宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

E.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』第2部モナド論(ちくま学芸文庫、2015年)

2016-01-23 13:25:46 | Weblog
第2部 モナド論(Monadologie)
一〇 自我とモナド:原典タイトル「人格的自我と個体的固有様式。発生と発生において規定されることをめぐる問題。いかにしてモナド的主観は規定され、認識されうるのか(1920または21年)」(全集第14巻、テキスト2番)(153-192頁)
〈内容〉
(1)
① 発生の統一つまり時間を充実する統一としてのモナド。その統一のなかで、必然的な連関が時間充実を貫いている。(153頁)
② 発展の統一としてのモナド。
② モナド的自我の統一。(158頁)
④ モナド的主観性の規定可能性の問い。

(1)-2 充足自由律(160頁)
⑤ なぜ個体は《未来に向けて生成すること》において、まさにこうであって、別様に生成するのではないのかという、「充足理由律」[の問い]。
⑤-2 すなわち、モナド的個体についての特別な認識の仕方についての問い。
⑥ 自我の規定可能性と自由。すなわち個体性。
⑦ 合理的な規則と不合理な規則。
⑧ 理解できることを原理とする人格的自我。

(1)-3 人格的自我、人格的個体性(164頁)
⑨ 人格的自我と個体性。
⑩ 個体性について内的に知られることと、外的に感情移入をとおして知られること(連合的・帰納的な認識に対立する)。(167頁)
⑪ 人格の規定可能性、および人格の起源などの問題。
⑫ 人格の自由。
⑬ 多くの自我の個々の固有性が本質的にことなっていること。
⑭ あらゆるモナドの個体的な規則。

(2) 対象極と自我極についての基本的な描写、機能中心としての自我(179頁)
⑮ 対象極に対する自我極としての自我。
⑯ 機能の中心としての自我。
⑰ 体験の変化によって私の主観性の変移が可能であっても、その体験の変化は、機能の自我としての私を変化させることはない。
⑱ そしてこのような自我の変化の可能性とそのような自我が維持されること(個体性の維持)。
⑲ 分身(Doppelgänger)の問題。


一一 モナドの現象学:原典タイトル「モナド的個体性の現象学と、体験の可能性と両立可能性の現象学。静態的現象学と発生的現象学(1921年6月)」(全集第14巻、付論1)(192-209頁)
A 現象的連関の構成的能作は、モナドのうちで一般に生起しうる。(193頁)
A-2 モナドの個体的統一性と閉鎖性。(193頁)
A-3 モナドは生き生きした統一であり、極としての自我をそのうちに担っている。(194頁)
A-4 すべての内在的なものはたしかに個体的であるが、しかし非独立的に個体的である。独立的であるのはただモナドそれ自身だけである。(199頁)

B 静態的現象学は、構成する意識と構成される対象との相関関係を追求し、発生的問題はこれを除外する。(200頁)
B-2 発生の現象学は、時間流における根源的に構成する生成であるような根源的生成と、発生的に作動するいわゆる「動機づけ」を追及する。

C モナド的個体性の現象学は、発生の現象学を含む。
C-2 より高次のモナドは、より低次のモナドから発展してくる。(201頁)
C-3 あらゆるモナドが論理的に思考する者である必要はなく、あらゆるモナドが道徳的に行為する者である必要はない。(203頁)

D モナドは交流のうちにある。(202頁)

《参考》
●訳注[12] 対向(Zuwendung):自我が受動的に先構成されたものに向かう(注意の眼差しを向ける)こと。「対向」については「触発」が問題にされる。『受動的綜合の分析』を参照。
●訳注[15] フッサール中期、1912年刊『イデーン』の緒論は、現象学的還元は、(1)事実から本質への「形相的還元」と、(2)「実在」から「非実在」への「超越論的還元」の2段階が必要と述べる。


一二 モナドという概念:原典タイトル「『モナド』という概念について。自我の具体的な姿(おそらく1921年6月)」(全集第14巻、付論2)(209-222頁)
[1] 純粋自我=自我極
E 「純粋自我としての自我は、絶対に同一の同じものであり、この時間のあらゆる点に属しているのであるが、とはいっても広がっているわけではない。」(211頁)
E-2 「自我は、その自我の生を作用と触発のうちにもつ。」(211頁)
E-3 「自我とは、・・・・極にほかならない」(212頁)

[2] 具体的自我
F 純粋自我が、「抽象的に同一のもの」であるのに対し、「それ(具体的自我)は、みずからの能動と受動のうちで規定されるものとして、そうあるようなもの[=具体的なもの]である。この具体的な自我は内的経験の現実的自我である。」(212-3頁)
F-2 「具体的自我は[1]内在的時間をとおして広がる同一のものであり、[2]その『精神的』規定内実に応じて、またその作用と状態に応じて変化するものであり、[3]そのうちにつねに絶対的に同一の自我極を担いつつ、 [4] 他方でそれは、その生を、すなわち極において同一的に中心化されている作用の具体的連関を生き抜いている。」(213頁)

[3] モナド的生
G 「自我が意味形成体や主題的統一を産出する」(216頁)
G-2 「意識はすべての[自我による]産出に先立っている。自我とはその普遍的意識にとっての主観である。」
G-3 「意識の統一とそこで把握される志向的体験流の統一は媒体であって、その中で自我が生きており、それは自我の能動的および受動的な関与の媒体なのである。」(217頁)
G-4 「自我という中心は常にそこにあり、それが・・・・目覚めているか、そうでないかにかかわりなく、体験流あるいは意識流はつねに流れている・・・・。」(218頁)
G-5 「体験における普遍的生のこの統一を・・・・私たちはモナド的生と呼ぶ。」(218頁)


一三 自我-意識-対象と裸のモナド:原典タイトル「その一般構造におけるモナド(1921年6月)」(全集第14巻、付論4)(222-231頁)
《参考》
●訳注[35] 「裸のモナド」あるいは「眠れるモナド」とは、非生物の段階のモナドである。もっとも不明瞭、不鮮明な表象能力の段階のモナド。
《評者の感想》:非生物とは、いわば岩石などである。(1)非生物に身体的な境界があるのか?身体的な意味での境界がない。非生物は、大地・天空である。(2)モナドは魂的なもの(体験流・意識流)であるはずだが、岩石、さらに大地・天空に、魂があるのか?アニミズム的・神話的である。


一四 自我論(Egologie)の拡張としてのモナド論(Monadologie):原典タイトル「事物の超越に対する他我(alter ego)の超越。超越論的自我論の拡張としての絶対的モナド論。絶対的世界解釈(1921年1月/2月)」(全集第14巻、テキスト13番)(231-278頁)
〈第1節 自然の超越と他の主観の超越。自我と非我の不可分性。さまざまな内在の概念〉 
A 「自然客観の超越は、他の主観の超越、他のモナド的主観性の超越とは、その本質からして根本的に別の事柄である。」(231頁)
《参考》「現出において現出するものとしての同一者、規定可能なX」(234頁)
A-2 「実在物として・・・・近くのうちに与えられているものの超越は・・・・内在の一形式にすぎない。」(235頁)

B 「事物」の超越と別に、「私たちは・・・・動物や人間という超越を見出す。私たちは、他の身体と、事物と一体になった他の主観を、私たちの経験の領分のうちに見出す。」(239頁)
《評者の感想》事物と「一体になった」他の主観(=心)は、一体どこにあるのか?「事物」=「自然」のうちにはない。いわゆる「心身問題」はどう解かれるのか?ここで事物と「一体になった」とはどういうことか?

