
昔だったら道を求めて
修行をした
だけど今
肉体を痛めて本心に到るっていうことは
よほどの心の人でないとできない
それに人間のなかに
等しく光がわけられているわけですから
誰が偉くて
誰が偉くない
なんて世界じゃないんです
 
すべての人が光になってゆく道
今の立場、今の場を離れずに
誰もが白光を発揮してゆくみち
それが世界平和の祈りの道なのです
この世にあらわれているもの、あらわれて
くるものは
すべて消えてゆく姿であって
のこるものは
ただ、神の愛ばかりなんだ
肉体は苦しい
思いは苦しい
苦しいままに
世界平和の祈りのなかに
投げ込んでゆくと
救世の大光明が
その苦を抱きとって
いつの間にか
安心立命している自分が
祈りのなかから
あらわれてくるのです
 
徹底した感謝行である
この祈りを唱えてゆくときに
朗らかな
自分自身
神の大愛といつくしみのなかに
しっかりと抱かれている
自分自身
世界人類のなかの一人としての自分自身
そして
平和の気の流れの一すじである人間の
本当のすがたを
しらされてゆくことに
なるのであります
         平成2年1月30日 記