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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『母との出会い』

2010年05月31日 04時43分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 母が89歳になった8年前、ぼくは応募しようとこんなエッセイを書きました。いまになって読み返してみて、「いまはもうこんな文を書く心境になれない」、60歳を過ぎてからこんな文を書くほどに「母という存在はぼくにとってグレートマザーだったのか」と思います。
 いま小学校四年生になる初孫が二歳のときのことです。長い文ですがお読みいただけたらうれしいです。

  母との出会い
 
 二歳になった孫が久しぶりに遊びにきた。わが家にくるといつも遊ぶことにしている人形やおもちゃを出して、妻とわたしは競うように遊び相手になる。
 妻が「おじいちゃん、ビデオ撮ってよ。わたしが相手してるから」といい、わたしはわたしで「あのビデオはだれにでも撮れる」と、撮影係を妻に押し付けようとする。
 すると「オジイチャンガ、ビデオトッテ」と孫がはっきりしたことばでいったのには驚いた。二ヵ月ほど見ないうちに、びっくりするほどことばが増え、文のかたちで意志を伝えてくる。
 この日は朝来て夕方帰ってしまったが、ふだん妻とわたしだけの家に、しばらくは孫の余韻が残った。散らかしたおもちゃを片付けていると、さきほどまで動きまわっていたかわいい仕草が目に浮かぶ。
 二歳になったのか。かわいいものだ。
 その晩寝床に入ってからも孫の顔が浮かび、思わず顔がほころぶ。表情の乏しくなった年寄りの顔をこんなにほころばせるなんて、二歳の子どもの存在感はたいしたものだ。
 ふいに妹のことを思い出した。
 妹は、二歳になったばかりの昭和24年4月、栄養失調で死んだ。伸子という名前だった。二歳になっていたのだから、孫と同じように歩いていただろうか。なにかしゃべっていただろうか。
 その頃住んでいた山陰の山奥の、分教場の住いを思い浮かべてみた。裏山、谷川、水車。せまい校庭の鉄棒、校門のそばの桜。
 小学生になっていた妹、弟や村の子らと遊んだ遠い記憶はある。しかし伸子の姿が浮かばない。伸子はどうしていたのだろう。二歳になっていたのに外に遊びに出なかったのだろうか。昭和24年4月といえば、わたしは小学校六年生。多少の物心はついていたであろうに、歯がゆいほど伸子のことが思い出せない。
 もし伸子が生きていたら、今年五十四歳になるはずである。どんな人生を歩むことになったかわからないが、伸子は人に愛される人になっていたにちがいない。聞き分けのいい妹だった。
 蜜柑箱に紙を貼った仏壇に白木の位牌を立て、母は毎日ご飯を供えた。下痢が止まらないから食事を制限しなさいという、ふもと町の医者の指示をまじめに守って、子どもを死なせてしまった母にしてみれば、ご飯を供えるのはつらいことだったであろう。
 初盆をむかえて、母は小さな赤い下駄を買ってきて仏壇に供えた。なんで仏壇に下駄なんか供えるのか、とたずねる三人の子に、母はこんな話をした。
「夜寝ていたら、伸子が玄関口に歩いてきた。足もとを見ると下駄をはいてない。『伸ちゃん、お入り』と声をかけたら、姿が見えなくなった。あの子は弱っていたから、外に出ることもなくて、下駄を買ってやっていなかった。きっと下駄がなくて、入れなかったのだろう」
 さらに母は、この機会におまえたちに聞いてほしい、といった。
「お母ちゃんは、知恵が足りなかった。お医者さんがなんといおうと、伸子にはどんどん食べさせればよかった。いまさらあやまってもどうにもならないが、伸子にもおまえたちにもあやまりたい。
 夜、おまえたちの寝顔を見ていると、こんなおろかなお母ちゃんが、三人の子を一人前に育てられるだろうかとこわくなる。この間ひとりで墓参りして伸子の骨つぼを開けてみたら、小さい骨があって、つぼの底に少し水がたまっていた。お母ちゃんはこっそりその水を飲んだ。伸子がお母ちゃんのなかに入ってきたような気がして、これからも生きていかなくては、という気になった」
 小学生の子らに母の心がきちんと伝わったとは思えないが、50年以上たっても心に残っている。
 母に苦労をかけたことを思い出せばきりがない。長男のわたしが生れたときは早産で、産婆さんがタオルにくるんで目方を計ったら5百匁(もんめ)だったという。2000グラムに満たない赤ん坊だったのだろう。乳を吸う力がなくて、弱々しく泣くばかりだった、あんな子がよく育ったものだ、と祖母に聞いたことがある。
 山奥の分教場にわが一家がいた冬、小学四年生だったわたしは、大そりで遊んでいて足をくじいた。雪の中で泣いているわたしを、村の人が背負って分教場まで運んでくれた。
 一階の屋根まで雪の積もる山奥の村には、医者も整骨院もなかった。
「たがっただ(捻挫したんだ)。芋ぐすりを貼っときゃ治る」と村の人にいわれた。
 だが三日たっても四日たっても立てなかった。心配した母は、父と村の人にたのんでわたしを背負ってもらい、ふもとの町までつれていった。時間をかけて雪の山道をくだり、お祈りと治療をするおばあさんに診てもらったところ、やはり「こりゃ、たがっただ。この貼りぐすりを三日貼ったら治る」といってくすりを渡された。
 しかし一週間たっても十日たっても立てなかった。母は、また村の人と父にたのんでわたしを背負ってもらい、ふもとの町におりていった。そこから汽車に二時間乗って大きな町に行き、整骨院で診てもらった。
 骨折していた。骨に肉が巻き付いてしまっているが、とにかく治療してみるしかないということでギブスをつけてもらった。
 ふたたび二時間汽車に乗って、小さな町に帰ってきた。村に帰る人に連絡をたのんで、父がふもとの町にむかえにおりてきたのは、もう夕方だった。
 街灯などない。雪の山道をわたしを背負って、父は雪明りをたよりに一歩一歩のぼった。凍てついた道は滑りやすく、倒れたら谷底まで落ちてしまう。
 父がよろめき、わたしはギブスをはめた足を打った。痛くて泣いた。わたしのおしりに手をあてがって後ろからのぼっていた母は、なす術もなくおろおろし、なにか祈りのことばをつぶやいていた。家に辿り着いたのは真夜中で、妹、弟は眠っていた。子どもの頃の忘れ得ぬ体験の一つである。
 大人になってから足の骨折の話をしたら、「そんなことあったかなあ。いろいろあって忘れてしまった」と母は笑った。母にすれば忘れてしまうほどの、小さな苦労の一つだったかもしれない。
 妹伸子の死んだあとに生れた弟をふくめ、5人の子どもを生んだ母にしてみれば、ひとりひとりの子どもに胸を痛めたこと、どきっとしたこと、おろおろしたことが、数え切れなくあったであろう。そのたびに、全力でぶつかっていくしかなかったであろう。
 成長した子どもは、やがて友と出会い、師と出会い、異性と出会い、我が子と出会う。わたしも多くの人と出会い、孫と出会う年齢まで生きてきた。
 そんなわたしの出会いをふり返ってみると、やはり母と出会ったことが、心の中にいちばん大きな位置を占める。母の魂とわたしの魂は、出会ってからずっと真剣に切り結んできた。その出会いの長いドラマは、深く心の底に堆積して腐葉土となった。
 腐葉土は、どんなものがとび込んでも、心の壁を痛めないように、ふんわり受けとめてくれた。腐葉土に養分をもらって、いろんな種が芽を出し、心にみどりが茂り、わたしは人を愛し、人を信じ、人とつながり、人にやさしくすることができるようになった。
 父は俳句をたしなんだ。米寿をまえに入院して百日あまり、だんだん弱って食事が摂れなくなっても俳句だけは詠んだ。
 病院の夜は長い。交代で夜通し付き添う子らに、眠れぬ父はよく何時かとたずねた。そして ≪ 長き夜を覚めればそこに母のあり≫ という句を書きとめた数日後、亡くなった。
 人は母から生れる。人はみな、どんなかたちであれ、母と出会う。その出会いは華々しいドラマではない。平凡で、地味で、他人が見れば退屈なドラマかもしれない。しかし母の魂と子の魂が深く切り結ぶ、世界にひとつしかない真剣なドラマだ。このドラマを演じて、人は人のこころをもつにいたる。
 米寿をすぎて母は生きている。わたしの出会いのドラマは、これからどうなるにせよ、いずれ幕はおりる。その日まで母は真剣にドラマを演じるだろう。
 わたしも真剣に演じるしかない。そうすることが人の人たる所以(ゆえん)であると思うから。    おわり


