宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」イ「力」:「現象」は「力の遊戯」である!「受動」と「能動」は相互に転換する!

2024-05-14 21:56:41 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」イ「力」(113-115頁)
(21)「知覚」の段階においても、「無制約的な普遍」(「悟性」の段階でとらえられる「内なるもの」)によって、「一」は「多」に、「多」は「一」に転換し、「力」の概念がでてくる!「一と多」との対立すなわち「力とその発現」との対立は、「力」の概念における「内容上の対立」だ(113頁)
★「力」という概念は、「知覚」段階における「一と多」、「自と他」という2つの対立と密接な関係を持つ。(113頁)

《参考》Ⅰ「感覚」の段階、Ⅱ「知覚」の段階、Ⅲ「悟性」の段階!
☆Ⅰ「感覚」は「個別的なもの」をつかむ。「感覚」の段階は、「このもの」の「私念」にあたる。「感覚」は論理的には「個別性」の段階だ。(91頁)
☆Ⅱ「知覚」は論理的には「特殊性」の段階だ。すなわち「感覚」は「個別的なもの」をつかんでいると考えても、それは自分で「個別的なもの」をつかんだと考えているだけであって、じつは単なる「個別的なもの」をつかんでいるのではなく、「普遍的なもの」における「個別的なもの」をつかんでいる。「普遍」が「個別」になり、「個別」が「普遍」になるというように、それらが矛盾的に結合している段階、これが「個別性」と「普遍性」の中間としての「特殊性」の段階だ。その「特殊性」の段階に当たるものがⅡ「知覚」の段階だ。(91-92頁)
☆Ⅲ「悟性」の段階:「個別性」と「普遍性」との矛盾がいわゆる止揚された契機として綜合されるようになったとき、そのときに「真の意味の普遍」、「無制約的な普遍」が現れてくる。その「無制約的普遍」が「悟性」の段階における「内なるもの」だ。(92頁)

★「一と多」との対立すなわち「力とその発現」との対立は、「力」の概念における「内容上の対立」だ。(113頁)
☆「知覚」の段階(Cf. 「悟性」の段階)においても、「無制約的な普遍」によって、「一」は「多」に、「多」は「一」に転換する。(113頁)
☆「一」は、「『多』から切り離されたもの」ではなくて、「『多』においておのれを外化し、発現させる『一』」だ。したがって「発現と結びついた力、内なる力」だ。(113頁)
☆「多」も、「一」としての「力」の発現として、「一」に還帰すべきものだ。(113頁)
☆そこにおのずと「力」の概念がでてくる。(113頁)

(21)-2 ①「一と多」との対立(「力とその発現」との対立)は、「力」の概念における「内容上の対立」だ!②「能動と受動」の対立は、「力」の概念における「形式上の対立」だ!
★ヘーゲルは「力」の概念に①「内容上の対立」と②「形式上の対立」を区別する。(113頁)
☆すでに見たように「力」の概念における①「内容上の対立」とは、「一と多」との対立すなわち「力とその発現」との対立だ。(113頁)

☆「力」の概念における②「形式上の対立」とは、「能動と受動」の対立だ。(これは「自と他」との対立の変形だ。)(113頁)
★「力」の概念における①「内容上の対立」(「一と多」との対立すなわち「力とその発現」との対立)と②「形式上の対立」(「能動と受動」の対立)の区別は、①-2「因果性」の立場と②-2「相互性(相互作用)」の立場の区別だ。(113頁)

(21)-3 「力」の概念における①「内容上の対立」(「一と多」との対立すなわち「力とその発現」との対立)は①-2「因果性」の立場だ。(113-114頁)
★「一」は「力」であり、それに対して「多」はその(「力」の)「外化」であり「発現」だ。(113頁)
☆即ちそれぞれの「物」が「一つの統一的な力」であると同時に、その「力」が外にあらわれたとき、多数の「自立的質料」といわれるものになる。(113頁)
☆「質料」とは、光に対する「光素」、色に対する「色素」、香に対する「香素」、熱に対する「熱素」のごときものだ。(113-114頁)
☆かくて①「力」とその「発現」との対立は「内容上の対立」だ。「多」は「いろいろの性質」であり、これをひっくるめた統一的な「力」とは、「内容的に」違う。(114頁)
☆したがって「多」(「いろいろの性質」)と「一」(統一的な「力」)とは、相互に分離されえないものであるにしても、互いに位置をかえることはできない。
☆言いかえると「力」は原因であり、原因がはたらいた結果として「発現」が生じるという場合、「力」とその「発現」は「内容的に」はっきり区別され、「互いに他ととりかえることができない」。(114頁)
☆つまり「力」の概念における①「内容上の対立」(「一と多」との対立すなわち「力とその発現」との対立)は①-2「因果性」の立場だ。(113-114頁)

(21)-4 「力」の概念における②「形式上の対立」(「能動と受動」の対立)は②-2「相互性(相互作用)」の立場だ!「相互性」の立場とはどういうことか?(114-115頁)
★これに対して「力」の概念における②「形式上の対立」として、「自と他との対立」からでてくる「能動と受動」との関係では、「一」は「他」とかえることができる。これは②-2「相互性」の立場だ。(①-2「因果性」の立場と異なる。)(114頁)

★②-2「相互性」の立場とはどういうことか?(114頁)
☆なるほど「力と発現」との見地からいうと、「力」が働いて「発現」が生ずるのだから、「力」は「能動的」で、「発現」は「受動的」なものといえる。(114頁)
☆しかしよく考えてみると、「『力』が『発現』する」というのは、自分(「力」)と区別された他のものとしての「発現」があって初めてできるから、「発現」によって「誘発」される(誘われる)ことによってだ。(114頁)
☆そう考えると、必ずしも「力」の方が「能動的」で、「発現」の方が「受動的」だとはいえない。(114頁)
☆「力」はたしかに「能動的」であり「働きかけ」はするが、しかしその「働きかけ」は、「発現」によって「誘発」されてこそできるのだから、「能動のうらに受動がある」と考えられる。(114頁)

(21)-5 「現象」は「力の遊戯」である:一方で「一」は「多」に対して「能動的」でありながら、うらからみれば「受動的」であり、他方で「多」は「一」に対して「受動的」でありながらまた「能動的」であるというように相互に転換する!(115-116頁)
★このように考えると「内」(「力」)は「能動」であり、「外」(「発現」)は「受動」であるとはっきりと区別はできず、むしろ「内」(「力」)が「能動」であるのは、「外」(「発現」)によって働くべく「誘われ」てこそ「能動」なのだと言わねばならない。(115-116頁)
☆したがって、一方は他方に「働きかける」から「能動」であり、他方は「動かされる」から「受動」であるというように固定的にいうことはできない。(116頁)

★ヘーゲルは「力」と「発現」との関係を考えるにあたり、「自と他」の区別という立場から、それを「能動と受動」との関係に導き、そして「すべての力は交互的に働く」という考えを根本にして、「一と多」、「自と他」は相互に他に転換して区別は全くなくなり、ここに真の意味における「『物的』でない『無制約的』な『内なるもの』」がでてくると考えている。(116頁)

★そうしてヘーゲルはこの「内なるもの」は「悟性」の対象にほかならないから、「現象する」ものではなく、むしろ「現象の彼方にある」と考え、そうしてこの場合、「現象」を「力の遊戯」とよんでいる。なぜかというと一方で「一」は「多」に対して「能動的」でありながら、うらからみれば「受動的」であり、他方で「多」は「一」に対して「受動的」でありながらまた「能動的」であるというように相互に転換して、「内」は「外」であり、「外」は「内」であって、ちょうど「遊戯」のようなものだからだ。(116頁)

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