第2部 モナド論(Monadologie)
一〇 自我とモナド:原典タイトル「人格的自我と個体的固有様式。発生と発生において規定されることをめぐる問題。いかにしてモナド的主観は規定され、認識されうるのか(1920または21年)」(全集第14巻、テキスト2番)(153-192頁)
〈内容〉
(1)
① 発生の統一つまり時間を充実する統一としてのモナド。その統一のなかで、必然的な連関が時間充実を貫いている。(153頁)
② 発展の統一としてのモナド。
② モナド的自我の統一。(158頁)
④ モナド的主観性の規定可能性の問い。
(1)-2 充足自由律(160頁)
⑤ なぜ個体は《未来に向けて生成すること》において、まさにこうであって、別様に生成するのではないのかという、「充足理由律」[の問い]。
⑤-2 すなわち、モナド的個体についての特別な認識の仕方についての問い。
⑥ 自我の規定可能性と自由。すなわち個体性。
⑦ 合理的な規則と不合理な規則。
⑧ 理解できることを原理とする人格的自我。
(1)-3 人格的自我、人格的個体性(164頁)
⑨ 人格的自我と個体性。
⑩ 個体性について内的に知られることと、外的に感情移入をとおして知られること(連合的・帰納的な認識に対立する)。(167頁)
⑪ 人格の規定可能性、および人格の起源などの問題。
⑫ 人格の自由。
⑬ 多くの自我の個々の固有性が本質的にことなっていること。
⑭ あらゆるモナドの個体的な規則。
(2) 対象極と自我極についての基本的な描写、機能中心としての自我(179頁)
⑮ 対象極に対する自我極としての自我。
⑯ 機能の中心としての自我。
⑰ 体験の変化によって私の主観性の変移が可能であっても、その体験の変化は、機能の自我としての私を変化させることはない。
⑱ そしてこのような自我の変化の可能性とそのような自我が維持されること(個体性の維持)。
⑲ 分身(Doppelgänger)の問題。
一一 モナドの現象学:原典タイトル「モナド的個体性の現象学と、体験の可能性と両立可能性の現象学。静態的現象学と発生的現象学(1921年6月)」(全集第14巻、付論1)(192-209頁)
A 現象的連関の構成的能作は、モナドのうちで一般に生起しうる。(193頁)
A-2 モナドの個体的統一性と閉鎖性。(193頁)
A-3 モナドは生き生きした統一であり、極としての自我をそのうちに担っている。(194頁)
A-4 すべての内在的なものはたしかに個体的であるが、しかし非独立的に個体的である。独立的であるのはただモナドそれ自身だけである。(199頁)
B 静態的現象学は、構成する意識と構成される対象との相関関係を追求し、発生的問題はこれを除外する。(200頁)
B-2 発生の現象学は、時間流における根源的に構成する生成であるような根源的生成と、発生的に作動するいわゆる「動機づけ」を追及する。
C モナド的個体性の現象学は、発生の現象学を含む。
C-2 より高次のモナドは、より低次のモナドから発展してくる。(201頁)
C-3 あらゆるモナドが論理的に思考する者である必要はなく、あらゆるモナドが道徳的に行為する者である必要はない。(203頁)
D モナドは交流のうちにある。(202頁)
《参考》
●訳注[12] 対向(Zuwendung):自我が受動的に先構成されたものに向かう(注意の眼差しを向ける)こと。「対向」については「触発」が問題にされる。『受動的綜合の分析』を参照。
●訳注[15] フッサール中期、1912年刊『イデーン』の緒論は、現象学的還元は、(1)事実から本質への「形相的還元」と、(2)「実在」から「非実在」への「超越論的還元」の2段階が必要と述べる。
一二 モナドという概念:原典タイトル「『モナド』という概念について。自我の具体的な姿(おそらく1921年6月)」(全集第14巻、付論2)(209-222頁)
[1] 純粋自我=自我極
E 「純粋自我としての自我は、絶対に同一の同じものであり、この時間のあらゆる点に属しているのであるが、とはいっても広がっているわけではない。」(211頁)
E-2 「自我は、その自我の生を作用と触発のうちにもつ。」(211頁)
E-3 「自我とは、・・・・極にほかならない」(212頁)
[2] 具体的自我
F 純粋自我が、「抽象的に同一のもの」であるのに対し、「それ(具体的自我)は、みずからの能動と受動のうちで規定されるものとして、そうあるようなもの[=具体的なもの]である。この具体的な自我は内的経験の現実的自我である。」(212-3頁)
F-2 「具体的自我は[1]内在的時間をとおして広がる同一のものであり、[2]その『精神的』規定内実に応じて、またその作用と状態に応じて変化するものであり、[3]そのうちにつねに絶対的に同一の自我極を担いつつ、 [4] 他方でそれは、その生を、すなわち極において同一的に中心化されている作用の具体的連関を生き抜いている。」(213頁)
[3] モナド的生
G 「自我が意味形成体や主題的統一を産出する」(216頁)
G-2 「意識はすべての[自我による]産出に先立っている。自我とはその普遍的意識にとっての主観である。」
G-3 「意識の統一とそこで把握される志向的体験流の統一は媒体であって、その中で自我が生きており、それは自我の能動的および受動的な関与の媒体なのである。」(217頁)
G-4 「自我という中心は常にそこにあり、それが・・・・目覚めているか、そうでないかにかかわりなく、体験流あるいは意識流はつねに流れている・・・・。」(218頁)
G-5 「体験における普遍的生のこの統一を・・・・私たちはモナド的生と呼ぶ。」(218頁)
一三 自我-意識-対象と裸のモナド:原典タイトル「その一般構造におけるモナド(1921年6月)」(全集第14巻、付論4)(222-231頁)
《参考》
●訳注[35] 「裸のモナド」あるいは「眠れるモナド」とは、非生物の段階のモナドである。もっとも不明瞭、不鮮明な表象能力の段階のモナド。
《評者の感想》:非生物とは、いわば岩石などである。(1)非生物に身体的な境界があるのか?身体的な意味での境界がない。非生物は、大地・天空である。(2)モナドは魂的なもの(体験流・意識流)であるはずだが、岩石、さらに大地・天空に、魂があるのか?アニミズム的・神話的である。
一四 自我論(Egologie)の拡張としてのモナド論(Monadologie):原典タイトル「事物の超越に対する他我(alter ego)の超越。超越論的自我論の拡張としての絶対的モナド論。絶対的世界解釈(1921年1月/2月)」(全集第14巻、テキスト13番)(231-278頁)
〈第1節 自然の超越と他の主観の超越。自我と非我の不可分性。さまざまな内在の概念〉
A 「自然客観の超越は、他の主観の超越、他のモナド的主観性の超越とは、その本質からして根本的に別の事柄である。」(231頁)
《参考》「現出において現出するものとしての同一者、規定可能なX」(234頁)
A-2 「実在物として・・・・近くのうちに与えられているものの超越は・・・・内在の一形式にすぎない。」(235頁)
B 「事物」の超越と別に、「私たちは・・・・動物や人間という超越を見出す。私たちは、他の身体と、事物と一体になった他の主観を、私たちの経験の領分のうちに見出す。」(239頁)
《評者の感想》事物と「一体になった」他の主観(=心)は、一体どこにあるのか?「事物」=「自然」のうちにはない。いわゆる「心身問題」はどう解かれるのか?ここで事物と「一体になった」とはどういうことか?
B-2 「私が、私の身体物体に類似した外的物体を身体として統握する場合には、この他の身体物体は、この類似性によって、『表現』という仕方で共現前の機能を果たす。」(240頁)
B-3 「共現前によって他の自我として措定されるものは、他の内面的周囲世界をともなう完全に他の主観性であるが、この他の内面的周囲世界も自然として、私に経験される自然と同一である。」(240頁)
〈第2節 現出(眺め)の客観性と間主観性の問題〉
《評者の感想》
① なぜ現出が、「眺め」とされるのか?どうして、視覚で説明するのか?
