浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2021-11-30 00:11:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              言葉の力

いつもお話させていただくのですけれど、この世の中では、
どんなものでも原因があるから結果があるのです。
原因なしに現れる結果は何もありません。
私たちが自分で気付く気付かないにかかわらず、
日々の生活の中で間違った原因を
次々と作っておきましたら、
必ず間違った結果として実ってきます。
その収穫を他人は絶対にしてくれません。
全部自分が収穫しなければなりません。

ですから、少しでもよいことをしておけば、
良い原因が必ず良い結果として実ってきます。
そしてその収穫は自分自身ができます。
自分の蒔いた種は絶対他人は収穫してくれません。
全部自分がします。
悪いことも良いことも。
悪い原因というのは、何も殺人をしたり、
よそのものを盗んだり、
それだけではないのです。
言葉によって、人に死ぬよりも辛い思いを与えます。

しかし、同じ口から出る言葉で、無上の喜び、
これ以上の喜びはないというほどの喜びも与えられます。
言葉はものすごい力をもっています。
ですから、
常に言葉によっても悪い原因・悪い種を蒔かないように
しなければなりません。
この話もよくさせてもらいますが、
もう十年近くになりますけど、
私もものすごい腹立て(怒りっぽい性格)でございまして、
愚痴ばっかり言いますし、

都合の悪いことが起きたらいつの間にか皆相手のせいにして
うまいこと言い逃れするような仕様のない人間だったのです。
それで、正法のお話にご縁をいただきまして、
「自分の持っている一番悪い癖・欠点を十ほど自分で探してみなさい」
と教えてもらいました。

で、探してみましたら、さあ自分の悪い癖・欠点がいっぱいありました。
書き出していったのです。
よくないことが起きれば人のせい、いいことが起きれば全部私のせい、
そして自分をかばうために平気で嘘を言っておりました。


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「御垂訓」

2021-11-29 00:21:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             正しく見る

先の続き・・・

私たちは両親から肉体船をいただいて、
その船頭さんが私たちの本質、
本当の私たち自身すなわち霊です。
霊とも意識とも心とも言いますけれど、
その意識が肉体船の中に乗って、
この肉体船を操縦しながら人生航路を渡って行くのです。

自然界の航海をみましても、
ものすごいシケでもう海は暴風雨になって、
その船が今にも沈没しそうな時もあります。
また霧がかかってしまって、
もう本当に十メートル先も見えないような
深いガスに覆われる時もあります。
また海はよく凪いで、何て言うのですか、
畳の上をずっと通っているような
そんな静かな日もあります。

で、表面は安心で何も心配ないと思って航海していましても、
その水の中に鋭い岩礁が盛り上がって船の底を
砕いてしまう場合もあります。
私たちの人生航路もそれと全く同じことです。
同じような人生を渡っているのです。

ある時には怒り狂って大暴風雨の時もありますし、
あるいは疑心暗鬼にとらわれてしまって
何も見えなくなる時もあります。
また表面上うまくいっているなあと安心していたら、
突然にしてとんでもないことが起こる時もあります。
全く人生航路というのは自然界と同じことです。

そこで、
私たちが常に心の中に羅針盤あるいは今で言う
レーダーのようなものを据え付けましたら
危険にあうことが少なく渡っていけます。
その羅針盤あるいはレーダーの役をしてくれるのが
私たちの良心です。

私たちの心の中には、悪を犯してはいけない、
人の苦しみを何とか楽にしてあげたい、
人に幸せになってもらいたいと願う神の心があります。
その神の心を人生航路の羅針盤あるいは
レーダーとして渡してもらった時、
間違いが少ない。
ですから、まず自分の五官から離れる。

五官から離れるということはどのようにすればいいのかと思って
私も随分追求させてもらったのですが、結局、
自分から離れて相手の立場からものを見させてもらうことと、
私たちを生かしていただいている神様の立場に立って
自分と相手を見ること。

その時、中道の片寄りのない見方ができると思います。
つい五官にとらわれますと人様より好い恰好したい、
あるいはしんどい目をするより楽をしたいとか、
自分本位の見方になります。


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「御垂訓」

2021-11-28 09:17:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お詫び’:一昨日停電がありました。
私が使用しているGoogleは停電がありますと、下記の知らせが出て、ブログにアクセスできなくなります。
これを解除するためにはその都度プロに解除手順を聞いて解除しなければ投稿はできません。
ですので、当投稿が本日の今になってしまいましたことお詫び申し上げます。
私が住んでおります比国のこの地域の電力事情が日本のそれとは違って大変悪いです。
Forbidden
You don’t have permission to access/hanatenzen on this server.
Additionally, a 403 forbidden error was encountered while trying to use an ErrorDocument to handle the request.
日本語訳:
禁断
このサーバーにアクセス/ハナテンゼンする権限がありません。
さらに、ErrorDocumentを使用してリクエストを処理しようとしたときに、403forbiddenエラーが発生しました。


 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


                 正しく見る

先の続き・・・

それから、この五官を通して私たちは諸々の煩悩が芽生えてきます。
その煩悩はどこから芽生えてくるかといいましたら、全部自己保存・自我我欲
から出てきます。
これももう毎回のお話ですけれど、私たちがものすごく腹を立てましたら心の
中が煮えくりかえります。

煮えくりかえるのは、
ちょうど器に水を入れてガスにかけてグラグラ煮えくるかえるのと同じような状態です。
器に水を入れて、そっと置いてのぞきましたら、
自分の顔もきれいに映りますけれど、グラグラ煮えくりかえったらもうとても見えません。
心もそれと同じような状態なのです。
怒り・愚痴、これはもう不足の心から出ます。
では、不足はどこから出るのかといいますと、やっぱり自己保存からです。

その自己保存によって、怒り・妬み・謗り・愚痴あるいは貪欲、
いくらあっても欲しい欲しいという、足ることを知らない思い、
そういうものによって心がその時その時に煮えくりかえってはいけません。
水が古くなって腐って真っ青になってしまえば、これも顔が映りませんし、
水草が生えたり水ゴケが上をいっぱい覆ってしまっても顔は映りません。

心もそのように、私たちが疑心暗鬼にとらわれた時には、
もうとても正しく見られません。
「あの人、あんなん言うてんの違うか、こんなん言うてんの違うか」と、
言ってもないことを言っていると、自分で決めてしまって、
正しく見られないのです。


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「御垂訓」

2021-11-26 00:08:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


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先の続き・・・

八正道の一番最初に「正しく見る」と説かれていますけれど、
この「正しく見る」というのはなかなか難しい問題です。
私たちが学ぶのに一番わかりやすい
「正しく見る」方法といいましたら、
それはまず自分から離れてみるということです。
自分からものを見た時もう既に間違うのです。
なぜなら、この私たちには五官が与えられているからです。

眼・耳・鼻・舌・身の五官は何のために
与えられているかということを考えましたら、
この肉体を保持するため、
自分の身を守るために与えられているのです。
口から食事をいただかなければなりませんし、
目が見えなければ難儀ですし、
耳も聞こえなければこれも大変です。

だから、自分を守るために与えられた五官を通して
ものを見聞きしましたら、
どうしても自分本位の見方になってしまうのです。
そうなっても悪くないのです。
それが当たり前です。

自分本位はこの身を守るためです。
ところが、そういう思いで見た時、
もう既に思いが間違うのです。
自己中心に見ますから、見るということに対して
自己保存と自我我欲という
色眼鏡がかかっているのです。

だから、人は間違いやすいものである、
過ちを犯しやすいものであるというのは、
五官そのものが間違いを犯しやすく作られているからです。
深く追求しました時にこういうことがわかります。

このように、自分を守るためにいただいている
五官を通してものを見ますから、
どうしても自分を守りたい自己保存の
思いにうつるのが当たり前です。

ですから、まず自分という立場を離れて、
たとえば、一対一の場合、常に自分の立場を
離れて相手の立場に立って
ものを見させてもらった時、また、
私たちを生かしていただいている
神の意識あるいは守護霊さんの立場に立って
自分と相手を見た時に、
これは間違いのない正しい見方ができると思います。

ですから、常に相手の立場に立ってものを見、
聞き、また「善意なる第三者」
と信次先生がおっしゃいましたその立場に
立って自分を眺め、
相手を眺めさせてもらった時、
自己から離れた正しい判断ができると思います。


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「御垂訓」

2021-11-25 00:35:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
  恩師のご著書「思いの中に生きる」より


               正しく見る

私たちのこの学びの一番根本・基本となっておりますことは、
高橋信次先生によって『心行』の中にすべて明かしていただいております。
すべての教えは『心行』から始まっていると思います。
何回も何回も読ましていただきましたら、
最初は意味がわかりにくくても自然とわかってきます。 
そして、『心行』を日々の生活の師として行じさせていただきます。
『心行』には、まず私たちを生かしていただいておりますこの大自然の法則を
詳しく書いていただいております。

それから、人間として生きる道、まず肉体先祖に
報恩供養の心を忘れてはいけない、
また両親に対しては孝養を尽くさなければならないと説かれています。
このような生活の中で最低、次の八つの正しい生き方『八正道』を
行じなければなりません。
それは正しく見て、正しく思い、それから正しく語ること、
それから正しく仕事をなし、正しく生きさせてもらって、
正しく念じ、正しく道に精進して、
正しく定に入るべし、このように説かれています。
この人間界というか、この世がうまく、まるく、
円滑に行くように法律があります。
この法律は人間として行を間違った時に
罰せられるようにつくられています。

ところが、
「心」、自分の心で思ったことはどんなに悪いことを思っても
罰せられないのです。
思いは表面に表われないので相手にもわからないし、
そのために思いというものをつい疎かにします。
思うことぐらいどんなに悪いことを思ってもわからないし、
また人に迷惑かからないから自由させてほしいと思っています。

ところが、思いというのは、私たちが行動を起こすことを、いわば「陽」、
表れた行とすれば、行の前にする「陰」、隠れた行になるわけです。
ですから、思うことを間違っていましたら必ず言葉も間違ってきます。
その言葉が間違えば、また今度は行も間違ってきます。
したがって、思いから正していくことが大切なのです。


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「御垂訓」

2021-11-24 00:05:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


先の続き・・・

   何事も 父母の心の安かれと 祈りつ我は 事を行う

そのように、自分の人生の迷いがある時は何をするにも、
お父さん・お母さんの心安かれと喜んでいただける方に進めば、
狂いのない人生航路が約束されます。
これは私の体験です。

私はできるだけ両親に喜んでいただけるように努力してきました。
しかし、その中で、親に心配をかけたくないのに、
自分に与えられた環境のために心配をかけたこともありました。
私は四十五歳の時に先の家内を亡くしました。
これは親にさせたくない心配でした。
ものすごく親不孝をしたと思います。

それでも母親は母親ですね。
もう八十を過ぎておられまして、
お父さんの看病を三年程してくださいました。
お父さんが無事にあの世に帰られましたら、
もうすることが無くなりましたから、
おこたに入って背を丸めて、

「早うお迎え欲しい。早うお迎え欲しい」と、
口癖のように言っておられました。
今から十二、三年前です。
私の家内が亡くなりまして、或る時、
田舎の兄さんに車に乗せてもらって訪ねてくれたのです。
私はもう全く食うや食うわずで、
家内が二人の子をのこして突然あの世に帰りましたから、
まあ下手な御飯を一生懸命炊くのですが、
炊いたことがないから
うまくいきません。

おかずも買いに行ったことがないけれど、
買いに行って下手な料理をして、
子供たちに食べさせて、
まあまあ食うや食わずの生活をしていたのです。

その姿を見られたお母さんが、「これは私が行ってあげんと、
あの子は駄目になる。
私が行ってあの子を助けてやらないかん」と思って、
私の所に来てくださったのです。

今まで「もうお迎え欲しい、お迎え欲しい」と
言っておられたお母さんが、
「私はここの子供二人を片付けてやらなあかん。
片親ないんやから私が母親替わりになって、
この子らをちゃんと片付けなあかん。
そのためには自分が健康におらなあかん。

こりゃ、うっかりお迎えもろたら具合悪い」といって、
お迎えを返上されたのです。
今年は九十二歳です。
そして、本当にピンピンしてくれています。
今でも針に糸はちゃんと通しますし、縫い物もして下さいます。
もう動作なんかも若い人と変わらない位です。
そして、「一日一善を積ましてもらうんや」といって、
私の所のお客さんの按摩をして下さいます。
一つでも善い行いを積む実践をして下さいます。
親とは、この上なく尊い有難い存在です。


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「御垂訓」

2021-11-23 00:03:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             尊い親の存在

先の続き・・・

私の二十歳位の時でした。
私は十六歳から家を出ました。
好い恰好をして、
「独立するから私を家から出してください」とお願いしました。
お父さんから何回も「家で百姓をして後を継いでくれ」と言われていました。
私の十歳上の兄さんが軍隊から復員してきましたので、
私の必要が家ではないと思いまして、「家を出してください」とお願いしたのです。
その時、お父さんは十六歳の私を捕まえまして、「よっしゃ。お前も男の子。
一旦家を出たからには外の飯が辛いからといって家に帰っても、
家の飯は絶対に食わすことならん」こんなに言われたのです。
私は「それでも結構です」といって、家を飛び出しました。

それで、その間、いろいろと苦しいことやら、迷いのことがありました。
その二十歳位の時に,今にしてして思えば大きな迷いではなくても、
その当時はそれが精一杯の迷いでした。
それで、どうすればこの迷いの中で間違いのない道を進めるのか、
それを追求していました時に、お父さん・お母さんに最も喜んでいただける方を選ぶべき
ことに気が付きました。
そして、お父さん・お母さんが喜んでくれる方を人生の羅針盤として進みますと、
何かにつけてうまくいきました。
親が心配してくれる方を選べば必ず失敗します。
これは、親の心は神の心だからです。
だから、「何事も 父母の心の 安かれと 祈りつ我は 事を行う」―――
私の二十歳の時の短歌です。


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「御垂訓」

2021-11-22 00:21:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          尊い親の存在

私たちは天上の世界で、まず両親に御縁をいただきます。
「じゃあ、あなたは私の子になりなさい。
しかし、環境は厳しいですよ。
どのようなことがあっても耐えてくれますか」と、
両親から聞かれます。

「私はどのような環境の中でも、
あなた様たちを両親として、その元で
修行をさせていただきます。
どうぞよろしくお願い致します」と、これは
私たちがお願いしたはずです。

こうして、まず親子の縁をいただいて、
その次には夫婦の縁をいただくそうです。
「夫婦として共に修行してください。
共に魂の修行をさせてください」
「じゃあ、そのように約束しましょう」といって、
全く別々の両親のもとに
縁をいただいて、この地上へ産んでいただきます。
そして、約束の時が来ると巡り合い、
約束の時が来ると一緒になって、
修行が始まるのです。

天上の世界で夫婦の約束ができます。
そうしますと、
次に私たちの子供になってくれる人が
「お父さんになってください」
「お母さんになってください」とお願いに来てくれます。
そういう完璧な計画のもとに、
私たちはこの地上に迎えていただきます。
お父さん・お母さんがこの世におられなければ、
私たちの今の存在は全くありえません。

そして、この世の中で何が一番尊いのかと考えてみますと、
これは私たちの親だと思います。
自分という存在を与えていただいたお方です。
たとえどのような親であっても、
自分の存在というものはその親がなければ
いただけないはずです。

この地上界で最も尊い者はお父さん・お母さんです。
また、このお父さん・お母さんは自分の身を捨ててでも
子の幸せを祈ってくれます。
自分は苦しみを背負ってでも子は安かれと
尽くしてくださいます。

その親に対して私たちの中には、
「頼みもしないのに勝手に産んで」と、
文句を言う人があります。
これはとんでもない間違いです。
両親あってこそ自分があり、
両親がなければ自分という存在がない。
これは当たり前のことです。
この当たり前のことを皆疎(おろそ)かにしています。
そして、道を誤って行くのです。


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「御垂訓」

2021-11-21 01:16:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            思いの中に生きる

先の続き・・・

そして、一週間たってお見えになりました。
よく言うのですが、一回お会いしますと大慨の方を私は覚えているのです。
「ア、 この前お見えになりましたね」とか、「○○が悪かったですね」とか、
本当にコンピューターほど顔をよく覚えています。
名前は知りませんけど、顔は知っているのです。

ところが全く見覚えがのない方、きれいな明るい方がお見えになっておられます。
「いつ見えたのですか」と尋ねましたら、
えらく嬉しそうな顔をして笑っておられるのです。
それで、「どなたでしたかな」と言って聞きましたら、「あの泣いていた者です」
と言われて、全く別人になっておられました。
ものすごく明るい顔で。

やっぱり別嬪さんでも泣いていたら顔も歪んできます。
嬉しいお顔をされていたらものすごくきれいなお顔の方です。
で、「あんたでしたんか」と言うと、
「お陰さまで本当に助けてもらいました」と言って、嬉しいお顔で、
もう全然想像つかないような顔になってしまっておられました。
その姿を見せてもらって、
その方の目が直ったからその人がそんなに幸せになってくれたのかというと、
やっぱり目は見えないままです。
肉体に何の変化もないのですね。
片方は見えないし、片方は見える。

その中で、四年間朝から晩まで泣き続けていた方が、
その方の心が潰れた目の方へ向いていたから泣いておられただけで、
その方の心がある方の目に向けられて感謝に変わると、
今度は喜びの毎日に変わってしまったのです。
といいますのは、
環境、片目が潰れたという環境の中に私たちは生きているのではなく、
その思いの方の中に生きているという証拠ですね。
そして、人は苦しみの毎日を送る。
悲しみの毎日を送る。

ところが、同じような環境の中にあっても喜びの方に心を向けた時、
その人は極楽の生活をします。
そして、感謝。
目が片方なくても感謝と喜びと、そして片目は見えるという希望、
そういう思いでその方が一生を送ってくださったら、その人は片方の目が
なくても、間違いなしに極楽へ行かれます。

しかし、もし私とお会いできなかったら、あの人は死んだら地獄へ行かれます。
悲しみと苦しみの世界に入っていかれます。

ですから、これは一つのたとえとして現実にあった方の話しですけれども、
そのように環境の中に生きているのではなく、
思いの中に生きているのだということのいい証しになると思います。
どんな苦しみの中にあっても、どんな辛い中にあっても、
その思い方を変えていけばいいのです。
そのとき、苦しみが喜びに変わります。

この見方の方法をうまいこと応用して下さい。
そうすれば、喜べば喜びごとが必ず続きます。
喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び集めて 喜びに来てくれます。
また逆も真なりですね。

悲しめば 悲しみごとが 悲しんで 悲しみ集めて 悲しみに来ます。
ですから、苦しんだり悲しんだりしたら、「泣き面に蜂」と言う言葉、これも
真理です。
大きな声で泣いていようものなら、蜂が飛んできて刺して、
また泣かしてくれます。
それといっしょで常に明るい光を自分の心にいただいているんだと思います。
それは自分の思い方でどうにもなるのですから。


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「御垂訓」

2021-11-20 00:34:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            思いの中に生きる

先の続き・・・

そりゃもう、顔を見たら、演歌を絶唱中の森進一さんと
同じ顔をされています。
「この世の中の悲しみを私が一人背負っています」と
いう顔をしてね。
もう笑っても泣かれますね。
ああいう人はもう顔がそうなってしまうのです。
毎日毎日泣いてましたからね。
私の二番目の弟は小さい時泣き虫でした。
で、渾名も「泣き」でした。「泣き、泣き」と言われ、
これは中学へ行くまで泣き虫だったのです。

中学に行くと同時に心の中に転換が起きたのです。
急にパッと明るく切り替ってしまいましたけれど、
よく両親が言ってました。
「こいつは笑うてても泣き顔しとるなあ」。
顔が泣き顔になってしまうんです。
毎日毎日泣いていましたからね。
で、この人もまさにその通りでして、
ものを言ったら泣いておられます。

その方に、その人の悲しい辛いその悲しみを一通り聞かせてもらって―――
「まあ、苦しんでもそれは当然です。
あなたがそのような悲しみ苦しみの毎日を過ごしておられるのも、
これも一つの現実の生き方です。しかし、まあ考えてみなさい。
この五体の中で、こんな小さい目玉にロープが突き刺さるというのは、
これは奇跡です。
全身の面積がものすごく広いのにこんなところに。

じゃあ、もう十センチ程伸びたら、これは両眼とも見えなくなるところでした。
今、片目見えていますから、恰好が悪いとか、
ちょっと不便だという嘆きですけれど、
両眼とも見えなかったら大変です。それを一回思ってみなさい。
そして悲しい辛いと思ったら、どうぞ手を合わせて、
神さまに『ありがとうございました』と言って感謝しなさい」と最初言ったら、
「こんな悲しいのにどうして感謝しなければなりませんか」と泣かれるのです。
それで、「もし両目潰れていたら、それこそ全面的な失明になってもうどうにも
できません。しかし、無事にのこった片目だけでもちゃんと見えます。だから、
『あの時よくこっちの目を助けてくれました。

もし両目潰れていたら今のような不自由さではないのに、
この片方をよく助けてくれました』と言って、神様に感謝して下さい。
こっちの潰れた方にばっかりとらわれて嘆き、悲しい毎日を送るのも、
これも人生。
しかし、今現実に見える目に感謝の心を向けるのも一つの現実の生き方です。
選ぶのはご自身です」と言いましたら、その方は頭のいい方ですから、
「よくわかりました。
今までは私はとんでもない間違った生き方をしておりました」と
納得してくださったのです。


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「御垂訓」

2021-11-19 00:34:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              思いの中に生きる

思いによってこの世は現れているのです。
そして、人は環境の中に生きていると錯覚を起こしているのです。
本当は自分の思いの中に生きているのです。
これはちょっと難しいように思いますけれど、たとえば、
これも思いの中に生きているという一つの証拠ですね。
ある四十そこそこの女性の方がワイヤロープの工場に勤めておられて、
ワイヤがポンと弾いて片目を失明されました。
その人はもう本当に朝から晩まで泣き通しの毎日を送っておられたのです。
「私は何と不幸だ」と。

あれは難儀です。
目が潰れましたら目が萎んでしまってだんだん落ち込んでくるのです。
また、義眼(ガラスの目玉ですね)を入れますとちゃんと目が
閉じられないようになるのです。
夜休んでも目が開いたまま寝なければなりません。
これも難儀だし、目玉を出したらグッとへっこんで落ち込んでしまう。
「そういうのを主人に見られるのは辛い。
うまれもつかない片輪になってしまった」と、
泣いて泣いて暮しておられたのです。
四年間、「そんな辛い悲しい私は不幸だ」とばかり思っているから、
本当にそのようになってくるのです。
今度動脈瘤ができて、お医者さんに診てもらいましたら、
「あなたのはもう手術できません」。

「それじゃあどうなるのですか」と聞きますと、
「この動脈瘤が腫れたら、あなたは一巻の終わりだから、
もうそこまで大事に生きないと仕方がない」と言われて、
その人の嘆きがまた大きくなったのです。
これはまさに「泣き面に蜂」です。

「あの石原裕次郎のあんなのでも治すのに、
どうして私のを治してくれないのか」と言って、
泣いて泣いて暮しておられたのです。
で、その人のお姉さんが私にご縁がありまして、
連れて来て下さったのです。
「妹がこんなにして四年間、毎日毎日泣き明かしています。
何と助けやってほしいのです」といって見えたんです。



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「御垂訓」

2021-11-18 08:34:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

サービスプロバイダーの下記理由により当投稿が遅れましたことを
お詫びします。

※メンテナンスのため一時的にサービスを停止しております。
現在、メンテナンスのため、一時的にブログの閲覧、新規の記事投稿など、
全てのサービスをご利用いただくことが出来ません。
メンテナンス日時 : 2021年11月18日 (木) 0:00 ~ 5:00 (予定)
メンテナンス終了までしばらくお待ちください。
ユーザーの皆様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、
ご理解とご協力をお願い致します。


 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              思いの中に生きる

思いによってこの世は現れているのです。
そして、人は環境の中に生きていると錯覚を起こしているのです。
本当は自分の思いの中に生きているのです。
これはちょっと難しいように思いますけれど、たとえば、
これも思いの中に生きているという一つの証拠ですね。
ある四十そこそこの女性の方がワイヤロープの工場に勤めておられて、
ワイヤがポンと弾いて片目を失明されました。
その人はもう本当に朝から晩まで泣き通しの毎日を送っておられたのです。
「私は何と不幸だ」と。

あれは難儀です。
目が潰れましたら目が萎んでしまってだんだん落ち込んでくるのです。
また、義眼(ガラスの目玉ですね)を入れますとちゃんと目が
閉じられないようになるのです。
夜休んでも目が開いたまま寝なければなりません。
これも難儀だし、目玉を出したらグッとへっこんで落ち込んでしまう。
「そういうのを主人に見られるのは辛い。
うまれもつかない片輪になってしまった」と、
泣いて泣いて暮しておられたのです。
四年間、「そんな辛い悲しい私は不幸だ」とばかり思っているから、
本当にそのようになってくるのです。
今度動脈瘤ができて、お医者さんに診てもらいましたら、
「あなたのはもう手術できません」。

「それじゃあどうなるのですか」と聞きますと、
「この動脈瘤が腫れたら、あなたは一巻の終わりだから、
もうそこまで大事に生きないと仕方がない」と言われて、
その人の嘆きがまた大きくなったのです。
これはまさに「泣き面に蜂」です。

「あの石原裕次郎のあんなのでも治すのに、
どうして私のを治してくれないのか」と言って、
泣いて泣いて暮しておられたのです。
で、その人のお姉さんが私にご縁がありまして、
連れて来て下さったのです。
「妹がこんなにして四年間、毎日毎日泣き明かしています。
何と助けやってほしいのです」といって見えたんです。




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「御垂訓」

2021-11-17 00:42:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          調和と中道

先の続き・・・

お釈迦様の悟りのきっかけになったのは、

弦の音は 強く締めれば糸は切れ
弦の音は 弱くては音色が悪い
弦の音は 中ほどに締めて音色がよい
音に合わせて歌えや 歌え
歌に合わせて踊れや 踊れ

という、チュダリア・スダータという少女の歌声でした。
そういうインド民謡があったのですね。
お釈迦様が、厳しい厳しい、もう今まさに肉体の命が絶えんとするほどの
厳しい行をなさって、ある日ネランジャ川に顔を洗いに行かれましてフト
水面をのぞかれましたら、九十、百のお年寄りもなお衰えた自分の姿を
見られたのです。

そのとき、「あっ、これだったらもう自分は死んでしまう。
しかし、死んだらもう自分は悟ることができない」と思われたのです。
『仏陀苦行像』という像がありますけれども、
それを見せていただいたら、
もう本当に涙が出ますね。

後光はきれいに出ていますけれども、肋骨の一本一本、
そして、その肋骨の
上を這っている血管まで出ています。
顔でも全くもう骸骨の顔になっています。
目は落ち窪み骸骨みたいですね。

ところがまた、あの彫刻を作られた方も名工だと思います。
骸骨が座っているようなのに、
何とも言えない慈愛、慈悲に溢れたお顔に見えますね。
あれを見せてもらいますと、どうしても涙が止まらなくなります。
それほど厳しい行をなさって、そして、「このままいっては死ぬ。
死んでは悟れない」と思われた時、
川上の方からその歌声が流れて来たのです。
その時、お釈迦様の気持ちの中では、
もう本当にこれは天女の教えだと聞かれたのです。

そして、「私は今までお城の中の王子としてあった時、穴蔵の中へ入って
千度禅定・瞑想したけれどなお悟れなかった。弦の糸が強ければ切れる。
今まさに自分は厳しく締めすぎた糸が切れる寸前だ」ということを悟られた。
それでお釈迦様は、苦行を一切放棄され、
中道の道を歩むことをお悟りになったのです。


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「御垂訓」

2021-11-16 00:54:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「思いの中に生きる」より


               調和と中道

先の続き・・・

お釈迦様は、
あの優雅で栄耀栄華な王子様の生活の中に悟ることはできませんでした。
また、
自分の命が擦り切れてしまうほどの厳しい肉体行を通しても
悟ることはできませんでした。

だから、両極端を離れて、まず自分自身の肉体を健全にされ、
安らかな環境において自分自身の心を徹底的に追求されて、
あの偉大なる悟りに到達されたのですね。
肉体行では悟ることはできなかったお釈迦様は、
「この世が始まって以来、私ほど厳しい行をした者はないであろう。
そして、この世が終わるまで、
私が行ったほどの行をする者は現れないであろう」と言われた。
それほど厳しい肉体行をなさったのですね。

しかし、悟ることはできませんでした。
それは、人間の肉体は火の中に手を突っ込めば熱いし、
水の中へ入れば冷たい、
この感覚から逃れることはできないのですね。
冷たい中へ入れば冷たい。
「冷たい」その思いにとらわれるはずです。
もし、大きな護摩を焚いて、その中でどんなに九字を切っていましても、
肉体をもっていれば熱くて当たり前です。
「熱い、熱い」と思っていて、そんなことで悟れるはずがありません。
また栄耀栄華・安楽に陥っても、これも悟れません。
中道をいくことですね。



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「御垂訓」

2021-11-15 00:05:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              調和と中道

調和とはバランスですね。
両方のバランスがとれたら落ちない。
弥次郎兵衛」(短い立棒に湾曲した細長い横棒をつけ、
その両端に重しを取り付けたもの)、
あれはもうこんな所でもあんな所でも立ちます。
落ちません。

あれはバランスがとれているから落ちないんですね。
あの姿こそ調和です。
そして、自然はすべてそのバランスを保っています。
このバランスこそ神の御意志だったのです。
ですから、私たちも日々の生活でどれだけ
自分の心のバランスをとるかです。
苦しみにとらわれていないか。

苦しみの方へ片寄れば落ちますし、
喜びに有頂天になれば足元をすくわれます。
まあ昔から「勝って兜の緒を締めよ」という
言葉もありますけれど、
勝って「うまいこといった、

うまいこといった」と有頂天になりますと、
これもバランスが崩れますし、
あるいは苦しみの方にとらわれてしまいますと、
これもバランスが崩れます。

常に足ることを知って中道の道を歩くことこそ、
バランスだったのですね。
片寄ることのない弥次郎兵衛を思っていたら間違いありません。
さもないと、どちらに片寄っても、バランスが崩れてしまいます。



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