  


 
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『母の藤村全集』

2010年05月30日 03時59分51秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 母のことを書いたのでこの機会に、十二年前に応募のために書いたエッセイを載せます。
 長くなるので恐縮ですがお読みいただけたらうれしいです。

    母の藤村全集

 85歳になる母は、私の家から車で10分ほどの神戸の高台に住んでいる。昨年定年で退職してから、私は週に二、三度母を訪ねることにしている。母は近くの市場に自分で買物に行くのでとりたてて用事はないが、仏さんに線香をあげ、お茶を飲んで帰る。
 88歳で亡くなった父の一周忌法要が無事に済み、母はほっとしたらしい。父の残した本や衣類を処分し、ついでに自分の書棚も整理しはじめた。
 梅雨の晴れ間のある朝訪ねたとき、母は部屋の隅を指して、何気ないふうにいった。
「これ捨てようと思うけど」
 青い布の表紙に金文字を押した本が積んである。見覚えのある島崎藤村の全集だ。
「一応持ってかえる。おれもいらんようなら、こっちで捨てるから」
 私は数十冊の本を紙袋に詰めた。
 わが家に帰ってから、紙袋の本を出して第一巻から順に並べてみた。三十一巻そろっている。一回目の配本はたしか第四巻の『破戒』だった、と思って奥付を調べてみた。昭和31年4月5日となっている。

 あの頃は父と母の仲がわるかった。そしてわが家は貧しかった。
 父は小学校の教員をしていて、戦時中母と私たち三人の子供をつれて朝鮮に渡り、敗戦後山陰の田舎に引揚げてきた。
 父は人づきあいが苦手で、人の行きたがらない分校に勤めることを希望した。母と私たちは父について分校に行き、校舎の端の六畳の部屋で寝起きした。村の子供たちが登校してくる時間になると、布団をたたんで部屋の隅に積み上げ、廊下に出しておいた丸いお膳や鍋を運び入れた。
 やがて妹が生れたが二歳で病死した。山奥の村には医者がいなかった。なおも分校に勤めると言う父を残して、母は子供たちをつれて町に出る決心をした。
 町に出るといっても住む家はない。母は女学校時代の友だちにあちこち声を掛けてもらい、六畳一間の離れに住むことになった。
 土曜日には父が、分校から停留所まで何時間か歩き、バスに乗って帰ってきた。長男の私は中学一年、妹が小学校五年生、弟が四年生のとき、下の弟が生れた。
 妹が中学に入った昭和27年、やっと六畳二間に三畳の町営住宅に入ることができた。傘をさして便所に行かなくてもよくなった。子供たちは自分の布団を敷いて寝られるようになった。父も本校に変わった。
 父が家から通勤するようになると、わが家の空気が重苦しくなった。父がむすっとした顔でこたつに入る。子供たちはこたつから離れ、息をひそめてお膳で宿題をする。父は、「わしゃ、一人で暮らす」といって、二年後にふたたび分校に上がってしまった。
 父は給料の一部した母に渡していなかったようで、母はいつも苦労していた。私たちはつぎつぎ高校に進んだが修学旅行に行かなかった記憶がある。母はなんとか自立して子供たちを育てようと、保険の外交員をし、保母の資格をとって保育所に勤めた。しかし臨時保母の給料での自立は無理だった。
 昭和31年私は地元の大学に入った。桜のつぼみもまだ固いある日、母は私たちを前に並べて、頼みがあるといった。
「お母ちゃんは山に上がって、お父ちゃんといっしょに暮らそうと思う。そうしたらおまえたちを大学にやれる」
 母は言葉をついで、こんど島崎藤村の全集が出る、藤村には女学校のときからずっと憧れとった、おまえたちに貧乏させといて心苦しいけど藤村全集を買いたい、といった。自分の物など買ったことのない母の頼みに、私たちはうなずいた。
 母が父の分校に上がった日、私は荷物を担いでいっしょに山に上がった。バスを降りて、春の陽をあび谷川のせせらぎを聞き、時間をかけて山道をのぼった。そして私だけが山を下りてきた。
 私たちはつぎつぎと社会人になり、神戸や大阪で暮らすようになった。父は定年で退職すると、退職金で田舎町に家を建てた。
 盆暮れに夜行列車でつぎつぎ帰省する子供たちを迎えるのが、父と母のたのしみになった。そのうち子供たちはつれあいや孫をつれて帰るようになった。
 母が63歳のとき、父と母は神戸に出てきた。都会で暮らすことは母の長年の夢であった。父はむろん反対した。67歳にもなって都会に出るのは、死ねということだと怒った。しかし結局、父と母は田舎の家をたたんで神戸の高台に住むことになった。
 神戸に出てしばらくして、母は小説の同人誌が創刊されると聞き、仲間に加えてもらった。それまで文章を書くといえば、手紙と新聞の投書くらいであった。小説というものを書いたことはなかったが、母はなんとか作文を仕上げて同人誌に出した。
 母はまず、自分の人生でもっとも懐かしい幼い頃の思い出を書いた。やがて自分の生きてきた道を、さまざまな切り口で書くようになった。
 地域の作家を招いての合評会に参加し、メモを見て学んだことを反芻(はんすう)した。短編小説を筆写し、新聞記事のスクラップをため込み、大阪に出掛けて文学学校の講義を受けた。
 母の書棚は自分の本や同人誌、文学仲間の自費出版物でいっぱいになり、書棚がもう一つ横に並んだ。それにもすき間なく本が並び、母は作品を書く合間に何度も整理した。しかしいつ訪ねても、藤村全集は中段のいちばんいい場所に並べてあった。
 藤村の小説の中でもとくに『新生』に引かれた、と母が話したことがある。妻の亡くしたあと手伝いに入った姪を妊娠させ、それを小説に書かずにおられなかった作家は、文学少女の魂を射たらしい。
 母はときに50枚、80枚の小説を書くようになった。どの作品も母の生きてきた道が題材になっていた。母につながる身近な人々が登場し、みんな善良な好人物に描かれていた。文学を志す母の本意は別にあったであろうが、ぬくもりのある穏やかな人間関係が浮き彫りになる作品だった。
 小説の同人誌は12年間休まず季刊で発行された。母はその毎号に自分の作品を出した。同人誌は50号を区切りにいまは年二回の発行となり、母は短い作品を書いている。
 母は十年ほど前から短歌雑誌の会員となり、短歌づくりに励むようになた。この頃はいつ訪ねても短歌雑誌の歌を抜き書きし、歌人の全集を見ている。
 一方父は、退職してから家に引っ込んでばかりいた。神戸で暮らすようになればさらに閉じ籠るだろう、と子供たちは心配した。しかし神戸に出ると間もなく、老人憩いの家に出掛けて碁を打つようになった。気のいい父は、いつでも初心者の相手をした。老人会の俳句サークルに加わり、俳句の同人誌に投稿し、泊まりがけの吟行に参加した。
 父の目には、都会の風物が新鮮に写ったようだ。老人無料パスで市バスに乗り、デパートや港や水族園に出掛けた。湊川神社の祭りや須磨寺のお大師さんの縁日に出掛け、少年のような好奇心で露店を見てまわり、がらくたを買ってきた。妻や私と西国三十三カ所観音霊場巡りもした。素朴な人柄を買われてか、ある年には地域の老人会長にも推された。
 88歳の正月を迎えて間もなく、父は肺炎で入院した。肺炎がよくなりかけると食事が出た。食べたものが肺に入り、たま肺炎をぶり返した。
 父が入院した百日あまりの日々、子供たちとつれあいは勤めをやりくりして交代で付き添った。
 父は5月に亡くなった。
 母は小柄である。いまの体重は30キロほどだろう。戦時中父について朝鮮に渡ったときは大病を患い、幼い三人の子供をつれて先に内地に帰った。戦後、小間物の行商をして山奥のを歩きまわったときは、家に帰ると疲れてへたり込んでいた。上の三人が大学、下の弟が小学校に通っていた頃には、医者に肝硬変の疑いがあるといわれた。母は死を覚悟した。それを手紙のかたちで私たちに伝え、親として何もしてやれなかった、と詫びた。
 母の人生には、死と向き合うときが幾度かあったであろう。
 だが人にはそれぞれ寿命があるらしい。母はいまも細く生きている。心と体のもとめるままに起居し、与えられた寿命を粗末にしないよう心掛けて暮らしている。

 藤村全集を手にとると、町営住宅を思い出す。母はこの本を押入れの隅にしまっていた。表も裏も表紙のちぎれてしまった数冊の古い本の横で、この本だけが光っていた。
 大学生になったばかりの私は、最初に配本された『破戒』を引き込まれるように読んだ。次に配本されたのは『夜明け前』第一部上だった。私は読みかけて難渋し、数十頁でやめた。そして43年が過ぎ、その本はいま私の手元にある。
 母は藤村全集を捨てるといった。
 手の力が自然にぬけて、何かが指の間からこぼれ落ちたのだろうか。秋の暮れに山里の柿がしずかに落ちるように。
 この本は、だまってこのままもらっておこう。    おわり
  
※ これを書いた数年後、藤村全集はまた母の元に戻りました。小さい活字でもう読めませんが、いまも本棚に並んでいます。父の一周忌前後母は体調を崩して子らが集ったこともありましたが、90歳を通過し13回忌も何もせずにやり過ごして、いまは竹薮で『仕事』に励んでいます。寿命というのはわからないものです。

 
 
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妙子さんの仕事材料を用意しています。

2010年05月29日 04時01分21秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 わが母妙子さんは5月6日に満九十七歳になりました。デイサービスセンターでもらったお祝いの色紙と孫娘たちにもらった花かごをベンチに置いて、彼女の仕事場である竹薮で記念撮影。
 朝は早く、ときには6時前に、用意してあるトーストにジャムをつけて食べます。紅茶は自分でお湯を沸かして入れます。(電磁調理器を使っていましたが空焚きが心配で小さい湯沸しポットに変えました)ポケットウイスキーの瓶からウイスキーを少し入れるのが彼女流です(見えにくいのでときにはドボッと入りますが、それがまた彼女にはおいしい飲み物になります)。
 朝食をすませるとシャッターをあけて朝日を部屋に迎えいれ、竹薮に上がる用意をします。天候によって衣服を調整し、運動靴をはき、花バサミの入った籠をもって、仕事場である竹薮に出掛けるのは八時前でしょうか。
 雨の日は竹薮に行けないので、息子が図書館から借りてきた本を読みます。若い頃から読書好きでしたから純文学系の本はよく読んでいますが、いまは大型活字本でないと読みにくいので限られた本を再読することになります。
 竹薮には息子が切った竹の、枝のついた先のほうが山積みになっています。その山にとりついて、竹を引っ張り出し、枝を花バサミで細かく切っていきます。そうすれば竹薮が片付くと思ってはじめた仕事ですが、いまでは一日中、ひたすら枝を切り刻んでいます。紅茶を飲んだりおやつを食べたり便所に行ったりするために家に帰りますが、一休みするとまた竹薮へ。
 暑い夏の日も寒い冬の日も竹薮に『仕事』に行きます。この家の若くない住人達の中では一番仕事熱心な人です。新聞はざっと見出しを見る程度ですが必ず見ます。テレビはまったく見ません。耳が遠いので文学仲間と電話で話すこともなくなりました。
 ところでその切り刻む竹の山が減ってきました。竹はたくさん生えているけどまだ切っていません。母には元気に『仕事』をしていてほしいし、その材料は用意しようとこのところ毎日10本あまり竹を切っています。    母の項つづく。
 
 
 
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コイモさん、こんにちは!

2010年05月28日 05時46分32秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 小野市の『ゆぴか温泉』前から出発しようとしている『らんらんバス』です。行き先が『うぐいす台』となっています。うぐいす台のことは前にこのブログで書きました。
 おそらくバブルで土地の値段が上がった頃、あちこちの丘陵で宅地開発が行われました。小野市のうぐいす台もその一つだったのでしょう。坂を上がって車で団地に入ったときの寂寥感はなんともいえません。空き地に草が生い茂り、売り地の看板があちこちに立っています。バス停の標識が道端に立っているので運行時間を見ると、週に一本だけ小野市街にバスが行きます。週に一本! 店はない。隣近所はパラパラしか家がない。もし車に乗れないとしたらどんな思いで暮らすことになるか。
 孫たちにイチゴ宅配してゆぴか温泉につかって帰るとき、たまたまこのバスを見かけました。一年前に見たうぐいす台のわびしい風景を思い出し、なんともいえない気持ちになりました。
 散歩中の村の人に声をかけて、イチゴ畑の足跡を見てもらいました。「これはどう見てもアライグマだな」といわれ、檻でつかまえるしかないというのが結論です。イチゴ、トウモロコシ、スイカなどアライグマの好きな作物をこれからつくるのですから、なんとしても檻を仕掛けて捕まえなければなりません。気の重い話です。
 サツマイモは育ちがわるく、植えてひと月になる苗に勢いがありません。「死んではおらんぞ」と申し訳程度の芽を出しています。地温が高くなれば植え直してもいいと思っていましたが、その地温がなかなか上がりません。10度以下では苗は枯死すると書いてあるのに、五月の終りになっても最低気温が10度以下になることがあります。去年みたいに芋掘りをたのしんでもらえるでしょうか。
 そんなときコイモの畝を見ると、雨降りのあと乾いて固くなった土を突き上げて、コイモの芽が出ています。この芽と次の芽との間にもう一つ芽を出すはずだ、と目を凝らして地面の割れ目をたどると小さい点のような芽が見つかります。気持ちがサッとひらき「コイモさん、こんにちは!」と声を掛けたくなります。
 五月最後の週末、また孫たちがやってきます。これでイチゴシーズンは終りです。田舎のおじいちゃんおばあちゃんを元気に勤めました。来年もよろしく。
 



















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ついにアライグマがやってきたか!

