古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

はーるよこい !

2012年02月29日 06時11分39秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                   
 何の写真かと思われるでしょう。散歩の途中に撮りました。これはとなりの村・西中の公民館前にある消防ホースの格納庫です。戸が開かないように丈夫な鎖と南京錠で武装しています。実は口吉川町一帯で、消防ホースの口金盗難が相次ぎ、うちの村のホースの口金も盗られています。それでこんな不恰好な防御をしているのです。でもこれでは「火事だ!」というときに消防団がかけつけても「カギがあかない! ホースが出せない!」ということになります。
 それにしても悪いヤツがいるものです。金属として売ってもたいした金にならんのに、なんとオロカなことをするものか。天罰よ下れ! 
 そろそろうららかな春の到来を感じる日があってもいいのに、ずーっと寒い日がつづきます。散歩をする気にもなれません。「はやく畑に出たい。土にふれたい。さすれば体調がよくなる」と道子さんは春の陽射しを待っています。ジャガイモの畝はできてマルチをかけていますが、畝間がべたつくのでまだ植えていません。
 そうそう、春ジャガイモはイモを切って切り口に草木灰をつけて植えます。そのとき切り口を上に向けるほうがいいんですって。いままでジャガイモの芽が地面に顔を出しやすいように切り口を下に向けていました。しかし逆のほうが、芽の中でも強い芽が地中で曲がって地面に顔を出すからいいんですって。道子さんが図書館で借りた本に書いてありました。地面から芽が出るのは遅くなるでしょうが、強い芽が出て、芽欠きの必要もないそうですから試してみます。
 
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うちの村のお伊勢参りに行きました。

2012年02月27日 05時10分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 25日26日と一泊で、うちの村のお伊勢参りに行きました。写真は泊った宿の宴会で、カラオケがだんだん盛り上がり、みんなで盆踊りをはじめたところです。町内でお伊勢参りに行き、宴会で盆踊りまで飛び出すなんて新しい街の暮らしでは考えられませんが、田舎ではまだなんとか生きています。この冬は道子さんの体調がイマイチだったので思案しましたが、5年に一度の村のお伊勢参りになんとか二人で参加できました。留守番する母・妙子さんのお守りは弟に頼みました。
 5年前の2007年1月、見ず知らずのこの村に69歳で引っ越してきたばかりのときに、お伊勢参りの回覧板が回ってきました。いまどき『お伊勢参り』なんてそんな風習が残っているのかと驚きましたが、村の仲間に加えてもらいたくて、二人で相談して参加することにしました。顔を知っている人といえば、あいさつに行った区長さんだけでした。
 引っ越して6年目になる今年、20人ちょっとの参加者で顔見知りでなかった人は一人だけで、その方とも旅の途中にお話して様子がわかりました。あとの人とは道子さんもぼくもふだんからおしゃべりできるような顔見知りになっており、自分たちがそれなりにこの村にとけ込み、受け入れてもらっているのを感じました。よかった!
 もう5年たつと79歳になります。そのときぼくはどうなっているだろう。また元気に参加できるだろうか。そう思って思い出づくりにこの旅行はビデオを撮りました。ぼくにとっては自分は映っていなくても「老人になってから思い切って田舎暮らしをはじめた」思いの詰まったビデオになります。でもこのたびは参加者に老人会のメンバーが多く、お伊勢参りはいつまで村の人たちに支えられるだろう、という気もしました。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3年8ヶ月間の我が家の生ゴミです。

2012年02月23日 03時47分04秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 写真は我が家の生ゴミのコンポストです。2008年5月、休耕田を借りたときに村の製材所(だった)の地主さんに廃材をもらい、自作しました。縦2メートル・横1メートル・高さ90センチで、畳より広いコンポストです。底はなく、内側に銀色のシートを貼っています。
 新聞紙に生ゴミをくるんで中央部に投入していますが、上まで一杯になったので、三つに分かれたふたを全部はぐって、生ゴミを左右に掻き寄せました。これで3年8ヶ月分の生ゴミですからもう一年分くらいは入りそうです。
 田舎に引っ越したとき、300リットルの大きなコンポストを買って庭に置きました。ところが畑で採れた野菜を洗い、葉や根を処理して新聞紙にくるんで捨てるのですぐに一杯になってしまいました。そこで裏山に穴を掘って埋めることにしました。竹薮ですから縦横に這う根にぶつかりますが、それをツルハシで切り、深さ1メートル以上の大きな穴を掘りました。ところがこの穴の生ゴミを、夜中に猫がやってきて引っ掻きまわし、散らかすのです。仕方なく捨てたゴミに土をかぶせると穴はすぐにいっぱいになってしまいます。
 引っ越して二年目、畑を借りたときにまず考えたのは「どんな生ゴミコンポストをつくるか」でした。20人ほどの市民でやっていた大豆畑トラストでは、ベニヤ板一枚大のコンポストをつくって、これに生ゴミを投入していました。それを参考に、うち一軒だから大きなコンポストをつくれば数年間は困らないだろうと、写真のようなコンポストをつくったという次第です。
 生ゴミ投入時にヌカをふりかけたときもあります。それがうまく醗酵して60度の高温になったときは夏でもハエや虫がいませんでした。でもいつとはなしにハエなどがわいてきます。いまは畑のゴミを燃やした草木灰をふりかけています。EMなどをふりかけて生ゴミを醗酵させ、肥料として活用すればいいのですが……。また考えます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シベリウスの交響曲・第二番に圧倒されました。

2012年02月18日 06時35分58秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 寒いけど早春の陽にあたって散歩しようと山のほうに行ったら、田んぼにヌートリアがいました。上の「蛇ガ池」の堰堤から下りてきたのでしょう。こちらが近づいてもひたすら草を食べています。よーし、写真を撮ってやろう。そーっと30メートルまで近づいたら、いきなり堰堤のほうに走っていってしまいました。ぼくよりはるかに敏感に気づいて、近づくのを意識しながら草を食べ、さっと逃げたのです。
 あのヌートリアは家族がいるかなー。一家で下の池に引っ越してきたらうれしいけどなー。
 きのうは芸文センター管弦楽団の定期演奏会があり、西宮に出掛けました。オッコ・カムの指揮でオール・シベリウス・プログラムです。芸文センターのオーケストラはオーディションで選出され、在籍3年で巣立つようになっています。だからメンバーは若く、音に伸び盛りの力があります。その力を最高にたばねたオッコ・カムの指揮は見事でした。
 きのうは定期演奏会のチケットを忘れました。入場直前になってそのことに気づいたときはまず「もし入れなかったら仕方がない。帰ることにしよう」と思いました。でも入口で事情を話し、少し待ったら入れてもらえました。同じようにチケットを忘れて入れてもらった人が4人いて、なんだかホッとしました。
 なにか思わぬことが起きると、その瞬間に頭がまっ白になる。冷静な思考が吹っ飛ぶ。老人の特徴です。だから「オレオレ詐欺」が成立するのです。きのう、もし2時間以上前に「チケット忘れ」に気づいていたら、急いで三木までとりに帰ろうとしたかもしれません。そして事故でも起こしていたら……。
「まわりの人に頼む」「片意地張らないで甘える」ことのできる素直な老人になりたいです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グルコサミンを飲んでいます。

2012年02月15日 04時27分59秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 口吉川町殿畑を散歩していて見かけた墓です。兵士の名前は三人とも<井上>さんだったので、あのアメリカ映画『プライベイト・ライアン』のように三人兄弟の戦死した家の人が墓を立てたのかと思いました。でもそばに寄って戦死の状況を読んでみると父親の名前は三つともちがいます。親類縁者の戦死者の墓をどなたかが立てられたのでしょう。生前の若者を知る人はまだご存命でしょうか。どんな人だったかきいてみたい。
 去年の秋口から膝が痛くてときどき医者に診てもらい、水を抜いてヒアルロンサンを注射してもらっています。でも人にそのことを話すとたいていの人は「水を抜くのはよくない」といいます。サプリメントをすすめる人もいます。テレビでは年寄り向けのサプリメント広告が花盛り。コウジュンとかいうのがあるかと思えばジュンコウというのもあったりして、にぎやかなことです。
 そこでネットで、「グルコサミン/コンドロイチン/コラーゲン/ヒアルロン酸/……などは効くか」を検索したら、これまたいっぱい説明が。コマーシャルではドローッとしたヒアルロン酸を見せますが、「あんなものを飲んでそれが血管を通って関節に行くわけじゃない。それにあんなドロッとしたものが血管を通ると詰まってしまう」と書いてあって、「うん、そうだ。わかりやすい」と思ってしまいます。直接注射するのならわかりますが。
 でも「無料サンプルを送る」とか「いまなら半額以下のお試し価格で」というところには、電話をして送ってもらっています。飲んでも害にはならんでしょう。それをつぎつぎ飲んでいくと、それだけで半年や一年はかかりそう。それを飲んでしまってからどうするか考えることにします。
 近ごろは朝、瞑想のあとに10分くらい体操をしています。足の指、足首をまわし、足でグー・パーをやり、大腿四頭筋を鍛えるように片足ずつ足をもちあげて支え、また食後には散歩をします。それででしょうか。動きやすくなりました。「ひょっとして無料サンプルのグルコサミンが効いたかな」と思ったりしますが。痛みもなくなり、しばらくはお医者さんにも行かなくてすみそうです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『シベールの日曜日』そして『若草物語』

2012年02月14日 06時16分46秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
              
 朝、散歩に出たら冬枯れの墓地の木々が池に映っていました。畑に行くときいつも見ている景色なのに、ふと若かった頃に見た映画『シベールの日曜日』を思い出しました。写真をアップします。
 あの映画を見たのはいつだったか。ネットで調べたら1963年・昭和38年のことでした。1960年(昭和35年)山陰の田舎から出てきてようやく街の空気になれ、心の渇きを感じていた頃でした。大阪の難波の街を歩いていたら、当時あった「スバル座」という映画館に物凄く大きな看板が立っていました。『シベールの日曜日』がどんな映画か知らなかったけれど、その看板に魅かれて入りました。
 カサカサ音を立てる冬枯れの心のひだに、なにかがしみ込んでくる映画でした。
 いま70歳代の人は、おそらく映画世代の人です。幼い日に、あるいは孤独なたましいをかかえた青春の日に、映画館で見た生涯忘れられない映画を、それぞれの胸にかかえて生きる人です。ぼくもそんな世代のひとりです。そして『シベールの日曜日』はその生涯忘れられない映画です。アマゾンで検索したらDVDが出ています。古い映画なのに4000円近くします。寄せられたコメントを読むと、同じ思いの人がたくさんおられました。
 そういえば80歳になる知人は、『ローマの休日』が忘れられない映画だそうです。日本が戦争に負け、絶対勝つと思っていた心をひっくり返された頃に、あの溌剌とした青春映画を見て「こんな世界があるのか」と視界がひらけたそうです。
 ぼくにはもう一本忘れられない映画があります。1949年制作のアメリカ映画『若草物語』です。このブログにも以前書いたことがありますが、中学2年生のときに見ました。田舎町の映画館に学校から引率されて行き、ため息をついて《総天然色》のきれいな画面に見入りました。中学校の英語の教科書は  〝JACK AND BETTY" で、アメリカの家庭が出てきます。暖炉があり、電話があり、自動車があり、カーテンがかかっており、ベッドがあり……。そんな生活がそのまま出てくる映画と、美しい四人の姉妹にうっとりしました。昭和26年日本がまだまだ貧しかった頃のことです。
『子連れ狼』は毎日一話ずつ見ています。おもしろい! もっと見たくなるけど、一日一話を守ります。そうそう、CSテレビ360チャンネルで『スタートレック』をやっているのを偶然見つけました。カーク船長とかスポックやドクター・マッコイが出てくる昔のほうの『スタートレック』です。なつかしくてしばらく見ていました。雨は降るし、小屋で仕事をするのは寒くていやだし、テレビと片づけとちょっと読書の日でした。 

                       
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『高嶋ちさ子・12人のヴァイオリニスト』をたのしみました。

2012年02月12日 04時22分45秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 写真は多可町文化会館・ベルディーホール。開演前です。左右の壁には高い天井から播州織の布がさがっています。正面の立派な緞帳も播州織なのでしょうね。660席。小じんまり落ち着いたホールです。席は一番後ろでしたが、はるか前で演奏しているという感じではありませんでした。
『高嶋ちさ子・12人のヴァイオリニスト』……≪女神たちの饗宴≫ を聴きに多可町のベルディーホールに出掛けました。女神ときくと「美しい」と勝手に思ってしまいますが、おしゃべりな高嶋ちさ子さんのトークによると、「全国から100人を越える応募があり、見かけも少し考え、ヴァイオリンの技量はしっかり聴いて、選んだ」そうです。
 でもあとでヴァイオリニストたちがロビーで震災の募金活動に立たれた姿を間近に見ると、超美人ばっかり。前の席の人は、目も耳もそしてこころも、とってもしあわせだったでしょうね。
「女神」というのは、奥ゆかしく、おごそかに、そしておしとやかに、少しだけおしゃべりになると思ったら大間違い。高嶋さんは、背が高く、美しく、ヴァイオリンが滅法上手なのに、ちょっとハスキーな声でいっぱいおもしろいことをしゃべります。ほかのヴァイオリニストのみなさんも、しゃべりにかけては負けないぞという顔つきです。
 ほんとうの女神も、実は、だれにもとめられないほどのおしゃべりなのかも。天国というところは案外うるさいかもしれんな。
 演奏された曲はなじみやすいクラシックで、1丁のヴァイオリンでなく12人の演奏ですから、音に「奥行き」というか「ふくらみ」があります。ピーンと張った緊張感があるのに、音が柔かくて気持ちがいい。そんな演奏を、聴衆みんながたのしみました。
 なにしろ高嶋ちさ子さんのデビュー15周年記念コンサートツアーです。鍛え抜かれた技量とエンタテインメント精神。ホールから出てくる人たちの顔を見て、募金に立つヴァイオリニストたちは内心にんまり手応えを感じておられたでしょうね。高嶋さんは二人の子どもを育てる主婦なのに、クラシック音楽の間口を広げるために意欲的に活動しておられる様子が、入口でもらったパンフレットでよくわかりました。
 きょうは龍野の『赤とんぼホール』でコンサートがあります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬屋錦之助の『子連れ狼』を見られる!

2012年02月11日 07時00分48秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「小高い丘の城跡の、崩れかけた東屋で、その子は父を待っていた。この日の朝には帰るはずの父であった。それが、三つ目の朝となり、四つ目の夜が来て、五つ目の朝が雨だった。 ♪ シトシト ピッチャン シト ピッチャン ……」ナレーションにつづいて子どもの声で歌がながれ、ニヒルで凄惨なドラマが展開する。
 この『子連れ狼』が放映されていた昭和48年頃から5年ほど、ぼくは仕事が猛烈に忙しくて、真夜中までに家に帰れることはまずなかった。それに家にはテレビがなかった。だから世の中に『子連れ狼』の漫画があるとか、それがテレビの時代劇になってずいぶん評判になっているなんて知らなかった。
 ずっとあとになってから、サンテレビなんかで思いついたように夜中に放映される萬屋錦之助の『子連れ狼』を見て、「なんとおもしろい時代劇だろう」と感動した。その後またお昼のサンテレビでときどき『子連れ狼』を放映した。1999年頃にも昼の時間に放映があり、須磨区から西区神出まで畑仕事に行かねばならず、ビデオに録画しておいて夜に見た。
 ところが大五郎役の子どもが大人になり、犯罪を犯したとかで途中で『子連れ狼』の放映がなくなってしまった。サンテレビに「放映してほしい」と電話したり、レンタルはないか・ビデオテープはないか、とちょっとさがしてみたが、ない。アマゾンなどでDVDは売っているようが、かなり高価で、しかも一部分のようだ。今度見るからには全編を、こころゆくまでじっくり見たい。
 と思っていたら新聞に広告が出た。萬屋錦之助の『子連れ狼』DVDの全編が28500円。(日本直販)
 よし! 買おう! 『子連れ狼』は三年にわたって半年間ずつ放映され、全部で70話ちょっとあるようだ。注文の品が届いて、きのうは第一話、きょうは第二話を見た。(最初に放映された第二話は欠番になっているそうだ)おもしろい! 昔の粗い画面で色も冴えないが、話は圧倒的におもしろい。ぐいぐい引き込まれる。
 それに萬屋錦之助の雰囲気がいい。21世紀になってから北大路欣也で『子連れ狼』がテレビドラマになったが全然駄目だった。あれは「冥府魔道」という顔じゃない。(「冥府魔道」とはなんのことかよくわからないそうだが、おどろおどろしい漢字が並んでいかにも子連れ狼の世界にふさわしい雰囲気をもつ言葉だ)北大路では真面目なお奉行の顔しかできない。
 DVDを見るのは我慢して≪一日一話≫だけにしよう。
 それにしても『子連れ狼』のストーリーは骨太でおもしろくできてる。あの「モンテクリスト」のように最初から一挙に引っ張り込んでしまう力がある。そして1973年のテレビ放送から39年もたっているのに画面や物語の展開に古臭さを感じない。後半にはあの阿部頼母も出てくる。≪ ♪ ねんねん さいころ 毒屋の子 毒を飲んだら ねんねしな 寝たら起きずに あの世まで ≫と歌う阿部怪異。演じる金田龍之介。(金田龍之介はこの歌を自分でつくったそうです。歯も抜いたとか。まさに入魂の演技です)鳥肌が立つ。「柳生封回状」や「草」も登場する。あー、ワクワクする。
 見る時間を決めておこう。そうだなー。夕食の片づけをして一日の仕事を全部すませてから。
 
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『やすらぎの森診療所』ができたみたいですが……。

2012年02月10日 04時00分05秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 東条町のとどろき荘前の道を川沿いに300メートルほど下ると左の山のほうに曲がる道があります。すぐに立派な建物が見え、前に行くと『せせらぎ東条』と書いてあります。ネットでさがすとこのあたりの下水処理施設のようです。この施設の前を通り過ぎてさらに山道を車で上ると、急にひらけた場所が見えます。冬なのにきれいに芝生が張られ、ずらっと木が植えてあります。50メートル余り奥まったところには写真のような建物があり、『やすらぎの森診療所』という表札があります。
 内科とありますがネットで調べてもそれ以外の情報は出てきません。建物とまわりの植栽は見事です。奥まった庭には手入れの行き届いた松が植えられ、建物も庭も山の中で静まりかえっています。だれか人影があればきいてみようとうろうろしましたが、車はあっても人は見あたりませんでした。とても個人が建てたような診療所には見えませんでしたが、ぼくらがいきなり行っても診てもらえるのかなー。
 雨が降って畑仕事はしにくいし、軽トラでうろうろしてちょっとめずらしいところがあれば車を止めて散歩したりしています。道子さんは頑張ってコンニャクをつくりました。コンニャクはおととしはじめてつくりましたが、「つくろうと思えばいつでもつくれる」とわかってからはつくっていませんでした。いい味のコンニャクがたくさんできました。コンニャクイモは4年がかりでつくるので、今年もつづけて植えることにします。
 吉田裕氏の『日本の軍隊』 - 兵士たちの近代史 - (岩波新書) を図書館で借りて読みはじめました。この人の著作は『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)を読んで、「こんな学者が現れる時代になったんだなー」という感慨を持ちました。戦後に生れた人は「感情に引きずられずに冷静にあの戦争を見る目をもっている」のです。牟田口や辻という存在に腹を立てないで冷静に分析できる。生身の人間が歴史に送り込まれていく瞬間を見ている気がします。
『日本の軍隊』も同じタッチです。新鮮な視点に感心しながら読んでいます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遺族の気持ちを思うと平静ではいられません。

2012年02月08日 06時19分09秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 去年の12月中旬になってから播いた「六条大麦」が、寒くてカラカラの天気にも負けず伸びてきました。小鳥に食べられないようにかぶせていた枯れ草をとって、三回麦踏みをします。どんなに寒くてもしっかり芽を出して、伸びる。えらいですね。
 ぼくのなかの「ノモンハンは封じる」と書きました。しかし夜中に目覚めたりすると、辻政信に自決を迫られた指揮官たちの遺族の「無念さ・恨み」に思いがとびます。
「夫は、息子は、激しい戦闘で負傷して病院に収容された。立派に戦った。そして生き抜いてくれてよかった」と家族は思ったでしょう。そこに辻参謀がやってきて「部下は戦死したのに、戦闘には負け、指揮官はのうのうと生き残っている」と責め、ピストルを置いて席をはずす。 …… 自決。
 戦争をしたくてしたくてうずうずし、なんでもない国境の紛争を戦争に拡大し、相手のソ連をバカにして「ウスノロ相手の戦争だ。すぐに勝てる」とあおり、敵陣に攻め込ませろと上官に迫り、独りよがりの作戦を押しつけ……。しかも二年後の『大東亜戦争』開戦のときは東京の参謀本部に舞い戻って作戦を立て、「作戦の神様」と呼ばれたりして失敗は現場に押しつけ……。敗戦後ものうのうと生きて、潜行して戦犯を逃れ、みっともないいいわけをしたり、大ぼらを吹いたり、ベストセラーを書き、国会議員にもなり ……。
『2ちゃんねる』を見るといまでも読みきれないほど圧倒的な量の辻政信に関する書き込みがありますが、こんな男の存在を許したのは、やっぱりエリート慣れ合いの参謀本部だったからです。牟田口廉也の馬鹿げたインパール作戦がまかり通ったのだって、辻参謀の無茶苦茶が通ったのだって、「まーまーまーまー……」と内部ではエリート同士が事なかれ主義でやってきたからです。しかもその精神はいまの官僚組織のなかに脈々と生きています。
 辻は、人の命をなんと考えたのでしょう。生まれ、時間をかけて育ち、一人前になっていく人間の命を。そしてその命につながる人たちの心を。とても正常とは思えないのに、彼がまかり通った。なんともやるせない。
 もうじき彼も歴史に送り込まれ、忘れられていくでしょう。後世の人は、なんの感情の波立ちもなく彼を看過していくでしょう。ぼくも、こころの波風を、「封じる」しかありません。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぼくのなかの『ノモンハン事件』は封じます。

2012年02月07日 04時44分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 2月4日(土)に撮ったうちの(借りている)畑と村の墓場の写真です。もうすぐ春が来ます。田舎です。のどかです。うららかです。そして6年前を思い出します。
 2006年3月、不動産屋さんに案内してもらってはじめてこの地を訪れたとき、ぼくはこの景色に魅かれて写真を撮りました。手前に畑があり、向こうに木立ちと墓場があるこれとまったく同じ写真を。
「こんなところでのんびり畑仕事ができたらいいな」と思いました。だれか、なにか、大いなる存在が、ぼくの願望をかなえたのでしょうか。いま願望は実現しています。なんでもないけど不思議なことです。
 
 ノモンハン事件。これ以上追及したくありません。どうだっていい。だだっ広い草原のなかの国境が、どちらに寄っていようとかまいません。それを問題にして、数万の戦死者、戦傷者を出し、関東軍参謀本部の作戦の失敗を隠蔽し、下っ端の指揮官に敗北の責任を押し付けて自決を迫り……。そんな馬鹿なことをした参謀は、歴史のなかで厳しく断罪されているでしょう。
 辻政信。思い出しました。父の戸棚にあった本を。昭和28年、高校生だった頃です。辻政信の『十五対一』『潜行三千里』は当時ベストセラーになった本でした。ウソとホントを入り混ぜて、講談師みたいにあることないことを語り、のうのうと国会議員になり……。当時なにもわからずにぼくも読みました。
 先日、本屋さんで辻政信の『ガダルカナル』が再出版されて並んでいるのを見て、腹が立ちました。なんであんな人間を歴史の中でもっと厳しく断罪しなかったんだ! ネットの『2ちゃんねる』ではみんなで寄ってたかって叩き、徹底的に断罪していますが、世間的にいえば、銅像が立っているとか、本が再出版されるとか。
 負傷した指揮官のところに出向き、ピストルを置いて離れ、自決を迫る。ソ連の強力な兵器の前に立たされ、どうしようもなかった。命がけで戦った指揮官は、どんなに辻を恨んで自決したことでしょう。そんなことがあってもその後も平気に生きていけた辻を、やはり許すべきではありません。ふつうの人間の神経では。
 ノモンハンはもうやめ!
 
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コスミックホールでクラリネットを聴きました。

2012年02月06日 05時32分40秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 ステージの写真は撮れなかったのでロビーの様子です。楽器店がクラリネットを展示販売しています。きのう日曜日は、コスミックホールでクラリネット・アンサンブルの演奏会があり、聴きに行きました。クラリネットでは高名な演奏家の集りのようで、聴衆は若い人が多く、ぼくらもしばし音楽をたのしみました。
 演奏を聴きながら、あらためてこのホールの音を味わいました。
「もしこのホールが『アマデウス・ホール』とでも命名されていて、週に一度か月に二度くらいモーツアルトの曲を演奏する会があったらいいなー。モーツアルトの曲は、500人くらいのこんなホールで聴くのがいちばんしっくりするし、定期的に生の演奏が聴けたらしあわせだろうな」
 天井の高さ。音の響き。なんというかシートに座るだけでこのホールの空間は気持ちがいい。
『ノモンハンの夏』(半藤一利 著 文春文庫)を読了しました。気分はよくありません。
 1998年・定年退職した翌年、道子さんとぼくは漆芸家で人間国宝の大場松魚さんのツアーに加えてもらってモンゴルを旅しました。日本の4倍の面積の国土に250万人が暮らす国です。どの方向を見ても地平線までなだらかな草原だけが広がっています。道路も家も畑もありません。いま思い出しても、地平線まですーっとまっすぐ視線が伸びてゆく気持ちのよい国でした。
 こんな草原だけがあるようなところに「国境」という線を想定して、日本とソ連が戦争をしたのが『ノモンハン事件』です。日本が仕掛けたのですが「戦争」を仕掛けたというと人聞きがわるいので「事件」と言ってごまかしました。
 この事件の存在は知っていましたが、日本の「あの戦争」の大筋とは関係ないし、何のつながりも必然性もない出来事なので、ぼくは見ないでおこうと思ってきました。何万という戦傷死者を出す戦争であったとしても、この事件に関する本を読むことは避けてきました。
 でもなぜか伊藤桂一の『静かなるノモンハン』を読み、半藤一利の『ノモンハンの夏』を読むことになってしまいました。というかこの本に出会うように、ぼくの人生はなっていたのでしょう。 …… この項つづく。
  
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「寒い寒い!」 

2012年02月04日 05時39分52秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
               
 朝、洗面所の湯が出ません。温水器が凍ることはなくても途中が凍っているのでしょう。池も全面凍結だろうから散歩してみようと軽トラで池に行きました。施無池、九文池など小さい池は全面凍結。ふだん凍らない福地池や大池、佐の広池もほぼ全面凍結。最低気温はマイナス6度を下まわっていたでしょう。口吉川町に引っ越してからの5年間で一番寒い朝でした。
 全面凍結の写真はイマイチだったので福地池の堰堤を載せます。日曜日の土手焼きできれいに焼けています。きれいに刈って、きれいに燃えて、すっきりした土手になりました。堰堤中央の上部に石の祠が点のように写っていますがわかるでしょうか。ふだんは草に隠れて見えませんが、あれが人柱になったというお坊さん・福寿坊を祀(まつ)る祠(ほこら)かなー。散歩で堰堤下を通るときは拝むことにしよう。
 半藤一利の『ノモンハンの夏』をいま読んでいます。
 ひと頃『インパール』作戦に参加した兵士の本を集中的に読んだことがあります。あまりに惨めな負け戦(いくさ)で、補給もなく、数万の兵士が餓死して、兵士の退却した道は『白骨街道』と呼ばれました。読んでいてたまらなくなりました。でも目をそらすことができませんでした。
 このビルマ・インド国境の昭和19年春の大作戦では、強引に推し進めた『牟田口廉也』が悪者でした。この作戦に参加した兵士たちの恨みを一身にあびて、彼は憎まれながらのうのうと戦後も生きました。どれほど憎まれたか。保阪正康氏は己の生涯をかけて4000人の関係者の話を聞き、取材を重ねた渾身の著作『昭和陸軍の研究』の中で書いています。


 その第一点は、第15軍司令官の牟田口廉也中将の名を聞くと言葉をふるわせるのだ。第15軍の第31師団にいた兵士は、私が「一兵士として牟田口をどう思っているか」と尋ねたときに、それまでの温厚な口ぶりは一変して、「あの男は許せない。戦後も刺しちがえたいと思っていた」と激高した。その変わりようがあまりに大きいので、私のほうが恐怖感を味わったほどだった。
 私は断言するが、インパール作戦の生存兵士は、「牟田口廉也」という名を聞いただけで人格が一変する。「無謀な作戦」「補給なき闘い」「一高級軍人の私欲からの作戦」といった歴史的な評価を憤っているのではない。白骨街道を退却する兵士、あるいは飢餓に倒れていく兵士たち、彼らは新しく投入されてきた後続部隊の兵士たちから「牟田口司令官は明妙(メイミョウ …… ビルマの司令本部が置かれていた地名)の司令部で栄華をきわめた生活をしている」と聞かされ、真偽は不明だが、その報は矢のように前線の兵士たちに伝わっていったのである。われわれがこれほど苦労しているのに、なんということか、という怒りは消えていない。(中略)
 第三点は、(インパール作戦の生存兵士は)自らの戦争体験を語るときに数珠を持っている者が多い。それも手を丸めるようにしていて、対手(あいて)には見えないように心配りをしているのである。第四点は、具体的に戦場での体験を語るときに5分も話しつづけると、だいたいが嗚咽する。あるいは、目に涙を溜めている元兵士がほとんどだった。


 なぜ牟田口を出したか。ほんとうの悪魔は、牟田口のようにみんなに「憎まれるだけ」ではないかもしれない。そんなことを考えながら読んでいます。この項はまた書きます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒いからちょっとだけ畑仕事をしました。

2012年02月02日 06時59分02秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
                
 冬は寒いものですが、それにしても寒い。でもみなさんは元気に活動していらっしゃるでしょうね。
 コタツにあたりながら振り返ってみると、去年の今ごろは裏山の竹切りに精を出していました。何百本と竹を切り倒し、それを引っ張り出して短く切り、枝先は右のほうに山と積み上げて、それが母・妙子さんの『枝切り刻み』仕事の材料になっていました。かれこれ一ヶ月かけて数百本の竹切りに精を出したでしょうか。
 そしてもう一年前を振り返ってみると、おととしは裏山の竹切りにずーっと精を出していました。あのときはまだ頂上への道が切り拓かれていなかったから、去年より多くの、1000本ほどの竹を切り倒しました。
 さらに振り返ってみるとその前の年つまり4年前は、裏山の手前のほうに木を植える大きな穴を掘っていました。植木屋さんに言われたように、直径は1メートル、深さは50センチ以上を目標にツルハシをふるっていました。一つの穴を掘るのに2時間から半日かかり、何日もそんな作業をして木を植えました。
 そのまた前の年・つまり引っ越して三ヶ月目の二月は、道路沿いの石垣補強に精を出していました。来る日も来る日もバラス、砂、セメントをこねて、それを石垣の間に詰めて30メートルほどの石垣を補強していました。冬は寒いからコタツにあたろうなんて考えず、食事をしたら外に出て仕事をするのが当たり前になっていました。
「田舎暮らしにゆとりができてきた」といえばいいように聞えますが、「年をとって横着になった」のです。でもきょうは畑仕事にちょっとだけ精を出しました。写真の6うねに、赤いカートで堆肥を運び、一輪車で鶏糞を運んで入れ、燻炭も撒いてから耕運機で耕し、うね立てをしました。
 でも畑仕事はそこまで。ジョレンでうね間の土を上げ、うねを仕上げてマルチをかぶせておくのは別の日の作業にします。ジャガイモやコイモのうねにするつもりです。
 老いを素直に受け入れて、頑張らない。去年は去年。今年は今年。比べない。比べない。そう自分に言い聞かせて、気運の高まるまでコタツですごすことにします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする