浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「垂訓」

2023-09-30 00:07:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

           ◆絶対を忘れているむなしさ◆
      
あるとき、
講演会の折に青年が次のような質問をしてこられました。
「先生はお話の中で絶対という言葉を何回が使われました。
この世の中で絶対といえる絶対はあるんですか」
「あなたは哲学を学びましたね」
「はい、哲学科を出ました」
「それでは私からあなたに質問させてください」
「あなたは太陽が西から昇るの見たことがありますか」
「いいえ」
「絶対に太陽は東の方角から出て来ます。
そうでなかったらこの地球はつぶれてしまいます」
青年は、へえなるほどそうですねとおしゃっています。
「では、もう一つ質問させていただきます。
あなたはいつまでも生きることができますか」
「いや、それは無理です」
「絶対にあなたは死にます」

そうしますと、ああもうようわかりました、とおっしゃいます。
そこで、もう一つ聞かせてくださいと言いますと、
いやあもうやめてください、
とおっしゃいます。
「あなたは今お若いです。
しかし、その若さをいつまでも保てますか」
「いや、もうようよくわかりました。もういわないでください」
「絶対に年をとります。
その絶対の中に私達は生きさせてもろうてるんです。
これが自然の定めです。法則です」
そうしますと、
「先生、ぼくはなんで哲学を勉強したんですか」と言われます。
「そんなことは私は知りません」と答えました。
「あなたは理屈屋さんだからでしょう」大笑いになりました。
真理というのは、その中に私達が生かされています。


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「垂訓」

2023-09-29 00:27:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

先の続き・・・

汗水流して一生懸命に癒させてもらっていますと、
「ハイ、お賽銭です」と十円入れていかれる方もあれば、
ティシュにティシュをくるんだものを
御礼の代わりに入れられる方もおられたりと、
実に様々な方がお見えになります。
たいへん心の勉強になりました。
ときには、お金に困った方はそこから持っていってください、
と感謝箱からお金を持って
いってもらうこともありました。

その後、数年前からは治療券を受け取っていただくことにしました。
隣の部屋で若いマッサージの先生たちに治療してもらってから、
私が祈ります。
すると、十年以上ものあいだ無料で治してもらうのを
当然のように考えて見えていた方が、
ある日突然にみなさんが治療券を受け取っているのに気付かれて、
「えっ、ここはタダじゃなかったんですか」
と驚いて聞かれたのです。
これには私の方がびっくりさせられました。
十年間も無料で治療を受けられていたそうです。

感謝箱を設置したのも、
癒しは商売として始めたわけではありませんから
神様への感謝を忘れないでいただきたい、という願いからでした。
もちろん、人間には各人に自由意志が与えられていますから、
何事もご本人が判断して行動されるべきものです。
ただ、人間誰しもがそれぞれ内なる良心を持っていますから、
やがて神我に目覚められるであろうということを信頼し、
また一人でも多くの方に神我に目覚めていただきたいと
祈る毎日です。


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「垂訓」

2023-09-28 00:06:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

先の続き・・・

こういう不思議な力がいったいどこから来るものかもわからず、
いろいろな宗教の門を叩きました。
求道者のようにあちこちに足を運び、
質問したりしましたが、納得することも、
これはといった師にめぐり逢うこともありませんでした。
そして、とうとう高橋信次先生との邂逅とも言うべき
運命的な出会いの御縁をいただいたのでした。

そこから学んだ無償の愛というものを実践させていただきました。
初期の頃には大阪近辺でお話させていただいていたのですが、
昭和六十二年からは遠い招請を受けまして、
枯野に火が燃え広がるような具合で全国各地へと
活動範囲は広がりました。

