浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-01-31 00:02:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                    講演 十六

「正しく定に入るべし」

この「八正道」を行じ実践した時に、
私たちは諸々の煩悩から離れることができるのです。
人間は煩悩にくるまれ、煩悩に包まれて生きているようなものです。
煩悩とは肉体の五官からくる自己保存と自我我欲です。

この煩悩から離れる方法として、
自己中心の見方をいったん捨てて相手の立場に立って見ることを
今日まで度々話してきましたが、さらに自分が外部者の立場になって、
自他のいずれにもつかない見地から、
自分と相手とどちらが正しいか間違っているかを見た時に、
煩悩から離れた正しい見方ができます。

お釈迦様はこの世は苦しみの海であると言われました。
苦海からのがれるためには「八正道」を行じる以外にないと、
そのように仏典には書かれています。

すべては原因によって結果が出る、
そして結果が現れたら必ずそれには原因があります。
その原因は反省することによって知ることができます。
私たちは悪い原因を作らないために、八つの正しい生活をすることです。

私たちは知らず知らずに過ちを犯す場合もたくさんあります。
過ちだと知って犯す場合も、知らないで犯す場合もありますから、
私たちは禅定で反省する時に、
「知って犯す罪、知らずに犯す罪をお許し下さい」と言って
お詫びすることです。

知って犯す罪は悔い改め、知らずに犯す罪は自ら見出すことです。
この時心は必ず安らぎます。
そのどちらが罪深いかというと、普通この世的な常識で考えますと、
知って犯す罪のほうが罪深いと思うのですが、
実は知らないで犯すほうが罪深いのです。

なぜかというと、知らないで犯す罪は罪の意識がありませんから、
それが罪深いことだと目覚めることができないのです。
ですから次の罪を積み重ねます。



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「御垂訓」

2020-01-30 02:51:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十六

「正しく道に精進し 正しく念じ」

先の続き・・・

地中に種を播いて、丹精込めて育てたきれいな花を
「ああ綺麗な花が咲いているなあ、一枝ほしいな」と、
切り取って帰る人もありますし、
せっかく実らせた果物も心ない方が盗んでいく場合もあります。

しかし、自分の心の中に播いた種を育てて咲かせた花は、
どれほど綺麗な花であっても誰も盗むことはできません。
収穫は自分以外の人は誰もできないのです。
心の収穫は自分自身であるということが分かってきますと、
悪い種は播かないように努力することですね。

良くない種を播けば良くない芽が出て、良くない花が咲き、
良くない実がなります。
良い種を播けばその逆です。
どちらを播いても人は刈り取ってくれませんから、
収穫は自分だけのものとなることを知らねばなりません。

今迄、そういうことにはいっさい気がつきませんでした。
「好き放題にしたらいい、
まさかそんなにきっちり返ってくることもないだろう、
ちょっとぐらい悪いことをしてもどうもないだろう」と
思っておりましたが、それが私たちの苦しみの
原因になっていたのです。
苦しみんお原因をできるだけ作らないことです。

「定」とは禅定三昧の定で、反省させていただくことです。
「正しく定に入る」とは、反省のあとで、
安らぎの一時を持つことです。
反省のあと、五分でも十分でも「ああ有難いなあ」という感謝、
安らぎの時間を持つことが正しく定に入ることです。

定に入るというと、入定されたと受け取って、
死ぬことかなと思いますが、そうではありません。
反省をして、自分の過ちを悔い改め、
明日の生活に再びこの過ちを犯しませんと誓って、
そのあと感謝と安らぎの時を持つことです。



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「御垂訓」

2020-01-29 00:03:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十六

「正しく道に精進し 正しく念じ」

先の続き・・・

「一念岩をもとおす」という言葉もあります。
念の強い人は大きな水晶の原石に念力だけで穴をあけてしまいます。
その石を私も実際に見せてもらったことがありますが、
それぐらい強い念が出るのです。
今でもヒマラヤの山奥へ行くと、念の力で大きな岩を「ウォー」と
言って割ってしまう人があるそうですから、
念というのはものすごいエネルギーですね。

