宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

白柳秀湖(1884-1950)『維新革命前夜物語』(第一~第六)1940年、千倉書房

2016-06-25 17:23:17 | Weblog
定版の序
うつつを抜かし踊り狂った『東京音頭』(S8)が夢のよう。この年、書き始め、支那事変4年目(S15)、完成した。7年間、「神がかり」でこの本を書いた。

第一 伊勢神宮ぬけ参りの巻
(1)宝永7年(1710)以来第1-3回の抜け参りブーム
A 天から伊勢神宮の神符(おふだ)が降ったのは、維新前夜の慶応3年のみではない。
B 第1回抜け参り:伊勢大神宮の神符が降ったのは、すでに宝永7年(1710)にあった。抜け参りの始め。(四)
B-2 この時、京都から大津の船着き場まで童男童女(6-14歳位)の行列。(五)
B-3 子どもたちが、保護者の知らぬ間に、抜け出した。(九)
C 第2回抜け参り:さらに61年目の明和7年(1770)の抜け参りは、計441万人/年。(六)
D 第3回抜け参り:寛政2年(1790)にも抜け参りがあった。(1770(明和7)から21年目。)(七)

(2)抜け参りとインフレーション
E 抜け参りは、なぜ起こるか?不合理・悪政に最も困るのは一般民衆。かくて大きな変化を予感する。大津波が起こる前に、蟹の大群が、陸に這い上がるようなもの。(一〇)
E-2 徳川の世の行き詰まりと、抜け参りが、ピッタリ符合している。今後、これを検討する。(一一)
E-3 最初の行き詰まりが、元禄・宝永の間。荻原重秀のインフレーション。(一一)


第二 インフレ政策・デフレ政策交代進行の巻
(1)柳沢・荻原のインフレ(元禄-宝永)→白石のデフレ(吉宗まで)→田沼のインフレ(明和-天明)→松平定信のデフレ→水野忠成のインフレ(文政-天保)→水野越前守忠邦のデフレ
F 柳沢・荻原のインフレで一般民衆が困り、第1回抜け参り(1710(宝永7))。(一二)
F-2 その後、新井白石のデフレーション政策。(白石から吉宗まで)(一二)
F-3 田沼意次の明和年間の第2回インフレ政策。かくて61年目、第2回抜け参り(1770(明和7))。(一二)
F-4 尻拭い役・松平定信のデフレ。(一二)
F-5  文政・天保に水野忠成(1817(文化14)老中)の露骨な平価切下げ、インフレーション。文政・天保の放濫時代。(一二)
F-6 水野越前守忠邦(1841老中)のデフレ政策失敗(1843失脚・1845(弘化2)2度目の失脚)の後は、幕府はもう政策も何もない。天下は八方塞がりで、のべつ幕なしに皇大神宮の神符が降る。(一二)

(2)第1次インフレ・富士山噴火(1707(宝永4))→第2次インフレ・天明の大飢饉(1783-88)→第3次インフレ・天保の大飢饉(1832-)
G 第1次インフレ時代(元禄-宝永):第1次抜け参り(1710)、富士山噴火(1707(宝永4))。(一三)
H 第2次インフレ時代(明和-天明):第2次抜け参り(1770)、天明の大飢饉(1783-88)。(一三)、
H-2 インフレ景気の渦巻きの中を、大飢饉が進行。(一四)
H-3 天明のインフレ景気と、飢饉及び米騒動。(一五)※第3次抜け参り(1790)(七)
I 第3次インフレ時代(文政-天保):第4次抜け参り、天保の大飢饉(1832-)(一三)
I-2 天保の大飢饉と、江戸及び大阪のインフレ景気。(一六)
I-3 飢饉のあるごとに特殊商人が肥った。かくて天保の飢饉に、大塩平八郎が怒る。(1837(天保8))(一六)


第三 柳沢吉保、荻原重秀インフレーションの巻
(1)家康より4代家綱に至る78年間
A 勤倹節約が、経済観念のオールであった徳川の初期。(一七)
A-2 家康より4代家綱に至る78年間の幕府の財政状態は、まだ、金貨の改鋳(品質下げ)まで至らず。(一八)
B 幕府財政の行き詰まりは、必ずしも、将軍家奢靡の罪のみでない。(一九)
B-2 町人が豊かになり、幕府・諸大名が困る。かくて年貢米を搾り、農村疲弊。中がふくれて、上と下が細る世の中。(一九)
B-3 金銀銅の海外流出。これを幕府が憂慮し海禁へ。なお海禁で困った人民が、天草の乱の中心。(二〇)
B-4 将軍の日光参拝費(10日間)を拒否され、綱吉不興。(二一)

