宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」2「知覚」イ「物」:「一と他」、「普遍と個別」、「自と他」が矛盾的に結合するところに「物」という概念が初めてでてくる!

2024-05-07 15:26:17 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」2「知覚」イ「物」(100-104頁)
★「知覚」の段階を以下3つに分けてみてゆく。イ「物」、ロ「錯覚」、ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」。

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」の目次は次のようになっている。
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」;2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」;3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」
1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」;
2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」;
3「現代(あるいは絶対知)」

(16)「物」:「一と他」、「普遍と個別」、「自と他」が矛盾的に結合するところに「物」という概念が初めてでてくる!
★「物」の概念はどのようにして成立するか?(101-102頁)
☆例えば塩は「物」だが、①それ(塩)は白く、辛く、結晶において立方形であり、一定の比重をももつ。かくて塩は「一にして多」である。②それ(塩)は「個別にして普遍」である。塩という一つの「個別者」が白く、辛く、立方形をしており、いっていの比重をもつから、それは「多」であり、そこに「普遍」が成り立っている。③さらに例えば「白」を考えると、「白」は白でないところの赤・黄などに対して初めて「白」という限定も成り立つから、「白」は「対自と対他との対立」を含む。(102頁)
☆かくて「一と多」、「普遍と個別」、「自と他」が矛盾的に結合するところに「物」という概念が初めてでてくる。(102頁)

★「一と多」、「普遍と個別」、「自と他」という対立があるとすると、一方では個々の「多」を同時にのせている「統一的普遍的なもの」があり、他方ではその「多」のうちに「一物」を「他物」から区別し「独立的個別的」に定立する規定がある。「他に対する一」あるいは「個別に対する普遍」、「他に対する方向と自の方向」というような矛盾がある。そういう矛盾するものがあって初めて「物」というものが成立する。(103頁)

★例えばスピノーザ的な「実体」を考えてもそれはあらゆる「属性」をのせている。(Cf. スピノーザでは「思惟」と「延長」という属性しかあげていないが、じつは無数であってよい。)これと同じく一つの「塩」、一つの「時計」などをとって見ても、「重さ」や「色」や「形」をもつというわけで「一であるにとどまらず多」であり、「個であると同時に普」であり、さらに「その物でありながら他物との関係」を含んでいる。そこに「物」という概念、すなわちもっと原始的な意味での「実体」が成立する。(103頁)
☆ヘーゲルの「イエナ論理学」(『イエナ時代の論理学と形而上学』)では「『知覚』の段階の弁証法」は「『実体』の弁証法」として述べられている。この弁証法によって「実体」は「主体」であり、「概念」であり、「自己」であることを証明しようとするのが、「知覚」段階のねらいだ。(103-104頁)

★およそ「物」というのは矛盾した両方向を持っている。(104頁)
☆「単なる知覚」の立場では、白なら白、辛いなら辛いだけがとらえられているが、それではまだ「物」または「実体」という観念はでてこない。(104頁)
☆白くもあり、辛くもあり、立方形でもあり、一定の比重ももつというように、「多にして一」、「一にして多」であるような関係においてのみ「物」は成り立つ。そうでなければ「物」や「実体」はなりたたない。(104頁)
☆さらに「自と他」の場合も同様だ。(104頁)
☆それで「多即一」、「個別即普遍」、「自即他」と考えるときにのみ「性質」という概念もでてくる。「物」という概念はこのようにして現象学者が作る。(104頁)

Cf. ☆「意識の態度」が変わるとともに「対象」も変わってゆくこと、つまり「対象の生成」は、(「感覚」あるいは「知覚」というような)「意識」自身は自覚せず、これらを観察している「現象学者」だけがはっきりと自覚している。一つの「意識」段階はその前の「意識」段階から発生してくるが、これがいかにして発生してきたかは、「現象学者」だけが知っている。(83頁)
☆両「意識」段階、両「対象」の必然的連関(「意識段階間の発生的連関」)は、「哲学的観察者」(「現象学者」)がそとから与えてやらなければならない。これが「『精神現象学』の方法」として、ヘーゲルが第③に強調していることだ。(83頁)

《参考》スピノザ(1632-1677):オランダの哲学者。ユダヤ教を学ぶが批判的見解を抱き、教団から破門された。著『エチカ』。
☆ユダヤ神学を学んだが、これを批判しデカルトの合理主義に立ち、物心平行論を唱え、精神界と物質界の事象は神の2属性の様態であると説いた。また個々の事物を「唯一の実体である神」のさまざまな様相と見て「汎神論」を唱えた。
☆事物を「神との必然的関係において直観することに伴う自足感」を道徳の最高の理想とした。
☆スピノザは「モーセ五書」がモーセ自身の手になることを否定し、後世の編集によると主張したため、神学者たちの厳しい非難を浴び、スピノザ哲学は死後100年、「死せる犬」のように葬り去られた。
☆ノバーリスがスピノザを「神に酔える人」と評したが、他方で彼が死後に至るまで唯物論者、無神論者として恐れられたのは、スピノザの神がキリスト教的な「人格神」ではなく、「神すなわち自然」とされたからだ。万物は精神も物体もすべて「神」の現れ、「唯一の無限実体」の諸様態であり、いっさいは「神」の内的必然によって生起するから、人間の自由意志も偶然もまったく存在しない。スピノザはこのような宿命論にたって、人間の真の最高の幸福を探究した。
☆スピノザによれば、欲望とは人間の自己保存の努力であるが、この欲望が不完全な感覚的認識によって決定される限り、人間は外的対象の支配下にあり、感情への隷属状態にある。しかし感情にはこのような「受動感情」のほかに、精神の知的活動に伴う「能動感情」があり、人間が自己自身の理性的認識によって欲望を決定するとき、人間は「自由」である。自由とは、スピノザによれば、精神が「自己の本性の必然性」によってのみ働くことだ。
☆人間理性の最高の働きは、「事物の究極的原因としての神」との必然的関係において、つまり「永遠の相」の下に個物を直観することであり、これに伴う自足感こそが「神に対する知的愛」として、道徳の最高の理想だ。「神に対する人間の愛」は、神が「その様態である人間」を介して自己自身を愛する「神の知的愛」の一部であり、同時に人間が神の変容である限り「神の人間に対する愛」である。
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