2010年05月27日 05時04分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 動物の五本指の足跡がイチゴにかけた黒いマルチの上にくっきり残っています。畝間の地面はイチゴを採るときに踏んでしまったのでわかりませんが、この足跡はアライグマしか考えられません。
 ついにアライグマがやってきたか!
 二年前の4月この休耕田を借りる話になったとき、いちばん心配したのはアライグマの出没でした。朝の散歩で丈夫な魚網のような網をかけたスイカ畑を見て、おじいさんにアライグマのひどい仕業を聞いて、「なんとしてもアライグマに食べられないように畑を守ろう」と思いました。
 1,5メートル×50メートルの丈夫な動物用防護ネットを買い、スイカ、トウモロコシを守りました。スイカは地面に50センチの柱を打ち込み、竹を渡してネットでおおいました。トウモロコシは高さ1,8メートルの枠を両端につくり、竹を渡してネットでおおいました。作業をするときはネットをはずさねばならないので面倒でしたが、アライグマから作物を守りたい一心で頑張りました。
 しかしこの二年間、ヌートリア、ヒヨドリ、それに夜盗虫をはじめとするムシたちに食べられましたが、アライグマの被害はありませんでした。去年の夏スイカに丸い穴があけられ、「さてはアライグマか」と思ったことがありました。市役所に写真を見てもらったら「アライグマかもしれない」と檻を貸してくれました。猫が一匹引っ掛かっただけでしたが。
 アライグマは中をくりぬいて食べるのに、うちのスイカは円筒形に食べられていました。カラスもそんな食べ方をする、と農政課の人に聞いて様子を見ていると、カラスがよく畑をうかがっています。スイカ畑のテグスを張り直したら被害はなくなりました。どうやらカラスだったようです。
 今回はどう考えてもアライグマです。ヌートリアのように夕方から姿を見せる夜行性でなく夜になってから出没し、一晩に5キロくらいの行動エリアをもつそうです。今回の訪問は小手調べの探索だったようですが、本気でかかられたらイチゴ畑やトウモロコシ畑はひとたまりもありません。
『魔弾の射手』株式会社のドングリは魔法の弾丸でした。ゴムのパチンコでドングリを撃つと、闇夜でもカーヴしてアライグマの眉間にパチンと当たりました。恐怖におののいたアライグマは二度とこの畑に足を向けませんでした。 …… というようなことにならんかなー。
 
 
 
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ヒヨドリを埋葬しました。

2010年05月26日 04時12分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 雨がよく降り、強風も吹きました。畑に行ってみるとイチゴネットの柱が傾いています。雨で土がゆるんだのと、ネットに強風があたり、圧力で倒れたのです。すぐに直さなければなりません。ヒヨドリはいつでもイチゴをねらっていますから。
 柱を補強する杭を打ち込んでネットを張りなおしてみると、鳥がネットにかかっています。クチバシが鋭くとがり、尻尾の羽の長いヒヨドリです。網にからまって死んでいます。かなりジタバタしたのでしょう。網を切らないではずそうとしましたが無理です。ネットの糸を切ってヒヨドリをはずしました。
 さて、このヒヨドリはどうしよう。
 他のヒヨドリの見せしめにネットにぶら下げるのはどうも気がすすまない。道端に置けばトンビかアオサギが見つけて持っていくかもしれないがそれも気がすすまない。動物の塚に埋葬します。
 この塚というのは、もともと畑で死んでいたシマヘビのために土手につくりました。(2009年4月16日ブログ)数日後にまた蛇が死んでいて、これも塚に埋葬しました。道子さんと相談してこれをすべての動物のための塚ということにして、夜盗虫の代表や胡麻につく10センチを越える巨大青虫も葬ってきました。
 その塚にヒヨドリを埋葬し、花を供え、般若心経をあげておきました。そういえば遺骨をこの塚に埋葬したわけではありませんが、ぼくたちの心の中では檻で捕まえ、殺処分されたヌートリアもこの塚に入っています。
 それにしても人間は勝手な動物です。高野山奥の院にシロアリの碑があるのをそのとき紹介しました。(『シロアリよ。やすらかにねむれ』という碑が高野山奥の院に建っています。建てたのはシロアリ駆除株式会社です)うちの畑の塚に、猪、鹿、アライグマを葬らなくてすむようにしっかり拝むことにします。
 
 
 
 
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我が家の畑と動物の話

2010年05月24日 04時30分37秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 八幡神社の横に村の墓地の一つがあります。そこの小さい木立ちが枯れたようで、立派な木が切り倒されました。そのうち片付けられるかと見ていましたが、そのままです。
 これを輪切りにして山に置いたら腰掛になる。
 車で取りに来て、チェーンソーで切り、持ち帰って裏山のふもとに並べてみました。これを山の頂上まで運んで地面に並べたら、小さいイスになりそうです。運び上げるのが大変ですけれど。
 先日ブログで紹介しましたが、ナメクジよけの台にのせた落花生の苗は順調に芽を出しています。しかし苗ポットのあたりから先日鳥が飛び立ちました。さてはハトかヒヨドリか。芽を出した落花生のやわらかい豆をつついたか。早速防鳥ネットをかぶせました。地面からも空からも攻めてきます。
 我が家の裏山の向うにある福地池の谷にはイノシシが出没したそうです。散歩のおじさんが話していました。ゴルフ場の山のほうから下りてきたのでしょう。いままで向かいの蓮花寺のほうの谷はイノシシが出るけれど、こちらの谷は大丈夫と勝手に思い込んでいました。
 ここに畑をつくりはじめてまず心配したのがアライグマでした。桃坂の神社の天井裏にはアライグマが住み着いたというし、西中の山のふもとのおじさんはトウモロコシやスイカをアライグマに全滅させられたというし、スイカやトウモロコシに頑丈な動物防護ネットを張って身構えました。
 しかしムシ以外でまず被害を受けたのはヌートリアでした。去年の冬は大根数十本と人参がやられました。ちょうどこのブログを立ち上げたときです。
 そこで市役所の農政課で檻を借り、ヌートリア一家を捕獲しました。村の人たちの評判になり、老いも若きも幼きも村中こぞって見に来ていた(孫たちもたのしみにしていた)ヌートリアを、ぼくが捕まえて役所に引き渡してしまったことに複雑な思いはありますが。 
 もし猪や鹿が出没するようになると事態は深刻です。鉄筋のメッシュで畑を囲い、鹿よけのネットを張り、電気柵を張りめぐらし……。リコリス(曼珠紗華)の帯で畑の土手を縁どるというのどかな話なんかどこかに吹っ飛んでしまいます。
 やっぱり『魔弾の射手株式会社』が必要だなー。
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河村たかし名古屋市長の話をききました。