② 物体・身体性、つまり物理的自然にとって重要なのは、触覚ではないのか?現出が「抵抗すること」(触覚されること)として説明したら、どうなるのか?
C 「私が『感情移入』において準現在化した他者の現出は、共現前による準現在化として措定されている。すなわち、それらの現出は現在の現出として措定されていて、仮定的ではなく現実的な知覚として措定されているが、私がもっておらず、他者がもっている現出として措定されている。」(249頁)
〈第3節 主観の存在位階に対して下位に置かれる実在性と理念性の存在位階〉
D 「自然のなかの事物が、心にとっての、すなわち別の主観性および自我主観にとっての身体として・・・・経験される。」(250頁)
E 「主観性の本質に属するのは、主観性において自然が構成されうるということである」:「自然の超越」の構成。(249頁)
E-2 「以上とはまったく別の対象性が、他の自我である。」(251頁)
E-3 「実在性も理念性も下位の存在位階であって、上位にあるのは、《我-思う-思われるもの(ego-cogito-cogitatum)》をともなう主観性の存在位階である。後者が究極にして最高の存在位階であるのか否かは、ここでは、そのままにしておこう。しかしいずれにしても、自我は『それ自身において』存在するのであって、他のものにおいて存在するのではない。」(251頁)
《評者の感想》:フッサールが「(超越論的)主観性」とか「意識」とか呼ぶものは、実は「有一般」としての世界そのものの現出ではないのか?
F 「感情移入の経験においては、私のうちで、他者が告知される。他者は、事物のように原本的な根源性(original)において知覚されるのではない。」(252-3頁)
F-2 「他者は、共現前をとおして、他者としての根源的告知において経験される。すなわちそれは自我として経験され、私ではないし、私の主観性でもなく、私にあい対するものであるようなまったき主観性として経験されるのである。」(253頁)
〈第4節 主観性にあい対する自我の告知と構成的統一体の間主観的同一化。モナドは窓を持つ〉
G 「主観性のうちであい対するものとして第2の自我が根源的に告知されうる」ということは、「主観性の根本的特徴」である。(253頁)
G-2 「感情移入によって共現前する第2の主観性」としての「〈別の自我〉」。(254頁)
《参考》:Appräsentationは、『デカルト的省察』船橋弘訳では「間接呈示」、浜渦辰二訳では「共現前」である。
H 「他の主観性を共現前(間接呈示)によって措定することは、・・・・[私と他者の]双方の提示する現出の統一体を、同一のものの互いに調和する知覚統一体として措定することを含んでいる。」:「現出の構成的統一体としての自然」の[私と他者の]双方にとっての同一性。(255頁)
H-2 「複数として認識されうるすべての主観性は、そのうちに、同一の自然を構成しているのでなければならない。」(257頁)
I また「別の構成的統一体、たとえばあらゆる種類の理念的な対象性、数学的対象、すなわち数や数に関する真理などの統一」の[私と他者の]双方にとっての同一性。(256頁)
J 「それぞれの自我は一つの『モナド』である。だがこれらモナドは窓を持つ。それらのモナドは、別の主観が実質的に入り込むことができないという意味では、窓も扉ももたないが、別の主観は窓をとおして(窓とは感情移入のことである)経験されうるのであって、それは自分の過去の体験が再想起をとおして経験されうるのと同様である。」(257頁)
〈第5節 私のモナドおよび可能なモナド一般への現象学的還元。志向的相関者としての人間と動物〉
K 「世界についての直進的な判断をすべて遮断するとき、私は私のモナドを獲得する。」(258-9頁)
〈第6節 単独的還元と、自然の遮断を使わずに残すこと〉
L 「現象学的還元は、ある種の方法論的目隠しにすぎなかった。」「純粋自我における意味付与と意味そのもの以外の何ものにも効力を与えない。」(262-3頁):「現象学的目隠し」(265頁)
L-2 しかも「私はまず『他の身体』と生気あるものすべてを捨象する・・・・。言ってみれば、私は現象学的還元と並んで、単独の自我(モナド)への単独的還元を遂行するのである。」(263頁)
〈第7節 絶対的なものとしてのモナドの数多性への移行〉
M 「私は感情移入とその相関者の現象学から、別の身体と別の自我に関する意味付与を獲得する。」(266頁)
M-2 「こうして私は、現実的ないし可能的なコミュニケーションのうちにあるモナドの数多性をもつことになる。」(266頁)
N 「さらにそのさい私は、モナドの数多性と関係して同一の自然を、すなわち間主観的な自然、共存するすべての可能なモナドにとっての共通の可能な自然をもつ」:「間主観的に同一の自然の構成」。(267頁)
N-2 「あらゆる可能な自然が前提とする絶対的なもの、すなわちモナドの数多性と、たんなる措定の相関者であり、モナドの総体性におけるたんなる構成的「産物」である客観的自然そのものとは区別される。」(268頁)
〈第8節 同一の自然の構成におけるモナドの連関〉
O 「現象学が示すのは、この世界が絶対的なモナド的主観性の構成の産物だということである。」(271頁)
O-2 「私たちが実在(事物的統一体)を、世界の実在として、つまりモナドのうちで主観的ないし間主観的に構成された統一体として理解するなら、モナドは実在ではない。だが、世界内の心理物理的因果性には、絶対的領分においては、複数のモナドが互いに『及ぼし』合う『絶対的』因果性が対応している。」(272頁)
〈第9節 人格的働きかけ、相互共存的な生と相互内属的な生〉
P 「人間は世界内で互いに『精神的影響』を及ぼし合い、精神的結合に至る。」(272頁)
〈第10節 さまざまな仕方でのモナドの結合。共同体的かつ目的論的な発展の全体としての絶対的現実性〉
Q 「絶対的な考察においては、絶対的形式における複数のモナドは、このモナドの純粋自我主観が原創設する能動性によって絶対的に結合されている。他方においては、それらモナドは、その受動的基盤に関して、その絶対的結合をもち、受動的形式における絶対的相互規定をもっている。この受動的形式とは、すなわち絶対的かつ受動的な因果性である・・・・。」(275頁)
R 「複数のモナドの交流それ自体も、基づけられた発生の本質法則をもち、意識的な交流、すなわち社会的共同体(絶対的なるもの、すなわちモナド的なものへと移されている)は、その歴史および歴史の本質法則をもっている。」(276頁)
R-2 「複数のモナドが共可能的であるのは、それらが発展の法則にくまなく支配され、この法則にしたがって一義的に規定された一つの全体、すなわちそのすべての位相が予描されているような共同体的発展の一つの全体としてのみだということ」、これを示すことが、当面の課題である。
R-3 「この共同体的発展は、
[1]世界がその発展において客観的世界として構成され、
[2]客観的な生物学的発展が起こり、それとともに動物と人間が客観的存在として登場し、
[3]人間が真の人類史を構成するように努力することに向けて客観的に発展していく
というようにしてのみ可能である。」(276-7頁)
一五 モナドの間の調和:原典タイトル「モナド論。モナドないし心の間の調和(1921/22年頃)」(全集第14巻、付論36)(278-281頁)
A「すべての自我主観にとって同一の世界が存在する世界であり、したがっていずれの自我主観にとっても認識可能な世界であることができるために、いずれの自我主観も超越論的能力を有しており、また他のすべての自我主観と共有していなければならない。」(278頁)
B 「しかし、詳細に見てみるなら、たんに同等の一般性として超越論的能力が前提とされているだけではない・・・・。」(279頁)
B-2 「前提とされているのは、事実上のヒュレー的所与の相互調和であり、あらゆる主観へと広がるヒュレー的所与が法則的に互いを秩序づけているという事態である。」(279頁)
一六 実体とモナド、モナドは窓をもつ:原典タイトル「実体とモナド。モナドが自然に関してもつ機能的連関とそれがそれだけで存在すること。個々のモナドの自立性。モナド全体の絶対的自立性(1922年)」(全集第14巻、付論37)(281-289頁)