(2)五代綱吉の時の徳川氏財政行き詰まりと柳沢・荻原の貨幣改鋳
C 五代綱吉の時の徳川氏財政行き詰まりの根本原因。(二一)
①近世都市勃興、商業・金融発展、財貨が町人階級に集中。(⇔諸侯・農民)
②金銀銅の海外流出(輸入超過&密輸入)。
D この時、元禄8(1695)、最も拙劣な貨幣改鋳で500万両捻出(勘定奉行・荻原重秀)。(二二)
D-2 島津候、天下の大贋金造りは柳沢、荻原なりと喝破。(二三)
E 宝永4年(1707)、富士山噴火で、幕府の金庫が空となる。(二六)

(3)吉原の豪勢と元禄・宝永のインフレ景気
この頃、3代目奈良茂(ナラモ)(深川の材木商)、紀文(東叡山根本中堂の材木請負で儲ける、元禄10(1697))など、吉原で黄金の雨。(二七)
F-2 大尽舞(ダイジンマイ)の歌曲が語る吉原の豪勢とインフレ景気。(二八)
F-3 インフレ景気に浮かれだした不良殿様に高等幇間。英(ハナブサ)一蝶は高等幇間で欲深。元禄8(1695)の金銀改鋳以来、米価高騰で、大名・旗本衆は収入莫大。かくて吉原豪遊。(二九)
G 柳沢・荻原の元禄のインフレ景気は、意図したものでなく、拾いもの。私腹を肥やすつもりも、悪影響の認識もなかった。(三〇)


第四 間部詮房(マナベノリフサ)、新井白石デフレーションの巻
(1)「正徳金」(1714)
A 宝永6年(1709)、綱吉(5代)死去。第1次インフレ時代終了。柳沢退場、荻原失脚。第1次デフレーションの大立者、新井白石の登場。(三一)
A-2 荻原重秀は、26万両の賄賂を受け取り、恨みを買う。重秀は憂憤、食を断ち死ぬ。(享年56歳)(三三)
B 家宣(6代・在職4年)・家継(7代・在職3年・5-8歳)・吉宗(8代・1716就任)の3代にわたるデフレ政策の進行。(三四)
B-2 白石の幕政関与は5年間。宝永6年(1709)から正徳3年(1713)。間部詮房(マナベノリフサ)が新井白石を登用。(三四)
B-3 吉宗は、白石の理想を、そのまま踏襲。(三四)
C 荻原重秀が鋳造した「乾字金」(1710)は、荻原の私腹を肥やす目的でない。実は白石も反対表明していないし、間部も決定に関与。(三五)
D 「乾字金」の失敗を見て、正徳3年(1713)6月、白石の大建議。家継(7代)に提出。幣制を慶長の古制に返す。「乾字金」鋳造の過失を償うに余りある白石の大建議。(三八)
D-2 白石の経済思想も、今の学問から見れば、幼稚なもの。白石は、金に粗悪なものを混ぜるのは、天に対する罪悪と感じていた。(四〇)
D-3 初めて慶長の古制に復した正徳の新貨幣。「正徳新金」、「正徳新銀」(正徳4年(1714))。(四一)
D-4 家継(7代)から吉宗(8代)までかかって、上金・上銀増発で、元禄・宝永の悪貨回収!「享保金」は「正徳金」と同品質。(四二)
D-5 しかし不景気は、消費の味を覚えた政府の首脳、諸侯、大分限者、いずれにも面白くない。中傷讒誣(ザンブ)あり。(四二)

(2)「長崎新令」(「正徳新令」)(1715)
E 新井白石は海外に流出した金・銀・銅の量を数字で示す。(四四)
E-2 慶長6年(1601)から宝永5年(1706)に至る107年間に海外に流出した金銀銅の概数を推定。(四五)
E-3 百年を経ば、金は半減し銀は絶無となるべし。「舶来の奇玩」のために「国宝」を失うな。(白石)(四六)
F 正徳5年(1715)「長崎新令」(「正徳新令」)。清船30艘/年、蘭船2艘/年。金銀輸出禁止。抜け荷取り締り(長崎奉行)。(四六)
F-2 「長崎新令」は、吉宗の時代にも守られる。(四六)

