宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「メディア『ムラ』は民主的に統制さるべきか?」『山猫日記』(2016/2/16)、三浦瑠麗

2016-02-23 08:52:59 | Weblog

A 日本で言論がより不自由になっていると「感じる人」が、増えている。言論の自由は、後退している。
A-2 高市総務相が、政治的な公平性を欠く放送に対して、放送法4条違反を理由に電波停止を命じる可能性に言及。しかも後日、答弁の撤回や修正を求められても、応じない。

B 言論の不自由さに対する懸念には、一定の根拠があるが、その原因は、政権側の抑圧や、日本社会の保守化といった単純なものでない。それは、日本社会の「政治化」を反映した症状である。

C 日本的な権力分立の仕組みとして、日本社会は並立する「ムラ社会」のあつまり。ムラとは会社、業界、地域。個々人にとって「ムラ社会」の存在は圧倒的。個々のムラが縦割り的に存在し、それぞれが秩序保持のための伝統と統治原理をもつ。
C-2 これまで、メディア業界は、独自の「ムラ」として自律性を持ち、政治の介入をはねのけた。そして、その自律性は、リベラルな価値観が支えた。
C-3 政治と官僚の関係も、同様の構造。戦後日本のリベラリズムの原点は、GHQが主導した改革。霞が関の官僚は、その政策の忠実な承継者。官僚が、政治的な介入を排除し、リベラルな法体系の下で、漸進主義的に政策を実行。生存権を原理とした社会福祉の増進、男女同権を原理とした女性の地位向上など。

D ところが近年、「政治化」される領域が拡大。日本は、過去20年、政治的リーダーシップを強化。①省庁を統合、内閣府や内閣官房の権限を強化。かくて首相の権限が、大幅強化。②小選挙区制導入で、政党内で資金や公認権を握る執行部へ権力集中。首相は、かつてと比較できない大きな力を持つ。
D-2 この変化は、国民が求めた。冷戦の終結とバブル崩壊を経た90年代、個別の「ムラ」に委ねては、日本は変われない。そこで採用されたのが、政治が関与する領域の拡大という手段。これが、国民の「民主的な」選択だった。
D-3 政と官では、「政治主導」という物語により、霞が関への政治の介入。
D-4 政治とメディアの関係では、①政権に対する距離感でメディアの鮮明な色分け。②政権に批判的なメディアへの政治の側からの圧力増大。③メディア「ムラ」の抵抗力は弱まる。

E 高市総務相には、法の原理よりも統治者の倫理を重視する発想がある。高市大臣は「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と言った。徳のある倫理的な指導者である「お上」による「さじ加減」に基づく人治・徳治の発想。
E-2 日本には中庸の道徳の伝統、また喧嘩両成敗の伝統がある。メディアが、政治問題に賛成と反対の立場を紹介するのは、サラリーマン的な事なかれ主義と日本的な倫理的発想に基づく。

F 政治主導の「暴走」を避けつつ、適切に機能させるための仕組み作りが重要。
F-2 三浦自身は、政治が介入する領域の拡大に賛成。今日の世界では、個々の「ムラ社会」の掟に従って社会を運営することはできない。したがって中選挙区制に戻すべきでない。
F-3 しかし私企業や、公共放送に対して、マーケットの競争(=視聴率やコアなファン層形成をめぐる)を超えて、統制を、政府や国会がやるべきでない。不人気な番組やTV局は競争の中で淘汰されるべきで、それが正しい民意の反映のさせ方。
F-4 一方で、「民主的」な選挙の多数派に基づく統治者=権力。他方で、その「民主的」統制による政治主導の「暴走」は防がねばならない。「政治主導」を機能させるために必要なものは、多様性と競争。その点を掘り崩すことは、阻止すべき。①投票における一票の格差、②自民党と共産党しか選択肢がない選挙区は、大きな問題。そして、③最も重要なのは、言論の自由を守ること。言論の自由を解せず、また畏れないような大臣は、メディア自身が執拗に追及すべきだ。

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E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』第4部 他者と目的論(ちくま学芸文庫、2015年)

2016-02-19 19:41:42 | Weblog
第4部 他者と目的論(テレオロジー)
三一 モナドと目的(テロス)――誕生と死:原典タイトル「モナド論(1930年代初め)」(全集第15巻付論46)(515-521頁)
A 「無意識的なもの、意識の沈殿した根底、夢のない眠り、主観性の誕生形態、もしくは誕生以前の問題にされる存在、死と『死後』の問題にされる存在」、これら「潜在的存在」は、「覚醒」した「顕在的存在」(すなわち「根源的な」存在)の「志向的変容」である。(515-6頁)
A-2 「潜在的存在」については、「この存在領分の全体が、一種の再構築の存在領分である――すなわち、顕在的なものから潜在的なものへと、その変様をたどりつつ遡っていく」(516頁)
A-3 「人間から動物、植物、最下層の生物、新しい物理学の原子構成へと送り返される」ような考察。なのだろうか?(517頁)

B 「沈殿という理念」(518頁)
(一)「根源的に本能的なコミュニケーションのうちにある複数のモナドの総体性」。「眠れるモナドたち」。(518頁)
(二)「眠れるモナドたちという背景をともなって、覚醒するモナドたちと覚醒における発展。」(518頁)
(三)「世界を構成するものとしての人間のモナドたちの発展。・・・・モナドたちが理性的な自己意識・人類意識へと至り、世界理解へと至る等々。」(518頁)

C 「モナドは始まることも終わることもできない。超越論的モナド全体は自己自身と同一である。」(518頁)
C-2 「系統発生的発展に対応する過程全体が、誕生へ至るすべての生殖細胞モナドのうちに沈殿している。」(519頁)

D 「モナド全体、すなわちモナドの全一性は、無限に高まりゆく過程のうちにあり、この過程は必然的に、眠れるモナドから顕在的モナドへの発展の恒常的過程であり、モナドのうちで繰り返し構成される世界への発展の過程である・・・・。」(519頁)
D-2 「こうした世界構成は、つねにより高い人間性と超人間性の構成なのであって、そこにおいて、全体が自己自身の真なる存在を意識するようになり、“理性ないし完全性の形態へと自由に自己自身を構成していく存在”という形態をとるのである。」(520頁)
D-3 「神は・・・・モナド全体のうちに存している完成態(エンテレヒイ)であり、無限の発展すなわち絶対的理性に基づく『人間性』の無限の発展の目的(テロス)という理念として・・・・ある。」(520頁)

E 「死からは、誰も呼び覚まされることはできない。」(520頁)
F 「普通の意味での不死性はありえない。しかしすべてのモナドと同様、人間は[別の意味では]不死であり、神性の自己実現過程への参与は不滅であり、一切の真なるものと善なるもののうちで作用し続けていくことは不滅である。」(521頁)


三二 原事実性の目的論:原典タイトル「目的論。超越論的自我の形相(エイドス)に超越論的間主観性の形相が含まれている(1931年11月5日のノートに基づく)」(全集第15巻テキスト22番)(521-535頁)
●目的論
G 「超越論的主観性の自己構成は、無限に向かうものとして『完全性』へと、真なる自己の保存へと向けられている。」(521頁)
G-2 「超越論的主観性は・・・・超越論的自己省察と、その固有の体系的展開にまで登りつめる自己省察の発展過程の必然性をもっている。」(522頁)
G-3 「このような目的論的過程、すなわち超越論的間主観性の存在過程は、さしあたり個々の主観のうちでは暗い普遍的な『生への意思』、あるいはむしろ、真なる存在への意思を自らのうちにもっている。」(522頁)
G-4 「その意志は・・・・あらゆる個体的ならびに超個体的(間主観的、全人類的)目的の全体性という、はっきりした目標形式、目的形式をもつ・・・・。」(523頁)
G-5 「無限の完全性という理念、無限に完全な間主観的全共同性のうちにある完全な個別主観的存在という理念。」(523頁)

●超越論的自我の形相に超越論的間主観性の形相が含まれる
H 「未知の他者は・・・・地球上の人間としてか、あるいはどこかの星にいる人間のような存在者などとしてである。」(529-530頁)
H-2 「あらゆる本質可能的な超越論的自我は、『私と他者』という形式においてそれぞれ互いのうちに含蓄されている。」(530頁)
H-3 「一つの可能な自我は、それと共存している自我たちの宇宙、総体をただちに含蓄している。」(530頁)
H-4 「超越論的間主観性の形相は、超越論的自我の形相のうちに同時に含蓄されている。」(531頁)
H-5 「他者たちは、構成による形成体として私のうちにあるだけでなく、彼ら自身が構成する主観であるという存在意味において私にとって存在しており、そのようなものとして私のうちで構成されている。」(531-2頁)

●原事実としての「私」
I 「遡る問いにおいて最終的に、原キネステーゼ、原感情、原本能をともなった原ヒュレー等々の変転のうちにある原構造が生み出される」(532-3頁)
I-2 「それによると事実のうちにあるのは・・・・私にとって全世界の構成がすでに『本能的に』予描されているように見え、そのさい[この構成を]可能にしている機能そのものが、その本質のABC、その本質文法をあらかじめもっている。それゆえ、事実のうちにあるのは、初めからひとつの目的論が生起しているということである。」(533頁)
I-3 「究極的な『事実』――原事実」あるいは「原偶然的なもの」(534頁)
I-4 「私は考え、私は還元を行う。それは、まさにこの私であるところの私、私にとってこのような地平性のうちにある私である。私はこのような歩みにおける原事実である。」(534頁)
I-5 「私は私の事実的な存在を乗り越えられず、そのうちにあって、志向的に含まれた他者たちの共存在などを、したがって絶対的現実性を乗り越えられない。」(534頁)


三三 目的論と愛の価値:原典タイトル「目的論(1931年11月13日頃)」(全集第15巻付論23)(535-543頁)
A 「超越論的間主観性は・・・・具体的に心理物理的人間として・・・・価値づけたものに向かいつつ、それらのなかから、人間の欲求を充足する新たな価値づけられたものを産出しつつある・・・・。」(536頁)
A-2 「あらゆる超越論的現実存在をとおして、しかもたんなる個別的な現実存在ではなく、間主観的な共同化において、そして間主観的な総体性として『より完全になる』ような統一の努力が一貫している。」(536頁)