C 「それ自身によって存在することとは、すなわち『具体的』な主観性であるということである。」(282頁)
C-2 「それ自身によって存在するとは、実体である(絶対的にある)ということである。」(282頁)
D 「個別のモナドとしての一つの実体は、すべての実体との調和のうちにある。」(283頁)
E 「自然因果性・・・・は、すべての実体にとっての唯一の因果法則性である。」(283頁)
E-2 「因果性とは、時空のうちで『延長』していて、法則にしたがって時空のうちで展開するような変化の間の依存関係なのだから、モナドの間には因果性は存在しない。」(284頁)
F 「モナドとしての実体はそれぞれ、みずからのうちに、人格性の原理ないし中心である自我を担っている。」(286頁)
G 「モナドは他者からの影響を受け入れるための窓を持っている。それは感情移入という窓である。」(287頁)
G-2 「絶対的に自立的なのはモナドの総体だけである。」(288頁)
G-3 「モナドの本質に、自分自身のうちで新たなモナドを構成する可能性が属している。」(288頁)
G-4 「『複数のモナドのなかのモナド』ということで、多数のモナドの・・・・絶対的に自立的な結合を考えるなら、私たちは『複数のモナドのなかのモナド』だけが(絶対的に自立的なモナドとして)デカルト的な意味でより高次の実体概念を満たしうる・・・・。」(289頁)
一七 モナドの個体性と因果性:原典タイトル「複数のモナドの志向的相互内属と実質的相互外在。モナドの個体性と因果性(1931年10月後半)」(全集第15巻、付論22)(290-304頁)
H 「現象学的還元を通じて、私が私の超越論的自我および現象としての世界を・・・・発見したとき・・・・、私はまた、私の存在構成からして存在するものとして、超越論的他者たちをも発見した・・・・。」(290頁)
H-2 「超越論的他者たちは・・・・『私と超越論的に共存している』・・・・。」(291頁)
H-3 「すなわちそれは、・・・・私の超越論的現在と他者の超越論的現在との共存・・・・等々という妥当意味である。」(292頁)
H-4 「私の構成からして妥当し存在しているあらゆる他者は、一つの超越論的時間性のうちにある。」(292頁)
I 「私のうちでは、構成のある種の間接性において、《他者が世界を構成すること》も構成されており、世界の同一性が構成されている。」(292頁)
I-2 「私にとって存在するあらゆるものは、私の構成的意味形成体と妥当形成体であり、究極的には私自身もまた、私自身にとって自己構成から存在している。」(293頁)
J 「私にとって一般に存在するものとしてすでに妥当し、ひきつづき存在するものとして妥当するようになるものを辿っていくなら、私は普遍的な共存をもつ」。(293頁)
J-2 「この普遍的共存は、超越論的還元のうちでは、絶対的な超越論的間主観性として示される」。(293頁)
J-3 これに対して「絶対的なものを蔽い隠す素朴な自然性のうちでは、[この普遍的共存は]あらゆる自我主観の開かれた宇宙として示され、これらの自我主観は、みな同時に共存し、・・・・一つの世界のうちに生きている。」(293頁)
K 「存在する絶対的な『世界』は、実は普遍的で絶対的な間主観性なのだ。」(293-4頁)
K-2 「世界化において・・・・自我主観は『心』となり、・・・・身体をともなってのみ、具体的に実在的となる。」(294頁)
K-3 「超越論的には、私たちは複数の超越論的自我主観の超越論的な共存をもっており、これらがここでは、みずからの超越論的生をともなった具体的な『モナド』として理解される。」(294頁)
L 「絶対的個体性」とは「みずからの時間において反復されるようなものとしては考えられない個体的なもの」である。(296頁)
L-2 これに対し「みずからの時間においてある個体的なものは、同等性という形式において反復されうる。」(296頁)
L-3 「モナドは、絶対的にそれ自身において、それだけで存在している」(299頁)
L-4 「すべての世界的具体的な実在物が細分可能であるのに対して、モナドは文字通りの意味で個体[不可分者]なのである。」(300頁)
M 「実在物の因果性とモナドの因果性との根本的本質的な相違」(301-2頁)
M-2 「一つのモナドから何かある一部分が切り離されて、他のモナドのなかにその一部分として埋め込まれたりすることはできない。・・・・いかなるモナドも、そこをとおってモナド的『質料』が飛び込んでいったり飛び出してきたりしうるような窓をもたない。」(302頁)
N 「伝達がなりたつのは、次のような場合においてである。たとえば一方の人の思考のうちで、何か理念的なもの、判断や思想が生じ、それにしたがって相互的な因果性によって、
[1]他の心ないしモナドのうちで、純粋にそのうちで経過する第2の思考が推移し、この第2の思考のうちで、同一の思想、同一の判断が生じ、
さらに[2]一方は他方が伝達しているということを意識し、またその逆も生じている[場合である]。」(303頁)
《評者の感想1》
① ここで「相互的な因果性」とは、客観化されたモナドつまり「心」(294頁)が、「身体」を動かすこと、「人工物」(A. シュッツ)を産出することに基づく因果性である。
② どのようにして「人工物」から、同一の思考、そして思想・判断が、他の心に移される(推移)のか、説明が必要。
②-2 また「伝達」がなされたと、どのようにして両者が確信するのか、説明が必要。
《評者の感想2》
① 「複数のモナドの因果性」とは、「コミュニケーション(伝達)」のことである。(参照303頁)
② 超越論的間主観性とは、私と他者の超越論的時間の「合致」のことである。「一つの超越論的時間性」!(292頁)
②-2 「双方の時間は、共存が及ぶかぎり互いに『合致』する。」「私の超越論的現在と他者の超越論的現在との共存」等々。(292頁)
一八 始原的自我とモナド論:原典タイトル「ある夜の対話。自分の自我と別の自我との存在を含む始原的な流れることの絶対的『自我』への還元。始原的我(ego)たちの無限性。モナド論(1933年6月22日)」(全集第15巻、テキスト33番)(304-320頁)
A 「現象学的な態度と方法において、私の心的内在は超越論的内在に転化し、私の心的に内在的な流れる現在は、私の絶対的な超越論的現在へと転化する。」(311頁)
A-2 「しかし私が現在や過去について―もろもろの時間様態について語っているとき、私はまだ究極の超越論的なもののうちにはいない。究極の超越論的なものは、流れつつ生き生きした現在と呼んではならないものである。」(312頁)
A-3 「反省しつつ、私は流れることをさっとつかむ。しかし私は、すでに同一化を行っており、すでに私は、流れる原存在のうちで遂行される統一形成と時間化にしたがっており・・・・、そこで私はふたたび絶対的反省を行うが、またしてもすでにこの能動性にとりこまれてしまっている。」(313-4頁)
A-4 「もちろん、生は能動的生であるが、素朴性の最終的な克服は、・・・・あらゆる能動性を禁止することである。」(314頁)
A-5 「能動性は、・・・・みずからの背後に生の環境(milieu)をもっていて、この環境は能動性のうちでは決して目にとまることはない。」(314頁)
A-6 この生の環境(milieu)こそ、「始原的な自我の始原的生」である。「このうちに、あらゆる時間化する働きが『存している』。」(314頁)すなわち「流れることという絶対的始原的な先存在」。(315頁)
B 「他者たちは、自我の固有性のうちには含まれていない(彼らはもちろん固有な自我とは違った自我たちであり、それぞれが自分自身の固有性のうちにある)が、しかし始原的現在の自我としての、自我の絶対的存在のうちには含まれている。」(317頁)
B-2 「始原的『我』(ego)は、互いとの関係においては他者たち(アルテリ)であるような本来的な我(ego)たちを担っている。」(318頁)
《評者の感想》
① 「始原的な自我の始原的生」あるいは「流れることという絶対的始原的な先存在」とは、いわば有一般と呼ぶべき世界であって、その有一般と呼ぶべき世界は、「超越論的自我たち」(モナド)を含み、それら超越論的自我たちによって、みずからを開示、現出する。
