※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」1「感覚」(その5)(98-100頁)
(15)-7 「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる:「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階へ!単なる「このもの」から 「物」という概念への移行!(98-99頁)
★「普遍者における個別者」しかないのであって「単なる個別者」はない。すなわち①「意識」(対象意識)自身は最初は「このもの」を掴む。②「意識」は「このもの」が「対象の真理」だと思っていたのに、③じつは「このもの」はなく、それは「マイヌング(私念)」で、④「普遍者におけるこのもの」しかないんだということになる。(98頁)
☆「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
☆「意識」自身が「対象の自分自身(※意識)に対する『現象』」と「対象自体」との区別を知っている。即ち「真理の規準」を持っている。だから「真理の規準」を外からもってくる必要はない。かくて真に(Whar)とらえる(nehmung)ところの「知覚」(Wahrnehmung)に移っていくことができる。(98-99頁)
《参考1》「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)
☆最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)
☆このことをヘーゲルは次のように述べる。
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」(68頁)
☆「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)
《参考2》ヘーゲルの方法は「弁証法」であるが、これは「正・反・合というような形式」を内容にそとから押しはめるのではない。「弁証法」は内容そのものに即して考えてゆけば、内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式だ。「弁証法」は決して内容から離れたものでもないし、内容に外から押しつける雛型のようなものでもない。(83-84頁)
(15)-7-2 「知覚」の段階において初めて「物」という概念が生じてくる!(99頁)
★「知覚」の段階において初めて「物」という概念が生じてくる。「物」というと、例えば「塩」は、「辛い」、「白い」、「立方形の結晶をしている」、「一定の比重をもっている」というわけで、「物」は「単なる個別」の立場からでなく、「普遍における個別」の立場からのみとらえられうる。(99頁)
☆「ここ」について見ても、「ここ」は「一つのここ」ではあっても、「単なるここ」ではなく、「他のここ」と関係して初めて「ここ」だ。(99頁)
☆また「このもの」についても同様であって、「このもの」は「単なるこのもの」ではなく、他の「このもの」との関係において初めて「このもの」だ。(99頁)
☆この見地からすると、「塩」は白くあるとともに、辛く「もまた」あり、結晶において立方形を「もまた」なしており、そこで「もまた」and という観念がでてき、これによって初めて「物」ということができる。(99頁)
☆かくて「対象」はもはや「このもの」でなくて「物」となる。「意識の態度」が変われば「対象」もまた変わる。(99頁)
《参考》「感覚」は「この」特別の「このもの」を認識するつもりでいる。しかし単なる「このもの」はなく、なにかある「普遍者」(※言葉によって名づけられた一般者)における「このもの」だ。このことに気づけば「意識」はおのずから「感覚」の段階から「知覚」の段階へと移行する。このように「意識」段階が変わってゆくことによって、「対象」の方でも「このもの」から「物」Ding に変わる。(82頁)
(15)-8 「感覚的確信」がヘーゲルにおいて軽い意味しかもっていないのでは決してない!(99-100頁)
★「意識」(対象意識)の「感覚」の段階は軽蔑的、否定的に扱われているように見えるが、「感覚的確信」がヘーゲルにおいて軽い意味しかもっていないのでは決してない。(99-100頁)
☆なぜなら「受肉の教義」がヘーゲル哲学の根底にはあるからだ。(100頁)
☆「三位一体の教義」からいって当然のことだが、「啓示宗教」の段階でも、「自然宗教」の段階でも、「啓蒙」の段階でも「感覚的確信」は重要な意味をもつ。(100頁)
《参考1》「感覚的確信」の考えというものは、じつはその裏には「キリスト教の受肉の教義」をもっている。「『この人間』も単なる人間でなく、神が肉を受けてなったもので、『絶対的な実在性』をもっているものだ」という「受肉の教義」と関係があることだが、かかるこの「個別者」はヘーゲルも認めている。(96頁)
《参考1-2》「個別的主体」の存在は、「受肉 incarnation 」の教義を強調するヘーゲルにおいて相当強く認められ主張されている。ヘーゲルは決して「個別者」を全然否定しているのではない。(95頁)
《参考2 》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」・B「芸術宗教」・C「啓示宗教」、
(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
★フォイエルバッハのヘーゲル批判も十分には当たらない。(Cf. フォイエルバッハは「個別者」は「言葉」に現れなくても「実践的」に存在し、ヘーゲルを「観想的」だと批判した。)たしかにヘーゲルが「言葉」を利用したというようなところには、フォイエルバッハの指摘するような点はある。しかしフォイエルバッハのヘーゲル批判は根本において当たらないと著者(金子武蔵)は考える。(100頁)
★ヘーゲルは、(「精神」の)「一つの段階」を考えるときに、外から「弁証法」を持ち込まずに、できるだけその「段階」そのものの身になってみて、それ自身が次第に「高い段階」に進まざるをえないようにすることに、努力している。(100頁)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」1「感覚」(その5)(98-100頁)
(15)-7 「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる:「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階へ!単なる「このもの」から 「物」という概念への移行!(98-99頁)
★「普遍者における個別者」しかないのであって「単なる個別者」はない。すなわち①「意識」(対象意識)自身は最初は「このもの」を掴む。②「意識」は「このもの」が「対象の真理」だと思っていたのに、③じつは「このもの」はなく、それは「マイヌング(私念)」で、④「普遍者におけるこのもの」しかないんだということになる。(98頁)
☆「普遍者における個別者」が掴まれて初めて「個別者」は「真理」として掴まれる。すなわちWahr-nehmung(真理捕捉)となる。このようにして「感覚」の段階から「知覚」(Wahrnehmung)の段階に移って行く。(98頁)
☆「意識」自身が「対象の自分自身(※意識)に対する『現象』」と「対象自体」との区別を知っている。即ち「真理の規準」を持っている。だから「真理の規準」を外からもってくる必要はない。かくて真に(Whar)とらえる(nehmung)ところの「知覚」(Wahrnehmung)に移っていくことができる。(98-99頁)
《参考1》「悟性の立てる規定」は「それとは反対の規定」を呼び起こし、「定立」(テーシス)が「反定立」(アンチテーシス)に転じないわけにいかない。こうして一つの思惟規定に対し、反対の思惟規定が立てられ、これら二つの思惟規定が「互いに他に転換する」ことによって「統一づけ」られる。(67頁)
☆最初に「直観され表象される具体的な《全体》」(「統一」)がありこれが「悟性」によって「分割」され(「定立」と「反定立」)、その「分割」を通じて「統一」が再び恢復され、その「恢復された統一」において初めて「真の真理」が実現される。(67頁)
☆このことをヘーゲルは次のように述べる。
「《生き生きとした実体》は真(マコト)は『《主体》であるところの有(※存在)』であって、換言すれば『《自分自身を定立するという運動》、または《自分自身の他者となること(※悟性的諸規定)と自分自身とを媒介し調停する働き》であるかぎりにおいてのみ、真に現実的であるところの有(※存在)』である。
・かかる実体は《主体》であるから、①全く純然たる否定の働きであり、だからこそ単純なるものを分割して二重にする働き(※悟性的諸規定の付与)ではあるけれども、それでいて②《相互に交渉なきこの差異項とその対立》(※悟性的諸規定)とを再び否定しもする。
・《真理》とはかかる《再興される同一》または《他在(※悟性的諸規定)のうちから自分自身への『還帰』(反省)》にほかならないのであって、《根源的なる統一》または《無媒介の統一》そのものではない。
・《真理》とは《おのれ自身となる過程》であり、《終わりを目的として予め定立して初めとなし、そうしてただ実現と終わりとによってのみ現実的であるところの円周》である。」(68頁)