B 「動物は、その本能と、それによって特徴づけられる価値の規則的な充足において生きているが、それは有限な周囲世界と、制限された時間性(再想起と想起の前倒しが狭く制限されて)においての生である・・・・。」(540頁)
B-2 「動物は、空腹であれば不満足であり、満腹であれば満足しており、満腹の状態で完全に満足している。」(540頁)
B-3 これに対し「人間は無限性のうちに生き、その無限性はそのたえざる生の地平なのである。人間は本能を乗り越え、高次の段階の価値を創造し、この価値をも乗り越えていく。」(540頁)

《快楽的で「感覚的」な価値と「精神的」な価値、愛の価値》
C 「快楽的価値はその起源を享楽にもち、最終的に感覚的な感情にもち、そのつどの享楽において、その価値を実現しようとする。」(541頁)

D 「人格の価値、それも、その人格をたんなる享楽の準備のためにもつような意味での価値ではなく、その人格の『真の価値』をなすような・・・・価値は、まったく別の源泉から、すなわち厳密な言葉の意味での愛と言う源泉から生まれてくる。この意味で、愛の享楽ということは、一つの不合理である。」(542頁)
D-2 「愛――愛しつつ他者において自己を失う、他者において生きる、他者と一つになる、ということは、たしかに・・・・『大きな』喜びを生みだしはするが、まったくもって快楽的とはいえない。」(542頁)
D-3 「人格的愛に由来するすべての価値は、人格そのものに価値を与える。」(542頁)
D-4 「愛する献身、例えば芸術作品への献身は、それを遂行する人格を、逆向きにその人の人格的価値の増強という光で照り返す。」(542頁)


三四 目的論と衝動志向性:原典タイトル「普遍的目的論。超越論的に見られた、間主観的で、すべてのそしておのおのの主観を包括する衝動。モナド的総体性の存在(1933年9月、シュルッフ湖)」(全集第15巻テキスト34番)(544-551頁)
〈内容〉
[①]超越論的に見られた間主観的衝動(とくに性衝動)。
[②]普遍的発展や相関するモナドの世界の形式内での発展の統一における“すべてのモナドの共同存在と相互内属”。
[③]そのようなどの世界も、それ自身のうちに、その世界へと入りこんで生きているもろもろの自我主観をともなった“客観的世界”を、志向的に構成して所持している。
[④]最上の段階での構成の行程において、“ともにつねに、そしてすでに存在しているモナド的な、ないしは世界的な人間性”。
[⑤]“流れつつ普遍的な自己意識へと至る、ないしすでに存在しているもの”としてのモナドの総体性の存在、無限の上昇のうちにありながら――普遍的目的論。

E 「性的な餓えの場合、“性的な餓えを触発し、刺激する目的”に向けられるなかで、この目的とされるものは他者である。この特定の性的な餓えは、性交という様相にその充実の形態をもつ。」(545頁)
E-2 「私たちは、端的で原様相的な[性衝動の]充実のうちで、“それぞれ一方の原初性と他方の原初性へと分離しうるような二つの充実”をもつのではなく、“充実の相互内属”をとおして作り出される“二つの原初性の統一”をもつ。」(545頁)

F 「超越論的還元によって、モナドはまず“人間モナド”として見出され、次に世代的な関連の形式において、“モナドの段階の全てのモナド”、すなわち“高次の、そして低次の動物や植物とその低次段階[の生物]”が、そして“このすべてのモナドに関する個体発生的な発展”が[見いだされる]。あらゆるモナドは本質的にこのような発展においてあり、すべてのモナドは本質的に世代的発展においてある。」(549頁)

G「私は“私という人間”から、“私の人間的なモナド”に向かい、“私の人間的なモナド”には、“私の人間的な共同世界”が直接、含蓄されている。」(549-550頁)

H 「目的論はすべてのモナドを包括しており、母親のモナドのうちで起こること(※妊娠)は、母親のモナドのうちでのみ起こるのではなく、すべてのモナドのうちに『鏡映』している。」(551頁)



E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』「訳者解説1」浜渦辰二(569-584頁)
A フッサールは、「モナドには窓がない」というライプニッツの主張を、実質的(レエル)には「窓がない」と認める一方で、志向的には「窓がある」と批判するが(本書257頁参照)、その「窓」こそ第1巻第2部「感情移入」の問題だった。(573頁)
A-2 その問題が、第2巻第1部「自他の身体」や第2巻第2部「感情移入と対化」では、「私の身体」から出発して、「パースペクティヴ」的な「空間」のなかで論じられる。これに対し、第3巻第3部「時間と他者」では「時間」論との絡み合いで論じられる。(573頁)
A-3 「感情移入」は、空間的には「共現前(Appräsentation)」(※間接呈示)として論じられる。これに対し、時間的には、「感情移入」は「準現在化(Vergegenwartigung)」として、「想起」「予期」「想像」と比較検討しながら論じられる。(573頁)

B 「他者の手が動くと、私は私の手を動かしたくなってむずむずしてしまったりする」(フッサール383頁)は、現代のミラーニューロン理論を思い起こさせる。(574頁)

C 「人間」、「心」の語が、自我論(エゴロジー)からモナド論(モナドロジー)への転回の中で、果たす役割が変わる。
C-2 自我論の枠組では、「“身体と心とをもった”“人間としての自我”という経験的統一」(28頁)は、現象学的還元によって「遮断」、「カッコ入れ」される。(575頁)
C-3 モナド論の文脈では「あらゆる純粋に心的なものが、現象学的還元のうちで、モナド的なものへと連れ戻される」(303頁)と言われ、「心ないしモナド」(303頁)という言いかえすら行われる。(575頁)

D モナド論において、フッサールは、「モナドに窓がある」ことを説明し、「実質的(レエル)な相互外在(Aussereinander)は、もちろん志向的な相互内属(Ineinander)と折り合う」(304頁)と論じる。(575頁)
D-2 かくて「私と超越論的に共存している」(291頁)ような「超越論的他者」(429頁以下)が語られるようになる。
D-3 「志向的相互内属として互いに対してあることの内在性は、“形而上学的”原事実であり、それは絶対的なるものの相互内属である。」(432頁)
D-4 「私は、そのように私にとって存在する他者なしには、私が今あるように存在しえないし、この他者も私なしにはそのように存在しえない。志向的に含まれていることが、超越論的共存にとって必要なことである。」(439頁)
D-5 「間主観性の現象学」の問題の発端は、すでに、『論理学研究』(1900/01)の第1研究の中に潜んでいた。(577頁)

E 『イデーンⅡ』では、「おのおののコギトは、そのあらゆる成素とともに、体験の流れのうちで成立したり消失したりするが、純粋主観は成立したり、消失したりしない」(Ⅳ, 103)とされた。つまりフッサールは、誕生や死は、経験的主観について語り得ても、超越論的主観については語り得ないと考えていた。(578頁)Cf. アリストテレスは、ヌース(理性)は「不死であり永遠である」(413a)と述べる。
E-2 本書第1部「自我論」の文脈では、フッサールは、「純粋なモナド的主観性としての自我」は不死であり、「自然の一員としての人間」のみが死ぬと述べる。(58頁)

E-3 本書第2部「モナド論」では、静態的現象学から発生的現象学へ進む。「やっとここで私たちは、モナド的個体性の現象学をもつことになり、そこには相互に関係しあう発生の現象学が含まれている。」(200頁)
E-4 「具体的な姿」におけるモナドの発生への問いが、始まりと終わり、中断、変化と成熟への問いを呼び込む。(579頁)
E-5 かくて「無意識的なもの、意識の沈殿した根底、夢のない眠り、主観性の誕生形態、もしくは誕生以前の問題にされる存在、死と『死後』の問題にされる存在」が問われる。これら「潜在的存在」は、「覚醒」した「顕在的存在」(すなわち「根源的な」存在)の「志向的変容」である。(515-6頁)
E-7 「潜在的存在」については、「この存在領分の全体が、一種の再構築の存在領分である――すなわち、顕在的なものから潜在的なものへと、その変様をたどりつつ遡っていくのである。」(516頁)「そのような再構築(Rekonstruktion)は、誕生と死に関して、どこまで及ぶのだろうか。」(517頁)
E-8 この「再構築」が、フィンク『超越論的現象学の理念――第6デカルト的省察』(岩波書店、1995年)の「構築的現象学」につながる。(579頁)
E-9 「つまり、独我論的で静態的な現象学においては、誕生も死も問題となりえないが、他者経験を考慮も入れた発生的現象学、さらにその先の構築的現象学において、誕生と死が超越論的な次元でも問題となり意味を持つようになる。」(579頁)

F 2014年『フッサール全集』第42巻:『現象学の限界問題 無意識と本能の分析、形而上学、晩年の倫理学――遺稿(1908~1937年)からのテキスト』。

G 山口一郎『他者経験の現象学』(国文社、1985年)。浜渦辰二『フッサール間主観性の現象学』(創文社、1995年)。これ以後、本格的なフッサール「他者」論、「間主観性」論の研究書がない。
H 今回のE.HUSSERL『間主観性の現象学』3巻本が、生前に出版された著作の「他者」論を、乗り越えたかどうかは意見が分かれる。



E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』「訳者解説2」山口一郎
A フッサールが間主観性論をとおし全体としてめざしたのは、本書第4部のテーマの「目的論」である。(585頁)

B 超越論的自我の能作が前提にされる「自我論」において、「他の」超越論的自我の成立が語れるか?(585頁)

C 1920年代以降の発生的現象学において、超越論的自我の「自我極そのものの生成」は、「自我論」の枠組に収まらない「モナド論」からのみ考察可能とされる。(585-6頁)
C-2 自我は、モナドの発展の一段階である。モナドが自我の発展の一段階なのではない。(586頁)
C-3 フッサールは、一方で「純粋自我」の解明が、複数のモナド(純粋自我)の理念的存在を確証できるとする。(本書一四「自我論の拡張としてのモナド論」)(586頁)
C-4 他方でフッサールは、モナドの受動的基盤、すなわち受動的綜合としての連合の規則(発生の普遍的本質規則)を指摘する。(本書一四「同上」)(587頁)

D モナドの受動的基盤に働く発生の本質規則である「連合」は、「自我の能作をまったく含まない」。すなわち、自我の能作を前提する「自我論」の枠組では、モナドの受動的基盤を解明できない。(587頁)
D-2 第2巻『その展開』の「対化」の記述によれば、受動的綜合である「連合」は、自我の能作が活動する以前に働いており、それによって間身体性の等根源的生成が、超越論的に根拠づけられている。(587-8頁)

E 絶対的エゴは、時間化を担うことができない。(Cf. 本書319頁)(589頁)
E-2 「昨日と今日の始原的現在の区別」は、始原的自我が行っているのではなく、始原的自我の能作が始まる以前に、受動的志向性としての(過去)把持をとおして成立している。(589頁)
E-3 フッサールが言うように、(過去)把持をとおさない時間化は不可能であり、また(過去)把持にいかなる超越論的自我の能作の関与も認められないので、始原的で絶対的エゴが、時間化を担うことはできない。(589頁)

F 自我論的枠組みにおいて、“超越論的他者の存在が超越論的に論証できる”とする可能性は、原理的に退けられる。(590頁)
F-2 それは、「絶対的なものとは、まさしく絶対的な時間化にほかならず」(本書506頁)とフッサールが言うように、「自我」に代わる絶対的なものである「時間化」の分析によって示される。(590頁)
F-3 モナド間に働く衝動志向性による時間化!(591頁)

G 母と子の間の衝動志向性。(591頁)
G-2 “自我の発展以前の乳幼児”と、“授乳のさい覚醒化される本能志向性に即応している母親”
との間に、授乳衝動の志向と充実が経過していく。(591頁)
G-3 両モナドにとって、授乳衝動が形成される中で、その衝動が志向され、充実されることで、そのつど衝動充実という時間内容が成立する。(591頁)
G-4 この時間内容の成立が、そのつどの生き生きした現在の立ち留まりを意味する。(591-2頁)
G-5 両モナドにあって、衝動の充実をとおして、生き生きした現在の立ち留まりが生起する。(592頁)
G-6 つまり、生き生きした現在は、両モナドにとって、“モナド間に働く衝動充実をとおして共有され、共体験される「共同現在」”の成立を意味する。(592頁)
G-7 モナドの時間化は、間モナド的時間化として生起することで、間主観性の間時間性として開示される。(592頁)

H 普遍的衝動志向性が、「普遍的目的論の把握に導く」(本書548頁)とされる。(592頁)
H-2 その理由は、モナド論において、“幼児にとっての衝動志向性の充実を前提にする「自我極の生成」ないし「自我中心化」の成立”が問われることで、“人間モナドに限られないモナドの発展の全体像”が問われることになるからである。(592頁)
H-3 「生気のあるモナドや動物的なモナド、先(フォア)動物的なモナドの段階の無限性が見られ、一方では人間まで上昇する段階、また他方では子どもや子ども以前のモナドの段階がある――[この無限性は]個体発生的発展と系統発生的発展の恒常性においてある。」(本書548頁)(592頁)
H-4 モナドの発展の基底に、普遍的衝動志向性を確認することで、モナドの発展の目的論の基礎を確定できる。(592頁)

I 衝動の充実をとおして、両モナド間に共有される「生き生きした現在」こそ客観的時間の生起と源泉である。(592頁)
I-2 この客観性は、間モナド的時間化の生起に起因する。(592頁)
I-3 ここに“間モナド的間主観性のもっとも始原的な超越論的事実性”という超越論的規則性の生起が、確定される。(592-3頁)
I-4 間主観性の受動的基盤が、超越論的に根拠づけられることで、普遍的目的論の基礎構造が示される。(593頁)

J “志向性として規定されるモナド”の発展過程は、モナド論的目的論において、受動的志向性である「連合」の規則性として、また能動的志向性としての述定的判断の能作として表現される。(595頁)

K フッサールの間主観性の現象学は、人間モナドの段階において、受動的間主観性と能動的間主観性の二重構造を明らかにした。(596頁)
K-2 受動的間主観性は「衝動」の目的として、能動的間主観性は「理性」の目的として規定される。かくて間モナド的目的論の全体の発展過程が示された。(596頁)

L フッサールは、現象学をとおして、自然科学について、その新たな基礎づけと、哲学への統合の作業を行った。(596-7頁)
L-2 自然科学は、客観的時間と空間における事物の実在を前提し、その実在する事物間の関係を、数学を使用して解明するという方法論をとる。(596頁)
L-3 哲学としての現象学は、この客観的時間と空間の存在をそのまま前提しない。(596頁)
①現象学は、時間と空間の「意味」そのものの生成と源泉を、発生的現象学の志向分析をとおして、間モナド的な受動的間主観性における本能的コミュニケーションにつきとめる。(596頁)
②そして、それ[=時間と空間の「意味」 ]が、能動的間主観性の領域において、対象知覚、再想起、言語等の能作をとおして数学的客観性のの意味層を獲得していく過程を、現象学は確定する。(596頁)
L-4 現象学による方法論的基礎づけを経た脳神経科学の例:F・ヴァレラ「神経現象学」。

M 能動的間主観性は、受動的間主観性を前提する。

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E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』第3部 時間と他者(ちくま学芸文庫、2015年)

2016-02-11 17:42:37 | Weblog
第3部 時間と他者
一九 想起・想像・準現在化:原典タイトル「直観的な準現在化、想起、想像、像的準現在化についての研究。そこで準現在化される自我についての問いおよび、自我を表象化する可能性を考慮して(1914年あるいは1915年)」(全集第13巻、テキスト10番)(339-385頁)
《評者の感想》
① 準現在化は、本来、虚構的な準現在化である「想像」と、実在的時間と連続する「予期・想起」である。
② フサールは「他者経験」も準現在化の一つとして説明する。

A 他の私に似た物(的身)体について、「私が自分のいる場所を離れて」、「別様にいると虚構する」としても、それは、まだ、「ある別の主観、第2の主観、ある『他者』を私にあい対する者として虚構するということではない。」(340-341頁)
A-2 「いまや問われるのは・・・・・自我と別の自我との分離が可能となるような、そういった想像変様が可能かどうか、ということである。」(342頁) 

B 絵画の画像は視点を含んでいる、つまり「想像世界における一つの立ち位置」を含む。「私は、やはり必然的にそこに居合わせている。」(343-5頁)
B-2 視覚的な現出だけでなく、「触覚的にも、またあらゆる感覚」とともに私は、想像・虚構の世界に、居合わせている。想像上の場所の「すばらしい香りのする花々」、「冷たい泉」に、私は居合わせる。しかも「・・・・意欲する者としてそこに居合わせる。」かくて虚構は私を幸福にする。(348頁)

(1)絵画における理念的風景についての考察(364頁)
C 虚構(=想像)には、現実性の措定が混入するものと、「現実性の措定がない純粋な虚構」(374頁)がある。

D 「私にとって絶対的に与えられる私は、いったいどのようにして、もう一つ別の自我を表象することができる・・・・のだろうか。」(376頁)
D-2 「見られた[私の]手の物(的身)体と原本的に与えられた触覚野とが一つの『経験統一』をもっている。」
D-3 「私たちが、他者の手を・・・・類比的な身体物体性の関連のうちに持つとすると、その手はその触覚野を要求することになり、その触覚野は・・・・そこから出発してさらに、すべてのより広範な物的身体から『心』へと進展する要求に応じるものとなる。」(381頁)

(2)完全に考え抜かれていない論述の推敲(383頁)
E 「たんなる想像主観を私は、私の現実的自我に対して同じ主観と呼ぶことは出来ないが、しかしまたことなる自我と呼ぶこともできない。」(383頁)


二〇 想起・予期・感情移入:原典タイトル「他の自我の認識に比較した、想起と予期において認識が自己を超えること(おそらく1921/1922年)」(全集第14巻、付論32)(386-391頁)
F 「モナド的な、したがって普遍的に捉えられた意識の本質には、以下のことが属している。すなわち意識は・・・・理性による推測的な措定という形式において、他のモナドの意識に関して超越を行使することもできる。」(387頁)

G 「すべての自然のもの、そして自然そのものが本質的に絶対的な存在ではなく、・・・・一つの理念である・・・・。」(388頁)
G-2 「認識する者は・・・・、その人がたんなる自然を経験しているさいには、ある意味で自分自身のもとにとどまっていると言える。」(388-9頁)

H 「他者の身体、他の現実に存在する身体は、感情移入する経験がその意味をとおして指示するような仕方で、他の主観の身体として証示される。」(390頁)
I 「感情移入の現象学が示すことは、『固有の身体性』の現象学という側面によって明瞭にされた、私の身体物体と私の意識生の多様性との志向的な結合が、他の身体の類比化する統覚のさいにも、他なる主観性をともに措定することを理性にそくして要求する、ということなのである。」(391頁)


二一 内在・超越・感情移入:原典タイトル「原本的な(original)領分における内在と超越。間主観的であるような真正で真なる超越はどのようにして可能か(1927年1/2月の講義のために)」(全集第14巻、付論53)(392-399頁)
(1)措定性と中立性
J 「原本的な領分において。身体と外的事物、その触発性と能動性における自我。私の自我が経験し、自我の知覚領分のなかに客観が現れ、それらが自我を触発し、刺激を発して注意をうながし、自我は対向し、気に入ったものが覚起されたりする。」(392頁)
J-2 「価値づけし、意志する自我作用。」(392頁)
J-3 「措定的作用、措定的意識と中立的意識」。「措定性と中立性」(393頁)
J-4 「中立的な準現在化」:想像、夢。(393頁)「想像の領土においては・・・・すべての確信様相が・・・・《まるで~かのように》という仕方において、登場する。」「そこにはその想像知覚などをともなった想像自我、すなわち《まるで~かのように》の自我が存在し、この自我は私の過ぎ去った自我ではなく、私の想像にそくして変様された自我である。」(393頁)
J-5 「措定的な準現在化」:想起や予期。「想起や予期においては、準現在化されたものは、存在するという様相・・・・において与えられている。」(393頁)

(2)原本的な(original)領分における内在と超越との区別(395頁)
K 「自我にとって二重の存在領分が構成されている。[一方では]その体験の領分、・・・・内在的な時間領分、・・・・私の生の流れの時間である。他方、超越的統一が構成されており、超越的世界と、同じように超越するものである人格性としての自我そのものとが、構成されている。」(395頁)
K-2 「超越しているのが、対象である・・・・。」(395頁)
K-3 「超越的な対象とは内在のうちに現出する、措定された対象であり、場合によっては空虚に前もって思念され、のちに知覚に至ることになる・・・・。」(396頁)
K-4 「物体的世界」や「固有の身体と外的実在性」は、「超越的な、たえず知覚はされていても、推測された世界」である。(396頁)
K-5 世界は、「推測的」に「確信」される。ただし「その推測がいつか幻滅させられるだろうということを支持するものは何もない。」(398頁)

