宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『これが現象学だ』序章・第1章・第2章1-3節、谷徹(トオル)(1954-)、講談社現代新書、2002年

2017-06-27 12:59:11 | Weblog
序章 あなたと私が現象学だ
A フッサールの現象学への突破口、『論理学研究』(1900/1901)→1901年、ゲッティンゲン大学に在職:ミュンヘン・ゲッティンゲン現象学派。
B 諸学問の始原(アルケー)を捜す:フッサール。諸学問の基礎づけ。
B-2 現実、直接経験、「事象そのもの」へ帰る。
B-3 この始原は多層であるとわかる。一つの層を発掘すると次の層が現れる。
C 事象そのものは、直接に見られ、直接に経験される。哲学用語では「直観される」と言う。
D 覆い隠す思考を考え直し、事象そのものを明らかにし、始原をさがす。
E 『論理学研究』のあと、フッサールの「超越論的転回」→彼から多くの研究者が離れていく。
E-2 フッサール、1916年、フライブルク大学へ。若いハイデッガーに会う。「あなたと私が現象学だ!」とフッサール。
E-3 1920年頃から、フッサール、「発生」の観点、導入。
E-4 ハイデッガーもフッサールから離れていく。さらにハイデッガーはナチスに協力。フッサールはユダヤ系で迫害される。
F フッサール、孤立化。「哲学的隠者になってしまった」と感じる。
F-2 1938年、フッサール死去。ナチスからフッサールの4万頁の草稿救出。
G ハイデッガーの『存在と時間』での言葉:「事象そのものへ」(zu den Sachen selbst)!


第1章 現象学の誕生
第1節 数学から哲学へ
A ベルリン大学で数学の助手となる。
A-2 ブレンターノの講義を聴き哲学に向かう。「厳密学としての哲学」を目指す。

第2節 学問の危機
B ガリレイは「哲学」していた。ニュートンも「哲学」していた。「科学」の語は、まだない。
B-2 自然/世界は「数学」や「幾何学」の言語で書かれている。(ガリレイ)
B-3 数学的にとらえられた世界(理念化された世界)が「真の世界」「客観的な世界」とされる。直接経験の世界(生活世界)が「見かけの世界」「主観的な世界」とされる。ガリレイは「覆い隠す天才」とフッサール。

C 「直観」の要素を持つ幾何学でなく、「直観性」をもたない代数の発展。
C-2 19世紀後半、数学や論理学は、ライプニッツ的構想に従いつつ、経験から独立した公理体系として展開しようとしていた。
C-3 経験を「現実(性)」と言い換えるなら、数学や論理学は「可能性」だけを扱うと言える。つまり数学や論理学は、現実から離れて、それゆえまた現実に先だって(=アプリオリに)、可能性の領分を示す。

D 直接に経験・直観される現実からの数学・論理学・自然科学の遊離、地盤喪失。ヨーロッパ諸学の危機!
D-2 フッサールは数学や論理学の始原を取り戻そうとした。この始原は「直接経験」(ものを見る、ものに触るなど)にある。
D-3 E.マッハ:科学の唯一の基礎は「経験」、正確には「感覚」にあるとした。「現象学」!
D-4 ブレンターノらの「現象学」もあった。
D-4 フッサールの「純粋現象学」、「超越論的現象学」。純粋=超越論的と考えてよい。

[コーヒーブレイク] 現象学と分析哲学:「心理」、「論理」、「経験」の関係の問題
E フッサールは、言語(論理)は、経験に対して派生的とみなす。
E-2 「意味」や「思想」は、個人の心理内容でなく客観性を持つ:フレーゲ。
E-3 分析哲学は、言語の客観性・普遍妥当性あるいは公共性を重視する。経験を問う姿勢は弱い。
E-4 フッサールは『論理学研究』で、論理的なものがアプリオリであると認める。他方で、論理的なものを経験から基礎づけようとする。


第3節 フッサールの根源的着想
(1)学問の基礎は直接経験にある
A マッハの図2(左目の視野)が視覚の直接経験。マッハの図1(外部からの物理的刺激[=可視光線]を私が受け取り、知覚が成立する)は「客観的」と思われているが、実は図2のような直接経験から派生したものである。
A-2 図2は「主観的」と言われるが、これが図1の「客観性」の前提である。(45-46頁)

(2)超越論的還元
B 派生的な「客観性」を、根源的な「主観的な」光景に引き戻す(=還元する)。
B-2 そもそも私たちは、この光景(=表象)の外に出ることは出来ない。外に出られると考えるのは非学問的。

C実存する対象を持つ表象(Ex. 富士山)と、実存する対象を持たない表象(Ex. ペガサス)。
C-2 富士山が、私たちの表象の外(=表象の外部に存在する対象)では、確認されえない。
C-3 表象の外部に対象が存在することを疑わない自然的態度を停止(エポケー)。私たちの眼を、表象に引き戻す(超越論的還元)。

D 表象の外部(=「超越」的)に、なにかが「存在する」と思う「自然的態度」を問う。
D-2 存在=超越は、表象の内部から出られない私たちが、表象の内部で「構成」したもの!
D-3 超越を、このように問うことが、「超越論的」と呼ばれる。
D-4 空想対象も知覚対象も構成されたもの!
D-5 対象は、その存在=超越さえも、私たちの働きかけによって成立する。

E 還元された光景が「超越論的主観性」である。
E-2 科学的な(つまり数学と実証に依拠する)「客観科学」は「客観性」を標榜する。フッサールは客観性の基礎として、客観性に先立つ主観性を問う。
E-3 超越論的主観性とは、私たちが最も直接的に具体的に経験している光景そのもの、直接経験の領野(マッハ的な光景=図2)である。

F 心理学は自然的態度をとるのに対し、現象学は超越論的態度をとる。
F-2 現象学は、「超越論的態度の心理学」と言ってよい。

(3)「(知覚・経験される)現出者」と「(感覚・体験される)諸現出」:志向性の問題
A 机は「台形」に見えるが、私たちは「長方形」と思う。
A-2 私たちは、台形を「感覚」しているが、それを突破して、長方形を「知覚」している。
A-3 私たちは、台形の感覚・体験を突破して、その向こうに長方形を知覚・経験している。
A-4 言い換えれば、私たちは「現出」の感覚・体験を突破して、その向こうに「現出者」を知覚・経験している。
B 「(知覚・経験される)現出者」の同一性と「(感覚・体験される)現出」の多様性。
C 現出は、現出者の「記号」であるとも言える。
C-2 「現出者」は「諸現出」によって媒介されている。「諸現出」は「現出者」へと突破されている。

D 「現象」の語は、「諸現出」と「現出者」との二義性を孕む。
D-2 フッサールは、諸現出と現出者の関係を「普遍的な〈相関関係のアプリオリ〉」と捉える。
D-3 「私の生涯の仕事は、この相関関係のアプリオリを体系的に仕上げるという課題によって支配されてきた。」(フッサール)

E 「現象学」は、諸現出と現出者の関係から成り立つ「現象」を扱う学問。
E-2 現象学は、実体(本体)と現象(仮象)といった意味での現象(これは外部に実存する対象とその表象という図式のバリエーションにすぎない)を扱う学問ではない。

F 直接経験では、諸現出の体験(感覚)を媒介にし(突破して)現出者が知覚(経験)されるが、この媒介・突破の働きが志向性と呼ばれる。
F-2 それゆえ直接経験は、「志向的体験」と言い換えられる。
F-3 諸現出と現出者の(媒介・突破の)関係がそこで生じる場面、すなわち志向的体験が、「意識」と言われる。

G 「現出者(対象)」は経験(知覚)され意識の主題となるが、「現出」は体験(感覚)されるだけで「意識の非主題的成分」(その1)である。
H また意識は基本的に対象を主題的にとらえており、おのれ自身(=現出を突破する意識の「働き」)を意識するしかたは非主題的である。意識がおのれを主題化するのは「反省」(内部知覚)する場合である。すなわち、現出を突破する意識の「働き」そのものは、「意識の非主題的成分」(その2)である。
H-2 現出を突破する意識の「働き」は「作用(Akt)」と呼ばれる。のちにこの作用を支える働きがさらに発見され、その場合、作用は「能動性(Aktivität)」と呼ばれ、それを支える働きが「受動性(Passivität)」と呼ばれる。
《評者の感想》
 反省的でない意識とは何か?それは、世界が受動的に開示されていることである。

(4)直観経過における志向と充実
I 諸現出は、現出者に向かって突破される。(66頁)
I-2 現出者と諸現出の相関関係は、いつも直観経過のなかに(あるいは時間意識のなかに)ある。(67頁)
I-3 予持は、いつも現出を「志向」しており、たいてい、それが次の原印象的現出によって「充実」される。(67頁)

[コーヒーブレイク] 絵画の遠近法
J フッサールは、現出を「射影」とも呼ぶ。射影は、「形態射影」と「色彩射影」に区別される。
J-2 ルネサンス期の遠近法は、形態射影に注目した。
J-3 印象派は、色彩射影に注目した。
J-4 キュビズムは、感覚される現出(形態射影と色彩射影)でなく、知覚される現出者に注目した。
《評者の感想》
●1 嗅覚射影、味覚射影、聴覚射影もあるはずだ。
●2 「形態射影」は、いわば触覚射影に相当する。触覚は、基本的に圧覚である。
●3 しかし触覚は、さらに広義には、温熱覚、痛覚も含むから、これらの射影もあるはずだ。
●4 「色彩射影」は、いわば、視覚射影に相当する。
●5 「形態射影」は、基礎を触覚射影にもつが、同時に視覚射影にも属する。


第4節 無前提性
A 諸学問の「下」(基礎)には直接経験=志向的体験がある。そして直接経験=志向的体験は、その外部から眺めることができず、その「内部」に還元する。
A-2 直接経験=志向的体験を解明する現象学は、「形而上学的、自然科学的、心理学的な無前提性を満たそうとする。」



第2章 現象学の学問論:現象学は直接経験=志向的体験からどのようにして諸学問/諸科学を基礎づけるのか
第1節 論理学と心理主義
A 数学と論理学が、諸学問/諸科学の基礎学である。
A-2 数学や論理学は、それら自体、基礎を持たないのか?