そのエネルギーを闇に使おうと、光に使おうと同じ力が出てくるのです。
悪いほうへ使えば弱く、良いほうへ使えば良く出るということはなくて、
同じだけのエネルギーが出るのです。
昔、憎い人の藁人形をこしらえて夜中に丑三つ時に
「死ね、死ね」と念じて釘をカンカン打ったものです。
そうすると相手が殺されたりすることがよくありました。
これも悪念です。
念は常に人様が幸せになるように、良かれと念ずることですね。
そのようにしますと、それは光です。

神様がいらっしゃるのなら、悪念には力をなくし、
良念にだけ力を与えて下さったいいのにと思いますが、
同じ力を与えられているということ、つまり、
どちらに使ってもよいという能力を与えられていることが、
私たちの魂の修行において大事なことです。

結果は悪に使えば悪として自分に返りますし、
善に使えば善として返ってきます。
自由に使ったあと、原因・結果の法則で自由に返ってきます。
ただし、その刈り取りは自分自身であり、
決して他人は刈り取ってくれません。



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「御垂訓」

2020-01-28 00:10:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十六

「正しく道に精進し 正しく念じ」

先の続き・・・

そこで帰って、また念じると、その人は頭が痛くなり、
膝も痛くて動けなくなったのですが、
しかしお膳は運ばなくてはいけないし、
その上に「あなた、何してるの」と言って叱られるし、
今に見ておれとやったら相手が念じたとおりになり、
同時にその人自身の足も痛くなったのです。

「私には超能力があります。私が思ったら、
思った通りになるのです」と言われますが、
「それはいけません。そんな思いをしていますと、
あなた自身が苦しいはずです。
もう今日のご縁で再びそういう思いをしないでください。
さもないとあなたご自身が幸せになれません」と、
お話させていただいたのです。

不思議なことに、
この方がよそへ遊びに行ってお土産を買って
知り合いのところへ送りますね。
すると包みを開けるとみな腐っているのです。
不思議な現象です。

「あの人は腐ったものばかりくれる」と言われるのですが、
当人は新鮮なものを発送しているのです。
ある時も北陸のほうからエビの生きの
いいのばかりを詰めて人に送ってあげたところ、
着いた荷を開けたら髭が一本だけ出てきたといいます。
まあ作り話しのようですが、
誤った念じ方をする人は生活が不調和で、
ものを腐らせてしまうのです。

しかし今はこの方が送られても腐りません。
この間私のところへワカメを送って下さいましたが、
それは新鮮なおいしいワカメが届きました。

人を苦しめるにはいろいろな事情はありますが、
自分とって都合が悪いからと
いって「今に見ておれ」と、強い念を集中して発しますと、
それは悪念で、そういう悪い念は他を毒していきます。

その人の持っている闇の想念が、
その方の送るものを腐らせていたのです。
「相手を悪くするような思いはいっさい
持たないようにして下さい」と
お話させていただきまして、
今はすばらしいお方になっておられます。
そうしますと腐りません。
「念ずる」とは、他の幸せを念ずることです。
決して他の不幸を念じてはなりません。
念ずることは「正念」が大事かと思います。



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「御垂訓」

2020-01-27 00:24:08 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十六

「正しく道に精進し 正しく念じ」

神様の御心をもって生きることが、
正しく道に精進することです。
精進するのですが、私たちにとってはこの正しい生き方
そのものが厳しいのです。
許せない人を許さなくてはいけません。

そして全く無償の愛を実践するというのは、
人間にとって大変難しいことです。
神様の心を人間が行うのですから、難しくて当然です。
それを一つ一つ努力して日々の生活に生かすことが
正しく精進することだと思います。

正精進ですね。
精進道にはげむ正しい生き方が分かったら、
今度はそれを実践することです。
次に、「正しく念じ」と説かれています。

「思い」と「念じ」となぜ二つ別にして
書かれているのでしょうか。
それは「念ずる」のと「思う」のとは違うからです。
思いというのは、ころころと飛び回って
一時としてじっとしていないその人の心をいいます。

静かに心を一か所に止めようとして禅定、瞑想をしましても、
思いは次から次と走り回ります。
まるで野の猿のようにじっとしていません。
一か所へ思いを集中しようとするのはそれほど大変なことなのです。

