※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ロ「超感覚的世界あるいは法則」(続)(117-120頁)
(22)-4 ヘーゲルの『精神現象学』は「『現象』とそれを超えた『彼岸』(真実のものor精神そのものor超感覚的世界)という二つを分離せずに結合する」!
★くりかえし述べてきたように、ヘーゲルの『精神現象学』は「精神そのもの」をではなく、「精神」の「現象」を取り扱う。(117頁)
☆この意味で『精神現象学』の内容は「虚偽のもの」でもある。しかし「虚偽のもの」といえども「真実のもの」を離れていない。(117頁)
☆逆に「真実のもの」といえども「虚偽のもの」を離れてはいない。(117頁)
☆そこに『精神現象学』が「現象学」(※「虚偽のもの」を含む)でありながら「精神哲学」(※「真実のもの」)であり、また「『現象』とそれを超えた『彼岸』(真実のものor精神そのものor超感覚的世界)という二つを分離せずに結合する」ゆえんがある。(117頁)
☆その見地に立ってヘーゲルは、「超感覚的なものを全然認識できないとするカント」に反対する。(117頁)
(22)-5 「現象界」では「雑多であったもの」が「内なるもの」では「単純のもの」(具体的にいうと「引力と斥力」、「陽電気と陰電気」、「時間と空間」というような「一般的区別」)に還元される!そこに「法則」が生まれるが、これ(「法則」)が「内なるもの」(「超感覚的なるもの」)の内容を示す!
★では「超感覚的なもの」と「現象」との結びつきはどうしてできるか?ここでヘーゲルは「法則」という概念をもち出してくる。(117頁)
☆いま我々が到達している「悟性」の立場(Cf. 1「感覚」2「知覚」3「悟性」)では、「一と多」・「自と他」・「個別と普遍」というものはただ分離されているのでなく、相互に他に転換するのであり、したがって根底に「統一」がある。(117頁)
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」の目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」2「知覚」3「悟性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
☆しかしそうかといって「対立」がないわけでなく、「対立され区別されながら相互に他に転換するところに成立する『統一』」がある。(117頁)
☆すなわち「現象界」においては極めて雑多に対立され区別されているものが、「内なるもの」(「超感覚的なもの」)という雰囲気の「統一」のなかにおかれる。そのために「現象界」では「雑多であったもの」が「内なるもの」では「単純のもの」(具体的にいうと「引力と斥力」、「陽電気と陰電気」、「時間と空間」というような「一般的区別」)に還元される。(117-118頁)
☆そこに「法則」が生まれる。これ(「法則」)が「内なるもの」(「超感覚的なるもの」)の内容を示す。(118頁)
(22)-6 「法則」では、「対立」が「存在」という境地にひたされ「固定化」され、したがって「動的に互いに他に転換」しない!「法則」は、ヘーゲルの考える(「主体」としての)「概念」(「動的」な「内なるもの」)に極めて接近しながら、まだ「概念」ではない!
★しかし「法則」では「引力と斥力」、「陽電気と陰電気」、「時間と空間」というような「対立」が、「存在」という境地にひたされるため、その「対立」が「固定化」され、したがって「動的に互いに他に転換」せず、「ダイナミカルなもの」とならない。(118頁)
★「法則」というものは、ヘーゲルの考える(「主体」としての)「概念」(「動的」な「内なるもの」)に極めて接近しながら、まだ「概念」ではない。(118頁)
《参考1》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)
《参考》ヘーゲルは「悟性」の段階で、「自然科学」、ことに「ニュートンの引力の法則」などを批判しているが、ここでヘーゲルは「『法則』とはじつは『概念』にほかならぬ、即ち『主体』にほかならぬ」、あるいは「『実体』は『主体』である」という自分(ヘーゲル)の哲学の根本的テーゼを証明しようとしているのだ。(112頁)
(22)-7 ヘーゲルは「法則」(「対立」を含む;Ex. 引くもの-引かれるもの、陰電気-陽電気)と「法則の概念」(Ex. 「力そのもの」)を区別する!
★そこでヘーゲルは、「法則」が、「じつは」じぶんのいう「概念」(「動的」な「内なるもの」)にほかならないということを証明しようとする。そこでヘーゲルは「説明」という概念をもってくる。(後述)(118頁)
★さてヘーゲルは「法則」(Ex. ニュートンの万有引力の法則)と「法則の概念」を区別する。(118頁)
☆たとえば「万有引力の立場」では引くものと引かれるもの、「電気的世界観」では陽電気と陰電気という「対立」を含むものが「法則」だ。(118頁)
☆それに対して「法則の概念」は、固定的な契機の区別(Ex. 引くもの-引かれるもの、陰電気-陽電気)を越えて成立している「力そのもの」だ。(118頁)
(22)-8 ヘーゲルは「法則」と「法則の概念」は「ちがったものでありながら、じつはちがわないものだ」ということを明らかにするために「説明」という概念をもち出す!「電力」によって「陰陽の電気現象」を「説明」するのは「同語反復」だ!(「電力という概念」そのもののうちに「陰陽の対立」がこっそり入っている!)
★ヘーゲルは「法則」(「対立」を含む;Ex. 引くもの-引かれるもの、陰電気-陽電気)と「法則の概念」(力そのもの;Ex. 重力・電力)とはちがったものと考えるが、さらにこれら二つ(「法則」と「法則の概念」)は「ちがったものでありながら、じつはちがわないものだ」ということを明らかにするために「説明」という概念をもち出す。(119頁)
★「説明」とは、例を上げていうと、「稲妻」が起こるとき、その稲妻を「電気現象」と考え、その電気現象
から「陰陽の法則」を立て、さらにこの法則から「電力」を設定し、その「電力」によって「稲妻」の「電気現象」を「説明」することだ。(119頁)
☆この場合、「電力そのもの」と「陰陽電気」とは一応別だが、外形はちがっても内容は同じであるから、「電力」によって「陰陽の電気現象」を「説明」するのは、「電力という概念」そのもののうちに「陰陽の対立」をこっそりいれておいて「説明」しているのだ。(119頁)
☆したがって、これは「説明」できるようにしておいて「説明」するずるいやり方ですから、ヘーゲルは「同語反復」と呼ぶ。
★ヘーゲルは「説明」に対して「同語反復」と悪口ばかり言っているように見えるが、全体的に見るとへーゲルはじつは「同語反復」ということに「深い意味を認めている」。(119-120頁)(後述:「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ロ「超感覚的世界あるいは法則」(続)(117-120頁)
(22)-4 ヘーゲルの『精神現象学』は「『現象』とそれを超えた『彼岸』(真実のものor精神そのものor超感覚的世界)という二つを分離せずに結合する」!
★くりかえし述べてきたように、ヘーゲルの『精神現象学』は「精神そのもの」をではなく、「精神」の「現象」を取り扱う。(117頁)
☆この意味で『精神現象学』の内容は「虚偽のもの」でもある。しかし「虚偽のもの」といえども「真実のもの」を離れていない。(117頁)
☆逆に「真実のもの」といえども「虚偽のもの」を離れてはいない。(117頁)
☆そこに『精神現象学』が「現象学」(※「虚偽のもの」を含む)でありながら「精神哲学」(※「真実のもの」)であり、また「『現象』とそれを超えた『彼岸』(真実のものor精神そのものor超感覚的世界)という二つを分離せずに結合する」ゆえんがある。(117頁)
☆その見地に立ってヘーゲルは、「超感覚的なものを全然認識できないとするカント」に反対する。(117頁)
(22)-5 「現象界」では「雑多であったもの」が「内なるもの」では「単純のもの」(具体的にいうと「引力と斥力」、「陽電気と陰電気」、「時間と空間」というような「一般的区別」)に還元される!そこに「法則」が生まれるが、これ(「法則」)が「内なるもの」(「超感覚的なるもの」)の内容を示す!
★では「超感覚的なもの」と「現象」との結びつきはどうしてできるか?ここでヘーゲルは「法則」という概念をもち出してくる。(117頁)
☆いま我々が到達している「悟性」の立場(Cf. 1「感覚」2「知覚」3「悟性」)では、「一と多」・「自と他」・「個別と普遍」というものはただ分離されているのでなく、相互に他に転換するのであり、したがって根底に「統一」がある。(117頁)
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」の目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」2「知覚」3「悟性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
☆しかしそうかといって「対立」がないわけでなく、「対立され区別されながら相互に他に転換するところに成立する『統一』」がある。(117頁)
☆すなわち「現象界」においては極めて雑多に対立され区別されているものが、「内なるもの」(「超感覚的なもの」)という雰囲気の「統一」のなかにおかれる。そのために「現象界」では「雑多であったもの」が「内なるもの」では「単純のもの」(具体的にいうと「引力と斥力」、「陽電気と陰電気」、「時間と空間」というような「一般的区別」)に還元される。(117-118頁)
☆そこに「法則」が生まれる。これ(「法則」)が「内なるもの」(「超感覚的なるもの」)の内容を示す。(118頁)
(22)-6 「法則」では、「対立」が「存在」という境地にひたされ「固定化」され、したがって「動的に互いに他に転換」しない!「法則」は、ヘーゲルの考える(「主体」としての)「概念」(「動的」な「内なるもの」)に極めて接近しながら、まだ「概念」ではない!
★しかし「法則」では「引力と斥力」、「陽電気と陰電気」、「時間と空間」というような「対立」が、「存在」という境地にひたされるため、その「対立」が「固定化」され、したがって「動的に互いに他に転換」せず、「ダイナミカルなもの」とならない。(118頁)
★「法則」というものは、ヘーゲルの考える(「主体」としての)「概念」(「動的」な「内なるもの」)に極めて接近しながら、まだ「概念」ではない。(118頁)
《参考1》「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)
☆ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)
☆ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
☆かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)
《参考》ヘーゲルは「悟性」の段階で、「自然科学」、ことに「ニュートンの引力の法則」などを批判しているが、ここでヘーゲルは「『法則』とはじつは『概念』にほかならぬ、即ち『主体』にほかならぬ」、あるいは「『実体』は『主体』である」という自分(ヘーゲル)の哲学の根本的テーゼを証明しようとしているのだ。(112頁)
(22)-7 ヘーゲルは「法則」(「対立」を含む;Ex. 引くもの-引かれるもの、陰電気-陽電気)と「法則の概念」(Ex. 「力そのもの」)を区別する!
★そこでヘーゲルは、「法則」が、「じつは」じぶんのいう「概念」(「動的」な「内なるもの」)にほかならないということを証明しようとする。そこでヘーゲルは「説明」という概念をもってくる。(後述)(118頁)
★さてヘーゲルは「法則」(Ex. ニュートンの万有引力の法則)と「法則の概念」を区別する。(118頁)
☆たとえば「万有引力の立場」では引くものと引かれるもの、「電気的世界観」では陽電気と陰電気という「対立」を含むものが「法則」だ。(118頁)
☆それに対して「法則の概念」は、固定的な契機の区別(Ex. 引くもの-引かれるもの、陰電気-陽電気)を越えて成立している「力そのもの」だ。(118頁)
(22)-8 ヘーゲルは「法則」と「法則の概念」は「ちがったものでありながら、じつはちがわないものだ」ということを明らかにするために「説明」という概念をもち出す!「電力」によって「陰陽の電気現象」を「説明」するのは「同語反復」だ!(「電力という概念」そのもののうちに「陰陽の対立」がこっそり入っている!)
★ヘーゲルは「法則」(「対立」を含む;Ex. 引くもの-引かれるもの、陰電気-陽電気)と「法則の概念」(力そのもの;Ex. 重力・電力)とはちがったものと考えるが、さらにこれら二つ(「法則」と「法則の概念」)は「ちがったものでありながら、じつはちがわないものだ」ということを明らかにするために「説明」という概念をもち出す。(119頁)
★「説明」とは、例を上げていうと、「稲妻」が起こるとき、その稲妻を「電気現象」と考え、その電気現象
から「陰陽の法則」を立て、さらにこの法則から「電力」を設定し、その「電力」によって「稲妻」の「電気現象」を「説明」することだ。(119頁)
☆この場合、「電力そのもの」と「陰陽電気」とは一応別だが、外形はちがっても内容は同じであるから、「電力」によって「陰陽の電気現象」を「説明」するのは、「電力という概念」そのもののうちに「陰陽の対立」をこっそりいれておいて「説明」しているのだ。(119頁)
☆したがって、これは「説明」できるようにしておいて「説明」するずるいやり方ですから、ヘーゲルは「同語反復」と呼ぶ。
★ヘーゲルは「説明」に対して「同語反復」と悪口ばかり言っているように見えるが、全体的に見るとへーゲルはじつは「同語反復」ということに「深い意味を認めている」。(119-120頁)(後述:「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」)