B 数学や論理学の基礎を心理学に求める心理主義。
B-2 心理主義は、「生物それぞれ、各人それぞれに、数学や論理学がある」との帰結にいたる。数学や論理学の普遍妥当性の否定。数学・論理学的真理は「各人各様」になる。

C 心理主義に反対したフレーゲ。論理学的なものは、直観や経験から独立。さらに自然的な日常言語からの解放・純化が必要。フレーゲの「概念記法」。

D フッサール『算術の哲学』(1891年)には心理主義的傾向があるが、フッサール自身が否定。「ほんとうのことを言えば、私がこれを出版したときには、私はすでにこれを乗り越えた地点にいた。」(フッサール)
D-2 プロレゴーメナ以後のフッサールは、数学や論理学がアプリオリな学問であることを認める。(フレーゲと同じ立場!)
D-3 ただしフッサールは、数学・論理学が、直観的・経験的な基礎を持つとする。(フレーゲと異なる!)その基礎が、直接経験=志向的体験である。


第2節 アプリオリ(76-84頁)
B 数学や論理学は「アプリオリ」である。(反対語が「アポステリオリ」!)
B-2 それは、ライプニッツの「理性の真理」である。「事実の真理」に対比される。
B-3 「汽車は最速の乗り物である」は「事実の真理」である。「汽車は最速の乗り物であった」と「時制変化」し、今では、当てはまらない。
B-4 これに対し「3たす3は6である」は、「時制変化」しない「永遠の真理」。つまり「理性の真理」である。

C カントは、論理的カテゴリーは、主観性に「あらかじめ」備え付けられ、「アプリオリ」だと言う。
C-2 フッサールは、主観性に「あらかじめ」備え付けられた「アプリオリ」を認めない。フッサールの現象学的アプリオリは、主観性の心理主義的認識装置(カント)ではない。
《評者の感想》:フッサールは主観性の「本質構造」、ノエシス、ノエマの構造について語る。これは現象学的「アプリオリ」である。
C-3 フッサールの「アプリオリ」は心理主義的概念でなく、存在論的概念であり、存在が時制変化しない特性を持つことである。存在が時制変化する特性を持てば、それは「アポステリオリ」である。

D 数学・論理学は、本質学であり、アプリオリ・理念的・本質的・普遍的・必然的という存在論的性格を持った存在についての学問である。「理性の真理」の学。
D-2 本質的なものの構造連関に基づく厳密学。
D-3 アプリオリなものは「いつでも性」(普遍性)を持つ。

E 心理学・物理学は、事実学であり、アポステリオリ・実在的・事実的・個別的・偶然的という存在論的性格を持った存在についての学問である。「事実の真理」の学。
E-2 事実的なものの測定に基づく精密学。
E-3 アポステリオリなものは「そのつど性」(ある時やある所でのみ妥当する)を持つ。

F アポステリオリな心理学で、アプリオリな数学・論理学を基礎づけることは出来ない。

G 経験はすべてアポステリオリなのではない:フッサール。
G-2 ヒュームは、「経験は普遍妥当性を基礎づけられない」とした。
G-3 カントは、アプリオリな成分を、主観性の中に備え付けた。一種の心理主義。

H フッサールは、「数学・論理学が、経験(直接経験=志向的体験)に基礎を持つ」とする。そして、経験(直接経験=志向的体験)は、アポステリオリな成分だけでなく、アプリオリな成分(あるいはその先行形態)を持つとする。
H-2 フッサールでは、「直観」が、経験(直接経験=志向的体験)から、アプリオリな成分を抽出し、論理的なものに仕上げる。
H-3 カントの「直観」は、感性的なものに限定されるが、フッサールでは違う。
H-4 アプリオリなものは、経験(直接経験=志向的体験)のうちにどのように含まれるのか?これを明らかにするのが、現象学の仕事である。

I フッサールは、純粋論理学(ライプニッツの方向での形式論理学)の上に、諸学問は基礎づけられるべきだとする。
I-2 その上でフッサールは、純粋論理学(形式論理学)を、直接経験=志向的体験に還元し、そこで論理学的諸理念(アプリオリな成分)の起源を証示する。これが「純粋に現象学的な解明」である!


第3節 論理学と存在論と真理論(84-115頁)
(1)「諸科学/諸学問の基礎づけという現象学的構想」の中での論理学の位置づけの問題
A 論理学は、諸学問の基礎学であり、諸学問の論理を明らかにする。
B 学問は「無意味」なものは扱わない。かくてフッサール的論理学の第1の条件は、「無意味」なものを排除することである。→純粋論理学あるいは形式論理学
C 学問は、それぞれ扱うべき対象領域(対象の意味領域)を持っている。フッサール的論理学の第2の条件は、
「対象の意味領域」の確定である。→領域存在論
C-2 論理学と存在論の結合。ここで存在論とは、論理学的な表現が指し示している当のものの理論、あるいは本質によって区別された限りでの対象論である。
C-3 論理学を存在論に結び付けるのは、アリストテレス以来の伝統。論理学が、存在論から独立の1学科になったのは、近代特有の出来事。
 
(2)「無意味」の排除:フッサール的論理学の第1の条件(形式論理学)
D 「無意味」の4種類
① そもそも「意味を持たない言葉」(Ex. アブラカタブラ)
② 「文法的に無意味」(Ex. 白いそして)
③ 意味が互いに矛盾する「反意味」(Ex. 丸い四角)
④ 対象が実在しない限りでの無意味(Ex. 黄金の山)
D-2 こうしたいろいろな無意味のうち、アプリオリに「対象の充実した直観に至りえないもの」をあらかじめ排除する。

(2)-2 形式存在論(代数学)と形式命題論:この両者が結びついたものが「純粋論理学」(形式論理学)
E もっぱら「言語」的な結合の仕方を考察する論理学の部門:「形式命題論」。
E-2 フッサールは、「無意味」を排除するため、「意味」を「形式的」にとらえ、それを支配する法則に照らし、不適切なものを排除する。
F フッサールは、論理学を存在論(対象論)と結合させる:「形式存在論」(代数学)。

G 「事象内容を持った本質」は、「質料」。「それは何であるか?」と問われた時、「何」にあたるもの。
G-2 「事象内容を持たない本質」は、「形式」。「数」は形式的な対象である。

H 「形式存在論」:代数(学)は「形式的対象」としての数を形式的に扱う。代入される数と無関係に、その法則だけで演算・操作が進められる。代数学は典型的な「形式存在論」!
H-2 「形式命題論」:「言語」を、「代数」的な考え方を拡張し捉えたもの。形式命題論は、もともと形式存在論(代数)的である。
H-3 形式命題論は、形式存在論と基本的に同じ法則である。
H-4 純粋論理学(形式論理学)は、形式存在論(代数学)と形式命題論の2側面が結びついて成り立つ。

I 形式命題論(形式存在論と一体的である)の法則による「無意味」の排除(90頁)
I-2 形式命題論は、最初に、言語を分類する。(名詞、形容詞など。)そして言語の結合、命題と命題の結合について、アプリオリな法則を示す。
I-3 「白いそして」(形容詞と接続詞の結合)は無意味として排除される。(D②)
I-3 矛盾律(Aは非Aでない)に反する結合、「非AであるA」は、無意味として排除される。
I-4 「木製の鉄」など意味同士が背反する無意味(「反意味」)も排除する。(D③)
I-5 「正64面体」は、数学(形式存在論)によって検証し、「無意味」と排除される。
I-6 「黄金の山」は形式命題論のレベルでは有意味。ただし実在的な対象を持たないので日常的には「無意味」。アポステリオリに現実の存在(実存)を確認する必要がある。

J 形式命題論により「無意味」な言語表現(命題)が排除される。
J-2 有意味な言語表現(命題)について、実在的に存在する対象、または理念的に存在する対象の充実した直観に対する場合、それは「真理」(真)される。
J-3 無意味は、そもそも、真理にも誤謬にもかかわることができない。

K 形式命題論と形式存在論(代数学)は等価的である。
K-2 フッサールの構想:形式命題論(=形式存在論の拡張)は「知」の領域に対応する。さらに他に形式存在論(代数学)を拡張したものとして、「形式価値論」は「情」に対応し、「形式実践論」は「意」に対応する。
K-3 従来のいわゆる知・情・意の能力3分法に対応する。
K-4 フッサールは、形式命題論(哲学)の諸法則を、「形式価値論」(美学)、「形式実践論」(倫理学)に拡張できるとした。
K-5 フッサールは、理性は一つと考える。理論理性、美的理性、実践理性などに分離しない。

L フッサールは、アプリオリな論理学の基礎を求める。論理学がさらに、「直接体験=志向的体験」に基礎を持つとされる。(94頁)

(3)「対象の意味領域」の確定(フッサール的論理学の第2の条件):領域存在論
M (広義の)論理学の第2の任務は、諸学問を区分する原理を与えること、諸学問にその領域を指定することである。これが領域存在論である。
M-2 フッサールは「形式的なもの」と「質料的なもの」を峻別する。
M-3 「一」や「二」は事象内容をもたない「形式的な本質」である。種・類としての「石」や「犬」は「質料的な本質」である。
M-3 形式存在論(形式対象論)は「形式的な本質」に関わる。領域存在論は「質料的な本質」に関わる。

N 事象内容を持つ「質料的な本質」は、最低種(スぺチエス)(Ex. 秋田犬)から最高類の「領域」まで、類(Ex.犬、哺乳類・・・・)の段階系列を持つ。これに対し「形式的な本質」はこうした段階系列を持たない。
N-2 領域は3つあり、①「物質的自然」(物理的な物)、②「生命的自然」(心理物理的生物)、③「精神世界」(人格)である。
N-3 3領域に対応し、①広義の物理学(自然科学1)、②広義の生物学(自然科学2)、③精神科学がある。
N-4 物質的自然、生命的自然、精神世界の順に基づけ関係がある。

《評者の感想》
 「論理学」が、諸学問の基礎学である。「論理学」は、「形式存在論(代数学)」と「領域存在論」からなる。
 (a) 「形式存在論(代数学)」は「形式的な本質」にかかわる。(Ex. 「一」「二」)「形式存在論(代数学)」は、「形式的対象」としての数を、形式的に扱う。
 (a)-2 「形式存在論」は3部門に拡張される。「知」(哲学)に対応する「形式命題論」(言語の結合を代数的に扱う)、「情」(美学)に対応する「形式価値論」、「意」(倫理学)に対応する「形式実践論」。
 (a)-3 「形式存在論(代数学)」を基礎とし、その拡張である3部門「形式命題論」「形式価値論」「形式実践論」を含む全体が、「純粋論理学(形式論理学)」である。
(b) 「領域存在論」は「質料的な本質」にかかわる。(Ex. 「石」「犬」)
(b)-2 「質料的な本質」は、最低種(スペチエス)から最高類の「領域」にいたる段階系列を持つ。
(b)-3 3つの「領域」は、物質的自然(物)、生命的自然(生物)、精神世界(人格)からなる。それぞれ、物理学、生物学、精神科学に対応する。

(3)-2 人格主義的態度(自然的態度)と生活世界
O 物質的自然や生命的自然に対応するのは自然科学的態度(自然主義的態度)であるが、これよりも精神世界における人格主義的態度(自然的態度)が先行する。
O-2 例えば、私たちが、最初に経験するのは、「道具」(Ex. 歯ブラシ)であって、物理的な物(Ex. プラスチック)ではない。あるいは私たちは最初に「あなた」と出会い、その後で「あなた」を心理物理的な生物(ヒト)と見る。
O-3 人格主義的態度における道具や人格が、根源的に経験される。物理的な物や心理物理的な生物は、派生的に経験される。
O-4 人格主義的態度の精神世界が「生活世界」である。
O-5 かくて「態度」の観点からすると3領域の基づけ関係が逆転する。精神世界/生活世界が根源的であり、物質的自然や生命的自然は派生的である。

