第4部 他者と目的論(テレオロジー)
三一 モナドと目的(テロス)――誕生と死:原典タイトル「モナド論(1930年代初め)」(全集第15巻付論46)(515-521頁)
A 「無意識的なもの、意識の沈殿した根底、夢のない眠り、主観性の誕生形態、もしくは誕生以前の問題にされる存在、死と『死後』の問題にされる存在」、これら「潜在的存在」は、「覚醒」した「顕在的存在」(すなわち「根源的な」存在)の「志向的変容」である。(515-6頁)
A-2 「潜在的存在」については、「この存在領分の全体が、一種の再構築の存在領分である――すなわち、顕在的なものから潜在的なものへと、その変様をたどりつつ遡っていく」(516頁)
A-3 「人間から動物、植物、最下層の生物、新しい物理学の原子構成へと送り返される」ような考察。なのだろうか?(517頁)
B 「沈殿という理念」(518頁)
(一)「根源的に本能的なコミュニケーションのうちにある複数のモナドの総体性」。「眠れるモナドたち」。(518頁)
(二)「眠れるモナドたちという背景をともなって、覚醒するモナドたちと覚醒における発展。」(518頁)
(三)「世界を構成するものとしての人間のモナドたちの発展。・・・・モナドたちが理性的な自己意識・人類意識へと至り、世界理解へと至る等々。」(518頁)
C 「モナドは始まることも終わることもできない。超越論的モナド全体は自己自身と同一である。」(518頁)
C-2 「系統発生的発展に対応する過程全体が、誕生へ至るすべての生殖細胞モナドのうちに沈殿している。」(519頁)
D 「モナド全体、すなわちモナドの全一性は、無限に高まりゆく過程のうちにあり、この過程は必然的に、眠れるモナドから顕在的モナドへの発展の恒常的過程であり、モナドのうちで繰り返し構成される世界への発展の過程である・・・・。」(519頁)
D-2 「こうした世界構成は、つねにより高い人間性と超人間性の構成なのであって、そこにおいて、全体が自己自身の真なる存在を意識するようになり、“理性ないし完全性の形態へと自由に自己自身を構成していく存在”という形態をとるのである。」(520頁)
D-3 「神は・・・・モナド全体のうちに存している完成態(エンテレヒイ)であり、無限の発展すなわち絶対的理性に基づく『人間性』の無限の発展の目的(テロス)という理念として・・・・ある。」(520頁)
E 「死からは、誰も呼び覚まされることはできない。」(520頁)
F 「普通の意味での不死性はありえない。しかしすべてのモナドと同様、人間は[別の意味では]不死であり、神性の自己実現過程への参与は不滅であり、一切の真なるものと善なるもののうちで作用し続けていくことは不滅である。」(521頁)
三二 原事実性の目的論:原典タイトル「目的論。超越論的自我の形相(エイドス)に超越論的間主観性の形相が含まれている(1931年11月5日のノートに基づく)」(全集第15巻テキスト22番)(521-535頁)
●目的論
G 「超越論的主観性の自己構成は、無限に向かうものとして『完全性』へと、真なる自己の保存へと向けられている。」(521頁)
G-2 「超越論的主観性は・・・・超越論的自己省察と、その固有の体系的展開にまで登りつめる自己省察の発展過程の必然性をもっている。」(522頁)
G-3 「このような目的論的過程、すなわち超越論的間主観性の存在過程は、さしあたり個々の主観のうちでは暗い普遍的な『生への意思』、あるいはむしろ、真なる存在への意思を自らのうちにもっている。」(522頁)
G-4 「その意志は・・・・あらゆる個体的ならびに超個体的(間主観的、全人類的)目的の全体性という、はっきりした目標形式、目的形式をもつ・・・・。」(523頁)
G-5 「無限の完全性という理念、無限に完全な間主観的全共同性のうちにある完全な個別主観的存在という理念。」(523頁)
●超越論的自我の形相に超越論的間主観性の形相が含まれる
H 「未知の他者は・・・・地球上の人間としてか、あるいはどこかの星にいる人間のような存在者などとしてである。」(529-530頁)
H-2 「あらゆる本質可能的な超越論的自我は、『私と他者』という形式においてそれぞれ互いのうちに含蓄されている。」(530頁)
H-3 「一つの可能な自我は、それと共存している自我たちの宇宙、総体をただちに含蓄している。」(530頁)
H-4 「超越論的間主観性の形相は、超越論的自我の形相のうちに同時に含蓄されている。」(531頁)
H-5 「他者たちは、構成による形成体として私のうちにあるだけでなく、彼ら自身が構成する主観であるという存在意味において私にとって存在しており、そのようなものとして私のうちで構成されている。」(531-2頁)
●原事実としての「私」
I 「遡る問いにおいて最終的に、原キネステーゼ、原感情、原本能をともなった原ヒュレー等々の変転のうちにある原構造が生み出される」(532-3頁)
I-2 「それによると事実のうちにあるのは・・・・私にとって全世界の構成がすでに『本能的に』予描されているように見え、そのさい[この構成を]可能にしている機能そのものが、その本質のABC、その本質文法をあらかじめもっている。それゆえ、事実のうちにあるのは、初めからひとつの目的論が生起しているということである。」(533頁)
I-3 「究極的な『事実』――原事実」あるいは「原偶然的なもの」(534頁)
I-4 「私は考え、私は還元を行う。それは、まさにこの私であるところの私、私にとってこのような地平性のうちにある私である。私はこのような歩みにおける原事実である。」(534頁)
I-5 「私は私の事実的な存在を乗り越えられず、そのうちにあって、志向的に含まれた他者たちの共存在などを、したがって絶対的現実性を乗り越えられない。」(534頁)
三三 目的論と愛の価値:原典タイトル「目的論(1931年11月13日頃)」(全集第15巻付論23)(535-543頁)
A 「超越論的間主観性は・・・・具体的に心理物理的人間として・・・・価値づけたものに向かいつつ、それらのなかから、人間の欲求を充足する新たな価値づけられたものを産出しつつある・・・・。」(536頁)
A-2 「あらゆる超越論的現実存在をとおして、しかもたんなる個別的な現実存在ではなく、間主観的な共同化において、そして間主観的な総体性として『より完全になる』ような統一の努力が一貫している。」(536頁)
B 「動物は、その本能と、それによって特徴づけられる価値の規則的な充足において生きているが、それは有限な周囲世界と、制限された時間性(再想起と想起の前倒しが狭く制限されて)においての生である・・・・。」(540頁)
B-2 「動物は、空腹であれば不満足であり、満腹であれば満足しており、満腹の状態で完全に満足している。」(540頁)
B-3 これに対し「人間は無限性のうちに生き、その無限性はそのたえざる生の地平なのである。人間は本能を乗り越え、高次の段階の価値を創造し、この価値をも乗り越えていく。」(540頁)
《快楽的で「感覚的」な価値と「精神的」な価値、愛の価値》
C 「快楽的価値はその起源を享楽にもち、最終的に感覚的な感情にもち、そのつどの享楽において、その価値を実現しようとする。」(541頁)
D 「人格の価値、それも、その人格をたんなる享楽の準備のためにもつような意味での価値ではなく、その人格の『真の価値』をなすような・・・・価値は、まったく別の源泉から、すなわち厳密な言葉の意味での愛と言う源泉から生まれてくる。この意味で、愛の享楽ということは、一つの不合理である。」(542頁)
D-2 「愛――愛しつつ他者において自己を失う、他者において生きる、他者と一つになる、ということは、たしかに・・・・『大きな』喜びを生みだしはするが、まったくもって快楽的とはいえない。」(542頁)
D-3 「人格的愛に由来するすべての価値は、人格そのものに価値を与える。」(542頁)
D-4 「愛する献身、例えば芸術作品への献身は、それを遂行する人格を、逆向きにその人の人格的価値の増強という光で照り返す。」(542頁)
三四 目的論と衝動志向性:原典タイトル「普遍的目的論。超越論的に見られた、間主観的で、すべてのそしておのおのの主観を包括する衝動。モナド的総体性の存在(1933年9月、シュルッフ湖)」(全集第15巻テキスト34番)(544-551頁)
〈内容〉
[①]超越論的に見られた間主観的衝動(とくに性衝動)。
[②]普遍的発展や相関するモナドの世界の形式内での発展の統一における“すべてのモナドの共同存在と相互内属”。
[③]そのようなどの世界も、それ自身のうちに、その世界へと入りこんで生きているもろもろの自我主観をともなった“客観的世界”を、志向的に構成して所持している。
[④]最上の段階での構成の行程において、“ともにつねに、そしてすでに存在しているモナド的な、ないしは世界的な人間性”。
[⑤]“流れつつ普遍的な自己意識へと至る、ないしすでに存在しているもの”としてのモナドの総体性の存在、無限の上昇のうちにありながら――普遍的目的論。
E 「性的な餓えの場合、“性的な餓えを触発し、刺激する目的”に向けられるなかで、この目的とされるものは他者である。この特定の性的な餓えは、性交という様相にその充実の形態をもつ。」(545頁)
E-2 「私たちは、端的で原様相的な[性衝動の]充実のうちで、“それぞれ一方の原初性と他方の原初性へと分離しうるような二つの充実”をもつのではなく、“充実の相互内属”をとおして作り出される“二つの原初性の統一”をもつ。」(545頁)
F 「超越論的還元によって、モナドはまず“人間モナド”として見出され、次に世代的な関連の形式において、“モナドの段階の全てのモナド”、すなわち“高次の、そして低次の動物や植物とその低次段階[の生物]”が、そして“このすべてのモナドに関する個体発生的な発展”が[見いだされる]。あらゆるモナドは本質的にこのような発展においてあり、すべてのモナドは本質的に世代的発展においてある。」(549頁)
G「私は“私という人間”から、“私の人間的なモナド”に向かい、“私の人間的なモナド”には、“私の人間的な共同世界”が直接、含蓄されている。」(549-550頁)
H 「目的論はすべてのモナドを包括しており、母親のモナドのうちで起こること(※妊娠)は、母親のモナドのうちでのみ起こるのではなく、すべてのモナドのうちに『鏡映』している。」(551頁)
E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』「訳者解説1」浜渦辰二(569-584頁)
A フッサールは、「モナドには窓がない」というライプニッツの主張を、実質的(レエル)には「窓がない」と認める一方で、志向的には「窓がある」と批判するが(本書257頁参照)、その「窓」こそ第1巻第2部「感情移入」の問題だった。(573頁)
A-2 その問題が、第2巻第1部「自他の身体」や第2巻第2部「感情移入と対化」では、「私の身体」から出発して、「パースペクティヴ」的な「空間」のなかで論じられる。これに対し、第3巻第3部「時間と他者」では「時間」論との絡み合いで論じられる。(573頁)
A-3 「感情移入」は、空間的には「共現前(Appräsentation)」(※間接呈示)として論じられる。これに対し、時間的には、「感情移入」は「準現在化(Vergegenwartigung)」として、「想起」「予期」「想像」と比較検討しながら論じられる。(573頁)
B 「他者の手が動くと、私は私の手を動かしたくなってむずむずしてしまったりする」(フッサール383頁)は、現代のミラーニューロン理論を思い起こさせる。(574頁)
C 「人間」、「心」の語が、自我論(エゴロジー)からモナド論(モナドロジー)への転回の中で、果たす役割が変わる。
C-2 自我論の枠組では、「“身体と心とをもった”“人間としての自我”という経験的統一」(28頁)は、現象学的還元によって「遮断」、「カッコ入れ」される。(575頁)
C-3 モナド論の文脈では「あらゆる純粋に心的なものが、現象学的還元のうちで、モナド的なものへと連れ戻される」(303頁)と言われ、「心ないしモナド」(303頁)という言いかえすら行われる。(575頁)
D モナド論において、フッサールは、「モナドに窓がある」ことを説明し、「実質的(レエル)な相互外在(Aussereinander)は、もちろん志向的な相互内属(Ineinander)と折り合う」(304頁)と論じる。(575頁)
D-2 かくて「私と超越論的に共存している」(291頁)ような「超越論的他者」(429頁以下)が語られるようになる。
D-3 「志向的相互内属として互いに対してあることの内在性は、“形而上学的”原事実であり、それは絶対的なるものの相互内属である。」(432頁)
D-4 「私は、そのように私にとって存在する他者なしには、私が今あるように存在しえないし、この他者も私なしにはそのように存在しえない。志向的に含まれていることが、超越論的共存にとって必要なことである。」(439頁)
D-5 「間主観性の現象学」の問題の発端は、すでに、『論理学研究』(1900/01)の第1研究の中に潜んでいた。(577頁)
E 『イデーンⅡ』では、「おのおののコギトは、そのあらゆる成素とともに、体験の流れのうちで成立したり消失したりするが、純粋主観は成立したり、消失したりしない」(Ⅳ, 103)とされた。つまりフッサールは、誕生や死は、経験的主観について語り得ても、超越論的主観については語り得ないと考えていた。(578頁)Cf. アリストテレスは、ヌース(理性)は「不死であり永遠である」(413a)と述べる。
E-2 本書第1部「自我論」の文脈では、フッサールは、「純粋なモナド的主観性としての自我」は不死であり、「自然の一員としての人間」のみが死ぬと述べる。(58頁)
E-3 本書第2部「モナド論」では、静態的現象学から発生的現象学へ進む。「やっとここで私たちは、モナド的個体性の現象学をもつことになり、そこには相互に関係しあう発生の現象学が含まれている。」(200頁)
E-4 「具体的な姿」におけるモナドの発生への問いが、始まりと終わり、中断、変化と成熟への問いを呼び込む。(579頁)
E-5 かくて「無意識的なもの、意識の沈殿した根底、夢のない眠り、主観性の誕生形態、もしくは誕生以前の問題にされる存在、死と『死後』の問題にされる存在」が問われる。これら「潜在的存在」は、「覚醒」した「顕在的存在」(すなわち「根源的な」存在)の「志向的変容」である。(515-6頁)
E-7 「潜在的存在」については、「この存在領分の全体が、一種の再構築の存在領分である――すなわち、顕在的なものから潜在的なものへと、その変様をたどりつつ遡っていくのである。」(516頁)「そのような再構築(Rekonstruktion)は、誕生と死に関して、どこまで及ぶのだろうか。」(517頁)
E-8 この「再構築」が、フィンク『超越論的現象学の理念――第6デカルト的省察』(岩波書店、1995年)の「構築的現象学」につながる。(579頁)
E-9 「つまり、独我論的で静態的な現象学においては、誕生も死も問題となりえないが、他者経験を考慮も入れた発生的現象学、さらにその先の構築的現象学において、誕生と死が超越論的な次元でも問題となり意味を持つようになる。」(579頁)
F 2014年『フッサール全集』第42巻:『現象学の限界問題 無意識と本能の分析、形而上学、晩年の倫理学――遺稿(1908~1937年)からのテキスト』。
G 山口一郎『他者経験の現象学』(国文社、1985年)。浜渦辰二『フッサール間主観性の現象学』(創文社、1995年)。これ以後、本格的なフッサール「他者」論、「間主観性」論の研究書がない。
H 今回のE.HUSSERL『間主観性の現象学』3巻本が、生前に出版された著作の「他者」論を、乗り越えたかどうかは意見が分かれる。
E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』「訳者解説2」山口一郎
A フッサールが間主観性論をとおし全体としてめざしたのは、本書第4部のテーマの「目的論」である。(585頁)
B 超越論的自我の能作が前提にされる「自我論」において、「他の」超越論的自我の成立が語れるか?(585頁)
C 1920年代以降の発生的現象学において、超越論的自我の「自我極そのものの生成」は、「自我論」の枠組に収まらない「モナド論」からのみ考察可能とされる。(585-6頁)
C-2 自我は、モナドの発展の一段階である。モナドが自我の発展の一段階なのではない。(586頁)
C-3 フッサールは、一方で「純粋自我」の解明が、複数のモナド(純粋自我)の理念的存在を確証できるとする。(本書一四「自我論の拡張としてのモナド論」)(586頁)
C-4 他方でフッサールは、モナドの受動的基盤、すなわち受動的綜合としての連合の規則(発生の普遍的本質規則)を指摘する。(本書一四「同上」)(587頁)
D モナドの受動的基盤に働く発生の本質規則である「連合」は、「自我の能作をまったく含まない」。すなわち、自我の能作を前提する「自我論」の枠組では、モナドの受動的基盤を解明できない。(587頁)
D-2 第2巻『その展開』の「対化」の記述によれば、受動的綜合である「連合」は、自我の能作が活動する以前に働いており、それによって間身体性の等根源的生成が、超越論的に根拠づけられている。(587-8頁)
E 絶対的エゴは、時間化を担うことができない。(Cf. 本書319頁)(589頁)
E-2 「昨日と今日の始原的現在の区別」は、始原的自我が行っているのではなく、始原的自我の能作が始まる以前に、受動的志向性としての(過去)把持をとおして成立している。(589頁)
E-3 フッサールが言うように、(過去)把持をとおさない時間化は不可能であり、また(過去)把持にいかなる超越論的自我の能作の関与も認められないので、始原的で絶対的エゴが、時間化を担うことはできない。(589頁)
F 自我論的枠組みにおいて、“超越論的他者の存在が超越論的に論証できる”とする可能性は、原理的に退けられる。(590頁)
F-2 それは、「絶対的なものとは、まさしく絶対的な時間化にほかならず」(本書506頁)とフッサールが言うように、「自我」に代わる絶対的なものである「時間化」の分析によって示される。(590頁)
F-3 モナド間に働く衝動志向性による時間化!(591頁)
G 母と子の間の衝動志向性。(591頁)
G-2 “自我の発展以前の乳幼児”と、“授乳のさい覚醒化される本能志向性に即応している母親”
との間に、授乳衝動の志向と充実が経過していく。(591頁)
G-3 両モナドにとって、授乳衝動が形成される中で、その衝動が志向され、充実されることで、そのつど衝動充実という時間内容が成立する。(591頁)
G-4 この時間内容の成立が、そのつどの生き生きした現在の立ち留まりを意味する。(591-2頁)
G-5 両モナドにあって、衝動の充実をとおして、生き生きした現在の立ち留まりが生起する。(592頁)
G-6 つまり、生き生きした現在は、両モナドにとって、“モナド間に働く衝動充実をとおして共有され、共体験される「共同現在」”の成立を意味する。(592頁)
G-7 モナドの時間化は、間モナド的時間化として生起することで、間主観性の間時間性として開示される。(592頁)
H 普遍的衝動志向性が、「普遍的目的論の把握に導く」(本書548頁)とされる。(592頁)
H-2 その理由は、モナド論において、“幼児にとっての衝動志向性の充実を前提にする「自我極の生成」ないし「自我中心化」の成立”が問われることで、“人間モナドに限られないモナドの発展の全体像”が問われることになるからである。(592頁)
H-3 「生気のあるモナドや動物的なモナド、先(フォア)動物的なモナドの段階の無限性が見られ、一方では人間まで上昇する段階、また他方では子どもや子ども以前のモナドの段階がある――[この無限性は]個体発生的発展と系統発生的発展の恒常性においてある。」(本書548頁)(592頁)
H-4 モナドの発展の基底に、普遍的衝動志向性を確認することで、モナドの発展の目的論の基礎を確定できる。(592頁)
I 衝動の充実をとおして、両モナド間に共有される「生き生きした現在」こそ客観的時間の生起と源泉である。(592頁)
I-2 この客観性は、間モナド的時間化の生起に起因する。(592頁)
I-3 ここに“間モナド的間主観性のもっとも始原的な超越論的事実性”という超越論的規則性の生起が、確定される。(592-3頁)
I-4 間主観性の受動的基盤が、超越論的に根拠づけられることで、普遍的目的論の基礎構造が示される。(593頁)
J “志向性として規定されるモナド”の発展過程は、モナド論的目的論において、受動的志向性である「連合」の規則性として、また能動的志向性としての述定的判断の能作として表現される。(595頁)
K フッサールの間主観性の現象学は、人間モナドの段階において、受動的間主観性と能動的間主観性の二重構造を明らかにした。(596頁)
K-2 受動的間主観性は「衝動」の目的として、能動的間主観性は「理性」の目的として規定される。かくて間モナド的目的論の全体の発展過程が示された。(596頁)
L フッサールは、現象学をとおして、自然科学について、その新たな基礎づけと、哲学への統合の作業を行った。(596-7頁)
L-2 自然科学は、客観的時間と空間における事物の実在を前提し、その実在する事物間の関係を、数学を使用して解明するという方法論をとる。(596頁)
L-3 哲学としての現象学は、この客観的時間と空間の存在をそのまま前提しない。(596頁)
①現象学は、時間と空間の「意味」そのものの生成と源泉を、発生的現象学の志向分析をとおして、間モナド的な受動的間主観性における本能的コミュニケーションにつきとめる。(596頁)
②そして、それ[=時間と空間の「意味」 ]が、能動的間主観性の領域において、対象知覚、再想起、言語等の能作をとおして数学的客観性のの意味層を獲得していく過程を、現象学は確定する。(596頁)
L-4 現象学による方法論的基礎づけを経た脳神経科学の例:F・ヴァレラ「神経現象学」。
M 能動的間主観性は、受動的間主観性を前提する。