宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」(続):「現象」と「法則」は、「変化」と「静止」の区別がなく、「現象界」と「叡知界」が一つになる!

2024-05-19 13:19:51 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」(続)(121-122頁)
(23)-4 「現象」の世界と「法則」の世界とは、「変化」と「静止」として対立するが、「無限性の立場」によって「変化」と「静止」の区別はなくなり、「現象界」と「超感性的世界」(「叡知界」)が一つになる!  
★ヘーゲルは「無限性」の概念をいれてきて、がんらい「法則」は「静的」であるが、じつは「動的」であると考える。(121頁)
☆「現象」が「生成流転し変転きわまりない」のであるのに対し、「法則」は「静止した恒常の世界」を形づくるものと考えた場合には、「現象」の世界と「法則」の世界とは、「変化」と「静止」として対立する。(121頁)
☆だが「無限性」の概念を通ずることによって、「法則」(本来は「静止した恒常の世界」を形づくる)にも、「変化」がはいりこむ。(121頁)

★「内なるもの」・「超感性的なもの」と「現象」・「感性的なもの」とが別々のものとして考えられているかぎり、一方は「静止」、他方は「変化」だ。(121頁)
★しかしいまや「無限性」の立場によってその区別がなくなり、「現象界」と「超感性的世界」が一つになる。(121頁)
☆かくて「現象」は引力と斥力、陰電気と陽電気、時間と空間というような「思惟される一般的規定」に即して「超感覚的世界」(「叡知界」)のなかに全くとりいれられる。(121-122頁)
☆いいかえれば「内なるもの」は、最初は全く「現象界の彼岸」として無内容であったのに、いまや「現象界」と同じものになり、「感覚される個々の性質を止揚する『一般的規定』」に即してであるにしても、「現象界」は「叡知界」のうちにスッカリ取り入れられたといえる。(122頁)

(23)-5 「無限性」とは、「絶対的なる概念」、「生命」、「生命の単純なる本質」、「世界の心」、「偏在せる血」である!「無限性」はヘーゲルの「概念」にほかならない!  
★「無限性」の概念についてヘーゲルは『体系断片』(1800)で次のように述べる。「この単純なる『無限性』または『絶対的なる概念』は、これを『生命の単純なる本質』、『世界の心』、『偏在せる血』と呼ぶことができる。即ち『①一切のうちに現在して、②いかなる区別によっても妨げられ遮られることなく、かえって③それ自身区別であると共に一切の区別を止揚しており、したがって④おのれのうちで脈打ちながらしかも動揺することなく、⑤おのれのうちで震動しながらしかも不安なることのない』ところの『偏在せる血』と呼ぶことができる。」(122頁)
☆このようにヘーゲルは『体系断片』(1800)で、「生命」という見地から世界観を展開するが、その「生命」は「無限性」と全く同一だ。(122頁)

《参考1》「対立」と「統一」の「無限の運動」(「無限性」)こそが「実在」の「真理」だ。(120頁)
《参考2》「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない。「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ。ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」と名づける。「実在」の「無限性」(「無限の運動」)こそが「真理」だ。(120-121頁)

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