L 「私は、世界が存在するということを、推測的に確信し、――ちょうど私が生きているそのままに生きているかぎりで確信している。この第一の確信、すなわち私は存在し、私は生きているという確信は絶対的に抹消できない。」(398頁)

(3)「他の自我および他の原本的な経験」:「第二の超越」=「本来的な超越」=「真の、真正な超越」(398-9頁)
M 「感情移入は、この原本的な領分をも超えていき、他の自我および他の原本的な経験へと至り、したがって固有の自我やその内在、および原本的段階の志向的なものを超越する。」(399頁)
M-2 「この真の、真正な超越はどのようにして可能か。」(399頁)
M-3 「そして私の世界はどのようにして、この世界そのものが、真正の超越的な、主観どうしのあいだの世界となるような新たな意味を受け取るようになるのか。」(399頁)


二二 モナド間の時間の構成:原典タイトル「間モナド的時間の構成。再想起と感情移入(1931年9月20・22日)」(全集第15巻、テキスト20番)(399-423頁)
N 「心と物(的身)体と心理物理的結合のようなものが、複数の心とその心的な生の内実との時間化を初めて可能にしているのではなく、むしろ複数の心そのもののうちに、それ自身からして、心に固有な連関および心に固有な共存形式が根拠づけられている。」(406頁)
O 「私が一つの心を確信していて、その固有本質へと(それ自身を与える直観のうちで)沈潜していくとき、・・・・その心は、なるほどそれ自体でそれだけであるのだが、にもかかわらず、心自身に基づき、心から展開さるべき複数性のうちでのみ意味を持つのだということ・・・・をいかにして見て取ることができるか・・・・が問われねばならない。」(407頁)

P 「私たちが心を、必然的に複数の心、つまり可能的および現実的な複数の心のうちの『一つの』心として見出すようにしているものは、何であろうか。」(408-9頁)
P-2 「その答えは明らかに以下のようでなければならない。・・・・複数の心はただそれだけであるのではなく、互いにかかわるのである。」(409頁)
P-3 「かかわりの原様態は感情移入である。」(410頁)
P-4 「この自我が、別の自我として私にすでにかかわることになるのは、私が別の自我とのあらゆるつきあいに先立って、おのずからこの別の自我の生を・・・・経験しているばかりでなく、ともに生き、ともに知覚し、ともに信じ、ともに判断し――同意し、拒否し、疑い、ともに喜び、ともに恐れたりしている、ということによってなのである。これら《ともに》のあらゆる様態は、原共同化の様態なのであって、ここにおいて、私は私の(原初的、原-原本的)生のうちで生きながらも、同時に私にとって感情移入的な仕方でともに現に存在している他の生とともに生きているのであり、そうして一つの生の統一が確立され、感情移入という媒介をつらぬいて、もろもろの自我極の《我と汝の一体性》が確立されるのである。」(410頁)
P-5 「こうして、感情移入の顕在的遂行のなかで、私の原様態的な流れる現在、私の原様態的な《我あり》・・・・は、他者の原様態的現在と、ただし私にとっては原様態的ではなく共現前(※間接呈示)された現在と『合致』する。ここから出発して、合致は双方の地平をとらえる。」(411頁)
P-6 「こうして、高次の超モナド的ないし間モナド的時間の、時間的な《同時》が構成されることになる。」(411頁)

再想起と感情移入
Q 「私の原様態的現在と、私のそのつどの再想起の現在との合致という、やはり同様の場合を考慮に入れると、人は考え込んでしまうかもしれない。私の生き生きした原様態的現在には、いま登場しては流れ去っていく《私が想起すること》も属している(それは、いまとして登場しては流れ去っていく準現在化すること、『感情移入』という種類も含めたあらゆる種類の準現在化することが、そのつどそこに属するのと同様である)。」(412頁)


二三 複数のモナドの相互内属:原典タイトル「還元ののち、モナド論に至るまでの体系的な記述の歩み(1931年10月)」(全集第15巻テキスト21番)(424-443頁) 
〈内容要旨〉
(1) 私の超越論的-主観的な与えられ方――私の超越論的時間性――における世界現象。
(2) 最初の超越論的確定――《我あり》、《我ありき》、《我あらん》。
(3) この超越論的時間性の内実――「世界」の「現出」、立ちとどまる自我、とどまる現在。
(4) 現在の準現在化――再想起、感情移入。
(5) 他者の準現在化、他なる超越論的時間性の準現在化、等々。

●準現在化:他の人間を経験する『感情移入』
A 準現在化としての他者の知覚。想起でも予期でもない種類の準現在化。(427頁)
A-2 「私の超越論的時間性のうちで・・・・準現在化するような体験においては、他の人間を経験する『感情移入』体験も見いだす。」(427頁)
A-3 「この準現在化のうちでは、現在化されたものと準現在化されたものとが私の時間領分ではなく、他の時間領分に登場する。」(427-8頁)

●「形而上学的」原事実としての絶対的なるものの相互内属
B 「超越論的他者が、私に固有の〈超越論的主観性〉とともに存在するものとして超越論的に内含されている。」(429頁)
B-2 「別の超越論的自我も、私のうちに存している。
つまりそれは“予料され確証された存在確信であるという妥当の統一”として、しかも“それ自身自我であり、別の自我として私自身をさらにまたみずからのうちに担っているような《非-我》”として、私のうちで存している・・・・。
このような、志向的相互内属として互いに対してあることの内在性は、『形而上学的』原事実であり、それは絶対的なるものの相互内属である。」(431-2頁)
B-3 「それぞれの自我は、他者を、自分から区別された自我として、別の能力と志向性をもった別の自我として見いだすのであるが、志向的に自らのうちに見いだす。」(432頁)

《参考》①「世界が・・・・現出する」(425頁);「超越論的『現出』」(425頁);「当時私に妥当現出していた世界」(426頁)
《参考》②「能動性の沈殿(獲得された習慣)として証示される受動性」(434頁)

●複数の超越論的主観の宇宙、すなわち複数のモナドの相互内属
C 「私の超越論的主観性のうちに・・・・現象としての世界が含まれているが、私のうちには、超越論的に私にとって存在する他者の宇宙もまた、含まれている。・・・・」(434頁)
C-2 「他者のうちには、またしても同一の世界が現象として含まれており、私も含めて、複数の超越論的主観の宇宙が含まれている。」(434頁)
C-3 「私たちはひとつの絶対的な“ともにある存在”なのであり、私たちは共存しており、それも相互内属において共存しているのである。」(434頁)
C-4 「複数のモナドの相互内属」!(436頁)

●超越論的な共存
D 「[①]何であれおよそ存在するものは、私にとって、私からして存在するのである。別のものは考えられないのである。
[②]そして別の自我が存在するならば、それは私からして私のうちで構成された妥当統一であるが、しかしやはり別の自我なのであって、そのようなもの[=別の自我]として、それにとってあらゆるものが“それから、そしてそれによって”存在しており、私自身もまた“そのように[=それから、そしてそれによって]”存在しているような、そうした自我である。」(438頁)
D-2 「[③]このことは、『形而上学的』には、つまり絶対的なものにとって何を意味するのだろうか。
[④]超越論的自我としての私は、絶対的であり、私の絶対的存在なのであって、そこには“私があるのは、私が私にとって存在し、[また私が]超越論的《共-我》の宇宙の構成のうちに理解されて含まれていることによってである”ということが含まれている。
[⑤]私は、そのように私にとって存在する他者なしには、私が今あるように存在しえないし、この他者も私なしにはそのように存在しえない。」(439頁)
D-3 「超越論的な共存」!(439頁)

●存在とは認識可能性のことである
E 「[①]認識されえないものは存在することもできない。存在とは認識可能性のことである。
[②]そして他者なしに認識されえないものは、他者なしには存在しえない。
[③]必然的に存在するとして認識されるもの、しかも私すなわち認識者にとって超越的なものとして認識されるものは、たんなる『認識の産物』ではなく、自体的に現実的である。
[④]『無条件的かつ明証的に妥当するものとして私のうちでアプリオリに認識されるものが、あらゆる存在者にとって現実に妥当するということを、私はいかにして知りうるのだろうか』、等々[と問われる]。[これは]認識の見せかけの謎[にすぎない]。」(440頁)
E-2 「『それ自体で、それだけで』ある存在は、・・・・超越論的間主観性にとって、絶対的な全主観性である存在としてある。」(441頁)

●「事実性」としての超越論的間主観性
F 「いかなる絶対的なものも普遍的共存から身を引くことはできない。」(441頁)
F-2 「私が独我(ソルス・イプセ)でないというだけでなく、およそ考えられうるいかなる絶対的なものも独我(ソルス・イプセ)でない。」(441頁)
F-3 「自然もまた絶対的にそれ自体だけで存在するものとしては考えられない・・・・。自然が自然として考えられうるのは、人間的周囲世界において、人間たちの身体とともに、超越論的間主観性の超越論的構成体としてのみである。」(441頁)
F-4 「事実性」としての超越論的間主観性。(441頁)


二四 再想起と感情移入の並行性:原典タイトル「感情移入について:すでに感情移入の合致により、他者は、世界客観であることと共同主観であることが一つになっている。再想起と感情移入の並行性。再想起からして我(エゴ)に疑いの余地がないこと。他者(アルター)ないし共同主観の宇宙に疑いがないことの持つ問題(1932年1月27・29日)」(全集第15巻テキスト28番)(443-461頁)
(1)共同主観の存在
G 「私が、“自分の原初性において感情移入し、他者を経験する自我”であるとき、他者の身体物体は、私の原初性のうちで経験されたものであるが、とはいえ、“その人の原初性における他者”に関して共現前(※間接呈示)するものとして経験されたものである。」(445頁)
G-2 「ここで私が・・・・他者のうちへと経験しつつ(「感情移入しつつ」)入り込むことにおいて・・・・私は、一貫した共現前(Appräsentation)[※間接呈示]をとおして、その他者と合致している・・・・。」(445頁)
G-3 「その人[他者]は、たんに空間時間的な世界における客観ではない。・・・・その人は私の共同主観なのである。そして・・・・私も、その人にとって、その人に劣らず共同主観として存在する。」(446頁)
H 「《他なる者を-経験しつつ-自分のものにすること》としての共現前(Appräsentation)[※間接呈示]」!(447頁)