(3)-3 生活世界概念の成立と展開
P フッサールは「生活世界」の考え方を、アヴェナリウスの「人間的世界概念」や、ディルタイの「精神科学」を取り入れつつ展開した。フッサールは、諸学問の基礎としての論理学のさらに基礎(直接経験)を求めたが、その発掘の手助けを、彼らの概念に見出した。
P-2 生活世界的経験は、超越論的還元をせずに、「生活世界の存在論」において解明できる。フッサールが「内的同盟」関係認めていたディルタイの言葉によれば「精神科学」において解明できる。こうした方向性は、フッサール以後の現象学者に受け継がれた。

Qハイデガー:「自然科学的な物」と「道具」の分析。
Q-2 適材適所におかれている限り「道具」は目立たない。適材適所性から切り離されると、道具は目立つ。
Q-3 「自然科学的な物」は、適材適所性から切り離され、単独でとらえられる。
Q-4 「道具」は「手元存在者」と呼ばれ、「自然科学的な物」は「手前存在者」と呼ばれる。

R メルロ=ポンティ:フッサール『イデーンⅡ』を読み、「生活世界」(仏訳「生きられる世界」)概念、身体の分析、間主観性の分析に興味を持つ。
R-2 人間(身体)は、世界とのあいだに、反射学説や行動主義心理学が見出すような(自然主義的な)対応関係を持つのでない。
R-3 人間(身体)は、世界に身を挺しつつ「意味」を受け入れ・形成する。

S アルフレッド・シュッツの現象学的社会学。超越論的分析は脇に置き、日常的な生活世界での社会の成員による「意味」の構成を問う。「生活世界の存在論」の発展形態。
T ハーバーマス。社会は、合理性を追求するシステムの側面と、メンバーたちの間主観的(=間モナド的)な合意が支える側面を持つ。前者による後者の浸食=植民地化に対し、後者を擁護する。

(4)超越論的論理学(⇔領域存在論、生活世界の存在論)
U 事象内容を持った本質にかかわるアプリオリな理論である領域存在論。また、そこから生まれた生活世界論。

V これに対し事象内容を持たない形式的成分に関わるアプリオリな理論がある。形式存在論・形式命題論など。
V-2 さらに存在の構成理論、時間の構成理論、空間の構成理論、間主観性(他者)の構成理論!
V-3 これらが、論理学・諸学問の基礎づけのために必要である。
V-4 しかも、これらはすべて直接経験=志向的体験の分析によって基礎づけられる。この分析が「超越論的論理学」である。

(5)そもそも学問が依拠する真理とは何か:真理論(学問論としての広義の論理学の課題)
A 真理の「整合説」と「対応説」。
① 真理の「整合説」:近代以降の数学は整合性を追求。現実との対応を考えず、論理的に整合的であることを真理の条件としてきた。学問の危機の一因となる。
② フッサールは、形式論理学で整合性も取り上げるが、これは真理の基準というより、「真理/誤謬に先だって無意味を排除するための基準」だった。フッサールの真理論は、大雑把に言えば「対応説」である。

(5)-1 存在論的条件
B 対応説的立場から、言語的意味(※命題など)が、真理であるための存在論的条件。
《評者の補足》:「音声(or文字)そのもの」としての言語ではなく、言語の「意味」であることに注意! 

B-2 存在は3種類あり、それぞれについて真理の存在論的条件がある。
(1) 言語的意味(※命題など)が、アポステリオリなもの(事実的なもの)としての「実在的な存在」(時制変化する存在)に対応すれば、「事実の真理」が可能となる。
(2) 言語的意味(※命題など)が、アプリオリなもの(本質的なもの)としての「理念的な存在」(時制変化しないもの)に対応すれば、「理性の真理」が可能となる。
(3) ただし、言語的意味(※命題など)が、「中立的な存在」(想像的・空想的なもの)に対応しても、真理は成立しない。

(5)-2 認識論的な条件
C 言語的意味(※命題など)が、真理であるための認識論的条件。フッサールによれば、真理とは「思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致」である。
C-2 例えば、「言語(的判断)の意味」(思念されているもの)と、「知覚された事態」(与えられているものそれ自体)との一致。
C-3 さらに具体的に言えば「千鳥ヶ淵に桜が咲いている」という「言語(的判断)の意味」と、「千鳥ヶ淵に桜が咲いている」という「知覚された事態」(※これもまた「意味」である)との一致である

《評者の感想1》
① ここで「完全な一致」とは、「同一」であるということである。そうだとすれば、一方で「思念されているもの」が「意味」なら、他方で「与えられているものそれ自体」も「意味」である。
② 一方で「言語(的判断)の意味」(思念されているもの)、これが「意味」なのは分かりやすい。他方で「知覚された事態」(与えられているものそれ自体)、これもまた「意味」であることに注意したい。この両「意味」の「完全な一致」こそが、「言語(的判断)の意味」(思念されているもの)が真理である条件である。

D 「思念されているもの」と「与えられているものそれ自体」の一致は、「明証性において体験される」(フッサール)。
D-2 ここの例では、「言語の意味」と「知覚」(※意味がそこから形成される素材としての知覚的事態)の一致が、明るくはっきり(明晰・判明に)見えることである。
D-3 ただし明証性は程度を持つ。この例では、昼間なら、言語的意味と知覚的事態の(事実としての)一致は、より明証的に確認される。夜間なら、あまり明証的に確認できない。夕方は中間の明証性。
D-4 この例では、言語的意味と知覚的事態の一致が、完全に明証的に確認されれば、「十全的明証性」(⇔不十全的明証性)。
D-5 学問の真理は、十全的明証性において得られなければならない。

《評者の感想2》
③ 厳密には「知覚された事態」は一方で「意味」であり、他方で「意味」でない、世界それ自体あるいは素材としての「知覚された事態」である。それらは「モナド」内にある。「モナド」の外に、世界それ自体あるいは素材としての「知覚された事態」はない。
③-2 基盤に、《「物自体」の世界が「モナド」から切り離されて存在する》ということはない。「物自体」の世界を、「モナド」が映し出すのではない。モナドは、世界それ自体である。
④ 「モナド」としての世界は「意味」の世界と、「意味」以前の世界との、両方からなる。そして、そもそも意味が構成できるように世界ができている!つまり、時間的に産出される世界に、重なりが生じるようにできている。その重なりが、意味である。
④-2 基礎づけられた学問の体系とは、完全で真なる意味の世界であり、いわば神の意味世界である。

《評者の感想2-2》
⑤ 「モナド」はそれ自体、世界である。他の「モナド」も含めて、「モナド」の全体が、より広い世界そのものである。
⑤-2 しかし、この場合、ヒュレー的素材については、どう考えたらよいのか?ヒュレー的素材は、どこかからやって来るのか?どこかからやって来るのではない!(上述③、③-2参照)
⑤-3 ヒュレー的素材は、世界そのものである。「モナド」において、つまり「モナド」内に、世界そのものであるヒュレー的素材が、そこに現れている。

《評者の感想2-3》
⑤-4 「モナド」において自我が構成する「意味」的世界は、一種の世界の「像」ではあるが、実は、それもまた世界そのものである。
⑤-5 世界は「実在的な存在」、「理念的な存在」、「中立的な存在」からなる。
⑤-6 「モナド」は世界そのものであり、「モナド」と別に世界があるわけではない。ヒュレー的素材が、意味構成の基盤になる「物自体」と言ってもよいが、それは不可知でなく、そのものとして「モナド」内に姿を現す(=現出する。)(上述③、③-2、⑤参照)

《評者の感想3》
⑥ 世界は、「モナド」を作り、しかも多数の「モナド」を作り、同時に、全体として一つの「モナド」でありつつ、各「モナド」において姿を現す。
⑥-2 「モナド」において構成される「意味」も、それ自体、世界である。
⑥-3 「モナド」に含まれる自我とその働き自身も、世界そのものである。
⑦ この私は「モナド」である。

《評者の感想3-2》
⑦-2 「モナド」は窓を持つ。他なるもろもろの「モナド」との調和。《「モナド」間の共通の意味構成物、つまり身体境界面》が属す物理的世界の構成。
⑦-3 感情移入が成立する根拠は、(b)感情そのものの一体化である。(a)感覚の一体化と並んで、これ(b)もまた「モナド」間の調和である。
⑦-4 「モナド」間の調和のうち、(a)感覚の一体化が、《「モナド」間の共通の意味構成物、つまり身体境界面》が属す物理的世界の構成である。
⑦-5 「モナド」間の調和には、さらに(b)感情の一体化がある。感情の一体化とは、「モナド」間の調和の感情、つまり他「モナド」(他我)の出現の感情、他「モナド」(他我)との出会いの感情、あるいは最も始原的な相互了解の感情である。
⑦-6 具体的には、《他なる身体と連関する感情》(超越論的他我の感情)と《ここにあるこの身体と連関する感情》(超越論的自我の感情)の一体化が生じる。例えば、《ここにあるこの身体と連関する欲望・欲求感情》を満たしてくれる他なる物体(例えば、母親物体)の特別化、そこで生じる満足感・喜びの共有感情(感情の一体化)。この感情の一体化の出来事が、「モナド」間の調和、つまり他「モナド」(他我)の出現、他「モナド」(他我)との出会い、あるいは最も始原的な相互了解という出来事そのものである。
⑦-7 感情は、意味ではなく、意味構成を可能とする自発性である。Ex. 知覚における注視をささえる自発性感情。

《評者の感想4》
⑧ 意味とは何なのか?フッサールによれば、真理とは「思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致」である。
ここで「思念されているもの」とは、過ぎ去った世界経験のことであり、それは意味化されることもあれば、意味化以前のこともある。
また「与えられているもの」とは、今、ここにおける世界経験(これは実は開かれている世界そのもの)である。注意すべきは、経験の外に、世界はないことである。世界そのものが、経験において、現れている=開かれている=与えられている。    
⑧-2 「思念されているもの」が、言語(的判断)の「意味」の場合、いったい、何が思念されているのか。音声が思い起こされるが、その音声自身がすでに意味化されている、つまり意味である。さらにその音声が呼び起こすものもまた、思念されているもの、つまり意味だが、そもそも意味とはいったい何なのか?
⑧-3 言語(的判断)の「意味」とは、ある音声(記号)をいわば、ペグとして、引き寄せられる一切の知覚的に現前化される、または想起的、想像的、予期的に準現前化される「事態または対象」の経験の重なりである。⑧-4 「意味」は、重なる核的部分(この重なりも種々である)と、多様で重なり合わない無数の地平をもつ。意味は、曖昧さ・揺らぎをもつ。

(5)-3 知覚の「直観経過」における認識論的な対応関係:予持が原印象に対応していく
E (上記の「言語の意味」と「知覚」との「対応」関係とは別に、)言語以前の「知覚」(直接経験=志向的体験)そのものにおいて、根源的な「対応」関係がある。
E-2 知覚においては、「直観経過」が生じている。
E-3 この「直観経過」のなかで、(一種の「思念されたもの」としての)「志向(予持)されたもの」が、次々に(一種の「与えられているもの」としての)「充実されたもの(原印象)」に対応していく。かくて真理がなんらかの程度の明証性において体験されている。

