浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-08-31 00:16:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

「長尾弘先生御講演会」と書かれた後ろの垂れ幕、舞台全体、
恩師(故)長尾弘先生ご自身が白い光に包まれています。
宮崎のご講演会での不思議な出来事です。


 恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 一

            「正しい真の信仰」


先の続き・・・

自らが神の御子として目覚めた時、神は光なり、
光の中に闇が入ることはできません。
絶対に入れません。
自然界を見て下さい。
どんなに闇がたちこめましても、
この電気のスイッチ一つひねったら闇は消えます。
そして光ある所には絶対に闇は侵入できません。
自ら光と化して地上を照らすのです。
「下座にあってその一隅を照らすものは、地上の宝である」
常に下座にあって、自分のいる人隅を照らしたいいのです。
自らの光で、自ら光となって一隅を照らしたら、その人は地上の宝です。
それは自ら光に目覚めているからです。

高い灯台の先で水先案内をしても、灯台の足元は見えません。
上に上がればたとえ遠くを照らしても足元の役には立たないのであって、
まず下座の自分の周りを照らすことです。
自分の心の中に、或いは家庭の中に、
喜びと安らぎの世界を建設することです。
これが本当の信仰だと思います。
その神の証しとして、今ここにおられる人の胃をこの場で上に上げて見ましょう。
こんなことは普通ではできないと思うのですが、しかしそれができるのです。
ただ口で言うだけでは信じてもらえないので、ちょっと触ればすぐ分かりますから、
胃下垂と思っている方、何人か前もって試しておきましょう。
(と言って、何名かの胃下垂の人達の胃の位置を確認されてから、
神に祈られました。
こうして参集者全員の胃を正しい位置に上げてくださいました)


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「御垂訓」

2020-08-30 01:55:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの友の方たちと
イエス様に関係する史跡を訪ねてイタリアを訪問した際の
ビデオ撮影していた中に何故撮影されていたのか不明ですが
この映像が写っていました。(ビデオ撮影者は私ではありません)
(聖フランチェスコ教会、バチカン帝国、ミケランジェロ作のピエタの像、
ドミネ・クオ・ヴァディス教会(ペテロの教会=初代のローマ法王)
などを見学。  (不思議写真の一枚です)
恩師と行動する時は世界中のどこであっても難病・奇病が即時に治癒
されることは勿論ですが、常にこのような奇跡を見せて頂きました。


恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 一

       「正しい真の信仰」


先の続き・・・

全てを生かそうとする大自然の生命力、
この生命は、間違いなく私達に与えられています。
生命があるから生きているのです。
生命のないものは死んでいます。
花も虫もその生命力によって生かされています。
生命が宿っている、この生命こそ神の分け御霊です。
この分け御霊をお互いに尊び、信じ、そして讃美し、
そのお互いを信ずることこそ神を信じることです。
お互いを褒めたたえることこそ神を賛美することです。
お互いを愛することこそ神を愛することです。
身近な神々とは、それは私達のこの生命です。
こしらえたお寺さんや、神殿の中に神はありません。
生命とは違うからです。

人の手をもって作られざる宮、この肉体こそ神の宮です。
自然がつくり、人の手をもってつくられざる
この宮こそ神の住み給う宮です。
皆さん一人ひとりの中にこそ神はおわします。
私達の手や足よりも、もっと近い所に神様はいて下さるのです。
胸に手を当ててみてください。
心臓は間違いなしに鼓動を打っています。
この心臓の響きこそ神の響きです。
偶像は必要としません。
お互いに敬い、お互いに尊び、讃美して生きるべきです。
それが本当の信仰です。
このように生きた時、憑依現象など消えてしまいます。


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「御垂訓」

2020-08-29 00:14:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真はイスラエルに建立されている
聖墳墓教会内に安置されている聖母マリア様です。
恩師「長尾弘」先生がこの聖母マリア像に
光を送られて、そして心の中で対話をされた時、
聖母マリア様が涙を流されました。
聖墳墓教会はその昔、イエス様が磔刑に処せられた
場所ゴルゴダの丘に建っていると云われていましたが、
考古学発見が進むにつれて正確な磔刑場は今では
この場所ではないと云われています。
この聖母マリア様の像は向かって
イエス様の磔刑に処せられたものを模倣して
建てられた十字架の右横に飾りケースに
入れられて安置されています。
お写真ですからあまりクリアではありませんが、
聖母マリア様の瞼のあたりをよくご覧下さい、
涙で瞳が潤んでいるのが視認できるかと思います。
勿論、この像の材質は現地の石灰岩か
その類の物で造られています。
お写真は恩師のご著書
「真理を求める愚か者の独り言」にも紹介されて
います。(172ページ)


恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 一

        「正しい真の信仰」


先の続き・・・

「それはそうです。もし必要あらばあの世に持って行けばいいのです。
しかし必要がないから持って行けないのです。
なぜこのようなものを求められますか」と言いましたら、その神は
「恐れ入れました」と言ったのです。
大体人間に神がかりとして入って来て、自分は神の声を聞いたとか、
変な神の言葉をしゃべりかけたとか言うのは、
まあ九十九パーセント偽物と思って間違いありません。
必ずボロが出ます。
神様は物質によって与えられる方とは違い、姿が見えない方です。
だれもお姿は見たことはありません。

私達の心を通してこそ、神の御業が現れるのです。
見えない神様、見えない心、そして神様とは大宇宙を支配して、
地上界の万象万物を育て育む、その生命力こそ神の御心です。
真の神は言われます。
「私は形あって形なし
形あっては天地自然に現わせし姿これなり
形なくては汝らを生かさん力これなり
汝らを形あるものとしてこの地上に生じせしめ
形なき汝らの良心の囁きとなって
我は証しせん」
私達の内なる良心の叫びこそ、神の御言葉です。
私達は一人ひとりの内に良心を持っています。
人には嘘をつけても、自分の心に嘘をつくことはできません。
全部自分が知っています。


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「御垂訓」

2020-08-28 00:30:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は恩師「長尾弘」先生が大阪の柏原市でお話を
されていた時、生けてあったまだ固い蕾だった
十五、六本のチューリップが一斉に開花したものを
この場にいた学びの友の方がカメラに収めたものです。
恩師のご著書「愚か者の独り言」講演集(一)
自然界の証明の例Ⅲとしてこの時の説明文あり(138頁)
このお写真は小生が恩師のご講演を拝聴に大阪の会場へ伺った時、
会場受付で頂戴したものです。


恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 一

         「正しい真の信仰」


先の続き・・・

例えば、神様にたくさんのお金を供えたとしますね。
そして生活の中で過ちを犯し死んで地獄に行って苦しいものだから
「神様、私はお金をたくさんお供えして一生懸命信仰したのに、
なぜ極楽に受け入れてもらえないのですか」
と尋ねた時、神様は「私はあなたから一銭もいただいておりません、
だから私は知りません」とおっしゃいます。
神様には届いてはいません。
私は或る時、神だといって現れた神様と
会話をさせてもらったことがあります。
その神は「エイッ、エイッ、私はXXの神だ。
人間と云う奴は厚かましい奴だ。
あの願いをみよ。商売繁盛、家内安全、病気を治してくれ、
金儲けもさせてくれ。
厚かましい奴は死んでも命のあるようにと言う。
本当に厚かましい。

いっぱい頼んでおいて、あのあげる賽銭を見よ、
五円や十円で、わしゃ聞けるか」と言われます。
「それはその通り、人は頼む事多くして、為す事少なし、
私もそんなことを聞くのは嫌です」
と言うと、「そうだろう」と勢い込んで、
そこで止めておけばこの神さんは偉かったのですが、
ところが本当の神とは違って、一般にある偽の神だったものだから、
「神の世界も人間の世界も皆一緒だ。ゼニも要れば物も要る。
もっと賽銭をあげろ、物を供えろ」と言ったのです。

「いやいや神さん、あなたはちょっと間違った。
神の世界は物やお金を必要としません」
すると、「いや要るのだ」とおっしゃいます。
それでは「物質化現象として現れたこの世の現象界の物質を、
なぜ実在世界に必要とされますか。
現れては消え、現れては消える。
その本質のないものをなぜ実在界が求めますか」。

それでもどうしてもお金が要ると言うので、
水掛け論になりますから、私のポケットを
探しましたらちょうど三千円入っていましたので、神様に、
「今このポケットの中にさいわい三千円入っておりました。
この世のお金です。
これをあなたに差し上げましょう。

もしこのようなお金が誠に必要であれば、私の前からあの世、
つまり実在の世界に持って行きなさい」と言いましたら、
神はビックリして「ウアー、ウー」と唸ったので、
私は内心、神さんが本当にこのお金を持っていったら
恐ろしいなあと思っていたのです。
しかしそのままお金はなくなりませんから「いかがですか」と
尋ねましたが、お金はなくなりません。
三千円おいたままです。
「むずかいいのう」と言います。


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「御垂訓」

2020-08-27 00:32:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師(故)長尾弘先生の癒しの御手です。
ご覧のように金粉が沢山出ていることがお分りかと思います。
この御手で世界中の数えきれない難病・奇病が癒され、
救われました。
どなたかがこの御手をご覧になり「この手は総合病院ですか」と
恩師に尋ねておられましたが、恩師のこの御手は総合病院で
治しきれない病でもいとも簡単に治されましたし、
薬にあるような副作用もなければ、後遺症もまったく
ありませんでした。
しかもどんな難病・奇病が治ってもまったくの
恩師の愛の「無償の癒し」でしたね。


恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 一

         「正しい真の信仰」


先の続き・・・

(再びの発言」「△△教のことですが、
ちょっと行かないと車が迎えに来るのです」
あらゆる信仰は組織をつくりますが、
組織そのものに「業」があるのです。
だから私は死ぬまで組織はつくりません。
組織をつくれると、人に苦しみを与える結果があるのです。
組織という原因により苦しみという結果がでます。
組織をつくれば組織の拡大がその中に含まれるので、
信者さんに次の信者さんを増やさせなくてはいけない。
そして偶像を与えなくてはいけない。

組織はお金を必要とするから、
何らかの理由をつけて信者さんからお金を集める。
そしてたくさんのお金が集まると、
上部は何千万円という絵を買ったり、
宝物殿を建てたり、大神殿を建てたり、
財産争いをして喧嘩した結果分裂してしまうのですが、
喧嘩するようなものは不調和です。
仲良くするのが調和です。
なぜ偉い人が喧嘩をしなくてはいけないのか。
それは組織の故に、そして欲望の故に迷うのです。
神はビタ一文お取りになりません。

神はお金を絶対に必要とされないのです。
もし嘘だと思えば家の神棚にお札をお供えしてごらんなさい。
これは人間が取らない限り、ネズミが引いていかない限り、
永遠にそこに一万円札はあります。
神様が手を出して一万円札を取られたならば本当でしょうが、
絶対に消えることはありません。
それと同じことで、宗教教団がお金を供えなさい、玉串料をあげなさい、
お賽銭をあげなさい、献金しなさい、と言いますが、
神はいっさいお使いにならず、

使うのは全部人間なのです。
組織と人間が使うのです。
そう思いませんか。
例えば、神様にたくさんのお金を供えたとしますね。
そして生活の中で過ちを犯し死んで地獄に行って苦しいものだから
「神様、私はお金をたくさんお供えして一生懸命信仰したのに、
なぜ極楽に受け入れてもらえないのですか」
と尋ねた時、神様は「私はあなたから一銭もいただいておりません、
だから私は知りません」とおっしゃいます。
神様には届いてはいません。



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「御垂訓」

2020-08-25 23:58:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は多くの皆様が先刻ご存知のものですが、
恩師「長尾弘」先生がイエス様についてのお話を
ご講演会でされていた時、恩師のお顔がこのお写真の
お顔に変貌されたものです。
このお写真は、お講演を聞かれていた学びの友のお方が
カメラに収めたものです。
お写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」にも
紹介されています。(78ページ)


恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 一

        「正しい真の信仰」


先の続き・・・

Oさんと言って一つの信仰をつくられた方があります。
信者さんからは神様としてあがめられております。
○○教の四天王の一人と言われた方です。
その流れを汲んで、Kさんという方が△△教というのをつくりました。
その教えは分裂して現在十いくつかに分かれています。
その中で特に△△教系統の信仰は、お清めと言って手をかざしますと、
よく霊が相手に乗り移ってくるのです。
這いず回ったりはね上がったり、泣き出したり、
わめいたりいろいろの現象が起きるのですが、
これは一種の憑依現象が起きているのです。
しかも成仏なさった方の霊の憑依ではなくて、
未成仏霊の憑依現象ですから、すっかり
不調和な恰好をします。

そういう不調和な霊が乗り移って来た場合、
却っておかしくなることがありますね。
乗り移られた者が不調和になります。
(参加者の一人の発言)「この近くに△△教の道場があって、
行ったことがあるのですが、
いくたびに五千円要ります。

いただいたお守りを私は落としてなくしたから、
それを言うと罰金を出すように言われました。
その時一万円持っていたのですが、
全部出すと帰るのに困るから五千円を払って、
私はもうこれで止めますと言うと、
そのお金は受け取れないから奈良まで返しに
行ってくれと言われ、私はそのままにしていますが、
その時罰が当たると言われましたが
何事も起こらず、今日まで来ています。
罰は絶対にあたりません。

何故かと言いますと、神は無限の許しそして無限の愛です。
愛しい我が子に罰を当てる親がどこにありますか。
罰を当てるようなものは全部偽物です。
絶対に罰はお当てになりません。
大いなる愛、無限の許し、許しと愛の神様が、
なぜ人に罰を当てますか。
心丈夫でしょう。


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「御垂訓」

2020-08-25 00:00:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は先に投稿(2020-8-24)しましたものに
関連したものですが、これも先に投稿しましたものと
同じアラビア文字で,同じ意味のことが書かれています。
小生は勿論アラビア語は分かりませんが、双方の字句を
見比べてまったく同じ字句であると理解しました。
このお写真は小生のカメラに写っていたものです。
恩師「長尾弘」先生を始めとして多くの学びの友の
方達と「モーセの御足を慕っての旅」の途中で
撮影したお写真であることは確かなのですが、
いつ、どこで何を撮ったのかまったく記憶にありません。


恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 一

      「正しい真の信仰」


先の続き・・・

私などは三百六十五日、一日も休みはありません。
夜昼通して関係なしです。
もっとも毎晩とは違いますよ。
昼でも普段は治療させてもらっていますが、その間電話はかかる、
お客さんは来られる、
こちらで話していたらあちらの方へと飛び回らねばいけないという風で、
夜は夜で電話がかかって眠れません。
今年からは毎日行っていた反省会、禅定は月・水・金になったのですが、
今迄満五年間は毎晩坐らせてもらっていました。
その間に集まって下さる方が段々増えまして、三十人、
四十人とお見えになります。
少なくとも二十人は切れません。
この一時間は心の洗濯です。

今日一日自分の生活態度はどうであったか、間違いはなかったか、
もし間違いがあれば、
明日の生活の中で再び間違いを起こさないように努力をいたします。
こうして自分を正しくしていくのですね。
普通でしたら、無理するとストレスが溜まると思います。
私の場合、ストレスは溜まりません。
全く溜まりません。
一日も休みなしに飛び回っていましても、
疲れてストレスが溜まるなあということはありません。
なぜストレスが溜まらないかと言いますと、
それは心の持ち方にあるのですね。
ストレスとは日本語で書きましたら「歪み」という字です。
この漢字は「正しくない」と書きます。

不正とは何が正しくないかと言いますと、心の持ち方、
生活態度が正しくないということです。
歪ができて、その歪みが大きくなったら、
ストレス解消といって酒を飲んだり、
パチンコをしたり、ゴルフに行ったりするのですけど、
そんなものでは解消されず、
一時の気晴らしにしか過ぎません。
ストレスを正した時にはじめてストレスは皆消えるのです。
ストレスの消える方法は、それは無我の生活です。
有我に生きたら必ずストレスが溜まります。

そして霊的な面からみますと、有我の中に憑依現象が起きるのです。
自我が強いから憑依を受けます。
全く自我がなかったら、取りつこうとしてもと取りつく所がないのです。
だから憑依現象は起きません。
お金がたくさん欲しいというのも有我です。
何も要らないのが無我です。


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「御垂訓」

2020-08-24 00:14:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真はモーセの御足を慕っての恩師「長尾弘」先生の
旅でエジプトからシナイ半島を渡りヨルダンに入って
モーセの終焉の地「ネボ山」に建立されているモーセの
教会を見学して後、
カイロ国際空港へバスで移動していた時、
バスの車窓より天空にご覧のようなアラビア語を
この旅に同行されていた学びの友が見られ、
カメラに収められました。
意味は「何かが出現する」との意味だそうです。
キリスト教ではイエス様の再臨を伝道の大切な一つとして
説かれていますよね。
このことに関係することかな(?)とも思ったりもしています。
お写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」
にも紹介されています。(261ページ)


恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 一

       「正しい真の信仰」


信仰は正しいものと、そうでないものとあります。
それぞれに魂の次元に応じて信仰なさったらといいと思います。
しかし早く魂に目覚めて成長して、
玩具の要らないようにすることが大事です。
幼児から早く成長することです。
いろんな霊能者とか、不思議な信仰の力をもって人を
癒したりする宗教もあります。
しかし本当の正しい力には及ぶことはできません。
ある念の力で、例えばその信仰によって偶像を
持つことで神の光をいただける、
そして光を取り次したら病気が治るという信仰もあります。

けれども神の光はお金では買えないのです。
それは真心によって与えられるものです。
真心による正しい行動によって、神の光が与えられます。
そして正しい心を知らないでそういうことをしていますと、
とんでもない霊的現象が起きますね。
蛇のように這いずり回ったり、身体が揺れたり、
これらは全部悪霊が出て来るのです。
そういう場合は大変な危険が伴っています。

霊能者とか、心霊治療とかありますが、先程話しましたK先生などは、
本に書いておられるように、幼い頃からずっと霊の
憑依を受けていたのですね。
自分自身が憑依体質で、そういう中から救う立場に変わられたのです。
しかし本質はとりつかれる体質です。
私は今、腰の治療に通っているとか、私は体が不調和でないと
生き甲斐がないとか書いて
おられますが、不調和だから身体が悪くなるので。
調和しておれば悪くなる筈はありません。
そこから見ても分かるでしょう。

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「御垂訓」

2020-08-23 00:06:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が白衣を着けられたお姿を学びの友の方が
カメラに収めなれたものですが、ご覧の様にカスミがかかったような映像になっています。


 恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 一

     「心のふるさと」道場


今、皆さんの「心のふるさと」をこしらえています。
しかも一銭の寄附を募っておりません。
大工さんに任せていたら、好き勝手に良いものを造ってくれております。
するとお金はたくさん要ります。
何千万要るか知りませんが、不思議なことにお金はどこからか入って来て、
ちゃんと支払えるのです。
これはもう天から与えられているみたいです。
私は少しもお金の段取りはしませんけれども、どこからかお金が入ってきて、
ちゃんと片付けて下さいます。

玄関も良くしなくてはと言って、内は磨いた石を敷きまして、
こんな昔風にしたら、
これだけで家一軒建つと言って大工さんは頑張っております。
これをしたら今度は門を良くしないと恰好がつかないと言って、
今度は門をしていますが、門は玄関より高くつくと言うのです。
しかし不思議なくらい与えられています。
これも神が隠れた天の蔵から必要に応じて出して下さっているのだと思います。
寄附して下さいとはいっさい申しませんが、全く不思議です。
だから天の蔵には本当に積まれるのだと思います。
必要があれば必要に応じて与えられます。

お陰様で毎月のお話会に―――
現在の私の所では毎月第四日曜日に行っていますが、
百五十人から百六十人の人は来られますので、場所が狭くなって、
それで場所を繕うことになりました。
今の所二百人位なら入れる広さになりましたが、
これ以上になると難儀だなあと思っています。
しかし必要があれば神様が造って下さいます。
自分で求めません。
来ていただきますと、五人や住人は泊まれる部屋もつくっていますから、
又大阪にお見えになった時は、一度立ち寄って下さい。
いっさい無料です。



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「御垂訓」

2020-08-22 00:06:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がお祈りの光を送られて光輝いたクフ王の
ピラミッドです。(真ん中のピラミッド)
光を送られる前はピラミッドは黒くくすんでいました。
この時のビデオ撮影したものがありますが、ビデオではピラミッドが徐々に中央から
輝いていく様子が確認できます。

恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 一

     「調和のすばらしさ」



この世に生まれた目的とは、前回でも触れましたが、
人々と互いに手を取り合って助け合い、
愛しながら調和を目的として生きることですね。
「調和」とは素晴らしい言葉ですし、
政治家も調和などとよく使っておられます。
調和とはバランスです。
どちらに片寄ってもならない。
やじろべえはどちらも重さが釣り合っているから、
細い先に立てても落ちない。
調和がとれているからで、
どちらかを重くしますと落ちてしまいます。
私達は日々の生活の中で常に、
そのどちらにも片寄ってはなりません。
例えば先程の母娘の場合のように、
姑さの為に付きっきりで夜通し世話をするのは良い行いです。
しかし子供を放っておいて、
バランスの重さが姑さんの方へ余りにも片寄り過ぎて、
子供への重さがなかった為に、不調和が起きていたのです。

バランスをとるというのは、
お姑さんの世話もしなくてはいけないと同時に、
子供さんへの愛も注がなくてはいけなかったのですね。
そのお母さんは後になって尋ねられました。
「姑さんの為に尽くしていたら、それは良いことだから、
その徳は子供に与えてもらえると思ったのですが―――」と。
いいえ、これは与えられません。
神は平等です。
姑さんに対してよく尽くされたことは親戚も病院も家族の方も皆、
この点についての評価はします。
しかし子供の心に寂しい辛い思いをさせた評価も、
間違いなしに受けるようになっているのです。
だから、日々の生活がいかに大切であるかということです。
良い事をしても、
そちらに重みをかけ過ぎたらアンバランスになります。
よく恋愛結婚をして好きだと言い合っていても、
子供ができますと奥さんの愛城が子供の
方へ行き過ぎて、その主人がヤキモチを焼くという例があります。
これなどもバランスが崩れるから主人が面白くないのですね。
調和を欠いているわけです。
ですから常に調和するように、
心の重さを検討しながら生活することですね。
でないと、いかに良い行いをしても不幸にはまる例があります。
それと良い行いをして、その後に自分の心を苦しめた時も、
せっかくの良い行いは悪に変わります。


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「御垂訓」

2020-08-21 00:02:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は「モーセの御足を慕って」の恩師「長尾弘」先生の
旅でエジプトからシナイ半島を渡りヨルダンに入って
モーセの終焉の地「ネボ山」に建立されているモーセの
教会を見学して後、カイロ国際空港へバスで移動していた時、
バスの車窓より天空にご覧のようなアラビア語を
この旅に同行されていた学びの友が見られ、
カメラに収められました。
意味は「何かが出現する」との意味だそうです。
お写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」
にも紹介されています。(261ページ)


 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 一

          「無我の体得」とは


先の続き・・・

私にはああいう生活はできない、いっさいそういう時間は与えられない。
でも肉体を持って生まれていますから、いいなあとは思います。
しんどい時は休みたいなと思います。
しかし、そういう自分を完全に捨てて人さまの中に生きさせてもらった時、
自分、自我はないのです。
自分があったら、こんな馬鹿げたことはできません。
これは無我の体得、無我の生活、自分自身のない生活です。
そして神の「僕(しもべ)」であり、
自ら人々の僕としてこの世に生まれ、
人さまに使っていただくために生きて行くのです。
その時、私たちは、自分が本当に神の御子だということを知りますね。
有我の間はそんなことは思いもできません。
だから常に僕であることです。

私の所に来ていただいたら反省会(禅定)のあとで、
私は皆さんにおやつを分けるのですが、
来て下さった方は坐って有難うございますと言って受け取ります。
心ある人は「先生にそんなことしていただいては勿体ない」と言って
代わってして下さいます。
「いやいや、ここの先生は男衆です」―――
「おとこし」とは僕のことですね。
―――といって、私は履物を揃えさせてもらったり、
お茶を汲ましてもらったり、
おやつを分けさせてもらったりして、神の僕、
人々の僕となって生きる実践をしております。
常に周りの方々のお役に立たせていただけるような日々を
過ごすことが大事です。
家庭の中では両親に対して、ご主人に対して、或いは奥さんに対して、
又子供に対して自ら僕となって仕えた時、
周りの方は必ずそのままでは置いておけません。

この人は大切な人だ、大事にしなくてはいけないと
今度は高く持ち上げてくれます。
私は偉いのだと反り返っていますと、
人々は下へと引きずり下ろします。
私は恵まれた環境をいただいて、こうして日本国中を
回らせていただいております。
私にはいっさいの求める心がない、ただ、
させていただいているだけで、
何ものをも求めません。
この心があるから、あの世のすべての霊を救うことが許される。
なぜかと言うと、霊の世界でも、救われない霊もあれば、
深く修業した霊なども一杯あるからです。


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「御垂訓」

2020-08-20 00:39:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真の裏面には次のような説明書きがありました。
“愛の光”の不思議
福岡市内のお寺のご住職の叔母さん(アメリカ在住)が
由緒あるご本尊(室町時代作阿弥陀如来像)の写真を
持参しました。
長尾先生が浄心庵から“愛の光”を送った後、確認の為、
尋ねたところ電話に出た姪の方がビックリして
「大変!!ご本尊様がお風呂からあがり、
光輝いています・・・!!」。
“愛の光”の後(向かって右) “愛の光”前(向かって左)
前後の“輝き”の差をご検証下さい。
恩師「長尾弘」先生が少しお祈りをしますと仏壇や
仏像は勿論のこと、教会の壁、教会内に置かれている
品々が五分もしない内に輝きだします。


 恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 一

         「無我の体得」とは


人間として持っている三大欲望から完全に遠く離れた時に、
高い境地が得られます。
よく山奥に入って修業して無我の境地を求めたり、
禅宗のお坊さんが坐禅三昧に入って無我を求めます。
ところが無我というのは坐って習得するものとは違います。
自分の自我を滅した日々の生活こそが大切です。
「私が、私が・・・」という根性を完全に捨てて周りの
方達の為に生きた時、
これを無我の体得というのです。
分かり易く言いますと、私は方々から呼んでいただいて
三百六十五日休みなしです。
今日は一度ゆっくり寝てみたいなあと思っても眠ることもできません。
夜もそれこそ夜通し電話を下さいます。

ああ一晩ぐらいゆっくり寝かせて欲しいなと思う時もあります。
しかし夜中の一時、二時三時、四時に電話を下さるということは、
まともな電話ではありません。
辛い、助けて下さいという電話です。
だからハイハイと言って受けます。
私は四六時中、いつ電話を下さってもちゃんと起きています。
寝ている時間はありません。
何時でも寝とぼけた声は出ていない筈です。
そしてお祈りをさせてもらったら、救われて下さいます。
受話器をちぎって、
電話のない国でゆっくり寝られたらいいだろうなあと思いますけど、
これが自我ですね。

「いやいや私などどうなっても構わない、私の声によって、
或いは私の言葉によって救われてもらったら有難い」と、
自分を完全に離したら無我です。
又、あちこちへ寄せてもらうと、良い景色の中で、
玉をころがして遊んでいる人があります。
テレビを見てもやっていますね。
ゴルフというのですか。
私は一度もしたことがありませんが、一日中芝生の上で
ああして玉をころがしたり、
飛ばして遊んだらいいだろうなあと肉体を持ったら、
そのように思う時もあります。
海辺に旅をしたら釣りをしています。
一日中何も考えないで坐って釣糸を垂らしていられたら
極楽だろなあと思います。
これらは「有我な生活」をなさっているのです。
自分のある生活です。


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「御垂訓」

2020-08-19 00:25:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生の白衣を着けれたお姿を学びの友の方がカメラに
収めたものですが、ご覧のように向かって左の着衣はオリジナルの白色ですが、
右側の着衣は黄金色に変わっています。
このことは恩師が意識すればお体から光が発生することの証かと思います。


恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 一

    「心は無限、地球上は有限」


出すから入るようになっています。
食べたら出ます。
出たら又おいしくいただけます。
そして必要以上は入らないのです。
物質に対する貪欲もそうです。
必要以上に求めたら自らを破壊します。
足ることをしらねばなりません。
しかし欲望が無くては生きられません。
足ることを知った欲望を持つように。
足ることを忘れた欲望は無限に広がっていきます。

心は無限に広いから、欲望も無限に広がっていき、
与えられたら満足するけれど、
与えられない時は苦しみが始まります。
こういう心の状態の時には、必ず、
心の周りにスモッグが出て暗くなります。
だから腹を立てないよう、不足を言わないように。
人間は何でも悪いことは皆、人のせいにして、
「我がええ、我がええ」と思いますが、
自愛、自己保存、我欲という思い方を正して
ものを見るようにしてください。


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「御垂訓

2020-08-18 00:05:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がお花に光を入れられているところです。
この花々は学びの友の方が近所の花屋さんから萎れってしまって商品として
販売できないものを貰ってきたものです。
この萎れた花々に光を入れられてご覧のように生き生きとして生き返りました。

 恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 一

      「偶像は魂の幼児の玩具」


インドに神人サイババと言う方がおられます。
世界の各国から何万人もの信者が集まって来るので、
その人達の宿泊所とか寺院のような建物があるのですが、
その中には、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教と、
すべてが祀ってあるそうです。
サイババさんは偶像崇拝反対の方ですので、不審に思って尋ねますと、
「あなた、愛に目覚めなさい。

幼児から玩具を取り上げた時、幼児はどんな気持ちになりますか、
幼児には玩具が必要です」との返事。
「必要な人には与えなさい。そしてその玩具で共に遊んであげなさい。
偶像の必要な人は魂がまだ幼いのです。
幼児には玩具を与えなくてはいけない」とおっしゃったというのですね。
一週間の二割を決めて、キリスト教の日、仏教の日とあって、
それぞれの服装まで用意して、その都度衣を着替えて拝んでいられるそうです。
この話を或る先生から聞きまして、本当に心の広い方だと思いました。
私どもは偶像崇拝はいけないといえば、祀っている人を見ると非難します。

キリスト教の人は「仏教は偶像崇拝をする異端者だ」といってけなします。
又、仏教の人はキリスト教も十字架やマリアやイエスを拝んでいると言います。
魂の幼児には玩具が必要ですが、魂が成長してくると自然に要らなくなるのです。
必要な間は与えて共に遊んであげなくてはいけないというのです。
だから他の宗教をいっさいくさす必要はないし、何をやっておられても、
偶像を必要とされる場合は、その方達の魂が幼児の集団の中におられて、
遊んでおられるということです。
他を非難中傷することは避けることですね。
もし非難すれば、やがて自分が非難中傷の的となります。
先程の原因・結果の法則です。


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「御垂訓

2020-08-17 00:12:26 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

お写真は恩師「長尾弘」先生が中国の黄山を登山された時、写されたものですが、
ご覧のように左胸の辺りに十字の光が確認できます。


 恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 一

             「悪魔の正体」


先の続き・・・

太陽は自らを燃焼させ、自らを犠牲にし、
その結果として現れる熱と光(慈悲と愛)を他に与え給います。
太陽の如く生きることこそ偽我を克服する生き方です。
サタンを退ける生き方です。
布施の心です。
よく自分の気に入らない人から言葉をかけられて、返事もしない、
ひどい人はツンと顔をそむけるような人があります。
しかし太陽の熱、光は万象万物いっさいのものに対して、
絶対に差別はなさらない。
すべてに対して平等に光を与え給います。

私達もいっさいのものに差別の行想言は慎むべきだと思います。
一つに自分に対して気に入らない行為をされると、
相手の気に入らないことを二倍、三倍にして返して
やるという人もあります。
私達が太陽に向かってどれ程太陽の悪口を言っても、
太陽はさんさんと愛の光を与え給います。
復讐も太陽の心から遠く離れてしまいます。
しかしもし天に向かって唾すれば、
その唾は自分に降りかかるでしょう。
あれをしたのに喜ばない、これをしてあげたのに礼を言わない、
あれこれしてあげたのに感謝の金品を持って来ない、
お礼もしないなどと言って怒っている人を見ます。
太陽は熱、光をいっさい無報酬で与え給います。

私達も常に太陽の心を我が心にいただき、日々の生活の中で、
自分の想念行為は太陽の心にそっているか、
太陽の心から離れていないか、
一瞬一瞬をきびしく見つめる練習をしてみたいと思います。
世の中は多く語って非難され、少なく語って非難され、
黙っていて非難されるというふうに、
非難を受けない者はないと言われます。
しかし私達法を学ぶ者は、それをいただかなかったならば、
その過ちはその人のものであって私達のものにはなりません。
太陽の心に逆らった想念行為こそ、
私達を苦悩の地獄へ誘い込む悪魔の正体と思って下さい。


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