(2)再想起と合致、私自身へのないし私自身との分有
I 再想起と感情移入の「並行関係」!(448頁)
I-2 「共現前(Appräsentation)[※間接呈示]は、準現在化である。」「準現在化のある別の根源的なあり方」が「再想起」である。(448頁)
I-3 「私は、“再想起された知覚する私の自我”と合致している。」(449頁)
I-4 「私は、明らかに、再想起によってのみ、私であったことを根本的に知ることができる・・・・。」(450頁)

(3)再想起による〈この〉エゴの同一的存在の必当然性と、感情移入する準現在化による他者存在の必当然性の問い
J 「再想起による自己自身との合致(自己自身との共同体としてのもっとも根源的な自我-共同体)」と、「感情移入による、すなわち共現前 [※間接呈示]化による他者との合致(通常の意味での一人の他者と、そして多くの他者とのすべての共同体の基盤としてのもっとも根源的な他者との合致)」とのあいだには、必当然性に関して、本質的な違いがある。(452頁)
J-2 「他者との合致は、再想起する合致に対立して、他者性における第一の合致(共同体)である。」(452頁)


二五 感情移入と想起における自己構成:原典タイトル「感情移入と想起(1932年11月から12月)」(全集第15巻付論32)(461-470頁)
K 「感情移入の遂行・・・・において、私のうちで、ある動機が生じる。その動機において、私は――正確に表現するのは難しいのだが――いわば想起する。しかし・・・・普通の意味で想起する、つまり『自分のこと』を想起するのではない。そうではなく、他者の、『その人の』経験や感情や意志したことをしたことを『想起する』・・・・のである。」(461頁)


二六 自我と世界の虚構的変更:原典タイトル「自我と世界を虚構において変更することについて。可能性に対する現実性の優位。自己共同化と自己保存における自我(1933年4月17日)」(全集第15巻付論33)(470-473頁)
L 「私のこの世界に関しては、現実性があらゆる可能性に先行する。このことは、あらゆる可能な世界に転用されるのである。・・・・しかし、すべては最終的に、私の事実性、私の世界事実性にかかっているのだ。」(472頁)
《評者の感想》A. シュッツの至高現実(paramount reality)を思い起こさせる。 
M 「自己反復のうちにある自我、自分自身との共同体のうちにある自我。想起の様相と――原初的な――統覚の様相。すなわち原初的な顕在的伝統。」(472頁)                                               


二七 想起と感情移入からモナドの複数性へ:原典タイトル「絶対的に唯一的な始原的自我が、自己自身を時間客観化する準現在化(モナド化)としての想起と感情移入。モナド的時間空間性と自然的-世界的時間空間性(1932年または1933年)」(全集第15巻付論41)(474-478頁)
N 「準現在化『そのもの』としての想起と、それに関係づけられてはいるが、感情移入する準現在化とが区別される。」(474頁) 
N-2 「感情移入において、他なる(フレムト)ものの共現在が構成され・・・・ているのだが、この他なるものは、感情移入的に自己自身を呈示するものとしてのみ、存在意味をもつ(この点で想起によるものと類比的である)。この他なるものとは・・・・他なる自我である。」(474頁) 
N-3 「このエゴの生は・・・・想起と感情移入を・・・・自己自身を時間客観化する準現在化としてもっている。この準現在化のうちで、エゴは、時間客観化されて(妥当統一体として)見いだされるのだが、それは“みずからの過去と未来を持つ自我”としてであり、しかも同時に、“他なる自我(いわば感情移入の中で自己自身を他なるものとしている自我)の共存の領野(一つの『空間』)をもつ自我”としてである。」(475-476頁)

O 「“このように自己を時間客観化すること”をとおして、すなわち“エゴがモナドの数多性へと、しかもモナドの時間空間性における無際限に開かれた全体性へと自己を解釈することとしてのモナド化”をとおして、エゴはまず初めに自然性の世界を構成する。」(476頁)

P 「“時間化されたエゴ”と言ったが、それは“原初的に時間化されたということ”、“共存(モナド的空間)において時間化されたということ”であり、この共存において、私は全モナドのなかでのモナドであり、この全モナドのうちには、“どのモナドもすべてのモナドを志向的に含蓄しており、まったき全体を含蓄している”。」(477頁)

P-2 「それにもかかわらず、忘れてはならないのは、これらすべて、[①]私の自己に固有な(原初的)時間性と、 [②]どの時間位置にも属している私のモナド的共存、さらに、 [③] モナドの空間時間性と、[④]私やそれぞれのモナドにとって方位づけられて呈示される『世界』そのもの、といったこれらのすべてが、私のうちに、すなわち“始原的エゴ”としての“還元の具体的エゴ”のうちに含蓄されている、ということである。このエゴは絶対的意味において唯一のエゴであり、いかなる有意味な複数化をも許容せず、もっと鋭く表現すれば、それを無意味として排除している。」(477-478頁)

《参考》「内世界化」され「心をもった主観」は、「いずれの主観も、それぞれの身体へと確固たる仕方で関係づけられ、それぞれの身体と分かちがたく一体になっている。」(476頁)


二八 モナドの時間化と世界時間:原典タイトル「モナドの時間化と世界時間化。感情移入の理論からモナド的主観性へ、そしてそこから、身体性、自然、世界へ。そしてもちろん、モナド論へ(1934年1月中旬)」(全集第15巻テキスト36番)(478-491頁)
●感情移入とは、“『他の』原初性”の準現在化的変様である
A 「能作としての感情移入の成果は、“『他の』原初性”、すなわち“他なる原初性としての基づける原初性領分”の準現在化的変様である。」(479頁)
A-2 「『自己疎外』は、感情移入の能作と名付けられうる。」(479頁)

●原初的な自我の自己疎外としての“他なる自我”
B 「原初的な自我とその原初的な領分・・・・との自己疎外において、したがって共存する数多性への自己多様化の本質のうちに・・・・あるのは・・・・、この疎外があらゆる他の自我において反復されることである・・・・。」(480頁)
B-2 「あらゆる他なる自我は・・・・その身体によって・・・・私(原様相的な自我)の側からして、まさに他者として経験可能になった。」(480頁)

●私は、“私にとって存在する他者”の他者である
C 「私は、他者たちにとっての原様相であるだけでなく、私にとって、“私にとって存在する他者”の他者でもある。」(480頁)

●“他なる原初性”と異なる“原初的な自我”という場合の「原初性」&『感情移入』の削除(=現象学的還元による抽象化)としての原初性
D 「根源的な方法論的な意味において、原初性が意味するのは、抽象化であり、私、すなわち、還元の態度をとるエゴが、私が抽象的にすべての『感情移入』を削除することで、現象学しつつこの抽象化を遂行するのだ。」⇒「原初性」についての論述の2義性」(481頁)
《評者の感想》①“他なる原初性”と異なる“原初的な自我”という場合の「原初性」概念と、②現象学的還元による抽象化という意味での「原初性」概念。

●モナド化の自己疎外としての“他なる自我”&モナド的な宇宙の構成
E 「“流れる恒常性のうちで世界を構成し、構成してきたエゴ”としての絶対的なエゴにおいて、この普遍的に構成するの能作の基底部として、モナド化の自己疎外がある。それとともに、同じ立場に立ち、本質的に同じであるモナドのモナド的な宇宙の構成[がそこにある]。」(482頁)

●モナド的な共存の綜合:“一つの時間”と“唯一の自然”
F 「モナドを、“モナド的な時間性におけるモナド的な宇宙”へと共同化することにおいて、私たちはある新たな総合をもつことになる。それはまさしく、“数多性の統一、すなわち共存の統一”を、“一つの時間を時間化しつつ”創設する綜合である・・・・。」(483頁)
F-2 「モナド的な共存の綜合は、さらにまた、同時に、“すべてにとって――すべてのモナド的な自我主観にとって”、すべてに共通の自然(と世界)を構成するような綜合である。」(483頁)
F-3 「あらゆる〈モナド〉は、原初的な自然を別々に構成しつつあるが、全モナドを創設する綜合において、同一化する綜合[が働き]、唯一の自然を構成しつつある。」(484頁)

●“唯一の自然”の構成における身体の優位性
G 「この構成された自然において身体は、“その構成的な根源、ないしその構成的機能”をとおして、ある優位をもつ。・・・・(まずもって原初的に)身体は、自我主観の支配の場として、モナド的に、すなわちモナド的な自我の支配の場としてある。」(484-5頁)
G-2 「モナド化する構成としての感情移入の本質には、次のことがある。私の原初的な『他者の身体』と、“その人にとって原初的に固有なその人の身体”が、総合的に同一化されていることであり、そしてそのことからして、私の『外的な』自然の客観と、その人(他者)の自然の客観とが[総合的に同一化している]。」(486頁)
G-3 「あらゆる間主観的身体に、唯一のものとして各自の支配する自我主観が属している・・・・。こうして、間主観的自然のその普遍的な同一形式のうちに、時間空間性が心として位置に応じて局在化される。」(486頁)
《評者の感想》
① ここでは心は、“身体の位置に応じて局在化された間主観的自然”そのものである。心は、まさしく。「ここ」(もちろん各人にとって異なる「ここ」)にある。
② 感情、意欲、価値判断、欲望、意図、想像などの意味での心は、いまだ間主観的でない。

G-4 「自然は身体なしに、つまり人間なしには思考不可能である。」(488頁)
《評者の感想》:ここの「自然」は、間主観的自然をさす。
G-5 「モナド化、すなわちモナド的構成は、本質にそくして、あらゆるモナドの自然化を含意し、空間時間性におけるそれらのモナドの時間客観化を含蓄するように存在する。」(488頁)


二九 感情移入と中心化の変様:原典タイトル「三次的原本性と二次的原本性としての感情移入と再想起。差異における合致。私の中心化の変様(1934年1月)」(全集第15巻付論50)(491-8頁)
H 「他者の周囲世界は、様々な現出の仕方において、私の周囲世界と総合的に合致しつつ表示されている。」(492頁)
●想起
I 「感情移入する準現在化は、私固有の生の過去を想起するのに似ている。」」(492頁)
I-2 想起では、「過去の生の現在を、現在において想起(準現在化)する。」(492頁)
《評者の感想》:感情移入では、“他者の生の現在を、現在において感情移入(準現在化)する”。
I-3 想起では、「自我と過去の自我は、同一の自我として合致し、この同一の自我において、そもそも『現実の』現在と準現在化された現在とが差異のうちで合致している。」(492頁)

●感情移入
J「感情移入に関してもまったく同様である。他者は私の具体的な現在のうちで・・・・準現在化されている。」(493頁)
J-2 感情移入とは、「“原本的な現在”と“感情移入にそくして準現在化された現在”の綜合であり、すなわち差異における合致である。分析的に述べれば、まるで“私がここからそこに身体を移動した”かのようであり、“そこで私の可能性において身体的に支配する”かのようである。」(493頁)
J-3 「表示され準現在化された自我、すなわち《かのように》存在する自我は、別の自我である。」(494頁)
J-4 感情移入によって「私たちは第2の原初性をもつのだが、それは、他の身体に方位づけられたものとしての原初性である。」(496頁)

●身体
K 「私の身体は、初めから、もろもろの物(的身)体のもとにある物(的身)体として構成されているのではなく、それそのものとして、それ以前に、“外的な物(的身)体”と、“内的物(的身)体としての自分固有の物(的身)体”が構成されている。」(496-7頁)
K-2 “内的物(的身)体”とは「器官のシステム」あるいは「器官の統一であり、あらゆる器官はキネステーゼ的に・・・・運動する。」(497頁)


三〇 時間化とモナド:原典タイトル「時間化-モナド(1934年9月21/22日)」(全集第15巻テキスト38番)(498-507頁)
〈内容〉
(1) 絶対的なもの――エゴの本源的に立ちとどまる「現在」――
モナド的な時間性における全モナド、モナド的な時間の様相、その様相における原様相である現在――、
内的に統一した全モナドの本源的に立ちとどまる「現在」、
この全モナドにおいてすべての時間が構成され、すべての世界がモナド的に、また世界的に構成されている。
(2) 「事実」としての絶対的構造における絶対的なもの。
(3) 事実について語り、事実性について語ることの不合理さ。
(4) 問題としての絶対的なものにおける無限性。

●人間世界は、すべての別の星々とその動物世界を地平として含蓄する
A 「あらゆる人間世界は、動物世界、すなわちあらゆる種の動物世界を含蓄している。」(500頁)
A-2 「あらゆる星がその動物世界をもつと仮定するとき、そのあらゆる星の地平には、すべての別の星々とその動物世界が現れてくる――地平において、それらの地平が『沈黙』してはいても。しかしそれぞれの大地[地球]のみが、星という第一の固有な意味で別の星々を含蓄しており、しかも再度、他の大地も含み、この大地をとおして、すべての別の大地をも含んでいる。」(501頁)

●いかなる時間様相でもない原現在
B 「一つの立ちとどまる本源的な生動性(いかなる時間様相でもない原現在)がモナド全体の生動性としても語られうるのだ。絶対的なものそのものは、この普遍的で本源的な現在であり、この現在のうちにあらゆる意味におけるすべての時間と世界が『横たわっている』」。(503頁)

●動物の大地と下等動物の大地
C 「モナド全体の[発展]――人間存在全体、私たちの大地の、すべての大地が一つになった[発展]――とはいえ、これに加えて動物の大地と下等動物の大地の[発展がある]。」(503-4頁)

●絶対的な自己時間化の一性
D 「すべては一つである――“一性における絶対的なもの”。すなわち“絶対的な自己時間化の一性、すなわち絶対的に流れること”において、[つまり]“『流れつつ生き生きとした』本源的な現在、その一性における絶対的なものの現在”において、みずからの時間様相のうちで自己時間化しつつある絶対的なもの。何らかのものすべてを自己自身のうちで時間化し、時間化してきたものである全一性。」(504頁)

●『統治者的』モナド
E 「『人間の』時間化のうちで、高次の秩序の理性モナドの発展(=人間のモナドの全体)として、個々の理性の担い手と『指導者』の発展としての発展――『統治者的』モナドとモナドのシステム――学者、哲学者――現象学の共同体。最終的には、残りの文化や、その文化に相関するもの(芸術-芸術家)においてもまた、私たちは先導をもっているが、哲学の先導が先行している。」(505頁)

●絶対的なものとしての《立ちどまりつつ-流れる今》における絶対的な時間化
F 「時間と世界は、絶対的なものにおいて時間化されており、この絶対的なものは《立ちどまりつつ-流れる今》である。」(506頁)
F-2 「絶対的なものとは、まさしく絶対的な時間化にほかならず、すでに、《私の立ちとどまりつつ-流れる本源性》として私が直接に見いだしている絶対的なものとしてそれを解明することが、時間化であり、この絶対的なものを原存在するものへと[もたらすことである]。」(506頁)
F-3 「絶対的モナド全体、あるいは全モナド的本源性が時間化からしてのみ[生じるのである]。」(506-7頁)
F-4 「全モナド的存在は、《地平をもっていること》における存在であり、そしてここには、無限性――無限の潜在性が属しているのである。無限に流れること、流れることの無限性を含蓄しつつ、無限性、潜在性の反復[が、ここにある]。」(507頁)

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『男おひとりさま道』上野千鶴子(1948生れ)、文春文庫、2009年

2016-02-05 17:59:06 | Weblog
はじめに
A 女おひとりさま341万人。男おひとりさま139万人。(2010年)
A-2 男性は「ご不自由でしょう」と言われる。下半身のご不自由。
A-3 男おひとりさまに、生きる道はあるか?イエス!

第1章 男がひとりになるとき
B 増えている男おひとりさま:死別シングルアゲイン、離婚シングルアゲイン、非婚ずーっとシングル。
C 男性も85歳を超えると3人に一人はシングル:死別シングルが大多数。
D 家裁への離婚の申立人の7割は女性。
D-2 1966年に、離婚における親権帰属が、夫方親権から妻方親権が多数となり、逆転。
D-3 日本は共同親権がない。
E 40代前半から非婚シングル激増。40-44歳の非婚率は、男28.6%。女17.4%(2010年)
E-2 この世代の非婚シングルの男6割、女7割は、親にパラサイト。

F 死別シングルの老後、その例:男性82歳、3年前に妻と死別。ガラーンとした持ち家。子どもたち3人は、父親を入れる老人ホームの検討を始める。年金は、そこそこある。
F-2離別シングルの例:男性64歳。44歳の時離婚。二人の娘は妻へ。その後、妻、再婚。58歳で早期退職。結婚する気はない。
F-3 非婚シングルの例:男性54歳。40歳の時、地元の両親のもとにもどる。父親はすでに亡くなる。

G 増えている男性の家族介護者:①夫婦の間で看護・介護を引き受ける。②在宅家族介護者の3分の1は男性(夫または息子)。
G-2 夫に介護される妻は、幸せか?①定年後の夫は張り切る!介護者主導型介護。②妻への支配が強まる。
G-3 男おひとりさまに交際相手がいる割合:60代6割、70代5割。
G-4 妻の介護とは別に、夫は「終身セックス契約」から解放されてよい。

H 息子による介護:例えば、非婚シングルが母親を介護する等々。
H-2 高齢者虐待の加害者のトップは、実の息子。息子は、親の年金パラサイトなので、親を施設には入れない。

I 母(妻)と死別して10年間、ひきこもりと孤独だった上野氏の父。高齢期ひここもりor老年うつ病。
I-2 妻を「便利な他者」と考えて、取り換え可能と考える夫(男性)も多い。
I-3 死別シングル男性と再婚する女性は、まずいない。①「セックス付き家政婦」には、ならない。②死別の女おひとりさまが再婚すると、遺族年金受給権を失う。③再婚したら再び介護要員となる。④事実婚がよい。死別シングル女性は、ボーイフレンドが欲しいとは思う。⑤アラフォーから下の非婚シングル女性は、「条件」が高く結婚しなかったので、「条件」を落とすことはない。

J 現在、30代後半男性は4人に一人、30代前半・20代後半男性は3人に1人が、生涯非婚との人口学的シュミレーション。
J-2 「非モテ」系に徹せよ!女をひとり「所有する(モノにする)」などと、考えるべきでない。
J-3 素人の女性とセックスより、プロのサービスのほうがよいと思う者も多い。ヴァーチャルな女性に萌えるのもよい。
J-4 「結婚していなければ、男は一人前でない」との男たちの呪縛。


第2章 下り坂を降りるスキル
A 人生のピークは、女は30代(出産・育児に夢中)、男は50代(職場で地位・収入最高)。
A-2 下り坂のスキルが必要。昨日できたことが、今日できなくなる

B ベビーブーム世代は、青春時代が高度成長期で、「時間が経つと今より良くなる」と楽観的。30年後、不況とデフレスパイラルの若い世代(団塊ジュニア世代)は、「時間が経てば今より事態が悪くなる」と思う。

C 80歳超生きるのは、女性の4分の3、男性の2分の1。
C-2 女性は親業の定年が早い。女は余生が長く、下り坂のスキルに長じている。
《評者の感想》親業の定年について、上野氏は「末の子の義務教育が終わった時」と言うが、「末の子の就職が決まった時」ではないか?

D PPK(ぴんぴんころり)は、老いを拒否する(or恐れる)思想である。
D-2 サクセスフル・エイジング(成功加齢):死の直前まで中年期を引き延ばすこと。
D-3 「歳の取り方まで、人から“成功とか失敗とか”言われたくない」と上野氏。

E 下り坂のスキル(1)「弱さの情報公開」:カラダは壊れるし、ココロも壊れる。「助けてくれ」と言うこと。
E-2 男には、「弱さを認められない弱さ」がある。
E-3 病気になったものは「自己管理が悪い」と非難。認知症で生きる価値がない者は「処分」したらよい。
E-4 老いは、誰にも、やって来る。

F 下り坂のスキル(2)「定年後にソフトランディングする」:Cf. 商工業者、女性に定年はない。
F-2 河村幹夫さん(1935生れ):人生には「雇用定年」(会社が決める)、「仕事定年」(自分が決める)、「人生定年」がある。Cf. エリートサラリーマンの上りは、大学教師。

G 下り坂のスキル(3):高齢者ベンチャーのススメ。起業せよ。
H 下り坂のスキル(4):定年は夫婦の危機である。男のADL(Activities of daily living)の自立が不可欠。
H-2 「濡れ落ち葉」、「かまって族」、「ワシも族」にならない。「夫婦定年」の問題。(Cf. 「夫婦定年」+「親業定年」=「家族定年」)

I 下り坂のスキル(5):「社縁」以外の人間関係が豊かなこと。ただし助走期間(50歳代、40歳代に開始)が必要。例①釣りキチの釣り仲間。例②少年野球チームの監督:少年たちと若い母親たち。
I-2 会社の出世競争とは無縁な者に見られる?

J 下り坂のスキル(6):職場や家庭でない第3の居場所作り。
J-2 居場所づくりは、女に学べ。血縁、地縁、社縁でない「女縁」!
J-3 男は同性の男から「おぬしできるな」と言ってほしい生きもの。男はパワーゲームが好きなので、「女縁」のような友情は、育たないかもしれない。「男の友情」はあてにならない

K 下り坂のスキル(7):「おひとり力」。
K-2 下り坂のスキル(7)-2:自然は最良の友。
K-3 下り坂のスキル(7)-3:「居場所」(=「ひとりでいてもさみしくない場所」)をつくる。
K-4 山頭火はお大師様と「同行二人」(ドウギョウニニン)。
K-5 ソロー『森の生活』。鴨長明『方丈記』。松津武四郎の寄せ木細工の寓居(ICU)。


第3章 よい介護はカネで買えるか
A 夫婦の「老老介護」:①介護は「体重との闘い」!②妻が少しでも離れると、不機嫌になる夫。③妻の「分」を果たし親族から後ろ指をさされたくない。④過去の妻の恨みつらみが老後の仕返しになる。Ex. 若い頃、夜泣きする子に関し「うるさい黙らせろ」と夫が妻に言う。
A-2 ワンマンな父親・夫の介護は、めんどうで、娘も妻も大変。
A-3 娘は、「男おひとりさま」の父親を介護しない。まして嫁は介護しない。施設に入るように言う。

B 介護の理想は、個室ケア。
B-2 理学療法士・三好春樹氏は、全室個室のユニットケアに反対。(151頁)

C 年寄りは、家にいないでほしい。⇒デイサービス、ショートステイへのニーズが多い。
C-2 本来は、いくつになっても、要介護になっても、普通の市民生活が送れるのが理想。
C-3 高齢者施設は、監獄や収容所に近い。人の集団性・画一性・効率性、空間の孤立性・自己完結性、時間の計画性・統制性・非限定性、これらが高いほど、施設度が高い。(岡本和彦)

D 施設よりも、自宅をバリアフリーに改装する方が望ましい。


第4章 ひとりで暮らせるか
A 自立は、①経済的自立、②精神的自立(妻や母親に依存しないこと)、③生活的自立(家事や暮らしの能力があること)、④身体的自立(カラダが思うように動くこと)が必要。
A-2 団塊世代は、旧世代の夫族と異なる。
A-3 団塊ジュニア世代になると、女性にもてるための条件のひとつに、「料理がうまい」という項目が入ってきた。

B 非婚シングルのパラサイト率(母親が“主婦”!):男性20代82%、30代79%。女性20代88%、30代65%。これがこのまま、持ち上がる可能性もある。
B-2 清潔なシーツ、毛くずの落ちていない洗面台は、男おひとりさまのたしなみ。いつでも彼女が呼べる。

C 「食べることと、出すこと」ができれば、ひとり暮らしができる。①配食サービスもある。②コンビニ弁当もある。スーパーにもいろいろ置いてある。一人暮らしの都市インフラが整備された。③コンビニの配達もある。④生協の食の宅配。
C-2 家族でも「個食」化している。各人が別々のものを食べる。

D 「カネ持ち」のほかに、「人持ち」・「友持ち」が重要。
D-2 60代の「非婚男おひとりさま」は、もう結婚しない方がいい。①いまから巣作りは無理。②彼女を、換えられるようにしておいた方がいい。
D-3 一人の親友より、10人の「ユル友」がよい。内面の共有はいらない。機嫌よくいられればいい。目的別に友人を持つ。ユル友ネットワークが大切。
D-4 ただし友人づくりは、家族づくりよりムズカシイ。
D-5 友人を知人に降格したり、知人を友人に昇格させたり、自分で調整する。

E 選択縁:志、教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴、経済水準が共通しているグループから、友人を作る。
E-2 選択縁の人間関係のお作法:①自分と相手の前歴は言わない。引退すればみな同じ。だれかれの前歴も言わない。②子の自慢など、家族のことは言わない、また相手の家族のことは聞かない。③学歴は言わない、聞かない。④おカネの貸し借りはしない。“純粋異性交遊”でワリカン。⑤相手は、名前で呼ぶ。「役職名」で呼ばない。⑥「男がリーダー、女がフォロワー」という固定観念は捨てる。⑦特技や能力はひけらかさない。
E-3 選択縁=女縁は、要するに、鎧を脱いだおつきあい。

F 高齢者男おひとりさまは、ありあまる時間をどうつぶすか?
F-2 趣味にはコミュニティがあり、特に男の場合、パワーゲームがある。
F-3 遊びのスキルor文化資本は一朝一夕では身につかない。投資もいるし、若い頃から趣味にしていないと無理。老後に突然は難しい。
F-4 大企業定年退職者の地域デビューは不可能。学歴も文化も違う、異人種同士。
F-5 「学問は、自分がすっきりしたいだけの、死ぬまでの極道」と上野氏。学問は、ヒマつぶしメニューとしては、よくできている。人生は壮大なヒマつぶし。

G ススムさん73歳、「男おひとりさま10か条」:58歳で妻と死別。
①トイレを汚さないため、いつも腰かけ、立小便はしない。②料理をきちんと学ぶ。③たまにお弁当を作って出かける。時には女友達を誘う。④いつもきちんとした服装でいる。⑤買い物かごを持参。⑥見知らぬ人と話す(相席など)。それ以上発展しないのが無責任でうれしい。⑦会合・グループで、仕切らない。⑧無香料の化粧水を顔から首筋までつける。⑨姿見を買い、自分の外見を確認。⑩花があると家の中が華やかになる。

H 「男女を問わず、おひとりさまには声をかけやすい」。これは、おひとりさまにとって、利点。
H-2 海外一人旅は、「助けてもらう自分」を経験するのに、良い訓練。

I 上野氏「男おひとりさま道10か条」
①「衣食住の自立は基本のキ」:食事、睡眠、規則正しい生活、清潔。
②「体調管理は自分の責任」。
③「酒、ギャンブル、薬物などにはまらない」:周囲を巻き添えにしたらとんでもない。
④「過去の栄光を誇らない」:自慢しいは嫌われる。
⑤「人の話をよく聞く」:居場所を見つけたければ人の話を聞く。相手のことを聞いてあげる・・・・これだけで30分はもつ。ただし本気で相手に関心を示す。
⑥「つきあいは利害損得を離れる」:利用せず、利用されず。
⑦「女性の友人には下心をもたない」:髪型でも料理でも女性を褒めるのは大事。女性を一人ゲットするとほかの女性は去る。男女を問わず多様な友達がいい。
⑧「世代の違う友人を求める」:グチとくりかえしが多い年寄りの話はダメ。教える、導く、説教するはタブー。⑨「資産と収入の管理は確実に」:家計管理権を妻に委ねる夫は日本特有。少ない給料のやりくりの責任を妻に押しつける責任回避。寝たきりなって、他人様のお世話になれる金額を確保。葬式と墓の費用は残す。
⑩「まさかのときのセーフティネットを用意する」:入院キット、連絡網、貴重品のしまい場所、緊急時の連絡先リスト、既往症・アレルギー一覧。1日に1回か数日に一度、顔を合わせたり連絡する人間関係をつくる(隣人、お店の人、デイサービス職員、ヘルパーさんなど)。死んだとき、発見が遅れると困る。
I-2 以上、女の立場から上野氏が「男おひとりさまのここがイヤ」、「あそこがダメ」からの提言。


第5章 ひとりで死ねるか:高齢おひとりさまの「在宅ひとり死」が可能になってほしい
A 施設での死でなく、「在宅ひとり死」の可能性。「孤独死」ではない。
A-2 「在宅ひとり死」が可能となる条件は、①24時間対応の巡回訪問「介護」、②24時間対応の訪問「看護」、③24時間対応の終末期「医療」。

B 在宅ターミナルケアのお医者様は、人柄のいい人が多い。
C 人生を楽しむのに障害の有無は関係ないと、障害のある人たちが教えてくれた。
D がんの余命宣告を受けた時:①生活費の心配が減る。②好きなことに金が使える。

E 訪問介護ステーション、看護ステーションを組み合わせた在宅ターミナルケア。24時間対応医療OKでも、患者に安心感があると、月に2回程度しか夜中の電話はない。(「ケアタウン小平」山崎章郎(フミオ)医師)
E-2 24時間対応医療のためには、①複数の医師によるリスク分担、②医師の出番を減らす訪問看護のサポートが必要。Ex. 大阪府泉南の生協「オレンジコープ」
E-3 在宅医療に、歯科が重要。Cf. 施設が、入れ歯を外させるところがあるが、これは虐待。
E-4 訪問介護が必要:ヘルパーさんが短時間でも1日4-6回、見守りに来る。
E-5 これらに加えて、訪問リハビリ、訪問入浴、医療ソシャルワーカー、ケアマネージャーなど多職種連携があれば、最末期でも「在宅ひとり死」は可能。
F 「在宅ひとり死」がよいと上野氏。どんなあばら屋でも自宅がいちばん。

G 現在、病院死84%。在宅死12.5%。
G-2 家族の意思で、終末期に病院に入る。「自分が見ていられないから病院へ!」となる。「在宅看取り」の“抵抗勢力”は家族。
G-3 「死ぬのに医者はいらない」。
G-4 「在宅看とり」の実践:日本在宅医学会(中野一司・大会長)など。日本最強の口うるさい三婆、樋口恵子、大熊由紀子、上野千鶴子を集めシンポジウム。
G-5 医療も介護も、地域差が大きい。志ある医療関係者がいるかどうか、による。

I 終末期の痛みのコントロールは、今の医療水準で可能。
I-2 「在宅看とり」のため、我が家のバリアフリー改装と介護用品のレンタル費用は、必要。 

J  在宅ターミナルケアは、よいことずくめ。①本人の満足度高い。②施設介護より、インフラ投資がない分、コスト安い。③終末期医療のコスト抑制。④高齢者が終末期に貯蓄を放出するので、地域の雇用拡大・需要創出。

K 死の前の「和解のススメ」。父親と息子、母親と娘など。もちろん大団円はなく、いつも中途半端なのが人生。他人とのわだかまりなどほっておけばいいが、家族とは、死ぬ前に、和解するのがよい。


文庫版へのあとがき
L 男性が、「老いを受けいれるのがむずかしい」のは、「弱者になることを受け入れるのがむずかしい」から。

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『おひとりさまの老後』上野千鶴子(1948生れ)、文春文庫、2007年

2016-02-02 22:06:59 | Weblog
はじめに
A シングルのキャリアであるわたし(たち)が、女性のひとりぐらしのノウハウを伝授する。「おひとりさまの老後を楽しもう」!