「念ずる」とは、あの人は憎いなあ、ああ憎い、憎いと、
そこへ止まっていくものです。
正しく念じないで、誤った念じ方をしますと、
それは自分に返ってきます。

愛知県のある女性の方で、今日もお見えになっていますが、
今はもうすばらしいお方に変わってくれたのですけど、
その方はホテルの仲居さんをなさっているのです。

仲居さん頭やお姉さんがいて、根性の悪い人からいけずをされ
「私はこんなんに苦しんでいるのによくもあんなことを
言ったものだ、今に見ておれ、お前も悪くなる」と、
帰ってきてこのように念じるのです。

今に見ておれ、えらい目に遭わせてやるといって
何時間か念じているうちに、その方自身頭が痛くて辛くなり、
相手の方もこの人の念によって悪くなっていきます。
「今日は頭が痛くて辛いのです」と言うと、
「そんな頭が痛いくらいで何ですか、やりなさい。
誰でも頭が痛いんだ」と言われるのですね。


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「御垂訓」

2020-01-26 00:28:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十六

「正しく仕事をなし 正しく生き」

先の続き・・・

今月の「道」に有名なキリスト教学者ヒルティーの言葉を
書いていただいていますね。
「およそ神経病者というのは多少の差はあれ、
すべて病める魂の持主である。
まずこの魂から治してかからねばならない」と。

病気というものは大体において耐え難いものですが、
もしその人の精神生活が疲れ病み、
あげくの果てに死んでしまうような場合には、
病気は人間を台無しにしてしまう災いです。

精神生活さえそのような状態でなければ、
内的生命つまり私たちの霊ですね、
この内的生命を損なわずに、
辛い肉体的苦脳を耐え忍ぶばかりか、
それによってさらに価値を加えていくような
人々も珍しくありません。
人は魂の力を持たなくてはいけません。
この力によって苦痛を耐え抜くばかりでなく、
次第に肉体を強くしていくこともできるのです。
 
「健全な魂は健全な肉体に宿る」のではなくて、
「健全な魂が肉体を健康にし、
健康を維持していくことができる」のであって、
病める魂は間違いなく肉体を弱めます。

正しい行じることができない場合は、
精神的に不安定になります。
精神的に健全であれば、肉体もまた健全に働いてくれます。
精神とは何かというと、
私たちが見ることのできない心の奥底の作用です。

私たちは子供の頃、まず健全な肉体に健全な魂が宿ると
教育を受けました。
しかしほんとうはその逆で、
健全な魂に健全な肉体が従ってくるのですから、
健康になるということは、まず魂です。



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「御垂訓」

2020-01-25 00:23:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 十六

「正しく仕事をなし 正しく生き」

私たちは生まれた限り、
肉体を動かして仕事をしなくてはいけません。
この世に生まれて、
何一つ仕事もせずのらりくらりと一生を過ごした場合は、
これは人様の血と汗による労働力によって生きることになります。
こういう生き方は吸血鬼と同じです。

人の血を吸って生きるのは、正しい生き方とはいえません。
仕事というものは他への恩返しだと考えていただいて、
精一杯努力すれば不足の思いは出ません。
必ず道は開けてくるはずです。

正しく仕事をなすとは、
「正行」つまり、正しく行じることですね。
仕事ではなくても日々の生活の中で人間として
正しい行いをすることにも繋がります。
が、さらに仕事を通して魂の進化をはからなくてはいけません。

大学を出てお勤めをされる方の場合、
学生の間はこちらからお金を持っていって教えてもらいますが、
職場へ入ったら、向こうからお金を貰うのですから、
そんなに楽はできません。
「やあ、仕事はしんどいです」と言いますけど、
「それは当たり前、今までは
お金を出して勉強していたけど、
今度はお金を頂いて勉強するのだから、
それはきつくて当たり前です」とよく話します。


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「御垂訓」

2020-01-24 00:28:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十六

「心」を学ぶということがなぜ有難いのか、
尊いのかといいますと、
「心」は私たちの肉体を支配している目に
見ることのできない力であり、
その心に目覚めることによって幸せにもなり、
心の在り方によっては不幸にもなり、
いろいろと人生の生き先が変わってくるからです。