①-2 それら超越論的自我たちの調和的作用によって、「絶対的始原的な先存在」(いわば有一般と呼ぶべき世界)は、一方で、「同一の自然」(実在する世界)としてみずから開示、現出し、他方で、そこに含まれた「超越論的自我たち」については、その構成した意味的領野を、身体を伴った「心」(自我を含む)として開示、現出させる。(「心」は動物たちも持つ。)
①-3 「絶対的始原的な先存在」(いわば有一般と呼ぶべき世界)は、自他に共通の唯一の「同一の自然」としてだけでなく、同一の「理念的対象性」(一四第4節)としても、みずから開示、現出する。
② さて、ここで「心」とは何か? 「心」は、どこにあるのか?この問いへの答えが、必要である。
②-2 心身問題は「仮象」である。私たちは、実際に、自然的態度の存在措定を括弧にいれれば、誰もが超越論的自我の領野としての「心(超越論的領野)」を持つ。すなわちそれが本来の世界そのものである。ドクサ(自然的態度の憶見)のうちに住むと、物理的世界のみが、本当の世界(超越)と思ってしまう。そして「心」はその超越者を映す「像」と思ってしまう。
②-3 「心」と呼ばれるのは、自然世界=物理的世界を別とすると、他なる「心」(狭義の心)が、相互に見えないからである。
②-3-(1)存在措定を括弧に入れれば(エポケー)、あらゆる私の体験の中心には身体物体があり、他者とは、私と他者の身体物体の接触をとおしてのみ、出会いうる。かくて身体物体が属す物体の世界が「同一の自然」となる。
②-3-(2)超越論的自我の領野としての「心(超越論的領野)」が、「同一の自然」とそれ以外の部分である「心」(狭義の心、身体に宿る)に分裂する。そして「心」が身体に宿ると言われる。
②-4 自然世界=物理的世界は、どの「心」にとっても、同一である。ただし個々の「心」にとって、自然世界はパースペクティヴをもって現れる。
②-5 「心(超越論的領野)」であれ、「心」(狭義の心、身体に宿る)であれ、「心」に現れている一切は、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものである。世界が「心」に映っているのではない。すなわち「心」は世界の「像」ではない。個々の「心」にとってパースペクティヴをもって現れる自然世界も、「像」ではなく、世界そのものである。
②-6 例えば、「身体物体」に属する眼・視神経システムと、「見える」という出来事は、世界(=有一般と呼ぶべき世界)内の出来事として、相互に連関する。
②-7 すでに述べたように、超越論的自我の領野としての「心」が、「同一の自然」とそれ以外の部分である「心」(狭義の心)に分裂する。すなわち、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものが、「同一の自然」とそれ以外の部分である多数の「心」(狭義の心)に分裂する。「同一の自然」に属す「身体物体」の一部である脳システムも、多数の「心」(狭義の心)も、本来、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものに属し、したがって互いに連関する。
③ 世界は「同一の自然」のみではない。多数の「心」(狭義の心)も、世界そのものである。「心」(狭義の心)は、それ自身また、パースペクティヴをもって現れる自然世界=物的世界(心1)と自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)からなる。
④ では「心」は、どこにあるのか?そもそも、一人一人の人が、見る、触れる、聴く、嗅ぐ、味わう、体の内に感じるなどのパースペクティヴのもとにある物体世界(心1)、さらに自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)が、「心」(狭義の心、身体に宿る)である。内容的には、「心」(狭義の心、身体に宿る)と、その存在措定を中止(エポケー)した「心(超越論的領野)」とは、同一である。
④-2 私たちは「心」(狭義の心、身体に宿る)の外に出ることができない。確かに、「同一の自然」はあるが、それは理念であって、私たちが知るのは見る、触れる、聴く、嗅ぐ、味わう、体の内に感じるなどのパースペクティヴのもとにある物体世界(=自然)(心1)である。さらに自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)はまさに普通に言われる「心」である。これら以外のどこに世界があるのか。私たちにとって世界=「心」である。「心」はどこにあるのかと問われたら、この世界「そのもの」であるというべきである。
④-3 ただし私が出会っている世界は、世界の一部にすぎない。他我の身体の向こうに広がる世界(「心」)について、私がそのものとしてつかみうるのは、ほんの一部である。他我の身体物体のみ、私は、そのもとしてつかみ=出会いうる。
④-4 だからと言って、「『心』がどこにあるのか?」との問いへの答えがないわけではない。私の「心」は、ここにある。私の「心」は、「世界そのもの」であり、まさにここにある。世界がここにおいて、開示・現出している。他我の身体物体は、私の「心」であって同時に他我の「心」(=「世界そのもの」)である。他我の世界(心)のうち、パースペクティヴのもとにある自然(心1)は私から見てわかりにくく、自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)については、極めて分かりにくい。他我の「心」は、多数あるが、だが、いずれも、常識に反するように見えるが、実は世界そのものである。
④-5 世界そのものが、「同一の自然」、各人のパースペクティヴのもとにある自然(心1)、自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)として広がっている。すなわち、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものが、「同一の自然」、多数の各人の「心」として、みずからを開示し、そこに現出している。
⑤ 「脳」は「心」でない。「心」は世界であり、地平的には「絶対的始原的な先存在」としての世界(いわば有一般と呼ぶべき世界)にまで至る。世界は連関し、脳科学は、この世界の連関を明らかにする。「脳」と、心1(パースペクティブのもとにある自然)との関係、および「脳」と心2(自発性、感情、想像、夢など再狭義の心)との関係を明らかにする。
⑤-2 「脳」は、身体物体の一部であり、「同一の自然」に属す。「脳」は「心」でない。
⑤-3 「同一の自然」(「脳」を含む)および多数の「心」(狭義の心)は、ともに「絶対的始原的な先存在」としての世界(いわば有一般と呼ぶべき世界)に属す。かくて、「同一の自然」(「脳」を含む)および多数の「心」(狭義の心)は、連関する。
⑤-4 例えば、目(脳システムの一部)をつぶれば、「見える」という出来事はなくなる。脳のある部分が破壊されれば、「感情」という出来事が壊れる。「脳」と「心」は連関するが、「脳」が「心」なのではない。
⑥ 私の「心」から掴みがたい他我の「心」は、すべてが謎なのではない。他我の身体は「同一の自然」に属し、そして「同一の自然」は、私の「心(超越論的領野)」に属すと同時に他我の「心(超越論的領野)」にも属すから、自他の身体物体の直接接触においては、まさに自他の「心(超越論的領野)」が直接出会っている。
⑥-2 というよりも発生的には、私の身体物体が世界の現出・開示(=心=超越論的主観性)であり、他我の身体物体も世界の現出・開示(=心=超越論的主観性)であることから、両身体物体の接触において「同一の自然」が構成される。
⑥-3 「同一の自然」に属す私の身体物体と他我の身体物体は、「心」(心1・心2からなる狭義の心)と連動する(広義のキネステーゼ)。ここから、他我の「心」(心1・心2からなる狭義の心)の内容の推定が可能となる。さらに身体物体によって産出される「人工物」としての音声言語・文字言語が、私の「心」と他我の「心」の諸体験の共通の重なり(言語の共通意味)を可能とするするペグとして、他我の「心」の内容の推定を可能にする。一般に、一切の「人工物」は、他我の「心」の内容の推定を可能にする。
一〇 自我とモナド:原典タイトル「人格的自我と個体的固有様式。発生と発生において規定されることをめぐる問題。いかにしてモナド的主観は規定され、認識されうるのか(1920または21年)」(全集第14巻、テキスト2番)(153-192頁)
〈内容〉
(1)
① 発生の統一つまり時間を充実する統一としてのモナド。その統一のなかで、必然的な連関が時間充実を貫いている。(153頁)
② 発展の統一としてのモナド。
② モナド的自我の統一。(158頁)
④ モナド的主観性の規定可能性の問い。
(1)-2 充足自由律(160頁)
⑤ なぜ個体は《未来に向けて生成すること》において、まさにこうであって、別様に生成するのではないのかという、「充足理由律」[の問い]。
⑤-2 すなわち、モナド的個体についての特別な認識の仕方についての問い。
⑥ 自我の規定可能性と自由。すなわち個体性。
⑦ 合理的な規則と不合理な規則。
⑧ 理解できることを原理とする人格的自我。
(1)-3 人格的自我、人格的個体性(164頁)
⑨ 人格的自我と個体性。
⑩ 個体性について内的に知られることと、外的に感情移入をとおして知られること(連合的・帰納的な認識に対立する)。(167頁)
⑪ 人格の規定可能性、および人格の起源などの問題。
⑫ 人格の自由。
⑬ 多くの自我の個々の固有性が本質的にことなっていること。
⑭ あらゆるモナドの個体的な規則。
(2) 対象極と自我極についての基本的な描写、機能中心としての自我(179頁)
⑮ 対象極に対する自我極としての自我。
⑯ 機能の中心としての自我。
⑰ 体験の変化によって私の主観性の変移が可能であっても、その体験の変化は、機能の自我としての私を変化させることはない。
⑱ そしてこのような自我の変化の可能性とそのような自我が維持されること(個体性の維持)。
⑲ 分身(Doppelgänger)の問題。
一一 モナドの現象学:原典タイトル「モナド的個体性の現象学と、体験の可能性と両立可能性の現象学。静態的現象学と発生的現象学(1921年6月)」(全集第14巻、付論1)(192-209頁)
A 現象的連関の構成的能作は、モナドのうちで一般に生起しうる。(193頁)
A-2 モナドの個体的統一性と閉鎖性。(193頁)
A-3 モナドは生き生きした統一であり、極としての自我をそのうちに担っている。(194頁)
A-4 すべての内在的なものはたしかに個体的であるが、しかし非独立的に個体的である。独立的であるのはただモナドそれ自身だけである。(199頁)
B 静態的現象学は、構成する意識と構成される対象との相関関係を追求し、発生的問題はこれを除外する。(200頁)
B-2 発生の現象学は、時間流における根源的に構成する生成であるような根源的生成と、発生的に作動するいわゆる「動機づけ」を追及する。
C モナド的個体性の現象学は、発生の現象学を含む。
C-2 より高次のモナドは、より低次のモナドから発展してくる。(201頁)
C-3 あらゆるモナドが論理的に思考する者である必要はなく、あらゆるモナドが道徳的に行為する者である必要はない。(203頁)
D モナドは交流のうちにある。(202頁)
《参考》
●訳注[12] 対向(Zuwendung):自我が受動的に先構成されたものに向かう(注意の眼差しを向ける)こと。「対向」については「触発」が問題にされる。『受動的綜合の分析』を参照。
●訳注[15] フッサール中期、1912年刊『イデーン』の緒論は、現象学的還元は、(1)事実から本質への「形相的還元」と、(2)「実在」から「非実在」への「超越論的還元」の2段階が必要と述べる。
一二 モナドという概念:原典タイトル「『モナド』という概念について。自我の具体的な姿(おそらく1921年6月)」(全集第14巻、付論2)(209-222頁)
[1] 純粋自我=自我極
E 「純粋自我としての自我は、絶対に同一の同じものであり、この時間のあらゆる点に属しているのであるが、とはいっても広がっているわけではない。」(211頁)
E-2 「自我は、その自我の生を作用と触発のうちにもつ。」(211頁)
E-3 「自我とは、・・・・極にほかならない」(212頁)
[2] 具体的自我
F 純粋自我が、「抽象的に同一のもの」であるのに対し、「それ(具体的自我)は、みずからの能動と受動のうちで規定されるものとして、そうあるようなもの[=具体的なもの]である。この具体的な自我は内的経験の現実的自我である。」(212-3頁)
F-2 「具体的自我は[1]内在的時間をとおして広がる同一のものであり、[2]その『精神的』規定内実に応じて、またその作用と状態に応じて変化するものであり、[3]そのうちにつねに絶対的に同一の自我極を担いつつ、 [4] 他方でそれは、その生を、すなわち極において同一的に中心化されている作用の具体的連関を生き抜いている。」(213頁)
[3] モナド的生
G 「自我が意味形成体や主題的統一を産出する」(216頁)
G-2 「意識はすべての[自我による]産出に先立っている。自我とはその普遍的意識にとっての主観である。」
G-3 「意識の統一とそこで把握される志向的体験流の統一は媒体であって、その中で自我が生きており、それは自我の能動的および受動的な関与の媒体なのである。」(217頁)
G-4 「自我という中心は常にそこにあり、それが・・・・目覚めているか、そうでないかにかかわりなく、体験流あるいは意識流はつねに流れている・・・・。」(218頁)
G-5 「体験における普遍的生のこの統一を・・・・私たちはモナド的生と呼ぶ。」(218頁)
一三 自我-意識-対象と裸のモナド:原典タイトル「その一般構造におけるモナド(1921年6月)」(全集第14巻、付論4)(222-231頁)
《参考》
●訳注[35] 「裸のモナド」あるいは「眠れるモナド」とは、非生物の段階のモナドである。もっとも不明瞭、不鮮明な表象能力の段階のモナド。
《評者の感想》:非生物とは、いわば岩石などである。(1)非生物に身体的な境界があるのか?身体的な意味での境界がない。非生物は、大地・天空である。(2)モナドは魂的なもの(体験流・意識流)であるはずだが、岩石、さらに大地・天空に、魂があるのか?アニミズム的・神話的である。
一四 自我論(Egologie)の拡張としてのモナド論(Monadologie):原典タイトル「事物の超越に対する他我(alter ego)の超越。超越論的自我論の拡張としての絶対的モナド論。絶対的世界解釈(1921年1月/2月)」(全集第14巻、テキスト13番)(231-278頁)
〈第1節 自然の超越と他の主観の超越。自我と非我の不可分性。さまざまな内在の概念〉
A 「自然客観の超越は、他の主観の超越、他のモナド的主観性の超越とは、その本質からして根本的に別の事柄である。」(231頁)
《参考》「現出において現出するものとしての同一者、規定可能なX」(234頁)
A-2 「実在物として・・・・近くのうちに与えられているものの超越は・・・・内在の一形式にすぎない。」(235頁)
B 「事物」の超越と別に、「私たちは・・・・動物や人間という超越を見出す。私たちは、他の身体と、事物と一体になった他の主観を、私たちの経験の領分のうちに見出す。」(239頁)
《評者の感想》事物と「一体になった」他の主観(=心)は、一体どこにあるのか?「事物」=「自然」のうちにはない。いわゆる「心身問題」はどう解かれるのか?ここで事物と「一体になった」とはどういうことか?
B-2 「私が、私の身体物体に類似した外的物体を身体として統握する場合には、この他の身体物体は、この類似性によって、『表現』という仕方で共現前の機能を果たす。」(240頁)
B-3 「共現前によって他の自我として措定されるものは、他の内面的周囲世界をともなう完全に他の主観性であるが、この他の内面的周囲世界も自然として、私に経験される自然と同一である。」(240頁)
〈第2節 現出(眺め)の客観性と間主観性の問題〉
《評者の感想》
① なぜ現出が、「眺め」とされるのか?どうして、視覚で説明するのか?
② 物体・身体性、つまり物理的自然にとって重要なのは、触覚ではないのか?現出が「抵抗すること」(触覚されること)として説明したら、どうなるのか?
C 「私が『感情移入』において準現在化した他者の現出は、共現前による準現在化として措定されている。すなわち、それらの現出は現在の現出として措定されていて、仮定的ではなく現実的な知覚として措定されているが、私がもっておらず、他者がもっている現出として措定されている。」(249頁)
〈第3節 主観の存在位階に対して下位に置かれる実在性と理念性の存在位階〉
D 「自然のなかの事物が、心にとっての、すなわち別の主観性および自我主観にとっての身体として・・・・経験される。」(250頁)
E 「主観性の本質に属するのは、主観性において自然が構成されうるということである」:「自然の超越」の構成。(249頁)
E-2 「以上とはまったく別の対象性が、他の自我である。」(251頁)
E-3 「実在性も理念性も下位の存在位階であって、上位にあるのは、《我-思う-思われるもの(ego-cogito-cogitatum)》をともなう主観性の存在位階である。後者が究極にして最高の存在位階であるのか否かは、ここでは、そのままにしておこう。しかしいずれにしても、自我は『それ自身において』存在するのであって、他のものにおいて存在するのではない。」(251頁)
《評者の感想》:フッサールが「(超越論的)主観性」とか「意識」とか呼ぶものは、実は「有一般」としての世界そのものの現出ではないのか?
F 「感情移入の経験においては、私のうちで、他者が告知される。他者は、事物のように原本的な根源性(original)において知覚されるのではない。」(252-3頁)
F-2 「他者は、共現前をとおして、他者としての根源的告知において経験される。すなわちそれは自我として経験され、私ではないし、私の主観性でもなく、私にあい対するものであるようなまったき主観性として経験されるのである。」(253頁)
〈第4節 主観性にあい対する自我の告知と構成的統一体の間主観的同一化。モナドは窓を持つ〉
G 「主観性のうちであい対するものとして第2の自我が根源的に告知されうる」ということは、「主観性の根本的特徴」である。(253頁)
G-2 「感情移入によって共現前する第2の主観性」としての「〈別の自我〉」。(254頁)
《参考》:Appräsentationは、『デカルト的省察』船橋弘訳では「間接呈示」、浜渦辰二訳では「共現前」である。
H 「他の主観性を共現前(間接呈示)によって措定することは、・・・・[私と他者の]双方の提示する現出の統一体を、同一のものの互いに調和する知覚統一体として措定することを含んでいる。」:「現出の構成的統一体としての自然」の[私と他者の]双方にとっての同一性。(255頁)
H-2 「複数として認識されうるすべての主観性は、そのうちに、同一の自然を構成しているのでなければならない。」(257頁)
I また「別の構成的統一体、たとえばあらゆる種類の理念的な対象性、数学的対象、すなわち数や数に関する真理などの統一」の[私と他者の]双方にとっての同一性。(256頁)
J 「それぞれの自我は一つの『モナド』である。だがこれらモナドは窓を持つ。それらのモナドは、別の主観が実質的に入り込むことができないという意味では、窓も扉ももたないが、別の主観は窓をとおして(窓とは感情移入のことである)経験されうるのであって、それは自分の過去の体験が再想起をとおして経験されうるのと同様である。」(257頁)
〈第5節 私のモナドおよび可能なモナド一般への現象学的還元。志向的相関者としての人間と動物〉
K 「世界についての直進的な判断をすべて遮断するとき、私は私のモナドを獲得する。」(258-9頁)
〈第6節 単独的還元と、自然の遮断を使わずに残すこと〉
L 「現象学的還元は、ある種の方法論的目隠しにすぎなかった。」「純粋自我における意味付与と意味そのもの以外の何ものにも効力を与えない。」(262-3頁):「現象学的目隠し」(265頁)
L-2 しかも「私はまず『他の身体』と生気あるものすべてを捨象する・・・・。言ってみれば、私は現象学的還元と並んで、単独の自我(モナド)への単独的還元を遂行するのである。」(263頁)
〈第7節 絶対的なものとしてのモナドの数多性への移行〉
M 「私は感情移入とその相関者の現象学から、別の身体と別の自我に関する意味付与を獲得する。」(266頁)
M-2 「こうして私は、現実的ないし可能的なコミュニケーションのうちにあるモナドの数多性をもつことになる。」(266頁)
N 「さらにそのさい私は、モナドの数多性と関係して同一の自然を、すなわち間主観的な自然、共存するすべての可能なモナドにとっての共通の可能な自然をもつ」:「間主観的に同一の自然の構成」。(267頁)
N-2 「あらゆる可能な自然が前提とする絶対的なもの、すなわちモナドの数多性と、たんなる措定の相関者であり、モナドの総体性におけるたんなる構成的「産物」である客観的自然そのものとは区別される。」(268頁)
〈第8節 同一の自然の構成におけるモナドの連関〉
O 「現象学が示すのは、この世界が絶対的なモナド的主観性の構成の産物だということである。」(271頁)
O-2 「私たちが実在(事物的統一体)を、世界の実在として、つまりモナドのうちで主観的ないし間主観的に構成された統一体として理解するなら、モナドは実在ではない。だが、世界内の心理物理的因果性には、絶対的領分においては、複数のモナドが互いに『及ぼし』合う『絶対的』因果性が対応している。」(272頁)
〈第9節 人格的働きかけ、相互共存的な生と相互内属的な生〉
P 「人間は世界内で互いに『精神的影響』を及ぼし合い、精神的結合に至る。」(272頁)
〈第10節 さまざまな仕方でのモナドの結合。共同体的かつ目的論的な発展の全体としての絶対的現実性〉
Q 「絶対的な考察においては、絶対的形式における複数のモナドは、このモナドの純粋自我主観が原創設する能動性によって絶対的に結合されている。他方においては、それらモナドは、その受動的基盤に関して、その絶対的結合をもち、受動的形式における絶対的相互規定をもっている。この受動的形式とは、すなわち絶対的かつ受動的な因果性である・・・・。」(275頁)
R 「複数のモナドの交流それ自体も、基づけられた発生の本質法則をもち、意識的な交流、すなわち社会的共同体(絶対的なるもの、すなわちモナド的なものへと移されている)は、その歴史および歴史の本質法則をもっている。」(276頁)
R-2 「複数のモナドが共可能的であるのは、それらが発展の法則にくまなく支配され、この法則にしたがって一義的に規定された一つの全体、すなわちそのすべての位相が予描されているような共同体的発展の一つの全体としてのみだということ」、これを示すことが、当面の課題である。
R-3 「この共同体的発展は、
[1]世界がその発展において客観的世界として構成され、
[2]客観的な生物学的発展が起こり、それとともに動物と人間が客観的存在として登場し、
[3]人間が真の人類史を構成するように努力することに向けて客観的に発展していく
というようにしてのみ可能である。」(276-7頁)
一五 モナドの間の調和:原典タイトル「モナド論。モナドないし心の間の調和(1921/22年頃)」(全集第14巻、付論36)(278-281頁)
A「すべての自我主観にとって同一の世界が存在する世界であり、したがっていずれの自我主観にとっても認識可能な世界であることができるために、いずれの自我主観も超越論的能力を有しており、また他のすべての自我主観と共有していなければならない。」(278頁)
B 「しかし、詳細に見てみるなら、たんに同等の一般性として超越論的能力が前提とされているだけではない・・・・。」(279頁)
B-2 「前提とされているのは、事実上のヒュレー的所与の相互調和であり、あらゆる主観へと広がるヒュレー的所与が法則的に互いを秩序づけているという事態である。」(279頁)
一六 実体とモナド、モナドは窓をもつ:原典タイトル「実体とモナド。モナドが自然に関してもつ機能的連関とそれがそれだけで存在すること。個々のモナドの自立性。モナド全体の絶対的自立性(1922年)」(全集第14巻、付論37)(281-289頁)
C 「それ自身によって存在することとは、すなわち『具体的』な主観性であるということである。」(282頁)
C-2 「それ自身によって存在するとは、実体である(絶対的にある)ということである。」(282頁)
D 「個別のモナドとしての一つの実体は、すべての実体との調和のうちにある。」(283頁)
E 「自然因果性・・・・は、すべての実体にとっての唯一の因果法則性である。」(283頁)
E-2 「因果性とは、時空のうちで『延長』していて、法則にしたがって時空のうちで展開するような変化の間の依存関係なのだから、モナドの間には因果性は存在しない。」(284頁)
F 「モナドとしての実体はそれぞれ、みずからのうちに、人格性の原理ないし中心である自我を担っている。」(286頁)
G 「モナドは他者からの影響を受け入れるための窓を持っている。それは感情移入という窓である。」(287頁)
G-2 「絶対的に自立的なのはモナドの総体だけである。」(288頁)
G-3 「モナドの本質に、自分自身のうちで新たなモナドを構成する可能性が属している。」(288頁)
G-4 「『複数のモナドのなかのモナド』ということで、多数のモナドの・・・・絶対的に自立的な結合を考えるなら、私たちは『複数のモナドのなかのモナド』だけが(絶対的に自立的なモナドとして)デカルト的な意味でより高次の実体概念を満たしうる・・・・。」(289頁)
一七 モナドの個体性と因果性:原典タイトル「複数のモナドの志向的相互内属と実質的相互外在。モナドの個体性と因果性(1931年10月後半)」(全集第15巻、付論22)(290-304頁)
H 「現象学的還元を通じて、私が私の超越論的自我および現象としての世界を・・・・発見したとき・・・・、私はまた、私の存在構成からして存在するものとして、超越論的他者たちをも発見した・・・・。」(290頁)
H-2 「超越論的他者たちは・・・・『私と超越論的に共存している』・・・・。」(291頁)
H-3 「すなわちそれは、・・・・私の超越論的現在と他者の超越論的現在との共存・・・・等々という妥当意味である。」(292頁)
H-4 「私の構成からして妥当し存在しているあらゆる他者は、一つの超越論的時間性のうちにある。」(292頁)
I 「私のうちでは、構成のある種の間接性において、《他者が世界を構成すること》も構成されており、世界の同一性が構成されている。」(292頁)
I-2 「私にとって存在するあらゆるものは、私の構成的意味形成体と妥当形成体であり、究極的には私自身もまた、私自身にとって自己構成から存在している。」(293頁)
J 「私にとって一般に存在するものとしてすでに妥当し、ひきつづき存在するものとして妥当するようになるものを辿っていくなら、私は普遍的な共存をもつ」。(293頁)
J-2 「この普遍的共存は、超越論的還元のうちでは、絶対的な超越論的間主観性として示される」。(293頁)
J-3 これに対して「絶対的なものを蔽い隠す素朴な自然性のうちでは、[この普遍的共存は]あらゆる自我主観の開かれた宇宙として示され、これらの自我主観は、みな同時に共存し、・・・・一つの世界のうちに生きている。」(293頁)
K 「存在する絶対的な『世界』は、実は普遍的で絶対的な間主観性なのだ。」(293-4頁)
K-2 「世界化において・・・・自我主観は『心』となり、・・・・身体をともなってのみ、具体的に実在的となる。」(294頁)
K-3 「超越論的には、私たちは複数の超越論的自我主観の超越論的な共存をもっており、これらがここでは、みずからの超越論的生をともなった具体的な『モナド』として理解される。」(294頁)
L 「絶対的個体性」とは「みずからの時間において反復されるようなものとしては考えられない個体的なもの」である。(296頁)
L-2 これに対し「みずからの時間においてある個体的なものは、同等性という形式において反復されうる。」(296頁)
L-3 「モナドは、絶対的にそれ自身において、それだけで存在している」(299頁)
L-4 「すべての世界的具体的な実在物が細分可能であるのに対して、モナドは文字通りの意味で個体[不可分者]なのである。」(300頁)
M 「実在物の因果性とモナドの因果性との根本的本質的な相違」(301-2頁)
M-2 「一つのモナドから何かある一部分が切り離されて、他のモナドのなかにその一部分として埋め込まれたりすることはできない。・・・・いかなるモナドも、そこをとおってモナド的『質料』が飛び込んでいったり飛び出してきたりしうるような窓をもたない。」(302頁)
N 「伝達がなりたつのは、次のような場合においてである。たとえば一方の人の思考のうちで、何か理念的なもの、判断や思想が生じ、それにしたがって相互的な因果性によって、
[1]他の心ないしモナドのうちで、純粋にそのうちで経過する第2の思考が推移し、この第2の思考のうちで、同一の思想、同一の判断が生じ、
さらに[2]一方は他方が伝達しているということを意識し、またその逆も生じている[場合である]。」(303頁)
《評者の感想1》
① ここで「相互的な因果性」とは、客観化されたモナドつまり「心」(294頁)が、「身体」を動かすこと、「人工物」(A. シュッツ)を産出することに基づく因果性である。
② どのようにして「人工物」から、同一の思考、そして思想・判断が、他の心に移される(推移)のか、説明が必要。
②-2 また「伝達」がなされたと、どのようにして両者が確信するのか、説明が必要。
《評者の感想2》
① 「複数のモナドの因果性」とは、「コミュニケーション(伝達)」のことである。(参照303頁)
② 超越論的間主観性とは、私と他者の超越論的時間の「合致」のことである。「一つの超越論的時間性」!(292頁)
②-2 「双方の時間は、共存が及ぶかぎり互いに『合致』する。」「私の超越論的現在と他者の超越論的現在との共存」等々。(292頁)
一八 始原的自我とモナド論:原典タイトル「ある夜の対話。自分の自我と別の自我との存在を含む始原的な流れることの絶対的『自我』への還元。始原的我(ego)たちの無限性。モナド論(1933年6月22日)」(全集第15巻、テキスト33番)(304-320頁)
A 「現象学的な態度と方法において、私の心的内在は超越論的内在に転化し、私の心的に内在的な流れる現在は、私の絶対的な超越論的現在へと転化する。」(311頁)
A-2 「しかし私が現在や過去について―もろもろの時間様態について語っているとき、私はまだ究極の超越論的なもののうちにはいない。究極の超越論的なものは、流れつつ生き生きした現在と呼んではならないものである。」(312頁)
A-3 「反省しつつ、私は流れることをさっとつかむ。しかし私は、すでに同一化を行っており、すでに私は、流れる原存在のうちで遂行される統一形成と時間化にしたがっており・・・・、そこで私はふたたび絶対的反省を行うが、またしてもすでにこの能動性にとりこまれてしまっている。」(313-4頁)
A-4 「もちろん、生は能動的生であるが、素朴性の最終的な克服は、・・・・あらゆる能動性を禁止することである。」(314頁)
A-5 「能動性は、・・・・みずからの背後に生の環境(milieu)をもっていて、この環境は能動性のうちでは決して目にとまることはない。」(314頁)
A-6 この生の環境(milieu)こそ、「始原的な自我の始原的生」である。「このうちに、あらゆる時間化する働きが『存している』。」(314頁)すなわち「流れることという絶対的始原的な先存在」。(315頁)
B 「他者たちは、自我の固有性のうちには含まれていない(彼らはもちろん固有な自我とは違った自我たちであり、それぞれが自分自身の固有性のうちにある)が、しかし始原的現在の自我としての、自我の絶対的存在のうちには含まれている。」(317頁)
B-2 「始原的『我』(ego)は、互いとの関係においては他者たち(アルテリ)であるような本来的な我(ego)たちを担っている。」(318頁)
《評者の感想》
① 「始原的な自我の始原的生」あるいは「流れることという絶対的始原的な先存在」とは、いわば有一般と呼ぶべき世界であって、その有一般と呼ぶべき世界は、「超越論的自我たち」(モナド)を含み、それら超越論的自我たちによって、みずからを開示、現出する。
①-2 それら超越論的自我たちの調和的作用によって、「絶対的始原的な先存在」(いわば有一般と呼ぶべき世界)は、一方で、「同一の自然」(実在する世界)としてみずから開示、現出し、他方で、そこに含まれた「超越論的自我たち」については、その構成した意味的領野を、身体を伴った「心」(自我を含む)として開示、現出させる。(「心」は動物たちも持つ。)
①-3 「絶対的始原的な先存在」(いわば有一般と呼ぶべき世界)は、自他に共通の唯一の「同一の自然」としてだけでなく、同一の「理念的対象性」(一四第4節)としても、みずから開示、現出する。
② さて、ここで「心」とは何か? 「心」は、どこにあるのか?この問いへの答えが、必要である。
②-2 心身問題は「仮象」である。私たちは、実際に、自然的態度の存在措定を括弧にいれれば、誰もが超越論的自我の領野としての「心(超越論的領野)」を持つ。すなわちそれが本来の世界そのものである。ドクサ(自然的態度の憶見)のうちに住むと、物理的世界のみが、本当の世界(超越)と思ってしまう。そして「心」はその超越者を映す「像」と思ってしまう。
②-3 「心」と呼ばれるのは、自然世界=物理的世界を別とすると、他なる「心」(狭義の心)が、相互に見えないからである。
②-3-(1)存在措定を括弧に入れれば(エポケー)、あらゆる私の体験の中心には身体物体があり、他者とは、私と他者の身体物体の接触をとおしてのみ、出会いうる。かくて身体物体が属す物体の世界が「同一の自然」となる。
②-3-(2)超越論的自我の領野としての「心(超越論的領野)」が、「同一の自然」とそれ以外の部分である「心」(狭義の心、身体に宿る)に分裂する。そして「心」が身体に宿ると言われる。
②-4 自然世界=物理的世界は、どの「心」にとっても、同一である。ただし個々の「心」にとって、自然世界はパースペクティヴをもって現れる。
②-5 「心(超越論的領野)」であれ、「心」(狭義の心、身体に宿る)であれ、「心」に現れている一切は、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものである。世界が「心」に映っているのではない。すなわち「心」は世界の「像」ではない。個々の「心」にとってパースペクティヴをもって現れる自然世界も、「像」ではなく、世界そのものである。
②-6 例えば、「身体物体」に属する眼・視神経システムと、「見える」という出来事は、世界(=有一般と呼ぶべき世界)内の出来事として、相互に連関する。
②-7 すでに述べたように、超越論的自我の領野としての「心」が、「同一の自然」とそれ以外の部分である「心」(狭義の心)に分裂する。すなわち、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものが、「同一の自然」とそれ以外の部分である多数の「心」(狭義の心)に分裂する。「同一の自然」に属す「身体物体」の一部である脳システムも、多数の「心」(狭義の心)も、本来、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものに属し、したがって互いに連関する。
③ 世界は「同一の自然」のみではない。多数の「心」(狭義の心)も、世界そのものである。「心」(狭義の心)は、それ自身また、パースペクティヴをもって現れる自然世界=物的世界(心1)と自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)からなる。
④ では「心」は、どこにあるのか?そもそも、一人一人の人が、見る、触れる、聴く、嗅ぐ、味わう、体の内に感じるなどのパースペクティヴのもとにある物体世界(心1)、さらに自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)が、「心」(狭義の心、身体に宿る)である。内容的には、「心」(狭義の心、身体に宿る)と、その存在措定を中止(エポケー)した「心(超越論的領野)」とは、同一である。
④-2 私たちは「心」(狭義の心、身体に宿る)の外に出ることができない。確かに、「同一の自然」はあるが、それは理念であって、私たちが知るのは見る、触れる、聴く、嗅ぐ、味わう、体の内に感じるなどのパースペクティヴのもとにある物体世界(=自然)(心1)である。さらに自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)はまさに普通に言われる「心」である。これら以外のどこに世界があるのか。私たちにとって世界=「心」である。「心」はどこにあるのかと問われたら、この世界「そのもの」であるというべきである。
④-3 ただし私が出会っている世界は、世界の一部にすぎない。他我の身体の向こうに広がる世界(「心」)について、私がそのものとしてつかみうるのは、ほんの一部である。他我の身体物体のみ、私は、そのもとしてつかみ=出会いうる。
④-4 だからと言って、「『心』がどこにあるのか?」との問いへの答えがないわけではない。私の「心」は、ここにある。私の「心」は、「世界そのもの」であり、まさにここにある。世界がここにおいて、開示・現出している。他我の身体物体は、私の「心」であって同時に他我の「心」(=「世界そのもの」)である。他我の世界(心)のうち、パースペクティヴのもとにある自然(心1)は私から見てわかりにくく、自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)については、極めて分かりにくい。他我の「心」は、多数あるが、だが、いずれも、常識に反するように見えるが、実は世界そのものである。
④-5 世界そのものが、「同一の自然」、各人のパースペクティヴのもとにある自然(心1)、自発性、感情、想像、夢など再狭義の心(心2)として広がっている。すなわち、世界(=有一般と呼ぶべき世界)そのものが、「同一の自然」、多数の各人の「心」として、みずからを開示し、そこに現出している。
⑤ 「脳」は「心」でない。「心」は世界であり、地平的には「絶対的始原的な先存在」としての世界(いわば有一般と呼ぶべき世界)にまで至る。世界は連関し、脳科学は、この世界の連関を明らかにする。「脳」と、心1(パースペクティブのもとにある自然)との関係、および「脳」と心2(自発性、感情、想像、夢など再狭義の心)との関係を明らかにする。
⑤-2 「脳」は、身体物体の一部であり、「同一の自然」に属す。「脳」は「心」でない。
⑤-3 「同一の自然」(「脳」を含む)および多数の「心」(狭義の心)は、ともに「絶対的始原的な先存在」としての世界(いわば有一般と呼ぶべき世界)に属す。かくて、「同一の自然」(「脳」を含む)および多数の「心」(狭義の心)は、連関する。
⑤-4 例えば、目(脳システムの一部)をつぶれば、「見える」という出来事はなくなる。脳のある部分が破壊されれば、「感情」という出来事が壊れる。「脳」と「心」は連関するが、「脳」が「心」なのではない。
⑥ 私の「心」から掴みがたい他我の「心」は、すべてが謎なのではない。他我の身体は「同一の自然」に属し、そして「同一の自然」は、私の「心(超越論的領野)」に属すと同時に他我の「心(超越論的領野)」にも属すから、自他の身体物体の直接接触においては、まさに自他の「心(超越論的領野)」が直接出会っている。
⑥-2 というよりも発生的には、私の身体物体が世界の現出・開示(=心=超越論的主観性)であり、他我の身体物体も世界の現出・開示(=心=超越論的主観性)であることから、両身体物体の接触において「同一の自然」が構成される。
⑥-3 「同一の自然」に属す私の身体物体と他我の身体物体は、「心」(心1・心2からなる狭義の心)と連動する(広義のキネステーゼ)。ここから、他我の「心」(心1・心2からなる狭義の心)の内容の推定が可能となる。さらに身体物体によって産出される「人工物」としての音声言語・文字言語が、私の「心」と他我の「心」の諸体験の共通の重なり(言語の共通意味)を可能とするするペグとして、他我の「心」の内容の推定を可能にする。一般に、一切の「人工物」は、他我の「心」の内容の推定を可能にする。