2010年05月23日 07時07分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 三木市では、昨年の秋に再選された薮本市長が、市議会に『議員定数を削減する案』を提出して否決されました。来年4月には市会議員選挙があります。定数を減らされたのでは当選ラインがきびしくなる。議員にとっては一大事。議会に提案しても議員は反対するでしょう。(三木市には賛成する議員がわずかにいます。立派です)
 名古屋市では河村たかし市長が、市会議員の定数と議員報酬を半減する案を市議会に提案しました。そして全議員が反対して否決されました。市長は次の手を考えているところです。その河村市長が三木市に講演に来ることになりました。
 土曜日の夜、二人で聞きに行きました。名が知られてるとはいえ、芸人でもタレントでもない名古屋市長が来るというだけでどれだけの聴衆が集るだろう。三木市長を応援するつもりで、夕方二人で出掛けました。会場の三木文化会館に行ってみて驚きました。次々と車がやってきます。交通整理の人も駐車場のあちこちにいて、車を誘導しています。
 1300人入る大ホールは大きすぎないだろうか。入ってみたら前から席が埋まり、三分の二くらいの入りに見えました。年配の人が多いようですがこれだけの人が集れば立派です。
 河村市長は、飾らない名古屋弁で50分ほど講演しました。
 市長の給料を、妻には反対されたけど800万円に減額した。61歳の自分が名古屋で普通に勤めてもらえる給料を目安にした。議員活動は世界のほとんどの国でボランティア活動であり、給料は安く、職業化していない。議員が高い給料をもらい、威張り散らす日本がおかしい。事業仕分けが脚光を浴びているが、仕分けではムダはなくならない。支出を付け替えるだけだ。税金を減らし、入る金をなくせばムダはなくなる。
 長年国政にかかわり仕組みのわかっている本物のプロの政治家を感じました。
 あとで講演した三木市の薮本市長が、田舎町の見知らぬ市長がいきなり訪ねていき、講演を快諾してもらったこと、公務でないので新幹線グリーン車のチケットを送ったら返送されてきたこと、講演料はとらず文字通りボランティアで話してもらったことを控え目に披露していました。
 日本の政治は変わり目にきている。三木市も変革の仲間に加わっている。そんな市に移り住んだ。ぼくには力はありませんがいい気分です。
 ところで神戸の市議会が名古屋みたいな提案を受けてみたらどんな場面が展開するでしょう。
  
 
 
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みとろ荘の温泉に入りました。

2010年05月21日 05時29分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 強風が吹いたのと雨が降ったので、イチゴが傷んでいます。それでも赤くなっているので採って選別し、孫たちに宅配しました。神戸から加古川にまわり、留守宅にイチゴを届けたあと加古川の『みとろ温泉』に入って帰りました。
 お風呂大好きなぼくはあちこちの温泉に行きます。家の風呂ではどうも風情がありません。家を建てたときは、風呂の窓から竹薮を眺めてゆったり入ることを考え、ユニットバスの窓を大きめにしました。しかし家の風呂では温泉のような気分になれなくて、いまも温泉によく行きます。
 そんな温泉の感想を少々。
○ みとろ温泉(加古川市……家から車で40分) きのうはじめて入りました。各地にできた温泉の先輩格のような少し古びた温泉で、お湯は気に入りました。入浴客は数人でした。一時間ほど入りましたが疲れがとれた気がします。リピーターになるかと問われると「いいえ。車で15分以内のところならまた来てもいいけど」。
○ とどろき荘(東条町……10分) 先日、畑仕事で疲れたので温泉に行こうと『とどろき荘』に夕方来ました。でも空腹だったのでまず腹ごしらえを、と思って生ビール(小)と唐揚げ定食を食堂で食べました。ここなら道子さんが帰りの運転をできるからです。だけど食事のおわった頃に面倒になり、風呂に入らないで帰りました。ぼくにとってはその程度の温泉。
○ 杜の湯(グリンピア三木……10分) 近いのでよく行きます。よくあたたまります。平日はシニアの入浴料が400円になります。
○ よかたん温泉(30分) 源泉がぬるく一時間でもつかれるから道子さんのお気に入りです。ぼくも内外の風呂に入ってのんびりします。
○ ゆぴか(30分) 風呂からの景色がいい。施設が新しい。瞑想ルームのような気持ちのいいスペースがあります。
○ 湯庵(三木市……25分) 二度行きましたが、リピーターになる気はしませんでした。
○ 熊野の湯(三田市……40分) 遠いのになぜかときどき行きます。アジアンテイストの風呂がいい。のんびりできます。       以上 
 
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珈琲庵『珈集』で昼食。

2010年05月20日 03時57分24秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうは雨でしたので畑の水やりはパス。三木市街に買物に出掛け、お昼はお気に入りの喫茶店でサンドイッチを食べました。去年の秋にブログで紹介した『イプセン』ではありません。珈琲庵『珈集』(かしゅう)というコーヒー専門の新しい喫茶店です。
 写真でこの店の空気感が伝わるでしょうか。エル字型の座席配置で、ガラスの向うは白い漆喰の塀にかこまれた禅寺風の白砂と大石と植え込みの庭です。塀の外のクヌギやコナラなどの木立ちが借景になっており、いまはアカシアの白い花が咲いています。
 新しい建物ですが年季の入った古民家風の木材をそのままつかった内装になっており、一歩店に入って暗めの店内から外を見ると気持ちがサッとひろがります。きのうは雨が降っていたのに外を明るく感じました。気に入っておられる方は多いようでお昼どきの店内はざっといっぱいでした。
 久しぶりの雨で畑の作物や山の木々はひと息ついたでしょう。ぼくたちもひと息つきました。
 イチゴシーズンに一度は、週半ばに採ったイチゴを孫たちに宅配するつもりです。きょう出かけようかな。
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床にワックスをかけました。

2010年05月19日 02時38分30秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 4月20日頃に撮ったアセビの新芽の写真です。晴れた日とくもりの日に撮って見比べ、くもりの日の写真を載せます。深い色合いです。見ていてこころがしっとりします。しばらくパソコンのデスクトップにします。アセビは道子さんがコメントしているようにトウガラシといっしょに煎じて畑のムシ防除につかいます。
 いい天気なので午前の半日、床にワックスをかけました。床の拭き掃除とワックスがけはいままで雑巾をつかい、床を這いまわってしていましたが、今回はモップで拭き掃除とワックスがけをしました。いまは這いまわってもできるけど、遠くない未来に這いまわるのがしんどくなります。それを見越してやってみました。らくです。これなら80歳代になってもできるでしょう。
 午後は畑の水やりです。まず村の墓地の端に植えた桜の木に水をやりました。
 この地は大昔から人が生きてきたところですから村内には数ヶ所の先祖代々の墓地があります。街のように整理されて○○墓苑になっていません。その一つがうちの畑のそばにある墓地です。江戸時代の年号の入った墓石もあります。
 クヌギやコナラの木立ちがある姿のいい墓地です。四年前の三月、田舎暮らしの候補地探しで見に来たときはまだ新芽も出ていませんでした。落葉した高い木々に春の日が当たり、小高い丘の向うは田舎の家家が点在し、その先はなだらかな山々が連なります。たたずまいが気に入りました。
 こんなところで、春の陽を浴びて、のんびり畑仕事ができたらいいだろうな。
 いまその通りの日々です。この地に生きた人々が何百年も畑や田んぼをつくってこられたから、お陰でぼくらが畑をたのしむことができる。その感謝の気持ちを伝えたくて桜の木を植えました。根付いてくれたようです。 
 
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畑も山も水やりに時間をかけます。

2010年05月18日 06時20分54秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 今年は裏山にいろんな木を買ってきて植えました。いままで植えていなかった桃の木も2月に植えました。その桃の花が散り、赤ちゃんみたいな実がついています。「桃栗三年……」といいますが三年目になる苗なのでしょうか。
 乾燥注意報が出ています。雨が降りません。サツマイモの苗を植えたばかりだし、ようやく気温が上昇し日照も確保されるようになったので水やりが欠かせません。畑にホースを引っ張りまわして一時間ほど水やりをします。天気予報ではきょう火曜日も水やりが必要です。
 きのうは畑の水やりをすませてから裏山の水やりをしました。いろんな木に意識を向けて水をやっていきます。シイタケの原木置き場の前は以前は細い竹やアラカシなどが茂っていましたが、冬に木を植えるスペースを確保しようと茂みを切ってしまいました。そのため藪の奥に植えていた斑入りアオキに長い時間日が当たるようになりました。日陰のほうがいい木です。近くに生えてきたタケノコの芽を止めて、日陰になるように配慮しようと思います。
 ヤマツツジと思って名札を付けたのに間違っていました。コバノミツバツツジです。今年は寒肥の時期に、竹薮時代から生えていた土着の木々にも鶏糞を入れたからでしょうか。花のおわったこの時期に茂ってきました。竹薮時代は細く伸びていたのに足もとからしっかり茂っています。来年のツツジがたのしみです。
 アセビもそうです。竹薮を皆伐するときにたくさん生えているシャシャキやアラカシはほとんど伐り倒しました。みんなヒョロヒョロの細い木でしたから。でもアセビだけは曲がりくねった細い木でも残していました。アセビの葉をトウガラシなどといっしょに煎じて、畑の虫予防の薬として散布するからです。
 アセビは常緑樹です。そこで冬の間に、葉がなくなり枯れ木のようになった枝先を切りました。それが4月にきれいな赤い新芽を出し、いまは若緑色になって茂っています。寒肥と日照のお陰でしょうか。木に勢いがついてきました。
 わたしたち人間は、木の深い精妙ないのちにふれてただ感心するしかありません。
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しっかり田舎のおじいちゃんしてます。

2010年05月17日 08時47分57秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 きのうの日曜日も娘たちや孫たちなどがイチゴ狩りにやってきました。写真は我が家の玄関です。みんなはウッドデッキや部屋で各自の皿に山盛りに分配されたイチゴを食べています。ことしは二条植えで三畝つくったので十五人超のお客さんがやってきてもイチゴを分配することができます。
 イチゴを洗っている娘に「おじいちゃんはいらないよ。大志くんの『イチゴ食べたい気持ち』の強さを100としたら、おじいちゃんは3,7くらいだから、大志くんにやって」と言ったら「大志を100としたら私なんか118くらいあるわよ」と答えが返ってきました。
 そうか。孫というより娘たちの食べたい気持ちが強いのか。毎日勤めながら日曜日にイチゴ狩りに来るのはかなりの負担だろうな。それでも5月は毎週来るのだから立派なものだ。
 しっかりおばあちゃんしている道子さんに「来年も三畝つくるつもり?」ときいたら「こんなに喜んでくれるんだから」という返事でした。娘よ孫よ、安心するがよい。
 週の半ばには次のイチゴが赤くなってしまうので、これはこちらで採って孫たちに宅配するつもりです。それでも採りきれない熟れたイチゴはジャムにして配ります。せっせと田舎のおじいちゃん・おばあちゃんしてますねー。
 きのうも裏山のてっぺんでみんな持ち寄りで弁当を食べるというので、おじいちゃんはチェーンソーを持ってあがり、切り株を切ってまわりました。山のてっぺんの平らなところに周回散歩道をつくるつもりにしているのですが、とても手がまわりません。
 そういえば先日ここで弁当を食べたときは、流しそうめんをしたらいいとか、家と山頂に糸電話をつけたらいいとか、すべり台をつけたらいいとか、いろんな要望が出ていました。きょうは切り株を切りながら、かたちのいいヤマモモの木を見てツリーハウスをつくることを思いつきました。
 いくら低い山でも、とにかく山頂まで竹を切ったことで、裏の竹薮に対する見方がちがってきました。里山のイメージが自分の中で日々ふくらんでいきます。そして山仕事は『仕事』というより『遊び』という感じなのがいい。
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ナメクジくん、チャレンジしてみるかね。

2010年05月16日 04時41分53秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 去年は落花生のポット苗が30個もナメクジに食べられました。落花生となると殻にでも寄ってくるほど好きですから、ポットから芽を出している豆は大好物です。そこでことしはナメクジに絶対食べられないように、写真のような台をつくりました。
 まずナメクジのきらいなクレオソートを塗った9センチ×2メートルの板二枚に台をつけます。そして二枚の板をまたぐようにポット苗のかごを置きます。ナメクジはジャンプしたり空を飛んだりしません。地面をはって移動します。ポットの落花生をねらうとすれば、どうしてもクレオソートを塗った板を這っていかないとたどりつけないのです。
 大好物の落花生がずらっと並んでいる。クレオソートの板を這っていくのはいやだ。(近年のクレオソートはマイルドになっていますがそれでもきらいます)あの落花生はなんとしても食べたい。「あー、ぼくが空を飛べたらいいのに……」なんてナメクジは星空を見て嘆くのでしょうか。
 念のために骨だけになったアルミパイプのデッキチェアーを二つ置き、その上にあの台を置いてポット苗のかごを載せました。ナメクジが地面から攻略するには、まずデッキチェアーのパイプを這い上がり、クレオソートの板(幅9センチ)を這っていかねばなりません。
 ナメクジくん、チャレンジしてみるかね。
 サツマイモの苗を植えました。四うねのうちナルトキントキの二うねは、ダイキで安売りしていた苗は全滅したので、そこにナルトキントキ20本。二列目の最後から逆にシモン一号を10本。あと20本植える場所が残っていますが、これは一ヵ月後にツルをとって植えることにします。
 ベニアズマの二うねは、コメリで買ったウイルスフリーの苗がしっかりしてきました。そのつづきに30本を植えたのと4月末に水田種苗店で買った安納芋20本が植えてあるのでいっぱいになりました。サツマイモのツルはどれも同じような顔してるから名札をつけないと忘れます。名札をラミネートして竹にはさんで立てることにします。
 土手の草刈りをした草を運んで、竹を燃料にして焼きました。衣装缶二杯の草木灰ができました。サツマイモがついたら灰をやります。
 
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イングリッド・バーグマンは美しいです。

2010年05月15日 04時53分13秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 散歩に出たときに我が家を撮ってみました。左右に竹薮が茂っていますが、頂上までクヌギ・コナラの林ができています。下に低い木々が少しあればいい感じの里山です。夏には左側の竹薮を皆伐して里山のスペースを広げようと思っています。でもいまのところ畑仕事に手をとられ、山の仕事はお預けです。日々生えてくるタケノコだけは、ぼくの背より高くなる前に切ることにします。
 畑では落花生の畝をつくりました。まず少量の有機石灰と草木灰とコープ瑞穂農園の堆肥を入れ、それに『金の有機』〔実がなる作物用です〕を少々まいて耕運しました。それから幅1,2メートルをメジャーで測って杭を打ち、耕運機でうね立てをしました。草抜きを考えると必要最小限のうねがいいと思います。
 ところでパソコンに向かうと20分くらい [ you tube ]でいろんなものを見るのが癖になっています。最近はキャスリーン・バトルの歌とグレン・グールドのピアノ演奏を主に見ていましたが、きのう思いついてエリザベス・テーラーの映像を見ました。現在の映像もあり、絶世の美人ですがやはり寄る年波には……。
 そこから思いついてイングリッド・バーグマンを見ました。映画『カサブランカ』の映像がたくさんアップされています。「美しい」という言葉は彼女のためにあるような、ひと目見てハッとする美しさです。
 でも不思議ですね。人間は目が二つ、鼻と口は一つあって、その形と配列が人によってわずかにちがうだけなのに、どうして「バーグマンは美しい」と世界中の人が感じるのでしょう。
 そうそう。こんなことがありました。バーグマンの顔、姿、出演した映画などすべてをくっきり思い浮かべられるのに『イングリッド・バーグマン』という名前が出てこない。「えーとなんだったかなー。えーとえーと」と何時間も何日も考えました。10年くらい前。やっと思い出して、あれから即座に名前が出てくるようになりました。もう何歳まで生きても、ボケてしまっても、絶対に忘れません。
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