海外での奉仕活動もやはりこの頃から始まりました。
そもそもの動機は、故高橋信次先生の
「正法は必ず全世界の人々に伝わるべきものである」
と言われたその遺志を受け継いで、
法の灯を絶やすことなく海外にもお伝えしたいという願いからです。
しかし、それも仕事を持っていたからこそ、
人様に対して無償の奉仕ができたのだと思っています。
最初は無償で感謝箱だけ置いてありました。


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「垂訓」

2023-09-27 01:48:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

先の続き・・・

昭和四十五年に癒しが始まった後、四十九年に高橋先生にお会いし、
太陽のような与えっ放しの「無償の愛」を学びました。
又、「今世、天下った光の天使は宗教でめしを喰っているような者は一人もありません。
神はそれだけのものは与え給います」という教えを守っています。
昭和五十三年四月から鍼灸専門学校に二年間通い、昭和五十五年に国家試験に合格して
資格を取得し、職業的な治療家の道に進むことになっていきます。
昭和五十七年には織物業を止めることになりました。
癒しを始めた当初は一日に五人から十人くらいの方が治療にいらっしゃいました。
癌であと三カ月の命と宣告された方が御縁があって来ているうちに、完全に病巣が消えて
しまって、もう帰ってよろしいと医者に言われた方とか、
女性の方の子宮筋腫がすぐに消えたりするなどのケースは枚挙にいとまがありません。


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「垂訓」

2023-09-26 00:08:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯

        ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

先の続き・・・
ふつうなら毛布を造り、製品として袋に詰めて
問屋に入れなくてはなりません。
しかし、運よく毛布丹前を主として生産していました。
外注に出した製品は起毛屋が集めてくれ、
それをミシン屋が仕立ててから問屋に入れるので、
私の手はかかりません。
いくら多く生産しても私は何もしなくていいのです。
私がすることと言えば、支払い、糸の手配、糸の仕入れ、
そして問屋から集金するということのみです。

ところで、足ることを知りなさいという言葉に出会ってから、
外注の三十台分の製造を止めました。
すると、お金が余ってきてしようがなくなりました。
取引の規模を今までの十分の一にまで縮小したのですから、
十倍の在庫と原材料があり、仕入れの必要もなくなりました。
その結果、銀行に借りなくてすむようになり、資金もたっぷりになり、
銀行からは上得意と見られるようになっていました。
足ることを知ればこんなに楽だったかということがわかりました。
それから、昭和五十一年一月に高橋信次先生がお亡くなりになるまでの
一年八カ月というものは、月に一度ですが、
欠かさず講演を拝聴しにまいりました。



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「垂訓」

2023-09-25 02:17:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯

        ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆


昭和四十九年十一月に高橋信次先生の講演をはじめて聴きました。
しかし、直接お会いして先生から指導を
受けることはついにありませんでした。
ただ、演壇に立ってお話されるのを群衆の一人として拝聴したのみでした。
高橋先生の伝えられる正法にふれて、
まず「足ることを知る」ということの大切さを改めて知りました。
講演の中で聴いたこの言葉は、
自分に向かって言われているような気がしました。
ちょうど商売を少しでも大きくしようとか、
もっと儲けようとかして、この世の現実と
四つに取り組んでいる頃でした。
事業を拡大しようとすれば、借り入れが増えます。
すると銀行はいい顔をしない。

手形を割ってもらおうと思って銀行に行くと、考えておきますと言われ、
こちらはどうしても期限内に手形を落とせないと
困るから頭を下げて頼みこみます。
もう朝から晩まで寝ていても頭の中ではお金の算段ばかりで、
心の休まる暇はありませんでした。
商売というのは下手だから倒れるのであって、
倒れないためにはあらゆる頭を使わなくてはなりません。
お金を動かすのはたいへんだとつくづく思います。
その当時は自分の工場で稼働している織機は三台でして、
ほかに三十台分は外注に出して、
毛布の製造を下請けしてもらっていました。


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「垂訓」

2023-09-24 02:26:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


             第一章 或る愚か者の生涯

        ◆高橋信次先生との邂逅と天職を見出すまで◆

昭和四十五年に不思議な出来事が起こりました。
近所におばあちゃんがいまして、
レントゲンをとると膝の骨がグチャグチャに
なってしまっていたのですが、
私が手を当てると完全に治ってしまったのです。
レントゲンを撮るともとどおりになっているのがわかりました。

それがきっかけとなって、
治してもらったという情報が口コミで広がり、
治療をしてもらいたいという人々が集まってくるようになりました。
そして、不思議な運命の糸に操られるかのように、
人生が変わっていきました。
しかし、これも高橋信次先生という方を知ることなしには
考えられないことだったのではないかと思います。
人生を変えることになったのは、
一つは「足ることを知りなさい」という教えです。
それからもう一つは「無償の愛」ということです。



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「垂訓」

2023-09-23 00:49:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

         ◆織物業における成功と商売の極意◆
先の続き・・・
そう言って、私は仕入れ部長さんに売り上げの
二パーセントを還元させてもらう約束をしました。
売り上げが一億ならば二百万円ということになります。
これが政界の方なら賄賂の問題につながっていまいたいへんですが、
あくまでも商取引のうえでのことで、
私の感謝の気持ちを表現したまでのことです。
さて、仕入れ部長さんと約束した後で見本の
毛布二、三枚をさげて地方に赴きました。
いろいろな世間話をした後にそろそろ商売の話に
入りましょうということになり、
私は地元で売っている原価で十分です。

ただし、
送料と梱包代だけはおたくのほうでもってもらったら結構です。
と話しますと、わかりましたということで、
話は一分か二分ですんでしまいました。
それで、以後二十年もその会社との取引は続きました。
なんの不都合もトラブルもありませんでした。
その件で地方に行ったのは、それ一回限りでした。
昭和四十八年にオイルショックで日本全国の物価が暴騰しました。
それで値段を倍に上げてもらいました。
それ以来、糸の原価は下がりましたが、その価格で買っていただいたため、
えらく儲けさせていただきました。



※ ご報告
ブログ名:垂訓 URL:http://blog.goo.ne.jp/hanatenzen 
当ブログの開設日より現在までのトータル訪問者数、
並びにトータル閲覧回数をご報告申し上げます。
開設日:(2008-11-11)から本日現在(2023-9-23)
までの5,429-195=5,239日間で:
(不可抗力で投稿できなかった日数を195日として計算しています)
トータル訪問者数:549,132名     一日平均:105名
トータル閲覧回数:1,404,868回    一日平均:268回
恩師「長尾弘」先生がご逝去になられて今年で16年となりますが、
今もってこのように沢山の皆様の
当ブログへの訪問ならびに閲覧されていただいていることに対し
心より深く感謝申し上げます。
恩師も天上界で大変喜んでおられることとご推察致します。
微力ながら、小生も皆さまのご健康とご多幸をお祈りさせていただきながら、
日々当ブログの更新・管理をさせて頂いております。
今後とも宜しくお願い致します。
ありがとうございました。



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「垂訓」

2023-09-22 00:06:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

         ◆織物業における成功と商売の極意◆


というのも、考えられないような幸運なことが次々と続いたからです。
神様のお助けがあって、私の商売もいろいろな難事にもかかわらず、
成功に導かれたのでしょう。
日本がまださかんに新幹線や高速道路の工事をやっていた頃に、
建設現場の作業員の寝具を貸し出す
地方のリース会社と御縁がありました。
布団、毛布、枕の一式を一日いくらで貸す会社ですが、
そこの営業部長が私の友達を通じて来てくれまして、
商売の話を持ちかけてくれました。
当時は手形が常識でしたが、そこは現金で
取引きしてくれるというのです。
夢のような話でした。

手形は短くて三カ月、
お産手形といって長いものなら十月十日です。
私のところでは毛布の製造をしていたので、それを売るわけです。
手形商売とは百万円なら百万円の品物
を売ると引き換えに手形をもらいます。
そこに期日が書いてあって、期日が来たら現金が入ってきます。
でも、資金繰りのことがありますから、
金利を支払って手形を割ってもらうことになります。

つまり、銀行からお金を借りて先に代金を
受け取るということになります。
四分の金利でしたから、百万円から四万円が差し引かれ、
こちらに入るのは九十六万円になります。
ところが、現金取引をしてもらえば、
それだけの金利を取られないですむわけです。
「こちらでは手形取引が常識になっていますから、
私は買い上げていただいた全金額の
二分を部長さんに感謝の気持ちとして送らせていただきます」



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「垂訓」

2023-09-21 00:08:30 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

         ◆織物業における成功と商売の極意◆

二十五歳の時に土地を買い、二十六歳の時には
独立して織物業を創業しました。
昭和三十二年のことです。
はじめは賃織りといって、下請けの仕事でした。
その後、原料を仕入れて商売するようになります。
もちろん借金で始めました。
織物業をやめる昭和五十七年までの二十五年間に
ずいぶん儲けさせてもらいました。

商売は儲けることが大事で、失敗したらその事業は
的を射ていなかったということです。
人生は的を射ることが大切です。
しかし、今から考えると、
この儲けは明らかに今日のご奉仕活動のために
蓄えておかなくてはならない分として、
天より与えられたものだったようです。


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「垂訓」

2023-09-19 23:56:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

先の続き・・・

船に乗る時にお世話してくれた人の家が事情があって
とても貧乏になって年も越せぬほど
つらい生活をされていると聞いた時、
まだ十代でしたが、当時のお金で二万円(当時の
月給が六千円ですから四カ月分ほどですが)
を正月のお餅でも買ってくださいと送りました。
非常に喜んでくださいました。

その喜びはその方にとって亡くなるまで忘れられなかったようです。
もらうのはあまり好きではなく、
出してしまうのが好きというのは幼い頃から
見てきた布施の習慣からも来ていたのでしょう。
布施の行いが自然に身につき、
子供の頃からの積み重ねがあって、今日の私があります。

日銭を稼ぐという言葉がありますが、
それも自分の生活のためというよりも、
気がついてみれば一生懸命働いて得たお金は
結局は誰かのために役立ててもらったり、
また善い事に使ってもらったりして、
そのこと自体に私は喜びを味わってきました。
人生を振り返ると、実に多くのお金の出入りがありました。
人に信用を裏切られたことはたくさんありまあした。
信用して貸したお金が反ってこなかったこと、
人にお金を融通させてもらいながら、
なんの挨拶もなかったことなど挙げたらきりがありません。


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「垂訓」

2023-09-19 00:04:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

先の続き・・・

私も大学に行きたかったのですが、
兄が戦争から帰って来なければ自分が後を継がなくてはならないので、
上の学校に進むのを諦めて家の手伝いで農業をしていましたが、
戦後まもなく兄が帰って来たので、
一粒の葡萄で家を出ることになったのでした。
弟には「よし、そんなら、今、十万貯金できてるから、
これを持っていき。兄ちゃんの代わりにしっかり勉強してや」
と言って貯金の全部をあげました。

それから、また一からすべてやり直ししました。
ちょっと寂しい気もしましたし、
すっとしたようなヘンな感じもしました。
後年、私の長女が結婚する時にこの弟が百万円も
お祝をしてくれました。
「ぎょうさん祝いしてやってくれやなあ」と言って、
ありがとうと受け取りましたが、
それを郵便局の(当時の金利で七分以上ありましたので)
定期預金に入れて、十年は出さないでほしいと言って、
これをそのままその弟への祝いに返しました。
それが十年すると倍に増えて二百十万円になっていました。


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「垂訓」

2023-09-18 00:00:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第一章 或る愚か者の生涯

       ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

先の続き・・・

何年かして母親のほうから、それまで家に送っていた私の給料で
姉達の嫁入り道具をそろえたりして役に立てさせてもらったので、
これからは自分自身のために貯金してほしいと言ってきてくれました。
家のために使わせてもらってきて申し訳ないからとのことでした。
それでは貯金させてもらいますと言って、自分で貯金をしました。
当時、給料は六千円ほどでした。

すぐに十万円ほどできました。
自分の小使いなどほとんど使いませんでした。
でも、毎月給料をもらうと決まって、私は飲みませんが、
仲間に一杯やろうとタカラみりんとスルメを
買ってきてみんなに飲んでもらいました。
その頃、私の二つ下の弟が近大に一年通い、
それからいい先生がいるというので立命館に
移ろうとしましたが、そのためには入学金として当時五万円必要でした。
そのことを弟は長兄に言うとそんな大金はないと言われ、
どうしても行きたいと私のところに相談に来ました。



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「垂訓」

2023-09-17 00:41:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

        ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

姉婿の弟がラジオをさわるのが好きでした。
近所の古いラジオを修繕するといって持ってきて、つぶしてしまったのです。
どうにかならへんかというので、大阪の日本橋の電機の問屋に行って、
ラジオのキットを買ってくることにしました。
組み立て図や説明書も付いていました。
当時は千円程でした。

幼い頃、鉱石ラジオを作ったことがありましたので、
簡単に組み立てられました。
そのキットを利用して壊れたラジオをもとに戻すと、
すばらしい音が出るようになったので、
その噂を聞き付けて近所から次々とラジオを組み立ててくれという
依頼が来るようになったのです。
箱に入れて千五百円ぐらいで組むことができて、
それが三千円で売れ、口コミで注文が殺到しました。
儲かってしようがなかったのです。

一か月の給料よりもこのアルバイト収入の方が余計に入りました。
蓄音器を組めば一万円以上にはなり、
さらに高い収入に結び付きました。
何年間かはそんなことをしていましたが、
そのうちナショナルや日立などのメーカーから
完成品のラジオが店にでてきたので、きれいさっぱりやめました。
もう少し頭がよかったらテレビの世界に入って
電気関係で儲けていたかもしれません。


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「垂訓」

2023-09-16 00:04:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
  
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第一章 或る愚か者の生涯

        ◆初めて世間の風に当たり、お金を稼ぐ◆

十六歳と一か月の時から二十歳までの間は船に乗って、
ただがむしゃらに働きました。
給料の封は切らずに故郷に送っていました。
その間、旅客船でしたからチップなどを結構いただいていたので、
お小遣いにも困りませんでした。
船を降りる時、当時の金で三万円ぐらいあった貯金も
父母に全部差し上げました。

初めて故郷を後にして一般社会に出てみると、
それまでには考えられなかったような厳しい環境のもとで、
いろいろの体験が待っておりました。
親元にいたらなあと思うことがよくありました。
まず、メスルームボーイという船の下士官の身の回りの世話をする
見習いの仕事から入りました。

「メス!メス!」と呼ばれて人に使われました。
長崎の三菱造船所に、戦後まもなくの昭和二十三年にできた
新造船で瑠璃丸と名付けられた関西汽船の客船がありました。
その船を受け取りに行くのに、乗組員として乗船したのが最初でした。
船の中の狭い社会で上下の人間関係でずいぶん
苦労をしている仲間の姿を見るにつけて、たいへん同情させられたり、
また人の心というもののマイナス面を多く見せられる場面にも遭遇しました。

私はその頃より人生について人間について疑問を持ち始めました。
下船してから染物工場に住み込みで就職しました。
泉大津というところにあり、長姉の嫁ぎ先でした。
そして、姉の嫁ぎ先の染物工場に勤めるかたわら
自然と覚えたラジオの組み立てのアルバイトでは、
給料以上のお金を得ました。
昭和二十七年の頃です。


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