宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『大人のための残酷童話』(15)~(26)、倉橋由美子(1935-2005)、新潮文庫、1984年

2015-08-30 09:46:24 | Weblog
(15)三つの指輪
A 王様が、ユダヤ人の金持ちに難題を課し、罠にかけ、ユダヤ人から金を略奪しようとした。
B ところが、ユダヤ人は賢くて、王様に「三つの指輪」の話をし、王様と信頼関係を築いた。
C 王様は、ユダヤ人から平和的に金を借り、利子をつけて金を返した。
《評者の感想》
「三つの指輪」の話は、複雑でゴチャゴチャ。その話が理解できて、敬意を払い合えたということは、「二人とも頭が大変よかった」ということである。王様が愚鈍だったら、ユダヤ人は殺され、財産は没収されたろう。


(16)ゴルゴーンの首
A 3人姉妹の怪物ゴルゴーンの一番下が、メドゥーサ。
B 英雄ペルセウスが、ゴルゴーンの首を切りに行く。成功し、帰りにアンドロメダを助ける。
B-2 ペルセウスが、ゴルゴーン(メドゥーサ)の首を女神アテナに贈る。
C 正義の神アテナと軍神アレースが、戦う。
C-2 ゴルゴーンの首で石化された人間には、石化能が残る。その石を集め、アテナとアレースは石化能を武器に戦った。
C-3 石化能の影響が神々にも徐々に及び、ついに神々は滅び、みな石となった。
D 人間はたくさんいたので、石化しない者もいて、生き残った。
《評者の感想》
① 神々の黄昏の物語。神は、ゴルゴーン(メドゥーサ)の首の石化能によって、死んだ。
② 石化能とは、放射能のパロディだろう。
②-2 人間が生き残ったのは数が多いからで、その昔の「核兵器で5億人殺されても、1億人残る」論である。


(17)故郷
A 貧しい家出身の男が大金持ちになり、「錦を飾る」ため故郷に帰る。
B 男の兄は札付きで今は監獄。父は飲んだくれ。妹は、父か兄の子を2人産み、旅籠をやっている。旅人を殺し、金品を奪う。
C 二人に会うため、息子が、この旅籠に泊まる。しかし身分は明かさなかった。
C-2 父と妹が、夜、旅人(=息子)を殺そうと襲う。
C-3 その時、役人が踏み込み、二人は捕まり、縛り首になる。
D 実は、父・妹の二人は、旅人が息子・兄であると知りながら、殺そうとした。
《評者の感想》:「邪悪な心と強欲には、家族愛など無意味だ!」と著者の主張。リアルあるいは悲観的。


(18)パンドーラーの壺
A プロメーテウスが神から火を盗んだことに怒り、ゼウスが“賢明さ”のないパンドーラーを泥から作る。
A-2 好奇心の強いパンドーラーは、神からもらった「開けてはいけない蓋」を開けてしまう。「嫉み」などあらゆる悪徳が飛び出し、人々は不幸となる。
B しかしパンドーラーは、“賢明さ”に欠け無知蒙昧なので、何も悩むことなく、夫と幸せに暮らした。
《評者の感想》:「知らぬが仏」のパンドーラー版である。


(19)ある恋の物語
A 王女プシューケーは、美の女神アプロディティーより、美しかった。アプロディティーが怒る。
A-2 子のエロースに、「プシューケーが醜い男に恋するよう矢を放て」と命じる。
B エロースが自らの矢で傷つき、プシューケーに恋をする。
B-2 エロースはアポロンに頼み、「恐ろしい領主青髭と結婚せよ」との神託をプシューケーに対し下してもらう。
B-3 青髭は、プシューケーを毎晩、愛撫するが、夫婦の契りはしない。
B-4 プシューケーは、青髭が、「可愛いい坊や」のエロースだと知る。
C アプロディティーが、この時、プシューケーの前に現れて怒る。
C-2 プシューケーは、隠しておいた、エロースの矢で、アプロディティーとエロースのお尻を刺す。
C-3 母子は恋人となり、プシューケーのことなど忘れる。
D スキャンダルなので、神々がプシューケーを呼んで、形の上だけ、エロースと結婚させる。
《評者の感想》
① 「母子の恋愛はスキャンダル」で、「神々はスキャンダルが嫌い」というのが話の前提。
② 著者の独創は、アプロディティーとエロースの「母子相姦」を導入したことである。


(20)鬼女の島
A 天竺の豪商・僧伽多が難破し、鬼女の島に流れ着く。
A-2 島で、鬼女に襲われ、仲間が食われ、僧伽多は何とか逃げ帰る。
B 鬼女の一人が、美女のすがたで都に来て、王様をたぶらかす。
B-2 王様が、鬼女に殺される。
C 僧伽多や王の家来たちが、鬼女の島に遠征し、鬼女を皆殺しにする。
C-2 島に、僧伽多と家来たち、つまり男ばかりが住むこととなる。
D 島の男たちは、寄り付く船の男を殺し、女たちを嫁にするようになる。
E 何百年か後、島は女ばかりとなり、男がいなくなった。
《評者の感想》
① 男ばかりでは、子孫が残らない。男は、子が産めない。
② 女なら、子を産むことが出来る。種は、たまに来る船の男たちからもらえばよい。
③ 島は小さく、食料が不足気味なので、用済みの男は食べてしまう。
④ 物語の前提は、「女が集団として、男を敵視し、したがって男を利用するが、不要なら殺す」という思想。


(21)天国へ行った男の子
① 貧しい百姓の男の子が、聖母様の木像を見て、「いつも赤ん坊(イエス)を抱いて疲れるだろう」と、赤ん坊を受け取るが、妙に温かく気持ち悪いので物置に放り込む。
② 聖母様が痩せているので、男の子は「食べ物が足りないのだろう」と思い、自分の食事を半分与え、さらに下男から残飯をもらい、木像に差し上げる。
②-2 なんと聖母様の木像が、片膝を立て、がつがつ食べる。そして木像が、太ってくる。
③ ある日、木像が男の子に抱き付く。男の子は下敷きになり、木像の重さで圧死する。
③-2 木像の腹が割れ、中から臭気を放つ大量の汚物が出てくる。
④ 神父様が説教の時、「男の子は聖母様に抱かれ天国に行った」と村人たちに話す。
《評者の感想》
A すさまじい話。聖母様は木像なのに、抱いている赤ん坊が温かく、片膝を立てて食物をがつがつ食べ、しかも腹の中に大量の汚物がたまる。聖母様は、木像のはずなのに、人間の身体と同じ。
A-2 聖母様は、木像であって、非木像である。論理的に矛盾する。矛盾(=偽)が真であるから、奇蹟である。「汚物」にまみれた奇蹟。
B 神父様は嘘をついていない。事実を宗教的に解釈すれば、「男の子は聖母様に抱かれ天国に行った」。
C 著者は、宗教の奇蹟、宗教的解釈を、冷笑する。


(22)安達ケ原の鬼
A 安達ケ原で、旅の坊さんがある家に泊めてもらう。その家のおばあさんが夜、出かける。
A-2 「見てはいけない」と言われた次の間の襖を、坊さんが開けると、腐った死骸の山。
B 坊さんは、お経を唱えながら逃げる。死骸の山が起き上がり、追いかけてくる。坊さんは掴まり、殺される。
《評者の感想》
著者は、坊さんも、お経の宗教的力も信じない。著者は、無神論者あるいは、宗教否定者である。


(23)異説かちかち山
A 狸(=弟狸)が、爺様と婆様に、狸汁にされ食べられる。
B 兎がやってきて、爺様に、「婆様は実は狸が化けている。爺様は婆汁食った」と言う。
B-2 爺様に追われ、婆様は逃げる。
C 兎が、「さっきの兎ではない」と言い婆様をだまし、「柴をお土産に爺様を喜ばせれば、婆様のことを狸とは思わない」と柴を刈らせて、背中に火をつける。
C-2 兎が、また「さっきの兎ではない」と言い婆様をだまし、蓼味噌を薬と称して、婆様の火傷に塗り、痛い目に合わせる。
C-3 兎が、さらに「さっきの兎ではない」と言い婆様をだまし、泥船に乗せ、溺死させる。
D 兎が、婆様の死体を、「狸が婆様に化けている」と言って爺様をだまし狸汁として食べさせる。
D-2 爺様が、婆汁をたっぷり食べた後、兎の皮を脱ぎ捨て、狸出現。兎は実は兄狸が化けたもので、弟狸の仇を取った。
D-3 その後、爺様は気分が悪くなり、死ぬ。
《評者の感想》
① 大変よくできた推理小説風の物語。「兎が実は兄狸だった」と、最後に謎解き。
② 「人間が人間を食べる」というカニバリズムの話。


(24)飯食わぬ女異聞
A ケチな男が、飯食わぬ女と結婚する。
A-2 その女房は、頭の上に口があり、そこから物を食べる山姥(ヤマンバ)とわかる。
A-3 「誰にも言わなければ、お前を食わない」と山姥が、男に言う。
B そのうち女房は、外で物を食べてきて、それを口から戻し、男に食べさせるようになる。
B-2 おいしいので、男は、女の頭の上の口移しに、食べさせてもらう。
C やがて男は容態が悪くなり、女に「最後のお願いだ。俺を食ってくれ」と言う。
C-2 男は、女に食われる。
C-3 女(=山姥)は、どこかの山へ駆け去った。
《評者の感想》
究極の愛の物語。山姥に口移しに吐いた物を食べさせてもらう快感&食われる快感。


(25)魔法の豆の木
A 母親はジャックが小さい頃、家を出ていった。
A-2 父親が、「お母さんは天国に行って、幸せに暮らしている」とジャックに言う。
A-3 ジャックは天国に行き、母親に会いたい。
B ジャックは、牛と交換に、魔法の豆の木の種を、手に入れる。
B-2 お母さんに会いに、天国へ登って行けるため。
C 大きく育った豆の木を登り、ジャックが天国へ行くと、お母さんは大男の妻になっていた。
C-2 「あの甲斐性なしに産まされた餓鬼は嫌だ!」と母親。
D 結局、母親はジャックを一気に絞め殺した。
《評者の感想》
 出ていった母親を慕う息子と、その息子を嫌う母親の物語。著者は「ありうる事例」として突き放し語る。


(26)人は何によって生きるのか
A 貧しい靴屋が、冬、裸の(堕)天使を助ける。靴屋は天使を居候させる。
B 天使は神から3つの問題を出された。それが解けるまで天国に帰れない。
B-2 「(a)人間にあるものは何か?(b)人間にないものは何か?(c)人間は何によって生きるか?」
C 答えは、(a)人間には「愛」がある、(b)人間は自分の死がいつか知らない。しかし「(c)の答えが、まだわからない」と天使が言う。
D 飢饉が起き、ついに人が人を食べる状況となる。天使は(c)の答えを知る。「人は人を食べることによって生きる。」
E 天使は天国に帰ることとなるが、「居候して食べた分のお礼をしてくれ!」と靴屋とその女房に言われる。
E-2 村人もやってきて「天使の肉には不老不死の薬効がある」と、天使を殺す。そして天使を煮て、靴屋を含め村人たち全員で食べてしまう。
E-3 以後、村人たちは、みな長生きした。
《評者の感想》
 「人は何によって生きるか?」という問いへの答えは、駄洒落風に、「人は食べ物を食べて生きる」である。天使の肉は、不老不死の効能もあり、美味しいようである。村人たちが、みな長生きしてよかった。


あとがき
 「全体として、残酷というよりも、救いのない話が並んでいる」と著者が言う。
《評者の感想》
① 「残酷というよりも、救いのない話」との著者のまとめは、その通り。
② これらの話には、「世の中、自業自得だから愚行に気をつけよ」との「教訓」があると、著者は言う。しかし、そのような教訓は、読み取れない。
③ あるのは、「虚無」のみである。
③-2 人間の「悪意」、「嫌がらせ」、「いじめ」、「くだらなさ」だけを、描く。虚無の極。
③-3 「人間の世に、価値あることはない」、「連帯はない」、また「人は信用できない」。
③-4 人にあるのは「悪意」と「強欲」だけ。
④ 「救いがない」のは、人間の世の事実的一面である。

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『大人のための残酷童話』(1)~(14)、倉橋由美子(1935-2005)、新潮文庫、1984年

2015-08-29 19:52:21 | Weblog
(1)人魚の涙
A 人魚は上半身が魚で、下半身は人間と同じ。(普通にイメージされる人魚とは逆!)
B 人魚は、海の魔女に頼んで、上半身を人間の姿にしてもらう。
B-2 王子は、人魚の娘にしばらく興味を持ち愛するが、漁師の娘にすぎないので、結局、捨てる。
B-3 王子は、海の向こうの国の美しい王女と結婚する。
C 船が難破し王子を、人魚が助ける。
C-2 人魚は、再び海の魔女に頼み、王子の上半身と、人魚の下半身(人間の身体と同じ)を合体してもらう。
D 身体が合体した王子と人魚は、それぞれの魂で話をする。
D-2 上半身の王子が、下半身の人魚の身体を慰めると、その部分から涙がこぼれ真珠になった。
《評者の感想》
① 普通の人魚のイメージと逆の上下半身のイメージが、新鮮だ。
② 魂だけではヒトは結びつくことが出来ない。「身体は、魂の重荷である」。
③ しかし、その重荷は、他方で「真珠」に象徴される。つまり「身体は、魂を完成させる」。
④ 魂と身体のアンビバレントな関係!


(2)一寸法師の恋
A 一寸法師は、お姫様に気に入られる。夜、寝床で戯れをすることを、姫は、一寸法師に許す。
B 清水へお参りに行ったとき、赤鬼青鬼が登場。
B-2 一寸法師は、お姫様の一番大事なところに隠れる。
B-3 鬼の身体が、そこに入ってきたので、一寸法師が針の剣で刺す。
B-4 鬼は「棘が生えているぞ!」、「化物だぞ!」と言って逃げ去る。
C 打出の小槌で一寸法師は大きくなるが、肝心のところだけは以前のままで、お姫様が文句を言う。
《評者の感想》
① エロチックだが、発想は生々しくリアリティがあり、なるほどと思わせる。
② 最後の落ち(C)は、蛇足気味。


(3)白雪姫
A 白雪姫を殺すよう、お妃から命じられた森番は、命乞いする白雪姫を裸にして弄んだが、殺さなかった。
B 白雪姫は、夜の伽をして、7人の小人の家に置いてもらった。
B-2 白雪姫は、お妃の毒リンゴで、肌の色が茶色になってしまう。しかし、小人たちの子供をたくさん産み、幸せに暮らした。
C 白雪姫を助けるはずの王子は、お妃と恋におち、王様を殺し、二人結婚し幸せに暮らした。
《評者の感想》
普通の白雪姫の話と相当違うが、白雪姫・小人たち・王妃・王子、みな幸せに暮らすことなり、よかった。かわいそうなのは、殺された王様である。


(4)世界の果ての泉
A 継母が、実の娘より美しい継娘をいじめる。
A-2 「篩(フルイ)で、世界の果ての泉から水を汲んでおいで!」と継母が命じる。
B 蛙が、「結婚してくれれば」という条件で、汲み方を教える。
C 「ベッドの中で、蛙の首を切れば、王子様になる」と魔法使いの老婆に教えられ、娘が蛙の首を切ると、死んだ王子になってしまった。
《評者の感想》
① 「日常的現実」内では、生き物は首を切れば、死ぬ。蛙の姿をした王子の首を切れば、王子が死ぬのは当然。② 魔法使いの老婆は、「魔法の現実」から「日常的現実」への移行の儀式として、「蛙の首を切れ」と言った。③ 著者は、「日常的現実」のみ信じる人で、「魔法の現実」を認めない。


(5)血で染めたドレス
A アテナイの青年が、先生のお嬢さんに恋をする。
A-2 お嬢さんが「血の色のドレスが欲しい」と言う。
B 青年に恋する唖の少女が、アテーナに頼んで、自分の血で染めた布でドレスを織ってもらい、死ぬ。
B-2 少女に姿を変えたアテーナが、青年に、「血の色のドレス」を届ける。青年は、少女に愛されて当然と、感謝もせず、ドレスを受け取る。
C お嬢さんに持っていくと「こんな気持ち悪い色のドレスはいらない」と言われる。
C-2 青年は怒り、ドレスは捨てられる。
C-3 通行人たちがドレスを踏みつけ、ぼろきれになり、犬が咥えていった。
《評者の感想》
① 救いようのない物語。もちろん、著者はありうる現実を描いた。ただし現実は、これ以外のハッピーな可能性も含む。著者は、不幸な可能性を描いて、憎まれ口をたたきたかったのだろう。
② 唖の少女の愛は、この世で成就しない。その死後も、成就しない。「成就しない愛に、命を賭ける意味はない」と、著者はシニカルである。


