宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」2「知覚」ロ「錯覚」:「真理」そのものが「矛盾」したものである!「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ!

2024-05-08 14:02:34 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」2「知覚」ロ「錯覚」(104-106頁)
★「知覚」の段階を以下3つに分けてみてゆく。イ「物」、ロ「錯覚」、ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」。(100-101頁)

Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。
(A)意識:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(DD)絶対知:Ⅷ絶対知

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」の目次は次のようになっている。
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」;2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」;3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」3「現代(あるいは絶対知)」

(17)「錯覚」:「知覚」(Wahrnehmung)の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ!
★「知覚」という意識(対象意識)が「物」をとらえる(受けとる)にあたり、知覚は「Wahr-nehmung」として真理をつかまえるが、しかしそれは「感覚」との比較の上においてのことであって、より高次の(意識の)段階と比較すれば、「知覚」の段階でも真理をつかむということが、じつはつねに「錯覚」だ。(104-105頁)

《参考》「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる:「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階へ!単なる「このもの」から 「物」という概念への移行!(98-99頁)
☆「普遍者における個別者」しかないのであって「単なる個別者」はない。すなわち①「意識」(対象意識)自身は最初は「このもの」を掴む。②「意識」は「このもの」が「対象の真理」だと思っていたのに、③じつは「このもの」はなく、それは「マイヌング(私念)」で、④「普遍者におけるこのもの」しかないんだということになる。(98頁)
☆「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
☆「意識」自身が「対象の自分自身(※意識)に対する『現象』」と「対象自体」との区別を知っている。即ち「真理の規準」を持っている。だから「真理の規準」を外からもってくる必要はない。かくて真に(Whar)とらえる(nehmung)ところの「知覚」(Wahrnehmung)に移っていくことができる。(98-99頁)

★「知覚はつねに錯覚である」ということをヘーゲルは強調しようとする。(105頁)
☆このときすでにヘーゲル独特の「理性あるいは絶対知」が登場し始める。「理性あるいは絶対知」は「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」ものであって、「同一律・矛盾律」を認めず、それを「止揚」aufhebenする立場だ。(105頁)

Cf. 「矛盾律」(law of contradiction): 形式論理学で、同一の事物(主辞)について、それと矛盾する賓辞を述語とすることができないということ。「《Aは非Aである》ことはできない」あるいは「Aは《Bであると同時にBにあらず》ということを得ず」。
Cf.「同一律」(law of identity):論理学で矛盾律、排中律とともに三大原理と呼ばれるものの一つ。この原理は,主語と述語の関係を基軸にした伝統的論理学では〈AはAである〉と定式化され,自明な命題の代表例。ただし「変化」や「運動」の可能性を否定するという批判もある
Cf. 「排中律」(law of excluded middle )伝統的形式論理学で二つの相矛盾する命題のどちらかに真理が存することをいう。その形式は「AはBであるか、Bではないかのどちらかである」。また、現代論理学では任意の命題について、それ自身かその否定かのいずれか一方が正しくなるとする主張をいう。(命題pに対して〈pかpでないかのいずれかである〉。)肯定と否定の中間を認めないということ。

(17)-2 普通の「自然的意識」が、「同一律・矛盾律」を墨守せんとするが、じつは「そうはできない」!「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だor「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」である!
★「自然的意識」は同一律・矛盾律を厳密に守ろうとする。普通の「自然的意識」が、それ(同一律・矛盾律)を墨守せんとしながら、じつは「そうはできないのだ」ということを証明しなければ、ヘーゲルの「弁証法的知識」すなわち「絶対知」、言いかえれば「実体は主体である」という証明はできない。がまさにそれを実行しようとするのがこの(「知覚」における)「錯覚」の段階だ。(105頁)

★「物」は「一」と「多」の両方向を含む。「物」が「一にして多である」とすれば「矛盾律・同一律」を否定することになる。(105頁)
☆そこでこの「一」と「多」のいずれか一方を捨てて他方を認めるとするとどうなるか?(105頁)
☆一方では「一」を真理として「多」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」はそれ自身としては「一」であるが、感官の相違によって「多」(Ex. 舌で舐めれば辛い、眼で見れば白い)として受け取られる。かくて「物」は「一」であって、「多」とするのは「錯覚」だとされる。(105頁)

☆それと正反対に、他方では「多」を真理として「一」を錯覚とするとう態度が出てくる。例えば「塩」は本当は「多」(Ex. 白い、辛い、立方形、比重)であって「一」とするのは間違い(「錯覚」)とされる。(105-106頁)
・この場合、①「物」の「性質」を分離する。(Ex. 塩は白くある「限りにおいて」辛くなく、辛い「限りにおいて」白くない。)(106頁)
・あるいは②いろんな「素」という概念(Ex. 物が光を発するのは光素、色をもつのは色素、香をもつのは香素、熱を持つのは熱素による;この「素」をヘーゲルは「自由な質料」と呼ぶ)をもってきて、「多くの」素材から「物」ができていると考える。(106頁)
☆かくて「物」を「一」と考えるのは「錯覚」で、本当は「多」であるとされる。(106頁)

★「自」と「他」の対立についても同じようなことが言えるが、これについては、ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」の項で扱う。(106頁)

(17)-3 「真理」そのものが「矛盾」したものである!「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ!
★「知覚」の段階で、こうして相反した態度がこもごも取られる。即ち「知覚」は「物」について、一方では「一」を真理とし「多」を錯覚としておきながら、いつのまにか「多」を真理とし「一」を錯覚とする。(106頁)
☆なぜこのような別々の態度がとられざるをえないかというと、そもそも「物」それ自体が「矛盾」しているのに、しいて「矛盾律・同一律」を守ろうとするからだ。「物」について「一」を正しいとして「多」を錯覚としたり、あるは「多」を真理とし「一」を錯覚としたりするのは、「真理」そのものが「矛盾」したものであるからだ。「同一律・矛盾律」こそ正しくないのだ。(106頁)

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