正しい心の持ち方、正しい心の在り方を私たちは学んでいます。
自分が幸せになれたなあ、良かったなあと心の中に
喜びが頂けた時、苦しむ方や、縁ある方に、
「心の持ち方によって私はこんなに楽になりました。
あなたもそのように心がけられたらいかがでしょう」と言って、
自分の喜びを他に伝えていくことができます。

これには時間がかかると思いますが、
人類すべてが感謝や思いやりの心に目覚めた時、
この地球上は仏国土、ユートピアになります。
まず私たち一人一人が正しい心の在り方を学び、
そして幸せになり、その幸せを縁ある方々に
広めていくこと、これが地球が幸せな惑星、
調和された惑星になっていくことに繋がります。
 
高橋信次先生は講演の中で、
「私たちは、この地球を調和しさらに次の天体を
調和させるために、若い星へ移っていくものである」
とおっしゃいました。

そういう大きな使命、目的を頂いて生まれてきております。
昨夜も、高橋信次先生のお姉様から電話を頂きまして、
どうぞ頑張って下さいと励ましの言葉を頂戴しました。
ほんとうに有難いことです。

「一人でも多くの方を救って下さい。信次先生の亡きあとも、
どうぞ法を曲げないように頑張って下さい。
そして学びの場にお集まりになった皆様にどうか
よろしくお伝え下さい」ということでございまいした。
「心行」の勉強は、今特に大切な「八正道」の部分について
学んでいます。



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「御垂訓」

2020-01-23 00:10:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十五

先の続き・・・

逆に、奥さんがあまりご馳走を食べさせると
ご主人は必ず病気になって早く死にます。
ご馳走を食べると寿命を縮めてしまいます。
腹八分目か、六分目ぐらいが一番いいのです。
それを十二分目ぐらい食べ過ぎるから身体によくないのです。

死ぬと、泣いてお墓へ参っていますが、
これが二十年、三十年寿命が延びたらどうなると思いますか。
わずか二十年、二十五年の差で毎日泣いていた人も、
もし夫が病気になり自分は八十過ぎて看病疲れしてしまいますと、
「おじいちゃん、もういい加減に死んで下さいよ」と、
頼むようになります。
人間の心というものはいつか移ろい変わっていくものです。

第三は、「極端」を避けることです。
人は極端を喜ぶ性質を持っていて、すごい苦行をするとか、
快楽主義に走るとか、好き勝手放題にすればいいのだという
思いに向かいがちですが、両極端の生き方を避けて、
中道の道を生きるべきです。

以上の三つ、「妾」「転倒」「極端」を離れ、
心は常に平静を心がけて
日々の生活で実践した時に、八正道を行じることができます。
これをお釈迦様は「苦しみを解脱する道」とおっしゃっています。
皆様にはどうぞ心のあり方に目覚めていただいて、
お幸せになっていただきたいと思います。


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「御垂訓」

2020-01-22 00:04:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十五

先の続き・・・

本来この世というのは苦しみの海であるのに、
楽な世であると錯覚を起こしています。
自分の思うようにならない苦しみがあって当然なのに、
楽な世であるような錯覚を起こしているのです。
これを「楽転倒」といいます。

本来は不浄なる存在であるべき人間を、
浄なるものと錯覚を起こしています。
お釈迦様は人間の肉体は目くそ、鼻くそ、歯くそ、
耳くそ、便尿、汗、垢など不浄なるものを
詰め込んだ皮袋のようなものと言われましたが、
それを浄なるものと錯覚を起こしているのです。
お釈迦様のおっしゃっている不浄なる存在を、
浄なる存在と「浄転倒」しています。

まず転倒を離れ、錯覚した見方をしないことです。
このことをはっきりと知ることです。
常に無きものをあると錯覚し、
本来苦しみである人生を楽なものであると錯覚して、
ちょっと苦しいとすぐ私は不幸だと泣き叫びます。

親子の関係も夫婦の関係も同じことで、
いつまでもあるものと思っています。
「我転倒」は自分自身さえやがて消えてなくなる
無我なる存在を「我、有り」と転倒します。

先日もご主人に先立たれて毎日泣いて泣いてお墓参りをしている
六十代半ばの女性の方が来られて、生きていた時は、「この主人、
早く死ねばいい」と思ってガラスを粉にして食べさせたけど、
亡くなったら毎日お墓に参って泣いていると言われます。
ひどい人もあったものです。
女の人は恐いから男性の方は注意しないと
ガラスを食べさせられます。


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「御垂訓」

2020-01-21 00:17:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                 講演 十五

先の続き・・・

こうなれば八正道の名を騙って多くの
人々をだます結果となります。
正法を学ぶ者は「八正道」を実践してこそ
苦しみから救われると
お釈迦様は説いておられます。

事実無根のことを確認もしないで言ったり
書いたりしたら、
お釈迦様の教えから失格ということです。
真実に即していない言葉は使ってはいけません。

真実に即さない明確でない言葉を使うことは
一般的な言い方をすれば
「嘘つき」であり、悪いことです。
第二は「転倒」を離れることです。

人間は「常転倒」していますが、
この世にあるもので常にあるものは何ものも
なく、すべては移ろい変わっているということです。

赤ちゃんは何年か経てば成長し、一人前になり、
年老いてやがて死んでいきます。
花も、種を播き芽が出て成長して花が咲きますが、
時間が経てば消えていきます。
移ろい変わりゆくものが、
いつまでもあると錯覚を起こしていますが、
その先には必ず死がやってきます。

これは厳粛なる事実です。
自分はいつまでも生きられるのだと錯覚を起こして、
よその方が亡くなられると、
「気の毒にねえ、まだ若いのに」と、
人ごとのように言っていますが、
これはやがて必ず来る自分のことです。
これを常にあるものと転倒するのが私たちです。



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「御垂訓」

2020-01-20 00:06:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                   講演 十五

先の続き・・・

聖書の中に、「賢い女はその手で幸せを築き、
愚かな女はその手で幸せを破壊する」と書かれています。
愚かな女は、自分の思い、行いをもってせっかくの幸せを
自ら破壊していきます。

どうぞ愚かな女にならないようにして下さい。
男の人も同じことですが、女性の方に多いので
特に注意していただきますように。
これは私が言っているのではなくて、神様が言っておられるのです。
「正しく見る」には、しっかりと心を据えて見なくては見えません。

いっぱい花が咲いている中にあっても他の事に心が集中していたら、
きれいな花さえ見えないのであって、そういう心では、
ものが正しく見えるはずがありません。
正しくものが見えなかった時、私たちの心は正しく思えないのです。

間違った見方をすると、間違った思い方をするようになり、
間違った思いをすると、間違った言葉が出てきます。
正しく見た時、正しく思えるはずで、正しい言葉が出てきて、
正しい行いができるのです。
「正見」は、三つに分けることができます。

一つは、「妾(もうは)」を離れ、間違った見方をしないことです。
明晰でない、如実でない、
真実に即さないそういう明確に話さない言葉は間違いです。
ある宗教の教祖が、
常に「長尾は高橋信次先生から破門された人間である」と書いています。

真実に即さない言葉で書いていますが、これは正しく語っていません。
正しく見ていないからです。
私がほんとうに破門されたのかどうかを調べれば直ちに
分かることを調べもしないで事実に反することを本に書いたりしますと、
正に八正道の正見、正思、正語、正行に反し、邪見、邪思、邪語、
邪行であり、ここまでくれば正命、正精進、正念、正定も間違ってきます。


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「御垂訓」

2020-01-19 00:19:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十五

先の続き・・・

人間は欲愛とか、生きるための自己保存や自我我欲の欲望とか、
求めて止まない地位名誉権勢欲とか、
いわば渇愛の塊のようなものです。
政治家の話を聞いていると恥ずかしいです。

いろいろな政党の偉い人たちが話しているのを聞くと、
皆「自分が正しくて、人が悪い」と言い合いをしていますが、
自らを正すことが正しい道であって、
人の間違いを正すのが正しい道ではないはずです。

「八正道」には八つの正しい生き方がしめしてあります。
この世には苦しみがあるというのは真理であり、
苦しみは生まれ起きるというのも真理であり、
生まれ起きるものであれば、
これを滅し尽くすことも真理であり、
滅尽に至る道も真理である。
苦の滅尽に至る道こそ八正道であると、説かれています。

正しい「ものの見方」をするのには、
心が平静でなくてはなりません。
腹が立っていたり愚痴に捉われている時、
また他を憎んでいる時は正しく見ることはできません。
また疑心暗鬼でいても正しく見えません。

そのような思いをいっさい持たず、
平静な心で物事を見た時は正しく見えません。
そのような思いをいっさい持たず、
平静な心で物事を見た時は正しく見えます。
人の話を考え事をしながら聞く時は、
耳はあいていても聞こえないものです。

心が他の事に集中していると、五官が働いてくれません。
私たちは自分の心の在り方によって幸せになったり
不幸せになったりします。
喜びいっぱいの幸せの中にありながら、
その心を横に向けたために幸せを失ってしまう方が多いです。


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「御垂訓」

2020-01-18 00:47:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~



              講演 十五

先の続き・・・

自分の欲望をどう使うかが問題であって、
欲望に捉われると際限が無いものです。
喉が渇いて水が欲しいと求める欲望を仏教では「無記」という
言葉で説いています。

「無記」というのは善でも悪でもなく本来人間にあるものです。
欲望の使い方によって、
喉の渇いた人が水を求めて止まないようなのを「渇愛」
という言葉で説かれております。

「求めて止まない」のをインドの言葉ではタンハ―といいます。
「欲望」の中には三つの欲があって、その一つは欲愛(性の欲望)、
その二つは有愛(おいしいものを食べたい、
人よりも良い家に住みたい)、
その三つは無有愛(名誉、権力、名声を持ちたい)です。

生きるための欲望、渇愛という求めて止まない
欲望が私たちを大きく苦しめています。
その求めて止まない思いを大きく滅するのが
「八正道」だといわれています。

その教えの中に「比丘たちよ、これが苦の滅尽の聖諦である。
渇愛を余すところなく滅し捨て去り、
もはや執着するもののなき状態に至る。
求めて止まない欲望を心から離し、
苦しみを滅してしまう方法が正なる八支の道である」と説かれています。

「正しく見ること、正しく思うこと、正しく語ること、正しく行じること、
正しく生きること、正しく精進すること、正しく念じ、正しく定に入る
(反省する)こと」と、正しい八つの道を説いていただいています。


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「御垂訓」

2020-01-17 00:10:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「心行の解説」下巻より ~


                  講演 十五

先の続き・・・

癒しというのは神様がいて下さり、私たちは皆同じように五官、
肉体を持ち、その肉体を通して人を救うことができるという
一つの証であり、心が救われていくためのただの方便だということを
分かって下さい。

あそこへ行けば病気が治る、
歩けるようになったというだけでは何にもならないのであって、
日々の生活の中で、心の正しいあり方を実践すれば、
健康が頂けて病気も癒され幸せになれるのだということを
理解して下さい。

心に目覚めないでいて、痛み苦しみが救われたとしても、
原因が心にあるものなら、
その原因がとれていなければ結果を消したとしても、
また原因が出て病気は後戻りします。
まず心を自分で綺麗にして愛の実践をしていただくのが、
健康になり幸せになる秘訣ではないかと思います。

心が綺麗になった時、
死後の世界もまたすばらしい世界であることが約束されます。
「心行」の解説は今、「八正道」についての勉強を進めています。
お釈迦様は
「苦しみを滅し、解脱する道」が正なる八支とお説き下さいました。

その苦しみとは、まず欲望です。
欲望がなければ生きてはいけませんが、必要以上の欲、
つまり「貪欲」を持ってはいけません。
お腹が空けば適当な食事を適当な量だけ食べて
身を養うことは善ですが、
おいしいからといってお腹いっぱい食べて腹痛を起こしたら、
これは悪です。

「欲望」というのは行いを起こす前は善でも悪でもないのですが、
捉われた時は悪になり、その行い次第によって善にもなります、
悪にもなります。
お腹が空いたといってよそのものを盗んだら悪ですが、
適当にいただいて心身の健康を養った時は善き行いです。


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