(6)鏡を見た王女
A 子供のない王と王妃が、「どんな子供でもよいから授かりたい!」と旅の老人に頼む。
A-2 醜い娘(王女)が産まれる。
B 老人が「醜いままでも困らないようにして差し上げよう」と言う。
B-2 王女は、目の病気で失明する。
C 王女に召使として、瘻(セムシ)の少年があてられる。
C-2 失明した王女が、瘻(セムシ)の少年の子を産む。
C-3 この赤ん坊は、醜い顔で、背中に瘤があるため、森に捨てられる。
D その後も、不幸が続く。
D-2 老人に頼み、王女は結局、目が見えるようになる。
D-3 しかし、鏡で自分の「醜い」顔を見て、ずっと自分は「美しい」と思わされていた王女が、その後どうなったか、わからない。
《評者の感想》
① 「願い事は、100%満足できる内容にすべし、また、結果をよく考えて頼むべし」との教訓。
② 「顔が醜いことは、不幸。」「背中に瘤があることは、醜く不幸。」この話が、前提する価値観。


(7)子供たちが豚殺しを真似した話
A 父親が豚を殺す。①父親が出かけると、子どもが真似をし、兄が弟を豚役にして殺す。②母親が気づき逆上し、兄をナイフで殺す。③風呂に入れていた赤ん坊のことを母親は忘れていて、赤ん坊が溺死。④母親は首を吊る。⑤帰宅した父親は惨劇を発見し、心臓発作で死ぬ。
B 近所の子供たちが豚殺しごっこ。いじめられっ子を豚役にして皆で殺す。その血で女の子が腸詰を作る。
C 王様が、①豚殺し役の子を捕え殺す。さらに②親が悪いと、親を縛り首にする。
C-2 ③市の者たちは、親でなく、学校の教育が悪かったせいだと、親と子供に同情。
D 市の者たちは、王様に楯突くことが出来ないので、「過ちは二度と繰り返しません」と豚殺し役の子の銅像を建てた。
E 著者の解題:A、Bはグリム童話。C以下は著者の創作。
《評者の感想》
①子供は、放っておけば、グリム童話のとおり愚かで残虐。大人は、母親のように短気で逆上し愚かでありうる。また父親の心臓発作のような不幸もありうる。
①-2 著者は、「子どもの適切な教育」、また「大人の分別」、さらに「日頃からの健康管理」が重要と、指摘する。
② 「いじめは人間社会できわめて普通である」と著者は言う。
③ 豚殺しが日常的である西欧牧畜文化が、話の背景である。


(8)虫になったザムザの話(カフカ『変身』が原作)
A ある日、ザムザが虫となる。
A-2 世間体があるので、父、母、妹が、ザムザを部屋に閉じ込める。
B 見世物にすると収入になるとわかり、ザムザ、見世物にされる。
B-2 やがて人気がなくなり、ザムザ、再び厄介者となる。
C 父、母、妹とも仕事が見つかり、ザムザ、部屋に閉じ込められたまま忘れられる。
D ある日、癇癪を起した父が投げた缶詰が体にめり込み、ザムザ、死ぬ。
D-2 ザムザの死体から流れ出た体液がどうしようもなく臭く、その臭いが染みついた父、母、妹は仕事を失う。
D-3 3人は、以後、惨めな一生を暮らす。
《評者の感想》
①ストーリーの前提:(a)世の中で重要なのは、世間体である。(b)同様に重要なのは、収入である。(c)「息子が突然、虫に変身すること」そのものは、問題でない。「息子の背が伸びること」が問題でないのと同じ。(d)息子であっても、収入がなく世間体が悪い者は、殺されてよい。(e)人間は、臭い汁がつくと、嫌われる。
②著者は、「家族の愛」について、信じない。


(9)名人伝補遺
A 紀昌と言う名の弓の名人は、弓を引かない。「至射は射ることなし。」
A-2 弓を見せたら、その名さえ忘れた弓の名人。
B 「紀昌など偽の名人だ」と紀昌に勝負を挑み、弓を射ない紀昌を射殺した男あり。
B-2 男は、群衆に捕えられ、柱に縛りつけられ射殺された。
B-3 こと切れる前に男は、名人が最後に「大勇ハ忮(サカ)ラワズ」と言ったと、告げた。
《評者の感想》
①紀昌は一度も、衆人の前で弓の腕を見せたことがない。「評判」が虚像か実像か、判別の問題。
②紀昌が死に、もはや判別不能。「評判」が虚像か、実像か判別できない。
③紀昌を射殺した男は、「評判」は虚像と言い続けてもよいのに、最後は弱気になって、理由もなく実像と認めた。しかし、「虚像だ!」と言おうと、「実像だ!」と言おうと、どちらも理由がない。


(10)盧生の夢
A 神仙の術の枕で、盧生が、「玄宗皇帝の宰相となった一生」の夢を見る。
A-2 もう一つの枕で、「淫婦の妻をもらった」夢を見る。
A-3 さらに、もう一つの枕では、「天子になるが、宦官に暗殺される」夢。
B 盧生は次々と枕を借りて、夢を見続ける。
C 盧生はついに眠りから覚めず、役人が死体として盧生を葬る。

《評者の感想》
①人生は、「夢」(=夢A=幻)と考えてもおかしくない。ただし普通、我々にとって、人生は、「現実」(=現実A=幻でない)である。
①-2 人生は「現実」(=現実A=「幻でない」)との立場に立てば、「現実」(現実A)には、いくつかの下位現実が含まれる。下位現実には、日常的現実(=現実B)、虚構現実、夢現実(=夢B)などがある。ふつう、日常的現実を現実と呼び、虚構現実、夢現実は、単に虚構、夢(=夢B)と呼ぶ。
①-3 日常的現実(=現実B)と夢(=夢B)の違いは、身体があるかないかである。つまり触覚を通して現出する抵抗し延長する世界(物理的世界)が含まれるのが、現実(=至高の日常的現実)(=現実B)と呼ばれる。夢(=夢B)には物理的世界が含まれない。
②これに対し、人生が「夢」(=夢A=幻)と思われるのは、この私においてしか世界が現出しないからである。(ただし、ここでは、現象学的超越論的意識野が想定されている。)
②-2 世界とは、いわば「有」(=現実A)のことである。「有」はどこに現出するのか。この私(=現象学的超越論的意識野)においてのみである。
②-2 「有」(=現実A)の現出は、時間性形式と指向性形式を持つ。指向性を通して、一方に物理的世界が間主観的(=客観的=外的)に構成され、客観的時間がそれに属すものとして構成される。この物理的客観的(=間主観的)世界と客観的時間が構成されると、他方で本来の時間形式が「内的」時間意識と呼ばれることになる。
③ 「有」(=世界=現実A)“自体”が、「有」(=世界)の“現出”とは別にあるとの立場に立てば、「有」(=世界)の“現出”は「夢」(=夢A=「幻」)となる。つまり“現出”する世界は、世界そのものであって、世界の“像”ではない。世界の“像”ならば、「夢」「幻」である。
③-2 しかし「有」(=世界)の“現出”は、世界そのものであって、それ以外に「世界“自体”」があるわけでない。現出する「有」(=世界)は、世界そのものである。
③-3 かくて「有」(=世界)の“現出”である人生は、「夢」(=夢A=幻)でなく、「現実」(=現実A=「幻でない」)なのである。
④ 「人生は、夢でなく、現実(=現実A=幻でない)である」と言う場合の「夢」(=夢A=幻)と、現実(=現実A)の下位現実としての日常的現実(=現実B)を前提しての「夢」(=「下位現実としての夢」=夢B)は全く別物である。
④-2 なお「夢」(=下位現実としての夢)(=夢B)に対応するのは、日常的現実(=現実B)である。


(11)養老の滝
A 親孝行の息子に、酒好きでわがままの父親。酒がないと、父親は大暴れする。
B 息子が、酒がわく泉を発見する。
B-2 人々が集まり、天子が養老の滝と命名。
B-3 ところが酔死する者、多く、あたりに悪臭が立ち込める。
C 天子が怒り、息子と父親は、斬罪。
C-2 そのうち酒の泉も、枯れた。
《評者の感想》
①諸行無常である。②支配者(天子)はいつも我儘である。③ろくでなしの父親も多い。


(12)新浦島
A 太郎40歳、母親80歳。貧しい漁師で、太郎に嫁も来ない。
B 船で太郎が漁をすると、亀がかかる。魚でないからと逃がす。
B-2 亀の甲羅が割け、太郎がその中に入る。亀が竜宮へ太郎を連れていく。
C 太郎は帰りたくなく、ぐずぐずと3年、竜宮に居る。ついに母親が心配になり、太郎、帰る。
C-2 村に帰り着いて、太郎が困り、乙姫様の土産の玉手箱を開けると、太郎は赤ん坊になった。
C-3 「嫁かず後家」が赤ん坊をひろい育ててくれた。
《評者の感想》
①最後の「嫁かず後家」の話が、ヒューマンな結末で、心温まる。②太郎は、母親を捨て、親孝行でない。


(13)猿蟹戦争
A 蟹が横にしか歩けないのは、猿が、小川の上流でした小便の毒素で、体の具合が悪くなったことによる。
A-2 兎の眼が赤いのも、蛙が体中イボだらけになのも、また雉の声が小さいのも、原因は猿の小便。
B 皆に恨まれた猿は、逃げて今も、ずっと木の上で暮らす。
《評者の感想》
 猿蟹戦争の原因が、「猿の小便の毒素」によるとの著者の新説。


(14)かぐや姫
A 竹からかぐや姫、また竹から黄金も出て、おじいさんとおばあさんが長者になる。
B 成人したかぐや姫に、皇族・貴族など5人の求婚者。
B-2 かぐや姫は、帝との結婚を望む。5人を拒否し、かぐや姫は、帝の御寵愛を受ける。
C かぐや姫は天に帰ろうとするが、父親の天帝は、クーデターで処刑される。
C-2 かぐや姫は、今や、「天に戻れば、新帝の侍女になるしかない」と告げられる。
D 「侍女になりたくない、天に戻らない!」と言ったかぐや姫は、ただの肉の塊に変化する。
D-2 「化物め!」と武士たちが切り刻み、肉の塊は死ぬ。
D-3 天帝は、荼毘に付すよう命じるが、肉の塊は、いつまでも燃え尽きることがなかった。
《評者の感想》
① 「天帝が、クーデターで処刑される」との見解は、人間史の事例を、天上史に適用すれば、当然ありうる。
② 天界の魔術的力で、かぐや姫は地上で、人間の姿になれた。しかし、かぐや姫の拒否で、魔術的力は消滅。つまり、姫のイデア(形相)が失われた。
②-2 姫のイデア(形相)が失われ、マテリア(質料)そのものである生きた肉の塊に、姫は変じた。

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 「言語の起源」(フリー百科事典『ウィキペディア』)(2015/8/22)

2015-08-27 21:43:50 | Weblog
(1)言語の起源
A ヒトの言語の起源は広範に議論される。しかし究極的な起源やその年代について合意はない。
A-2 現在、かつて言語が発生した時のような「原始的な」言語は現存しない。現在ある言語はいずれも、同等の複雑性・表現力を備える。


(2)霊長類の鳴き声
B 霊長類の鳴き声は、鳴き声を発した者の精神的・肉体的状態を、評価させる。
B-2 サルがサルの鳴き声を聞くときに使う脳の部位は、ヒトがヒトの発話を聞くときの脳の部位と同じである。
B-3 野生のヴェルヴェット・モンキーは十種の異なる音声を使い分ける。①その多くは、天敵の到来をグループの仲間に警告する。「ヒョウの鳴き声」、「ヘビの鳴き声」、「ワシの鳴き声」など。それを聞いた仲間のサルは異なる防衛戦略をとる。②他の鳴き声は固体確認用である。ある子ザルが鳴くと、その母親が子のもとに引き返すが、他のサルたちは、母ザルが何をするか見るため、母ザルの方を向く。


(3)ホモ・サピエンス以前の初期のヒト属(180万年前以降):全体的言語(非構成的言語)である「Hmmmmm」
C 「Hmmmmm」が、非構成的言語のコミュニケーションの体系として、ホモ・エルガステル(原人、180万から125万年前)に始まる初期のヒト属に使用された。(それが、言語と音楽の先駆体である。)そして中期更新世のホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルグ人)やホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)において最高度に洗練された、とS・ミズンが述べる。(S. ミズン『歌うネアンデルタール』)。
C-2 「Hmmmmm」はholistic(全体的:単語から構成されるのでなく、まず全体的な文があった)、manipulative(操作的:発話は記述的言明でなく、指令や提案)、multi-modal (多様式:声だけでなく身振りも使う)、musical(音楽的:単なる音声でなくリズムやメロディーをも使う)、memetic(模倣的:動物の動きのまねなど)の頭文字である。
C-3 ネアンデルタール人(25万年前に出現・3万年前に絶滅)は構成的言語(全体的な音声メッセージの共通部分を抽出し分節化する)が作れず、全体的な「Hmmmmm」にとどまった。これがネアンデルタール人の文化の20万年にわたる停滞をもたらした。(S・ミズン)
C-4 ホモ・サピエンス(5万年前頃出現、あるいは7万年前)は、構成的言語を獲得し、文化・技術を発展させ支配者となった。(S・ミズン)


(4)ホモ・サピエンス(5万年前頃出現、あるいは7万年前):構成的言語の獲得
D 初めて骨やシカの角など多くの材料が使われるようになり、鏃、鑿、ナイフの刃、掘削具など様々な種類の道具の発展は、完全に発達した言語(=構成的言語)の存在の証拠とみなされる。なぜなら、そういった道具の製法を子孫に伝えるには、構成的言語が必要だからである。
D-2 言語の進化における最大のステップは、全体的言語(=「Hmmmmm」)にもとづくコミュニケーションから、文法・統語構造を完全に備えた構成的言語への進歩にあった。


(5)初期の言語起源論
①ワンワン説(Bow-wow theory):ヘルダーの言語起源論。初期の言葉は獣や鳥の鳴き声の模倣である。「モウ~」から"cow"(うし)、「ワオ~ン」から"wolf"(おおかみ)など。
②プープー説(Pooh-pooh theory):最初の言葉は、苦痛、歓喜、驚愕など感情的な発声・叫びに由来する。爆笑から"laugh"、嫌う声から"hate"など。なお“pooh”は軽蔑して「ふん!」と言うこと。
③ドンドン説(Ding-Dong theory):音響から自然物に関する語が出来た。「ピカッ!ゴロゴロ」から"thunder"(かみなり)、「ザーッ…」から"water"(みず)など。全ての物は自然に共鳴振動を起こしており、それが何らかの形で人の初期の言葉に反映されたとする。なお“ding-dong”は「キンコン」と言う鐘の音に由来。
④エイヤコーラ説(Yo-he-ho theory、よいとまけ説):集団でのリズミカルな労働、そのかけ声などから行動に関する語が出来た。例えば働く男たちが力を合わせようとして「ho」と叫んでいたのが“heave”(持ち上げる)へ。停止を促す声から"stop"(とまる)。なお“yo-he-ho”(“yo-heave-ho”)は、いかりなどを巻き上げる時の水夫の掛け声。えんやこら! 集団行動をとる時の意味の無いはやし歌が、世界各地に残っている。

《評者の追加》
⑤タータ説(Ta-ta theory、口身振り説):1930年、パジェットの説。身体の動きと口・唇の動きの連動(身体動作に付随する無意味な発声)を言語の起源とする。“ta-ta”は「バイバイ!」の意味。
⑥ラララ説(sing-song theory):イェスペルセンの説。遊び、笑い、求愛など情緒的な行動に伴ったある程度長い音楽的な発声が、言語の起源である。


(6)言語による「騙し」の問題あるいは言語の「信頼性」問題
《評者の感想》
① 言葉がそもそも成立するのは、分節化された音列(=単語)が、「記憶され繰り返される類型的状況」(=意味)を呼び起こすペグ(=かけ金具)となるからである。類型的状況が形成されるにいたる、個々の状況の「事実性」という意味での「信頼性」は、当然の前提である。
② 母子関係が最初のヒトとヒトとの出会いだが、言語が成立していなければ、「騙し」の問題はない。「騙し」は、言語の成立後の事態である。
②-2 類型的状況(=意味)を呼び起こすペグとしての言葉が成立して初めて、「騙し」は成立する。
②-3 すなわち、ペグとしての言葉によって、類型的状況(=意味)が呼び起こされるので、意図的に、相手が困るように、つまり事実に反する状況判断を相手がするように(=ある類型的状況を相手が呼び起こし想定することで相手が困るように)、ペグとしての言葉を提供する。これが「騙し」である。
③ ヒトとヒトの共感が分化して、「ここ」身体の世界と「そこ」物体の世界が、私の心と他我の心となり、間主観的な(=客観的な)物理的世界が成立する。(=この物理的世界は、共有された心でもある!)心の「同型性」としての「信頼性」なしに、そもそも自他の区別が成立しない。(後述(12)「心の理論」参照。)
③-2 しかし母子関係がはじめから「心の理論」に基づく信頼性(他者も自分と「同型的」な心を持つと思う能力=「他者の視点に立つ」能力)を持っているとは思われない。母親は、子どもにとって、ただ「事実的」に、いわば自然事象的に、信頼できる。
④ 赤ちゃんは母語を習得するが、この場合、すでに言語は成立している。従って「心の理論」(「他者の視点に立つ」能力)が前提される。母親が自分と「同型的」であるゆえの「信頼性」(後述(12)「心の理論」にもとづく信頼性)が前提される。
⑤ジュウシマツのヒナは、父親の歌、さらに近隣のオスの歌を手本として、歌を学習する。手本は、当然「信頼」されている。
⑥そもそも言語は、「事実性」としての信頼性を前提する。ヴェルヴェット・モンキーは音声(=言葉)で天敵の到来をグループの仲間に警告する。「ヒョウの鳴き声」、「ヘビの鳴き声」、「ワシの鳴き声」など。それを聞いた仲間のサルは異なる防衛戦略をとる。言葉が呼び起こす類型的状況が成立する(=「事実性」)との信頼性が前提される。また、グループの仲間・味方であるという事実としての「信頼性」も当然前提される。(この信頼性は、後述(12)「心の理論」にもとづく信頼性と異なる。)
⑥-2 オオカミの群れは自分のテリトリーを持ち、マーキングで境界線を示す。他の群れが入ってくると死闘を繰り広げて追い出す。ここには「群れ・仲間の利益」を協力してまもるという事実的な「信頼性」が存在する。(これも、後述(12)「心の理論」にもとづく信頼性と異なる。)
⑦「信頼性」について整理しよう。 (1) 「母子関係」の事実的「信頼性」、および「群れ・仲間の利益」を協力してまもるという事実的な「信頼性」。(2)言葉によって呼び起こされる類型的状況(=意味)の「事実性」としての「信頼性」。(3) 「母親」・「群れ・仲間」など他者が、自分と「同型的」であるとの「信頼性」(後述(12)「心の理論」にもとづく信頼性)。
⑦-2 (1)(2)とともに、(3)の意味での「信頼性」が成立して、初めて言語が成立する。(後述(12)「心の理論」にもとづく信頼性。)「騙し」は、言語の成立後の事態である。


(6)-2 「母語」仮説(2004年、フィッチ):言語の起源の問題
 言語は本来「母語」であった。母とその生物学的な子の間でのコミュニケーションのために言語が進化した。後に言語が、血縁関係にある大人たちにも広まる。
《評者の感想》
 「母子関係」の信頼性だけでなく、「群れ・仲間」の利益を協力してまもるという信頼性も、言語の起源の前提である。したがって、「母子関係」の信頼性のみが言語の起源の前提で、その後に言語が、血縁関係にある大人たち(=群れのメンバー・仲間)にも広まるというわけではない。


(6)-3 「互恵的利他主義」仮説:「騙し」回避の問題
「互恵的利他主義」は、「あなたが私の背中を掻いてくれたら私はあなたの背中を掻いてあげます」という原則で説明される。言語を扱う際には、これは「あなたが私に正直に話してくれたら私もあなたに正直に話します」ということになる。


(6)-4 「音声での毛づくろい」(「噂」)仮説:言語の起源の問題
 ヒトがある程度大きな社会集団で生活し始めると、友好関係維持のため仲間全員と毛づくろいしあうことは不可能となる。かくて楽にできて能率的な「音声での毛づくろい」が発明される。「毛づくろい」に相当する「噂」(「音声による毛づくろい」)が徐々に言語に進化した。


(6)-5 言語(発話)でなく、集団的「儀式」としての言語制度が問われるべきである(=儀式・発話の共進化説):シンボル言語の問題
 シンボル言語は、シンボルと参照対象(=類型的状況=意味)との関係が約束事であり、シンボル言語は本質的に信頼できない。「シンボル言語が信頼に値する」という評価を構築できるためには、約束を確認する集団的「儀式」(社会的文化的な言語制度)が必要である。言語は、集団的「儀式」としての言語制度が存在する限りでのみ、機能する。
 
《評者の感想》
なお、参照対象と相似関係にある記号がアイコンであり、参照対象と相関関係(因果関係など)にある記号がインデックスである。(煙は火のインデックスである。パブロフの犬にとってベルの音はエサのインデックスである。)参照対象との関係が約束ごとである記号がシンボルである。つまり、シンボル言語では、記号と参照対象の関係が約束ごとである。ジェスチャー言語はアイコン言語であり。音声言語はシンボル言語である。(起源的に模倣などによるアイコン的、インデックス的な音声言語も、今や、シンボル的音声言語(シンボル言語)に変換されている。)


(7) 「ジェスチャー理論」(ジェスチャー言語から音声言語へ移行した):シンボル言語の問題(続)
 ジェスチャー言語(※アイコン言語)から音声言語(※シンボル言語)へ移行した理由
(a)夜、森など視界が遮られるときに、視覚的なコンタクトを取らずにコミュニケーションをとる必要。
(b)かつて言語には、一方で、ジェスチャー言語(※アイコン言語)があった。
(b)-2 他方で、模倣などによるアイコン的、インデックス的音声言語もあった。①獣や鳥の鳴き声の模倣語:ワンワン説(bow-wow, cow, wolf)、②感情的な発声・叫びからできた語:プープー説(laugh, hate, pooh)、③自然物の音響の模倣語:ドンドン説(ding-dong, thunder, water))、④労働のかけ声などからできた語:エイヤコーラ説(yo-he-ho, heave, stop)、⑤身体動作に付随する無意味な発声に由来する語:タータ説(ta-ta)、⑥遊び、笑い、求愛など情緒的な行動に伴ったある程度長い音楽的な発声に由来する語:ラララ説(la la la)
(b)-3 やがて、ジェスチャー言語(※アイコン言語)と、アイコン的、インデックス的音声言語が統合される。
(b)-4 両言語の統合にあたり、アイコン的、インデックス的音声言語においてすでに使われていた、音声的な互いに異なる形質(音の差異、「音素」)が、使われる。
(b)-5 そしてアイコン的、インデックス的音声言語は、シンボル言語へと再定義される。
(b)-6 またアイコン的ジェスチャー言語が、シンボル的音声言語(シンボル言語)へ変換される。(※この変換の過程は、さらに詳細な説明が必要である。)

《評者の感想》
手話が、「音素」の相当物を、音声でなくジェスチャーで示すのであれば、手話はシンボル言語であり、アイコン言語である本来のジェスチャー言語ではない。


(8)ヒトは、本能から解放された脳を持ち、文化的な自己馴致(=学習)ができる:シンボル言語の問題(続々)
①野生のキンパラは高度に類型化された順序でしか歌を歌わない。歌の統語構造が類型化されている。先天的に知っている歌だけしか歌えない脳。
②人以外の霊長類は、コミュニケーションの体系が高度に類型的な鳴き声・雄叫びのレパートリーに束縛される。
②-2 これに対し、ヒトは前もって指定された発声をほとんど有さない。
《評者の感想》
シンボル的音声言語では、音声とその意味(起源的には、その音声が埋め込まれた類型的状況)の関係を、約束事とすることが出来る。

③要するに、ヒトは学習できる脳を持つ。ヒトは自らを馴致する類人猿である。
③-2 言語を扱う能力は遺伝するが、言語自体は文化によって伝えられる。


(9)トーキング・バード:「ヒトの出す音をまねる能力」は持つが「統語能力」の習得は出来ない
トーキング・バードは様々な能力によってヒトの音声をまねることができる。しかしこのヒトの出す音をまねる能力は統語能力の習得とは大きく異なる。


(10)ヒトの言語は再帰性を持つ:シンボル言語の問題(続々々)
 再帰性とは、文の中に文を挿入することである。
《評者の感想》
 挿入される文が、全体として、一つの単語であるかのようにシンボル化される。


(11)ヒトのみが「問う能力」を持つ
 ボノボやチンパンジーのように、ヒトである調教師との交流で、複雑な質問や要求に正しく応じる能力を示す動物もいる。しかし、彼らでも、もっとも単純な形であれ自ら問いを発することはできない。


(12)言語は「直近ではないものについて述べる」ことができる:類型化の問題
《評者の感想》
① 音声言語が成立するには、繰り返される状況が類型的に同一と認知され(類型的状況の認知)、かつその類型的状況の中にあってその全体のペグとなる音声が常に現れる必要がある。この音声が音声言語(シンボル)となる。なお、ここで類型的状況とは、類型的意識野のことである。
①-2 「類型的に同一の意識野(=類型的状況=意味)」における「類型的に同一の音声」(=音声言語)が、その「類型的意識野」のペグとなる。

② 何をもって類型的に同一とされるかが、明らかにされねばならない。類型化の例として、ロックとカントを見てみよう。
②-2 ロックは、それなしにはその事物を考えることができないような「第一性質」と、そうでない他の性質、つまり事物と感覚との間の作用で生じる「第二性質」に分ける。「第一性質」:延長と個体性、運動と静止、長さ・大きさ・形と数、密度(solidity)など。「第二性質」:寒暖、色、香、味、匂いなど。
②-3 カントによれば、人間はまず外部からの感覚を「空間と時間の形式」(ものの大きさ・形状、時間的前後など)にあてはめる(直観としてえられた対象)。さらに悟性が12のカテゴリーで判断し、認識が成立する。
②-4 カントのカテゴリー:(a)量、(b)質、(c)関係、(d)様相に4大別。それぞれが3つに細分され、全体で12ある。量(単一性、多数性、全体性)、質(実在性、否定性、制限性)、関係(実体と属性、原因と結果、相互作用)、様相(可能性-不可能性、現存性-非存性、必然性-偶然性)の12個。
②-5 カントのカテゴリーは「主語と述語」の関係である。アリストテレスは「主語と述語」の構造が、存在の構造を探る手がかりになると考えた。カントはこれを引き継ぐ。
(a)量:全称的(「すべての」SはPである)、特称的(「ある」SはPである)、単称的(「この」SはPである)
(b)質:肯定的(SはPで「ある」)、否定的(SはPで「ない」)、無限的(Sは「非Pである」)
(c)関係:定言的(SはP「である」)、仮言的(「Xならば」、SはPである)、選言的(Sは「PかQかのいずれかである」)
(d)様相:蓋然的(SはP「であろう」)、実然的(SはP「である」)、確然的(Sは「必ずPでなければならない」)

③単語の一つ一つは、「類型的状況(=類型的意識野=意味)」のペグである。類型は、一般化されたものであり、「直近ではないもの」である。


(13)心の理論:自分も他者も同型の心を持つ
(a) ヒトは、他者を、自分と同じように、感覚・感情・気分・関心・注視・欲求・意図などを持つ存在、つまり心を持つ存在として、認識する=認識できる。言い換えれば、ヒトは「心の理論」を持つ。ヒトは「他者も自分と同じ心を持つ」との信念・理論を持ち、それゆえ、「他者の視点に立つ」能力を持つ。
(b) 多くの霊長類が「心の理論」を幾分か認識している傾向を示すが、ヒトと完全に同じ「心の理論」は持たない。言語使用のためには、「心の理論」が必要である。

《評者の感想》
① 「指差し」(ほかの人に何かを指し示すこと、pointing)をするのはヒトだけである。(Cf. イヌは例外的に、指差しを理解する。)

② さて「ミルクを飲む・飲ませる」という類型的事象(=意味)が、音声「マンマ」と同時に、繰り返し発生する。こうして音声「マンマ」と、それが指示する事象「ミルクを飲む・飲ませる」との関係、つまり指示関係が成立する。
②-2さらに、音声「マンマ」と赤ん坊が言えば、「ミルクを飲む・飲ませる」という類型的事象が母親によって引き起こされる。この言霊的作用も、音声と類型的事象との指示関係を確かなものにする。
②-3 この場合、赤ん坊が発した音声「マンマ」は、空腹感を満たしたい欲望が言わせたものである。母親が、「ミルクを飲む・飲ませる」という類型的事象をもたらしたことは、母親が赤ん坊の欲望を理解・了解しことを意味する。母親は、共感する「心」、同型的な「心」を持つ。

③「音声」とその「意味」(類型的事象・対象)の指示関係が、ヒトとヒトの間で理解されるには、「心の理論」が前提される。
③-2 私が「指差し」によって「動物シカ」を指し示し、「シカ」という音声を発すれば、相手は音声「シカ」が「動物シカ」を意味すると学ぶ。
③-3 この時、「指差し」が理解されるには、「自分が相手の位置に身を置いてみる」、また「相手が私の位置に身を置いてみる」というような、「他者の視点に立つ」能力(=「心の理論」を持つこと)が必要である。
③-4 チンパンジーは、「心の理論」を持たず、「自分から見えるモノが、相手に見えない」ことが理解できない。

④ 「心の理論」を前提とする「指差し」(pointing)の理解が、ことばの習得に不可欠である。
④-2 言語の習得には、一方で「注意の共有」(「指差し」により同一のモノに注意を向ける)が成立すること、他方で「指示関係」(音声は、対象を指示する)が分かることが、必要である。(Cf. 自閉症では「心の理論」に欠陥があり「注意の共有」が難しい。)(『ヒトの心はどう進化したのか、狩猟採集生活が生んだもの』鈴木光太郎、ちくま新書、2013年)

⑤ さて、群れの「仲間」とは何なのか?オオカミはなぜ一緒にいるのか?サルはなぜ群れをなすのか?彼らに「心の理論」がないのに、なぜ彼らは一緒にいるのか?
⑤-2 (6)で述べたように、言語は、シンボル言語でない場合は、「事実性」としての信頼性があれば、「心の理論」なしに成立する。ヴェルヴェット・モンキーは音声(=言葉)で天敵の到来をグループの仲間に警告する。「ヒョウの鳴き声」、「ヘビの鳴き声」、「ワシの鳴き声」など。それを聞いた仲間のサルは防衛戦略をとる。言葉が呼び起こす類型的状況に相当する事態が成立すること(=「事実性」)だけが、ここでは前提される。
⑤-3 さらに、「グループの仲間である、味方である」という意味での「信頼性」が、ヴェルヴェット・モンキーの警告の音声(=言葉)において前提されるとしても、「仲間」が同じ「心」をもつとされているわけでない。「グループの仲間・味方」は、おそらく、事実的に、単なる有利な自然現象のようなものである。
⑤-4 オオカミの群れの場合も、群れの他の「仲間」との協力は、おそらく、単なる自然現象的なものにすぎない。オオカミが「心の理論」を持たないなら、そう解釈するしかない。オオカミは群れのテリトリーを持ち、他の群れが入ってくると死闘を繰り広げ追い出す。ここには「群れ・仲間の利益」を協力してまもるという「信頼性」が存在するが、それは、他のオオカミが自分と「同型的」な心を持つゆえの「信頼性」とは、おそらく異なる。事実的に、単なる有利な自然現象的に、「群れ・仲間の利益」を協力してまもるのだろう。

⑥ まとめ:「心の理論」(心の「同型性」についての信念)と言語の関係について
(a) 言語が成立するためには、「母子関係」がもたらす事実的な信頼性、および「群れ・仲間の利益」を協力して守るという事実的な信頼性が、前提である。(「母子関係」の信頼性も、はじめは、「事実的」な信頼性である。「心の理論」を子供は、はじめ持たない。)
(b) 言葉によって呼び起こされる類型的状況(=意味)が、現に「事実として」形成されるという意味での信頼性も、言語成立の当然の前提である。この(a)(b)があればアイコン的、インデックス的言語は成立する。
(c) さらに「母子」および「群れ・仲間」関係において、自分と他者が互いに同型的であるとの信頼性(「心の理論」にもとづく信頼性)が成立して初めて、シンボル言語は発生する。


(14)後者関数による数理解
① ヒトは、チンパンジーのように、数の意味をひとつずつ覚えるのでない。ヒトは、後者関数(つまり、2は1より1大きい、3は2より1大きい、4は3より1大きい・・・・かくてあらゆる整数「n」の価値が前の整数より1大きい)を用いて、数(整数)を理解する。
② これは、言語の「無制限生成性」の数表現への適用である。


(15)普遍文法
チョムスキーの生成文法(有限個の言語要素と有限個の規則から無限の文をつくりだす文法)理論では、ヒトは生まれつき、脳に普遍文法を組み込まれていると主張する。普遍文法は、地球上の言語の全文法体系を内包する文法である。
《評者の感想》
 シンボル言語を成立させたのが、25万年前に出現したホモ・サピエンスだとすれば、普遍文法は、文化的(=後天的)産物であり、先天的なものでないだろう。


(16)語彙音韻論的原則
① ヒトの言語の特性(1)生産性:新しいメッセージを自由に作る。古いものの混合、古いものから類推、古いものの変化などによる。また新しい要素も古い要素も、状況・文脈に応じ自由に新しい意味を担いうる。
①-2 ヒトの言語の特性(2)二重性:数多くの「有意味な要素」が、「数の少ない、独立して意味を持たないが、メッセージを差異化する要素」によって作られる。

② 語彙音韻論:言語の音韻体系では、簡素で有限な音韻論的要素から、音韻論的統語論(規則)に基づき、無限の語彙体系が生まれる。しかも、これが意味と結びついている。つまり語彙統語論によって意味的に新しい語彙論的要素が生まれる。
②-2 ヒトと対照的に、霊長類の語彙論的要素は、世界に存在するなんらかのものを指示するが、個々独立して生じ、語彙統語論の欠如を示す。