(3)間部詮房(マナベノリフサ)
G 間部詮房は能役者だった。家宣の近侍となり、家宣が6代将軍となると、5万石・高崎城主となる。側用人・老中格。新井白石を登用。(四七)
G-2 間部詮房は美貌、勉強家&妻妾を蓄えず。5年間、一度も私邸に帰らず、城内に泊まり込みで働く。(四七)
H 間部(マナベ)は、倹約奨励は行っていない。倹約奨励は、吉宗から。(四七)

(4)「大奥から美人を逐ひ醜女のみを残した吉宗の緊縮政治」
I 暇を出したら醜婦は、身の振り方がつかないため。(四八)


第五 吉宗のデフレ政府、米価問題に懊悩の巻
(1)デフレ政策による武士の困窮:享保12-13年(1727-8)頃から米価下落問題
A デフレ政策による米価の低落で、米を売って生活する武士が困窮。(五〇)
A-2 家宣(6代)・家継(7代)・吉宗(8代・1716就任)のデフレ政策は享保12年(1727)頃、一段落。早くもデフレ政策を呪う声、起こる。(五〇)
A-3 物価が大きく変動すれば、商人は儲かる。(騰貴か下落かは無関係!)(五〇)

(2)享保15年(1730)以来、米買い上げ・廻米制限など、米価引き上げ政策
B 吉宗の政府は、米価引き上げを目指す。大名・旗本・御家人の救済のため。(五一)
①享保15年(1730)、幕府による米の買い上げ(※需要増大)。しかし幕府、資力乏しく失敗。
②大名に囲米増加(※供給減少)を命じるが、大名に余裕なく失敗。(五一)
③江戸への下り米制限(※供給減少)。失敗。(五一)
④大阪堂島米相場の公許(※価格統制)。失敗。(五一)
⑤享保16年(1731)、大名に買米を命じるが資力なく失敗(※供給減少)。(五二)

(2)-2 享保16年(1731)、都市ブルジョワへの最初の課税
C ⑥徳川幕府の都会の富豪(都市ブルジョワ)への最初の賦役。都会の大分限者130余名への買米令(※需要増大)。(享保16年(1731))(五二)
C-2 徳川へのあいそつかし。皇室への憧れ。かくて皇大神宮へお蔭参り(抜け参り)。(五二)
C-3 徳川政府は、その中頃まで都会の最も富裕な階級に、租税を課さなかった。(五三)
C-4 貨幣制度の発達と交通運輸の進歩で、商人が富裕化。(五三)
D ⑦大阪3郷の町々に古米の強制消費を命じた徳川政府(※供給減少)。(享保16年(1731))(五四)
E ⑧米価上昇策で、大阪堂島の米仲買人の数を限る(※供給減少)。(享保16年(1731))(五四)
E-2 ところが、享保17年(1732)、蝗害で、米価暴騰。
E-4 武家は、米が上がっても下がっても困る。大商人は、上がっても下がっても儲かる。(五五)
F 享保19年(1733)、豊作で米価下落。(五五)

(2)-3 享保20年(1734)、日本で初めての米価公定制度導入
F-2 ⑨享保20年(1734)、再び米価引き上げ策として、日本で初めての米価公定制度導入(※価格統制)。(五六)
F-3 幕府は米価を高く決めたが、指定商人が買わない。救済すべき当の階級である旗本、御家人さえ、米価公定制度で困る。(五七)
F-4 結局、商人たちが米を買わず、施行後、わずか8カ月足らずで、享保21年(1735)、米価公定制撤廃。(五八)

(3)荻生徂徠:吉宗の諮問に応える
G 荻生徂徠(1666生れ):享保7年(1722)以後、吉宗の信任を得て、諮問に応える。享保13年(1728)死去。『政談』4巻&『太平策』1巻。(五八)(六一)
G-2 なお徂徠は、すでに元禄9年(1696)、綱吉の側用人・柳沢吉保に抜擢され、政治上の諮問に応える。(Ex.赤穂浪士を切腹させた。)それ以前は貧しく、近所の豆腐屋に助けられた。(五八)
G-3 宝永6年(1709)、綱吉死去、吉保失脚で、茅場町に、蘐園塾(ケンエンジュク)を開く。(※宝井其角が隣に住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句。)(五八)

(4)まとめ:吉宗と米価下落問題
H まとめ(五八)
①新井白石以来、正徳・享保のデフレ政策。
②享保12-13年(1727-8)頃から米価下落問題。
③享保15年(1730)以来、米買い上げ・廻米制限・米価公定などで、米価引き上げを目指す。大名・旗本・御家人の救済のため。
④かくて人々は、元禄・宝永のインフレ景気を懐かしむ。


第六 封建マルクス、荻生徂徠登場の巻
(1)経世済民の古学に復る:徂徠
A 徂徠、宋儒の観念的理論闘争を棄てて、経世済民の古学に復る。(五九)
A-2 伊藤仁斎の古学を初め排斥するが、これを撤回。(五九)
A-2 程朱の学は「徒なる観念論」と批判。経世済民を目的とする孔子本然の学に立ちかえる。(五九)
A-3 「海内の文章、実に彼の為に一変した」と言われる。(六〇)

(2)徂徠:武士・百姓の自給自足経済を再建せよ&参勤交代が、農村の疲弊と都会の繁栄の原因
B 諸侯・諸士の城下生活・首府生活が封建社会貧困の原因。(六一)
B-2 武士・百姓の自給自足経済が、城下生活の流通経済の発展のため、封建制度の本質を喪失させる。(六一)
B-3 徂徠は、封建制度のよって立つ経済的基礎に批評を加えた。(六二)
B-4 百姓が、商人・工夫・傭丁の逸楽にあこがれ城下に移住するのが問題。(六二)
C 徂徠の対策
①江戸の人口制限。自余はすべて帰農させる。そのために戸籍の精密化と路引(ロビキ)の法(旅券制度)。天保デフレーションの水野に影響。(六三)
②参勤交代が、農村の疲弊と都会の繁栄の原因。武士が旅宿の境涯にあり都会生活中心なので、商人からものを買うしかない。かくて商人の言いなり。(1)武士、特に旗本・御家人を、領土に定着させよ。(2)武士が、都市の町人から物を買う「御買上(オカイアゲ)」の制度はやめる。大名も幕府も領内の物産を消費する。(3)参勤交代の廃止が最上の策だが、徳川氏の憲法のため、徂徠は主張できず。(六四)

(3)徂徠:「世界は次第に年寄る」
D 「世界は次第に年寄る」と徂徠。徳川氏の天下は、制度の上から、すでに老境に入りつつある。(六五)
D-2 徳川家康は、都会生活の享楽をもって、戦国時代の殺伐の風を和らげようとした。かくて諸侯を城下に集め、百姓も江戸に移ってよいとした。(六五)
D-3 しかし今や、「それを放任せず、制限せよ」と徂徠。(六五)
E 徂徠:武士を、その領地に土着させる。田園生活によって受ける自然の感化の偉大。(六六)
F 自給自足に帰れと言うと、経済政策は倹約のみ。徂徠はデフレ系である。(六八)
F-2 徂徠:ところが「制度異る」ゆえ、今は、「上の緊縮・節約が万民の患(ワズライ)となる」という「時代の疾患」あり。(六八)

(4)徂徠:米価を上げ旗本・御家人を救うため銅銭増鋳
G徂徠は二重人格。
①制度論においてデフレ政策。武士を、その領地に土着させ自給自足経済に戻れ!(六八)
②貨幣政策においてインフレ政策。享保デフレーションへの対応。流通貨幣が減少しているので、銅銭増鋳。米価を上げ旗本・御家人を救う。(六八)(六九)(七〇)
②-2 徂徠の貨幣政策採用せられ、新銭、続々発行せらる。(七〇)
H 制度の倒壊(明治維新)は、(a)人の力(薩長土の志士の尊攘討幕運動)にもよるが、(b)自然崩壊にもよる。内部から自然に崩壊していく。(町人階級の台頭。)(七一)
H-2 歯の抜け変えと同じ。(a) 「人間の力」:母親or歯医者が手助けして抜く。 (b)「事物の自然の成長」:歯が自然にぐらぐらし抜けやすくなるor抜ける。(七一)

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