B-2 「私が、私の身体物体に類似した外的物体を身体として統握する場合には、この他の身体物体は、この類似性によって、『表現』という仕方で共現前の機能を果たす。」(240頁)
B-3 「共現前によって他の自我として措定されるものは、他の内面的周囲世界をともなう完全に他の主観性であるが、この他の内面的周囲世界も自然として、私に経験される自然と同一である。」(240頁)

〈第2節 現出(眺め)の客観性と間主観性の問題〉
《評者の感想》
① なぜ現出が、「眺め」とされるのか?どうして、視覚で説明するのか?
② 物体・身体性、つまり物理的自然にとって重要なのは、触覚ではないのか?現出が「抵抗すること」(触覚されること)として説明したら、どうなるのか?

C 「私が『感情移入』において準現在化した他者の現出は、共現前による準現在化として措定されている。すなわち、それらの現出は現在の現出として措定されていて、仮定的ではなく現実的な知覚として措定されているが、私がもっておらず、他者がもっている現出として措定されている。」(249頁)

〈第3節 主観の存在位階に対して下位に置かれる実在性と理念性の存在位階〉
D 「自然のなかの事物が、心にとっての、すなわち別の主観性および自我主観にとっての身体として・・・・経験される。」(250頁)

E 「主観性の本質に属するのは、主観性において自然が構成されうるということである」:「自然の超越」の構成。(249頁)
E-2 「以上とはまったく別の対象性が、他の自我である。」(251頁)
E-3 「実在性も理念性も下位の存在位階であって、上位にあるのは、《我-思う-思われるもの(ego-cogito-cogitatum)》をともなう主観性の存在位階である。後者が究極にして最高の存在位階であるのか否かは、ここでは、そのままにしておこう。しかしいずれにしても、自我は『それ自身において』存在するのであって、他のものにおいて存在するのではない。」(251頁)
《評者の感想》:フッサールが「(超越論的)主観性」とか「意識」とか呼ぶものは、実は「有一般」としての世界そのものの現出ではないのか?

F 「感情移入の経験においては、私のうちで、他者が告知される。他者は、事物のように原本的な根源性(original)において知覚されるのではない。」(252-3頁)
F-2 「他者は、共現前をとおして、他者としての根源的告知において経験される。すなわちそれは自我として経験され、私ではないし、私の主観性でもなく、私にあい対するものであるようなまったき主観性として経験されるのである。」(253頁)

〈第4節 主観性にあい対する自我の告知と構成的統一体の間主観的同一化。モナドは窓を持つ〉
G 「主観性のうちであい対するものとして第2の自我が根源的に告知されうる」ということは、「主観性の根本的特徴」である。(253頁)
G-2 「感情移入によって共現前する第2の主観性」としての「〈別の自我〉」。(254頁)
《参考》:Appräsentationは、『デカルト的省察』船橋弘訳では「間接呈示」、浜渦辰二訳では「共現前」である。

H 「他の主観性を共現前(間接呈示)によって措定することは、・・・・[私と他者の]双方の提示する現出の統一体を、同一のものの互いに調和する知覚統一体として措定することを含んでいる。」:「現出の構成的統一体としての自然」の[私と他者の]双方にとっての同一性。(255頁)
H-2 「複数として認識されうるすべての主観性は、そのうちに、同一の自然を構成しているのでなければならない。」(257頁)

I また「別の構成的統一体、たとえばあらゆる種類の理念的な対象性、数学的対象、すなわち数や数に関する真理などの統一」の[私と他者の]双方にとっての同一性。(256頁)

J 「それぞれの自我は一つの『モナド』である。だがこれらモナドは窓を持つ。それらのモナドは、別の主観が実質的に入り込むことができないという意味では、窓も扉ももたないが、別の主観は窓をとおして(窓とは感情移入のことである)経験されうるのであって、それは自分の過去の体験が再想起をとおして経験されうるのと同様である。」(257頁)

〈第5節 私のモナドおよび可能なモナド一般への現象学的還元。志向的相関者としての人間と動物〉
K 「世界についての直進的な判断をすべて遮断するとき、私は私のモナドを獲得する。」(258-9頁)

〈第6節 単独的還元と、自然の遮断を使わずに残すこと〉
L 「現象学的還元は、ある種の方法論的目隠しにすぎなかった。」「純粋自我における意味付与と意味そのもの以外の何ものにも効力を与えない。」(262-3頁):「現象学的目隠し」(265頁)
L-2 しかも「私はまず『他の身体』と生気あるものすべてを捨象する・・・・。言ってみれば、私は現象学的還元と並んで、単独の自我(モナド)への単独的還元を遂行するのである。」(263頁)

〈第7節 絶対的なものとしてのモナドの数多性への移行〉
M 「私は感情移入とその相関者の現象学から、別の身体と別の自我に関する意味付与を獲得する。」(266頁)
M-2 「こうして私は、現実的ないし可能的なコミュニケーションのうちにあるモナドの数多性をもつことになる。」(266頁)
N 「さらにそのさい私は、モナドの数多性と関係して同一の自然を、すなわち間主観的な自然、共存するすべての可能なモナドにとっての共通の可能な自然をもつ」:「間主観的に同一の自然の構成」。(267頁)
N-2 「あらゆる可能な自然が前提とする絶対的なもの、すなわちモナドの数多性と、たんなる措定の相関者であり、モナドの総体性におけるたんなる構成的「産物」である客観的自然そのものとは区別される。」(268頁)

〈第8節 同一の自然の構成におけるモナドの連関〉
O 「現象学が示すのは、この世界が絶対的なモナド的主観性の構成の産物だということである。」(271頁)
O-2 「私たちが実在(事物的統一体)を、世界の実在として、つまりモナドのうちで主観的ないし間主観的に構成された統一体として理解するなら、モナドは実在ではない。だが、世界内の心理物理的因果性には、絶対的領分においては、複数のモナドが互いに『及ぼし』合う『絶対的』因果性が対応している。」(272頁)