F ただし、つねに次々と「新たな」志向(予持)が生じ、それは当然、まだ充実されていない(原印象と対応していない)ので、かくて現出者そのものは「十全的明証性」において知覚されえない。例えば、家の知覚において、まだ見ていない側面がつねにある。

(5)-4 「原印象的現出」は、全く意識されていないわけでない(「原意識」)としても、反省によって主題的にとらえられるのは「把持された現出」だけである
G (「現出者」は「十全的明証性」において知覚されえないとしても、)「現出」はどうだろう?
G-2 充実されている諸現出(⇒E-3原印象による予持の充実)も、実は、「非主題的に」体験されているだけである。明証的に認識するためには、「内在的知覚」(=「反省」)が必要である。
G-3 「把持のおかげで、われわれは意識を客観にする[=反省する]ことができる。」(フッサール)
G-4 把持された諸現出は十全的明証性において捉えられるとしても、原印象的現出は、そのようにとらえられない。
H 「原印象的現出」は、「把持された現出」へと移行してはじめて、反省される。
H-2 主題化する反省は、意識の現場(=原印象的現出=原意識)を捉えられない。
H-3 外的知覚(=意識の現場=原印象的現出=原意識)と内的知覚(反省)は同時に成立しない。

I 「把持された現出」も実は、十全的に明証ではない。「把持された諸現出」も、遠さが介在するので、不十全性が残る。(もっとも近い「原印象的現出」は、そもそも反省的にとらえられない。⇒G-H)

(6)必当然的明証性:アプリオリなものがもつ明証性
J 現象学が「反省」という方法をとる限り、十全的明証性は不可能である。これはフッサールを悩ませた。
K しかし「アプリオリなもの=本質」が持つ明証性は、それ以外がありえないという「必当然的明証性」であると、される。
K-2 例えば、「色は広がりをもつ」は、いつでもどこでも明証的に認識される。
K-3 フッサールは現象学がアプリオリなものを扱う「本質学」(厳密には「超越論的本質学」)であることを強調し、「必当然的明証性」を見出すことに比重をかけた。
《評者の感想》
① アプリオリなものとは、経験が独断的に一般化されたもののように思える。
② K-2の例では、「色」は多くの経験に由来する。「広がり」も多くの経験に由来する。「は」は主題(主語)を示すが、これも多くの経験の一般化である。「を」は主題(主語)との一定の関係を示すが、これも多くの経験の一般化。「もつ」も多くの経験の一般化である。
(※追伸:この感想について検討が必要!)

(7)原事実
L 最晩年のフッサールは、アプリオリな「本質」さえも、ある最も始原(起源根源)的な事実に依拠すると認める。これが「原事実」である。
L-2 必然性を持たないので、「原事実」も一種の事実である。
L-3 通常の「事実」は、経験の枠内で生じる。「原事実」は、経験そのものの成立を支える。なお経験とは、直接経験=志向的体験のことである。

M 「アポステリオリな事実」も、「アプリオリな本質」も、直接経験=志向的体験から成立する。
M-2 この直接経験=志向的体験を、「原事実」が支える。
M-3 かくてアプリオリな本質も、「原事実」なしに不可能である。アプリオリな本質が持つ「必当然的明証性」の基礎に「原事実」がある。
M-4 「原事実」は、経験そのものを可能にするのだから、超越論的な事実である。

N 「原事実」とは何か?フッサールは以下のことを原事実と認める。
(1) 私が存在する(あるいは経験の中心化が生じている)ということ。
(2) 流れつつ立ちとどまる現在が生じている(あるいは世界がある安定性をもって開かれている)ということ。
(3) 他者が存在するということ。

《評者の感想》世界がここに現在において開かれている。これが「原事実」である。
(1) 「世界がここに開かれている」が、「ここ」とはどこか?「ここ」とは私(超越論的主観性あるいはモナド)である。つまり「経験の中心化」!世界経験の中心に、常に身体が、現れる。
(2) 「世界がここに開かれている」が、どのようにか?「流れつつ立ちとどまる現在」として。世界は自己開示or自己産出を続けている。つまり内的時間or内的持続。
(2)-2 「世界が開かれる」ことが「意識」と呼ばれる。つまり「原意識」(⇒(5)-4「原印象的現出」は、全く意識されていないわけでない)および「反省」的意識。
(3) 他者が存在するということ。他者は物的世界に属す身体としてのみ姿を現す。超越論的他者=他なるモナド。

(8)原事実と新たな事実学(形而上学)
O フッサールは、超越論的な事実学としての「形而上学」を求めていた。
O-2 形而上学(Metaphysik)とは、自然学(Physik)を「後から」(meta)基礎づける学の意味。
P フッサールの形而上学は2義ある。
① 基礎づける超越論的現象学が「第1哲学」(=形而上学)!基礎づけられる自然学/事実学は「第2哲学」。
② 「第1哲学」としての超越論的現象学の基盤を問ういわば「第0哲学」(=形而上学):「原事実」を扱う学問。フッサールの第7デカルト的省察(形而上学)の構想。Cf. 第6デカルト的省察:超越論的方法論(1933年、フィンク)
P-2 かくて今や、(1)通常の事実に関わる十全的明証性(フッサールの出発点で対応説的な真理観)でもなく、(2)本質にかかわる必当然的明証性(フッサールが後に重視)でもない、(3)原事実に関わる新たな明証性概念が登場せねばならない。ハイデガー的な非-隠蔽性としての真理とも、いくらか関係する明証性かもしれない。フッサールはこれを十分に展開できなかった。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『白村江の真実、新羅王・金春秋の策略』中村修也(1959-)吉川弘文館、2010年

2017-06-23 18:03:30 | Weblog
プロローグ 白村江への道
(1)7Cの東アジア:隋唐、高句麗、百済、新羅
A 新羅:金庾信(キンユシン)将軍と金春秋王子(後の武烈王(654即位))。
A-2 金庾信の妹・阿之(アシ)(後の文明(ムンミョン)王后)が金春秋の妻となり、長男・法敏(ポンミン)(後の文武王)を生む。
B 百済・義慈王、641年即位。
C 589年隋が中国統一、612隋の第1回高句麗遠征。
C-2 618唐建国。
C-3 660百済滅亡(唐の百済攻撃による)。
C-4 663白村江の戦い。
C-5 668高句麗滅亡(唐の第3次高句麗遠征による)。
C-6 その後、新羅による半島統一。(※676)

(2)倭と朝鮮半島
D 日本、600遣隋使。しかし冊封体制に入らず。
D-2 理由は、日本は、隋に保証してもらうべき朝鮮半島内の権益を、すでに失っていたため。
E 4C-5Cの倭の五王時代(倭王政権)は、朝鮮半島内に権益があった。
E-2 倭の五王は《西日本+加羅諸国》を領域とする。
E-3 朝鮮半島より南の勢力が、中国では倭と呼ばれた。
E-4 倭=大和朝廷ではない。(鬼頭清明説)
F 6世紀のヤマト王朝(大和朝廷)が、倭王権を併呑した。
F-2 そして、朝鮮半島の権益をひきつごうとして、「任那の調」をしつこく要求した。
G 推古朝になると、600遣隋使の「日出処の天子」と、半島内の権益と決別。冊封体制から離れ、独立国の宣言。

(3)朝鮮半島内に権益がないのに、日本が白村江の戦いへ参戦したのは、なぜか?
H 新羅の金春秋王子(後の武烈王)が、日本をこの無謀な戦いに参戦させた仕掛け人だった。このことが本書の主題!
H-2 7C、新羅は、高句麗および百済から攻撃を受け続けていた。
I 金春秋(武烈王):叔母が新羅の善徳女王(位632-647)。
I-2 金春秋:642高句麗へ行く(対百済戦への救援要請)。647日本に来朝(日本を反唐路線へ向かわせようと外交工作)。648唐に行き対百済戦出兵依頼。


第1部 金春秋の活動
第1章 大耶城の陥落と金春秋の高句麗出向(642)
A 642百済が、大耶城を陥落させる。金春秋の娘(城主の妻)が殺される。
A-2 金春秋が高句麗に出兵を依頼しに出向。
B 百済は、武王(位600-641)になって、新羅への侵攻、活発化。息子・義慈王(位641-660、百済最後の王)も方針を継ぐ。
B-2 北方(対高句麗)の膠着状態のうちに、百済が、南部(対新羅)に侵攻。
C 新羅はジリ貧状態。百済と高句麗は秘密同盟あり。
D  642金春秋による(高句麗訪問):高句麗は、新羅への援軍要請を拒否。
D-2 高句麗は、唐による侵攻を最も恐れていた。

第2章 金春秋と日本:対唐戦略
E 百済・義慈王:高句麗と唐の戦争が終わるまでに、百済が、新羅を併呑したい。
E-2 金春秋の見通し(642):唐は、高句麗制圧のあと、朝鮮半島全体を勢力下に置くはず。新羅による半島統一以外、生き延びる道はない。
F 唐の第1次高句麗遠征(644-645)に合わせ、百済が新羅攻撃。新羅の将軍金庾信(キンユシン)が防戦。
F-2 金春秋、647倭国へ向かう。倭国を反唐路線に向かわせたい。
G 643新羅が、唐に対百済戦の援軍を請うと、唐が「女王はやめ、男王を送ってやる」との案を示した。唐による新羅乗っ取り策。
G-2 新羅で、647善徳女王が死去し、妹の真徳女王が即位。
G-3 唐の意図は、半島全体の支配だと、明確化。

第3章 金春秋の日本訪問(647)
H 新羅・金春秋の戦略:百済・高句麗連合軍の攻撃から逃れ、引き入れた唐の大軍からも独立する。
I 金春秋、647来朝。金春秋は、日本・孝徳朝の親唐路線を、反唐路線に変えたい。
I-2 日本は、乙巳の変(645)で、皇極女帝を廃し、孝徳朝(男王、軽皇子)に変わる。
I-3 孝徳は親唐路線。金春秋にとっては、倭の親唐路線は、唐と日本による新羅挟撃の可能性を生み、阻止したい。蘇我入鹿は、百済中心だった。
(Cf . これに対し、蘇我氏は、唐への危機感から、唐との協調路線。乙巳の変(645)は、「百済重視」の中大兄ら保守派が、「開明派」蘇我氏を倒したとの説もある。)

第4章 金春秋(後の武烈王)の帰国(647)と仮想新羅会議:長男法敏(ポンミン)・将軍金庾信(キンユシン)・真徳女王
J 日本・孝徳朝(645)は、親唐路線で、また基本的に、朝鮮3国に対し、不可侵の姿勢。
J-2 高句麗の滅亡は、半島(百済・新羅)の滅亡に至ると、金春秋の見通し。
K 金春秋の新羅による半島統一戦略
①新羅が、百済に滅ぼされないため、唐から援軍を呼ぶ。
②日本・孝徳大王の親唐路線は、新羅に不都合。唐と戦う時、倭国からも攻められ、まずい。
②-2 かくて倭国を反唐勢力に転換させ、半島の戦乱に巻き込む。
③倭国に、唐への不信感を持たせる。唐は半島侵略のあと、倭国も侵略すると、思わせる。
③-2 倭国にいる百済の豊璋王子(義慈王の子)とともに、倭国を反唐戦争に参加させる。
④百済王室とは戦うが、百済の国民とは戦わない。後者は将来の新羅の国民である。
④-2 百済を滅亡させたのは、(対百済戦援軍の)唐だと思わせ、新羅軍は目立たないようにする。


第2部 新羅をめぐる唐と日本
第1章 金春秋の入唐(648)と百済の滅亡(660)
(1)金春秋の入唐(648)
A 金春秋は、新羅生き残り・半島統一の戦略を、法敏、仁問、さらに庶子の文王にも告げる。650年から3人を順に入唐させ、皇帝につかえさせた。
B 648金春秋が入唐。唐・太宗が歓迎。金春秋が、唐に対百済戦の援軍を頼む。
Bー2 唐に取り入るため、金春秋が、新羅の服制を、唐の制度に変える。
Bー3 太宗は対百済戦の唐の援軍派遣をOKするが、なかなか履行しない。
C 649太宗が死去し、高宗が即位。
Cー2 654金春秋が武烈王として即位。
D 日本では孝徳の親唐路線で、654高向玄理らが琥珀・瑪瑙を唐に献上。
E 655高句麗・百済・靺鞨(マッカツ)軍が新羅を攻撃。武烈王の要請で、658唐は高句麗攻撃。
E-2 しかし唐は、百済の新羅攻撃には冷淡。
E-3 武烈王は、焦る。唐による高句麗征討終了前に、唐軍の百済出兵を引き出さねばならない。

(2)百済滅亡(660)
F 660唐(高宗、蘇定方)が百済を滅亡させる。新羅軍と連携。
Fー2 百済・義慈王など百済王室全員が、唐に連行される。百済の残存勢力が担ぐべき王族がいなくなる。
Fー3 義慈王の城だけ降伏し、他の百済の諸城は無傷。
G 新羅・武烈王は来るべき唐との決戦を想定。
①百済の都だけを攻撃。百済全土を壊滅はしない。
②百済王室を倒したのは唐で、義慈王の城の包囲戦に、武烈王は参加せず。百済を倒したのは唐だとイメージづける。
③新羅に恭順すれば、百済貴族を優遇。
④「敵は唐だ」と百済人に知らしめる。

第2章 則天武后の登場(655皇后となる):百済遠征軍派遣の決定
H 百済の義慈王は、唐と新羅の連合を予想していなかった。
Hー2 百済は、唐による百済出兵を、高句麗討伐後と考えていた。
Hー3 高宗は、百済侵略情報を、慎重に隠した。
I 高宗は高句麗問題の画期的転換をねらった。
Iー2 655則天武后が皇后となる。太宗以来の忠臣を排除。病弱な高宗の背後で、武后が政務を指図(垂簾の政)。Cf.683高宗没後、武后が自ら政務を決済。
J 唐滞在の新羅の王子・金仁問の建言:対高句麗戦で新羅が先兵として協力する。百済が高句麗と結び、邪魔している。百済遠征軍を出してほしい。
J-2  新羅・武烈王の戦略:百済滅亡後、唐の対高句麗戦に参加。その後、半島から唐勢力を排除。

第3章 斉明朝(655)の外交:親唐路線の否定と白村江の戦い(663)
(1)斉明朝(655)の反唐路線
A 孝徳天皇(斉明の弟、軽王子、645乙巳の変クーデターで政権につく)が死に(655)、有間王子がまだ20歳くらいだったので、斉明(皇極)天皇(中大兄王子30歳の母)が重祚する。(655)
A-2 孝徳の親唐路線(都・難波)否定。斉明は反唐路線(都、大和にもどす)。
A-3 新羅は喜ぶ。唐と日本による挟み撃ちはない。武烈王の戦略通り。
B 斉明は遣高句麗使節も送り、孝徳の親唐路線は水泡に帰す。
C 中大兄は、単純に、叔父・孝徳の路線を否定しない。
Cー2 中大兄は近江令編纂中。豪族合議制から律令制への移行をめざす。
D 新羅・武烈王:日本が唐に参戦したら、唐は日本への抑止力として、新羅を存続させるだろう。

(2)百済滅亡(660)と斉明朝の百済復興軍派遣決定(660)(Cf. 663白村江の戦い)
E 660百済滅亡。唐が日本にまで触手を伸ばすかが問題。
E-2 唐の関心は高句麗征討にある。
E-3 百済の鬼室福信が、「豊璋王子を返還してほしい」と要請。また「百済へ救援軍を派遣してほしい」と述べる。
F 斉明は、百済救援、つまり百済復興軍への支援に応じる。
Fー2 本来、日本が百済を救援・復興すべき理由はない。
G 日本軍はせいぜい1万人。
Gー2 しかし、何もしなくても、唐に攻められる可能性がある。
Gー3 冊封体制に入っても百済のように滅ぼされる。
Gー4 かくて斉明・中大兄は、対唐・対新羅戦へ。

(3)斉明朝の百済復興軍への救援軍派兵(660派兵決定、Cf. 663白村江の戦い)は必要だったのか?
H 鬼頭清明説:①百済との友好関係、②百済にあった権益(「新羅の調」)維持のため、③大和朝廷の権力集中のために対外戦争が必要。
H-2 反論:しかし対唐戦勝利の可能性があったのだろうか?
I 森公章説:①百済の王子・豊璋が、「質」として倭国に滞在していたので、受動的に参戦。②東アジアの情勢に疎かった。つまり対新羅戦としてしか考えず、唐との戦いを考えていなかった。
I-2 反論:斉明天皇はともかく、中大兄が参画しており、外交はよくわかっていたはず。
J 遠山美都男説:斉明朝の小中華主義。国内の夷狄(イテキ)征圧(阿部氏の東北遠征)。さらに朝貢する百済の創出。
J-2 反論:しかし唐軍に勝利する可能性は低い。
K 著者・中村修也説:金春秋(武烈王)の新羅生き残り・半島統一戦略(唐の支配を排除し、統一新羅を形成する)のもとで、日本が対唐戦に巻き込まれた。

第4章 武烈王(金春秋)の死(661)とその後の新羅
(1)661(1-3月)唐の第2次高句麗侵攻
L 660百済滅亡。
L-2 661武烈王死去、文武王(王子法敏)即位。
L-2 斉明も661死去。中大兄が称制。(668即位し天智となる。)
M 661唐が新羅に、高句麗遠征への呼応を命じる。
M-2 661(1-3月)唐の第2次高句麗侵攻は、高句麗の淵蓋蘇文が撃退した。

(2)中大兄の軍事情勢判断(661中頃時点):百済復興軍に救援を送る
N 唐の最終目標が日本なら、百済復興軍(百済残党軍)を支援する。
N-2 唐・新羅連合軍と日本は戦えるか?①武烈王が死去した(661)、②唐軍は高句麗に敗退(661)、③百済残党軍は強力である。①②③より、百済復興軍に救援を送るのが、半島の勢力バランス上有利と、中大兄が判断。
N-3 実際には、①武烈王死後も新羅は動揺せず。②高句麗を支えていた淵蓋蘇文は、その後665死去、668高句麗滅亡。

(3)新羅・文武王(法敏)の新羅統一戦略(661中頃時点):武烈王(金春秋)の戦略(642)を踏襲
O 唐の高句麗遠征要請に応じ、新羅・文武王661年8月出発:金庾信(キンユシン)大将軍。
P 統一新羅のため、文武王は人材育成。
P-2 降伏した百済の敵将にも官位を与え優遇。百済官人を取り込む。
P-3 662年3月百済人に対し大赦。
P-4 百済王室は排除するが、百済貴族は残す。敵は、唐である。
Q 武烈王から文武王に引き継がれた戦略:日本を唐の味方にしてはならない。日本と唐が協力し、新羅を挟撃するのを防ぐ。
Q-2 日本が対唐参戦するまで、百済復興軍に、頑張ってほしい。新羅が、百済復興軍に勝ち過ぎてはいけない。
Q-3 だが実は、百済復興軍は強い。


第3部 白村江の戦い(663)の記録
第1章 唐・日本の軍事規模と戦いの様子
A 白村江の戦い(663)で、唐軍と戦った日本軍1万人が死ぬ。日本を唐と戦わせることを目指した、新羅武烈王(金春秋)の遠謀が達成された。

(1)『旧唐書』巻八三「列伝」第三四「劉仁軌伝」の記述
B 百済に戻った王子余豊璋が、百済残党の中心貴族・鬼室福信を殺す。百済復興軍はこの内紛で戦力が低下し、日本と高句麗に旧援軍を求める。
B-2 対百済復興軍戦のために、唐は孫仁師を援軍として送る。在百済の唐・劉仁軌軍と合流。唐・新羅軍が、陸・海両面から百済復興軍の周留城を攻める作戦。
B-3 唐の海軍・劉仁軌軍が、移動の途中、白村江で倭国軍と、偶然遭遇。4度の海戦に唐軍が4度とも勝利。倭国軍の船400艘を焼く。白村江は敵兵の血の色で真っ赤となった。(663)

(2)『日本書紀』の記述
C 663・3月、日本軍2万7000人で新羅討伐。(中村修也説:実際には陸戦はなく、水軍1万人のみと推定。)
C-2 8月、日本の水軍(規模は書かれていない)と大唐が白村江で戦う。日本は、大敗した。

(3)『百済本紀』の記述
D 百済復興軍は、王子・余豊璋を王に推戴。
D-2 これに対し唐軍は、将に同じく百済義慈王の王子扶余隆を据える。百済復興軍を、惑わすため。
D-3 百済復興軍敗退(663)後、百済に新羅支配が浸透する。王子扶余隆は、劉仁軌たちとともに長安にもどる。

(4)『新羅本紀』の記述
E 663、陸上戦では、唐(孫仁師)・新羅(文武王)連合軍が、百済復興軍を破り、王子・余豊璋が、逃亡。
E-2 663、海上戦では、唐軍(劉仁軌)が、白村江の戦いで、日本軍を破る。
E-3 日本軍は、唐軍とだけ戦い、新羅軍と戦っていない。

(5)『旧唐書』巻四「本紀」第四「高宗(上)」には白村江の記述は1字もない
F 唐は、そもそも日本が、この百済復興軍征圧戦に参加するとは思っていない。唐は、日本に、関心がない。
(※白村江の戦いは偶発戦で、かつ日本は大敗し唐は全く被害がない。だから『旧唐書』「本紀」では、白村江の戦いは、無視された。)
F-2 そもそも唐が百済を討ったのは(660百済滅亡)、百済が対新羅戦で高句麗と同盟関係になったため。
F-3 唐にとって半島問題の第一は、高句麗問題だった。

第2章 白村江の戦い(663)の余波
G 唐軍の捕虜となり、唐に移送され、その後、日本に帰国したものあり。(671、684、690年)

エピローグ 東アジア動乱の中の選択肢(7C)
A 唐による百済・高句麗の制圧といっても、それは間接支配なので、新羅が、百済・高句麗の旧王族を取り込めば、唐と対抗できる。かくて新羅による半島統一の成功。
B 日本の二つの選択肢。
①親唐路線こそ、賢明だったはずである。
②ところが、国力・軍事力の強大な唐と白村江で戦ってしまった(663)。反唐路線の決定は、斉明朝(660)。
B-2 斉明朝による反唐路線決定(660)の理由。
(a)新羅の情報戦略の成功。(金春秋の遠大な計画)
(b)百済復興軍の優勢。
(c)反孝徳路線(Cf . 孝徳は親唐)という斉明天皇の感情論(反唐路線)。
C 新羅が半島で第一等となるが、勝ち過ぎてはいけないという難題をこなしたのは、金庾信(キンユシン)将軍。
C-2 結局、642年の金春秋(後の武烈王)の構想が実現し、百済滅亡(660)、日本が唐と白村江で戦い(663)、高句麗滅亡(668)し、新羅による朝鮮半島統一が実現した。
(※唐が吐蕃と戦争している隙に、676新羅が唐の行政府・警備部隊を奇襲。旧百済領と旧高句麗領南半分を合わせ朝鮮半島統一。統一新羅時代開始。)

あとがき
D 著者中村修也氏は、かつて、山尾幸久『日本国家の形成』(岩波新書)、井上秀雄『任那日本府と倭』を読み、目から鱗の経験をした。

《感想》
(1)
かつて7C、日本は後進国だった。軍事力劣勢、国力劣勢。
ただし個人レベルでは、後進国日本の出身でも、先進国の個人と並ぶ、あるいはそれを凌駕する優秀な者もいた。
(2)
どこまでを、自分の仲間(対等な人間)と見れば、良いのか?
日本国内では、東夷は、仲間なのか敵なのか?
奴隷、非自由人は、(対等な)人間でない。
(3)
国家を単位に、まとまるのは、なぜか?
豪族・貴族・地元有力者たちが、自衛のため、連合政権として国家を作る。
(4)
国家とその軍事力は、当然にも、必要なら、略奪の装置として使われる。
(5)
すでに作られた帝国、あるいは強国が、弱体な国を征服、簒奪、破壊し、住民をすべて奴隷化する。
人類は、殺し合う。
権力者に顕著だが、傲慢、虚栄、高慢、名誉のため、人は生きる。
弱みを見せれば、征服され、支配され、奴隷化される。
かくて人類の歴史は、残酷、不条理、凄惨、野蛮である。
(6)
安全、衣食住の安楽は、人にとって必須である。
(7)
文明、平和、公正、公平は、どのようにして成立するのか?
それらは、人類の歴史における奇跡だ。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山下澄人(1966-)『鳥の会議』2015年初出(49歳)、河出文庫  

2017-06-16 17:12:07 | Weblog
(1)
A 篠田(ぼく)がヒールで左眼をどつかれた。ひどく腫れている。
A-2  ぼくの仲間が、けんかっ早い神永、長田、三上。
A-3 ヒールでどついたのは、ちんばの竹内。まさしの仲間。
B この後、神永、長田、三上の3人が、竹内を殴る、ける。
C まさしが仕返しに来るだろう。
D まさしの兄貴(ヤーさん)たちから、ぼくが呼び出される。
D-2 竹内が、ヒールで今度はぼくの右眼をなぐる。ぼくは、ほとんど両目が見えなくなる。
E まさしの兄貴(とおる)が組の事務所の電話番で、しくじりをして、組員から、頭蓋骨陥没、腰の骨を折られる。
F ぼくの父は、仕事をやめた。
(2)
G 神永が、まさしに刺され、腕の傷は、骨が見える。
H 神永のお父さんは、シャブでつかまったことがある。
I 神永が、お父さんを刺した。
I-2 神永が泣いていた。
I-3 神永は、お父さんにやられて、顔が腫れあがっていた。
I-4 神永がお父さんお死体を刻んで、トイレなどに流した。
I-5 神永が、ずっと泣いていた。
I-6 死体は重い。
I-7 胴体を切ったら、ウンコが出て来るので、最初、いやだった。
I-8 ぼくと神永、二人で、風呂場で神永のお父さんの死体を、のこぎりで切断した。
J ゲーセンで、イスを投げると、まさしに当たり、まさしは鼻が折れる。
K 神永は、おばあちゃんのところにいた。
K-2 神永のおばあちゃんは、ボケていて、長田を、神永の父(きよしちゃん)と思う。
K-3 長田、三上、ぼく(篠田)が、泊まる。
L ぼくの誕生日祝いに、神永が鉛筆を4本くれた。
M 神永のおばあちゃんが、いなくなって、4人で探しまわる。
M-2 おばあちゃんが回想する。おばあちゃんは、きよし(神永の父)と何度も家裁に呼ばれた。
M-3 男の人が、おばあちゃんを連れて、家に来た。
N 神永との別れ。(神永は、オトン殺しでパクられていた。)
N-2 「切ったん忘れたるから、鼻折られたの忘れろ」とまさしに言ってくれと、神永。
N-3 神永は、ぼくらを駅まで送ってくれた。
《感想》
 こういう少年時代もあるのだと思う。暴力的である。
 友人関係、仲間関係は成立している。喧嘩両成敗的なモラルがある。
 父親が、しっかりしていないと、子供が大変だ。
 篠田(ぼく)は、父子家庭である。神永も父子家庭である。
 神永が父親を刺し、父親の死体を切り刻むシーンは、「胴体を切ったら、ウンコが出て来るので、最初、いやだった」の部分が、生々しい。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東田直樹(1992-)『自閉症の僕が跳びはねる理由』(2007年、15歳)、角川文庫(その1)  

2017-06-13 22:39:18 | Weblog
はじめに
A 人と会話ができない。人と話をしようとすると、言葉が消えてしまう。
A-2 人に言われたことに、対応できない。
A-3 精神的に不安定になると、すぐにその場所から走って逃げ出してしまう。
B 自閉症を、個性と思ってもらえたら嬉しい。
C 会話はできない。筆談はできる。
C-2 パソコンで、原稿も書ける。以下、自閉の世界を、旅してください


第1章 言葉について:口から出てくる不思議な音
1
A 筆談が、自分の気持ちを表現する手段。
A-2 話せないし、表現手段がないと、孤独で、夢・希望もなく、人形のように過ごすだけ。
A-3 最初は文字盤で、字を指さした。
2
B 「ひとり言が、大きくてうるさい。」
B-2 見たこと、思い出したことを、反射のように言ってしまうため。
3
C 「同じことを何度もたずねる。」
C-2  聞いたことを、すぐに忘れてしまうため。
4 
D 「質問された言葉を、オウム返ししてしまう」。
D-2 相手の言っていることを、オウム返しで、場面として思い起こそうとするため。
5
E 「何度言われても、禁止されても、再びやってしまう。」
E-2 前にしたことが思い浮かばないし、また、何かにせかされるように、それをやらずにいられないため。
6
F 赤ちゃんのように話しかけるのは、やめてほしい。みじめな気持ちになる。年齢相応に、対してほしい。
7
G 「イントネーションがおかしかったり、言葉の使い方が独特。」
G-2 言いたい言葉(気持ち)と実際に話す言葉が、ずれてしまうため。
G-3 本を読むときにイントネーションが変なのは、文字を読むのに精いっぱいで、内容を想像しながら読んだりできないため。
8 
H 「すぐに返事をしないのは、なぜか?」
 ①頭で考えたことが、すぐに言葉にならない。
 ②答えようとすること、つまり言おうとした言葉が、頭から消えてしまう。
 ③かくて相手が何を言ったか、自分が何を話そうとしたのか、わからなくなってしまう。
9
I 言葉になったことが、自分の言いたいことでないことがある。
I-2 例えば「はい」と「いいえ」を間違える。自己嫌悪で、誰とも話したくなくなる。
I-3 僕たちの言葉を、信じすぎないでください。
10
J 「どうして、うまく会話できないのか?」
J-2 話したいことは話せず、関係のない言葉がどんどん口から勝手に出てしまう。
J-3 体さえ、自分の思い通りにならない。不良品のロボットを運転するよう。
J-4 いつもみんなに叱られ、弁解も出来ない。
J-5 今は、筆談とパソコンで、コミュニケーションできる。


第2章 対人関係について:コミュニケーションとりたいけれど・・・・
11 
A 「目を見て話さない!」
A-2 ①眼がこわいので「人の声」だけ聞こうとする。②「耳をそばだてている」ので、何も見えないのと同じ。
12 
B 「手をつなぐのが嫌いか?」
B-2 興味があるものがあると、手を放して、そっちへ行ってしまう。手をつなぐのが嫌なのではない。
13
C 「ひとりが好きなのか?」
C-2 他人に迷惑をかけていないか、いやな気持にさせていないか、気にして、人といるのが辛くなる。
14
D そばにいる人が、声をかけてくれても、気づかないことがある。
D-2 「知らん顔をするひどい人」、「知能が遅れている人」ではない。
D-3 声だけでは、「人の気配を感じる」ことができない。
15
E 「表情が乏しい!」と言われる。
E-2 楽しいorおもしろいと思うことが、「みんなとは違う!」
E-3 人の批判、馬鹿にする、騙すなどで、笑うことはできない。
E-4 みんなの見ていない時、ひとりで美しい物をみたり、楽しいことを思いだして、心からの笑顔が出る。
16
F 「体に触れられるのがいやか?」⇒いや!
F-2 自分でもコントロールできない体を、他の人に触れられると、自分が自分で無くなる恐怖がある。
17
G 「手のひらを自分に向けてバイバイするのはなぜか?」
G-2 自分の体の各部分が、よくわからない。だから、自分の目で確かめらるよう、自分に手のひらを向けてバイバイする。
18
H 楽しい場面が、突然、頭にひらめいて、けらけら笑うことがある。思い出し笑い!
19
I 記憶がバラバラでつながらない。
I-2 しかも記憶が突然、嵐のように再現されるフラッシュバックが起る。
I-3 フラッシュバックは、いやな思い出ばかり。
I-4 その時は、泣かせておいてほしい。
20 
J 自閉症のせいか、僕は、少しの失敗でも天地がひっくり返るほど、いやだ。
J-2 例えば、コップに水を注いだ時、水がこぼれただけでも、我慢できない。
J-3 たいした失敗でないと、分かっていても、感情を抑えられない。
J-4 僕自身が壊れてしまいそうなので、泣いたり、わめいたり、物を投げたりする。
J-5 この津波が終わって落ち着くと、自分が暴れた後があって、自己嫌悪に陥る。
21
K どうして「言われても、すぐにやらない」のか?
①「気持ちの折り合いがつかない」。自分で自分を励まさないと、行動に移せない。「やりたくない」のではない。
②あるいは、「自分の体が思い通りにならない」。体を自分のものと思ったことがない。
22
L 「僕たちは見た目では、言っていることを理解しているのかいないのかも分からないし、何度同じことを教えてもできません。」
L-2 しかし「頑張りたい気持ち」はみんなと同じ。「だめだとあきらめられると、とても悲しいです。」
23 
M 「迷惑をかけてばかりで誰の役にも立たない人間」が、どんなに辛くて悲しいか、みんなは想像もできないと思います。
M-2 僕が一番辛いのは、自分のせいで悲しんでいる人がいることです。
24
普通の人になりたいか?⇒自分が好きになれるのなら、普通でも、自閉症でも、どちらでもいいです。


第3章 感覚の違いについて:ちょっと不思議な感じ方。なにが違うの?
25 
A 「ピョンピョン手を叩きながら跳びはねる」のはなぜか? 「空に吸い込まれてしまいたい思いが、僕の心を揺さぶる。」
A-2 「跳んでいる自分の足」、「叩いている時の手」など、「自分の体の部分がよく分かるから気持ち良い」。
A-3 「体が、悲しいことや嬉しいことに反応する。」
B 体の硬直は、体が「硬くなること」ではなく、「自分の思い通りに動かなくなること」だ。
26
C 空中に字を書く。これは、覚えたいことを確認するため。
C-2 場面は忘れても、文字や記号は忘れないので、人が歌を口ずさむように、文字を思い出す。
27 
D 耳をふさぐのはなぜか?音が気になるため。
D-2 音を聞き続けると、自分がどこにいるか分からなくなる。地面が揺れて周りの景色が襲ってくるような恐怖。それを避け、自分を守り、自分の位置をはっきり確認するため、耳をふさぐ。
28 
E 手や足の動きがぎこちない。それは、手や足が、どこから付いているのか、どうやったら自分の思い通りに動くのか分からないため。
E-2 だから人の足を踏んでも分からなかったり、人を押しのけても分からないことがある。
29
F 僕たちは、苦しさを人に分かってもらうことができず、自分の体の中にためこみ、体の毛を抜いたり、感覚がおかしくなったりする。
30
G 髪や爪を切られて痛くないのに大騒ぎする人は、たぶん、そのことが悲しい記憶と結びついているため。
G-2 痛いのに平気な顔をしていたら、たぶん、分かってもらうのが大変なので、我慢した方が、簡単なため。
31 
H 自閉症の人の中には偏食が激しい人がいる。それはおそらく、食べ物にあまり多くの種類があり、習得が大変で、なかなか食べ物だと感じるようになれない。だから食べなれたものしか食べない。
H-2 食べ物と感じられていないものは、食べてもつまらない。
32
I 物を見る時、最初に部分が目に入ってきて、その後、徐々に全体が分かる。
I-2 物はすべて美しさを持っていて、それを自分のことのように喜べる。物といることは、一人でいるのでなく、たくさんの仲間と過ごしていることだ。
33
J 気温による衣服の調整が難しい。例えば、暑くても、服を脱ぐことを思いつかない。
J-2 服は自分の体の一部のようなものなので、同じだと安心する。いつも同じものを着ていたりする。
34 
K 時間は、ずっと続いていて、はっきりした区切りがなく、ぼくらは困る。
K-2 時間を想像(※イメージ)できない。
L 自分が何をしでかすのか、また、自分がこの先、どうなるのか、こわい。
35
L 寝ない時期(睡眠障害)があるが、叱らないで、見守ってほしい。
35-2 ちょっと言わせて
M ぼくたちは、おかしいほどいつも、そわそわしている。
M-2 時間の流れに乗れない僕たちはいつも不安。ずっと泣き続けるしかない。


第4章 興味・関心について:好き嫌いってあるのかな?
36
A 回っているものは楽しい。回転するものは、規則正しく動き、様子が変わらない。変わらないことが心地よい。どこまでも続く永遠の幸せのよう。
37
B 手をひらひらさせるのは、直線的に光が目のなかに飛び込んで、目が痛くなるのを防ぐため。
B-2光をみていると、僕たちはとても幸せ。
38
C 並ぶことは愉快。水などが流れ続けることも快感。
C-2 線や面(パズルなど)が大好き。頭の中がすっきりする。
39 
D ずっとずっと昔、人がまだ存在しなかった大昔に帰りたい。
D-2 時間に追われる生活は嫌だ。
D-3  水の中は、静かで自由で幸せ。自分が望むだけの時間がある。
D-4 水の中なら時間が一定の間隔で流れているのが、よくわかる。
E 僕たちは原始の感覚を残したまま生まれた人間。
E-2 僕たちは時間の流れにのれず、言葉も通じず、ひたすらこの体に振り回されている。
40
F コマーシャルが流れるとテレビの前にとんでいくのは、繰り返し同じで、自分の知っているものが映っていて嬉しいから。
F-2 まるで友達が遊びに来てくれたような感覚になる。
F-3 コマーシャルの内容がよく分かっていて、すぐに終わるので安心して見ていられる。
41
G 『おかあさんといっしょ』のテレビ番組が好き。
①優しいもの、かわいらしいもの、美しいものが大好き。
②ストーリーが単純で、予測がつきやすく安心。
③繰り返しが多いので好き。知らない土地で、知っている人に会ってほっとするのと同じ。
④争いごとや、かけひきや、批判は苦手。
42
H 電車の時刻表やカレンダーを覚えるのが好き。
H-2 数字が好き。例えば1は、1以外の何も表していない。単純明快が心地いい。
H-3 時刻表やカレンダーは誰が見ても同じだし、決まったルールの中で表されているのが、分かりやすい。
H-4 目に見えない人間関係やあいまいな表現は、とても理解するのが大変。
43
I 長い文章は嫌なのではなく、すぐに疲れたり、何を書いているのか分からなくなったりする。
44
J 追いかけられると、相手と自分との感覚が縮まるのが、おかしかったり怖かったりするので、つい逃げ続けてしまう。
K 速く走ることを意識すると、手や足をどう動かせば速く走れるのかを考えてしまい、考え始めたとたん、体の動きが止まり、走れなくなる。
45
L 緑が好きなので、散歩が好き。緑を見ていると障害者の自分も、この地球に生きていて良いのだという気にさせてくれる。緑は命の色。
46 
M 自由はとても不自由な時間。
M-2 いつも使っているおもちゃや本があれば、それで遊ぶが、それは好きなことでなく、できること。やることが分かっているから安心。
M-3 僕が本当にしたいことは、難しい本を読んだり、一つの問題について議論したりすること。
47
N 自閉症の僕の楽しみは、自然と遊ぶこと。自然が友達だ。
N-2 人に対する場合のように、相手が自分のことをどう思っているだろうとか、何を答えたらいいのだろうかとか、考えなくていい。


第5章 活動について:どうしてそんなことするの?
48
A 目についた場所に飛んでいきたくなる気持ちをおさえられない。だからすぐにどこかに行ってしまう。
A-2 ただし行きたいというのでなく、いつの間にか体が動いてしまう。悪魔がとりついたかのように、自分が自分でなくなる。
A-3 マラソンや歩いて、体がすっきりすると、自分の体の位置(重力を感じる)が自覚でき、落ち着ける。
49
B すぐ迷子になってしまうのは、自分がどこにいればいいか分からない、その場所の居心地が悪いため。
B-2 安心できる場所を見つけようと、無意識のうちにふらふらと歩いたり、びゅーんと走って行ったりする。
B-3 自分の居場所を探さないと、自分がこの世界で一人ぼっちになってしまうと思う。
B-4 僕たちの理想の居場所は、結局、探せない。森の奥深く、または深海の海の底にしかない。
50
C 幼稚園の頃、何度も勝手に家を出て、警察に保護された。
C-2 何か目的があって飛び出すわけでなく、何かに誘われるように、体が動いてしまう。
C-3 外に出ないと自分が自分でなくなる。なぜだかわからないけれど、どこまでもいかなければならない。
C-4 戻らない。道に終わりがない。道が僕らを誘う。
D 車にひかれそうになって、その恐怖が記憶に強く残り、家を一人で出ていくことがなくなった。
51
E 自閉症の人は、繰り返しが好きだ。
E-2 それは自分の意志によるのでない。脳が命令する。
E-3 脳の命令に従う間は、気持ちよく安心できる。
E-4  自分の気持ちと関係なく、脳が色々要求する。
E-5 それに従わないと地獄に突き落とされそうな恐怖と、戦わなければならない。
52
F 何度、注意されてもやってしまう理由。
F-2 『自分が何かしでかす→何か起こる→誰かに注意される』という場面が、強く記憶されると、その場面を再現したい気持ちが生じ、しかも再現するとこの上ない感電したような快感がある。ビデオの再生のようなもの。F-3 その快感を得ようと、繰り返し、再現する。
F-4 これを理性で我慢するのは苦しくて、苦しくて大変だ。僕たちを止めてほしい。
53
G どうしてこだわるのか。
G-2 好きでやっているのでない。やらないといてもたってもいられない。
G-3 自分の体でありながら、こだわりをやめることが出来ず、人にも迷惑をかけてしまい、自閉症の本人自身が、一番悩んでいます。
G-4 脳が終了のサインを出せば、こだわりは、ある日突然、なくなる。
54
H 誰かに、ぼくが「ジュース飲む」と言っても、「どうぞ」と言われないと、いつまでも飲まない。合図がないと、僕たちの脳に、次の行動のスイッチがはいらない。
H-2 それをやぶって行動するのは、自分がどうにかなってしまいそうなくらいの恐怖がある。
H-3 僕たちは大騒ぎし、泣いて叫んで叩いて壊して、僕たちは抵抗するでしょう。
H-4 でも、あきらめないで、僕たちと一緒に戦って下さい。
55
I いつも体が動いてしまう。
I-2 じっとしていると不安で怖くていたたまれない。じっとしていると自分が、この身体に閉じ込められていると実感させられる。
I-3 僕はいつも出口を探している。動いていると落ち着く。
56
J スケジュールや時間を視覚的に表示されると、強く記憶に残りすぎて、そのことに自分を合わせることだけに集中してしまい、変更になるとパニックになってしまう。
57
K 思い通りにならない体、うまく話せないため伝えられない気持ちを抱え、僕たちの感情は極めて複雑・繊細になっている。
K-2 目に見える行動は幼いが、心の中はみんなと同じように複雑です。
K-3 気が狂いそうになってパニックになる。ただし、自傷、他傷行為をするときは、止めて下さい。
58
L 自閉症とは、文明の支配を受けず、自然のまま生れて来た人のことだ。
L-2 太古の昔からタイムスリップしてきたような人間。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東田直樹(1992-)『自閉症の僕が跳びはねる理由』(2007年、15歳)、角川文庫(その2) 《感想》 

2017-06-13 22:29:53 | Weblog
《感想》
 『自閉症の僕が跳びはねる理由』の東田直樹氏の見解を、次のようにまとめてみた。
 第1は、言葉の問題。頭で考えたことが、すぐに言葉にならなかったり消えてしまうこと。
 第2は、他者の問題。他者に対して、過剰に対応する。他者が恐い、他者に迷惑をかけている、誰の役にも立たないことに絶望している。
 第3は、定型・繰り返し・予測可能性の問題。定型・繰り返しの出来事のみが、予測可能で、安心できるし好きだと言われる。
 第4は、他者への恐怖と対照的に、物・自然との親和性の感情。
 第5は、体の問題。自分の体がコントロールできない。
 第6は、記憶の問題。記憶がバラバラであり、また嫌な記憶のフラッシュバックが起きる。
 第7は、「脳の命令」(衝動)の問題。自分の気持ちと関係なく、脳が色々要求する。それに従わないと地獄に突き落とされそうな恐怖と、戦わなければならない。
 第8は、自閉症者の感情の問題。感情の津波。思い通りにならない体、うまく話せないため伝えられない気持ちを抱え、彼らの感情は極めて複雑・繊細になっている。
 第9に、時間の問題。自閉症者は近代社会の時間の流れに乗れない。だから彼らはいつも不安。ずっと泣き続けるしかない。居場所がない。
 最後に、東田直樹氏が自閉症についての定義を提出する。自閉症とは、文明の支配を受けず、自然のまま生れて来た人。太古の昔からタイムスリップしてきたような人間。



◎言葉の問題(Cf. 1章 言葉について:口から出てくる不思議な音)
・人と話をしようとすると、言葉が消えてしまう。(はじめにA)
・会話はできない。筆談はできる。(はじめにC)
・パソコンで、原稿も書ける。(はじめにC-2)
・見たこと、思い出したことを、反射のように言ってしまう。(1章B-2)
・相手の言っていることを、オウム返しで、場面として思い起こそうとする。(1章D-2)
・頭で考えたことが、すぐに言葉にならない。(1章H)
・答えようとすること、つまり言おうとした言葉が、頭から消えてしまう。(1章H)
・言葉になったことが、自分の言いたいことでないことがある。例えば「はい」と「いいえ」を間違える。自己嫌悪で、誰とも話したくなくなる。  (1章I)
・話したいことは話せず、関係のない言葉がどんどん口から勝手に出てしまう。(1章J-2)
・空中に字を書く。これは、覚えたいことを確認するため。(3章C)
 場面は忘れても、文字や記号は忘れないので、人が歌を口ずさむように、文字を思い出す。(3章C-2)
・長い文章は嫌なのではなく、すぐに疲れたり、何を書いているのか分からなくなったりする。(4章I)


◎他者の問題(Cf. 2章 対人関係について:コミュニケーションとりたいけれど・・・・)(※◎定型・繰り返し・予測可能性の問題も参照)
・「目を見て話さない!」(2章A)
 ①眼がこわいので「人の声」だけ聞こうとする。②「耳をそばだてている」ので、何も見えないのと同じ。(2章A-2)
・他人に迷惑をかけていないか、いやな気持にさせていないか、気にして、人といるのが辛くなる。(2章C)
・声だけでは、「人の気配を感じる」ことができない。(2章D-3)
・「迷惑をかけてばかりで誰の役にも立たない人間」が、どんなに辛くて悲しいか、みんなは想像もできないと思います。(2章M)
 僕が一番辛いのは、自分のせいで悲しんでいる人がいることです。(2章M-2)


◎定型・繰り返し・予測可能性の問題:安心できるし好きだ(Cf. 4章 興味・関心について:好き嫌いってあるのかな?)
・回転するものは、規則正しく動き、様子が変わらない。変わらないことが心地よい。どこまでも続く永遠の幸せのよう。(4章A)
・コマーシャルが流れるとテレビの前にとんでいくのは、繰り返し同じで、自分の知っているものが映っていて嬉しいから。(4章F)
・『おかあさんといっしょ』のテレビ番組が好き。(4章G)
 ②ストーリーが単純で、予測がつきやすく安心。
 ③繰り返しが多いので好き。知らない土地で、知っている人に会ってほっとするのと同じ。
・電車の時刻表やカレンダーを覚えるのが好き。(4章H)
 数字が好き。例えば1は、1以外の何も表していない。単純明快が心地いい。(4章H-2)
 時刻表やカレンダーは誰が見ても同じだし、決まったルールの中で表されているのが、分かりやすい。(4章H-3)
 目に見えない人間関係やあいまいな表現は、とても理解するのが大変。(4章H-4)
・自由はとても不自由な時間。(4章M)
 いつも使っているおもちゃや本があれば、それで遊ぶが、それは好きなことでなく、できること。やることが分かっているから安心。(4章M-2)
・スケジュールや時間を視覚的に表示されると、強く記憶に残りすぎて、そのことに自分を合わせることだけに集中してしまい、変更になるとパニッ クになってしまう。(5章J)


◎他者と対照的に物・自然との親和性の問題
・物はすべて美しさを持っていて、それを自分のことのように喜べる。物といることは、一人でいるのでなく、たくさんの仲間と過ごしていること  だ。(3章I-2)
・緑が好きなので、散歩が好き。緑を見ていると障害者の自分も、この地球に生きていて良いのだという気にさせてくれる。緑は命の色。(4章L)
・自閉症の僕の楽しみは、自然と遊ぶこと。自然が友達だ。(4章N)
 人に対する場合のように、相手が自分のことをどう思っているだろうとか、何を答えたらいいのだろうかとか、考えなくていい。(4章N-2)


◎体の問題(Cf. 3章 感覚の違いについて:ちょっと不思議な感じ方。なにが違うの?)
・体が、自分の思い通りにならない。不良品のロボットを運転するよう。(1章J-3)
・自分でもコントロールできない体を、他の人に触れられると、自分が自分で無くなる恐怖がある。(2章F-2)
・自分の体の各部分が、よくわからない。だから、自分の目で確かめらるよう、自分に手のひらを向けてバイバイする。(2章G-2)
・「ピョンピョン手を叩きながら跳びはねる」のはなぜか? 「跳んでいる自分の足」、「叩いている時の手」など、「自分の体の部分がよく分かる から気持ち良い」。(3章A-2)
・体の硬直は、体が「硬くなること」ではなく、「自分の思い通りに動かなくなること」だ。(3章B)
・手や足の動きがぎこちない。それは、手や足が、どこから付いているのか、どうやったら自分の思い通りに動くのか分からないため。(3章E)
 だから人の足を踏んでも分からなかったり、人を押しのけても分からないことがある。(3章E-2)
・服は自分の体の一部のようなものなので、同じだと安心する。いつも同じものを着ていたりする。(3章J-2)
・いつも体が動いてしまう。(5章I)
 じっとしていると不安で怖くていたたまれない。じっとしていると自分が、この身体に閉じ込められていると実感させられる。(5章I-2)
 僕はいつも出口を探している。動いていると落ち着く。(5章I-3)


◎記憶の問題
・記憶がバラバラでつながらない。(2章I)
・しかも記憶が突然、嵐のように再現されるフラッシュバックが起こる。(2章I-2)
 フラッシュバックは、いやな思い出ばかり。(2章I-3)
 その時は、泣かせておいてほしい。(2章I-4)


◎「脳の命令」(衝動)の問題(Cf. 5章 活動について:どうしてそんなことするの?)
・興味があるものがあると、手を放して、そっちへ行ってしまう。手をつなぐのが嫌なのではない。(2章B-2)
・目についた場所に飛んでいきたくなる気持ちをおさえられない。だからすぐにどこかに行ってしまう。(5章A)
 ただし行きたいというのでなく、いつの間にか体が動いてしまう。悪魔がとりついたかのように、自分が自分でなくなる。(5章A-2)
・幼稚園の頃、何度も勝手に家を出て、警察に保護された。(5章C)
 何か目的があって飛び出すわけでなく、何かに誘われるように、体が動いてしまう。(5章C-2)
・自分の気持ちと関係なく、脳が色々要求する。(5章E-4)
 それに従わないと地獄に突き落とされそうな恐怖と、戦わなければならない。(5章E-5)
・何度、注意されてもやってしまう理由。(5章F)
 『自分が何かしでかす→何か起こる→誰かに注意される』という場面が、強く記憶されると、その場面を再現したい気持ちが生じ、しかも再現する とこの上ない感電したような快感がある。ビデオの再生のようなもの。(5章F-2)
 その快感を得ようと、繰り返し、再現する。(5章F-3)
 これを理性で我慢するのは苦しくて、苦しくて大変だ。僕たちを止めてほしい。(5章F-4)
・どうしてこだわるのか。(5章G)
 好きでやっているのでない。やらないといてもたってもいられない。(5章G-2)
 脳が終了のサインを出せば、こだわりは、ある日突然、なくなる。(5章G-4)
・誰かに、ぼくが「ジュース飲む」と言っても、「どうぞ」と言われないと、いつまでも飲まない。合図がないと、僕たちの脳に、次の行動のスイッ チがはいらない。(5章H)
 それをやぶって行動するのは、自分がどうにかなってしまいそうなくらいの恐怖がある。(5章H=2)


◎感情の問題(Cf. 4章 興味・関心について:好き嫌いってあるのかな?)
・自閉症のせいか、僕は、少しの失敗でも天地がひっくり返るほど、いやだ。(2章J)
 例えば、コップに水を注いだ時、水がこぼれただけでも、我慢できない。(2章J-2)
 たいした失敗でないと、分かっていても、感情を抑えられない。(2章J-3)
 僕自身が壊れてしまいそうなので、泣いたり、わめいたり、物を投げたりする。(2章J-4)
 この津波が終わって落ち着くと、自分が暴れた後があって、自己嫌悪に陥る。(2章J-5)
・光をみていると、僕たちはとても幸せ。(4章B-2)
・僕たちは原始の感覚を残したまま生まれた人間。(4章E)
・僕たちは時間の流れにのれず、言葉も通じず、ひたすらこの体に振り回されている。(4章E--2)
・『おかあさんといっしょ』のテレビ番組が好き。(4章G)
 ①優しいもの、かわいらしいもの、美しいものが大好き。
 ④争いごとや、かけひきや、批判は苦手。
・すぐ迷子になってしまうのは、自分がどこにいればいいか分からない、その場所の居心地が悪いため。(5章B)
 安心できる場所を見つけようと、無意識のうちにふらふらと歩いたり、びゅーんと走って行ったりする。(5章B-2)
 自分の居場所を探さないと、自分がこの世界で一人ぼっちになってしまうと思う。(5章B-3)
・思い通りにならない体、うまく話せないため伝えられない気持ちを抱え、僕たちの感情は極めて複雑・繊細になっている。(5章K)
 目に見える行動は幼いが、心の中はみんなと同じように複雑です。(5章K-2)
 気が狂いそうになってパニックになる。ただし、自傷、他傷行為をするときは、止めて下さい。(5章K-3)


◎時間の問題
・時間は、ずっと続いていて、はっきりした区切りがなく、ぼくらは困る。(3章K)
 時間を想像(※イメージ)できない。(3章K-2)
 自分が何をしでかすのか、また、自分がこの先、どうなるのか、こわい。(3章L)
・時間の流れに乗れない僕たちはいつも不安。ずっと泣き続けるしかない。(3章M-2)
・ずっとずっと昔、人がまだ存在しなかった大昔に帰りたい。(4章D)
 時間に追われる生活は嫌だ。(4章D-2)
・水の中は、静かで自由で幸せ。自分が望むだけの時間がある。(4章D-3)
 水の中なら時間が一定の間隔で流れているのが、よくわかる。(4章D-4)


◎「自閉症の僕」が出した自閉症についての定義
・自閉症とは、文明の支配を受けず、自然のまま生れて来た人のことだ。(5章L)
 太古の昔からタイムスリップしてきたような人間。(5章L-2)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする