宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その4):藤原朝の皇子群像(c)穂積皇子(ホヅミノミコ)と但馬皇女(タジマノヒメミコ)の悲恋!

2021-07-31 14:24:13 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)-6 藤原朝の皇子群像:(c)穂積皇子(ホヅミノミコ)と但馬皇女(タジマノヒメミコ)の悲恋!(104-106頁)
E-8  十市皇女(トオチノヒメミコ)を愛した高市皇子(タケチノミコ)(654-696、天武の皇子)には妻・但馬皇女(タジマノヒメミコ)(天武の皇女;高市皇子は異母兄)がいた。その但馬皇女は、穂積皇子(ホヅミノミコ)(天武の皇子:但馬皇女の異母兄)を愛した。(104頁)
E-8-2  但馬皇女は、穂積を恋う歌を万葉集に三首残している。そのひとつ、穂積が近江の志賀の山寺(現在の崇福寺跡)に遣わされたときの歌。(104-105頁)
「後(オク)れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(シ)かむ 道の阿廻(クマミ)に 標(シメ)結(ユ)へわが背」(巻2、115)
(ひとりあとに残され、恋い焦がれ苦しんでいないで、いっそのこと追いかけて行きたい。道を間違えないように、道の曲がり角ごとに印を結び付けておいてほしい、愛しいあなた。)
《参考》「穂積皇子に勅(ミコトノリ)して近江の志賀の山寺に遣はしし時に、但馬皇女のつくりませる御歌一首」とある。但馬皇女との関係が天皇に咎められ、ふたりの仲を裂く目的で穂積皇子が志賀に遣わされたとの説がある。
E-8-2-2  やがて但馬が「竊(ヒソ)かに穂積に接(ア)った」。そのことは世の知る所となった。(105頁)

E-8-3  但馬の熱情に対し、穂積は一種の返歌も返していない。穂積にその愛が薄かったのか?そうではない。但馬がずっと後、708年に亡くなったのち、穂積は冬の日、雪の乱れ降る中に遠くその墓を望み見て、悲傷し涙を流して一首をよんだ。(105-106頁)
「降る雪は あはにな降りそ 吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡の 寒からまくに」(巻2、203)
皇女の墓は「吉隠の猪養の岡」(現在の桜井市吉隠)に営まれた。「雪よ、そんなに多く降るな。吉隠(ヨナバリ)の 猪養(ヰカヒ)の岡に眠るあの人が寒がるから」。
E-8-3-2  穂積が晩年、酒宴に好んで口ずさんだと言う戯れの歌がある。
「家 にありし 櫃(ヒツ)に鍵さし 蔵めてし 恋の奴(ヤツコ)の つかみかかりて」(万葉集巻16-3816)
恋という奴隷をしっかりと家の櫃の中に閉じ込めていた。だのにこいつは、つかみかかって来る。但馬皇女への忘れられない 思いを歌ったものかもしれない。(106頁)
E-8-3-3  穂積皇子の死は、但馬皇女の死の7年後、715年(50歳?)だった。(106頁)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その3):藤原朝の皇子群像(a)志貴(シキ)皇子!(b)高市皇子(タケチノミコ)と十市皇女(トオチノヒメミコ)!

2021-07-30 19:25:13 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)-4 藤原朝の皇子群像:(a)志貴(シキ)皇子!(97-98頁)
※藤原朝(天武没686、藤原京遷都694、持統在位690-697・没702、文武在位697-707)。
E-6 志貴皇子(天智の皇子、716没)は秀歌を多く残している。(97-98頁)
「采女(ウネメ)の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」(巻1、51)
(采女の袖を明日香の風が吹きかえす。いまはもう都も遠いので、むなしく吹くことだ。)
藤原の新宮がなって後、旧都、飛鳥浄御原(キヨミハラ)を訪れ詠った。「采女」は諸国の旧国造(クニノミヤツコ)の娘や妹で容姿端正なものを宮廷に貢上せしめたもの。古くは天皇のみの所有しうる神聖な女性だった。明日香を渡る冬か浅春の風を志貴は感じている。だが「袖をひるがえし吹くべき采女」はここにはもはやいない。「志貴は、この聖なる美女の幻影の中に旧都の空しさを嘆く。」(98頁)

(5)-5 藤原朝の皇子群像:(b)高市皇子(タケチノミコ)と十市皇女(トオチノヒメミコ)!(100-104頁)
E-7  十市皇女(トオチノヒメミコ)(?-678)は初々しい額田王と若き天武(大海人皇子)との間に生まれた、天武最初の子だ。長じて大友皇子(天智の子)の妃となった。大友との間に葛野(カドノ)王(669-706)を生む。(100-101頁)
E-7-2  だが壬申の乱(672)が十市皇女(トオチノヒメミコ)を絶望に突き落とす。壬申の乱は父(大海人皇子=天武)と夫(大友皇子=弘文天皇)との戦いだった。夫の首は父の軍営にとどけられる。25歳の夫を失った十市はまだ20歳以前であり、その胸には4歳の葛野(カドノ)王が残されていた。数年の結婚生活であった。(101頁)
E-7-2-2  壬申の乱の6年後、678年、十市は突如として宮中に発病し死ぬ。自殺とされる。(101頁)
E-7-2-3  夫の死後、心休まる日のなかった十市に、やがて登場したのが、ほぼ同年齢の高市皇子(タケチノミコ)(654-696、天武の皇子)だった。十市の心は引き裂かれる。「亡き夫への思慕とその寂寥に満たされない心、魅かれていく心を責めながら魅かれてしまう心。」(102頁)(※十市が亡くなった時、高市は24歳。)
E-7-3  高市皇子の歌が、こうした十市の姿を伝える。
「三諸(ミモロ)の 神の神杉(カムスギ) 夢のみに 見えつつ共に 寝(イ)ねぬ夜ぞ多き」(巻2、156)
十市が亡くなった折に作られた歌だ。「あの神杉のように手を触れることもなく、夢見るばかりで、共寝をしないで夜をあまたすごした。」神杉の姿をもってなぞらえられるような皇女は、高市(タケチ)の夢をよそに、容易に身を許そうとしなかったのだ。そうした回想がいま高市に湧く。(102-103頁)(※三諸(ミモロ)の神は、三輪山の神。)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その2):万葉歌の多彩:(a)藤原朝の皇子たちの文雅、(b)持統の行幸の風流、(c)「民俗の歌うた」への関心、(d)「ことば」への顧慮!

2021-07-29 12:08:40 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)-3 万葉歌を多彩にした要因:(a)藤原朝(持統)の皇子たちの文雅、(b)持統の行幸の風流、(c)天武以来の「民俗の歌うた」への関心、(d)天武以来、「ことば」への顧慮!(94-97頁)
E-5  近江朝(天智)は、百済の滅亡に伴う文化の流入があり、皇太子・大友皇子が日本最初の漢詩人となった。天武朝では大津皇子が周辺に多くの文人たちを擁していた。(94頁)
E-5-2 藤原朝(持統)の皇子たちは、渡来僧・下級の文人・側近の舎人(帳内)に囲まれ生活していた。彼らも漢文化の受容者となり、藤原京の風雅が進められていった。(94-95頁)
E-5-3 当時の「宮廷歌人」とは実態はこうした文人や舎人だった。「宮廷歌人」と呼ばれるのは一人一人の皇子と固定した関係をもたないからだ。(Ex. 人麻呂、憶良)(95頁)

E-5-4  (a)藤原朝(持統)の皇子たちの文雅と、(b)持統の行幸の風流(既述)とは万葉歌を多彩にした。(95頁)
E-5-5 さらに(c)天武以来の歌への関心がある。675年(天武4年)、近畿周辺の国々に勅して「国内の百姓の能く歌う男女や侏儒(ヒキヒト)(道化の者)・伎人(ワザヒト)(俳優)らをたてまつれ」と言い、685年「こうして都に集められた歌男(ウタオ)・歌女(ウタメ)、また笛吹く者はその技を子孫に伝えよ」と詔(ミコトノリ)している。例えば朝廷の「五節(ゴセチ)の田舞」は天武朝に始まる。このように「外来文化」と並行して「民俗の歌うた」を知ることも万葉歌を多彩にした。(95-96頁)
E-5-6 もうひとつ(d)天武以来、「ことば」への顧慮がみられる。天武は(ア)681年『新字』44巻を作らせる。(イ)682年には「礼儀言語の状」(宮中の礼式のことばの規定)を詔(ミコトノリ)している。また(ウ)686年天武は正月の宴席で「無端事(アトナシゴト)」(一種のことば遊び)を問うて、答えられた者に褒美を与えている。持統3年(689年)には「撰善言司」(ヨキコトエラブツカサ)(名言をめぐる故事を集める司)が志貴皇子を頭に任命された。(96-7頁)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「五 藤原新都」(その1):天武の鵜野皇后が690年、持統天皇として即位!藤原京への遷都(694年)!有間皇子の悲劇を詠んだ山上憶良の歌!

2021-07-28 22:06:20 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(5)持統の治世は何がなし物さびしい死のけはいがたちこめている!天武の鵜野皇后が690年、持統天皇として即位!(85-87頁)
E 実子の草壁を天皇として即位させたい鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)は、大津皇子に「謀反」の罪をかぶせ処刑した。だがその3年後、草壁も689年、病死した。(万葉集に柿本人麻呂がはじめて姿を見せるのは、この草壁の死においてだ。)「持統の治世は何がなし物さびしい死のけはいがたちこめている」。だが持統は天武の影をしたいその遺業を継ごうと前進の姿勢を失っていない。「その悲壮さがまたきびしくもさびしい持統朝を印象せしめる。」(85-86頁)
E-2 681年天武が編纂を命じた飛鳥浄御原令22巻が689年、鵜野(ウノ)皇后(持統天皇)によって完成し、各役所に頒たれる。(86頁)
E-2-2  鵜野(ウノ)皇后は690年、持統天皇として即位した。(86頁)

(5)-2 藤原京への遷都(694年)!持統天皇の各地への行幸!有間皇子の悲劇を詠んだ山上憶良の歌!(87-90頁)
E-3  夫であった天武の意志を継いで、持統天皇は藤原宮を造営した。これは奈良京の原型をなすものだった。694年、藤原京へ遷都。(87-90頁)
E-4  持統天皇は各地に行幸の足をのばした。伊勢(壬申の乱で大海人が戦勝を祈願した土地)、吉野(持統は31回吉野行幸をしている)、また伊賀など、天武への思慕に基づくと同時に権威を誇示するものだった。(90-92頁)
E-4-2  持統4年(690年)紀伊に行幸した折り、山上憶良の作と言われる歌がある。(万葉集においてここに憶良がはじめて登場する。)(92頁)
「白波の 浜松が枝の 手向草(タムケグサ) 幾代(イクヨ)までにか 年の経(ヘ)ぬらむ」
(白波がさわぐ浜松の手向けの枝は、どれほどの歳月をすごしたのだろう。)
《参考》これは658年、中大兄によって謀反の罪で殺された有間皇子(孝徳唯一の皇子)をしのぶ歌だ。捕らえられ護送の途中、有間皇子(アリマノミコ)が詠んだ歌が『万葉集』にある。
「磐代(イハシロ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸(マサキ)くあらば また還り見む」(巻2、141)
枝を結ぶのは無事を祈る習俗。磐代は紀伊の地名。「事無きをえて還ることができたら、再び結んだ枝を見るだろう」と呟き、有間皇子は松の枝を結んだ。だが有間は処刑され還ることはなかった。(47-48頁)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「四 壬申の乱」:天智崩御(671)!壬申の乱(672)!天武天皇(673-686)と飛鳥浄御原宮!大津皇子事件(686)!

2021-07-28 14:23:14 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(4)大友皇子(天智の子)と「皇太弟」大海人皇子の対立!671年天智崩御!(65-67頁)
D 天智の弟、大海人皇子は天智の即位(668年)以来、実質的な皇太子と見られていた。(万葉集には「皇太弟」という表現がある。)しかし671年、天智はわが子大友皇子を太政大臣に任命した。大友を首脳とする新政治体制を発足させた。大友皇子は風骨が世間並みでない優れた「人物」だった。天智は次の天皇の地位を、大友に与えるつもりだった。(65-66頁)
D-2  大海人は身の危険を感じ出家し、仏道修行と称して吉野に去った。(66頁)
D-2-2  その年、671年12月、天智は崩じた。

(4)-2 壬申の乱(672):近江朝大友皇子(弘文天皇)が「皇太弟」大海人皇子に敗れる!(67-71頁)
D-3 天智の死後、近江朝では大友を主上として新しい政治が出発した。(日本書紀は大友の即位を認めないが、明治政府は弘文天皇と諡号オクリナした。)大友は大海人攻撃を準備した。それを知った大海人は672年6月、大友に対する戦いを決意する。舎人(大海人に仕えた地方豪族の子弟)に美濃での蜂起を命じ、また諸国の国司にも蜂起を命じた。(67頁)
D-3-2 大海人側の東国の動員が着々とすすんだ。近江朝(大友側)は混乱し、諸国の軍兵動員もうまくいかなかった。例えば、吉備国の兵も大宰府の兵も動員に応じなかった。(68頁)
D-3-3 激戦1か月の後、近江朝は惨敗し、敗走した大友は首をくくって死んだ。

(4)-3 大海人は673年、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した!
D-4  大海人は673年、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)で天武天皇(位673-686)として即位した。(72頁)
D-4-2  壬申の乱は、少数の側近「舎人」の力を原動力として勝ち取られた。(73頁)
D-4-3  天武は天皇親政の立場をとり、豪族の首長を首脳部に入れなかった。天皇中心の官僚機構における軍備を強化し、豪族の力の削減を狙った。また地方豪族の子弟で才能ある者は官吏に任用した。(74頁)
D-4-4  天武は浄御原令(キヨミハラリョウ)の編纂を681年に命じ、その死後、689年、持統(終始天武の政治をたすけた鵜野讃良ウノノサララ皇后)の代に完成した。(75頁)

(4)-4 天武天皇が679年、吉野宮に行幸した際の歌!(75-76頁)
D-5 万葉集には天武の作として、吉野を尊厳化するとともに機知に富んだ歌がある。(76頁)
「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」(巻1、27)
よい人が、よき所としてよく見て、「よし(の)」と言った(or名づけた)。この吉野をよく見るがいい。(その昔)よい人がよく見た地だ。
D-5-2  この歌は天武天皇が679年、吉野宮に行幸した際の歌だ。天武は、草壁・大津・高市(タケチ)・忍壁(オサカベ)の4皇子と、天智の遺児である川島・志貴(シキ)の2皇子、計6皇子に異心のないことを、また争いせずお互いに助け合うことを盟約させた。天武にとって吉野は生なましい記憶の地だった。(76頁)
《参考》万葉集では「《淑》人乃 《良》跡《吉》見而 《好》常言師 《芳》野《吉》見与 《良》人《四》来三」と漢字で書かれ、六種類の「よし」が記されている。「よし」の繰り返しには、自らの出発点となった吉野の地と自らの治世を言祝(コトホ)ぐ意図があったと考えられる。(『県民だより奈良』平成31年1月号)

(4)-5 実子の草壁を天皇として即位させたい鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)は、大津皇子に「謀反」の罪をかぶせ処刑した!(76-84頁)
D-6  686年天武天皇が亡くなった。天武の死後、次に天皇となるべきは鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)との間の子、草壁皇太子のはずだった。ところが一歳年下の大津皇子(母は天智天皇皇女の大田皇女)は文武両道に勝れ人望があった。草壁(662-689)を天皇として即位させたい鵜野(ウノ)皇后(のちの持統)は、大津皇子に「謀反」の罪をかぶせ処刑した。天武死後20日余りのことだった。だがその3年後、草壁も689年、病死した。(27歳)(76-82頁)
D-6-2  大津皇子(663-686)(オオツノミコ)が自らの死(23歳)を悼む歌が、万葉集に載っている。(83頁)
「ももづたふ 磐余(イハレ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠(クモガク)りなむ」(巻3、416)
(百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去るのだろうか。)※磐余(桜井市)には大津皇子の宮があった。

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』(2010)「三 近江文化」(その2):中大兄は667年、都を難波から内陸の近江に遷す!唐・新羅による日本侵攻を想定!額田王は天智後宮の才女だった!

2021-07-27 15:33:57 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(3)-4 中大兄は667年、都を難波から近江に遷す!唐・新羅による日本侵攻を想定し、都を内陸に遷した!(53-55頁)
C-5 663年白村江(ハクスキノエ)の敗北と百済滅亡、つまり敗戦後の日本は異常な危機をはらんでいた。天智朝廷(※斉明死後662から)は、唐の来襲に備えて各地に城を築いた。また諸豪族からの失政批判も避けねばならなかった。(53頁)
C-5-2  中大兄は667年、都を難波(※大化改新後645年造営)から近江に遷す。唐・新羅による日本侵攻を想定し、都を内陸に遷した。翌668年、中大兄(626-671)が、天智天皇として即位した。(54-55頁)
C-5-3  幸いにも唐は平穏な使者を送って来た。(※671年)(54頁)

(3)-5 額田王はかつて若き大海人皇子(天武)の宮女となり、十市皇女(トオチノヒメミコ)を産んだ!
C-6  668年即位した天智天皇(42歳)の皇后は倭姫王(ヤマトヒメノオオキミ)(古人大兄の娘)であり、その後宮のひとりに額田王(ヌカダノオオキミ)がいた。(56頁)
Cf. 中西進氏に従って額田王が629年生まれと想定すると、この時(668年)、額田王は39歳だ。(58頁)
C-6-2  万葉での額田王の処女作は皇極期(位642-645)(額田王13-16歳)のものだ。(57-58頁)
「秋の野の み草刈り葺(フ)き 宿れりし 宇治の京(ミヤコ)の 仮廬(カリイホ)し 思ほゆ」(巻1、7)
(すすきを刈りとってきて仮廬を作った宿りが忘れがたい。)
C-6-2-2 かつて額田王は若き大海人皇子(天武)に召されて宮女となり、十市皇女(トオチノヒメミコ)を産んだ。だから上記の歌を初夜の作とする意見もある。十市(トオチ)は後に大友皇子(弘文天皇)の后となる。(57頁)

(3)-5-2  その後、額田王は中大兄皇子の後宮に入る!
C-6-3  661年、斉明天皇と中大兄が百済救援のための軍船団を出発させたとき、伊予の熟田津(ニギタツ)で額田王(32歳)は歌を詠んだ。この時、すでに額田王は、中大兄(大海人の兄)の後宮に入っている。(58頁)
C-6-4  天智天皇(中大兄)が即位した668年5月の薬草狩りの日、有名な蒲生野(ガモウノ)での額田王と大海人との贈答がある。(58頁)
C-6-4-2 「あかねさす 紫野(ムラサキノ)行き 標野(シメノ)行き 野守(ノモリ)は見ずや 君が袖振る」(巻1、20)
しきりに袖をふる大海人に、野守を憚(ハバカ)って額田王が歌う。「皇室の御料地とされる紫野を行きながら、あなたはわたしに愛を求めている、野の番人が見ます」。(58頁)
《参考》大海人は、中大兄(626生まれ)の弟なので仮に629生まれなら、額田王と同い年で、この時、39歳。額田王は「天智の後宮の人」にすでになっている。
C-6-4-3 大海人が答える。「紫草(ムラサキ)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」(巻1、21)紫草のように美しいあなたが憎かったら、いま人妻(天智後宮の人)だのに恋しさに堪えがたく、袖をふったりしない。大海人は初恋の人を忘れがたい。(58頁)
C-6-7 一方、額田王には天智を思う歌がある。「君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く」(巻4、488)額田王は、この二人の男性(大海人と兄の中大兄)を恋したことになる。(58-59頁)

(3)-5-3 額田王は天智後宮において「詞(コトバ)」をもって仕える女性だった!天智後宮の才女だった!鏡王女(カガミノオオキミ)も才女だった!
C-6-8  だが額田王はすでに「嫗(オウナ)」である。(※天智が亡くなった671年には42歳だ。)額田王は天智後宮において「詞(コトバ)」をもって仕える女性であったかと思われる。時として天皇に代わって歌を作ったり、詔に答えて歌を作る。(59頁)
C-6-8-2  かくて額田王と大海人との歌は「諧謔の贈答」であり、また天皇の希望によって額田王は天智「天皇を思(シノ)ふ歌」を作ったとも言える。(59頁)

C-6-9  額田王は天智後宮の才女だった。彼女とともに、鏡王女(カガミノオオキミ)も天智後宮の並び立つ才女だった。(※鏡王女は額田王の姉ともいうが、墓は舒明天皇陵の域内にある。天智天皇に愛され、のち藤原鎌足の妻となった。)(62頁)
C-6-9-2  額田王の天智思慕の歌(上記)(巻4、488)に対し、鏡王女はそれに答えるように歌う。言わば「諧謔の贈答」だ。
「風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ」(巻4、489)
額田が風に天智の訪れかと感じた(巻4、488)のに対し、鏡王女は歌う。「たとえそれがむなしくとも、風だけでも恋しているのは羨ましい。私は風だけでも来るだろうと待っているから、何も嘆くことはない」(63頁)
C-6-9-3  ここには、「手のこんだ理知」、もはや「王朝(※平安)の後宮を思わせるような機智」がみられる!「近江朝という漢風文雅の中で、才女たちは歌を次第にわがものとしていったのである。」(63-64頁)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』(2010)「三 近江文化」(その1):661年斉明天皇・中大兄皇子による朝鮮出兵(百済救援)と斉明急死!663年白村江の戦いの敗北と百済滅亡!

2021-07-26 17:45:48 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(3)661年斉明天皇・中大兄皇子による朝鮮出兵(百済救援)と斉明急死!663年白村江(ハクスキノエ)の戦いの敗北と百済滅亡!(50-52頁)
C 659年(斉明5年)百済・高句麗の攻撃をうけた新羅は、唐に出兵を請う。660年、唐は13万の援兵を送り、唐・新羅軍は百済の主都扶余を陥落させた。(50頁)
C-2 百済の遺臣たちが各地で抵抗。その一人鬼室福信が日本に来援を求める。斉明天皇・中大兄皇子は出兵を決意し、斉明は12月難波に下る。(50頁)
C-2-2 661年1月、斉明の船団が難波の津を進発する。伊予の熟田津(ニギタツ)(松山市)に寄って那の大津(博多港)に3月に到着。そこから百済への救援の軍兵が次々と送られた。(50-51頁)
C-2-3  そのさ中、661年7月斉明が急死する。(中大兄は亡骸をいだいて大和に還る。)Cf. 斉明の死は厭戦ゆえの暗殺であろうとも言われる。(49頁)
C-2-4  唐も新たな援軍を送る。百済・日本の軍兵と唐・新羅の軍兵の攻防は662年(天智元年)・663年と続く。そして最後の決戦が663年8月白村江(ハクスキノエ)の戦いだった。日本の水軍(1000艘と言われる)は敗北。そして9月、百済は滅亡した。遠く任那以来の日本の南朝鮮支配が終わった。(51頁)
C-2-5 これは大化改新以来、強引な政治路線を走って来た中大兄政権の挫折であり、日本の命運にかかわる対外危機を将来に残した重大な事件だった。(52頁)

(3)-2 額田王:熟田津(ニギタツ)の歌は日本艦隊の百済救援の出撃の光景を詠んだ!(52-53頁)
C-3  額田王(ヌカダノオオキミ)の万葉の名歌はこの朝鮮出兵(百済救援)の時の伊予の熟田津(ニギタツ)(松山市)で詠まれた。661年2月頃だ。(52頁)
「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮(シホ)もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」(巻1、8)
(今しも月も潮も出航に都合よくなった、さあ出発だ。)
Cf. 中西進氏に従って額田王が629年生まれと想定すると、熟田津の歌は額田王32歳の時、詠まれた。(58頁)
《感想》これは日本艦隊の百済救援の出撃の光景だ。ここでは額田王は、軍国の叙事詩人だ。

(3)-3 わが国の最初の漢風文化が栄えたのは天智朝だ!(52-53頁)
C-4 百済滅亡(663年)にともなってその要人の多くが日本に亡命した。彼らは天智朝廷(天智元年662年~)における文化に貢献した。わが国の最初の漢風文化が栄えたのは、この天智朝だ。漢詩集『懐風藻』(カイフウソウ)(751年)の最初の漢詩人は大友皇子だが、天智の次代の皇子たちは亡命した百済要人たちの傅育(フイク)の中に成長した。(53頁)
C-4-2 和歌という伝統的な文芸が大きく飛躍する契機をもたらしたのも、この漢風文化だった。(53頁)
Cf. 近江朝(天智朝廷)という漢風文雅の中で才女たちは歌を次第にわがものとしていった。(62-64頁)(後述)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』(2010)「二 大化の改新」:中大兄は645年大化のクーデターで蘇我入鹿、蝦夷、古人大兄を殺す!649年蘇我石川麻呂を殺す!658年有間皇子を殺す!

2021-07-26 10:25:18 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(2)中大兄:645年大化のクーデターで蘇我入鹿、蝦夷、古人大兄を殺す!(33-49頁)
B  《舒明天皇と皇極天皇(舒明の皇后)との皇子である葛城(カズラキ)皇子》すなわち中大兄(626-671)と中臣鎌足(藤原鎌足)(614-669)が中心となって、645年大化のクーデターが起こされ、蘇我入鹿が殺された。その父、蘇我蝦夷も自害する。(35-40頁)そして蘇我と深く結んだ古人大兄(フルヒトノオオエ)(中大兄の異母兄)が、中大兄により殺される。(44頁)
B-2  皇極天皇(中大兄の母)は退位し、中大兄は、軽皇子(カルノミコ)(皇極天皇の弟)を次の天皇に推した。これが孝徳天皇(位645-654)である。中大兄は皇太子となった。中大兄の新政府は中央集権・公地公民の制を基礎とする大化の改新の事業を開始した。(40-41頁)

(2)-2 中大兄:649年蘇我石川麻呂を殺す!654年中大兄と不和だった孝徳天皇の崩御!
B-3  中大兄は、649年、大化のクーデターの協力者だった右大臣・蘇我石川麻呂を(讒言に基づき)攻撃し自害させた。中大兄の妻の遠智娘(オチノイラツメ)(石川麻呂の娘)は、父の死の悲しみの果て死んでしまう。(41-42頁)
B-4 他方で、孝徳天皇は中大兄と不和であり、また間人(ハシヒト)皇后と中大兄との密通の噂もあり、苦悩のうちに654年崩じる。孝徳没後、皇極天皇(中大兄の母)が重祚して斉明天皇(位655-661)となる。(44-45頁)

(2)-3 中大兄:658年有間皇子を殺す!
B-5  中大兄はさらに、孝徳唯一の皇子である有間皇子を658年、謀反の罪で殺す。(46-47頁)
B-5-2 有間皇子(アリマノミコ)は捕らえられ護送の途中、首を絞られて落命した。有馬の護送の途中の歌2首が『万葉集』に残されている。そのうちの1首は次の通り。(47-48頁)
「磐代(イハシロ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸(マサキ)くあらば また還り見む」(巻2、141)
枝を結ぶのは無事を祈る習俗である。磐代は地名で、白浜を海上に望見する所。「事無きをえて還ることができたら、再び結んだ枝を見るだろう」と呟きながら、有間皇子は松の枝を結んだ。(48頁)
B-5-3  だがその翌日、有間は殺された。有間皇子の悲劇は、後々まで伝えられ多くの共感を呼んだ。(48頁)

B-6 「大化以後はまことに古代史における一大転換の時であった。それなりに新時代の誕生は輝かしくはあったけれども、一面それは血と非情を代価として得た輝きであった。」(49頁)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「一 古代の歌うた」(その5):万葉歌において「大化の改新」の少し前、舒明期に、中皇命(ナカツスメラミコト)の歌がある!「個人の抒情」の誕生!

2021-07-25 16:48:05 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(1)-8 万葉歌において「大化の改新」の少し前、舒明期に、中皇命(ナカツスメラミコト)の歌がある!「個人の抒情」の誕生!(29-32頁)
A-11  推古女帝が628年、73歳で崩じると、蘇我蝦夷の助力で舒明天皇(位628-641)が即位した。舒明天皇は蝦夷(エミシ)の専横すなわち「大臣従(マツロ)はず」のもと、晴れがましい政治の舞台からは遠い存在だった。(29-30頁)
A-11-2 舒明の死後は、その皇后が即位する。皇極天皇(位641-645)だ。蘇我蝦夷は642年大臣の地位を子の入鹿(イルカ)にあたえる。643年、入鹿が太子の子・山背大兄(ヤマシロノオオエ)を斑鳩に攻め、上宮家の人々(聖徳太子の一族)をことごとく殺してしまった。(30-31頁)

A-12 万葉歌における大化の改新の少し前、舒明期の歌として、中皇命(ナカツスメラミコト)の次の歌がある。(32頁)
「たまきはる 宇智の大野に 馬並(ナ)めて 朝踏ますらむ その草深野」(巻1、4)
(※「たまきはる」は宇智にかかる枕詞。天皇が狩をするときに、中皇命がこの歌を奉じた。「天皇は宇智の大野に馬をたくさん並べ朝の草深い野を馬に踏ませておいででしょう。」)
A-12-2  ここには「個人的な新鮮さ」がある。「個人」の「新鮮な抒情」が芽生えようとしている。(32頁)
A-12-3「それを真の個人詩として開眼せしめるものは、大化以後の文明開化だ」。「ちょうど政治の上に、蘇我氏の滅亡によって古代氏族制の崩壊が訪れ、新しい律令国家の夜明けが大化の改新によってもたらされるのとひとしい。」(32頁)

A-12-4  それまでの万葉の歌は「記紀に散見する古代儀礼にともなう」歌、例えば「国見の歌」である。舒明天皇の「国見の歌」は次の通りだ。(30頁)
「大和には 群山(ムラヤマ)あれど とりよろふ 天(アマ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(ケブリ)立つ立つ 海原は鷗(カマメ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(アキヅシマ) 大和の国は」(巻1、2)
(大和の数多い山の中でもすぐれた香具山に登って国見をすると、国原は豊かに炊煙をあげ海原にはしきりに鷗が、飛び立っている、りっぱな豊饒の国、大和よ)

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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「一 古代の歌うた」(その4):聖徳太子は万葉において、きわめて人間的な姿をみせ、ほかの文献と異質だ!

2021-07-25 12:30:46 | Weblog
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(1)-7 聖徳太子は万葉において、きわめて人間的な姿をみせ、ほかの文献と異質だ!万葉の歌の流れの上で、太子は一つの人間誕生をつげる存在となっていった!(25-29頁)
A-9 『万葉集』において、「雄略を優美ないろどりに染めあげていったものは、ひとつの抒情精神であった」。「7世紀初頭の聖者、聖徳太子もまた万葉においては、きわめて人間的な姿をみせて、ほかの文献と異質である。」(25頁)
A-9-2  推古天皇(位593-628)の皇太子・摂政となったのが聖徳太子(574-622)だ。(東宮としての太子の政治は、蘇我馬子と並んで行われた。)太子の政治には、従前にみられなかった新しさがあった。603年「冠位十二階」が定められた。これは、蘇我の勢力に象徴される「氏族制」の社会から、官僚制あるいは「律令制」への第一歩だった。(26頁)
A-9-3  604年「十七条の憲法」は、後の白鳳期(大化改新~平城京遷都)に太子に仮託して作られた可能性が高いが、ここに盛られた「官僚制の整備」、「人倫への理想」は太子のものでありうる。(27頁)
A-9-4  太子のこのような「あらたなる時代」への「夢想」は、「ふかく内攻する魂」に裏付けられていた。「仏教への深い悟入」が太子を支えた。(こうして622年、太子は49歳で亡くなった。)(28頁)
A-9-5 太子信仰が、はやくも白鳳期に現れてきた。(28頁)

A-10 『万葉集』(巻3、415)に、「上宮聖徳皇子(カミツミヤシヤウトコノミコ)」(聖徳太子)の歌がある。
「家にあらば 妹(イモ)が手まかむ 草枕 旅に臥(コヤ)せる この旅人(タビト)あはれ」
(家にいたら愛の手を交わしているだろうに、旅路で死んでいる旅人よ!)(28頁)
A-10-2 この歌は家の妹(妻)の悲しみを「想いやる歌」だ。(※夫は旅先で、行き倒れてしまった。)(28頁)
A-10-3  これは「聖者像」というより、「人間としての慈愛」を太子に感じ取ったものだ。それは「太子の仏教帰依」の中から出てきた「人間への愛(イト)しみ」だ。「万葉の歌の流れの上で、太子は一つの人間誕生をつげる存在となっていった。」(29頁)

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