〈第9節 人格的働きかけ、相互共存的な生と相互内属的な生〉
P 「人間は世界内で互いに『精神的影響』を及ぼし合い、精神的結合に至る。」(272頁)

〈第10節 さまざまな仕方でのモナドの結合。共同体的かつ目的論的な発展の全体としての絶対的現実性〉
Q 「絶対的な考察においては、絶対的形式における複数のモナドは、このモナドの純粋自我主観が原創設する能動性によって絶対的に結合されている。他方においては、それらモナドは、その受動的基盤に関して、その絶対的結合をもち、受動的形式における絶対的相互規定をもっている。この受動的形式とは、すなわち絶対的かつ受動的な因果性である・・・・。」(275頁)

R 「複数のモナドの交流それ自体も、基づけられた発生の本質法則をもち、意識的な交流、すなわち社会的共同体(絶対的なるもの、すなわちモナド的なものへと移されている)は、その歴史および歴史の本質法則をもっている。」(276頁)
R-2 「複数のモナドが共可能的であるのは、それらが発展の法則にくまなく支配され、この法則にしたがって一義的に規定された一つの全体、すなわちそのすべての位相が予描されているような共同体的発展の一つの全体としてのみだということ」、これを示すことが、当面の課題である。
R-3 「この共同体的発展は、
[1]世界がその発展において客観的世界として構成され、
[2]客観的な生物学的発展が起こり、それとともに動物と人間が客観的存在として登場し、
[3]人間が真の人類史を構成するように努力することに向けて客観的に発展していく
というようにしてのみ可能である。」(276-7頁)


一五 モナドの間の調和:原典タイトル「モナド論。モナドないし心の間の調和(1921/22年頃)」(全集第14巻、付論36)(278-281頁)
A「すべての自我主観にとって同一の世界が存在する世界であり、したがっていずれの自我主観にとっても認識可能な世界であることができるために、いずれの自我主観も超越論的能力を有しており、また他のすべての自我主観と共有していなければならない。」(278頁)
B 「しかし、詳細に見てみるなら、たんに同等の一般性として超越論的能力が前提とされているだけではない・・・・。」(279頁)
B-2 「前提とされているのは、事実上のヒュレー的所与の相互調和であり、あらゆる主観へと広がるヒュレー的所与が法則的に互いを秩序づけているという事態である。」(279頁)


一六 実体とモナド、モナドは窓をもつ:原典タイトル「実体とモナド。モナドが自然に関してもつ機能的連関とそれがそれだけで存在すること。個々のモナドの自立性。モナド全体の絶対的自立性(1922年)」(全集第14巻、付論37)(281-289頁)
C 「それ自身によって存在することとは、すなわち『具体的』な主観性であるということである。」(282頁)
C-2 「それ自身によって存在するとは、実体である(絶対的にある)ということである。」(282頁)
D 「個別のモナドとしての一つの実体は、すべての実体との調和のうちにある。」(283頁)
E 「自然因果性・・・・は、すべての実体にとっての唯一の因果法則性である。」(283頁)
E-2 「因果性とは、時空のうちで『延長』していて、法則にしたがって時空のうちで展開するような変化の間の依存関係なのだから、モナドの間には因果性は存在しない。」(284頁)
F 「モナドとしての実体はそれぞれ、みずからのうちに、人格性の原理ないし中心である自我を担っている。」(286頁)
G 「モナドは他者からの影響を受け入れるための窓を持っている。それは感情移入という窓である。」(287頁)
G-2 「絶対的に自立的なのはモナドの総体だけである。」(288頁)
G-3 「モナドの本質に、自分自身のうちで新たなモナドを構成する可能性が属している。」(288頁)
G-4 「『複数のモナドのなかのモナド』ということで、多数のモナドの・・・・絶対的に自立的な結合を考えるなら、私たちは『複数のモナドのなかのモナド』だけが(絶対的に自立的なモナドとして)デカルト的な意味でより高次の実体概念を満たしうる・・・・。」(289頁)


一七 モナドの個体性と因果性:原典タイトル「複数のモナドの志向的相互内属と実質的相互外在。モナドの個体性と因果性(1931年10月後半)」(全集第15巻、付論22)(290-304頁)
H 「現象学的還元を通じて、私が私の超越論的自我および現象としての世界を・・・・発見したとき・・・・、私はまた、私の存在構成からして存在するものとして、超越論的他者たちをも発見した・・・・。」(290頁)
H-2 「超越論的他者たちは・・・・『私と超越論的に共存している』・・・・。」(291頁)
H-3 「すなわちそれは、・・・・私の超越論的現在と他者の超越論的現在との共存・・・・等々という妥当意味である。」(292頁)
H-4 「私の構成からして妥当し存在しているあらゆる他者は、一つの超越論的時間性のうちにある。」(292頁)

I 「私のうちでは、構成のある種の間接性において、《他者が世界を構成すること》も構成されており、世界の同一性が構成されている。」(292頁)
I-2 「私にとって存在するあらゆるものは、私の構成的意味形成体と妥当形成体であり、究極的には私自身もまた、私自身にとって自己構成から存在している。」(293頁)

J 「私にとって一般に存在するものとしてすでに妥当し、ひきつづき存在するものとして妥当するようになるものを辿っていくなら、私は普遍的な共存をもつ」。(293頁)
J-2 「この普遍的共存は、超越論的還元のうちでは、絶対的な超越論的間主観性として示される」。(293頁)
J-3 これに対して「絶対的なものを蔽い隠す素朴な自然性のうちでは、[この普遍的共存は]あらゆる自我主観の開かれた宇宙として示され、これらの自我主観は、みな同時に共存し、・・・・一つの世界のうちに生きている。」(293頁)

K 「存在する絶対的な『世界』は、実は普遍的で絶対的な間主観性なのだ。」(293-4頁)
K-2 「世界化において・・・・自我主観は『心』となり、・・・・身体をともなってのみ、具体的に実在的となる。」(294頁)
K-3 「超越論的には、私たちは複数の超越論的自我主観の超越論的な共存をもっており、これらがここでは、みずからの超越論的生をともなった具体的な『モナド』として理解される。」(294頁)

L 「絶対的個体性」とは「みずからの時間において反復されるようなものとしては考えられない個体的なもの」である。(296頁)
L-2 これに対し「みずからの時間においてある個体的なものは、同等性という形式において反復されうる。」(296頁)
L-3 「モナドは、絶対的にそれ自身において、それだけで存在している」(299頁)
L-4 「すべての世界的具体的な実在物が細分可能であるのに対して、モナドは文字通りの意味で個体[不可分者]なのである。」(300頁)

M 「実在物の因果性とモナドの因果性との根本的本質的な相違」(301-2頁)
M-2 「一つのモナドから何かある一部分が切り離されて、他のモナドのなかにその一部分として埋め込まれたりすることはできない。・・・・いかなるモナドも、そこをとおってモナド的『質料』が飛び込んでいったり飛び出してきたりしうるような窓をもたない。」(302頁)