(17)ピジン言語とクレオール言語
① 意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語が、ピジン言語。その話者達の子供達の世代で母語として話されるようになったものが、クレオール言語。
② ピジンは粗末な文法と限定された語彙しか持たない。主に名詞、動詞、形容詞からなり、冠詞、前置詞、接続詞、助動詞をほとんど有さない。安定した語順を持たず、単語が語形変化を起こさない。
②-2 子供たちがピジンを母語とすると、ピジンは音韻論、統語論、形態論、統語的埋め込みを有し複雑な文法をもつクレオール言語へ発展する。
②-3 クレオールは世界中に様々あり、独立に生じても互いに類似する。例えば、統語論的類似性には、SVO語順がある。
《評者の感想》
ピジン言語とクレオール言語は、既にある完成したシンボル語の混淆・発展の問題である。言語の起源の問題とは別問題である。


(18)音声言語(シンボル言語)の単一起源説と多地域仮説
① 手話については、各地域で独立に生じてきたとされる。音声言語(シンボル言語)については、単一起源説と多地域仮説がある。
② 言語の単一起源説は、一つの世界祖語がかつて存在したという仮説である。(ア)世界祖語は15万年ぐらい前のミトコンドリア・イヴの時代に遡れるとの説がありうる。(イ)あるいは7万年前、世界人口が極小化した時代に話されていた言語が、ボトルネック効果で世界祖語になったとの説もありうる。
②-2 多地域仮説は、現代話されている言葉は各大陸で独立に進化してきたとする。


(19)喉頭の下降:人間の発話の生物学的な基礎
① 喉頭の下降は音声を発する上で重要な役割を果たし、人が出すことのできる音声の多様性を広げた。
② ただし、特にこの目的のために喉頭が下降してきたわけではない。


(20)神の言語、アダムの言語、
① 言語の起源の探求は、神話以来、長い歴史を持つ。ほとんどの神話では、人間に言語の発明を帰せず、ヒトの言語に先立つ「神の言語」について語る。
② 動物や魂とのコミュニケーションに使われる神秘的な言語が、ルネサンスの時期に特に関心がもたれた

《評者による追加》
③ ヨーロッパ各地で国民語が擡頭しはじめた時代、バベル以前、多言語状態以前の単一の祖語「アダムの言語」への復帰、あるいは「完全言語」の再建への探求が行われた。
④ 「数学は神が宇宙を書くためのアルファベットである」とガリレオ・ガリレイが述べた。


(21)言語剥奪実験:言語の起源を探る実験
① ヘロドトス『歴史』によると、紀元前7世紀、エジプトのファラオが、二人のヒトの子供を羊飼いに、「彼らの最初の言葉が決定するまで、決して子供たちに話しかけず、育てよ!」と命令。子供は最初にフリギュァ語で「ベコス」(パン)と叫んだ。
② スコットランドのジェームズ5世が同様の実験をした。実験対象の子供たちは最初に、ヘブライ語を話した。
③ 中世の君主フリードリヒ2世とアクバルも同じ実験を行った。しかし実験対象となった子供たちは言葉を話さなかった。
《評者の感想》
 厳密な言語剥奪実験ならば、①実験対象となった子供たちは、受精後、誕生までの間、一切の人間の「人工物」に由来する音を聞かせない。また②誕生後、彼らは、人間から隔離され、自然物だけからなる無人島に置く。その上で、彼らが、どのようなコミュニケーション手段(言語)を作り出すか、研究する必要がある。③人間から隔離するので、親など他の人間がいない。新生児を保護し、育てる機械装置が必要である。


(22)ニカラグア手話:ピジン様の言語(=手話)のクレオール語化
1979年、ニカラグア新政府は、聾者である児童に対する教育を開始。施設に最初に来た児童らは家族との生活の中で習得したごく僅かで未熟なジェスチャー(=手話)しか使えなかった。しかし、児童らが家族以外の集団で一緒にいるうち、他者の新しい手振りを加え、共通のより複雑な手話(=ジェスチャー)を使うようになる。年数がたち、より多くの、より若い児童が参加すると、手話の複雑さが増大。教師らは、児童が自発的に互いにコミュニケーションを発展させるのを、敬意を持って眺めた。
後にニカラグア政府は、米ノースイースタン大学の手話専門家ジュディー・ケグルの助力を懇請。ケグルらは、年長の児童らのピジン様の言語(=手話)を、より若い児童らが、動詞の一致その他の文法の規則を成立させ、高いレベルの複雑さへと到達させたこと(クレオール語化)を明らかにした。

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「音楽から探る言葉の起源」岡ノ谷一夫、科学技術振興機構研究報告、2008年

2015-08-22 08:14:39 | Weblog
A 連続した音声を分節化して言葉が発生。
B ジュウシマツが歌をうたう:自分の歌の記憶によって、自分が今うたっている歌を照合・修正している
C ジュウシマツのヒナは歌を学習する。
C-2 父親の歌を手本の基本とするが、さらに近隣のオスの歌も学習。その際、それぞれのオスの歌を切り取り(=分節化)、再構成し手本とする。
D ヒト成人では、3つの音を並べた単語を複数種類、人為的に作り、それらの単語をランダムに聴かせると、初めはメリハリない音列に聞こえる。ところがどの単語でも、1音から2音・3音は音系列予測可能。そうするとランダムな4音目(次の単語の1音目)は音系列予測ができない。このため分節化が起こり、単語がまとまりある音として聞こえる。(脳波を調べると、3つの音の第1番目のみ特異的な脳波を示す。)
D-2 生後2週間以内の新生児においてすでに、音声分節化に対応する脳波が得られる。
D-3 かくてヒトは、統計的な情報(Ex. 「どの単語でも、1音から2音・3音は音系列予測可能」)にもとづき連続音声を分節化する能力を、生得的にもつ。
E 一方で音列の分節化と、他方で状況の分節化が、言語の基礎である。

《評者の感想》
① 状況が分節化される。状況(=世界現出)は誕生からずっと連続している。繰り返される状況が類型的状況(=エピソード記憶)として構成される。
②類型的状況のなかで、特定の分節化された音列(=単語)が、常に出現する。
③その分節化された音列(=単語)が、繰り返される類型的状況を記憶として呼び起こすペグ(=かけ金具)となる。
④ある場合には、分節化された音列(=単語)は、類型的状況を引き起こす社会的力を持つ。例えば「マンマ」の語が、「食物出現・食欲充足」の類型的状況を引き起こす。言霊!

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『心は何でできているのか―脳科学から心の哲学へ』プロローグ(3)、山鳥重(1939生)、角川選書、2011年

2015-08-21 21:37:06 | Weblog
プロローグ(3) 
A プロローグ(1):心は本人以外、その内容が決して経験できない「主観性」である。(山鳥重氏)
A-2 プロローグ(2):それなのに誰も、他人について、その心の存在を疑わない。(山鳥重氏)

《評者の感想》
① 評者の立場は、プロローグ1、プロローグ2の《評者の感想1-5》で述べたように、“心は互いに出会っている”、また“「主観性」は本人と他人の間で互いに経験されている”との立場である。
② 本人と他人が違うのは、基本的に、世界が、本人においては「ここ」物体(身体)中心に現出し、他人においては「そこ」物体(身体)中心に現出する点である。(「心1」)
③ さらに本人と他人が違うのは、世界が、一方で色彩的に現出するとともに、他方で自発性の対象・舞台的に現出する点である。(「心2」)
③-2 「心1」レベルでは、触覚が、同一の間主観的(=客観的)物理的世界を成立させ、「私の世界(=心=主観性)」と「他我の世界(=心=主観性)」を成立させた。
③-3 ただしここで注意すべきは、「間主観的物理的世界の成立」=「自他の心の成立」には、“「そこ」物体の世界(他なる主観性)の存在を確信させる「共感」”(つまり「そこ」物体と「ここ」物体の共感)が最初になければならないということである。(《評者の感想4》参照)
③-4 理解・了解とは、この共感の成立のことである。例えば、「欲望・意志充足の喜び」という共感。(《評者の感想4》参照)
④ 「心2」レベルの自他の差異は、理解・了解である「共感」がまずあり、その共感からの逸脱・偏差として出現する。「心2」とは、「私の心」における(a)世界現出の「色彩」、および(b)世界を対象化・舞台化させる「自発性的な世界現出の変容」である。
⑤ さてヒトは生きねばならない。「ここ」物体は生きねばならない。同一の間主観的(=客観的)物理的世界内に「ここ」物体が「人工物」を産出する。すなわち、「人工物1」(身体の動き・身体変化)。「人工物2」(身振り、パラ言語、手話)。「人工物3」(音声言語、文字言語)。
⑤-2 巨大で広大で間主観的な人工物の世界の構築を可能にするのは、言葉、何よりも、音声言語、文字言語(「人工物3」)である。
⑤-3なお身振り、手話、パラ言語(「人工物2」)も言葉に属す。また身体の動き・身体変化(「人工物1」)は、間主観的な人工物の世界の構築の基礎である。


B 山鳥重氏の専門は、神経内科学の内の神経心理学。神経系の中の中枢神経系、さらにその中の主に大脳損傷が引き起こす心理的異常「神経心理症状」の原因を突き止める。
B-2 患者からここ(病院)は「チャイナタウン」と言われる。おそらく私が「チャイニーズ」と思われたため。
B-3 これは意識障害!
①原因は?脳出血。②脳破壊部位はどこか?右大脳半球深部の出血による右半球機能障害。
③心理的異常発生の理由:Ex. 場所や人物の同定機能が壊れた。
B-4 大脳局在論の立場!大脳の諸部位が、様々の心理的機能を分担しているとする。

C なぜ患者は、ここがどこか「分かりません」でなく、「チャイナタウン」と考えたのか?
C-2 心は外から覗きようがない。
C-3 症状名:①「場所的見当識」の異常、②「人物誤認」(担当医をチャイニーズと思った)、③「意識混濁」。
C-4 このように症状名をつけても、彼の意識の内容はわからない。

D 神経内科医が、主観性としての心の働きを追求する方法。
D-2 「損傷脳部位の範囲・程度」と「心の働きの異常」を「対応」させ、「心」の性質を推定していく。
D-3 言いかえれば「心の働きについての仮説」を立て、「脳の働きとして実証されている事実」と、うまく対応するか検証し、この検証を積み上げていく。

E 脳と心の違い
E-2 脳はニューロン(神経細胞)・ネットワークである。このネットワークの中を電気変化(神経興奮)が動きまわる。かくて①特定の脳部位の電位変化(Ex. 脳波)の測定、②血液中の酸素消費量の変化の測定など。
E-3 これらは物理量の変化であって、心理的現象ではない。

F 心の3つの特徴(1)「主観性」
F-2 デカルトは、世界を、広がりを持つ存在の世界と、考える私が作り出す世界と、2つの世界に分けた。
F-3 山鳥重氏は、「精神」(=「私」)と「物質」を2つの「実体」とするデカルトの説は受け入れない。
F-4 しかし山鳥重氏は、客観的世界と主観的世界があることは認める。両者は性質の違う世界である。

G 心の3つの特徴(2)「過程性」
G-2 生命現象に特有の過程性:常に変化しつつ、かつ固有の構造を維持し続ける。
G-3 心理現象も、常に変化し続けるのに、自分の心という性質を失わない。

H 心の3つの特徴(3)「全体性」or「完結性」
H-2 心はいつもいっぱいに広がり満たされ、欠けているところがない。
《評者の感想》
心は宇宙そのものである。宇宙が写っているのではない。そこに宇宙全体が現出している。これが心の「全体性」or「完結性」である。ライプニッツのモナド。但し、私見では、モナドは窓を持つ。世界現出は時間性形式と志向性形式を持つ。絶対的「今」の「ここ」身体において、「そこ」物体との直接的触覚的接触と共感が、間主観的(=客観的)物理的世界と自他の「主観性」を(意味的に)成立させた。

I 本書の目的:心の成り立ちを、脳の言葉(神経科学の言葉)でなく、心の言葉(普通の言葉)で明らかにする。

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『心は何でできているのか―脳科学から心の哲学へ』プロローグ(2)、山鳥重(1939生)、角川選書、2011年

2015-08-19 10:23:37 | Weblog
プロローグ(2)
A-2 (「A 心は本人以外、その内容が決して経験できない『主観性』である。」それに続いて、山鳥重氏は言う。)
それなのに誰も、他人について、その心の存在を疑わない。(山鳥重氏)

《評者の感想3》
 「他人について、その心の存在を疑わない」のはなぜか?以下、考察する。

《評者の感想4》「心2」について(「心1」と「心2」の区別については(6)-3・⑧-4以下参照)
(4)《評者の感想2》の(1)から(3)-4において他我の「主観性」(=「客観性」)が経験可能と述べたが、モノの世界の現出と言う点での「他我の心の一部をなす客観性」は明らかだが(「他我の心1」)、「他我の主観性」(「他我の心2」)がむしろ明らかでない。

(5)受精及びその後の出生・成長過程を手引きに「主観性」について考察する。
① 感覚において世界が現出する。(世界は幻想でない。)世界の現出は客観的である。
①-2 世界は「ここ」(身体)中心に現出する。これは、世界の現出の仕方であって、(自他の心の成立以前は)主観性と関係ない。
①-3 空腹感など欲望が現出する。これは世界の現出であり、(自他の心の成立以前は)主観的欲望でない。

② 慈愛的物体(例えば母親、いわばママ物体)の出現。常に「ママ」音声とともにある物体。また欲望を充足させる点で慈愛的物体。
②-2 「ここ」(身体)は世界に一か所しかない。世界現出において、世界には触覚的接触面が、必ず出現する。そして、その接触面は再帰的に閉じている。「再帰的」とは、接触面をはさんで、「触れる側と触れられる側が相互に入れ替わることができる」ということである。この閉じられた接触面を持つ物体が「ここ」物体である。世界の他の部分は、触覚的接触面をはさんで、すべて「そこ」である。
②-3 ママ物体は「そこ」に属すが、卓越した物体である。いわばスーパー「そこ」物体である。
②-4 一方で「ここ」物体(身体)があり、他方でママ物体(スーパー「そこ」物体)がある。

③ さらに世界は、この絶対的「今」中心に現出する。時間性は世界の現出の仕方であって、(自他の心の成立以前は)主観性と関係ない。
③-2 世界は、「ここ」物体も、スーパー「そこ」物体(ママ物体)も、含む。

④ スーパー「そこ」物体(ママ物体)が「いい子!」と言い、「ここ」物体が「いい子!」と反復または同時発声する。また一緒に歌を唄う、つまり唱和する。また「タカイタカイ」や「イナイイナイバー」などスーパー「そこ」物体(ママ物体)と「ここ」物体との共同遊戯行動。
④-2 「いい子!」と反復・同時発声するときの安心感の共感。一緒に歌を唄う=唱和する時の楽しさの共感。共同遊戯行動の喜びの共感。
(※自他の心の成立後の言い方をすれば、反復・同時発声における安心感の共感、一緒に歌を唄う=唱和する時の楽しさの共感、共同遊戯行動の喜びの共感はいずれも、自他の心の直接的出会いで、しかもその場合、自他の心が、区別できず同一である。)
(※「共感」の語は自他の心の区別を前提する。ここでは「主観性」の発生を扱うので、「共感」の語は正確でない。)

⑤ 一緒にお風呂に入る時も、抱っこされてミルクをもらう時も、「ここ」物体とスーパー「そこ」物体が、接触する。
⑤-2 このような直接の出会い(触覚的接触)において、スーパー「そこ」物体(ママ物体)が幻想でなく、世界の現出として現実であることが確認される。
(※再び、自他の心の成立後の言い方をすれば、触覚的直接接触は、自他の心の直接的出会いである。接触面は他の心そのものである。つまり他なるものなのに、私の心に侵入し、私の心に属す。)

⑥ 「ここ」物体とスーパー「そこ」物体(ママ物体)は、世界において、区別されている。
⑥-2 この世界において、「ここ」物体と別にスーパー「そこ」物体(ママ物体)が現出する。
⑥-3 この世界に欲望(空腹感)という感情が現出する。ミルクが出現し「ここ」物体に与えられ、欲望が充足される。欲望(空腹感)が、「ここ」物体によってでなく、「そこ」物体によって充足されることが、理解・了解されたということである。
⑥-4 玩具を手に入れたい意志(=感情)が、世界に生じる。意志が、「ここ」物体の手を伸ばさせる。しかし取れない。スーパー「そこ」物体(ママ物体)が、伸ばされた手の先にある玩具を取ってくれる。「ここ」物体によってでなく、「そこ」物体による、世界の意志の充足。(まだ「私」は成立していないので、「私」の意志でなく「世界」の意志である。)
⑥-5 これが、「ここ」物体の充足さるべき(世界の)意志の、「そこ」物体による理解・了解と呼ばれる。しかもここでは、「手の先にある玩具」が「ここ」物体の充足さるべき意志の目標であることまでも、「そこ」物体は理解・了解している。

⑦ スーパー「そこ」物体の充足さるべき欲望・意志が属する世界の存在への予感。そして「そこ」物体の欲望・意志を、「ここ」物体が充足してあげることによって、「そこ」物体の世界の存在が確信される。
⑦-2 例えば、スーパー「そこ」物体が手を伸ばす。その先に「ペン」がある。その「ペン」を「ここ」物体が取ってあげる。スーパー「そこ」物体が喜ぶ。欲望・意志充足の喜びの「共感」が、「そこ」物体の世界(他なる主観性)の存在を確信させる。
⑦-3 「いい子!」と反復・同時発声するときの安心感の「共感」。一緒に歌を唄う(=唱和する)時の楽しさの「共感」。(→④-2)この「共感」が、「そこ」物体の世界(他なる主観性)の存在を確信させる。
⑦-4  まず共感(反復・同時発声の安心感、唱和の楽しさ、共同遊戯行動の喜び、欲望・意志充足の喜びなど)が先にある。そして一方で、「そこ」物体の世界(他なる主観性=他なる心)が出現し、他方で、もとからある「ここ」物体の世界が、私の主観性(=私の心)となる。
⑦-5 以上、「そこ」物体が出現し(最初は、何よりもスーパー「そこ」物体(ママ物体)の出現)、それが一方で、「他我の主観性」となり、他方で、「ここ」物体の世界が、「私の主観性」へ転化する。

⑧ 「そこ」物体は幻でなく、世界の現出として現実である。「そこ」物体の世界(他なる主観性)も、世界の現出として幻でなく、現実である。
⑧-2  触覚的直接接触によって、「そこ」物体の世界(=「(私の)主観性の一部でもある客観性(=外部性)」=「客観性(=外部性)でもある(私の)主観性」)は、「ここ」物体の世界と連続する。


《評者の感想5》
(6)次に心の位置づけについて考察しよう。

(A)「心1」について(「心1」と「心2」の区別については(6)-3・⑧-4以下参照)
節(1) 今や世界は、「ここ」物体の世界(私の主観的世界=私の心)と、「そこ」物体の世界(他なる主観的世界=他我の心)に分化した。両世界=自他の心は、触覚的直接接触の接触面において出会う。抵抗する物は、物であって、同時に心の一部そのものである。抵抗する物の世界は、世界地平が連続的に意味的に(=イデア的に)構成され、間主観的に、つまり「私の心」であって同時に「他我の心」であるものとして現出する(意味的イデア的)物理的客観世界となる。(これが「心1」である。)
節(1)-2 物理的客観世界を担保するのは、「ここ」物体の世界(私の心)と、「そこ」物体の世界(他我の心)との触覚的直接接触の、接触面における出会いである。

節(1)-3 このような形で現れる客観世界は、結局、人間たちにのみ主観的に把握される世界現出である。他の感覚器官をもつ生物において、間主観的に現出する客観世界は、人間たちにとってとは、おそらく異なる相貌で現れるだろう。例えば、客観世界は、そもそも抵抗が存在しないモノからなるしれないし、色として認識されず光の波長しか示さないかもしれないし、あるいは素粒子の動きそのものとしてのみ把握されるかもしれない。

節(2) 心とは、世界現出のことである。世界は幻でないと述べたが、これは第1に、「感覚」(心に属す)について語りうる。(→①)そして感覚は、「ここ」(身体)と協働し、「ここ」(身体)なしに現出しない。感覚器官は「ここ」(身体)にのみ備わる。(これは「心1」である。) 
節(2)-2 そして世界は「ここ」(身体)中心にのみ、現出する。(①-2)


(B)「心2」について(「心1」と「心2」の区別については(6)-3・⑧-4以下参照)
節(2)-3 世界現出は、「感覚」において生じるだけではない。
節(2)-4 世界現出は、さらに、「ここ」(身体)と関係する事態の生起を伴う。まず●(a)感覚は必ずパースペクティブあるいはトーンを持つ。また●(b)広範囲の「欲望」(食欲、性欲など)という事態が生起する。さらに●(c)感覚に由来する広範囲の「感情」と言う事態が生起する。つまり世界現出は、●(a)感覚のパースペクティブあるいはトーン、●(b)「欲望」および●(c)「感情」を伴う。(これは「心2」に属す。(6)-3・⑧-4以下参照。)

節(2)-5 ●(a)感覚のパースペクティブあるいはトーン、●(a)-2知覚における「注視」の自発性、●(b)「欲望」、●(c)「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d) 「(時間形式的)全体的気分」
①世界現出は、「感覚」において「ここ」(身体)と協働するが(→(2)-3)、「感覚」は必ずパースペクティブあるいはトーンを持つ。(●(a))
①-2 知覚における「注視」の自発性。(●(a)-2)

②また世界現出は、「欲望」(食欲、性欲など)をともなう。(●(b))(→(2)-4)(これは「ここ」(身体)と協働する。)

③さらに世界現出は、「感情」を伴う。(●(c))(→(2)-4)(これも「ここ」(身体)と協働する。)
(a)身体の触覚において、暖かいと心地よい。ハグされて心が落ち着く。
(a)-2 「ここ」(身体)には内部触覚があり、高熱、体調不良、腹痛などが、多種の体調感情をもたらす。
(b)「ここ」(身体)の視覚がもたらす風景・絵画の美が、心をすがすがしくさせたりする。
(c)「ここ」(身体)の聴覚がもたらす音楽が、高揚感、宗教的静寂感、心地よさなどをもたらす。
(d)「ここ」(身体)の嗅覚において、良い香りは清涼感をもたらし、悪臭は嫌悪感をもたらすなど。
(e)「ここ」(身体)の味覚は、美味の幸福感、冷たい氷の快感、まずい食べ物の不幸感などをもたらす。

(a-e) さらに世界現出にともなう漠然とした「全体的気分」は、「ここ」(身体)の触覚、内部触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の全体融合に由来する感情に基づく:「(身体感覚的)全体的気分」。(●(c)-2)

(f) これと同時に世界現出が時間性の形式をとることに由来する「(時間形式的)全体的気分」もある。(●(d))
(f)-1 世界現出は予持・絶対的「今」・過去把持の時間形式をとってのみ現出する。
(f)-2 そして絶対的「今」において現出する世界では、中心に常に「ここ」(身体)がある。
(f)-3 世界現出は、過去把持が地平的に延長され過去世界が意味的(イデア的)に構成される:「想起」世界。絶対的「今」が地平的に拡大され身体周囲的現在世界として意味的(イデア的)に構成される:「身体周囲的現在」世界。さらに予持が地平的に延長され未来世界が意味的(イデア的)に構成される:「予期」世界。

(f)-4 ここで、間主観的に現出する(意味的イデア的)物理的客観世界は、一方で「ここ」(身体)が常に「絶対的今」であり、他方で「そこ」物体(これは「そこ」身体に転化する)が「他なる主観性」の「絶対的今」であることから、物理的客観世界の現在を成立させ、かくてそれを含む間主観的に意味的(イデア的)に構成された客観的時間(=宇宙時間)をもつ。

(f)-5 他方で、「ここ」(身体)を中心に出現する「絶対的今」と連続的に構成される時間そのものは、今や、主観的時間となる。(なお「そこ」(身体)に転化した「そこ」物体を中心に出現する「絶対的今」と連続的に構成される時間が、他我の主観的時間となる。)
(f)-6 世界現出は時間性の形式をとるが、主観的時間は、間主観的に意味的(イデア的)に構成された物理的客観世界の客観的時間(=宇宙時間)とは異なる形式である。世界現出の主観的時間形式は、予持・絶対的「今」・過去把持、「想起」・「身体周囲現在」・「予期」である。絶対的「今」および「身体周囲的現在」世界は、あらゆる●(a)「感覚」(さらに知覚)、●(a)-2知覚における「注視」の自発性、あらゆる●(b)「欲望」、あらゆる●(c)「感情」、また●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、さらに●(e)「意志」(後述)に彩られている。そして幾重にもなって彩られた「想起」世界、「予期」世界が存在し、●(d)「(時間形式的)全体的気分」が世界現出に伴う。
(f)-7 「絶対的今」において、私の主観的時間、他我の主観的時間、客観的物理的時間の現在が、重なる。


節(2)-6 「意志」という自発性感情(●(e))
(g) 世界現出は、「欲望」(食欲、性欲など)をともなうが、これは明らかに「ここ」(身体)と協働する。(→(2)-5)「欲望」は「あるべき事態」を実現しようとする自発性である。
(g)-2 「欲望」は「感情」の一種とも言えるが、「ここ」(身体)が自動的に「あるべき事態」(目標)を実現しようとする自発性である。(但しこの場合、「あるべき事態」は、「意志」の場合のような、「明示的に自発的に定立された予期」ではない。)
(g)-3 「明示的に自発的に定立された予期」を「あるべき事態」(目標)とする自発性は「意志」である。「意志」とは「あるべき事態」(目標)を定立しそれを実現しようとする自発性である。
(g)-4 「意志」も世界現出に伴って出現する。「意志」はそれ自身、一種の感情であるが、「あるべき事態」(目標)を定立させる別の「感情」(理由動機)をその根底に含む。「あるべき事態」(目標)を、客観的物理的世界内で実現させるのは、「ここ」(身体)の行動である。「ここ」(身体)の行動は、普通、間主観的な「客観的時間をもつ(意味的イデア的)物理的客観世界」において、そしてその世界内に作り出された物理的諸装置を使って、なされる。


節(2)-7 「想像」、「虚構」、「芸術」、「夢」などの疑似世界に由来する「全体的気分」(●(f))
(h) 世界は「ここ」(身体)中心にのみ、現出する((2)-2)と述べたが、これは「ここ」(身体)の至高性を前提している。至高性とは次の事に由来する。「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的直接接触(これは「絶対的今」の一致でもある)が、①「そこ」物体の「そこ」(身体)への転化、つまり「他の主観性」の発生をもたらし、同時に「ここ」(身体)を中心とする世界現出を「私の主観性」へと転化させ、②また「他の主観性」と「私の主観性」が出会う場を、「触覚」にのみ基づき、客観的時間(=宇宙時間)をもつ(意味的イデア的)物理的客観世界(抵抗する物の世界)を間主観的に構成させるからである。
(h)-2 圧倒的な数の「他の主観性」、文字を通して記録された過去の「他の主観性」、将来予想される「他の主観性」の存在、それら巨大な複数の「主観性」に支えられた間主観的な「客観的時間(=宇宙時間)をもつ(意味的イデア的)物理的客観世界(抵抗する物の世界、触覚に基礎を置く世界)」、そしてその世界内に作り出された物理的諸装置が、「ここ」(身体)中心に現出する世界の至高性を堅固に保障する

(i) 世界は「ここ」(身体)を中心に「絶対的今」において現出する。「ここ」(身体)中心に現出する世界の至高性は堅固で疑いえない。だが「想像」された疑似世界、「虚構」された疑似世界、「芸術」の疑似世界などが、間主観的な「言葉」によって形成される。これら疑似世界が持つ「欲望」「感情」「意志」の喚起力は、極めて大きい。かくて世界現出は「想像」、「虚構」、「芸術」、「夢」などの疑似世界に由来する「全体的気分」にも彩られる。


(6)-2 心の位置づけについて:まとめ1
心とは、世界現出のことである。しかも、世界は「ここ」(身体)中心に、現出する。
①「感覚」における世界現出は、「ここ」(身体)と協働する。感覚器官は「ここ」(身体)にのみ備わる。したがって「感覚」はパースペクティブあるいはトーンを持つ。(●(a))なお「感覚」は、「知覚」に変形される。すなわち「知覚」と呼ばれるノエシスの作用によって意味的イデア的構成物である「知覚」対象に変形される。(「ここ」(身体)を中心とする「絶対的今」における世界現出は、時間形式を持つとともに、ノエシスの作用による意味的イデア的構成物(ノエマ)の構成という形式(指向性形式)を持つ。)知覚は「注視」と呼ばれる自発性を持ち、これが知覚に色彩を与える。(●(a)-2)
②世界現出に伴う「欲望」(食欲、性欲など)は、「ここ」(身体)と協働する(あるいは「ここ」(身体)に由来する)。(●(b))

③世界現出に伴う「感情」は、「ここ」(身体)の触覚、内部触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚と、関係し協働する。(●(c))さらにこれら6感覚の全体融合に基づく「(身体感覚的)全体的気分」もある。(●(c)-2)

④世界現出が時間性の形式をとることに由来する「(時間形式的)全体的気分」もある。(●(d))
④-2 世界現出は予持・絶対的「今」・過去把持の時間形式をとってのみ現出する。そして絶対的「今」において現出する世界では、中心に常に「ここ」(身体)がある。
④-3 「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的直接接触(これは「絶対的今」の一致でもある)のみが、(a)「「他の主観性」と「私の主観性」を発生させ、(b)客観的時間(=宇宙時間)をもつ(意味的イデア的)物理的客観世界を間主観的に構成させる。
④-4 「ここ」(身体)を中心とする「絶対的今」と連続的に構成される時間は、「私の時間」として主観的時間となる。(「そこ」(身体)を中心とする「絶対的今」と連続的に構成される時間は、「他我の時間」として主観的時間となる。)
④-5 なお「私の時間」も「他我の時間」も二重の性格を持つ。それは「私の心」が「心1」・「心2」を持つこと、また「他我の心」が「心1」・「心2」を持つことに対応する。「私の時間」は、「絶対的今」を中心として、一方で、客観的物理的世界に属する時間(客観的宇宙時間)であるとともに、他方で、「想起」・「予期」される世界を可能とする内的時間でもある。「他我の時間」も同様である。
④-6 内的時間は、客観的的宇宙時間と共に、世界現出の一形式である。世界とは、無規定な「有」である。無規定な「有」が現出する。
④-7 絶対的「今」および「身体周囲的現在」世界は、●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(a)-2「知覚」における「注視」の自発性、●(b)「欲望」、●(c)「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(e)「意志」に彩られ、そして幾重にもなって彩られた「想起」世界、「予期」世界が存在することから、●(d)「(時間形式的)全体的気分」が世界現出に伴う。

⑤ 「世界現出に伴って出現する「意志」という自発性感情は、「あるべき事態」(目標)を定立しそれを実現しようとする自発性である。目標を実現させるのは、物理的客観世界内で身体自身および物理的諸装置を使ってなされる「ここ」(身体)の行動である。(●(e))

⑥ 「ここ」(身体)中心に現出する世界の至高性は堅固で疑いえない。しかし世界現出は「想像」、「虚構」、「芸術」、「夢」などの疑似世界に由来する「全体的気分」にも彩られる。(●(f))


(6)-3 心の位置づけについて:まとめ2
⑧ 「ここ」(身体)を中心とする「絶対的今」における世界現出は時間形式と指向性形式を持つ。客観的物理世界は、自我他我発生以前の(1次的な)世界現出そのものでなく、自我他我発生に伴う間主観的(=2次的な)意味的イデア的構成物である。では客観的物理世界と、心(主観性、主観的世界)との関係はどうなっているのか。
⑧-2 (④-3で述べたように)「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的直接接触と共感(これは「絶対的今」の一致でもある)が、一方で()「他の主観性」と「私の主観性」を発生させ、他方で()客観的時間(=宇宙時間)をもつ(意味的イデア的)物理的客観世界を間主観的に、つまり「私の心」でもあり「他我の心」でもあるものとして、構成させる。
⑧-3 (1次的な)世界現出が、触覚的直接接触と共感を通して(2次的な)意味的イデア的構成物である客観的物理世界を発生させた。この時、「私の主観性」(私の心)という意味を獲得したかつての「(1次的な)世界現出」の位置は、どこなのか?つまり客観的物理世界の中で、「私の主観性」(私の心)の位置はどこなのか?

⑧-4 答えは、以下の通りである。「私の主観性」(私の心)は二つに分裂する。

大項目()私の「心1」:触覚的物理的「ここ」(身体)そして客観的物理的世界そのもの
⑧-5 一方は、客観的物理世界の中に存在する触覚的物理的「ここ」(身体)は、同時に「私の主観性」(私の心)でもある。さらに客観的物理的世界全体が「ここ」(身体)の地平として、つまり私の心の地平として、私の心に属する。(客観的物理的世界はもちろん「他我の心」の地平でもある。)「絶対的今」において、かつその中心にある「ここ」(身体)は、私の心(「私の主観性」)でありながら、同時に、物理的客観世界の現在に属す。そして物理的客観世界全体は、「ここ」(身体)の地平であり、同時に私の心の地平となる。
⑧-6 私の心は、「ここ」(身体)において客観的物理世界のうちに露出する。常識に反するようだが、これが事実である。私の心のうち、その(=心の)「絶対的今」において、そしてその(=「絶対的今」の)中心にある触覚的物理的な「ここ」(身体)だけは、物理的客観世界の現在のうちに存在する。
⑧-7 心は、物理的客観世界の「像」のようなものではない。心は、なんと、物理的客観世界に、そのもの(=心そのもの)として、その一部として実在するのである。
⑧-8 物理的客観世界の現在に実在する「絶対的今」の触覚的物理的な「ここ」(身体)。
⑧-9 私の心が他の心と出会うのは、ともに触覚的物理的な「ここ」(身体)と「そこ」物体(=「そこ」身体へ転化する)の触覚的直接的接触面だけである。物理的客観世界の現在において、「絶対的今」の「ここ」(身体)と「絶対的今」の「そこ」(身体)が、「私の心」と「他我の心」そのものとして、直接に出会い、間主観的な物理的客観世界を成立させ、かつその現在のうちに実在する。
⑧-10 なお視覚が、触覚により確認・担保される限りでは、視覚が捕える他者の身体は、それ自身が他我の心(の一部)とされてよい。視覚でとらえられた他者の身体は、他我の心の一部の露出である。
⑧-11 さらに言えば、間主観的な物理的客観世界は、「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的直接接触を一部として含む限りで、一方で、私の心の地平(連続する部分)、他方でまた、他我の心の地平(連続する部分)である。かくて、驚くべき結論だが、間主観的な物理的客観世界は、それ自身、「私の心」そのものであり、また「他我の心」そのものである。


大項目()私の「心2」(「私の主観性」(私の心)の他の広大な部分で、世界現出に伴う諸要素だが、客観的物理的世界に属さないもの):●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(a)-2「知覚」における「注視」の自発性、●(b)身体に由来する「欲望」、●(c)感覚に由来する「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(e)「意志」という自発性感情、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」


⑨ 私の心は、二つに分裂する。一方は、上述のように、「私の主観性」(私の心)としての触覚的物理的「ここ」(身体)、そして「ここ」(身体)の地平つまり私の心の地平としての客観的物理的世界そのもの。これらが、私の心に属する。(これが「心1」である。)
⑨-2 他方で、「私の主観性」(私の心)の他の広大な部分で、世界現出に伴う諸要素だが、客観的物理的世界に属さないもの。(これが「心2」である。)
●(a) あらゆる諸感覚的世界現出。「感覚」における世界現出は「ここ」(身体)を必要とする。つまり感覚器官は「ここ」(身体)にのみ備わる。感覚は、世界現出にパースペクティブあるいはトーンを与える。「私の主観性」と「他我の主観性」で、パースペクティブあるいはトーンが異なる。
●(a)´ 触覚的物理的抵抗としての世界現出は、トーンがあっても、「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的物理的直接接触が可能で、境界面が確認できればよい。
●(a)-2 なお「知覚」と呼ばれるノエシスの作用は、「注視」の自発性を持つ。
●(b)「ここ」(身体)に由来する「欲望」(食欲、性欲など)。
●(c)「ここ」(身体)の触覚、内部触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚の6感覚と、関係し協働する「感情」。
●(c)-2 さらにこれら6感覚の全体融合である「(身体感覚的)全体的気分」。
●(d) 幾重にもなって彩られた「想起」世界、「予期」世界の存在にもとづく「(時間形式的)全体的気分」。
●(e) 「意志」という自発性感情。「意志」とは「あるべき事態」(目標)を定立し実現しようとする自発性である。物理的客観世界内で身体自身および物理的諸装置を使ってなされる「ここ」(身体)の行動が目標を実現させる。
●(f) 「想像」、「虚構」、「芸術」、「夢」など疑似世界に由来する「全体的気分」。

⑩ 「絶対的今」の「私のここ」(私の身体)が、常に世界現出(=私の心)の中心である。だから「私の心1」は中心を持つ。間主観的な客観的物理的世界全体は、「私のここ」(私の身体)の地平としてのみ存在する。(「客観的」とは「間主観的」ということである。「間主観的」とは「私の心」であり、「他我の心」でもあるということである。だから、繰り返し言うが、客観的物理的世界全体は、それ自身、「私の心」そのものであり、「他我の心」そのものである。「心」が、世界の「像」でなく、世界の「現出」であるとは、そういうことである。)
⑩-2 イデア的意味的な客観的物理的世界は、すでに世界俯瞰者あるいは時間的空間的遍在者の触覚(および触覚的抵抗物をめぐる諸感覚)を想定している。
⑩-3 世界俯瞰者あるいは時間的空間的遍在者の触覚(および諸感覚)からすれば、「私の心1」とは、「私のここ」(私の身体)を中心として地平的に広がる客観的物理的世界である。また「他我の心1」とは、「他我のここ」(他我の身体)を中心として地平的に広がる客観的物理的世界である。

⑪ 「絶対的今」の「私のここ」(私の身体)が、常に世界現出(私の心)の中心であるが、その世界現出に「色彩」および「自発性」を同伴させる。
(ア)「色彩」とは、●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(c)感覚に由来する「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」である。
(イ)「自発性」は、●(a)-2「知覚」と呼ばれるノエシスの作用における「注視」の自発性、●(b)身体に由来する「欲望」、● (e) 「あるべき事態」(目標)を定立し実現しようとする「意志」からなる。
以上、(ア)「色彩」と(イ)「自発性」が、「私の心2」である。

◎「心2」:世界現出の色彩としての●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(c)「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」。および世界現出に伴う自発性としての●(a)-2(知覚における)「注視」、●(b)「欲望」、● (e)「意志」。
◎「心1」:中心としての触覚的物理的「ここ」(身体)、そして「ここ」(身体)の地平としての客観的物理的世界そのもの。

⑪-2 私の「心2」は、世界現出に同伴するこれら「色彩」および「自発性」である。すでに間主観的な(つまり私の「心1」でもあり、同時に莫大な数の他我の「心1」でもある)客観的物理世界の中の「私の身体」および莫大な数の「他我の身体」の動きと、それにより客観的物理的世界内に産出されるもの、言い換えれば一切の「人工物」が、私の「心2」および莫大な数の他我の「心2」そのものである。

⑪-2補遺:「人工物」を例示してみる
「人工物1」身体の動き・身体変化(これらは意図性がない)。
「人工物2」身振り(指示など)、パラ言語(声の高さ、長さ、大きさ、声質など)、(身振りとしての)手話。
「人工物3」言葉(狭義には音声言語)、文字言語:絵文字、表音文字(音節文字・音韻文字)、表意文字。

「人工物4」産業システム(技術・組織・経済・会計・経営・法律等含む):A農業(畜産業含む)、林業、;B漁業(水産養殖業含む);C鉱業、採石業、砂利採取業;D建設業 (設備工事業含む);E製造業 (食料品、繊維、木製品・家具、パルプ・紙、印刷、化学、石油・プラスチック・ゴム、窯業、鉄鋼・非鉄金属、金属製品、汎用機械、生産用機械、業務用機械、電子部品、電気機械、情報通信機械(コンピューター含む)、輸送用機械(自動車・船舶・飛行機含む);F電気・ガス・熱供給・水道業 ;G情報通信業(出版・放送・広告含む);H運輸業、郵便業;I卸売業、小売業;J金融業、保険業;K不動産業、物品賃貸業;L学術研究、専門・技術サービス業;M宿泊業、飲食サービス業;N生活関連サービス業(理容美容・旅行業含む)、娯楽業;O教育、学習支援業;P医療、福祉;Q複合サービス事業(郵便局含む)、協同組合(他に分類されないもの);Rサービス業(廃棄物処理、自動車整備、機械等修理、労働者派遣、団体含む);S公務;T分類不能の産業(以上「日本標準産業分類」による諸産業分野)

「人工物5」法システム:憲法、国会法、国家行政組織法、裁判所法、地方自治法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、軽犯罪法、労働法、社会保険法、国連憲章、日米安全保障条約等

「人工物6」国内経済システム(「人工物4」産業システムを含む):資本主義経済(憲法29条財産権の保障)、小さな政府、政府・企業・家計、株式会社、市場経済、経済成長、景気変動、財政、金融・通貨・中央銀行、物価、日本経済史、中小企業、農業、消費者、労働関係、社会保障・少子高齢化、環境保全、資源・エネルギー・原発(以上、高校政経教科書による)

「人工物6-2」国際経済システム(「人工物4」産業システムを含む):1.貿易;2.国際金融・国際マクロ;3.国際貿易と企業;4. 途上国・移行経済;5.EU 経済;6.北米・ラテンアメリカ経済;7. アジア経済;8.地域経済統合;9.グローバル金融・経済危機;10. 国際政治経済学;11.国際金融アーキテクチャー(経済危機予防・管理・解決の制度的枠組み)(以上、日本国際経済学会自由論題による)為替相場、IMF、IBRD、WTO、南北問題、G7、グローバリゼーション(以上、高校政経教科書による)

「人工物7」国家・政治システム:国会、内閣、裁判所、天皇(宮内庁)、財政(財務省)、軍事(防衛省)、海上保安庁、検察(法務省)、警察、消防、内閣、外交(外務省)、教育(文部科学省)、地方自治体、社会保障・労働・医療(厚生労働省)、農林水産省、経済産業省(資源エネルギー庁、特許庁、 中小企業庁)、インフラ整備(国土交通省)、環境省等(以上、日本を参考に例示、中央省庁(内閣)組織図を参照)人権保障・法の支配、議会制民主主義、国民主権、政党・選挙、世論(以上、高校政経教科書による)

「人工物8」国際社会・国際政治システム:A(歴史)日本外交史•東アジア国際政治史•欧州国際政治史•アメリカ政治外交;C(理論)国際統合•安全保障•国際政治経済•政策決定;B(地域)ロシア東欧分科会•東アジア•東南アジア•中東•ラテンアメリカ分科会•アフリカ;D(非国家主体)国際交流•トランスナショナル•国連•平和研究•ジェンダー•環境(以上、日本国際政治学会研究大会分科会分野による)、地球環境問題、核兵器、人種民族問題以上(高校政経教科書による)

「人工物9」著作物分類の観点からの「人工物」の諸分野:0 総記(情報学、ジャーナリズム)、1 哲学(哲学、心理学、倫理学、宗教)、2 歴史(歴史、地理)、3 社会科学(政治、法律、経済、財政、統計、社会、教育、風俗習慣・民俗学、国防・軍事)、4 自然科学(数学、物理学、化学、天文・宇宙、地球科学、生物学、医学・薬学)、5 技術(工学:建設・土木・建築・機械・原子力・電気・海洋・船舶・兵器・軍事工学・金属・鉱山、工業(化学工業・製造工業等)、家政学・生活科学(衣服、料理含む))、6 産業(農林水産業、園芸・造園、商業、運輸、観光、通信)、7 芸術(美術(絵画・彫刻・書道等)、写真、工芸、音楽、舞踊、演劇、映画、大衆芸能、スポーツ、諸芸、娯楽)、8 言語(英語、仏語、独語、中国語等)、9 文学(以上、日本十進分類法による分野)

「人工物10」社会学的観点の観点からの「人工物」の諸分野:1社会哲学・社会思想・社会学史;2一般理論;3社会変動論;4社会集団・組織論:企業、国家・自治体、国会・内閣・裁判所、軍隊;5階級・階層・社会移動;6家族;7農漁山村・地域社会;8都市;9生活構造;10政治・国際関係;11社会運動・集合行動;12経営・産業・労働;13人口;14教育;15文化・宗教・道徳;16社会心理・社会意識;17コミュニケーション・情報・シンボル;18社会病理・社会問題;19社会福祉・社会保障・医療;20計画・開発;21社会学研究法・調査法・測定法;22経済;23社会史・民俗・生活史;24法律;25民族問題・ナショナリズム;26比較社会・地域研究(エリアスタディ);27差別問題;28性・世代;29知識・科学;30余暇・スポーツ;31その他(以上、日本社会学会の専攻分野分類基準による)

「人工物11」文化人類学的観点からの「人工物」の諸分野:1.フィールドワーク方法論、学説史;2.民族史(エスノヒストリー);3.言語;4.自然環境、生業(狩猟、漁澇、牧畜、農業)、衣食住、民具、技術、芸術;5.婚姻制度、家族・親族、社会・政治・経済、人間関係、さまざまな集団、伝統、習慣と制度;6.宗教・信仰・呪術・儀礼・祭礼;7.神話・伝説・民話;8.民謡・音楽・舞踏・劇;9.都市の諸問題、都市文化・文明の影響;10.躾や教育、人格形成・民族・国民性、文化の変化・心理的適応、精神衛生;11.その他、映像人類学、民族映画学、認識人類学、医療人類学など(以上、ウィキペディアによる文化人類学の分野)

「人工物12」ニュース分類による「人工物」の諸分野:国内、国際、経済、エンタメ、スポーツ、IT・科学、ライフ、地域(以上、Yahooニュースの項目)

⑪-3 私の「心2」および莫大な数の他我の「心2」は謎ではない。私の「心2」および他我の「心2」は、●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(c)「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」という世界現出の色彩、また●(a)-2(知覚における)「注視」、●(b)「欲望」、● (e)「意志」という自発性からなる。これら私の「心2」および他我の「心2」は、間主観的な(つまり「私の心1」でもあり、同時に莫大な数の「他我の心1」でもある)客観的物理世界の中で、「私の身体」および「他我の身体」が作り出す一切の人工物(ここでは身体の動き・身体変化、身振り(指示など)、パラ言語(声の高さ、長さ、大きさ、声質など)も人工物と呼ぶ)として存在する。

⑪-4 
(a)私の「心1」と他我の「心1」は、イデア的意味的物理世界としては、完全に一致し同一である。私かつ他我に共通の、つまり間主観的な「心1」としての客観的(=間主観的)物理的世界!これは、常識に反する恐るべき結論のようだが、そんなことはない。そもそも「心」は「心1」も「心2」も世界現出であり、幻や像ではなく、世界そのものである。「心」は決して、世界の「像」ではない。客観的(=間主観的)物理的世界は、イデア的意味的構成物だが、それは世界現出であるという性格を失わない。(さらに言えば、想像・虚構・芸術・夢など疑似世界も、世界現出の諸形態であって世界の「像」ではない!)
(b) 私かつ他我の「心1」としての客観的(=間主観的)物理的世界の中にあって、私の「心2」においては「ここ」身体(私の身体)を中心に客観的(=間主観的)物理的世界が、色彩的かつ自発性の対象・舞台的に現出する。色彩的かつ自発性の対象・舞台的に現出する客観的(=間主観的)物理的世界は「心2」に属す。「心2」は、私と他我で異なる。

(c) 「心2」(●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(c)「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」という世界現出の色彩、また●(a)-2(知覚における)「注視」、●(b)「欲望」、● (e)「意志」という自発性)は、では、一体、どこにあるのか?「心」とは、そもそも世界現出そのものであって、私においては、ただひたすらここにある。「ここ」身体の地平としての物理的世界が、色彩的かつ自発性の対象・舞台的に現出する。「心2」が一体、どこにあるのかとの問いは、自他の区別が成立し、自他の「心1」として、直接に「心」同士が出会う客観的(=間主観的)物理的世界が成立した後で、提出される。
(c)-2 これら「心2」は、第1に「ここ」身体の具体的な動き・身体変化(広義の「人工物」)として、客観的(=間主観的)物理的世界のうちに存在する。さらに「心2」は、第2に、ここ「身体」の動き(行動)が生み出し、作り出す一切の産出物(=狭義の人工物)として、客観的(=間主観的)物理的世界のうちに存在する。「心2」は、一切の「人工物」として、客観的(=間主観的)物理的世界のうちに存在する。
(c)-3 「心2」は、「ここ」身体の具体的な動き(広義の人工物」)、さらに一切の(狭義の)「人工物」から、「推定」されるのではない。客観的(=間主観的)物理的世界のうちに存在する一切の「人工物」は、「心2」そのものである。
(c)-4 私の「心2」、複数の他我それぞれの「心2」は、私的であるはずなのに、実は、私的に存在できない。「人工物」として客観的(=間主観的)物理的世界の内に産出される「心2」は、すでに、間主観的である。つまり「心2」は、すでに間主観的に、つまり「私の心1」かつ「他我の心1」として、客観的物理的世界のうちに、その一部として、つまりそのものとして、存在する。(この限りで、行動主義の立場は正しい。行動主義は、おのれを徹底すべきである。①すでに見たように「心1」は、行動主義の前提である客観的(=間主観的)な物理的世界そのもののことである。また②「心2」は、一切の「人工物」として客観的(=間主観的)物理的世界のうちに出現=存在する(=その一部である)。つまり「心」(正確には「心2」)はブラック・ボックスでない。)私の「心2」、さらに莫大な数の他我たちの「心2」は、秘密(=私的)であるようであるが、実は秘密でない。「心2」そのものでさえ、(広義の)「人工物」として間主観的な(=客観的な)物理的世界の一部をなしている。


大項目()「心2」は言葉化される限りで、何ら謎でない。
大項目()-2 言葉(狭義には音声言語)は間主観的である。ここで間主観的とは、音声が客観的(=間主観的)物理的世界に属するということである。だがよく考えて見れば、客観的(=間主観的)物理的世界が成立し、自我と他我の分離(自他の心、自他の主観性の成立)を可能としたのは、「ここ」物体と「そこ」物体(例えば、スーパー「そこ」物体=ママ物体)との触覚的身体的接触、および共感(同時発声の安心感、唱和の楽しさ、共同遊戯行動の喜び、欲望・意志充足の喜びなど)であった。だから間主観性の基礎には、直接出会う自他の共感がある。言葉の「意味」とは、結局のところ、共感のもとでの世界(=状況)の諸種類・諸類型(共感のもとでの類型的状況)のことである。言葉は、客観的(=間主観的)物理的世界に属し、共感のもとでの世界(=状況)の諸種類・諸類型(共感のもとでの類型的状況)を呈示する。

⑪-4(続)
(d) 私の「心2」であれ、諸他我の「心2」であれ、「心2」は、客観的(=間主観的)物理的世界のうちに「人工物」として産出される以前に、すでに、言葉化(音声言語化)されている。言葉(狭義には音声言語)は、間主観的な「人工物」の最も基礎的なものである。「心2」は、「私の心」のうちで、言語化される限りで、すでに間主観的である。
(d)-2 「心2」とは、世界現出の色彩(すなわち●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(c)「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」)、および自発性(すなわち●(a)-2「知覚」と呼ばれるノエシスの作用における、「注視」の自発性、●(b)身体に由来する「欲望」、 ●(e)「あるべき事態」(目標)を定立し実現しようとする「意志」)からなる。
(d)-3 言語化されない「心2」は私にも、他我にも闇である。


⑪-5 「心2」(世界現出の色彩および自発性)は、言葉化されることで、間主観的で、誰にも了解されるものとなる。
(ア) 巨大で広大で間主観的な人工物の世界の構築を可能にするのは、例示した「人工物」のうち、「人工物3」、つまり言葉(狭義には音声言語)、文字である。そして、「人工物1・2・3」以外の広大・巨大な「人工物4・5・6・7・8・9・10・11・12」の領域は、言葉(狭義には音声言語)と文字を前提する。
(ア)-2 なお「人工物1」(身体の動き・身体変化)は、「ここ」身体そのものに属す。
(ア)-3 「人工物2」のうち、身振り(指示など)および手話は、基本的に、言葉(狭義には音声言語)についての以下の説明((イ)、(イ)-2、(イ)-3、(イ)-4 、(ウ)、(ウ)-2)が当てはまる。「人工物2」のうち、パラ言語も、言葉の意味が詳細化されたものと考えられるので、言葉(狭義には音声言語)についての以下の説明が当てはまる。

(イ) これら物理的世界(物理的世界は間主観的であり「私の心1」かつ「他我の心1」である)に属す人工物(身体の動き、身振り(指示など)、言葉(狭義には音声言語)、文字)が、「私の心2」および「他我の心2」そのものであるのは、原理的には、「私の身体」と「他我の身体」が直接的に出会っている時だけである。なぜなら直接出会う自他の共感のもとでの世界(=状況)の諸種類・諸類型(共感のもとでの類型的状況)が、言葉の「意味」と呼ばれるものだからである。
(イ)-2 「私の身体」と「他我の身体」が直接的に出会っている時、共感(反復・同時発声の安心感、唱和の楽しさ、共同遊戯行動の喜び、欲望・意志充足の喜びなど)が初めて、「人工物2」すなわち身振り(指示など)、手話、パラ言語、また「人工物3」すなわち言葉(狭義には音声言語)、文字に、自他共通性=間主観性を成立させる。言葉の「意味」は直接出会う自他の共感のもとでの世界(=状況)の諸種類・諸類型(共感のもとでの類型的状況)であり、意味の「了解・理解」とは共感のもとで、そうした状況(=世界)の諸種類・諸類型(共感のもとでの類型的状況)が確認されることである。
(イ)-3 「確認される」とは、言葉によって「類型的状況」が引き起こされることである。言葉は、類型的状況(=世界)を引き起こす力を持つ。(「言霊」としての言葉!)例えば、(世界(=私の心)における)空腹感ゆえの「食物がほしい」との欲望・意図は、「ここ」物体に「マンマ」との音声を発声させる。そして「マンマ」との音声は、なんと、「そこ」物体(母親)が、現実のミルクの哺乳瓶を持ってきて授乳するという類型的状況を引き起こす。かくて、このことが、「ここ」物体の意図は、「そこ」物体によって「了解・理解」されたと言われる。
(イ)-4 自他共通性=間主観性が成立した限りでの言葉(狭義には音声言語)が、「私の心2」および「他我の心2」を、「私の心」および「他我の心」のうちにおいて、言葉化する限り、自他それぞれの「心2」は、すでに間主観的となる。
(ウ) すでに述べたように「心2」は言葉化される限りで何ら謎でない。「世界現出の色彩」としての「心2」に関して言えば、●(a)どんな感覚の私的なパースペクティブあるいはトーン(例えば視覚的パースペクティブ、微妙な味覚など)も、●(c)どんなに私的な感情も、●(c)-2どんな「(身体感覚的)全体的気分」も、●(d)幾重にもなって彩られた「想起」世界、「予期」世界の存在にもとづくどんな私的な「(時間形式的)全体的気分」も、それらが言葉化される限り、すでに間主観的となる。「心2」は誰にも了解される。
(ウ)-2 自我および他我の「自発性」としての「心2」に関して言えば、●(a)-2「知覚」における「注視」の自発性にどんな私的なバイアスがあろうと、●(b)身体に由来する「欲望」がどんなに私的なものであろうと、●(e)「あるべき事態」(目標)を定立し実現しようとする「意志」がどんなに私的に固有であろうと、それらが言葉化される限り、すでに間主観的となる。「心2」は誰にも了解される。

(エ) 言葉化されない「心2」(世界現出の色彩、自発性)は、ただ叫び、衝動、カオスでしかなく、「私の心」のうちで形を取らない。「私の心」にとっても無規定で、存在するかどうかも不明である。「他我の心」と出会うこともない。

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『心は何でできているのか―脳科学から心の哲学へ』プロローグ(1)、山鳥重(1939生)、角川選書、2011年

2015-08-19 10:19:03 | Weblog
プロローグ(1) 
A 心は本人以外、その内容が決して経験できない「主観性」である。(山鳥重氏)

《評者の感想1》
著者のこの言説は誤りである。「他者の心を直接に経験する」ことは可能である。その理由は、以下の通り。

《評者の感想2》「心1」について(「心1」と「心2」の区別については、この後の(補遺3)参照。)
(1)触覚において、抵抗するモノは、主観的な幻想か?幻想だとしたら、モノに出会うことがない。
(1)-2 客観的なものが外在的にあって、そのイメージ(心像)が別にあるのではない。世界が心像を含めて現出しているのであって、神経過程もそれ自身世界の現出である。全体として世界そのものが現出している。
(2)世界は現出にあたって必ずその中心に触覚的に抵抗面で区切られ閉ざされたモノを伴う。それが身体であり、「ここ」となる。触覚的に抵抗するモノは、幻想でなく、現実である。触覚はモノの現出そのもの。つまり触覚は、一方で主観的であって、かつ他方で、モノの現出という出来事そのものであり客観的である。
(3)触覚は、心に属する、つまり主観的である。同時に、触覚はモノの現出として客観的である。
(3)-2 他我の身体はモノであり、「私によって触れられる他我の身体」は、他我の心に属し、かつ私の心に属す。他我において現出している身体に、私が触れる限り、他我の心が、私の心と直接出会う。(自我と他我の区別がここでは前提されるが、自我と他我の発生について後述する。)
(3)-3 心は「主観性」であるが、その一部に「客観性」(触覚的身体の現出)を含む。他我の身体と接触するとき、この接触面は、私の「主観性」に属す「客観性」であり、同時に他我の「主観性」に属す「客観性」である。この接触面において、私の心は、他我の心と直接出会う。
(3)-4 触覚的接触面におけるモノの現出においては、自我他我相互に、心(主観性)は、本人以外にもその内容が経験される「主観性」かつ「客観性」となる。

(補遺1) 先取りになるが、後述の「《評者の感想4》(5)」による補遺
⑧ 「そこ」物体は幻でなく、世界の現出として現実である。「そこ」物体の世界(他なる主観性)も、世界の現出として幻でなく、現実である。
⑧-2  触覚的直接接触によって、「そこ」物体の世界(=「(私の)主観性の一部でもある客観性(=外部性)」=「客観性(=外部性)でもある(私の)主観性」)は、「ここ」物体の世界と連続する。

(補遺2) 先取りになるが、後述の「《評者の感想5》(6)」による補遺
(A)「心1」について(「心1」と「心2」の区別については、次の項目(6)参照)
(1) 今や世界は、「ここ」物体の世界(私の主観的世界=私の心)と、「そこ」物体の世界(他なる主観的世界=他我の心)に分化した。両世界=自他の心は、触覚的直接接触の接触面において出会う。抵抗する物は、物であって、同時に心の一部そのものである。抵抗する物の世界は、世界地平が連続的に意味的に(=イデア的に)構成され、間主観的に、つまり「私の心」であって同時に「他我の心」であるものとして現出する(意味的イデア的)物理的客観世界となる。(これが「心1」である。)
(1)-2 物理的客観世界を担保するのは、「ここ」物体の世界(私の心)と、「そこ」物体の世界(他我の心)との触覚的直接接触の、接触面における出会いである。

(補遺3) 先取りになるが、後述の「《評者の感想5》(6)-3」による補遺
⑧ 「ここ」(身体)を中心とする「絶対的今」における世界現出は時間形式と指向性形式を持つ。客観的物理世界は、自我他我発生以前の(1次的な)世界現出そのものでなく、自我他我発生に伴う間主観的(=2次的な)意味的イデア的構成物である。では客観的物理世界と、心(主観性、主観的世界)との関係はどうなっているのか。
⑧-2 (④-3で述べたように)「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的直接接触と共感(これは「絶対的今」の一致でもある)が、一方で()「他の主観性」と「私の主観性」を発生させ、他方で()客観的時間(=宇宙時間)をもつ(意味的イデア的)物理的客観世界を間主観的に、つまり「私の心」でもあり「他我の心」でもあるものとして、構成させる。
⑧-3 (1次的な)世界現出が、触覚的直接接触と共感を通して(2次的な)意味的イデア的構成物である客観的物理世界を発生させた。この時、「私の主観性」(私の心)という意味を獲得したかつての「(1次的な)世界現出」の位置は、どこなのか?つまり客観的物理世界の中で、「私の主観性」(私の心)の位置はどこなのか?

⑧-4 答えは、以下の通りである。「私の主観性」(私の心)は二つに分裂する。

()私の「心1」:触覚的物理的「ここ」(身体)そして客観的物理的世界そのもの
⑧-5 一方は、客観的物理世界の中に存在する触覚的物理的「ここ」(身体)は、同時に「私の主観性」(私の心)でもある。さらに客観的物理的世界全体が「ここ」(身体)の地平として、つまり私の心の地平として、私の心に属する。(客観的物理的世界はもちろん「他我の心」の地平でもある。)「絶対的今」において、かつその中心にある「ここ」(身体)は、私の心(「私の主観性」)でありながら、同時に、物理的客観世界の現在に属す。そして物理的客観世界全体は、「ここ」(身体)の地平であり、同時に私の心の地平となる。
⑧-6 私の心は、「ここ」(身体)において客観的物理世界のうちに露出する。常識に反するようだが、これが事実である。私の心のうち、その(=心の)「絶対的今」において、そしてその(=「絶対的今」の)中心にある触覚的物理的な「ここ」(身体)だけは、物理的客観世界の現在のうちに存在する。
⑧-7 心は、物理的客観世界の「像」のようなものではない。心は、なんと、物理的客観世界に、そのもの(=心そのもの)として、その一部として実在するのである。
⑧-8 物理的客観世界の現在に実在する「絶対的今」の触覚的物理的な「ここ」(身体)。
⑧-9 私の心が他の心と出会うのは、ともに触覚的物理的な「ここ」(身体)と「そこ」物体(=「そこ」身体へ転化する)の触覚的直接的接触面だけである。物理的客観世界の現在において、「絶対的今」の「ここ」(身体)と「絶対的今」の「そこ」(身体)が、「私の心」と「他我の心」そのものとして、直接に出会い、間主観的な物理的客観世界を成立させ、かつその現在のうちに実在する。
⑧-10 なお視覚が、触覚により確認・担保される限りでは、視覚が捕える他者の身体は、それ自身が他我の心(の一部)とされてよい。視覚でとらえられた他者の身体は、他我の心の一部の露出である。
⑧-11 さらに言えば、間主観的な物理的客観世界は、「ここ」(身体)と「そこ」物体の触覚的直接接触を一部として含む限りで、一方で、私の心の地平(連続する部分)、他方でまた、他我の心の地平(連続する部分)である。かくて、驚くべき結論だが、間主観的な物理的客観世界は、それ自身、「私の心」そのものであり、また「他我の心」そのものである。

()私の「心2」(「私の主観性」(私の心)の他の広大な部分で、世界現出に伴う諸要素だが、客観的物理的世界に属さないもの):●(a)「感覚」のパースペクティブあるいはトーン、●(a)-2「知覚」における「注視」の自発性、●(b)身体に由来する「欲望」、●(c)感覚に由来する「感情」、●(c)-2「(身体感覚的)全体的気分」、●(d)「(時間形式的)全体的気分」、●(e)「意志」という自発性感情、●(f)想像・虚構・芸術・夢など疑似世界に由来する「全体的気分」
⑨ 私の心は、二つに分裂する。一方は、上述のように、「私の主観性」(私の心)としての触覚的物理的「ここ」(身体)、そして「ここ」(身体)の地平つまり私の心の地平としての客観的物理的世界そのもの。これらが、私の心に属する。(これが「心1」である。)
⑨-2 他方で、「私の主観性」(私の心)の他の広大な部分で、世界現出に伴う諸要素だが、客観的物理的世界に属さないもの。(これが「心2」である。)

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『泣いたらアカンで通天閣』坂井希久子(1977生)、祥伝社文庫、2012年

2015-08-15 23:08:46 | Weblog
A 千子(チネ):小5の作文
A-2 母は小3で死亡。父はラーメン屋、仇名ゲンコ(賢悟)。辰代おばあちゃん。千子(チネ)はセンコと呼ばれる。母が死んで、ラーメンがまずくなった。


一 三好家のこと:父ゲンコ(賢悟)、娘センコ(千子)、亡くなった母・芙由子、辰代おばあやん
B 賢悟54歳、千子26歳。賢悟は190cm近い大男。
C 質屋「かめや」。主人、亀田保。妻、典子。
C-2 千子が買ったばかりのテレビを、ゲンコが質入れ。
D ノストラダムスの大予言を信じた賢悟が、千子を連れて生駒山頂に避難。1999年。
E ラーメン店「味よし」。新世界の北のはしっこ。
E-2 乾物屋のじいちゃん・ばあちゃん。年寄2人で、すでに廃業。
E-3 シャッターの目立つ北詰商店街
F 光ハイツの少年。スルメをいつも食べている。ランドリーでパンツを盗む。
G 相手の度量と人情をはかる、小さくて面倒くさい世界。
G-2 ラブホテルの主人「ツレコミ」は、イタリアン・マフィア風。ツレコミの妻・朱美。ツレコミと朱美は入籍していないが、二人は仲がいい。
H 千子は、亡くなった母・芙由子に似てきた。芙由子は、賢悟の永遠のマドンナだった。


二 お帰りなさい:カメヤ(雅人)が東京からもどって来る
A 細野、36歳、妻子あり。千子の彼氏。
A-2 「私は現地妻!」と千子。細野は「ずるくて弱くて身勝手な愛おしい男」。
A-3 細野は、海江田商事大阪支社人事部の千子の上司。
B 「ゲンコのアホタレ」、「センコのデベソ」レベルの喧嘩。千子と賢悟。
B-2 質屋「かめや」の婆さん正子と、おばあやんは友達。
C テレビを受けだすのに、賢悟、芙由子の形見の指輪をあずける。
D 「喫茶マドンナ☆」:留美はセンコの2歳上。父親がマスター。母親・道子。
D-2 留美の旦那、姫路に辞令。留美、7か月の息子を連れて、実家に来る。
E 質屋「かめや」の一人息子、雅人。千子より1学年上。東京に出て、銀行員になる。
F スルメ少年が、「ふきんに鼻くそつけた」とのことで、ゲンコが罰として洗わせる。
G 細野・人事部特別室長。大阪支社でリストラ実施。
G-2 細野と千子が、デートし手をつないでいるのを、賢悟が発見。
H 次の日曜日、「デエトせんでいいのか」と賢悟が千子に言う。
H-2 「家のことにかまけて、自分の幸せをおろそかにするな」と賢悟のてれかくし。
H-3 千子、こみ上げる。
I 質屋「かめや」の一人息子・雅人を、千子はカメヤと呼ぶ。
I-2 中学生のカメヤが、「俺、絶対、ここを出ていく」と決意を千子に言う。
I-3 「質屋と婿養子(父・保)はやだ!」とカメヤ(雅人)。
I-4 千子にとって、兄妹のように育ったカメヤなのに、今は遠い。カメヤは東京でエリート銀行員。
J そのカメヤが、大阪支店にもどって来る。
J-2 ところが、母・典子(質屋「かめや」)が、カメヤは「仕事じゃなく、毎日、どこかに行ってる」と千子に言い、尾行を頼む。
J-3 千子、カメヤに、尾行を発見される。
K 千子とカメヤ、通天閣に上る。
K-2 「センコは、へこむと通天閣だな」とカメヤ。母・芙由子が死んだとき、「私がおかあちゃんの代わりをするしかない」と通天閣に上り、千子、決意。父・賢悟は頼りない。
K-3 「銀行をやめた。笑ってええで。」とカメヤ。顧客情報紛失事件でカメヤ、濡れ衣をきせられ、辞めた。
K-4 「カメヤ、お帰りなさい」と千子。


三 通天閣の足元で:賢悟がスルメ少年をひきとる&千子が妻子持ちの細野と別れる
A 細野、あと1週間で東京へ戻る。「月に1回は会いに来る」と千子に言う。「妻のもとへは週1回なのに!」と千子、思う。
B スルメ少年、「おかあちゃんがいない」と言う。「2週間も、おかあちゃん、待っとる」とのこと。
B-2 賢悟が、スルメ少年をひきとる。
B-3 「おかあちゃんは『女を売っとる』!」とスルメ少年(小5、佐藤翔太くん)。少年は、しょっちゅう、殴られている。
B-4 「ゲンコとスルメは、おかあちゃん探し」と、店番を頼まれたカメヤが言う。
C カメヤは、ご近所には「体を壊し休職中」という触れ込みになる。
D 千子の給料は、生活費と「味よし」(ラ―メン店)の赤字補てんに消える。
D-2 賢悟の姉に頼み、今の会社に、千子、就職。
E 「鳥さんのスープ(「味よし」の昔のラーメン)のほうが、豚骨スープよりよい」とカメヤ。
E-2 おじいやんが鳥さんのスープの秘伝を、母・芙由子にしか伝えなかった。芙由子が死んだあと、賢悟は、鳥さんのスープを再現しようとしたが失敗。豚骨スープに変えるが、まずくて、「味よし」にお客が来なくなった。
F 通天閣のそば、ジャンジャン横丁で、妻を連れた細野を発見し、賢悟がどなっている。
F-2 「会社の上司!」と千子が、賢悟をけむに巻く。
G カメヤが、千子に優しくする。カメヤの胸で千子、泣く。「喫茶マドンナ☆」の道子(慎み深い)に見つかる。
G-2 「のしつけて返したるわい。あんなきざ男(細野)!」と千子、自分に言う。
G-3 98%、うさん臭くて、2%程度が温かさや懐かしさの街、通天閣。


四 スルメは悪い子:スルメが乾物屋のばあちゃんに怪我をさせたと濡れ衣
A 母・芙由子と父・賢悟では釣り合わない。「なんで、おとうちゃんと結婚したん?」と千子が昔、たずねた。「土下座された。」「『腹割いて死ぬ』と言われたから。」と芙由子。
B 千子、カメヤと3回、寝る。
B-2 細野とは、ジャンジャン横丁の事件ですんなり切れ、千子、乗り換え完了。
C スルメは、1か月以上、三好家に居る。賢悟は、児童相談所に対し不信感。
D 「クソガキが、ウチのばあさんに怪我さした。」と乾物屋のじいちゃん。「スルメが足をかけた」と言う。
D-2 スルメは「やってない」と主張。乾物屋のばあちゃんは肋骨骨折。
D-3 母親のことを「妖怪通りの淫売」と言われ。スルメが、じいちゃんに掴みかかる。
D-4 賢悟は、スルメの肩を持つ。スルメは「ゲンコさんに懐いた」とカメヤ。
D-5 スルメが、クレヨンで絵を熱心に描くようになる。
D-6 スルメの給食費4万円を、千子が立て替える。
D-7 結局、ばあちゃんは、箒につまずいたと判明。


五 おじいやんの味:「味よし」のラーメンをカメヤが「先代(おじいやん)の味にもどす
A カメヤが、「味よし」のラーメンを「先代の味にもどそうや」と進言。「俺が再現して見せる」とカメヤ。
A-2 カメヤの試作品ラーメン。「近い、かなり近い」とゲンコ。「ゲンコのラーメンより百万倍うまい」とスルメ。「あと一歩やねん」とカメヤ。
B おばあやんが、くも膜下出血。
B-2 芦屋の金持ちの伯母(賢悟の姉)に、千子が治療費を出してくれるよう頼む。「自分の母親だから」と払う。
B-3 おばあやんに「オトーチャンの味、取り戻して」と頼まれ。カメヤ、使命感。
B-4 最後に醤油だれが必要。質屋のおばあさん・正子の実家のお醤油とわかる。和歌山県三桝屋の醤油。
C おばあやん(賢悟の母)が亡くなる。
C-2 カメヤが、ついに、おじいやんの味を再現。カメヤが作ったラーメンの鉢を、棺の前に千子がおく。
C-3「これ、おかあちゃんのスープやあああ」と千子、泣く。「先代の味や!」と皆が言う。芦屋の伯母も、ラーメンをすすり、滝の涙。


六 センコとゲンコ:父・賢悟と娘・千子は血がつながっていないと判明
A カメヤのおかげで「おじいやんのラーメン」復活。ネットの口コミ作戦もあり、「味よし」の売り上げ増大。
B 「翔太(スルメ少年)を返せ!」と母親が出現。
B-2 「4か月も、なぜ子供をほおっておくんだ!」と賢悟が怒る。しかし、スルメは結局、母親のもとに帰る。
C カメヤが、千子に東京に来るよう誘う。
C-2 「ゲンコは、わたしがおらんなったら、アカンなる」と千子、断る。
C-3 センコ(千子)、お腹に細野の子供がいることは、カメヤに言わなかった。
D 賢悟、光ハイツの階段から、スルメの母親に突き落とされる。
D-2 スルメは再び、学校に行っていない。ごみ屋敷状態の光ハイツ301号室に、居る。心配して賢悟(ゲンコ)が行っても、スルメ少年は部屋から出てこない。
D-3 ゲンコが、階段から突き落とされた時は、さすがに出てきて「ゲンコ、大丈夫か?」と言った。
E ゲンコは足の骨折で入院。
E-2 賢悟の血液型がO型とわかる。母・芙由子はA型。千子はA型かO型のはず。ところがB型。
E-3 質屋「かめや」の典子が立ち合い、ゲンコが「センコとゲンコは血がつながっていない」と千子に言う。
F 昔、東京から戻ってきた時、芙由子は妊娠していた。妻子ある男と、芙由子の子が、センコ(千子)。
F-2 「お腹の子のおとうちゃんにならしてくれって、ゲンコが土下座した」と典子が言う。
F-3 「センコ、すまん」「今まで騙しとって悪かった」と賢悟。
G 「一度引き受けたからには、最後まで責任持ってもらう」とセンコ。
G-2 ゲンコの眼に、新たな涙。
H 「27年も一緒にいるんだ!」とセンコ。「『血がつながってへんからなに?』とあの人(芙由子)なら言う。」とセンコ、思う。
H-2 町の人も、おじいやんもおばあやんも、どこの馬の骨の子かしれない千子を、賢悟と芙由子の娘として、受け入れてくれていた。


七 バトンタッチ:センコが細野の子を妊娠していても、センコと結婚したいとカメヤ
A 千子、妊娠20週、6か月目に突入。
A-2 年度末に会社を辞めると、千子決める。カメヤが東京に行き、賢悟一人で「味よし」はやっていけない。
B 東京に行くはずだったカメヤが、「味よし」の従業員となる。賢悟が採用。
B-2 「結婚しよう」とカメヤが、千子に言う。
B-3 細野の子を妊娠していると、センコが、カメヤに伝える。そして、プロポーズを断る。
C スルメ少年が、三好家にもどって来る。スルメ母は31歳。
D カメヤが、「センコを安心して任せられる男になる」と賢悟に言う。
D-2 「土下座してでも結婚しようと思う」とカメヤが、センコに言う。「大丈夫、ゲンコさんに出来たことが、俺にでけんはずがない」とカメヤ。


八 母から娘へ:芙由子の形見のオパールの指輪が千子に渡される
E 亀田・三好の両家が、料亭で婚約の宴。「カメヤ雅人と三好センコさんの婚約を祝してカンパーイ!」と賢悟。
E-2 カメヤ(質屋「かめや」の一人息子・雅人)は「味よし」の3代目となる。
E-3 「『かめや』はボクラの代で廃業で、いいと思う」と保。典子もOKする。
F 「センコは妊娠6か月、『ぼくの子』です」とカメヤが報告。
F-2 「カメヤとはこれで一生共犯だ!」とセンコ、思う。
G 「嫁入り前の娘を腹ボテにするとは、だらしない男だ」と賢悟、カメヤに怒る。
G-2 賢悟(ゲンコ)、カメヤを別室に連れていく。
G-3 二人は和解。式を挙げ、センコにウェディングドレスを着せるようにと、賢悟がカメヤに約束させる。
G-4 芙由子に、昔、賢悟が送ったオパールの婚約指輪を、カメヤが、賢悟から受け取る。カメヤがセンコの指にはめる。母・芙由子が「ちねちゃんが、お嫁に行くときあげる」と言っていた指輪。
H かつて芙由子が、いつも笑っていたのは、それが賢悟にとって一番のお返しだったから。


九 歩んできた道:結婚式でウェディングドレスの千子に、賢悟が「おかあちゃんにそっくりや」と言う
A センコ、妊娠7か月、引っ越し。「お急ぎ結婚プラン」で1週間後、挙式。
A-2 光ハイツ201号室が、千子とカメヤの新居。スルメは、すぐ上の301号室。
B スルメとスルメ母(31歳)が失踪。赤いシーマの男と一緒。
B-2 ゲンコは、スルメが虐待されることを心配。
C 結婚式当日、ゲンコ(賢悟)が行方不明。
C-2 賢悟がパトカーに送られ、式場に到着。スルメも一緒。
C-3 「きれえやな」と賢悟が千子(センコ)に言う。「おかあちゃんにそっくりや」と賢悟。
D 厨房服に長靴&おたまをかかえた賢悟が、センコをエスコートするという演出。


十 家族のこと
E スルメ(小6)が三好家に同居。学校に通い始めた。
E-2 結婚式前日、スルメからゲンコ(賢悟)にSOSのメールが入った。賢悟が、覚醒剤でおかしくなったスルメ母と若い男から、スルメを救った。
E-3 警察で事情聴取が長引く。ゲンコがごねて、式場までパトカーを出させた。
E-4 スルメ母は刑務所へ。覚醒剤の累犯。
E-5 賢悟は、スルメを養子にしたい。
F 「血のつながりだけが家族じゃない」とセンコは思う。ゲンコが実践。カメヤもそうだ。
F-2 カメヤ、「季節限定ラーメン」を開発中。いくら好評でもお客は飽きる。
F-3 お腹の娘に、センコ、腹の内側を蹴られる。


《評者の感想》
(1)この通天閣に近い古い商店街の評価は二義的である。「相手の度量と人情をはかる、小さくて面倒くさい世界」。「98%、うさん臭くて、2%程度が温かさや懐かしさの街、通天閣」。
(2)細野、36歳、妻子あり。千子の彼氏。「私は現地妻!」と千子。細野は「ずるくて弱くて身勝手な愛おしい男」。千子の母・芙由子も妻子ある男の子供を産む。著者・坂井希久子氏は、シングル・マザーをきわめて一般的と見ている。
(3)カメヤは結局、大阪の通天閣の街を受け入れ、「味よし」の3代目となった。理由:①千子の持つ魅力、②カメヤのラーメンへのこだわり・興味・関心、③質屋の息子であることから、カメヤはサラリーマンと違う自営業の世界に不安がない。
(4)スルメ少年、スルメ母、賢悟、児童相談所の関係が、この小説の主要なテーマの一つ。賢悟はスルメの肩を持つ。「スルメ、ゲンコさんに懐いた」とカメヤが言う。信頼関係が重要だが、スルメ少年の心は揺れる。
(5)「血のつながりだけが家族じゃない」とセンコは思う。ゲンコが実践。カメヤもそうだ。著者のこの言葉は、現実に難しいが、あってほしい姿を、述べたものである。ユートピア風の味付け。

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『10年代文化論』さやわか(1974生)、星海社新書、2014年

2015-08-06 13:59:30 | Weblog
A 2010年代の若者文化は「残念の思想」によって作られた:さやわか氏の主張の中心。
A-2 1997年から、インターネットが爆発的に普及。
A-3 2007年頃から、「残念」の語に愛情が込められる。新しい時代を象徴。

第1章 ネットが失望される時代
B 梅田望夫『ウェブ進化論』(2006年)はウェブに期待を持ったが、2009年には梅田が失望する。
B-2 ウェブは、「人への悪口」、「クレーム」、「文句を言いたいだけの人」に占領された。
B-3 「2チャンネル」で、2007年頃から「残念」の語がポジティブになっていく。2008年「ニコニコ動画」にも同様の傾向が出る。
B-4 「残念」さを好む若者文化が、2006-8年にかけて誕生。

第2章 ボーカロイド
C 初音ミクが歌うVOCALOIDO(ボーカロイド)。
C-2  VOCALOIDOは、パソコンに歌を歌わせるためのソフトウェア。

D 2007年、ネギを持つ初音ミク:「残念の思想」の出現。
D-2 「かわいいキャラにネギを持たせる」ような「残念」な時代のカルチャーは、昔の「オタク文化」にない。
D-3 初音ミクは昔の「オタク」が「萌える」ようなキャラクターではない。

第3章 内面と演技
E 「ライトノベル」の盛況。男性オタク向け小説。
F 「残念」とは外見のスペックと、内面の性格・能力に大きなギャップがあること。

G 2009年から「残念系青春ラブコメディ」の『僕は友達が少ない』。
G-2 「友達作りに必要なもの、それは演技力だ」と主張。
G-3 学校で生きられない個性としての「残念」。
G-4 内面を追い求めることをしない人間像!「演技力」こそ友達作りに必要!
G-5 「演技力」によって、クラスとは別の所に、コミュニケーションの場所を求め、新たな自分を見つける。

第4章 3次元(ステージ)とキャラ
H 2007年のPerfumeのブレイク。
H-2 肉声でなく、加工された音声。口パクもダンスの一部。楽曲、ダンス、映像が別々に持ち寄られ、Perfumeが自由に統合する。
H-3 コントロールされていない、「操り人形」でないアイドル、Perfume。
H-4 彼女たちは、自由な「演じ手」。普段の姿は、「演じ手」と別。アイドルの自由さ。
H-5 普段の姿とステージ上の姿の同一性が、求められる「アイドル」と異なる。
H-6 ももいろクローバーもPerfume的!

I 普段の自分自身も、「キャラ変」可能。
I-2 ネガティブな部分を「残念」と呼び、前向きに受け入れる。かくて「残念」という一種の「キャラ」として抽出。
I-3 「キャラ芸人」:尊大な態度や非日常性を「演じる」。普段の自分は別でよい。

第5章 オタクのメジャー化!&オタクを受け入れる「残念の思想」広がる
J 80年代前半に成立した「オタク」は蔑称。アニメ、マンガ、フィギュアに耽溺し、容姿に気を使わない。
J-2 1996年、岡田斗司夫『オタク学入門』が、「オタク」を、日本的「粋」「匠」「通」の伝統の後継者と規定。
J-3 かくてオタクは2004年にブームとなる。また秋葉原が活気ある街となる。オタクのメジャー化。

K 2007年頃以降の「残念」の意味変化で、オタクが奇異とみられる不安がなくなる。
K-2 「残念の思想」:否定的な要素を受け入れる。ダメだが受け入れる。清濁併せのむ。
K-3 「残念」という名の「キャラ」が自分の一部であると、認める。
K-4 学校教育からドロップアウトした個性など、「残念」な個性も受け入れる時代!

第6章 2007年以降の「残念の思想」
L 1999年開設の「2チャンネル」への期待。スポンサーにおもねない「本物のメディア」。
L-2 しかし「一般人」などいない。「真実」でもない。今や、凋落。
L-3 2007-8年にTwittwer とFacebookが勃興。

M 2006年秋葉原通り魔事件の犯人は、自分の「学歴」・「女性へのコンプレックス」を、「残念」な「キャラ」として掲示板に載せた。自分のコンプレックスを「ネタ」として、他人との交流を求めた。
M-2 どんな個性も許す自由さ、おおらかさが前提。
M-3 「荒らし」に対し、犯人が憤激。
M-4 「通り魔事件を起こす」と警告し、「荒らし」を改心させようとするが失敗。

M-5 かくて犯人が、通り魔事件を実行。
M-6 この犯人は、「残念の思想」を持つ。

N 2012年、黒子のバスケ脅迫事件の犯人、36歳は、自分が「人生オワタ」(絶望)状態になっていることに気づき、成功者を道連れにしようと発狂。
N-2 ここには、「残念の思想」はない。2007年以前の感性。

第7章 終章:「残念」という語の意味変化。
O 言葉の変化からヒトの心の移り変わりを把握。社会的事件の背後の精神性を読み解く鍵とする。その一つとして「残念」という語の意味変化を、テーマとした。
O-2 悪しき部分を切り捨てる、つまり臭いものに蓋するのでなく、直視してうまく社会を運営する方法を考えるという態度が、「残念の思想」。
O-3 この精神性の変化、すなわち「残念の思想」の出現は、日本人全体のものにならず、いまだ若者文化にとどまる。

あとがき 
P 「新残念文化」、「ネオ残念パラダイム」と名付けてもよいが、明示できない空気のような変化で、だから命名するのは嫌だったと著者。

《評者の感想》
(1)悪しき部分を切り捨てる、つまり臭いものに蓋するのでなく、直視してうまく社会を運営する方法を考えるという態度が「残念の思想」だと著者。
(2)若者は寛容になっているのか?ヘイトスピーチ参加者に若者が多く、若者の考え方が、寛容と非寛容に分裂しているのかもしれない。
(3)非寛容で、愉快犯的ないじめが、昔からある。暴力的な非寛容(いじめ)が若者に減っているとは思えない。「残念の思想」に期待したい。

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