古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「寒い寒い!」 

2012年02月04日 05時39分52秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 朝、洗面所の湯が出ません。温水器が凍ることはなくても途中が凍っているのでしょう。池も全面凍結だろうから散歩してみようと軽トラで池に行きました。施無池、九文池など小さい池は全面凍結。ふだん凍らない福地池や大池、佐の広池もほぼ全面凍結。最低気温はマイナス6度を下まわっていたでしょう。口吉川町に引っ越してからの5年間で一番寒い朝でした。
 全面凍結の写真はイマイチだったので福地池の堰堤を載せます。日曜日の土手焼きできれいに焼けています。きれいに刈って、きれいに燃えて、すっきりした土手になりました。堰堤中央の上部に石の祠が点のように写っていますがわかるでしょうか。ふだんは草に隠れて見えませんが、あれが人柱になったというお坊さん・福寿坊を祀(まつ)る祠(ほこら)かなー。散歩で堰堤下を通るときは拝むことにしよう。
 半藤一利の『ノモンハンの夏』をいま読んでいます。
 ひと頃『インパール』作戦に参加した兵士の本を集中的に読んだことがあります。あまりに惨めな負け戦(いくさ)で、補給もなく、数万の兵士が餓死して、兵士の退却した道は『白骨街道』と呼ばれました。読んでいてたまらなくなりました。でも目をそらすことができませんでした。
 このビルマ・インド国境の昭和19年春の大作戦では、強引に推し進めた『牟田口廉也』が悪者でした。この作戦に参加した兵士たちの恨みを一身にあびて、彼は憎まれながらのうのうと戦後も生きました。どれほど憎まれたか。保阪正康氏は己の生涯をかけて4000人の関係者の話を聞き、取材を重ねた渾身の著作『昭和陸軍の研究』の中で書いています。


 その第一点は、第15軍司令官の牟田口廉也中将の名を聞くと言葉をふるわせるのだ。第15軍の第31師団にいた兵士は、私が「一兵士として牟田口をどう思っているか」と尋ねたときに、それまでの温厚な口ぶりは一変して、「あの男は許せない。戦後も刺しちがえたいと思っていた」と激高した。その変わりようがあまりに大きいので、私のほうが恐怖感を味わったほどだった。
 私は断言するが、インパール作戦の生存兵士は、「牟田口廉也」という名を聞いただけで人格が一変する。「無謀な作戦」「補給なき闘い」「一高級軍人の私欲からの作戦」といった歴史的な評価を憤っているのではない。白骨街道を退却する兵士、あるいは飢餓に倒れていく兵士たち、彼らは新しく投入されてきた後続部隊の兵士たちから「牟田口司令官は明妙(メイミョウ …… ビルマの司令本部が置かれていた地名)の司令部で栄華をきわめた生活をしている」と聞かされ、真偽は不明だが、その報は矢のように前線の兵士たちに伝わっていったのである。われわれがこれほど苦労しているのに、なんということか、という怒りは消えていない。(中略)
 第三点は、(インパール作戦の生存兵士は)自らの戦争体験を語るときに数珠を持っている者が多い。それも手を丸めるようにしていて、対手(あいて)には見えないように心配りをしているのである。第四点は、具体的に戦場での体験を語るときに5分も話しつづけると、だいたいが嗚咽する。あるいは、目に涙を溜めている元兵士がほとんどだった。


 なぜ牟田口を出したか。ほんとうの悪魔は、牟田口のようにみんなに「憎まれるだけ」ではないかもしれない。そんなことを考えながら読んでいます。この項はまた書きます。
コメント
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