第1章 ようこそシングルライフへ
B 65歳の高齢者の女性で、配偶者がいない者の割合は51.3%。
B-2 女性には「ずーっとシングル」組と「シングルアゲイン組」がある。
B-3 40代半ば過ぎからは、結婚した女性も夜遊び、お泊り旅行ができる。「後家楽」(ゴケラク)の先取り。
B-4 夫を看取れば年金の4分の3が入って来る。 
B-5 仲が良ければ夫婦の旅も楽しいが、そうでなければ「拷問」!

C 負け犬=シングルは、「子どもがいない」。
C-2 子ども家族と「中途同居」しても、幸福度は低い。高齢者単身世帯の増加。
C-3 ひとりで置いておく罪悪感からの「義理介護」や「意地介護」を受けるのは、まっぴら。
C-4 妻に先立たれた父は、「おとうさん、いっしょに住んだら」と言ってほしかったようだ。私がパートナーとの同居を解消し、一人暮らしを始めた時。
C-5 自己チューでお互いに自分の流儀を崩さない者二人の同居は惨憺たる結果となる。

D 未婚の一人世帯、高齢者の一人世帯の増加。
D-2 子どものパラサイトの背後には、「ひとりになりたくない」、「夫とふたりになりたくない」女性の隠れた欲望がある。
D-3 夫は、妻への依存度が高く、妻に先立たれると、ガタガタになる。

E おひとりさまのメリットは、他人が気軽に声をかけてくれること。「ごはん食べに来ない?」など。

F 夫の喪失は、自立をもたらす。
F-2 カップルアゲインの可能性は?パートナーはいるが、同居しないというスタイルもある。
F-3 高齢女性の一人暮らしを「おさみしい」などと言うな!


第2章 どこでどう暮らすか
A 自分だけの住まいを持つことが、おひとりさまで暮らす必須条件。「ひとり暮らしの自分の家」が「おひとりさまの老後」の最低のインフラ。
A-2 「よその家であるこどもの家」ではダメ!
A-3 団塊世代の持ち家率は8割を超える。高齢女性の7割に自分名義の不動産がある。
A-4 妻の言い分:「夫の金はわたしたちのもの、わたしのカネはわたしのもの」。

B 非婚のおひとりさまでも、働きつづけていれば、自分名義の不動産があることが多い。
B-2 少子化で、高い確率で親の不動産が手に入る。
B-3 「おひとりさまの老後」の住まいは、ワンルームが便利。

C シニア向け集合住宅としての都会型のコレクティブハウス(共同居住型集合住宅)。団子のようなムラ的共同体ではない。介護資源は都会が充実。
C-2 ここで介護保険の在宅支援サービスを受ける。
C-3 非婚シングルの日本文学者、故・駒沢喜美さんは、素敵な先輩。修善寺の「ライフハウス友だち村」を実現させる。地方型。
D 企業の定年退職者と地元の老人会のメンバーたちとは、水と油。高学歴者は「お勉強大好き」!
D-2 シングル女性は、男の機嫌を取るのに飽き飽きしている。
D-3 「さあ、みなさんごいっしょに」を強制されたくない。
D-4 「個室がいい」のはお年寄りも同じ。

E 女で年寄り、そしてひとり暮らしの安全の問題。犯罪者は、弱い人間につけこむ。


第3章 だれとどうつきあうか
A ひとり暮らしの基本のキは、ひとりでいることに耐性があること。
A-2 高齢者の自殺率は、日本がスウェーデンより高く、同居老人が独居老人より高い。

B 一人暮らしの達人は、ほかの人とつながることにおいても達人。
B-2 友人を作るには努力もいるし、メンテナンスもいる。放っておいて保つ関係はない。
B-3 家族こそ、最もメンテナンスがいる。
B-4 自分の話ばかりする、他人の過去を詮索する、説教癖がある人は、ダメ。
B-5 老後のおひとりさまは、嫌な相手と付き合う必要はない。

C 見えない、聞こえない、話せなくても、パソコンはバリアフリーのツール。
C-2 親密さは、いっしょにご飯を食べた回数で測れる。
C-3 女同士の食卓に、男は呼ばない。

第3章-2 孤独とのつきあい方
D 時間をつぶすには、①一緒に時間をつぶしてくれる相手がいる。また②ノウハウがいる。
D-2 シングルの男女4人の大晦日年越しパーティーあり。またシングルの女性ばかりの新年会。各種パートナーの在庫を抱えておく必要あり。
D-3 事情があって別れたパートナーは、幸せでいてほしい。

E 孤独とのつき合い方は二つしかない。まぎらわせるか、向き合うか。
E-2 孤独が、「さびしい」わけでない。「さびしさ loneliness」と、「ひとりであること solitude」の違い。
E-3 「ひとりは心地よい」と思えれば、おひとりさまも安心。
E-4 自然は、孤独の最大の友である。
E-5 グチを言える相手がいることが、必要。人間は「こわれもの」である。


第4章 おカネはどうするか
A 「女はカネについてくる」(ホリエモン)は正しい。
A-2 老後、「やっぱり頼りになるのはカネですねえ」が結論?
B 単身世帯の24時間巡回看取り介護あり。
C 「近親者による密葬をすませました」がよい。
D 働く女はずっと税金も社会保険料も払い、オヤジの年金等を負担してきた。
E シルバー起業を考えてもよい。
F 団塊ジュニアのフリーター、ニートは「前倒しの年金生活者」で本人たちに切迫感がない。親の年金パラサイト。しかし親の死後が問題。
G 持ち家を担保にお金を借りる:リバースモーゲージ。①反対する子どもがいて、進まない。②日本の住宅は、耐久年数が短いので、担保価値がない。特に集合住宅。
H ストックをフロー化する。財産を残さず、年金にしてもらう。


第5章 どんな介護を受けるか
A 家族に頼らない老後のための介護保険。
B ピン・ピン・コロリ主義(PPK)はファシズム。規格はずれを異物として排除する。
B-2 人間のような大型動物は、ゆっくり死ぬ。「寝たきり」が避けられない。
C 介護される側にも、ノウハウがいる。①介護は受けたくないと思っている。②特に女は“女役割”(人の世話をする)にしばられ世話されると罪責感をもつ。③男はかしずかれることに慣れているので、介護されることに抵抗感がない。③ヘルパーさんの基準に合わせる。
D 抑圧し続けた感情は、抑圧に慣れっこになる。表現しなかった感情は、表現の仕方を忘れる。
E 良い商品(介護)は、賢い消費者が育てる。
F 介護される側の心得10か条
①我を知れ。②自分ができないことを認める。③我慢や遠慮は美徳でない。④言わなければ通じない、以心伝心はありえない。⑤相手が受け入れやすい言い方を選ぶ。⑥喜びを表現し相手を褒める。⑦儀礼的距離化。「○○さん」と呼ばせる。「おばあちゃん」とか呼ばせない。「アーんして」とか赤ちゃん扱いさせない。⑧ヘルパーさんに無限定に、要求しない。甘えない。⑨チップやモノ(金品)は渡さない。⑩最後に、感謝&ユーモア。


第6章 どんなふうに「終わる」か
A おひとりさまは、遺言で遺産を贈りたい人に贈る。①親族遺留分がある。家庭裁判所に申し立てれば廃除も可能。②養子縁組もありうる。
A-2 遺言は、必要なら書き換える。新しい日付のほうが有効。
A-3 遺産で、経済的に苦労しているアジア圏の留学生を応援したい。
B 「死に目にあえなかった」「ひとりで死なせてしまった」との罪責感あり。
C おひとりさまは「孤独死」という等式の呪縛!
C-2 準備しておけば、発見されず、自分の死体が腐乱し、蛆虫がわくことはない。
C-3 上野氏は、おひとりさまの「確信犯」。
D おひとりさまの必須条件は、友人のネットワークを持つこと。
D-2 「見捨てられていることと、孤独とは違う」(ニーチェ)。
D-3 「独居者は急変の際早期発見されるよう万策尽くすべし。」「孤独を恐れるなかれ。・・・・自分のために生きると決意したら、世の目は気にするな。」「巷にあふれる『孤独死』にいわれなき恐怖を感じるなかれ。実際の死は苦しくないし、孤独も感じない。」(東京都監察医務院・小島原将直)
E 上野氏は散骨が希望。
F おひとりさまの「死に方」:①死後、すぐ発見されるよう人間関係を準備。②遺品で残された人が困りそうなものは早めに処分。③残された人が、困らないよう遺体・遺骨の処理の仕方を決めておく。(散骨など)④葬式・お墓など指示しておく。④以上の費用、謝礼を用意しておく。


あとがき
A シングル女性への「年取ったらどうするの?」という脅しへの対策。

文庫版あとがき(2011年)
B 世の中からの反発がないのに驚いた。「三世代同居」、「子が親を見る」日本の「美風」の立場からの反発はなかった。
C 「おひとりさま」は、高齢者単身女性のイメージを、否定的なものから、肯定的なものへ変えた歴史的功績あり。
D 本書の要諦は「男要らず」のメッセージ。最強のフェミ本。
D-2 だが男性を敵視しているわけではない。
E フェミニズムは、男女を問わない男女の「自立」を目指す。
F アラフォーから下、ロスジェネ世代から批判。年金はあてにならないし、「私たちは、もっとしんどい」と批判。『世代間連帯』を辻元清美氏と共著で書く。
F-2 だが『おひとりさまの老後』は、団塊世代のシングル女性を、読者として想定していた。子供世代の読者が読んで、「私の答えにならない」のは当然である。
F-3 「自分の問いには、自分で答えを出す」が、自立の基本である。

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