浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-03-31 23:59:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」の書「明来闇去」です。
この書は日展書道の部で最優秀賞を授与されたものです。


 ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

            講演集 一

     「経文は生死に関係なく分からない」


亡くなられた方の法事というのをよくいたしますね。
皆さんも三回忌、七回忌、十三回忌をつとめられるでしょう。
あの法事の姿をよく観察いたしますと、お仏壇があって、
その前にお坊様が坐られ、後ろに親戚縁者が坐ります。
そのお坊さんを仲介して亡くなられた方の供養をするわけですが、
後ろにおられる親戚縁者の方達の心の中を観察いたしますと、
皆共通して同じ心を持っておられますね。
「何や訳わからんけど早くお経が終わらないかなあ、
しんどいなあ、足が痛くてたまらない」という思いです。
「ああ有難いなあ、三部経は何と有難いなあ、
私はこのお経の教えのように生きよう」と思っておられる方は
一人もありません。
皆さんはいかがでしょうか。
法事で三部経を聞いて有難いと思いますか、思えないでしょう。

なぜ思えないと言うと、
それはお経の意味が何を言っているのか分からないからです。
分からないから余計に退屈で、
足が痺れて早く終わらないかなと足をさすってやるのです。
そして休憩の時間になるとやれやれとお茶をいただくのですが、
これから又、お坊さんのお説法のあと読経が始まるとなると、
「やれ、おそろしよ」ということになります。
さて次に今度は死んだらどうなるかと言いますと、
お坊さんを境として生きている者は後ろへ、
死んだ者は今度はお坊さんの前に坐ります。
そしてお経を聞いてどう思っているかと言いますと、
お坊さんの後ろにいれば、まだ足もさすれたけど、
ここでは足もさすれず、足を伸ばしたり、くずしたりもできず、
「かなわんなあ」と思っています。
それが亡くなった方の心です。
「もういい加減に終わってくれないかなあ」と思うだけで、
お経をあげてもらっても何も有難いことはありません。
それはお経の意味が分からないからですね。
分からないものは生きて聞いても死んで聞いても分かりません。
法事のお経を、お坊様を境として生きて後ろで聞くか、
死んで前で聞くかの違いですから、
同じ思いをしているということです。


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「御垂訓」

2020-03-31 00:11:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」が学びの友の方から贈呈された白衣の着物を
身につけられてお写真を撮られたものでありますが、ご覧のように腰の辺りに
白色の霞のようなものがかかっています。
不思議写真の一枚です。


~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

     「生きて怖い場所は死んでも怖い」


先日四国に行きました時、
死んでお墓に入ってはいけませんと話しておりますと、
おばあさんが「私は毎日お墓へお参りをして、
どうか早くここへお迎え下さい。
ここへ入れてもらったら極楽ですと言って頼んでいます」
と言うのです。

「それはいけません。もし不審に思われるなら、
今夜一晩お墓に行って寝てみなさい」と言いますと、
いや怖い怖い、あんな所ではよう寝ません」とおしゃっています。
生きていて怖い場所は死んで行っても怖いのです。
同じ自分が行くのです。


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「御垂訓」

2020-03-30 00:15:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の隠し芸「皿回し」です。
浄心庵「心の道場」にて。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

         講演集 一

     「死後の行先は信仰と無関係」



宗教を信仰しないと天国に入れないとか、
イエスを通さないと天国へ入れないとか言う者がありますが、
あれは嘘です。

いくらイエス様を通しても、
悪事をはたらいていたら天国へは入れません。
いくら宗教を懸命に信仰しても、
過ちを犯したら極楽へは絶対に行けません。
何も信じなくても、
自分が過ちなく良き行いをしていたら必ず極楽へ行けます。
その方その方によって生きている今現在が極楽です。
そして生きている今の心が地獄です。


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「御垂訓」

2020-03-29 00:10:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はインドのクシナガラに建立されている
お釈迦様の涅槃堂にて恩師「長尾弘」先生がお祈りされた時に
空中からヒラヒラと舞い落ちた金箔です。

手の平に乗せてお示しになられているのは恩師「長尾弘」先生ご自身です。
この涅槃堂を恩師は八回ほどご訪問になられておられますが、
その度毎に常に金粉・金箔が沢山降ってきます。

この金粉・金箔はいつまでも消えてなくなりません。
純度百パーセントの金です。
(学びの友が金の純度を調べたそうです。
   ご講演会で恩師がそのようにおっしゃっていました。)


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

           講演集 一

          「風船玉と砂袋」


先の続き・・・

足ることを忘れた欲望、
こんな思いを心に持ったり行いによって行じておりますと、
心が重くてたまらないです。
そんな思いは重く下にぶら下がりっております。
命の糸が切れますと、軽い人はすうっと上にあがりますし、
重い人は命が切れた瞬間に落ちて行きます。
仏教で閻魔さんが裁判をして悪い事をした人を地獄に落とすのだと言いますが、
あれは閻魔さんが裁くのではなくて、自分が自分の心の重さの世界へ、
軽さの世界へと自分で落ちたり昇ったりしていくのです。
簡単なことですね。
火の車を造る大工さんはありません。
「火の車に乗ったら熱いし苦しいですから、
そんなものを大工さんは造りません。
誰が造っているかと言うと、他ならぬ自分が造って自分が乗って行くのです。
地獄へ行くのも極楽へ行くのも自分が行くべくして行っているのです。


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「御垂訓」

2020-03-28 00:18:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はお釈迦様の終焉の地インドのクシナガラに建立されている涅槃堂です。
この中にお釈迦様の涅槃像が安置されており、恩師「長尾弘」先生がこの涅槃像の前で
お祈りすると空中から金粉・金箔がたくさん舞い降ります。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

           講演集 一

          「風船玉と砂袋」


その中にあって、その方、その方の心の状態、行いの状態、
言葉の状態によって、風船玉のようにポカポカと浮かんで、
現れた世界の上側についているのですね。
反対に現れた世界の下側に砂を詰めた砂袋のようにして、
ぶら下りながら生きている人もあります。
上の人もこの物質と化した肉体の生命によって
上にも行かず下にも落ちず、この世を旅しているのです。

では、心の軽い風船のような方はどのような方かと言いますと、
常に心が安らかで人の幸せを願い、人の幸せの為に自分から奉仕する人、
人に喜びを与える方であって、こういう方は心が非常に軽いです。
また感激に満たされている方であって、現実にこういう方はおられますね。
心が軽いから皆、上の方に浮かんでいます。
その反対に、砂袋をぶら下げたようにぶら下がっている人は
どういう人かと言いますと、心の中に一杯「苦しみ」を詰めた人です。
砂の粒の材料は何かと言いますと、まず怒りです。
怒りの心は砂となって心の錘となります。
怒り、妬み、謗り、相手を悪く言ったり、恨んだり、憎んだり、
愚痴を言ったり、要らぬ取り越し苦労をしたり、
不安や恐怖にとらわれたり、それと嘘をつく人ですね。
また人のものを盗んだら心は苦しいです。


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「御垂訓」

2020-03-26 23:57:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はお釈迦様の終焉の地インドのクシナガラに建立されている
涅槃堂の中に安置されているお釈迦様の涅槃像です。
恩師「長尾弘」先生がこの涅槃像でお祈りすると必ず金粉・金箔が空中から
ヒラヒラと舞い降ります。
ご覧のようにお釈迦様の衣の上に金箔が舞い降りているのが視認できるかと思います。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

      「この世はかげろうの存在」


あの世の世界とは、先程も言いましたように、光の量の区域で、
一方にはすごく明るく光輝く世界があり、
それは仏教で言っております極楽です。
また、苦しく、暗く、つらくて悲しい、恐ろしい闇の世界があり、
それが地獄です。
その極楽と地獄の間に物質と化して現れている世界がこの世であって、
物質化した現象世界であるこの世界へ、私達は魂の修行に出ているのです。
いわば、かげろうのようなものです。

そんなおかしなことはない、かげろうではない、
この現実は確かに在るというように思いますね。
お菓子、お湯呑み、お茶、テーブル、家などは確かに現実に在ります。
しかし、一番早く分かるのは、口にいただく食べ物です。
出していただいたお菓子を、ああおいしそうだな、
いただこうかなと思って口に入れて
飲み込んだとしますと、もうこの世から消滅します。
現実に在るのですが、消えていく存在です。
お茶も同じことです。
いただいて飲んだら、その瞬間にこの世から消えます。
今度お尻から出る時は別の物質になって出て来ます。
お菓子がそのままでて来たら、えらいことです。
お菓子のままでは再び決して出て来ません。
ご飯にしても、果物にしても同じことです。

この見方からしますと、
私達の一人一人の存在についても同じことが言えます。
私は現在ここに存在しておりますが、もう三、四十年の間には、
この世から消えるでしょう。
精一杯生きて、あと五十年、もう五十年もしたら、
私は使いものになりません。
皆さんに助けてもらって連れて歩いてもらわねばならない存在です。
人間の命は五十年から百年の間にこの世から消え去ってしまいます。
どなたも避けることはできず、必ず消滅してしまう姿です。

その五十年、百年を、ああ何と苦しい人生やなあと思って、
人は苦しんで生きるのです。
地球がこの宇宙に現れて、はや四十六億年という長い年月の中の、
私達人類のこの世に許される時間は、僅か五十年、百年の時間です。
私達の生きる時間は百年としましても、
全く瞬間に現れては消えていく存在です。
もう電子顕微鏡で見ても見えないくらいの瞬間のはかない存在が
人間の姿です。
まばたき一つする間もない時間です。
長い宇宙時間からしますと、現れては消え現れては消えしているのです。


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「御垂訓」

2020-03-26 00:06:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の書「愛」です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

          講演集 一

   「死後、仏壇、お墓に入ってはいけない。」


例えば、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだ、
或いはお墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、
必ずそこへ行きます。

死ねば、思いの世界、心の世界ですからね。
死んでお墓の中に入ったら駄目です。
或いはお仏壇の中に入っては駄目です。
今迄一般に皆さんが考えておられたこととは違うと思いますが、
お仏壇やお墓はこの世の現象世界の物質ですから、
物質に心をとらわれては、そこから心が離れられず、
成仏できないのです。




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「御垂訓」

2020-03-24 23:40:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は「モーセの御足を慕って」の恩師「長尾弘」先生の
旅でエジプトからシナイ半島を渡りヨルダンに入って
モーセの終焉の地「ネボ山」に建立されているモーセの
教会を見学して後、カイロ国際空港へバスで移動していた時、
バスの車窓より天空にご覧のようなアラビア語を
この旅に同行されていた学びの友が見られ、
カメラに収められました。
意味は「何かが出現する」との意味だそうです。
キリスト教ではイエス様の再臨を伝道の大切な一つとして
説かれていますよね。
このことに関係することかな(?)とも思ったりもしています。
お写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」
にも紹介されています。(261ページ)


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

      「心はこの世あの世を生き通す」


先の続き・・・

もしあの世があると仮定しましたら、あの世とはどんなものか―――
これを分かり易く言いますと、例えば、
浴槽の中にお湯が一杯入っていると思って下さい。
その中にスポンジボールを沈めたら、そのスポンジに中に水が浸透します。
では、これはスポンジですかと言いましたら、スポンジだけではなくて、
水が入っております。
では、これは水ですかと言いますと、これはスポンジです。
浴槽に水が一杯入っているのがあの世であって、スポンジがこの世です。
この世の中に、ちゃんとあの世も浸透しています。
隅々まで浸透しています。

人は皆、この世で生活をして、いつの日かあの世へ帰ります。
あの世を信じない方は、なぜ親しい方や両親、祖父母が亡くなられると、
お墓参りをしたり、お仏壇の前で手を合わせたりするのですか、
お仏壇では、あの世に行かれた方に対してお参りをしている筈ですね。
お墓のご先祖様、或いは親しい方に対してお参りするわけです。
あの世を信じなかったら、お参りをせず放っておけばいいのですね。
亡くなって、うまく成仏できない方は、スポンジの中から出られないで、
水がくっついているのです。
これがいわゆる迷える諸霊です。
スポンジの中からうまく出た人が、成仏した霊です。
皆さんは「霊」を信じられますか。
霊といえば気持ちが悪いけれど、私達は本来は霊です。
霊というのは私達の心です。
意識です。
肉体がなくなっても、その意識は生きているのです。


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「御垂訓」

2020-03-24 00:26:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の書「心」です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

「一人でも救われてくれるように」


先の続き・・・

上のお譲さんは以前私の家に連れられて来られたことがありますので、
「先生、こんな遠い所まで来て下さってすみません」と言われます。
「いえいえ、私はあなた達が幸せになってくるのなら、
どんなに遠くても走って来ます。
そんな道の遠い近いは言っておられません。
幸せになってくれるのなら、どんな所へも私は行きますから、
気を使わなくてよろしい。
それよりもあなた達が幸せになって下さい」と話させてもらったのです。


 ~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一


      「心はこの世あの世を生き通す」


皆さんは「あの世」を信じられますか?
見たことがないから信じられませんね。
しかし、あの世というのは確実に間違いなくあります。
私は今迄あの世の方と数え切れないぐらいお話をしております。
あの世も見て来ています。


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「御垂訓」

2020-03-23 00:05:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が少年を舞台で
癒しをされているのを学びの友の方がカメラに
収めたものですが、
ご覧のように少年が着ていた衣類は視認できますが、
少年の肉体は消えてしまっています。
幽体(肉体)離脱なのでしょうか。
また、飾ってある花々も歓喜に躍動しています。
不思議(奇跡)写真の一枚です。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~


             講演集 一

     「一人でも救われてくれるように」

昨夜のこと、昼間たくさんお客さんがありましたあと、
私の家から四十分ぐらいの、あるお宅へ行きました。
そこはお譲ちゃん三人のうち二人がノイローゼです。
下のお譲ちゃんは精神病院に入っていたのですが、
たまたま、連休で外泊されていたのですね。
そのお母さんから、何とか助けて欲しいと言われて、
仕事が終わるなり食事もとらないで飛んでいきました。

向こうで一時間、
道中往復を入れて三時間ぐらいあればと思っておりましたら、
ノイローゼの方にお話するのですから、なかなか諒解してくれません。
思わず時間をとり、家に帰ると十二時になりました。
そして今朝は六時前に起きて、こちら(山口市)に寄せてもらいました。
さて、そのお母さんは、病院で手伝いの仕事をしておられ、
なりふり構わず単車に乗って、
寒い時は汚い上衣を着て私の所へ訪ねて来ておられたのですが、
立派な家に住んでおられてびっくりしました。
普通に生活できないお譲さんを持って、一生懸命働いておられたのです。
いろいろ話をさせてもらいますと、心が正常に戻ってくれまして、
あれなら救われてくれたのではないかと思うのですが。


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「御垂訓」

2020-03-22 00:03:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

                講演集 一


先の続き・・・

それについて、ご主人が、「自分のものを盗んだ泥棒に対して、
罰を当てないようにと祈られる先生の気持ちが有難くて涙が止まりません」と
言われるのです。
「先生、もしその泥棒が警察につかまったらどうされますか」と言われるので、
「警察に行ったら、どうぞ罪を軽くしてやって下さいとお願いします」と
話したのです。
泥棒が入りますと、家中を荒らして、箪笥から戸棚から全部開けて行き、
お仏壇の引出しまで開けています。
まあプロの仕業ですね。
この事に対して、「泥棒に入られた、また入られるのではないだろうか」とか
「憎い、こんな大金を盗んで・・・」と、
思いをそのほうに向けますと、自分自身が苦しくなります。

泥棒への恐怖、怒り、返って来ないものへの執着、
それらによって自分の心がひどく苦しくなります。
しかし、相手の罪を軽くしてやって下さい、罰を当てないようにして下さい、
と祈らせてもらったら苦しみはありません。
もしつかまった時には、警察にお願いに行くような気持ちでおりますと、
なるほど、
お金は確かに被害を受けましたが、心には何ら被害は受けておりません。
今後の生活で戸締りはきちんとしなさい、
日頃の生活に細心の注意を払っていきなさい、
と教えていただいたという感謝に代わります。
これはついこの間、泥棒さんを通じて学ばせてもらったことです。
何かにつけ、自分にとって憎い人、都合の悪い人の幸せを
祈らせてもらうことです。
その時自分の心はとても楽になります。



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「御垂訓」

2020-03-21 00:41:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はイスラエルに建立されている
聖墳墓教会内に安置されている聖母マリア様です。
恩師「長尾弘」先生がこの聖母マリア像に
光を送られて、そして心の中で対話をされた時、
聖母マリア様が涙を流されました。

聖墳墓教会はその昔、イエス様が磔刑に処せられた
場所ゴルゴダの丘に建っていると云われていましたが、
考古学発見が進むにつれて正確な磔刑場は今では
この場所ではないと云われています。

この聖母マリア様の像は向かって
イエス様の磔刑に処せられたものを模倣して
建てられた十字架の右横に飾りケースに
入れられて安置されています。

お写真ですからあまりクリアではありませんが、
聖母マリア様の瞼のあたりをよくご覧下さい、
涙で瞳が潤んでいるのが視認できるかと思います。

勿論、この像の材質は現地の石灰岩か
その類の物で造られています。
お写真は恩師のご著書
「真理を求める愚か者の独り言」にも紹介されて
います。(172ページ)


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「御垂訓」

2020-03-20 00:37:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

                講演集 一


先の続き・・・

道中、私は祈りながら行ったのです。
目に見ることはできませんが、
私達を生きさせてくれている大自然の力がありますね。
この自然の力こそが、ほんとうの神様の力です。
お祀りした神様、形のある神様とは全く次元の違う真の神様、
万象万物を生かしていただいている自然の力、その神様に対して、
道中、「どうぞ私の罪をお許し下さい。
私がきちんと戸締りをしていなかった為に、盗む人に罪を犯させました。

家に置いてあったお金、
瓶の中にあった皆さんの尊い愛の塊を持って行った人には、
必ず良い事は起きません。
多くの方の愛の塊、又道場を建てる為の資金、
これも私のふところから出たものであっても、
皆さんの為に使わせていただく尊いお金であり、それを無断で持って行けば、
その人には必ず良い事は起こりません。
ですから、どうぞあの泥棒に罰を当てないようにして下さい、
罪を軽くしてやって下さい」と祈りながらこの丹後にやって来た・・・
と話をさせてもらったのです。


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「御垂訓」

2020-03-19 00:39:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は「モーセの御足を慕って」の旅を終えて、
恩師(故)長尾弘先生を始めとし多くの学びの友の方たちとカイロ国際空港へ
バスで向かう際、学びの友の方が天空にご覧のように十字架が
出ているのをカメラに収めたものです。
このお写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」の
挿絵としても紹介されています。


~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

          講演集 一

     「泥棒の幸せを祈る。」


先日、丹後のほうに招かれて行ってきました。
その時寄せていただいたお宅では、ご主人が信仰を持っておられて、
こういう話は余りお好きではなかったのですが、四回目になるその時、
初めてご主人も聞いてくださったのですね。
話が終わりまして夜、「先生、ほんとうにいい話を聞かせていただいて、
私はもう涙が止まりませんでした」と感激していただきました。
そのいい話といいますのは、実は丹後に行きました前夜のこと、
私の家に泥棒さんが入ってくれました。

ウイスキーの大瓶三つ程に
「私達よりもまだ不幸な恵まれない方の為に」と、
皆さんから十円、百円と気持ちだけ入れてもらっては一杯になれば
寄附させてもらっていたのです。
その大瓶は一杯詰めますと二十万円ぐらい入ります。
それを三つとも持って行かれました。
それと、現在私の所の道場は約三十畳あるのですが、
毎月第四日曜日のお話会に百二、三十人来られると一杯になるのです。
もう一膝前に詰めて下さい、もう一膝と言って坐ると、
足を崩す場所もない位になり、
それで、百二、三十人が入れる場所でして、
それでは狭いので、裏にある空地に二十畳
ほど出させていただいたのです。

それを建てるお金として、大工さんに支払う二百万円を
置いておりました、
そのお金も、そのまま、持って行かれました。
正法、正しい教えを実践しており、
自分が正しい生活をしているから泥棒は入らない。
今迄は私は、家に泥棒は入りませんと言ってきたのです。
もう十五、六年、戸締り一つしたことがなく、
お金も治療室に置いたままでした。
正しい生活をしておりましても、やはり表を
開けっ放しておきましたら、泥棒は入ります。
だから、どんなに正しい生活をしておりましても、
すべき事をしないと、
例えば、正しい生活をしたら病気はしないか、
或いは苦しみは来ないかと言いますと、
やはりその面で欠けた所に苦しみは現れます。
ちょうど宮津のほうで皆さんが待ってくれていますので、
泥棒が入ったといって構っている暇もなくて、
私が出かけてから警察へ盗難届を出すようにお願いをして、
家を放ったらかして行ったのですね。



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「御垂訓」

2020-03-18 00:39:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「愚か者の独り言」より ~

             講演集 一

      「この世は苦しみがあって当然」


この世の中で生活するのに、
「苦しみ」というのは避けることはできません。
生まれ出て肉体をいただきますと、肉体には五感があり、
目、耳、鼻、舌、皮膚を通して認識し、知っていきます。
目で物を見る、鼻で臭いを嗅ぐ、耳で言葉や音を聞く、
口で味わい、或いは言葉を発し、
この身体で触れることによって感覚を知ります。
つまり、熱い中に手を入れたら熱く感じ、
氷の中に手を突っ込んだら冷たい、ひどい目にあわされたら辛い、
痛い目にあえば痛いというように、
五感がそれを知るから避けることはできないのですね。

その五感によって今度は私達の心が振り回されるのです。
目で嫌な人を見たら、嫌だなあと思い、
耳によって嫌なことを聞きますと、辛い思いをします。
上手に心地よく言ってもらえば浮き浮きするというように
振り回されていくのです。
そして、つらいことや、都合の悪いことに出会った時に、
人は苦しみの中にはまっていきます。
これは避けることができません。
ですからお釈迦様は「この世は苦海である」と
おっしゃいました。

苦しみを喜びとして受け取る
では、この苦しみの海の中で、人が幸せに生きていくためには、
どうしたらいいのか、簡単に言いますと、「囚われ」を捨てていけば
一番よいのです。
しかし、これはなかなか難しくてできません。
そこで、苦しみはあって当然ですから、その苦しみを苦しみとして
受け取るか、これを喜び・感謝として受け取るか、その受け取り方に
かかってきます。



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