N 「伝達がなりたつのは、次のような場合においてである。たとえば一方の人の思考のうちで、何か理念的なもの、判断や思想が生じ、それにしたがって相互的な因果性によって、
[1]他の心ないしモナドのうちで、純粋にそのうちで経過する第2の思考が推移し、この第2の思考のうちで、同一の思想、同一の判断が生じ、
さらに[2]一方は他方が伝達しているということを意識し、またその逆も生じている[場合である]。」(303頁)

《評者の感想1》
① ここで「相互的な因果性」とは、客観化されたモナドつまり「心」(294頁)が、「身体」を動かすこと、「人工物」(A. シュッツ)を産出することに基づく因果性である。
② どのようにして「人工物」から、同一の思考、そして思想・判断が、他の心に移される(推移)のか、説明が必要。
②-2 また「伝達」がなされたと、どのようにして両者が確信するのか、説明が必要。

《評者の感想2》
① 「複数のモナドの因果性」とは、「コミュニケーション(伝達)」のことである。(参照303頁)
② 超越論的間主観性とは、私と他者の超越論的時間の「合致」のことである。「一つの超越論的時間性」!(292頁)
②-2 「双方の時間は、共存が及ぶかぎり互いに『合致』する。」「私の超越論的現在と他者の超越論的現在との共存」等々。(292頁)


一八 始原的自我とモナド論:原典タイトル「ある夜の対話。自分の自我と別の自我との存在を含む始原的な流れることの絶対的『自我』への還元。始原的我(ego)たちの無限性。モナド論(1933年6月22日)」(全集第15巻、テキスト33番)(304-320頁)
A 「現象学的な態度と方法において、私の心的内在は超越論的内在に転化し、私の心的に内在的な流れる現在は、私の絶対的な超越論的現在へと転化する。」(311頁)
A-2 「しかし私が現在や過去について―もろもろの時間様態について語っているとき、私はまだ究極の超越論的なもののうちにはいない。究極の超越論的なものは、流れつつ生き生きした現在と呼んではならないものである。」(312頁)
A-3 「反省しつつ、私は流れることをさっとつかむ。しかし私は、すでに同一化を行っており、すでに私は、流れる原存在のうちで遂行される統一形成と時間化にしたがっており・・・・、そこで私はふたたび絶対的反省を行うが、またしてもすでにこの能動性にとりこまれてしまっている。」(313-4頁)
A-4 「もちろん、生は能動的生であるが、素朴性の最終的な克服は、・・・・あらゆる能動性を禁止することである。」(314頁)
A-5 「能動性は、・・・・みずからの背後に生の環境(milieu)をもっていて、この環境は能動性のうちでは決して目にとまることはない。」(314頁)
A-6 この生の環境(milieu)こそ、「始原的な自我の始原的生」である。「このうちに、あらゆる時間化する働きが『存している』。」(314頁)すなわち「流れることという絶対的始原的な先存在」。(315頁)

B 「他者たちは、自我の固有性のうちには含まれていない(彼らはもちろん固有な自我とは違った自我たちであり、それぞれが自分自身の固有性のうちにある)が、しかし始原的現在の自我としての、自我の絶対的存在のうちには含まれている。」(317頁)
B-2 「始原的『我』(ego)は、互いとの関係においては他者たち(アルテリ)であるような本来的な我(ego)たちを担っている。」(318頁)

《評者の感想》
① 「始原的な自我の始原的生」あるいは「流れることという絶対的始原的な先存在」とは、いわば有一般と呼ぶべき世界であって、その有一般と呼ぶべき世界は、「超越論的自我たち」(モナド)を含み、それら超越論的自我たちによって、みずからを開示、現出する。
①-2 それら超越論的自我たちの調和的作用によって、「絶対的始原的な先存在」(いわば有一般と呼ぶべき世界)は、一方で、「同一の自然」(実在する世界)としてみずから開示、現出し、他方で、そこに含まれた「超越論的自我たち」については、その構成した意味的領野を、身体を伴った「心」(自我を含む)として開示、現出させる。(「心」は動物たちも持つ。)
①-3 「絶対的始原的な先存在」(いわば有一般と呼ぶべき世界)は、自他に共通の唯一の「同一の自然」としてだけでなく、同一の「理念的対象性」(一四第4節)としても、みずから開示、現出する。

② さて、ここで「心」とは何か? 「心」は、どこにあるのか?この問いへの答えが、必要である。
②-2 心身問題は「仮象」である。私たちは、実際に、自然的態度の存在措定を括弧にいれれば、誰もが超越論的自我の領野としての「心(超越論的領野)」を持つ。すなわちそれが本来の世界そのものである。ドクサ(自然的態度の憶見)のうちに住むと、物理的世界のみが、本当の世界(超越)と思ってしまう。そして「心」はその超越者を映す「像」と思ってしまう。
②-3 「心」と呼ばれるのは、自然世界=物理的世界を別とすると、他なる「心」(狭義の心)が、相互に見えないからである。
②-3-(1)存在措定を括弧に入れれば(エポケー)、あらゆる私の体験の中心には身体物体があり、他者とは、私と他者の身体物体の接触をとおしてのみ、出会いうる。かくて身体物体が属す物体の世界が「同一の自然」となる。
②-3-(2)超越論的自我の領野としての「心(超越論的領野)」が、「同一の自然」とそれ以外の部分である「心」(狭義の心、身体に宿る)に分裂する。そして「心」が身体に宿ると言われる。
②-4 自然世界=物理的世界は、どの「心」にとっても、同一である。ただし個々の「心」にとって、自然世界はパースペクティヴをもって現れる。
②-5 「心(超越論的領野)」であれ、「心」(狭義の心、身体に宿る)であれ、「心」に現れている一切は、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものである。世界が「心」に映っているのではない。すなわち「心」は世界の「像」ではない。個々の「心」にとってパースペクティヴをもって現れる自然世界も、「像」ではなく、世界そのものである。
②-6 例えば、「身体物体」に属する眼・視神経システムと、「見える」という出来事は、世界(=有一般と呼ぶべき世界)内の出来事として、相互に連関する。
②-7 すでに述べたように、超越論的自我の領野としての「心」が、「同一の自然」とそれ以外の部分である「心」(狭義の心)に分裂する。すなわち、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものが、「同一の自然」とそれ以外の部分である多数の「心」(狭義の心)に分裂する。「同一の自然」に属す「身体物体」の一部である脳システムも、多数の「心」(狭義の心)も、本来、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものに属し、したがって互いに連関する。

③ 世界は「同一の自然」のみではない。多数の「心」(狭義の心)も、世界そのものである。「心」(狭義の心)は、それ自身また、パースペクティヴをもって現れる自然世界=物的世界(心1)と自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)からなる。

④ では「心」は、どこにあるのか?そもそも、一人一人の人が、見る、触れる、聴く、嗅ぐ、味わう、体の内に感じるなどのパースペクティヴのもとにある物体世界(心1)、さらに自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)が、「心」(狭義の心、身体に宿る)である。内容的には、「心」(狭義の心、身体に宿る)と、その存在措定を中止(エポケー)した「心(超越論的領野)」とは、同一である。
④-2 私たちは「心」(狭義の心、身体に宿る)の外に出ることができない。確かに、「同一の自然」はあるが、それは理念であって、私たちが知るのは見る、触れる、聴く、嗅ぐ、味わう、体の内に感じるなどのパースペクティヴのもとにある物体世界(=自然)(心1)である。さらに自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)はまさに普通に言われる「心」である。これら以外のどこに世界があるのか。私たちにとって世界=「心」である。「心」はどこにあるのかと問われたら、この世界「そのもの」であるというべきである。
④-3 ただし私が出会っている世界は、世界の一部にすぎない。他我の身体の向こうに広がる世界(「心」)について、私がそのものとしてつかみうるのは、ほんの一部である。他我の身体物体のみ、私は、そのもとしてつかみ=出会いうる。
④-4 だからと言って、「『心』がどこにあるのか?」との問いへの答えがないわけではない。私の「心」は、ここにある。私の「心」は、「世界そのもの」であり、まさにここにある。世界がここにおいて、開示・現出している。他我の身体物体は、私の「心」であって同時に他我の「心」(=「世界そのもの」)である。他我の世界(心)のうち、パースペクティヴのもとにある自然(心1)は私から見てわかりにくく、自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)については、極めて分かりにくい。他我の「心」は、多数あるが、だが、いずれも、常識に反するように見えるが、実は世界そのものである。
④-5 世界そのものが、「同一の自然」、各人のパースペクティヴのもとにある自然(心1)、自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)として広がっている。すなわち、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものが、「同一の自然」、多数の各人の「心」として、みずからを開示し、そこに現出している。

⑤ 「脳」は「心」でない。「心」は世界であり、地平的には「絶対的始原的な先存在」としての世界(いわば有一般と呼ぶべき世界)にまで至る。世界は連関し、脳科学は、この世界の連関を明らかにする。「脳」と、心1(パースペクティブのもとにある自然)との関係、および「脳」と心2(自発性、感情、想像、夢など再狭義の心)との関係を明らかにする。
⑤-2 「脳」は、身体物体の一部であり、「同一の自然」に属す。「脳」は「心」でない。
⑤-3 「同一の自然」(「脳」を含む)および多数の「心」(狭義の心)は、ともに「絶対的始原的な先存在」としての世界(いわば有一般と呼ぶべき世界)に属す。かくて、「同一の自然」(「脳」を含む)および多数の「心」(狭義の心)は、連関する。
⑤-4 例えば、目(脳システムの一部)をつぶれば、「見える」という出来事はなくなる。脳のある部分が破壊されれば、「感情」という出来事が壊れる。「脳」と「心」は連関するが、「脳」が「心」なのではない。

⑥ 私の「心」から掴みがたい他我の「心」は、すべてが謎なのではない。他我の身体は「同一の自然」に属し、そして「同一の自然」は、私の「心(超越論的領野)」に属すと同時に他我の「心(超越論的領野)」にも属すから、自他の身体物体の直接接触においては、まさに自他の「心(超越論的領野)」が直接出会っている。
⑥-2 というよりも発生的には、私の身体物体が世界の現出・開示(=心=超越論的主観性)であり、他我の身体物体も世界の現出・開示(=心=超越論的主観性)であることから、両身体物体の接触において「同一の自然」が構成される。
⑥-3 「同一の自然」に属す私の身体物体と他我の身体物体は、「心」(心1・心2からなる狭義の心)と連動する(広義のキネステーゼ)。ここから、他我の「心」(心1・心2からなる狭義の心)の内容の推定が可能となる。さらに身体物体によって産出される「人工物」としての音声言語・文字言語が、私の「心」と他我の「心」の諸体験の共通の重なり(言語の共通意味)を可能とするするペグとして、他我の「心」の内容の推定を可能にする。一般に、一切の「人工物」は、他我の「心」の内容の推定を可能にする。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

.HUSSERL『間主観性の現象学Ⅲ その行く方』第1部自我論(ちくま学芸文庫、2015年)

2016-01-13 22:11:09 | Weblog
まえがき(山口一郎)
A 「間主観性」の問題をあつかう方法論には「鋭さと厳密さ」が必要である。デカルトによる「我あり」の明証性が、出発点となる。(山口一郎)
《感想1》
① 触れれば、現実に、ここに私の身体があり、そこに物があり、物が私の身体にぶつかれば痛いし、見える限り事物が広がり、また多くの他者たちが居て、つまり世界は存在すると言われる。
①-2 だがよく考えてみれば、この私の意識なしに、世界の存在を確かめることは出来ない。私の意識なしに世界が現れることは決してない。この私の意識においてのみ世界が現出している。私が死ねば、世界は現出をやめる。
《感想2》
② 私の予想としては、世界は、私の死後も存在し続ける。だが私の死後、世界は、どう存在するのか?世界は他者たちの意識においてのみ現出する。私と同様の他者たちの意識なしに、世界の存在は確かめられない。
《感想3》
③ 私や他者の意識なしに、世界が存在するのか?
③-2 ここで「自発性・感情としての私の意識(自我)」と「(自発性・感情としての自我も含みつつ)世界の現出としてある私の意識(モナド)」を区別する必要がある。「私の意識」という語は、「自我」をさすこともあれば、「モナド」(モナドは自我も含むが自我より広い)をさすこともある。デカルトが「我あり」と言う時、問題になっているのは「モナド」であって、「自我」ではない。
③-3 他方で、そもそも「意識」という語は、すでに、「意識」と別に自立的な世界(「客観的世界」=「外界」)が存在することを前提する。「意識」は自立的に存在する世界(「客観的世界」=「外界」)の「像」とされる。
《感想4》
④ 今や③は言い換えられる。「モナド」(日常的用語的には意識)としての私や他者なしに、世界は、「客観的世界」(=「外界」)として存在するのか?言い換えれば、「モナド」は客観的世界の「像」なのか?
④-2 世界は「モナド」としてのみ現出する。「モナド」とは世界そのものであり世界現出そのものである。「モナド」は客観的世界の「像」ではない。「モナド」は、世界そのものである。「我あり」の明証性とは、「モナド」としての世界現出の明証性(疑いえないこと)である。
《感想5》
⑤ 「モナド」としての私が、「モナド」としての他者と出会うと、“その時、同時に”、日常用語的な「客観的世界」が意味的に構成される。 ⑤-2「モナド」としての私が、どのように「モナド」としての他者に出会い、どのように「客観的世界」が間主観的に意味構成されるかを明らかにすることが、「間主観性」の問題の根本である。
⑤-3 「客観的世界」は、根本は、物理的世界である。「客観的世界」は、本来、「客観的物理的世界」である。
⑤-4 客観的とは、かくて間主観的と同義である。「モナド」は主観性であるが、同時に、世界そのもの、世界現
出である。「モナド」の外という意味で、自立的な客観的世界は、存在しい。
⑤-5 「言葉」とは、本来、間主観的な物(音声)である。この音声=言葉の「意味」とは、本来、この音声を含んで重ね合わされた諸世界体験のことである。

B 『間主観性の現象学 その方法』:意識の明証性を出発点にするフッサール現象学は、「私の心に伝わっているあなたの心の《ありのまま》」が、どのように私の心に育ってきたのか、その《ありのままの》意味そのものの「生成の深み(生命としての無窮の過去地平の深み)」を問う発生的現象学へと展開していく。

C 『間主観性の現象学Ⅱ その展開』:「自・他のありのままの与えられ方」が、「自・他の身体の与えられ方」として解明される。自己の身体と他者の身体のあいだには、いつもすでに、「心と身体のつながり(連合)」が、受動的綜合としての「対化」をとおして伝播し、覚醒しあっている。「対化」による間身体性の生成。
《感想》
① 他者との直接的出会い、つまり自己と他者との身体的接触によって、間主観性が成立すること、間主観的な物理的世界が成立すること。これが「間身体性」の意味である。
①-2 間主観的世界は、身体の直接的接触を核として、そこから(身体が物であるために)物理的地平として広がるという様式で成立する。
② 身体の直接的出会いが、心の出会いの基礎である!
③ 「心と身体のつながり(連合)」、つまり身体が心(超越論的主観性)の領野であること(これが日常的には「心が身体に宿る」と呼ばれる)が、受動的綜合としての「対化」をとおして伝播するとしても、この伝播を強める契機は、喜び・満足などの感情の共感であろう。

D 『間主観性の現象学Ⅲ その行方』:第1部自我論、第2部モナド論、第3部時間と他者、第4部他者と目的論。
D-2 間主観性の行く方が、間モナド的構成による「普遍的目的論」として表現される。
D-3 「自我とモナドと時間」の関係を考察し、いかなる懐疑によっても疑いきれない普遍的な人間性である「人格的愛と理性の目的論」を原理的に論証する。
D-4 主観と客観の二元性を前提にした観念論と実在論は、他者論と目的論に限界を持つ。

E 『間主観性の現象学Ⅲ その行方』(2):自我とモナドは異なる。
E-2 植物と動物の「モナド」はあるが、植物と動物の「自我」はない。植物と動物には「我あり」と意識される自我はない。「自我」は、「モナド」の発展の1段階である。
E-3 「自我」の意識を前提にする観念論:植物や動物のモナドも含んだ間モナド的目的論は語れない。
E-4 客観としての外界の実在物を前提にする実在論:モナドを語れず、間モナド的目的論を語れない。
E-5 「モナド」は、それ以上分割できない、広い意味での「心」である。フッサールはモナドを「志向性」として捉える。

F 『間主観性の現象学Ⅲ その行方』(3):フッサールが自我とモナドの違いに気づいた理由。
F-2 「たった今というときの過ぎ去りつつある過去の意味」は、《自我の働き(能作)を含む能動的志向性》である想起によっては、その成り立ちが論証できない。
F-3 それは、《自我の能作をまったく含まない受動的志向性》としての過去把持によって初めて論証可能となった。

G 『間主観性の現象学Ⅲ その行方』(4):間モナド的コミュニケーションは、「衝動の目的」と「理性の目的」という二つの階層によって目的づけられている。
G-2 衝動の目的は、自我の働き以前の受動的志向性による受動的感情移入にもとづく。
G-3 理性の目的は、能動的志向性による能動的(本来的)感情移入にもとづく。
G-4 衝動の目的と理性の目的は、相互に影響し合う。「人格的愛と理性」は、《親子関係という「生きる動機」が育まれる豊かな土壌に根づくこと(衝動の目的)》で、《より豊かな人間性の実現に向けた人格共同体の形成(理性の目的)》をめざす理念となっている。


第1部 自我論(エゴロジー)
一 自我と自己:原典タイトル「基づけられない統一としての自己(1921年6月)」(全集第14巻付論3)(17-22頁)
A 自我はその体験流の中を生き抜いており、この流れそのものと一つになって、具体的な「自己」なのである。(19頁)
A-2 私が自己について語るとき、私は「自我に向かっており」、しかもまさにその生の自我としての自我に向かっている。そして、「生そのものに向かう」ことは、それとは別の方向である。(19頁)
《感想》
① フッサールがここで言う「自我」は、評者が『心は何でできているのか』の《評者の感想》で述べた「心2」にあたる。それはもっとも広義の自発性であり、フッサールの「志向性」に相当する。「自己」は「心1」にあたり、超越論的主観性の領野全体である。
② ヒュレーは意味構成の材料であり、それを材料にノエシスが意味構成物(ノエマ)を構成する。しかしノエマは、世界の「像」でない。ノエマは、意味構成物であるが、世界の「像」ではなく、それ自身、「世界」である。
②-2 超越論的主観性(モナド)は、まさしく世界そのものである。
②-3 要するに、世界が、ヒュレー、ノエシス、ノエマに分化し、世界が展開する。そしてこの世界は、「心」そのものである。
《参考》
●原注(*2) 「自我」と「自己」が区別される。
●訳注[5] 「現出(Erscheinung)」の用語が、「射影(Abschuttung)」「パースペクティヴ」「アスペクト」といった用語とともに使われる。
●訳注[6] 「触発(Affizieren→Affektion)」は受動的綜合の分析で重要な概念である。
① 受動的綜合の働きとしての「連合」によってあらかじめ構成された時間持続の統一体が、「自我極」に働きかける「触発」する力によって、自我がその触発するものに注意を向ける(「対向」)。
② 連合によって生じる意味内容の触発する力の程度は、自我の持つ「本能的関心」や「理性的関心」との相互の意味の覚醒(「相互覚起」)によって決まる。
●訳注[7] ① 「内在的時間(immanente Zeit)」=「内的時間意識(inneres Zeitwewustsein)」。
② 「客観的時間(objective Zeit)」が現象学的還元をへて、内的意識に与えられているがままを、その現出の仕方にそくして記述分析することで、「内在的時間」は解明される。


二 自我に対する外的態度と内的態度:原典タイトル「自然に即した統一としての心、独我論的人格、人間的人格、ならびに人間という心理物理的統一の構成の段階(1921年頃)」(全集第14巻、付論8)(22-36頁)
〈内容〉
①「客観的世界」は感情移入をとおして初めて構成される。
② 感情移入をとおして初めて、客観的周囲世界のたんに自我論的主観から、世界「内の」客観化された主観が生じる。

《参考》
●原注(*3) ① 純粋に内的に構成されるのは「極としての自我」である。②「習慣的自我」は、私の中で構成された(原本的な)経験世界に関係づけられており、この経験世界は私の身体をめぐって中心化されており、この身体を通じてあらゆる経験や外的行為が遂行される。
●訳注[14] ①フッサールの超越論的現象学は、その最初の対象は「私の超越論的な我(エゴ)」であり、この学問は「純粋な自我論(Egorogie)」として始まり、「一種の独我論であるかのように見える」。②しかしそれが一貫して遂行されると、「超越論的な間主観性の現象学へと導かれる」。(『デカルト的省察』浜渦訳64頁)③すなわちフッサール現象学は、デカルト的・独我論的な「自我論(Egorogie)」からライプニッツ的多元論的な「モナド論(Monadologie)」へと展開する。
●訳注[21] Umwelt:周囲世界または環境世界と訳す。
●訳注[31] ①カント哲学の認識論では、経験に先立ち、経験を可能にしている形式的条件が「アプリオリ」と呼ばれる。②フッサールは、カントの形式的アプリオリを時間論において乗り越える。「時間持続を可能にするアプリオリ」を、過去把持の縦軸に描かれた交差志向性における「時間内容の成立」に見る。時間内容の成立なしに、形式としての時間は成立しえない。(『内的時間意識の現象学』第39、40、43節)


三 自我の複数化の可能性:原典タイトル「私の意識流の虚構的変更と複数の自我の可能性(1921年頃)」(全集第14巻、付論18)(37-52頁)
〈内容〉
①私の意識流の虚構的変更の問いに属する本質法則的な条件、あるいは体験流の統一に属しうる複数の体験(再想起、想像!)の共存と継起に関する本質法則。
②地平論の基本的問題。地平は特定の体験とみなされうるのか、地平同士の間には本来の意味での抗争はないのか、等々。
③問題:どの自我も、その体験流の任意の位置において、あらゆる可能な事柄を考えることができる。任意の事柄への虚構的変更。

〈小表題〉
(1)自我の同一性と、自我が別様であることおよび自我の展開のさまざまな可能性
(2)同一の自我の多様な(相互に両立不可能な)可能性を虚構的に変更することによる自我の現実性の分離
(3)他方で多数の自我の可能性
(4)後からの補足
(5)主観的存在の、とりわけ「私はそう考え、行い、動機づけられていたかもしれない」といった可能性と不可能性に関する錯誤
(6)地平と本来的空虚表象の理論について。たんなる地平の間では争いは生じず、地平は見せかけの地平に混ざり合う、等々
(7)意識流の構造の様々な層。自然の層、高次の精神性の層。自然の層における虚構的変更と、より高い層における虚構的変更

《参考》
●原注(*9) 立ち現れ(Phantom)は、実在でない。
●訳注[42] ヒュレー(Hyle→hyletisch)① 『イデーンⅠ』でのノエシスとノエマの区分では、ヒュレーはノエマに属する対象的契機でないので、意味づけを遂行するノエシスに属するとされる。ヒュレーそのものは、いかなる志向も含まず、意味づけのさいの材料である。② なお、後期の発生的現象学では、受動的綜合としての連合においてあらかじめ構成されたヒュレー的契機が、自我を触発するとされる。

《感想》
① ヒュレーは意味構成の材料であるが、ノエシスにより構成される意味構成物(ノエマ)は、世界の「像」ではない。
② 超越論的主観性(モナド)が、まさしく世界そのものである。
②-2 世界が、ヒュレー、ノエシス、ノエマに分化し、世界が展開する。ノエマは、意味構成物であるが、世界の「像」ではなく、それ自身、「世界そのもの」だというべきである。

●訳注[44] 原印象(Urimpression)① フッサールによれば、時間意識は、(過去)把持、原印象、(未来)予持の3つの位相からなる。② 原印象は、「持続する客観」と、「客観を構成する意識」自身が、そこから産出される、あらゆる存在の源泉点である。③ しかし原印象は、抽象的に取り出された極限であり、具体的には、(過去)把持と(未来)予持という背景(地平)に囲まれた「生き生きした現在」(Lebendige Gegenwart)のうちにある。
●訳注[45] 合致(Deckunng):意味内容の合致。Ex. 1. 内的時間意識における原所与(原印象)と(過去)把持的変容との意味内容(時間内容)の合致。Ex. 2. この時間内容の合致とは、「類似性と対照(Kontrast)」による原印象と(過去)把持されている空虚表象(ないし空虚形態)との相互覚起(連合)による意味内容の成立である。


四 絶対的事実としての自我:原典タイトル「私が別様である可能性の宇宙は、自我一般の可能性の宇宙と合致する。自我は生成も消滅もしない(1922年1月7・8日)」(全集第14巻、付論20)(52-62頁)
A 私は、私が存在することの明証、私が必然的に存在することの明証をもっている。
A-2 一般に、自我が存在しないことも考えられない。
A-3 また私は、《いかなる自我にとっても自我が存在しないことは考えられない》という一般的明証をもっている。
《感想》ここで、フッサールは「自然的態度」の説明を行っている。

B 私が、現にそうである通りの私であるのは、「たんなる事実であり、偶然である」。私は、「私は別様でありうる」との明証を持つ。
B-2 「私は自分が別様であると考えることができる。」

C 「自我は・・・・他の自我が存在しないと考えることができるのだが、自分自身が存在しないと考えることはできない。」
C-2 「それというのも、別の主観は感情移入を通じてのみ私に与えられることができる・・・・からである。」
《感想》
① この場合、「他の身体性」と「私の身体性」との「類比」が前提となる。とすれば、ロボットは機械なので、私の身体性との「類比」、つまり同じ種類のものとの確認が成立しないので、心=「主観性」は持ちえない。
② ロボットが極めて精巧にできていて、たんぱく質を素材とし、細胞からなり、斬れば血が出て、皮膚、眼球、唇、筋肉、等々も私の身体と同じようなら、そのロボットは、心を持つ。フッサールの議論に従えば、そうなる。③ これでは、私の身体と全く違う異様な身体をもつ宇宙人、あるいは機械としてのロボットやコンピューターは、心を持ちえない。
③-2 しかし、異様な外見の宇宙人や明白に機械にすぎない物体も、コミュニケーションが可能なら、また共感が可能なら、そうした相手にも心があるはずである。何よりも、コミュニケーションとはいかなるものか、共感とはいかなるものかが、探求されるべきである。

D 「いかなる自我も、自分自身が存在しないと考えることはできない。」(→A-2)「私は絶対的で末梢不可能な事実である」(55頁)。

E そもそも「意識というものは始まったり終わったりすることはない。」「体験流としての意識」、あるいは「内在的時間の形式における存在の場としての意識」!(56頁)
E-2 「いかなる想起地平も持たない最初の過去の体験」はない。「先立つ無」と言っても、それは「やはり何かであって、内在的時間形式の積極的充実の一種である」。
E-3 「いかなる予期地平も持たないような最後の体験」はない。「何もやって来ず、その先に何もない」と言っても、「生きて認識する主観」は、「そこにある何か」を思いめぐらして「何もない」と言っている。
E-4 「(夢見ることなく全く眠っている)目覚めていない自我」は、機能していないが、無ではなく、流れと不可分である。

F かくて、「現象学的還元が私たちに純粋に与えるような純粋なモナド的主観性としての自我は『永遠』であり、ある意味で不死である。」(58頁)
《感想》「生きている」こと(=有)のうちに、死(=無)は含まれないということである。有は有であって、無は含まない。当然である。

F-2 「生まれたり死んだりできるのは、まさに自然に即したものだけであり、自然の一員としての人間だけである。」
F-3 「純粋なモナド的主観性としての自我」は不死であり、「自然の一員としての人間」のみが死ぬ。

G 「無限に死んでいる自我」は、認識可能でない。考えられないのだから、存在しない。
G-2 「生に続く夜」としての死んだ自我は、認識可能である。かつて「自らを表出し、身体によって表現したことがある」死んだ自我は、「無限に死んでいる自我」ではない。
《評者の感想》:自我とは自発性の源泉のことである。自発性を、フッサールは「志向性」と呼ぶ。自発性の源泉は「自我極」と呼ばれる。
H 多数の自我が存在していながら、一つの共通の自然を構成していないということは、考えられない。

《参考》
●訳注[49] 明証性(Evidenz):明証性とは、「どのような疑いも排除するような完全な確実性において、そのもの自身を捉えること」である。明証性には「疑いの余地のない(apodiktisch)明証性」と「十全的(adäquat)明証性」がある。(『デカルト的省察』38頁以下)


五 合致における他者:原典タイトル「外的身体による『あたかも私がそこにいるかのように』という表象の覚起と、その充実(この『かのように』という解釈の確証)。合致(鏡映)における私の自我の準現在化的変様としての他者(1927年2月頃)」(全集第14巻、テキスト30番)(62-70頁)
A 「私の身体的物体(Körper)に似た物(的身)体」と、自我の一つの変容としての他我(alter ego)。
B 「他の主観性は私の主観性と『合致』することによって、その(=私の主観性の)うちに『鏡映』している。」


六 自我の類比体(Analogon)の体験:原典タイトル「原本的な(original)経験領分における空間の構成。外的運動が自己運動へと関係づけられていること、およびそれによって可能になる自我の類比体の経験(1927年2月)」(全集第14巻、テキスト36番)(70-91頁)
C 「そこには物(的身)体があって、その物(的身)体はまさしく、私ではないが、私の類比体(Analogon)がその身体のうちで正確に支配しているかのように示されている。」(91頁)


七 共存する他者の構成:原典タイトル「第5省察に対して―『我(ego)』による『形成体』としての原初性における実在の構成と、自我論的な形成体としてではなく、すべてそのような形成体を超越し、私の我(ego)と共存する他者の構成(1931年、ないしはそれ以降)」(全集第15巻、テキスト12番)(92-96頁)
D 「他者は、私自身に固有な仕方で住み込んでいる『形成物』として構成されるのではない。」(94頁)
D-2 「存在するものとして各人は、その意味を自分自身からもつと同様に、どの他者に対してもその意味をもっている。」(95頁)
D-3 「複数の超越論的主観の共存や、それら主観の内在的主観の共存、またそれらの原初性の共存は、何ら空虚な(厳密に言えば、考えられないような)《ともにあること》ではなく、《相互に-存在すること》である。」(96頁)


八 万人にとって同一の世界の構成:原典タイトル「正常な人間共同体および相対的な正常性と異常性の段階秩序。万人にとっての同一の世界という問題」(おそらく1931年夏)」(全集第15巻、付論13)(96-117頁)
E 「私は学者である。私は世界についての学問、世界についての理論を[そのまま]学問とみなさない。純粋に経験に基づく世界が先行している[からである]。」(99頁)
E-2 「物体の世界の経験、人間と動物の世界の経験、植物の世界の経験というように、もっとも広義の意味での自然の経験(おそらく古代の自然(ピュシス))」(100頁)
E-3 「誰もがあらゆる他者を同じ経験世界の共同主観として経験する。」(104頁)
E-4 「その意味での人間共同体は、正常な共同体である。」(105頁)
F 「人間は経験の進展をとおして自らの相対的な周囲世界を乗り越えることを学び、その世界をよりよく知ることを学ぶ。」(109頁)
F-2 ただし「一つの故郷世界、ないし実践的に閉じられた周囲世界が、有限性のうちに・・・・とどまることもある。」(109頁)
G 「すべての総合的に結合させるべき故郷世界を超えた統一を産出し、あるいは真なる世界を産出するような普遍的経験。」(115-116頁)


九 故郷と異郷、私と他者:原典タイトル「故郷-異郷。私-他者、私たち。私にとって原初的な人間、私の私たち-人間-他の人間-新たな私たち。共通の世界の対応する相対性」(1931/1932年のクリスマス休暇)」(全集第15巻、テキスト27番)(118-135頁)
H 「もっとも根源的な『近くの世界』」が周囲世界である。
H-2 「予描」による「なじまれた地平の拡張」:周囲世界の拡張。
I 「異様な人間と異様な『諸世界』を知ること」。これは「反復されて固有な世界を超えて類比的に拡張される」様式とは異なる。
I-2 しかしどんな理解できない異質なものも、「なじんだ既知のものであるという核は、もっている」。

《参考》① 「身体を支配する自我主観」(126頁)
《参考》② 「物理的な物」=「延長する物(レス・エクステンサ)としての客観」=「空間時間的に実在的な物としての客観」 

J 「私たち(ギリシア人、ドイツ人など)にとって『それ自体第1の』民族的に原初的な周囲世界・・・・は、『神話的』周囲世界であり、もちろん・・・・普遍的なアニミズム[の世界]である。」(132頁)
J-2 「この原初的な周囲世界から、他なる(フレムト)周囲世界への『発見』への道が通じている。」(132頁)
K 他なる周囲世界への無理解に対して、「同一のもろもろの核をきわだたせる道、そしてこうして同一の世界へと至る道」が問われなければならない。(134-5頁)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする