宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

アリストテレス:アイステーシス(感覚)と「理念」の視見(ノエーシス)との「真理性」は、根源的な発見である」! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(b)(その4)

2019-10-31 11:13:17 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その4)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念(※真理は「認識と対象との合致」だ!)の派生的性格」(219頁-)(その4)
(7)アリストテレス:「アイステーシス(感覚)と『理念』の視見(ノエーシス)との『真理性』は、根源的な発見である」! 
R アリストテレスは、「真理の根源的な『ありか』は判断である」というテーゼを提唱していない。(226頁)
R-2 彼は、「ロゴスは現存在の存在様相であって、それが発見的あるいは隠蔽的でありうる」と告げる。(226頁)
R-3 彼は「ロゴスの真理概念を純粋なノエイン(思考すること)にまで『拡張』する」こともしなかった。(226頁)
S つまり「アイステーシス(感覚)と『理念』の視見(ノエーシス)との『真理性』は、根源的な発見である。」(226頁)
S-2 そして「ノエーシス(視見)が第一義的に発見的であるからこそ、ロゴスもディアノエイン(思考)として発見機能をもつことができる」。(226頁)

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言明と存在者との「連絡」(《なにごとかが発見されてある》こと)が、言明(認識=主観)と存在者(対象=客観)との「合致」と言い換えられた! ハイデガー『存在と時間』「第44節」(b)(その3)

2019-10-30 15:58:31 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その3)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念(※真理は「認識と対象との合致」だ!)の派生的性格」(219頁-)(その3)
(5)-2 「現存在はいつもすでに真理と非真理との内にある」!(222頁)
M-3「パルメニデスを導いてゆく真理の女神が、彼を発見の道と隠蔽の道との両道に臨ませる。」(222頁)

(6)被発見態(真理性)は、語りだされた言葉のなかで保存されている!
N 「内世界的存在者のもとでの存在、すなわち配慮は、発見的に存在する。」(223頁)
→「しかるに現存在の開示態(※了解)には、本質的に話がぞくしている。」(223頁)
→「現存在は・・・・存在者へむかう発見的存在としての自己を発言する。」(223頁)
→すなわち現存在は「言明において、発見された存在者について発言する。」
→そして「言明は被発見態(真理性)のありさまにある存在者を伝達する。」(223-4頁)
N-2 「被発見態(真理性)は、語りだされた言葉のなかで保存されている。」(224頁)
N-3 また「被発見態は、広い範囲にわたって、各自の発見によらずに、世間で言われていることの伝聞によって領得される。」(223頁)

(6)-2 「言明」と「存在者」との「連絡」!「連絡」とは《なにごとかが発見されてある》ということである! これが伝統的な真理概念では、「言明」という客体的存在者と、(話題になっている)「存在者」という客体的存在者の間の「客体的合致」という相を呈する!
O 「言明は一種の用具的なものである。」(224頁)
O-2 「言明が、発見的言明として連絡をもっている存在者は、世界の内部で用具的もしくは客体的に存在する」。(224頁)
O-3 「言明」と「存在者」との「連絡」!「その連絡は、言明のなかで保存されている被発見態が、それぞれ《なにごとかの被発見態である》という点にある。」(224頁)
P 「この連絡は、ふたつの客体的存在者の間の関係へと切り換えられる。」かくて「この連絡は・・・・それ自身、客体的な性格をおびる。」(224頁)
P-2 「《なにごとか(Ex. リンゴ)が発見されてある》ということは、語りだされた言明(Ex.「リンゴがある」という言明)という一方の客体的存在者が、話題になった存在者(Ex. リンゴ)という他方の客体的存在者に適合しているという客体的適合性(※「合致」)に変えられる。」(224頁)
P-3 かくて「《なにごとか(Ex. リンゴ)が発見されてある》ということ」(つまり言明と存在者との「連絡」という事態)が、語りだされた「言明」という客体的存在者と、話題になっている「存在者」という客体的存在者の間の「客体的合致」という相を呈することになる。(224頁)
《感想6》ハイデガーはすでに言っている。「真理性は、ある存在者(主観)が他の存在者(客観)へ同化するという意味での、認識と対象との合致というような構造をなんらそなえていない。」(219頁)

(6)-3 伝統的な真理概念の存在論的な派生的性格!
Q 「開示態(※了解)としての真理性は、また発見された存在者へむかう発見的存在としての真理性は、世界の内部に客体的に存在する二つの存在者(※言明と存在者、知性と事物、判断の理念的意味内容と実在的事物、認識(判断)と対象、主観と客観)の間の合致という意味での真理性となった」。(225頁)
Q-2 かくて「伝統的な真理概念の存在論的な派生的性格」が明らかになった。(225頁)

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「現存在は真理の内にある」と同根源的に「現存在は非真理の内にある」! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(b)(その2)

2019-10-28 17:44:43 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その2)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(219頁-)(その2)
(5)「現存在は真理の内にある」と同根源的に「現存在は非真理の内にある」!(222頁)
L 「現存在は真理の内にある」(その1):「現存在とその開示態の存在(※関心)とともに、同根源的に、内世界的存在者の被発見態(※真理性2)がある。」(221頁)
《感想5》ハイデガーは言う。「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」(132頁)

L-2「現存在は真理の内にある」(その2):「現存在の存在構成には・・・・被投性が備わっている。」(221頁)「開示態は本質的に、事実的な開示態である。」(221頁)
《感想5-2》「事実性」とは、「被投性」のことだ。つまり現存在は「特定の世界の内で、特定の内世界的存在者の特定の範囲にたずさわる存在である。」(221頁)

L-3「現存在は真理の内にある」(その3):「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。つまり現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」である。「自己を自己自身に開示する」という「本来的開示態」は「もっとも根源的な真理性の現象」である。(221頁)
《感想5-3》ハイデガーは言う。現存在は「おのれに先立つ存在」である。すなわち現存在は、①《「投企」するおのれ》(「存在可能」)として存在するだけでなく、②「ある世界の内にすでに」存在している。

L-4 「現存在は真理の内にある」(その4):「現存在の存在構成には頽落がそなわっている。」頽落「世界」のなかへの自己喪失である。つまり「存在可能性への投企としての了解」は「世間das Man」に融けこみ、「公開的既成解釈」によって支配されている。「存在者」は「歪められている」、つまり「存在者」は「仮象の様態で現れている」。(221-2頁)「現存在は本質的に頽落するゆえに・・・・『非真理』Unwharheitのうちにある」。

M 現存在は「仮象の様態における被発見態」から出発して、「被発見態(真理性)をくりかえし確保しなくてはならない」。(222頁)
M-2 「真理性(被発見態)は、いつもあらためて存在者から奪取されなくてはならない」。(222頁)

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真理性は、被発見態(真理性2)と現存在=発見的存在(真理性1)だ!「真1」は「発見すること」&「真2」は「発見された」存在者だ! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(b)(その1)

2019-10-27 12:16:55 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(その1)

(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」(219頁-)(その1)
(4)真理性2:(すでにアリストテレスが指摘したように)アレーテイア(真理)とは「事象そのもの」、「自己を現示するもの」、「被発見態(隠れなさ)における存在者」である!
I 「真であること(真理性)とは、発見的である(※真理性2+真理性1)ということである。」かくて「真理の概念のなかから合致の理念を・・・・排除する。」(219頁)
I-2 これは「古代哲学の最古の伝統が予感していた事」である。アリストテレスによれば、「真である」とは、「存在者を、隠れたさまから引き出してきて、その隠れなきありさま(被発見態)においてみさせること」である。(219頁)
I-3 アレーテイア(真理)とは、アリストテレスによれば、「事象そのもの」、「自己を現示するもの」、「被発見態(隠れなさ)における存在者」である。(219頁)

(4)-2 真理性1:第一義的に「真である」もの、すなわち発見的であるものは、現存在である!
J 「真理性は、被発見態(※真理性2)と(※現存在のひとつの存在様相としての)発見的存在(※真理性1)である」。(220頁)
J-2 「第一義的に『真である』もの、すなわち発見的であるものは、現存在である。第二の意味での真理性とは、発見的であること(※発見)ではなく、発見されていること(※被発見態)である。」(220頁)
J-3 第一の意味で「真」である「発見すること」は、「世界内存在の存在様相のひとつである。」「(※道具に対する)配視的配慮も、また静かに立ち留まって注視する(※観想的理論的な)配慮も内世界的存在者を発見する。」(220頁)
J-3 第二の意味で「真」であるのが、「発見された」存在者である。(220頁)

(4)-3 内世界的存在者の被発見態(※真理性2)は、世界の開示態にもとづいている!
K ところで「内世界的存在者の被発見態(※真理性2)は、世界の開示態にもとづいている。」(220頁)
K-2 「開示態とは、現存在がそれに応じておのれの現を存在するところの根本様相である。」(220頁)
K-3 「開示態は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話によって構成され、そして世界、内存在ならびに自己に、同根源的にかかわっている。」(220頁)
K-4 「《おのれに先立って――内世界的存在者のもとにあることとしての――世界の内にすでに存在すること》」という関心の構造は、現存在の開示態をうちに含んでいる。」(220-1頁)
K-5 「被発見態(※真理性2)はこの開示態とともに、かつこれによって存在するのであり、したがってわれわれは、現存在の開示態にいたって、はじめて真理性のもっとも根源的な現象に達するのである。」(221頁)

(4)-4 現存在は本質上「真なるもの」である!現存在は「真理の内にある」!
K-6 「現存在が本質上おのれの開示態を存在し、このように開示された現存在としてものごとを開示し発見するかぎり、現存在は本質上『真なるもの』である。現存在は『真理の内にある』。」(221頁)
K-7 「現存在は『真理の内にある』」という言明は、「現存在の実存論的構成には、ひとごとでない自己の存在の開示態がそなわっている、ということなのである。」(221頁)(※ここで「自己」とはモナドのことだ。モナドにおいては、「超越」、「外部」はなく、例えば、感覚においては「物」の像・反映でなく、「物」そのものが出現する。この「そのもの」であることが真理性だ!)

《感想2》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。(※第39節《感想6-3》参照)
・「この存在者(※現存在)は、そのもっとも固有な存在において、閉ざされていない。」「《そこ》(『現』、Da)という表現は、この本質的な開示態を指そうとするものである。」「この開示性によって、この存在者(現存在)は、世界の現存とともに、おのれ自身にむかって《そこ》に存在している。(※かくて了解が可能となる!)」(132頁)
・「現存在はおのれの開示態(Erschlossenheit)を存在する。」比喩的に言えば「人間(※現存在)は内に『照明』を含んでいる」「人間(※現存在)は・・・・・・みずからその明るみ(Lichtung)を存在する。」(133頁)
《感想2-2》上記(132-133頁)についての私見:無でなく有である(存在者が存在する)こと(※恐るべき謎だ!)を、「閉ざされていない」こと、「開示態を存在する」こと、「明るみを存在する」ことと、ハイデガーは表現する。「了解」以前に、何ものかが「開示」されているという出来事こそが有(存在者の存在)なのだ。

《感想3》ハイデガーは「開示態」について、次のように述べている。(続)(※第39節《感想6-3》参照)
・視(Sicht)は、「現存在の明るみ(Lichtung)」とよぶべき内存在の開示態(※自己意識)のなかで初めて可能になる。(170頁)
・ 「①世間話(空談)(das Gerede)、②好奇心(die Neugier)、③曖昧さ(die Zweideutigkeit)は、現存在(※自分のこと!)が日常的におのれの『現』を――世界内存在の開示態を――存在しているありさまの性格である。」(38節175頁)
・「現存在の開示態の存在は、心境(情状性)、了解(※意識性)および話において構成される。」(180頁)Cf.「話(Rede)は、心境(Befindlichkeit)および了解(Verstehen)と、実存論的には同根源的である。」(161頁)

《感想4》ハイデガーは「発見態」について、次のように述べている。(※第39節《感想6-3-2》参照)
・「現存在は世界内存在であるから、いつでもすでにひとつの『世界』を発見している。」この発見は「存在者をある趣向(適所)全体性へ向けて明け渡す」こととして性格づけられる。(110頁)
・「存在論的には、世界の第一義的な発見を、原理的に『たんなる気分(※心境=情状性)』にゆだねなくてはならない」。(138頁)
・「言明的な挙示は、《了解のなかですでに開示され、あるいは配視的に発見されていたものごと》をもとにしておこなわれる。」(156頁)
・「客体的なものごとの発見は用具的現前性を蔽いかくす。」(158頁)

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言明が真であるということ(真理性)は、存在者をそれ自体のありさまで発見することである! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(a)

2019-10-25 19:03:34 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(a)「伝統的な真理概念とその存在論的基礎」

(a)「伝統的な真理概念とその存在論的基礎」(214頁-)
(2)伝統的真理概念:真理は「認識」(「判断」)と「対象」との「合致」である!
C 伝統的真理概念は3つのテーゼで特徴づけることができる。(214頁)
第1「真理の『ありか』は言明(判断)である。」
第2「真理の本質は判断がそれの対象と『合致する』ことにある。」
第3「論理学の父であるアリストテレスが、真理をその根源的なありかとしての判断に帰し、また真理を『合致』とする定義を開始した。」(214頁)
D カントもこの伝統的真理概念を堅持していて、「真理とは認識がその対象と一致することである」(『純粋理性批判』第2版82頁)とする。(215頁)

(2)-2 真理が、「知性」と「事物」との「合致」であるとは、どういうことか?
E 伝統的真理概念における「認識」(「判断」)と「対象」との「合致」とは何か?(215-6頁)
E-2 すなわち「知性」(intellectus)と「事物」(res)との「合致」(adaequatio)とは何か?(215-6頁)
E-3 この「合致」関係は、一方では「判断の理念的意味内容」、他方で「実在的事物」との間の関係である。(216頁)

(3)認識が真理性を自己証示する!
F 「認識することそのものの存在様式の解明が不可避的だ」。(217頁)
F-2 「認識が真なるものとしてみずから証しを立てる。」「自己証示が認識にその真理性を保証する。」(217頁)
F-3 「証示(Ausweisung)の現象的連関のなかで、合致関係(Übereinstimmungsbeziehung)が見えてくるはずだ。」(217頁)
F-4 「言明することは、存在的な事物そのものへむかう存在である。」(Das Aussagen ist ein Sein zum seienden Ding selbst.)(218頁)

《感想1》現存在において、「存在」とは、「存在了解」であり「投企」であり「関心」(気遣い)である。
《感想1-2》かくて「言明すること」は、「存在了解」であり「投企」であり「関心」(気遣い)であり、つまり「存在」である。

《参照1》「存在了解は、われわれ自身がそれであるところの存在者つまり現存在に備わっている。」(「序にかえて」)
《参照1-2》「了解(※意識)は、現存在の存在をそれの主旨(目的)(Worum-willen)へむかって投企するばかりでなく、それと同じく根源的に、現存在のそのつどの世界の世界性としての有意義性(Bedeutsamkeit)へ向かって投企する。」(145頁)
《参照1-3》「存在は、存在了解(※ノエシスとノエマの分裂的統一としての意識)というようなものをおのれの存在にそなえている存在者(※現存在、モナド)の了解のなかにのみ『ある』。」(183頁)
《参照1-4》「存在の意味への問いは、そもそも、存在了解というようなものが、存在しているからこそ可能になる。」(200頁)「われわれが現存在となづける存在者の存在様式には、この存在了解が備わっている。」(200頁)
《参照1-5》「存在は存在了解に依存している」。すなわち「実在性は関心に依存している」。(212頁)

(3)-2 言明が真であるということ(真理性)は、存在者をそれ自体のありさまで発見することである!
G 「言明は発見的である。」つまり「言明において志向されていた存在者そのもの」が、「それがそれ自体においてある通りのありさまで現れてくる。」(218頁)
G-2 「知覚」によって「証示さるべきことは、認識と対象との合致ではなく・・・・存在者そのものが発見されてあること、その被発見態のありさまにおける存在者そのものである。」(218頁)
G-3 「言明が真であるということ(※真理性)は、存在者をそれ自体のありさまで発見することである。」「言明が真であること(真理性)は、発見的であることとして理解されなくてはならない。」(218頁)
G-4 「言明は、言明し挙示する、すなわち存在者をその被発見態において『見えるようにする』。」(218頁)
G-5 かくて「真理性は、ある存在者(主観)が他の存在者(客観)へ同化するという意味での、認識と対象との合致というような構造をなんらそなえていない。」(219頁)
H 「発見的であるという意味での真であることは、存在論的には、世界内存在にもとづいてのみ可能である。」(219頁)(※以下(b)で言及する。)

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「真理」とは「事象」や「自己自身を現示するもの」と同じことを意味している! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第44節」(序論)

2019-10-24 13:46:43 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心(Sorge、気遣い)」「第44節 現存在、開示態および真理性」(序論)

(1)「真理」とは「事象」や「自己自身を現示するもの」と同じことを意味している!「真理」という表現は、用語的に「存在者」および「存在」を表わすものとして用いることができる!
A アリストテレスは、パルメニデスに言及しつつ、「『真理』とは『事象』や『自己自身を現示するもの』と同じことを意味している」とする。つまり「『真理』という表現は、用語的に『存在者』および『存在』を表わすものとして用いることができる」とする。(213頁)
A-2 それはしかし、何を意味するのか?(213頁)
A-3 「真理性(Wahrheit)が存在(Sein)と根源的連関をなしている。」「存在はじっさい真理性と『相伴う』。」(213頁)

(1)-2 「第44節 現存在、開示態および真理性」の分析手順!
B 第44節の分析手順。(214頁)
(a)「伝統的な真理概念とその存在論的基礎」:伝統的真理概念から出発し、そしてそれの存在論的基礎を露呈する。(214頁)
(b)「真理性の根源的現象と伝統的真理概念の派生的性格」:真理性の根源的現象にもとづいて、伝統的真理概念の派生的性格を挙示する。(214頁)
(c)「真理の存在様相と真理の前提」:「真理性の『本質』への問いには、真理性の存在様相への問いも必然的にぞくしている」が、さらに「『真理がある』という言い方の存在論的意味」、また「真理が『ある』と『われわれが前提せざるをえない』必然性の様態」を解明する。(214頁)

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昼の生、夜の生(夢)、予感の生、それら生の多様さは、君の脈拍(生きた身体)によってのみ担保される! ベーア=ホフマン『ある夢の記憶』(1900)

2019-10-20 22:37:04 | Weblog
※リヒァルト・ベーア=ホフマン(Richard beer-Hofmann)(1866-1945)
※“ウィーン世紀末文学選”岩波文庫(1989)所収

(1)
「涼しい陽ざしの秋」とどこかで出会えないものかと願い、パウルは午後になるといつも出かけていった。
(2)
公園の池の畔(ホトリ)に二人の女(母娘)がいた。娘の腕がひどく細い。彼が気づくと、すで二人は去っていた。パウルは、再び別の池で、その二人の女と会う。しかし今度の池には、水がなかった。
(3)
パウルは、かつて亡くなった女が、細い腕と指をしていたことを思い出した。パウルは、その亡くなった女のために苦しんだ。だがそれは一度も生きたことのない(夢の中の)女だった。
(4)
もはや目覚めない夢がある。それは、夢のあとに現実の死が押し入り終わる夢だ。夢は、目覚めることができる限りで夢となる。(※目覚めない夢は、夢でない!)
(5)
青年ゲオルクは、そのような夢のまま死んだ。そのように死んだ者たちの夢は運命だ。彼はやわらかな髪と陽焼けした顔を持っていた。
(6)
数ヶ月前、ゲオルクが死んだ夏の夜に夢見た夢を、パウルは思い出した。すると突風がふき、あの二人の女が灰色のほこりの中に消えた。
(7)
パウルの人生に女たちもいたし、彼女たちを彼は愛した。だがパウルは、自分と遭遇する何であれ、そこに自分自身しか求めなかった。女たちの内には破壊されたものだけが残った。
(8)
パウルは「昼の生」をあこがれのうちに生きた。彼はまたより豊かでより甘美な「夜の夢の生」のうちで生きた。さらに第3に彼は「予感の生」を生きた。夕べの時間がパルに予感を与えた。
(9)
この夕べの時は、パウルの先祖たちの、あの血を教えてくれた。正義の神に仕えながら、先祖たちはさまよった。(※ベーア=ホフマンはユダヤ系である。)
(10)
パウルは、公園の最初の池のそばに立っていた。ゲオルクが死んだあの八月の夜に夢見た夢を、パウルは再び思いだした。そして彼は、亡くなる前の日に会ったゲオルグを思い出した。パウルはゲオルグを愛した。
(11)
パウルは今、疲れていた。しかし彼は重い疲れの中に、安らぎと確かさを感じていた。彼はそれを、みずからの血の動きをしるす脈拍のうちに感じていた。

《感想1》
著者は34歳。多くの女との恋を知り、また愛した女の死も知る。今、愛した青年ゲオルグの死も知る。彼はユダヤ教徒の先祖の苦難の生も知る。
《感想2》
彼は、昼の生、夜の生(夢)、予感の生(ユダヤ教徒の苦難の予感)を生きる。
《感想3》
だが彼は結局、みずからの血の動きをしるす脈拍に、安らぎと確かさを知る。脈拍だけが生の確かさだ。「昼の生」も、「夜の生」(夢)も、「予感の生」も、それら生の多様さは、君の脈拍(生きた身体)によってのみ担保される。
《感想4》
だがなんと儚(ハカナ)い生だろう。「一滴の毒薬」(パスカル)によって君は死ぬ。
《感想5》
だが「考える芦」は偉大か?「考える芦」(人間)は愚かだ。人間たちは「毒薬」(大量破壊兵器・通常兵器・内戦・悪意・憎悪)によって殺し合う。人間史は無意味な地獄だ。
《感想5-2》
人間史の唯一の救いは地獄に「飛び地」があることだ。全人類が死に絶えることなく、一部が「飛び地」に生き残る限り「偉大」な人間史は続きうる。
《感想5-3》
ベーア=ホフマンはオーストリアの作家。第1次世界大戦(1914-18、48-52歳)、第2次世界大戦(1939-45、73-79歳)を知る。1938年、アメリカ合衆国に亡命し、ニューヨークで死去。政治的にはシオニストの立場をとった。

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現存在が存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている》!実在性は関心に依存している! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第43節」(c)

2019-10-19 23:50:01 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第43節 現存在、世界性および実在性」「(c)実在性と関心(Ralität und Sorge)」

(11)用具性と客体性が実在性の様態である!
P 「実在性は、存在論的名称としては、内世界的存在者(世界内部的存在者)に関わるものである。・・・・用具性(Tuhandenheit、道具的存在性)と客体性(Vorhandenheit、事物的存在性)が実在性の様態」である。(211頁)
P-2 「実在性」は「伝統的な意義」では「事物の客体性」という意味での「存在」を指す。(211頁)

(11)-2 現存在が存在しているかぎりでのみ、存在が《与えられている》!実在性は関心に依存している!
Q だが「実在性(Ralität)は・・・・関心(Sorge)の現象へさしもどされるべきものである。」(211-2頁)
Q-2 そもそも「現存在が、すなわち存在了解の存在的可能性が、存在しているかぎりでのみ、存在が《与えら
れている(es gibt)》のである。」(212頁)
Q-3 「現存在が実存していないならば、存在者が存在するとも、存在者が存在しないとも言うことができない。」(212頁)
Q-4 「存在は存在了解に依存している」。すなわち「実在性は関心に依存している」。(212頁)

《感想11》存在の謎、存在が《与えられている(es gibt)》という奇跡!無でなく、存在するという謎!《与えられている(es gibt)》とは、ある出来事が起きている(Cf. ここでは存在という出来事が起きている)ということだ。

(11)-3 人間(※現存在)の実体は実存である!
R 「現存在という存在様式を持つ存在者は実在性や実体性をもとにしては理解されえない。」つまり「人間(※現存在)の実体は実存である。」(212頁)
R-2 そして「実存性」は「関心」である。(212頁)

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世界内存在つまりモナドに「外界」はない!デカルトの「われ思惟す、われ存在す」は、「われ存在す、われ思惟す」と逆転する必要がある! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第43節」(b)

2019-10-17 22:48:26 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第43節 現存在、世界性および実在性」「(b)存在論的問題としての実在性」

(8)ディルタイ:実在的なものは、衝動や意志の中で経験される!実在性とは抵抗性である!
L「実在性(Realitat)という名称は世界の内部に客体的に存在する存在者の(res)の存在を指す」。(209頁)
M ディルタイが言う。「実在的なものは、衝動や意志の中で経験される。実在性は抵抗(Widerstand)であり、いっそう正確にいえば抵抗性である。」(209頁)
Mー2 またディルタイは言う。「生」は「その『背後へ』遡ることはできない」。(209頁)
《感想8》ディルタイが言う「生」は、実は超越論的主観性、モナドである。それは出現している世界・宇宙そのものであり「背後」がない。これをハイデガーは現存在すなわち世界内存在と呼ぶ。

Mー3 「抵抗性は、内世界的存在者(※事物)の存在の特徴である。」(210頁)
Mー4 「抵抗ということに含蓄されている『反』とか『対』という性格は、その存在論的可能性において、すでに開示されている世界内存在によって荷われている。」(210頁)
Mー5 「抵抗は・・・・それだけ遊離して『登場する』衝動や意志のなかで経験されるものではない。・・・・衝動や意志は実は関心の変様である。関心という存在様相をもつ存在者(※現存在)のみが、内世界的なものとしての抵抗的なもの(※事物)に出会いうる」。(211頁)

(9)世界内存在つまりモナドにとって「外界」はない!
N 「抵抗は、内世界的存在者(※事物)という意味での『外界』を特徴づけるものであるが、決して世界(※モナド、超越論的主観性、そこに事物が出現する場としての世界)という意味での『外界』の特徴ではない。」(211頁)

《感想9》モナドつまり世界内存在にとって「外界」はない。事物は「外界」(超越)でなく、モナドのうちで出現する。
《感想9ー2》すべてが「内界」だ!これを、つまりこのような出来事を、ハイデガーは「世界内存在」と呼ぶ。
《感想9ー3》「外界」は他モナドのみだ。
《感想9ー4》あるモナドが他モナドと出会えるのは、(a)モナドの構造的同一性(ノエシス・ノエマという出来事or作動の仕方における本質的同一性)、(b)感覚とりわけ触覚(相互に他なる抵抗性の出現)の間モナド生、(c)感情・欲望・意図(ハイデガーは「関心」と呼ぶ)における間モナド性、つまり共感的一体性、(d)触覚という《物の出現》において、相互的《他》の出現だけでなく、一方の《他》が同時に、この感情・欲望・意図の担い手でもあるという出来事(《自》)が生じることだ。(このモナドが、他のモナドに対して自モナドだと新たに確認される。)

N-2 「『実在性の意識』はそれ自身、世界内存在の一様態である。」(211頁)
《感想9ー5》「実在性の意識」とは《事物が客体的に、意識に超越して(意識の外に)存在する》と信じることだ。(これは日常的世界のドクサだ!)

(10)デカルトの《cogito sum》(われ思惟す、われ存在す)は、《sum cogito》(われ存在す、われ思惟す)と逆転する必要がある!
O デカルトの《cogito sum》(われ思惟す、われ存在す)は、「《sum cogito》(われ存在す、われ思惟す)と逆転する必要がある。」(211頁)
O-2 そして「その意味内容を存在論的=現象学的に検証する必要がある。」(211頁)
O-3 「 最初の言明は《sum》(われ存在す)であり、しかもそれは『われ世界のうちにあり』(※世界内存在、モナドが出現している)という意味である。」「このようなありさまで存在(※世界内存在)するものとして、私は、内世界的存在者(※事物)のもとでの存在の諸様態としての様々な態度(cogitationes)への存在可能性のうちにある。」(211頁)
O-4 「デカルトはこれに反して、次のように言う。cogitationes(※思惟作用)が客体的に存在する。またそのなかで(※cogitationesのなかで)一個のego(※われ)が無世界的な res cogitans(※思惟する実体)としてともに客体的に存在している。」(211頁)

《感想10》世界内存在という出来事、モナドという出来事の出現は、まことに奇跡だ。出現に理由がない。
《感想10ー2》ここで「私」とは非人称的な「関心」のことだ。それは非人称的な自発性であり、感覚の非人称的的な固有の揺れであり、非人称的な感情・欲望・意図である。
《感想10ー3》ハイデガーにとって《cogito》(われ思惟す)は関心であり、自発性の諸様態、すなわち感覚の固有の揺れ、感情・欲望・意図の諸様態である。

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現存在は、世界内存在であり、出現する世界そのものだ!現存在は「内」であって同時に「外」である! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第43節」(a)

2019-10-16 17:42:40 | Weblog
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第1編 現存在の準備的な基礎分析」「第6章 現存在の存在としての関心」「第43節 現存在、世界性および実在性」「(a)《『外界』の存在と証明可能性との問題》としての実在性」

(4)「外界問題」:「実在的なものは『意識から』独立に存在しうるや否や」という問題!
F 「外界問題」とは「実在性」が「自体および独立性という性格」をもつことに由来する問題である。つまり「実在的なものは『意識から』独立に存在しうるや否や」という問題、もしくは「意識は実在的なものの『圏』内へ超越しうるや否や」という問題である。(202頁)
F-2 実在的なものの独立性とは「何からの独立性」なのか?「超越」とは「何を超越する」のか?(202頁)
《感想4》「外界問題」とは、「意識」とは何か、「外界」とは何かという問題、あるいは「意識」と「外界」の関係の問題だ。

(4)-2「世界が存在するのかどうか」((a)《「外界」の存在の問題》)、また「世界の存在は証明されうるかどうか」((a)-2《「外界」の証明可能性の問題》)という問いは、無意味である!
G 「そもそも世界が存在するのかどうか、そしてそれの存在は証明されうるかどうかという問いは、世界内存在としての現存在が立てる問いとしては・・・・無意味である。」(202頁)

《感想4-2》ハイデガーは言う。現存在は「おのれに先立つ存在」(①②)である。すなわち現存在は①《「投企」するおのれ》(「存在可能」)として存在するだけでなく、②「ある世界の内にすでに存在している」。つまり「おのれに先立つ存在は、なお、十全に表現すれば、ある世界の内にすでに存在していることにおいて、おのれに先立つ、ということを意味する。」(192頁)
《感想4-2-2》なんと存在は《無》でなく、《有》=《世界》だ。《「投企」するおのれ》は、すでになにものかであって、つまり《有》=《世界》の内にあって、あるいは《有》=《世界》そのものであって、《無》でない。奇跡のようだ!
《感想4-3》現存在の存在は、「関心」(気遣い)(Sorge)である。ハイデガーは言う。「現存在の存在論的構造全体」は次のような「構造式」で把握される。すなわち「現存在の存在とは、《(世界の内部で出会う存在者)のもとでの存在として、(世界)の内にすでに、おのれに先立って存在する》ということである。」(※「おのれに先立つ存在」①②)「この存在は、われわれが用いる関心(気遣い)(Sorge)という名称の意義をみたす。」(192頁)

(5)カントにおいては「事物」も「意識」も「客体的に存在している」(Vorhandensein)!
H 「『外界問題』も、いつも内世界的存在者(事物や客観)を念頭に置いて立てられている」。(203頁)
H-2 「カントにおいては、『現存在』(Dasein)という用語は、意識の存在をも、事物の存在をも、ひとしく客体的な意味で指している。」(203頁)
H-3 カントにおいて、デカルト同様に、「意識」も「客体的に(※事物的に)存在している」(Vorhandensein)!(203頁)
H-4 「物的なものと心的なものとが相ともに現前して存在している(※《客体性》を持つ)」とカントは主張する。(204頁)
H-5 なおカントは立脚点を「主観」のなかに、「私の内」にとっている。「カントがそもそも『私のそとなる事物の現存在』の証明を要求していることだけでも、彼が問題設定の立脚点を主観のなかに、『私の内』のなかにとっていることをすでに示している。」(204頁)
《感想5》カントにとっては、「意識」も「事物」も《客体性》を持つ。(※《客体性》とは、カントの言い方では《現存在》とは、《客体性》である。)

(6)現存在は、世界内存在であり、出現する世界そのものだ!現存在は「内」であって同時に「外」である!
I 「『世界』が何から独立に、何の『そとに』存在している」のか?(205頁) 
I-2 「現存在は存在者として、いつもすでに、ある世界の内で存在している」。(205頁)
I-3 「関心の存在様相における存在構成の『アプリオリ的原理』は、いかなる現存在的な前提や態度よりも、『より先なるもの』である。」(206頁)

《感想6》現存在は、モナドであり、世界そのものだ。世界内存在とは、世界そのものがそこに出現しているということだ。現存在は、世界内存在であり、出現する世界そのものだ。現存在は「内」であって同時に「外」である。
《感想6-2》現存在はモナドであって、現存在はそれ自身、世界・宇宙・超越論的主観性である。かくて例えば、空間・物はモナドの中にある。現存在(モナド)の外に超越的な客観的空間・物はない。(参照:102頁)
《感想6-3》あるモナドにとって「外」とは他モナドだ。間モナド的(モナド共同的)という意味で「外的」・客観的な空間・物はある。超越的とは、間モナド的(モナド共同的)という意味だ。(参照:102頁)

(7)実在論は誤りで「存在論的無理解」にもとづく!観念論も誤りで「粗雑な実在論」におとらず素朴だ!
J 「実在論は実在性を、実在的なるものごとの間での実在的な作用連関によって存在的に説明しようと試みる。」これは誤りで、「存在論的無理解」に基づく。(207頁)
J-2 「存在は存在者によって説明できず、実在性はただ存在了解においてのみ可能である」。(207頁)
K 「観念論が、あらゆる存在者を主観なり意識なりへ還元するということであるならば・・・・方法的には、もっとも粗雑な実在論におとらず素朴なものである。」(208頁)
K-2 「観念論」が、「存在は決して存在者によって説明されず、いかなる存在者にとってもいつもすでに『超越的なもの』である」という意味なら、ここに「哲学的問題設定の唯一の妥当な可能性」がある。(208頁)

《感想7》現存在は二重に「おのれに先立つ存在」である。すなわち現存在は①《「投企」するおのれ》つまり「存在可能」として、おのれに先立つ存在である。また②現存在は「ある世界の内にすでに存在している」ことにおいて、おのれに先立つ存在である。(192頁)
《感想7(続)》現存在の存在は、「関心」(気遣い)(Sorge)である。「現存在の存在論的構造全体」は次のような「構造式」で把握される。すなわち「現存在の存在とは、《(世界の内部で出会う存在者)のもとでの存在として、(世界)の内にすでに、おのれに先立って存在する》ということである。」(192頁)
《感想7-2》参考:「けれども存在(※無でなく有であること)は、存在了解(※ノエシスとノエマの分裂的統一としての意識)というようなものをおのれの存在にそなえている存在者(※現存在、モナド)の了解のなかにのみ『ある』のである。」(183頁)

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