☆「一度分割されることを通じて再興された統一」が初めて「真理」である。こういう「弁証法」Dialectic が無限に繰り返されてゆくところに、「《真理》が《主体》である」というゆえんがあり、また「絶対知」が成立をみるというわけだ。(68頁)
《参考2》ヘーゲルの方法は「弁証法」であるが、これは「正・反・合というような形式」を内容にそとから押しはめるのではない。「弁証法」は内容そのものに即して考えてゆけば、内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式だ。「弁証法」は決して内容から離れたものでもないし、内容に外から押しつける雛型のようなものでもない。(83-84頁)
(15)-7-2 「知覚」の段階において初めて「物」という概念が生じてくる!(99頁)
★「知覚」の段階において初めて「物」という概念が生じてくる。「物」というと、例えば「塩」は、「辛い」、「白い」、「立方形の結晶をしている」、「一定の比重をもっている」というわけで、「物」は「単なる個別」の立場からでなく、「普遍における個別」の立場からのみとらえられうる。(99頁)
☆「ここ」について見ても、「ここ」は「一つのここ」ではあっても、「単なるここ」ではなく、「他のここ」と関係して初めて「ここ」だ。(99頁)
☆また「このもの」についても同様であって、「このもの」は「単なるこのもの」ではなく、他の「このもの」との関係において初めて「このもの」だ。(99頁)
☆この見地からすると、「塩」は白くあるとともに、辛く「もまた」あり、結晶において立方形を「もまた」なしており、そこで「もまた」and という観念がでてき、これによって初めて「物」ということができる。(99頁)
☆かくて「対象」はもはや「このもの」でなくて「物」となる。「意識の態度」が変われば「対象」もまた変わる。(99頁)
《参考》「感覚」は「この」特別の「このもの」を認識するつもりでいる。しかし単なる「このもの」はなく、なにかある「普遍者」(※言葉によって名づけられた一般者)における「このもの」だ。このことに気づけば「意識」はおのずから「感覚」の段階から「知覚」の段階へと移行する。このように「意識」段階が変わってゆくことによって、「対象」の方でも「このもの」から「物」Ding に変わる。(82頁)
(15)-8 「感覚的確信」がヘーゲルにおいて軽い意味しかもっていないのでは決してない!(99-100頁)
★「意識」(対象意識)の「感覚」の段階は軽蔑的、否定的に扱われているように見えるが、「感覚的確信」がヘーゲルにおいて軽い意味しかもっていないのでは決してない。(99-100頁)
☆なぜなら「受肉の教義」がヘーゲル哲学の根底にはあるからだ。(100頁)
☆「三位一体の教義」からいって当然のことだが、「啓示宗教」の段階でも、「自然宗教」の段階でも、「啓蒙」の段階でも「感覚的確信」は重要な意味をもつ。(100頁)
《参考1》「感覚的確信」の考えというものは、じつはその裏には「キリスト教の受肉の教義」をもっている。「『この人間』も単なる人間でなく、神が肉を受けてなったもので、『絶対的な実在性』をもっているものだ」という「受肉の教義」と関係があることだが、かかるこの「個別者」はヘーゲルも認めている。(96頁)
《参考1-2》「個別的主体」の存在は、「受肉 incarnation 」の教義を強調するヘーゲルにおいて相当強く認められ主張されている。ヘーゲルは決して「個別者」を全然否定しているのではない。(95頁)
《参考2 》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
(C)「理性」(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
(C)「理性」(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」・B「芸術宗教」・C「啓示宗教」、
(C)「理性」(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
★フォイエルバッハのヘーゲル批判も十分には当たらない。(Cf. フォイエルバッハは「個別者」は「言葉」に現れなくても「実践的」に存在し、ヘーゲルを「観想的」だと批判した。)たしかにヘーゲルが「言葉」を利用したというようなところには、フォイエルバッハの指摘するような点はある。しかしフォイエルバッハのヘーゲル批判は根本において当たらないと著者(金子武蔵)は考える。(100頁)
★ヘーゲルは、(「精神」の)「一つの段階」を考えるときに、外から「弁証法」を持ち込まずに、できるだけその「段階」そのものの身になってみて、それ自身が次第に「高い段階」に進まざるをえないようにすることに、努力している。(100頁)